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「アラブの春」以降
中東はどう変わっているのか

─公開講座【地域と国家を考えるA】 ─

 「地域と国家を考える」公開講座は、前回のロシア、ウクライナ地域 に続いて、今回は中東地域を取り上げました。イラク戦争の深い衝撃に続く混迷の中、チュニジアに端を発し中東全域に拡がった2011年の"アラブ の春"から4年。シリア内戦、リビアの崩壊、イエメン内戦、そしてイスラム国の登場と、中東を舞台とした地域と国家の関係は大きな混乱の渦の中に あるようです。
 そんな中東地域をジャーナリストとして長年取材し、分析して来られた東京新聞特報部の田原牧氏を講師としてお招きして、中東を理解する上で欠か せない基礎知識について解説していただいた上で、複雑に絡み合う中東の現在をどのように考えるべきか話していただきました。(事務局)


 中東の話というと難しいと思われがちですが、そうでもありません。特に日本人にとって中東の話というのはメンタリティー的に、たぶん 欧米人よりも分かりやすいと思います。しかし如何せん、現実はいろいろなできごとの積み重ねで成り立っているものですから、ひとつひとつ説明すれば分 かるのですが、それを端折ると当然、分からない。全部説明するわけにはいかないので、今日はなるべく基礎知識についてお話しすることにします。そこが 分かっていただければ、今後いろいろなニュースに接するときに、多少は理解しやすくなるのではないかなと思います。

アラブ、中東、イスラム

 「ア ラブの春」以降、中東はどう変わっているのか、というテーマをいただいています。アラブと中東という言葉が出ましたが、アラブ世界と中東、ある いはイスラム(イスラーム圏)という言葉は同じ意味なのか、違うのか。その区別は何なのか。これが結構、大切なのですが、案外、ご存じない方が多い。 そこでまずは、このあたりから説明します。
 アラブ世界というのはアラビア語を主たる言語とする人々、つまりアラブ人をマジョリティとする国々を指します。実際には、アラブ人が少数派のアラブ 連盟加盟国もありますが、要は言葉を軸にした区分です。そこにはイスラム教徒の人もいれば、キリスト教徒の人もいますし、あるいはごく一部ですが、ユ ダヤ教徒のアラブ人もいます。アラビア語を日常語とするユダヤ教徒もいるのです。ユダヤ人はユダヤ教徒を指しますから、理屈の上では「アラブ人のユダ ヤ人」もいることになります。
 ちなみにイスラエルに住んでいる人がユダヤ人ということではありません。イスラエル国民の8割くらいはユダヤ教徒ですが、そのなかには欧州から移民 してきたユダヤ人もいれば、アラブ人と姿かたちが同じアラブ系のユダヤ人、さらにアフリカ系のユダヤ人もいます。残り2割くらいはアラビア語をしゃべ る主にイスラム教徒たちです。彼らはイスラエル建国時に残った先住民のパレスチナ人たちです。彼らもイスラエルの国民で、イスラエルはユダヤ人国家を 名乗りたがりますが、アラブ人やイスラム教徒もいるわけです。
 アラブに話を戻すと、アラブ連盟という組織があります。これはアラブ諸国の集まりで、いまは21カ国と1機構(パレスチナ)です。エジプトの南の スーダンはアラブ連盟の加盟国ですが、分離独立した南スーダンは入っていません。アラブは広く、スーダンはだいたい黒人の人たちです。人口の最も多い エジプト人の中にも、肌の黒いヌビアの人たちがいます。シリアとかレバノン人たちは比較的色白が多く、サウジアラビアとかアラブ首長国連邦の人たち、 つまり湾岸諸国の人たちは姿かたちでいうと男性は白装束の「オバQ」の格好をしています。
 一方、中東というともう少し広い地域を指します。アラブ世界のほかにトルコやイラン、イスラエルも入ります。中東というのは、この言葉を生んだ大英 帝国から見て「ミドルイースト(中東)」にある地域という地理的な概念です。厳密には、モロッコなども中東扱いしますから、その地理の表現とずれる部 分はあるのですが、アラブとは規定の仕方が違うわけです。
 もうひとつ、イスラム圏という概念があります。これは一般にイスラム教徒が多数派の国と解釈していただいて結構です。ただ、イスラム政治運動の活動 家の中には、歴史的に一時でもイスラム教徒が政治権力を握ったことがある地域まで含める人たちもいます。これに従うと、スペインもイスラム圏に入るこ とになります。いずれにせよ、アラブのほか、トルコやイランも入りますし、アフガニスタンやパキスタン、インドネシアも入ります。インドネシアは世界 最大のイスラム人口を抱えています。マレーシアもイスラム圏ですね。しかし、イスラエルは当然、イスラム圏には入りません。ユダヤ教徒が多数派ですか ら。でも、パレスチナというと微妙な扱いになります。
 このようにイスラム圏と、アラブあるいは中東という概念は、その規定する軸がそれぞれ違うので、それに伴って対象も異なってくるということをまず理 解しておいて下さい。


