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香 港訪問報告

「香港アイデンティティ」は
どこへ行く(上)

 
 昨年9月末から3ヶ月近くにわた り香港で展開された「雨傘運動」。その背景に何があるのか、日本に住むわれわれにとってどんな意味を持つのか。年末年始にかけて現地を訪問 し、何人かに話を伺いながらあれこれ考えたことを以下に紹介したい。なお、同封の『NEWS LETTER』掲載の翻訳「黒色対黄色:階級対立と香港の雨傘運動」と合わせてお読みいただければ幸いである。            

 

はじめに

 はじめて 香港を訪れたのは今から10年ほど前、2005年12月に開催されたWTO(世界貿易機関)の閣僚会議に対する抗議行動のときだ。香港には当時、WTOに 象徴される新自由主義のグローバル化に対抗すべく、世界中から労働運動や農民運動、NGO(非政府組織)、学者や市民などが集まった。韓国からの闘争団を 中心に果敢な闘いが繰り広げられ、世界的にも大きな注目を浴びた。
 ところが、この過程で一緒に抗議行動に参加した仲間が香港警察に逮捕される事態に遭遇してしまう。そのため一週間ほど滞在延期を余儀なくされたが、通常 では味わえない体験を通じて、香港に関する印象は大きく変化した。労働組合や女性団体、外国人労働者の人権問題に取り組む団体、学生団体など、さまざまな 人々が閣僚会議への抗議行動を裏方で支え、被逮捕者の救援に奔走していた。実際に訪れるまでは、観光やブランド、アクション映画など、通俗的な印象しか 持っていなかった私にとって、香港の社会運動が示した力量は意外な衝撃であり、このときから香港社会に興味を持つようになった。
 とはいえ、当研究所の実際の活動としては、香港での経験を踏まえ、むしろ中国の三農問題や韓国の農民運動に関する視察見学へと向かうことになった。香港 については、個人旅行で訪ねたり、毎年行われる「六・四」(1989年に中国北京でおきた天安門事件)の追悼集会や「七・一」(1997年の中国復帰記念 日)の民主化デモの状況を確認する程度でしかなかった。
 そんな私にとって、香港で昨年9月下旬から急激に街頭行動が湧き上がり、しかも長期間にわたって継続されたことは、正直言って虚を衝かれた思いがした。 その背景にいかなる社会的要因があるのか、できればマスコミ報道を通じてではなく、自分なりの皮膚感覚で理解したい。そう考え、この年末年始の休暇を使っ て香港を訪問することとなった。
 現地には、WTOの際にお世話になった日本人のKさんに加え、Kさんからの紹介で大阪滞在をお世話した中国出身の香港大学大学院生・潘傑さんがいる。2 人に連絡を取り、話を聞かせてもらうことになった。

