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市民環境研究所から


あれから55年、反安保法制のデモへ



統一地方選挙に明け暮れた年始から桜の季節であった。残念ながら市民運動からの市会議員誕生には成功せず、桜は散った。しかし多くの経験が関係者の中に残った数ヶ月であっ た。何度目かの挑戦と敗北に心は乱れ、疲れは増し、次の取り組みを考えられない日々が続きそうだが、それを許してくれないほどに我が国の状況は悪 化している。そんな状態であるが、われわれの運動は政治的、社会的な成果を残せたどうかで評価するのではなく、次につないでくれる人をひとりでも 多く生み出せたかどうかによると思ったゆえの挑戦であったから、勝利はなかったが頓挫はないと総括している。
 安倍首相や政府の集団的自衛権容認を軸とする安保法案の議論を聞いていると、この国の政治のお粗末さと民主主義の崩壊危機に悲しくな る。そして、1960年を思い出した。
 滋賀県の田舎の高校を卒業し、その前年に大学に入ったものの、夏過ぎ頃からは、いわゆる60年安保闘争の渦中に身を置く毎日となり、 自治会の委員としての毎日が始まった。2回生になると左京区の吉田分校に通い出すのだが、実験以外はほとんど講義に出ることもなく、集会とデモと ビラ配りとカンパ集めに毎日を費やした。ビラの作成は実に大変な作業であり、プリントパックやラクスルは当然の事,輪転機さえない時代であった。 もはや失われた言葉となった謄写版での手刷り作業との格闘の毎日であった。そして、6月に入ると国会デモへの参加者を京都から送り出した。東京の デモに行くなどと云えば、田舎の親から勘当すると怒鳴られるから、こっそりと行くよ、と東京に向った同級生の身を案じて、6月15日の夜はラジオ にかじり付いていた。そして衆議院南通用門から国会に突入した学生部隊と警官隊が衝突し、樺美智子さんが警察隊に殺された。その報に体を震わせな がら翌日の早朝に大学に行ったようである。興奮していたから、記憶が飛んでしまっている。
 次に思い出すシーンは同じ学部の友人と3人で、当時の教養部吉田分校の正門を閉め、その内側に、隣接する学館から机や椅子を運んでバ リケードを築き上げた後の風景である。どんな会話をし、どんな看板を立てたかは記憶にない。そして9時頃に事務長が事務員2、3人と現れ、バリ ケードを撤去するように云ってきたが、昼頃まではそのままであったように思うが、定かではない。教官がとくに何か文句を言ってきたという記憶もな く、当時の大学の安保闘争への雰囲気を現しているような対応であった。2、3日後に友人は無事に戻ってきた。
 あれから55年が経過し、今年の6月15日はカザフスタンの沙漠から帰国した疲れの中で、当NPOの総会と記念講演準備(脱原発研究 者の今中さん)をして、17日の反安保法制デモに駆けつけ、京都市役所から河原町通りを歩いた。55年前の岸信介首相からその孫の安倍晋三首相と の永い闘いを続け、この国の平和を絶えることなく求めている人々と並んで歩けた雨中のデモだった。

(市民環境研究所代表 石田紀郎)


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