 「アラブの春」以降


 時間 が限られているので、今日リクエストされている「宿題」について、先にちょっと済ませておきます。その後、基礎知識に戻ります。「アラブの春」 以降、中東はどう変わったかというテーマです。アラブの春というのは、日本で東日本大震災が起きる少し前から始まったのですが、最初はチュニジアとい う国で起きて、エジプトに飛び火して、また各地へと独裁体制が次々と倒れていった現象です。それ以降、この地域の状況は混沌としています。私はシリア という国を訪れて以来、30年くらいこの地域と付き合ってきました。いろいろなことがあり、戦争もあれこれありました。ただ、この30年の間で「この 先どうなるのだろうか」と問われたとき、いまがいちばん答えにくい状況です。
 けれ ども、それは「新しい政治的な思想」とか「新しい勢力」が出てきて混乱しているというのとは違います。どういうことかと言うと、独裁政権がいく つか倒れて、そのまま民衆が管理・統制するという形にはおおむねどこの国でもいかなかった。独裁という鍋のフタがいったん飛んでしまい、独裁時代にア ンチだった宗教勢力とか、王制復古を望む人たちだとか、こういった人たちがぐちゃぐちゃと出てきている状態なわけです。彼らは新しいプレイヤーではあ りません。むしろ昔の人たちが表に出ている。たとえばイスラム国のようなものも、一皮むくと「古いプレイヤー」なわけです。
 こういう人たちを私は「枯草」と呼んでいるのですが、これが一通り燃え尽きるまで、5年や10年はかかると思います。それまでは見通しの立たない混 沌とした状態が続くだろうと思います。その後にアラブの春を牽引したような民衆、それはエジプトでもチュニジアでも、必ずしも下層ではなくて、中間層 やどちらかというとそれより豊かな知識階層なのですが、そういう人たちがどういう社会を構築していくのかが注目されていくと思います。


 イスラムとは


 こ こで基礎的な話に戻ります。イスラムについてです。これを理解しないと、いま注目のイスラム国(IS、通称ダーイシュ)を展開しているような人た ちが何を考えているか、どういう人たちなのかということが分からないのです。彼らについて、新聞などにはイスラム過激派という表現がありますが、 ちょっとインテリっぽい雑誌だと「サラフィ・ジハーディスト」という表現が出てきます。この種の人たちがイスラム国のイデオロギー的な中心を担ってい るのですが、その前にイスラム自体を概括してみます。
 大きな啓示宗教としてユダヤ教、キリスト教、イスラム(教)の3つの宗教があることはご存知と思いますが、これはイスラム教徒の視点では同じ神様を 信じていると解釈しています。ただ、同じ神様なのですが、神様の言葉はダイレクトに民衆にもたらされず、預言者(神様の言葉を預かる人という意味で、 予想する「予言者」ではありません)を通じて伝わります。預言者は3つの宗教、それぞれにいます。さらに聖典がそれぞれありまして、ユダヤ教はキリス ト教でいうところの旧約聖書、キリスト教は旧約と新約の双方の聖書、イスラムの場合はこの2冊に加えて、最も大切なのはクルアーン(コーラン)。いず れも、預言の内容が記されています。
 それで、イスラムなのですが、イスラムの預言者はムハンマドという人です。ムハンマドさんの生まれは570年代くらい、6世紀の終わりごろです。サ ウジアラビアのメッカという紅海方面の町で、隊商として働いていた一介の人です。その人が町の郊外の洞くつで瞑想していて、そこに大天使が現れて、神 (アッラーフ)の啓示を聞いたという話になっています。ですから、イスラム教徒たちは同じ神様なのだけれど、自分たちの宗教が一番新しいバージョンの 神様の言葉に基づいた宗教なので、ユダヤ教やキリスト教より優れていると考えています。ちなみにキリスト教との一番の違いは神と人間の関係です。イス ラムでは神と人間を全くの別物として分けるのですが、キリスト教はイエス・キリストは神の子だったり、人間と神様の区分が曖昧です。この曖昧さはイス ラム教徒にしてみると神様を冒とくしているように映るわけです。
 さて、ムハンマドさんは610年に預言を聞きます。すでに年上の女房ですが、隊商のお金持ちの未亡人と結婚していて、彼女や親族をまず信者にして、 啓示に基づいた教団を立ち上げようとします。しかし当時としては新興宗教ですから、当初は地元の多神教徒らに迫害される。それであれこれあって、メッ カからメディーナという土地に集団で移ります。そこで彼を長とした共同体を創り、だんだん入信者も増えていき、信徒の共同体というか、教団国家を建設 していくわけです。
 イスラム共同体はなんとか立ち上げましたが、ムハンマドさんは人間ですから、やがて亡くなります。その後、この集団を誰が指導するかということで、 三日三晩くらい、みんなで討議をする。そして、ムハンマドさんの親友のアブ=バクルさんが跡目を継ぐことで合意します。この跡目を継ぐシステムをカリ フ制といいます。カリフ(アラビア語でハリーファ)は預言者の「代理人」の意味です。アブ=バクルさんのあと、ウマルさん、その後をウスマーンさん、 アリさんが代々継いでいきます。
 ところが、アリさんの時代に問題が起こりました。アリさんはムハンマドの娘婿ですが、ウスマーンさんを輩出したウマイヤ家と跡目争いが起きたので す。いったん手打ちになりましたが、この際、アリさんの仲間の人たちの中にあんな連中(ウマイヤ家)と手打ちをしていいのかと憤る人たちがいて、その 一部の人たち(後にハワーリジュ派と呼ばれ、イスラム過激派の代名詞になる)がなんとアリさんを暗殺してしまいます。
 その後、ウマイヤ家の人が次のカリフを名乗ってしまって、アリさん一族としてはアリの息子を跡目に立てたりして騒動が起きる。これがシーア派とスン ナ(スンニ)派に分かれていく原因になります。ウマイヤ家のほうがスンナ派。血筋を重視してアリさんの正統性に固執した人たちがシーア派の人たち。こ れがいまに至るまで連綿と続いているわけです。要は跡目争いがスンナ派とシーア派の分岐の理由です。
 人口比では正確な統計はないのですが、イスラム教徒のうち、スンナ派が9割くらいでシーア派は1割くらいといわれています。教義の内容で異なる面も ありますが、むしろ同じイスラム教徒と考えた方がよいと思います。イスラム国やイスラム過激派と言われる人たちというのは、一般にはスンナ派の側の人 たちです。シーア派はイラン、イラクの多数派(ちなみにサダム・フセインはスンナ派です)、それからレバノンのヒズボラの人たちもシーア派です。細か い話なので省略しますが、シーア派のなかにもいろいろなセクトがあります。


