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市民環境研究所から

投票率40%は議会制民主主義の崩壊



 冬の夜空に輝く星も、冴え渡る月影も見ることなく、雨天と曇天の2月、3月が過ぎ去った。正月が明けた頃には、まだ3ヶ月もあるから、まだまだやれる事があると思ってい たが、あっという間に4月になり、4月3日の選挙告示と12日の投票となり、20数年ぶりの選挙運動の日々が敗北のうちに終了した。短い短い統一 地方選への参加であった。もちろん筆者が立候補したのではなく、フクシマ以降に、京都への焼却ガレキ搬入に反対し、原発再稼働に反対する運動に参 加した平凡な市民の、この国の政治と政治家の堕落を見かねての闘いであった。

 3人の候補者とその支援者で発足させた確認団体「市民ネットワーク・きょうと」はそれなりの活動を展開したが、如何せん選挙直前の結成であ り、後悔は多々残っている。3人の候補者はきびしい選挙戦の中で、自らの存在をかけての闘いを果敢に展開してくれたが、結果は3人とも落選であっ た。新人の当選は大きな組織に属しているか、有名人の縁戚による集票など、本人の実力とは関係ない力がない限り難しいとは当初からの覚悟であっ た。それでも3人の選挙区での得票率は4.1、4.3、2.4%であり、善戦したと評価できる。当選者のそれぞれの票を見ると、現職、元職ともに 10年以上もの歳月の間に蓄えてきた後援者名簿の数をなんとか確保しただけと読み取れる得票数だった。

 そのような結果となった理由は投票率の低さである。京都市全区では40%で、左京区では45%だった。半分以上の有権者が投票しなかったこと になる。これでは選挙運動が始まる前から投票を決めている候補者名を書きに行く人々、すなわち候補者所有の名簿に挙っている人達だけの選挙でしか なかったということである。投票所への道すがら、誰に入れようかと世の中と候補者の主張を考えつつ、迷いながら投票用紙に向う人々はほとんどいな かったということだろう。半分以上の有権者は、考えることも迷うことも放棄してしまったのである。そして曰く、「誰になっても同じでしょう」と か、「誰にしたらよいのか分からないので」を口実に自己を正当化している。さらには「地方議員などは誰でもよいので、国政選挙なら投票に行く」と いう。

 自分が住む街を治めること、地方自治が民主国家の基本であることを忘れ去っている。選ばれた地方議員も、地方自治が国家の基本であることを忘 れている。ある府会議員に福島原発崩壊への議員としての対処を尋ねたら、「原発は国政問題だから私には分かりません」と言った。このような議員ば かりだとは思わないが、投票率の低さとともに、現在の日本社会に蔓延しているきわめて危険な傾向だと思う。大学でも、「学部の自治」がないがしろ にされつつある。大学の基礎組織であり、自治組織である学部での決定権を大学本部に取り上げようとする文科省の方針が進行している。例えば、各研 究室の教員人事権を大学執行部にあると決定しても、反論しない教授ばかりだと嘆いた准教授がいた。自らの活動基盤の組織の運営を自ら放棄してし まっている典型である。「自治」とはなにかを大いに議論しなければ、組織も地方も民主的社会からほど遠いものとなるだろう。

 今回の統一地方選挙では、無投票当選の首長や議員が多数生まれたが、これも投票率の低さと併せて議会制民主主義の危機であると認識しなければ ならない。だから、新人候補者にはきびしい状況ではあるが、あきらめることなく挑戦して欲しいので、機会あるごとに支援を続けようと思う。2ヶ月 後の7月には向日市市議会選挙があり、知人が立候補するという。

(市民環境研究所代表 石田紀郎)


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