79日間続いた「雨傘運動」


 ここで昨 年の事態を振り返っておきたい。周知のように、直接のきっかけは香港特別行政区長官の選挙制度に関するものである。2014年8月31日、中国全国人民代 表大会常務委員会は、2017年の選挙から行政長官について1人1票の普通選挙にすると決定した。現在は選挙委員会による制限選挙なので、民主的な変更と 言えよう。ところが、その中身を見れば、「普通選挙」と言いながら、候補者は指名委員会の過半数が認めた2〜3人に限定されており、指名委員会も現在の選 挙委員会を改装したものにすぎない。
 現在の選挙委員会は、商工・金融、専門職、労働・社会サービス・宗教、各級議会議員など四分野の各界代表1200名によって構成されており、100名以 上の推薦を得て候補者となることができる。これまで、中央政府と対立する民主派が推薦されることはあったが、中国ビジネスを重視する商工・金融分野の委員 をはじめ、委員の多くは中央政府との協調を望む親中派であるため、民主派が当選することはなかった。にもかかわらず、選挙委員会を改装した指名委員会で 50%以上の認可がなければ立候補できないとなれば、事実上の民主派封殺と言わざるを得ない。
 こうした中央政府の欺瞞的な決定に対して、香港市民からは抗議の声が湧き起こり、市民による直接指名(公民提名)ないし政党による指名を通じた候補者の 選定、それに基づく直接選挙という「真の普通選挙(真普選)」を求める街頭行動へと発展したのである。
 とくに高校生と大学生を中心とした青年学生層の動きは活発で、9月下旬には各大学で一週間にわたるストライキが行われ、同26日以降は中環、金鐘、銅鑼 湾、旺角など、香港の繁華街や商業地域が抗議活動の主戦場となった。とくに同28日、武器を持たないデモ隊に対し、1日で計87発もの催涙弾を使って鎮圧 を試みた警察側の対応は一般市民の憤激を招き、抗議活動への参加者を拡大させることとなった。この際、デモ隊が雨傘やゴーグル、マスクなどを使って催涙ガ ス類から身を守ろうとしたことから、以降の抗議活動が「雨傘革命」「雨傘運動」と呼ばれるようになった。
 繁華街や幹線道路を長期間にわたって占拠し、香港政府に「真の普通選挙」の実現を迫る抗議活動は同時に、多様な人々が集まって交流し、議論し、協同する 一種の祝祭空間としての様相を呈し、ビラやポスター、デコレーションやバリケードそのものをも含め多彩な形態の表現が開花した。こうした状況がインター ネットを通じたソーシャルメディアによってリアルタイムで世界中に発信され、注目を集めたことは記憶に新しい。
 とはいえ、抗議活動は街頭占拠のほかに決定打を欠いていることもあり、膠着状態の長期化に伴って求心力は減少して行かざるを得ない。こうした事態を打開 すべく、学生グループは香港政府側との対話を要求し、10月21日には両者間で初の対話が行われた。しかし、香港政府側はあくまで当初の選挙制度案を撤回 する意思はなく、この点について中央政府と協議する必要もないとの方針を貫いた。これを受け、学生グループは11月15日、中央政府に直接要求を訴えるべ く、北京に向かおうとしたが、空港で搭乗を拒否された。
 その後も香港政府側は一切の譲歩を示さず、11月26日には警察当局によって九竜地区の繁華街、旺角のバリケードやテントが撤去され、デモ隊は強制排除 された。学生グループは12月1日、最後の手段としてハンガーストライキを宣言するが功を奏さず、12月11日には最大の拠点だった香港島中心部の金融 街、金鐘のバリケードやテントがおよそ7000人の警官隊によって撤去され、学生グループの指導者ら150人ほどが逮捕される。
 続く15日、香港島の繁華街の一つである銅鑼湾で、最後まで残ったバリケードやテントが撤去され、デモ隊が強制排除されたことによって、「雨傘運動」は 79日にして完全終結を余儀なくされたのである。

「雨傘運動」の社会的背景


 私が訪れ た香港には、当然ながら半月前までの祝祭空間は跡形もなくなっていた。大学の構内に残る「我要真普選!(真の普通選挙を!)」などと書かれた横断幕やビラ 類、街角の剥がれかけたステッカーや落書きといった痕跡、いまなお政府庁舎脇の歩道に張られたいくつかのテントなどが往時を偲ばせるものの、街や通りの雰 囲気は日常を取り戻している。少なくとも一旦、運動としては完全に終結したことを思い知らされた。
 香港在住の日本人のKさんから、今回の事態に至った社会的背景について伺った。Kさんによれば、たしかに「雨傘運動」の直接のきっかけは選挙制度をめぐ るものだが、その背後には1997年の「返還」以降の香港社会が直面した大きな変化、さらにその変化をもたらした中国の存在そのものがあるという。
 一つは、中国の資本や企業の流入である。香港経済は「返還」直後の97年から98年にかけて発生したアジア通貨危機によって打撃を受け、そこから回復途 上の2002年〜2003年には新型肺炎SARSの流行によって深刻な追い撃ちを被った。
 こうした 香港の危機に対して、中国当局は支援策に乗り出す。とくに重要なのが、2003年に締結された「経済貿易緊密化協定」(CEPA)である。これは中国と香 港の自由貿易協定(FTA)とも言うべきものであり、香港製品を無関税で中国に輸出できると同時に、香港企業が中国市場へ参入する際の障壁を軽減する内容 を盛り込んでいる。このほかにも、香港の金融機関に対する人民元業務の解禁、中国人観光客の香港への個人旅行の段階的な解禁などによって、香港の製造業や 金融機関、小売業や観光業は大きな恩恵を受けた。実際、CEPA締結後の2004年には、経済成長率は8.7%とV字回復を見せている。
 ところが、こうした経済的なテコ入れには副作用が伴った。中でも深刻なのは不動産価格の高騰である。中国からの不動産投資で古い集合住宅が取り壊されて “億ション”になり、富裕層が投機目的で買い占める。その結果、2005年時点では1平米が4万4000香港ドル(約70万円)だった平均的なマンション 価格が、2014年には11万香港ドル(176万円)と2倍以上に上昇。若者にとって、マイホームは夢のまた夢である。
 もちろん、不動産価格の高騰は物価全般の上昇ともつながる。中国資本と連携した都心の再開発や郊外の開発計画が進み、人民元オフショア(国外)市場が拡 大するなど財界・富裕層が潤う一方、一般庶民は生活苦が深まるばかりだ。実際、所得格差の大きさを示す指標「ジニ係数」で見ると、1997年の0.483 から2006年には“社会が不安定化する”とされる0.5に達し、2011年には0.537となった。
 中国人観光客の大規模流入も香港社会に甚大な影響を与えた。1997年の236万人から、2013年には香港の人口の5倍以上に相当する4,075万人 に増加した中国人観光客は、いまや香港の小売業や観光業に不可欠の上客だが、中には“招かれざる客”もいる。Kさんによると、観光客を装って乳児用粉ミル クや紙おむつなど香港製の商品を買い占め、中国に戻って高値で転売する担ぎ屋「水貨客」である。あまりの人数と購入量のため、香港で品不足や価格上昇が生 じるほどだ。また、中国・深圳との境界に近い「上水」地域では、集中する水貨客の振る舞いをめぐって、地元住民との間に幾度となくトラブルが発生している という(こうした文化・生活習慣の違いによる齟齬は、水貨客だけの問題ではない)。
 Kさんがとくに強調していたのが、中国人観光客の大規模流入によって街並みまでもが変わってしまったことだ。たとえば、街頭占拠の拠点の一つとなった九 龍地域の旺角は、植民地時代から大衆向けの商店や露店、飲食店が軒を並べる下町であり、若者に人気の繁華街だった。ところが現在では、裏通りこそ以前の面 影を残しているが、表通りはすっかり様変わりし、中国人観光客相手の宝石店や薬局ばかりが目につく街になってしまった。
 地元住民にとっては、慣れ親しんだ“わが街”の喪失であり、悲哀とやるせなさを感じざるを得ない。旺角の街頭占拠は民主派の活動家や青年・学生だけでな く地元住民も多数参加した点が特色とされるが、それはこうした事情の反映と見られる。Kさんによれば、しばしば日本のメディアで見られた、長引く街頭占拠 に地元の商売人らが苛立ち、政府当局による封鎖解除を望んだとの報道は一面的であり、地元住民相手の商売人はもちろん、地回りのヤクザ組織(黒社会)の中 にさえ占拠を支援する動きが見られたという。