 イスラム主義(政治イスラム)について


 イス ラム国の人たちというと、まず残酷なイメージが頭に浮かびます。日本人が拘束されて首を切られました。また、イスラム国を爆撃に行ったヨルダン の飛行士は捕まって、火あぶりにされました。檻の中に敵をいっぱい詰めて、クレーンで池の中に沈めて殺すなどということもやっています。日本にいるパ キスタンのイスラム教徒の人たちなどは「あれはニセのイスラムだ」「イスラムは平和な宗教であって、あんなのはインチキだ」と言っています。私見で は、イスラム国の人たちは偏屈とは言えますが、やはりイスラム教徒です。
 日本の市民の中には「信仰に熱心な敬虔な人たちがああなる」と感じる人も少なくないと思います。でも、それは誤解です。信仰にまじめな人たち、例え ば、一日にちゃんと5回礼拝(スンナ派の場合)するとか、ラマダーン月にはちゃんと断食するとか、そういう敬虔なムスリム(イスラム教徒)の人たちは たくさんいます。そういう人たちがイスラム国的になるかというと、決してそうではない。逆にイスラム国の人たちがすべて敬虔かというと、必ずしもそう ではないと思います。いまはまじめにやっていると思いますが、少なくてもイスラム国に入る前はそうでもないという若者は少なくないでしょう。
 では、敬虔さと過激さの何が違うかというと、政治についてどう考えるかという要素がかぎになります。敬虔な人たちが政治的かというと、必ずしもそう いうわけではない。政治的な人が敬虔かというと、そういう場合もあると思いますが、必ずしもそうではない。研究者はイスラム国も含めた人たちについて 「イスラム主義者」という言葉を使いますが、イスラム主義というのは政治の用語です。つまり、世の中をイスラムにのっとって統治しなければいけないと いう政治思想がイスラム主義です。それと個人的に敬虔かどうかということとは微妙に位相が違う話です。
 でも、日本人は政教一致に慣れていないので、どうしてイスラムで社会を統治しなければならないのかというイスラム主義者の気持ちがなかなか理解でき ません。イスラムはよく政治と信仰を分離しにくい宗教と言われます。もう少しやさしく言うと、イスラム教徒がしてはいけないことというのが戒律の中に あります。これが単に豚を食べてはいけない、酒を飲んではいけないというレベルならいいのですが、たとえば経済で利子を取ってはいけないとか、男女が 共学してはいけないとか、さらには自分たちのテリトリーに異教徒の軍隊が入ってきたときに、これを撃退するのが義務だとか、そういうことも定められて いる。となると、個々人の酒を飲む、飲まないというレベルを超えて、どうしても政治領域に口を挟まずにはいられなくなる。正しい信仰生活を送るために はそうせざるを得ないと考えるわけです。ただ、イスラム教徒全員がそう考えているわけではありません。
 ですから、イスラム主義というのは信仰生活を送るうえで、聖典の中に書いてあることをちゃんと実現できる環境を創ろうという運動とも言い換えられま す。そこには異教徒の扱いも含まれる。異教徒を追い出してしまうわけにはいかないので、キリスト教徒はこういうふうに過ごしてくださいということが規 定されている。人頭税を払ってください、そのかわり、兵役につかなくてもいいです、というようなことがある。もちろん、これはキリスト教徒から見た ら、上から目線の話でとても受け入れられない。そもそも、近代市民社会の原理には反するわけです。こう聞いていて、すごく違和感があるかもしれません が、天皇制国家の日本が戦前、戦中にアジアで現地の人びとに皇居に向かって礼をしろとかあれこれ強制したことを連想すれば、そうは分からぬ話でもない ように思います。
 それで結局、いろいろと他の宗教の人たちともめるのですが、イスラム主義の人たちにしても全員が過激派というわけではありません。エジプトでアラブ の春の後、一時期政権を担ったムスリム同胞団などもイスラム主義の団体ですし、トルコの現政権やシーア派のイランの革命後の政権もイスラム主義の一潮 流です。


