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ネパー ル・タライ平原の村から(49)

被災後 も続く生業

  地 震から2か月。深刻な被害を受け、険しい地形条件から地滑りによる二次災害が懸念される地域、ラスワ郡。この郡の標高約3200m に、ガッタランという少数民族タマンの集落があります。ここは、9年前に一度訪問したことがあります。当時、NGOが開いた識字教室は人が集まらず中 断、無償で油が配布されるから学校に子どもが通い、衛生改善のためと設置されたトイレは施錠された物置きとなり、人の排泄物は畑の堆肥となっていまし た。
 この集落を囲むようにして、段々畑が谷底まで続き、集落の真ん中に鍛冶屋が1軒ありました。各戸、1階が家畜小屋で2階が住居。同じ屋根の下に、人 と家畜がいました。植生豊かな雨季になると、男性らは、主にヤギ・羊、あるいは牛、牛とヤクの交配種チョウンリガイを引き連れて、標高4000m近く の高山草地へ出かけます。逆に条件が厳しい冬季、標高の低いところへ移動。季節に応じて、多くの時間を移牧して過ごします。また冬季、斜面を登り下り する、堆肥運搬の重労働を軽減するため、段々畑の休耕地に竹編みのシートを柱に掛けた仮小屋を作り、家畜と共にここで過ごします。そのまま畑に家畜糞 を落として、段々畑を少しずつ移動する方法が採られていました。
 僕が集落を訪問した時、留守を守る女性ら数人が軒先に集まり、ある人は羊毛をほぐし、ある人は羊毛を紡ぎ、ある人は編み物をし、ある人は子守りを し、それぞれの手仕事を進めながら、おしゃべりをして過ごしていた風景を思い出します。また、集落内で新しく家屋を建てる時は、男性らの共同作業で、 木材や瓦となる石の運搬、建築が行なわれます。
 今や自明とされる、先進国の社会像を前提にした農業・農村支援を安易に受け入れず、家が固まって暮らし、力を合わせることで、だんだんと畑を切り開 いていった、一人だけで暮らすには厳しい生活を乗り越えていった村の意思を教えられたような当時を思い出します。
 そのガッタランへ救援物資を運んだ元NGO職員で知人アナンタさんに連絡をして、その後の状況を伺いました。
「(壁がつながっている)各戸、崩れてしまったが、瓦礫の中、食糧はどうにか確保できてある様子」「食糧よりも雨風をしのぐ、頑丈なシート(防水シー ト)が必要と言われた」「既に地力で修復した家もある」「多くが例年通り、家畜を連れて、放牧へと出かけた。ただし、男だけでなく、家族全員を引き連 れて」「冬季、休耕地に竹編みのシートを柱に掛け、仮小屋を作っていた時と同じように、暮らしている人もたくさんいる」(※補足・・・親戚等を頼りに 別の地域や都市部へ移動した人もいると思われる)。
 一方で「周辺地域では、移動している人の気配はほとんど感じられない」「なだらかな斜面に位置する集落であるため、土砂災害の心配はない。逆に急な 斜面になる山の反対側の集落は、全て避難キャンプ地へ移動となった」。
 アナンタさんの言葉からもわかるように被災状況は、同じ地域であっても、場所によってずいぶん異なり、均一ではありません。さらに6月に入り、雨が 降り始めると同時に、懸念されていた土砂災害も起こりました。また、家・家族は無事でも収入手段を失った人もいます。地域により、人により、被災状況 はさまざまです。
 こうした時間の経過と共に、復興という言葉も新聞紙面やニュースで見るようになって来ました。どんな復興が問われるのか? そんな外からの同情や援 助をよそに、黙々と被災後も生業を続け、ほとんど自力で生活を立て直そうとす人々も案外たくさんいると思うのです。 


 (藤井牧人)

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