“中国離れ”が進む香港の若者


 以上、K さんの解説を踏まえると、次のような構図が見えてくる。まず、1997年以降、経済発展を背景とした中国の存在感が拡大する一方で、香港はこれまで中国に 対して優位を誇っていた経済に陰りが見えてきた。いまや中国との結びつきなしに香港経済を語れないほどになっており、香港の相対的な地位の低下は明らかで ある。
 同時に、中国との経済関係の深化は社会環境の大規模な変化と格差の拡大をもたらし、総じて生活環境の悪化を感じさせるものとなった。言い換えれば、香港 の多くの人々にとって、中国は急激な社会変化と生活困窮の原因として意識される存在である。さらに香港を訪れる中国人観光客との間に生まれる齟齬が加わる ことで生活習慣や文化面での違和感も拡大し、総じて中国に対する否定的な感情が醸成されていった。
 かくして、圧倒的に巨大な中国に飲み込まれ、自らの存在感を失いつつある中、それに抗する拠点となったのが言論・結社・集会・報道の自由、それにもとづ く政治空間の確保である。というのも、これこそ中国と香港との間で最も違いが際立ち、それゆえに香港の人々にとっては自らの存在感を確認できる領域だから である。
 もちろん、中国からすれば、こうした香港の立場は認められるはずもない。もともと香港は中国の一部だったのであり、アヘン戦争(1840年〜42年)に 象徴される“恥辱の歴史”の過程で英国の植民地とされたに過ぎない。その意味では返還されるべくして返還されたのだが、それを実現したのはほかならぬ中国 共産党の力である。しかも、返還後の香港が見舞われた苦境には経済的な支援を与える一方、政治的には「一国両制(一国家二制度)」に配慮し、表立った介入 は控えてきたとの自負がある。にもかかわらず、なぜ香港の人々は中国に近づこうとせず、むしろ離れようとするのか――。おそらく中国側の状況認識は、こう したものと思われる。それゆえ、「雨傘運動」の背後に外部勢力、とりわけ米国の策動を描き出そうとするのだろう。
 1997年の「返還」当時、中国は遠からず「一国両制」を反故にし、香港に対して独裁支配に及ぶとの見通しがあった一方、歴史観や教育内容が変わること で、紆余曲折はありながらも次第に「中国人」としての国民統合が進んでいくとの見通しも見られた。しかし、現状はどちらでもない。たしかに、中国国務院 (政府)は昨年6月に発表した『香港白書』の中で、香港の高度の自治は「完全な自治ではなく、地方分権的な権限でもない。それは中央指導部の承認に基づ き、地方を運営する権限である」と警告した。とはいえ、いまのところ直接的な政治介入も軍事介入も見られず、間接支配にとどまっている。
 他方で「中国人」としての国民統合も進んでいない。中国当局にとっては皮肉なことだが、「雨傘運動」に見られたように、「返還」以前に自己形成した世代 よりも「返還」以後に自己形成した若者世代の方が、中国および中国人に対して否定的な感情が強い。
 香港大学民意研究計画センターは毎年6月と12月、「香港人」「中国の香港人」「香港の中国人」「中国人」という四つの選択肢を用いて、香港市民のアイ デンティティ(身分認同)に関する世論調査を実施している。ある研究者によれば、2014年6月の調査で自らアイデンティティとして「香港人」を選んだ者 の割合は、30歳以上で62.3%、18〜29歳では86.7%に上ったという。一方「中国人」を選んだ者の割合は、同じく30歳以上で35.8%、 18〜29歳では13.3%とのことだ。
 ちなみに、2008年6月の同じ調査では、「香港人」の割合は30歳以上で44.6%、18〜29歳で58.3%、「中国人」の割合は30歳以上で 54.5%、18〜29歳で41.2%と、大きく違いがある。「返還」以降の推移では、97年から減少傾向にあった「香港人」の割合が、08年を底に、そ れ以降は上昇傾向にあることが見て取れる。つまり、若ければ若いほど“中国離れ”の趨勢にあると言えよう。

