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元 沖縄読谷村村長、山内徳信氏に聞く

汝の立つところを深く掘れ

−沖縄、日本の自立への道− 

 
 当研究所では昨年8月中旬、「沖 縄の自立」について現地を訪問し、四氏にお話を伺った。そのうち今号では、山内徳信さん(元読谷村長・前参議院議員)へのインタビュー概要、 そして有銘政夫さん(沖縄軍用地違憲訴訟支援県民共闘会議議長)のお話を受けたインタビュアー脇浜氏のまとめを掲載する。昨年11月の県知事 選、翌月に行われた衆院選で明らかなように、「沖縄の自立」に向けた闘いは、日本の沖縄に対する依存状況を明瞭にあぶり出した。問われている のは日本に他ならない。
(文 責は当研究所)

 

“万年教師”を辞めて村長に

【脇浜】山内さんの読谷村長時代の闘いからお話をお聞かせいただけ ますか。

【山 内】私は1974年の7月に読谷の村長に就任しました。一期目に公約として掲げたのは「読谷補助飛行場の返還を求める」でした。今私た ちがいるのは読谷村役場の隣の文化センターですが、周囲を見渡してみて、何が見えますか。何もないでしょう。通常、役場の周りには民家や商店などがたくさ んあるものです。そういったものがないのは、この役場が基地のど真ん中に建てたものだからです。こうやって、基地の中に一本一本、楔を打ち込んでいったの です。
 私は、琉球大学の文理学部で歴史を学び、卒業後は読谷高校で社会科の教師になりました。迷いなく教師の道を選びました。生徒たちには、日本史の教科書に 出てこない琉球史(沖縄の歴史)もたくさん教えました。
 沖縄戦のとき、私は小学四年生でしたが、それは悲惨なものでした。ようやく戦争が終わって学校が始まったとき、先生方が腹をすかせながら「ちゃんと勉強 せんといかん」と必死に生徒たちに教えてくれた。教室には本気の熱気が溢れていました。だから私は、そんな先生方に少しでも恩返しをしたい、そう思って教 師になった。真剣に生きることを生徒たちに伝えたい、そう思ったんです。
 復帰前の沖縄では、高校の進学率は50%に達していませんでした。そのころ読谷村では、高校に行っていない勤労青年たちのために夜間の青年学級を開設し ていました。私は青年学級の専任講師も兼ねることになり、昼は読谷高校、夜は週二回の青年学級で青年たちと学びました。
 当時の読谷村は総面積の85%が米軍基地。それが何をやるにしても邪魔になって、村政もうまくいかない。それに、基地の米兵による事故や事件は絶えず起 こっていました。だから村の青年たちは、なによりも人権が大事にされる村、安心して暮らせる読谷村を願っていたのです。それをきちんと米軍や政府に言える 人間に村長になって欲しいんだということで、私のところに話がきました。しかし、私は“万年教師でありたい”と突っぱねたんです。すると青年たちは「地域 社会が必要としているとき青年は起て、というのが先生の教えだったじゃないですか」と食い下がる。さらに高校時代の教え子が来て、「先生は私たちに、地域 社会は民主主義の学校であると教えてくれたじゃないですか。1000名前後の読谷高校への未練を断ち切って、28000人(当時)の村民を生徒と考えれば いいじゃないですか」と迫ってきた。まあ、この言葉で吹っ切れたというか、万年教師を諦めることになった。
 1974年に初当選。それから6期24年間、長いような短いような村長時代でした。まず手始めに、村長室に憲法9条を掛け軸にし、99条を額に入れて来 客用のソファからいやでも見えるように掲げたんです。基地の村ですから、けっこう防衛施設庁の人なんかもくるんです。護憲的な人もくれば反憲法的な人もく る。私にとっては、この条文は百万人の味方のようなものでした。本当に憲法は凄い力を持っていますよ。私は村政の理念として、あるいは日米両政府に憲法の 四本柱を盾にして闘いました。憲法を背負っていれば、怖いものなんかない、そう思って実践してきた。
 読谷村は沖縄戦での米軍の上陸地点です。私たちの集落には2つの大きな鍾乳洞がありました。住民はそこに逃げ込んだんですが、爆弾を打ち込まれて天井の 岩がドドドーンと落ちてきた。多くの人がおし潰された。そこで24名の人が死んだ。そのなかには私の同級生もいた。私がとても慕っていた宗一という友人も いた。彼の遺骨を拾えたのは、やっと復帰後のことでした。12トンの起重機を借りてきて、彼の上に落ちた4トンの岩をとりのぞき、ようやく見つけた彼の頭 蓋骨を、私は何度も、さすってやりました。
 私は51年に現在の憲法に出会いました。読谷高校の一年生でした。そのとき配られた社会科の教科書は「民主主義」というタイトルの本でした。これには震 えました。それが原点です。そこから、あの戦争体験をどう生かすか、私の教師への道が決まるんです。それから村長になったんです。
 私はいつも“読谷の闘いは村長一人で請け負いはしない”と言ってきました。全部村民ぐるみでやる、と。例えば、私が役場に入って二ヶ月くらいした時、近 くの不発弾処理場から破片がドンドンドンドン、近くのゴルフ場にも、近くの金城次郎の登り窯にも、20センチぐらいの破片が飛んできた。破片が雨のように 降ってきたんです。ゴルフ場の社長が顔色が真っ青になって、「村長、こんな破片が飛んできた。これがまともに人間の頭にでも当たったら即死だ。このような 状態が続くと、ゴルフにくる人もいなくなる」と役場に駆け込んできた。復帰後の話ですよ。復帰後。1972年に復帰しても、沖縄は戦場みたいだった。
 そのとき、私は一言言った。「よくわかりました。議会とも相談して対策を取りますが、社長は村長に要請したからといって、すべて終わりと思っているなら 間違いですよ。集会だとか抗議の座り込みがある時は、社長も一緒ですよ」と言った。そのように、問題が発生したら、次第次第に村民ぐるみを作り上げていく んですよ。

