アソシ 研リレーエッセイ
精
神のリレー
どういうわけなのだろう。私の順番がやってくるたびに、直前の当研究所運営委員会で、「リレーエッセイ」とはそもそも何かという話が蒸し返される。もちろん、前号のエッセ
イからバトンを受けとるからリレーエッセイなのだ。分かっている。ところが私は、どんなバトンを差し出されても受けとれるような器用な書き手では
ない。とはいえ、直前の会議で出た話をいきなり無視するのも気が引ける。どうしたものか。
あれこれ考えているうちに、リレーというのは、このエッセイの話にとどまらず実に重要なテーマであることに思い至った。現に私のまわりでも世代
間継承が課題となっている。それから、埴谷雄高の「精神のリレー」という言葉を思い出したりもした。というわけで、リレーと、世界各地で若者たち
が立ち上がり始めていることに希望を見い出す、という前号の結論を関連付けて考えてみることにしよう。
「精神のリレー」とは、要するに思想や志を世代間で受け継ぐということであろう。他方、若者の叛乱に希望を見るというのは、まったく新たなもの
の到来をそこに見ようとする態度のことだ。一見相反するこの2つの態度は、2010年代に入ってから顕著に増加した世界各地の叛乱において、矛盾
と葛藤をはらみつつ、実践的に総合されることが求められている。言うは易く……だが。
2010年、「アラブの春」の直接のきっかけとなったチュニジアのブアジジの焼身決起を転機に、世界各地で陸続と起きた大規模な叛乱において
は、代議制民主主義による代行と表象の体制への批判が自覚的に追求された(多くの場合)。しかし、運動が代行と表象の体制から実際に逸脱し始める
と、この体制の暴力装置である警察や軍隊の介入が始まる。そのとき大規模な叛乱の多くは、その場限りのものとなり、民衆の力の組織化のプロセスに
入ることができないまま、代議制、イスラム主義、軍事独裁など、資本主義の許容範囲内の統治形態に回収されてきた。資本主義の彼方は、蜂起的な情
勢の只中で一瞬垣間見えては消えていく。
もちろん、それぞれの闘いは、それぞれの個別具体的な情勢の下で、その情勢への抵抗としてある。この意味で、闘いは常に新たなものの創出だ。し
かし他方で、敵は相も変わらず資本と国家である。そして、私たちは資本と国家との闘いの長い歴史をもっている。思想や志だけでなく戦術や技術の細
部まで、リレーし、継承すべき素材は豊富にあるのだ。パリ・コミューン、ロシア革命、68年5月、オキュパイ・ウォールストリート、さらにギリ
シャやスペイン、そして現代日本での反原発、非正規労働者、沖縄の闘い……。
私はとりわけスペインに注目している。スペインでは2011年以来「15M」あるいは「怒れる者たち」と呼ばれる運動が継続してきた。プエル
タ・デル・ソル広場をはじめとする占拠やデモ、スト、無数の住民評議会に見られるように、この運動もまた代行と表象への批判を展開してきた。とこ
ろがこの運動は、まさに運動の中から「怒れる者たち」の党としてポデモスを創設した。つまり、それまで批判してきた代行と表象の場に打って出たわ
けだ。そして代表制政治が現に存在する以上、そこで「勝つ」のだと主張している。当然にも内部批判はあるようだが、急速に支持を拡大している。昨
年秋には支持率が与党を抜いた。5月の統一地方選挙では、ポデモス系地域政党が躍進し、第2の都市バルセロナ市では最大勢力、首都マドリード市で
は国政与党の国民党に次ぐ第2勢力になったという。
36歳の党首、パブロ・イグレシアスは、左翼は誰にでもわかる言葉で話さなければならないとし、「パンと平和」と言ったレーニンを引き合いに出
す。他方で、「政治は何が正しいかということとは関係ない。成功することが全てだ」と伝統的左翼が言いそうもないことを言うらしい。彼は現代の
レーニンなのか、左翼版橋下徹なのか? 代表制政治への介入でミイラ取りがミイラになるのではないか? そして代行と表象の体制を批判してきた運
動は、運動が党に、党が党首に代表されることをどう考えているのか? もっと詳しく知りたい。
そこで、当グローバリゼーション研究会では、スペイン情勢に詳しい廣瀬純さん(龍谷大学教授)をお招きして公開講座を開催する(7月22日
(水)、19時〜よつ葉ビル)。ぜひご参加ください。
(関西よつ葉連絡会事務局・下村俊彦)