「中環占拠」から「雨傘運動」へ


 それでは、「雨傘運動」に参加した若者たちは、どのような問題意識を抱えていたのか。潘傑さんの紹介で、香港大学大学院の研究生・周凌楓さんにお話を 伺った。
 周さんによれば、後に「雨傘運動」と称される動きは、二つの潮流が合流して形成されたという。一つは、戴耀廷、陳健民、朱耀明という著名な民主派の知識 人や宗教家3人を中心に、2013年から議論されていた「愛と平和の中環占拠(オキュパイ・セントラル、和平佔中)」である。これは、当時から焦点となっ ていた行政長官選挙制度の民主化を要求し、要求が受け入れられない場合、2014年10月1日を期して香港の金融の中心地・中環(セントラル)地区の街頭 で大規模な座り込み抗議を行う、との計画である。基本的には穏健民主派主体の運動なので、大衆動員による2〜3日間の占拠によって中国当局に圧力をかけ、 平和裏に拘束された後、裁判などを通じて自らの主張を展開する予定だったという。実際、件の3人は「雨傘運動」の最終局面である12月3日に、警察に出頭 した。
 もう一つは、「雨傘運動」の中心となった青年・学生で、主な組織としては香港専上学生連会(学連)と学民思潮(スカラリズム)の二つがある。前者は各大 学の自治会によって構成される香港最大の学生組織であり、後者は高校生を中心とした特定の課題に取り組む個人参加の組織である。学民思潮は2011年、香 港政府が準備を進めていた「徳育及国民教育科」(いわゆる「国民教育」)への反対運動として発足した。「国民教育」は、「中国の国情に対する認識を深め、 中国国民としてのアイデンティティを強める」ことを目的としたもので、2012年9月から小中高校へ導入し、3年かけて必修化される予定だった。しかし、 その内容には露骨な中国共産党賛美も含まれることから、「洗脳教育」との批判が噴出、政府庁舎前で保護者も含めた数万人規模の抗議デモが行われた末に、香 港政府による事実上の導入撤回を勝ち取った。
 このように、もともと独自の運動を展開していた青年・学生たちは、今回も当初は「中環占拠」とは別個に、昨年9月下旬からキャンパスでのストライキや金 鐘(アドミラルティ)に位置する立法府(議会)前での抗議集会などに取り組んでいた。その流れで9月26日、学民思潮が立法府前の公民広場を占拠したこと によって、学連や市民らが金鐘から中環一帯に集結し、事実上の中環占拠が生じた。これを受けて「和平佔中」グループは「中環占拠」の“前倒し”を宣言し た。かくして、事態は当初予定されていた「中環占拠」を遙かに超える形で進展していったのである。
 ただし、こうした動きが「雨傘運動」となるためには、一つの転機が必要だった。周さんによれば、これこそ9月28日の警察当局による催涙ガスを使った強 制排除である。これまでとくに政治に興味を持たず、むしろ“政治嫌い”とさえ言える若者にとって、武器など持たずに抗議活動をしていただけの友人・知人た ちが暴力的に駆逐されたことは大きな衝撃だった。この事件をきっかけに、若者たちをはじめ多くの香港市民が学生たちへの同情や政府・警察当局に対する憤懣 から抗議活動の応援に駆けつけ、やがては活動の主体となっていったという。
 もっとも、明らかに政治的な運動を展開したにもかかわらず、若者たちの“政治嫌い”は一貫しているという。10月21日に行われた学生グループと香港政 府関係者との対話も、当初から意図されたものではなかったようだ。その意味では、既存の制度や枠組みを踏まえ、さまざまな利害関係者の妥協や駆け引きを不 可欠とする政治に対する忌避感こそが、中央政府や香港政府、さらには旧来の民主派の想定を超えた事態を引き寄せたわけだが、それは同時に、運動の継続性、 目標を実現ないし社会的に定着させていく面での脆弱性を併せ持つものだったと言えるかもしれない。