 サラフィ・ジハーディストとは


 さて、イスラムとして敬虔であるということと、それを政治で実現しようということは別の話だという説明をしました。後者のイスラム主義ですが、イス ラム国だとかアルカイダだとか、ムスリム同胞団などはスンナ派のサラフィと呼ばれる潮流の人びとです。サラフィとはどういう考えなのか。サラフという のは始祖という意味です。イスラムでは預言者ムハンマドやその教友たちを指します。サラフィと対立関係にあるのは伝統イスラム法学派。この両者の関係 は、キリスト教のカソリックとプロテスタントに似ています。
 カソリックというと、坊さんがヒエラルキーをつくって政治権力に近づいたり、政治権力そのものだったりしました。それに対して、プロテスタントはこ うした坊さん集団の権力を否定し、信仰を民衆に取り戻そうと登場します。サラフィというのもプロテスタントとよく似ています。彼らはムハンマドさんた ちの時代は、イスラム共同体は正しかったけれど、そのうち坊さん(イスラムではイスラム法学者と呼びます)が権力に近づき、自分たちの利益や時の政治 権力に都合のいいように、教義のビドワ(歪曲)を図ってきたと考えます。
 それゆえ坊さんたちの権威を否定し、聖典のみを信用して「始祖(サラフ)に戻れ」という刷新運動を始めたわけです。この人たちがサラフィの人たちで す。一方、カソリックに当たるのはカイロにあるアズハル(スンナ派の最高学府)など、伝統法学派の坊さんとその信者たちです。アズハルを卒業した坊さ んたちは、日本も含む全世界のモスクにいますが、こういう人たちから見れば、サラフィたちは自分たちの権威を否定する無知蒙昧な素人であり、不倶戴天 の敵に映ります。ただ、実際、大半のイスラム圏の坊さんやその集団は内心はどうあれ、非宗教的な政治権力とも適当にやっているわけです。生き残りのた めには仕方がない一面もあるのですが、こうした関係から宗教国家を創ろうとしない政治権力に弓を引くイスラム主義の人たちにサラフィが多いのは必然だ ともいえます。
 「サラフィ・ジハーディスト」という言葉の後半にあるジハーディストについても触れておきます。ジハードは日本でもおなじみの言葉になりましたが、 もともとは努力するという意味のジャハダという動詞の名詞形です。ジハーディストは聖戦をする人という意味で使われますが、ここでは「体を張って」と いうニュアンスがより強く含まれます。
 そもそもジハードに参加するのはイスラム教徒の義務なのですが、必ずしもドンパチをやることだけではなくて、それには一般に三段階あると規定されて います。いちばんやさしいのはカンパすること。湾岸諸国のお金持ちがイスラム国などにずいぶんとお金を出しているのは、このためです。シリアとトルコ の国境などを「オバQ」の格好をした金持ちたちが訪れているのを見たことがあります。こういう親父たちが何をしたいのかというと、シリアで暴れている ジハーディストにこっそり金を渡したい、そのことで宗教的義務を果たしたいのです。次にやさしいジハードは、舌(リサーン)によるジハード。鉄砲を 撃ったりするのは怖いけど、ビラを刷って撒いたり、演説くらいはするという人。まあ、これも逮捕されることぐらいは覚悟しなくてはなりませんが。一番 得点が高いのは体を張ってやるジハード。戦場にいるジハーディストたちです。ムスリム同胞団などは一般的には、ここには含まれません。
 サラフィでジハーディストであるスンナ派のイスラム主義武闘派。これがいわゆるイスラム過激派と呼ばれる「サラフィ・ジハーディスト」たちなので す。


 カリフ制について


 イス ラム国が評判を呼んだのは、指導者がカリフを名乗り、カリフ制を復興したからだといわれます。ここでカリフ制を少し説明します。カリフ制という のは、なぜかシーア派では使わない用語で、もっぱらスンナ派で使われます。歴史的にはあれこれ問題はあったのですが、形の上では1924年まで続いて いました。誰が最後だったかというと、オスマントルコの君主(アブデュルハミト2世)です。オスマントルコというのは大帝国でした。現在のトルコの極 右政党は、オスマン再興主義者です。ヨーロッパのハンガリーのあたりから新疆ウイグルまでの大トルコを復活させようと主張しています。オスマントルコ は最終的に第一次世界大戦で負けて、英、仏、露に広大な領土を分割され、それが今の中東の国境線になっています。これをサイクス・ピコ(という秘密協 定に基づく)体制と言います。トルコでは敗戦後、共和国革命が起こります。これが1922年ごろで、その直後の1924年にカリフ制が廃止されます。
 去年の6月に、イラクとシリアにまたがってイスラム国が建国を宣言して、われこそはカリフだと(アブ・バクル)バクダーディという人が名乗りまし た。ただ、これは「なんちゃって」という話で、実はオスマントルコの崩壊後、われこそはカリフだと名乗った人はバグダーディのほかにも何人かいまし た。中にはバクダーディよりも大物もいます。先般亡くなった名優オマル・シェリーフが「アラビアのロレンス」という映画で演じたヒジャーズという国の 王様(フサイン・イブン・アリ)です。
 サウジアラビアという国がありますが、その昔、現在は首都のリヤドがあるナジド地方という片田舎に武力に優れたサウド家という豪族がいた。彼らは ワッハーブ派という厳格なイスラムの一派と組んで、イスラムの浄化を旗印というか口実にして、ほかの豪族をやっつけて征服していきます。それでできた のが、いまのサウジアラビアです。追い出された一派が紅海方面のヒジャーズ地方にいた王族で、いまのヨルダンがあるところまで追いやられた。つまり、 彼らは現在のヨルダン王室の祖先です。
 ちなみにヒジャーズの王様は、血筋では預言者ムハンマドの直系です。宗教的には大変な権威なのです。余談になりますが、なぜイスラム国がヨルダン兵 の捕虜にむごい仕打ちをしたかというと、現在のヨルダンの国王も預言者の直系なので、自分に宗教的な権威があると装っている。これに対し、イスラム国 のバグダーディは「自分はカリフだから、おまえより偉い」という立場です。つまり、宗教的な権威の対立が背景にあり、徹底して国王の下僕(ヨルダン兵 の捕虜)を使って国王を辱めようとしたわけです。その後、国王がすぐイスラム国を爆撃したのも同じ理由です。
 話を戻すと、このフサインという王様がオスマントルコの崩壊と同時に、すかさず「われこそはカリフだ」と名乗ったわけです。しかし、イスラム圏の人 びとはその宣言を認めませんでした。カリフ制の再興自体はイスラム共同体の復興と同義なので、表立って反対するイスラム教徒はいません。しかし、多く の信徒たちの承認がない限り、たとえ当人がカリフを名乗っても、それは僭称にすぎません。では、どうやってカリフは選ばれるのかという話ですが、現実 には公選制のようなシステムはないので、結局は人気のようなモノに左右されるしかありません。少なくともイスラム圏の各地で、その中でもイスラム主義 を名乗っている人びと、潮流がこぞって推すくらいの人物でなければ、とても権威は築けません。
 このヒジャーズ王の失敗はバグダーディのケースにも通じます。彼の「就任」宣言に対する反応はどうだったかといえば、武闘派の中ですら支持する人は 限られているのが現実です。たとえばアルカイダの親分(アイマン・ザワーヒリ)も、古くからカリフ制再興を訴えている国際組織の解放党(本部・ロンド ン)も不支持でした。もちろんムスリム同胞団も支持していません。まして一般の信徒や伝統学派の坊さんたちは言うまでもありません。ごく一部の武装集 団だけが忠誠を誓っています。なので、実際にはカリフ制の再興とは到底言えないし、彼が単に僭称しただけというのが現実でしょう。
 イスラム国にしてみれば、カリフ制という金看板を掲げることで、ステイタスを一気に上げたいと考えたのでしょうが、そうはなかなか問屋が下ろさない ということです。