若者たちと「香港アイデンティティ」


 「雨傘運動」の社会的背景について、周さんの見解は前出Kさんの見方と共通している。すなわち、中国との経済関係の深化に伴う社会環境の激変、格差の拡 大、生活環境の悪化などである。周さんによれば、これに加えて世代的なギャップがあるという。
 もともと現在の香港住民の多くは中国南部(華南)からの移民であり、とくに1949年の中華人民共和国成立の前後に香港へ脱出してきた人々が多い。その ため、住民の多くにとって香港は一時的な避難・滞在の場所であり、故郷という意識は薄い。まさに、映画『慕情』の原作者ハン・スーインが言う「借り物の場 所、借り物の時間」であり、アイデンティティは香港ではなく中国にある。実際、年齢層が高ければ高いほど、親族や知人などを通じて中国とのつながりを保持 している割合も高い。この点は、いわゆる民主派も同じである。むしろ中国人としてのアイデンティティを持つからこそ中国共産党の統治を批判し、「六・四」 天安門事件の再評価や人権問題の改善を求めて運動を続けてきたと言える。だが、若者たちはそうではない。中国との実態的なつながりも希薄になる一方であ る。
 「雨傘運動」の中心となった若者たちは、やや上の世代も含めて「八〇後(バーリンホウ)」と総称される。もとは1980年代に生まれた世代を指すが、英 国による植民地統治を体験しつつ自己形成してきた世代と言い替えられる。中国と英国が香港返還に関する共同声明に調印したのは1984年12月。これ以 降、英国は“立つ鳥跡を濁さず”のことわざ通り、それまで放置してきた社会政策や政治改革に着手した。経済面でも香港が最も輝いた時期でもある。周さんか ら見ても、香港人の主体性(subjectivity)には英国植民地時代からの影響が多く見られるという。それは、たとえば自由市場、表現の自由、法の 支配を核心的価値とすることであり、歴史を振り返らないことである。
 周さんによれば、香港アイデンティティは「歴史なきアイデンティティ」だという。たしかに、香港には「中国四千年」のような拠り所となる歴史はない。し かし、一般に歴史的な記憶の共通性こそは、アイデンティティの形成にとって基本要件だと言える。とすれば、「歴史なきアイデンティティ」は非常に不安定で あり、当事者にとっては不安なものとならざるを得ない。周さんの見立てでは、自らも含め若者たちは「不安でたまらない」からこそ、香港アイデンティティの 中身をめぐる模索を始めているのであり、「雨傘運動」もその一つの現れだという。              (山口協:鰍謔ツば農産)
※          ※          ※
 次回では、こうした香港アイデンティティの諸相についてさらに紹介するとともに、それが今日の東アジアの中でいかなる意味を持つのか、考えてみたい。              (つづく)


倉田徹「なぜ香港の若者は「中国嫌い」になったか――香港民主化運動に見る中国の弱点」『SYNODOS』2014年10月30日付、 http://synodos.jp/international/11343
竹内孝之「『香港独立論』の登場?」、ジェトロ・アジア経済研究所『海外研究員レポート』2013年1月、http://www.ide.go.jp /Japanese/Publish/Download/Overseas_report/1301_takeuchi.html
八ツ井琢磨「中国への依存と反発で揺れる香港」、三井物産戦略研究所『レポート』2015年2月、http://mitsui.mgssi.com /issues/report/d_r150209c_yatsui.html



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