 イスラム国とはなにか


 ただ、イスラム国にはカリフ制以外に注目すべき一面があります。彼らに特徴的なのは、海外からの若い義勇兵がどんどん入っていることです。中国と か、最近だとロヒンジャの人たちもいます。ただ、その中で私が注目しているのは、欧米やオーストラリアなどから集まってきた若者たちです。一言で言う と、彼らには日本のネトウヨ(ネット右翼)に近い感触があります。その意味で、イスラム国現象はイスラムの問題というよりも、グローバル化された現代 世界の病巣という側面があると考えています。
 この種の人たちについては身体性がないというか、リアルな痛みがあまり感じられないという特性を感じます。ネトウヨにどう近いかというと、自分たち の掲げる言説が正しいか否かを客観的に検証しようというマインドはなく、どこの誰が言ったか分からないような書き込みをうのみにして、その内容に自ら を委ねようとする体質です。日本の侵略はインチキだとか、テーマは何でもいいのですが、ネット上の書き殴りの類を正義とか真実だとかのように信じてし まう。こうしたネトウヨ体質はイスラム国でも同じで、イスラム圏では極めて偏狭といえる宗教解釈を検証することなく、そのまま信奉してしまう。さほど 宗教的に造詣が深いとは思えない。
 もう一つ、似ているのは仲間に入ると、仲間内ではとてもアットホーム。在特会などでも、ヘイトデモに参加した若い子に聞くと、「初めて他人に優しく された」と感想を話す子が少なくない。実はイスラム国も同じで、彼らの数多い教宣ビデオをみていて、私が「これははまるわな」と思ったのは、勇ましい 戦闘シーンではなくて、みんなでテントに集まって炊事をしているシーン。戦闘服を脱いで、鼻歌を歌いながら芋の皮をむき、けがをした仲間をいたわっ て、肩を組んで「ビバ!」みたいなやつです。「おれたち仲間、兄弟!」ってアピールなのですが、実に微笑ましい。こうした空気が教条の欠陥を覆い隠す のだろうと思います。
 ただ、外に対しては凶暴になる。というより、その絶対正義みたいな感覚は痛覚がないというか、とてもバーチャルです。イラクのモスルなどでもたとえ ば、キリスト教徒のところに行って「明日までにあなたに4つの選択肢をあげます」と言う。「第一はイスラム教徒に改宗する。第二は人頭税を払っておと なしく生活する。第三はここから出ていく。第四は今すぐここで私と殺し合いをやって死ぬこと」と平気で告げる。これって、ほとんどコンピューターゲー ムの感覚です。
 当たり前のことですが、その地域にはいろいろな宗教や宗派の人が暮らしてきて、何百年かの間には争いごともしばしばあって、それでも限られた物理的 空間(土地)で同じ時間を過ごさなければならないわけですから、あんまりお互い血は流したくないし、多少は我慢してでも共生しましょうと折り合って生 きてきた。つまり、これが生身の現実というか、身体性のある歴史なわけです。
 ところが、彼らは偏狭な教条でもって、そうした歴史的な生身感覚を消してしまう。それは歴史観がないとも、痛みに想像力が届かないとも、身体性がな いともいえる。いわゆるネット用語でいう「正義厨」です。「厨」というのは厨房と中学生の「中坊」を引っかけていて、浅はかで考えていないのだけど、 ネット上で見つけたある言説を自らの存在証明であるかのごとく正しいと主張したがる、一言で言えば幼い人物みたいな意味です。いるでしょう、周りにそ ういう人。こうしたタイプが集まり、かつ仲間同士はアットホームでもある。対局にいるのはセレブとかエリートたちで、これらに対する怨嗟は強い。この 辺の心性も朝日、岩波を嫌うネトウヨとよく似ている。
 しかし、そうした若者たちの内面からやや距離を置いて、イスラム国全体を客観的にながめてみると、その実態たるや、かなり生臭い。戦闘力の高さがよ く言われますが、イラクのバース党の残党というか、サダム・フセイン時代の政権派や軍人がかなり入っている。だから、軍事的にも強いし、国家的な行政 運営もできる。では、どうして彼らが幹部にいるかというと、2003年のイラク戦争後、米国人のブレマーが暫定当局をつくり、日本の公職追放と同じよ うな反バース党法を作りました。これで旧軍だとかバース党だとかにいた40万人くらいの人が食いっぱぐれてしまった。
 バース党は非宗教な団体だけど、サダムらはスンナ派で、かつイランと戦争をしていたので、国内のシーア派運動を弾圧してきた。そのため、戦後に多数 派のシーア派が政権を握るようになると、今度は報復的な対応がでてくる。それでも、最初のころは挙国一致に配慮もしていたのですが、2009年以降、 シーア派のマーリキ政権が結構、スンナ派閣僚を追い出したりしてひどいことになった。戦前に親サダムであったか否かを問わず、スンナ派のフラストレー ションが高まっていたところで、過激な宗派の一党を前面に押し出しつつ、旧サダム政権派がクーデターを試みたというのが真相だと思います。
 なぜ、それが隣国のシリアにまで広がったかというと、イスラム国のイズムはちょっと変わっていて、シリアの独裁政権を倒すためにいろいろな人たちと 手を組もうとは考えない。イスラム圏がイスラエルや欧米に長年負け続けてきた原因を、彼らは「自分たちが純粋なイスラムをやっていないから」と考え、 不信心であるからこういう体たらくなのだと説く。ですから、仲間内というか、イスラム圏を厳格に純化しようとする。その結果、シリアでは他の反政府武 装勢力に対しては、うちの身内になるか、ドンパチやるかふたつにひとつというアプローチをする。簡単に言うと、内ゲバです。
 これはアサド政権にしてみれば、とても都合がよかった。ほっとけば反体制派同士で食い合ってくれるということで、イスラム国を泳がせたのです。彼ら がシリアで拡大できた主な要因はこれです。どこの国でも似たようなことがあるという話です。


 中東はどう変わっているのか


 最後にもう一度、与えられたテーマに戻ります。「アラブの春」以降、中東はどう変わっているのかということです。アラブにも「昨日の仲間は今日の 敵」という日本語と似たような言い回しがありますが、現在のアラブはまさにそういう状態です。
 いま、イエメンとかリビアとかの内戦が、アラブのニュースではイスラム国よりもヘッドラインのトップを争っています。イエメンでいうと、北部にホー シーという運動というか一群がいるのですが、貧しい地域の人たちで彼らが蜂起したわけです。彼らとつるんでいるのが、サーレハという前大統領です。こ の前大統領は自分が大統領だった時には、このホーシーを弾圧していた。それなのに、自分がアラブの春で追い出されたら、次の政権と大喧嘩をするために ホーシーと手を結んだ。
 同じようなことがリビアでもあって、リビアはいま三つの勢力が群雄割拠しているのですが、一つはアメリカやサウジアラビアが背後にいるハフタルとい う人物がまとめている集団。彼はもともとカダフィの部下だったのですが、アメリカに亡命して、カダフィ政権が倒れてから戻ってきた人です。それからイ スラム国系のグループとムスリム同胞団系のグループ。そのなかで、イスラム国系の人たちが拠点にしているシルトという町があるのですが、この町はかつ てはカダフィ派の最大の拠点だった。カダフィという人はイスラム主義者を徹底弾圧した人でした。そのカダフィを支持した人たちが、いまはイスラム国系 を支持している。それは地域的な対立からハフタルたちに対抗するためですが、もうとにかく「昨日の仲間は今日の敵」状態。主義、主張ではない。
 これはアラブ人のアイデンティティとも絡んでいる。たとえば、一人のエジプト人のアイデンティティがどこにあるのか。まずはエジプト人ということ。 自分はファラオの末裔だという意識。同時にアラブ人であるという民族性。エジプト人なら特にナセルの体験があります。彼は宗教主義を排してアラブを民 族主義で統一しようとした。いっときはシリアとエジプトは国境がなくなった時期があります。もうひとつはその人がキリスト教徒であるか、イスラム教徒 であるかはともあれ、宗教です。国なのか、民族なのか、宗教か。他にもジェンダーアイデンティティなどもあるでしょう。アイデンティティが重層的なの です。若いうちは民族主義者で政府を批判してよくパクられて、中年でよきエジプト人になろうとして、年取ってくるとよきイスラム教徒になろうとした り、意識の優先順位は人によって違い、かつ同じ人物でも可変的です。
 国や政治集団の結びつき方も、個人のアイデンティティと同じような面があります。民族を強調するのか、イスラムを強調するのかによって敵になったり 味方になったりする。たとえば、サウジアラビアはアラブでイスラム圏ですが、歴史的な経緯を振り返ると、同じイスラム圏でアラブのエジプトとは、かつ てほとんど犬猿状態でした。なぜなら、アラブ民族主義は王制打倒を掲げるので。一方、エジプトはイスラム政治運動を認めず、その後ろ盾であるサウジを 嫌ったわけです。根にあるのは国が重きを置く価値の差です。
 昔は情勢を分析するとき、そのときどきの際立った切り口というか、基軸に委ねやすかった。たとえばイラン・イラク戦争のころは民族です。アラブ民族 対ペルシャ民族というのが、地域で対立軸になった。あるいはイスラエル対アラブだとか。あるいは外の帝国主義対地元勢力だとか。それがいまは一本の線 では線引きできなくなった。特にアラブの春以降、どの機軸もが並行して動いている。
 さらにシーア派対スンナ派という構図にしても、シーア派の人たちがすべからくイランに同調しているわけではないですし、民族対立で切ろうとしても、 クルド民族の中でもクルド労働者党とクルド民主党はとても仲が悪い。世俗対イスラム主義もあるのですが、どこの紛争でもある軸ですぱっと構図を描きに くい。むしろ、実際の姿は主義や主張と関係なく、ある敵に対して、その場では別の奴と手を組んだ方がしのぎやすいというような力の論理が支配的になっ ている。到底、帝国主義やその手先のシオニストと民衆の闘いというような、かつて左翼世界で支配的だったものの見方は通用しない。イスラエル・パレス チナ紛争自体が昔のような絶対的な対立構図ではなくなってきた。たとえば、アメリカのオバマ政権にとってはイスラム国の問題が大きいので、イスラエル が妙なことをしてイスラム国に正当性を与えるのはむしろ困る話であって、イスラエルの要求を振り切って長く対立関係にあったイランと手を組んでイスラ ム国に対抗したりしている。
 それと、イスラム国がどうしてサバイブできているかについて触れておきます。今日の話の最初の方で、アラブ世界は古い枯草が燃えているような状況と 言いました。私は90年代にカイロに暮らしていましたが、そのころはイスラム国より、もっと過激なイスラム主義者たちがいました。アルジェリアの武装 イスラム集団という団体などが好例です。ただ、昔はサダム・フセインが元気だったし、シリアの鬼のようなアサドのお父さん(ハーフェズ・アサド)やリ ビアのカダフィ、エジプトにはムバラクがいた。つまり地域でイスラム主義者をとっ捕まえて死ぬまで獄から離さないという、そうした民族主義的な独裁者 たちがいた。それがことごとくいなくなりました。抑圧弁が崩壊したわけですから、サラフィ・ジハーディストたちが跳躍しやすくなったわけです。
 でも、それだけではない。こぞって周辺当事者たちが手を組めば、イスラム国を抑えつけられるのは客観的には間違いないのですが、みんなイスラム国を ダシにして政治を打とうとする。だから、まとまらない。たとえばトルコはクルドの独立運動を抑えたいのですが、クルドの人たちはイスラム国に対して最 前線で頑張っている。しかも一定勝利している。そうすると勢いづくわけですね。地域でクルドの国づくりなんてはじめられたら、一番困るのはトルコで す。そこでイスラム国を応援するけれども、かといってイスラム国が伸びすぎても困る。
 欧米にとっては、イスラム国が自国に帰ってなにかしたら困るわけです。それをアサドはゆすりの材料に使ってきた。「みなさんお困りでしょう、それな ら私をもう一度、シリアの代表として承認してください」ということです。結局のところ、イスラム国には陸戦力で対抗するしかなく、それができるのはシ リアだけです。いまはシリア軍もだいぶ弱くなってきているので、彼らのみで対抗できるかは怪しいですが、少なくともしばらく前まではそうやって欧米の 足元を見て、イスラム国を泳がせてきたわけです。私は「8人麻雀」と命名してきたのですが、イスラム国の周りで8人くらいの関係勢力が麻雀をしている ような状態です。でも、8人だと牌が足りず、誰も上がれないのです。
 中東、アラブはどうなるのか。今年の初めにカイロを再訪した際、エジプト共産党員の友人に会いました。日本では、アラブの春は民主化運動と捉えがち ですが、その友人は「田原さん、何を勘違いしているんだ、われわれは民主主義者じゃない。レーニン主義者なんだ」って説教されました。そういう人たち もアラブの春には参加していました。
 私の解釈では、アラブの春の最も大切なメッセージは「目指すべき理想なんてものがなくたって、人は怒るべき状況で反逆しないとその人自身が壊れる し、大切なことはその異議申し立ての精神を持続すること」にあったと考えています。アラブの春の延長線上に現在の混沌とした情勢がある。今はまだ枯れ 草が燃えているけど、次の段階ではどういう世の中づくりに向かっていくのだろうか。まだ先は見えません。でも、見えなくたって不条理に対しては身を賭 して叛逆するという精神の在り方が、イスラム国的な現代の病巣に対する一つの回答であると思います。

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