基地の中に福祉センターを建設


 当時は復帰しているのに村には福祉センターさえないんです。福祉センターを作る適当な場所もない。老人クラブから要請を受けたとき、「私にあと5年 ぐらい時間を貸してくれ」と言いました。「あなた方がここに作ってくれという、座喜味城の西の松林の中とおっしゃってるが、そこは将来性からみると、 あまり良い場所じゃありません。交通の便に恵まれない。だから交通の便も、読谷の北からも南からも行きやすいところに作りたい」と伝えました。その行 きやすい、利用しやすい場所というのは基地の中になります。私は戦前、この読谷飛行場のなかに、戦前の読谷国民学校のあったことを知っている世代で す。だから、あの一帯に作りたい。そのために「四、五年待ってくれ」と言ったら、「わかった」という返事でした。私の親父みたいな年上の老人クラブの 役員でしたが、待ってくれた。米軍と交渉して基地の中に最初に作ったのが福祉センターでした。
 なぜ最初に福祉センターを作ったかといえば、議会内には保守も革新もいる。当時は保守と革新の枠組みは確固としていましたから、福祉問題は保守・革 新で喧嘩しないだろうと思ったんです。また、福祉センターを作るためには、米軍の通信施設(通称「象の檻」)の隊長を説得しないといけません。アメリ カの規則によると、通信施設から1マイル以内には電波妨害の起こるような建物は許可してはいけないという。この壁を突破するためには理論武装していく 必要があると思ったから、米軍の隊長に聞いたのです。「その1マイル以内に作ってはいかんというのはアメリカ本国の規則か、それとも沖縄という島の規 則か」と。隊長は「アメリカ本国だ」と言うから、私は声を出して笑ったのです。わざと大声で。わざとワッハッハと笑った。“何だコンチクショウ、この 村長は”と相手は思うじゃない。そこで私は「日本の25倍ぐらいもあるといわれているアメリカ本国における規則を小さな沖縄で適応するのは間違ってい ないか」と反論した。さらに「アメリカは属地主義の国だ。裁判だとか教育だとかなんとか、州別でしょ?」と尋ねた。この司令官、ドイツ系でしたが、属 地主義と言われて彼は困った。「また来るから」と言って、その日は終わった。「2週間くらいあとにまた来ますよ」と言って。その2週間で何をするかと いったら、この「象の檻」から周囲1マイル以内に読谷村の読谷中学校もあるのです。小学校もあれば、役場もある。あるいはその近くに村の診療所を作っ たんです。そういうところには全部夜間照明灯が立っているじゃないですか。それを地図の上に、1マイルの円周を書いて、1マイル以内に、すでに夜間照 明灯とか防犯灯とかが立っていて、蛍光灯が灯っている。実際に電波障害が起こっているか確かめた結果、起こっていないことが分かった。米軍はいよいよ 追い込まれていった。
 それでも、米軍はいろいろ理由をつけて作らせないようにしてきた。そこで私は、今度は議員さんとか農業委員とか、役場の職員に「象の檻」の南にある 米軍の野球場に行って野球することを勧めた。基地の中に村民が入って野球をするという、「利用権」みたいなものを取ってしまうような状況を作るという ことです。さらに、合理的・科学的な説明をしても米軍が聞かないならば、本当にこの通信所(「ハンザタワー」と呼ばれ、「楚辺通信所」とも言われる) の電波妨害をやる、と言いました。相手はびっくりして、「どういうふうにやるの」と言うから、「周囲で凧揚げ大会をやって、その凧のしっぽに銀紙をつ けて飛ばすと電波妨害が起こると言われているよ」と言ったのです。そうなると、米軍は譲る以外ない。そういうふうにして福祉センター建設の許可を受け た。外のトイレあたりにも街灯とか照明灯を付けるところまでこぎ着けることができた。こうして、弱いものが勝つには相手を上回る理論武装をちゃんとや る。要するに知恵を働かすということが大事なことだと、私は学んだのです。

闘いの要は現場を抑え込むこと


 そういうふうにして福祉センターができ、そのあと、福祉センターの東に祭りをするときの祭り広場を作りました。その建設予定地には、「象の檻」と同 じような、もう一つP−3C対潜哨戒機用のアンテナ基地を作るといって、工事が始まっていた。これができてしまったら、読谷村の21世紀に向けての将 来構想は全部潰れてしまうと危機感を覚えた。だから、工事は60%済んでいましたが、絶対に作らせないということで、座り込みをしました。工事現場で の闘い方は、工事ができないように座り込むことです。その工事の予算はアメリカ軍の直轄予算でした。国会で審議するようなものだったらすぐにバレる じゃない。まず老人クラブと話をして、若い人々は座り込みさせるわけにはいかないから、普通通り仕事に行かせる。役場の職員も仕事をする。その代わ り、老人クラブから何名かずつ、10名前後でいいから交代交代で現場を抑え込む。闘いの重要な要は現場を抑え込むことだと私は知っていたから。そうし たら、相手はニッチもサッチもいかなくなってしまって。
 村民が抵抗するから、日本政府(防衛省)はカンカンに怒りましたよ。いや、本当に怒った。私は電話で20分から30分くらい叱られましたよ。ところ が、その狼狽振りを電話で察すると、“ああ、この闘いはもう勝っている”と思った。まあ、そういう風なもんでした。
 その後、アメリカの現場責任者が「村長、これは沖縄だけでは解決がつかない。横須賀にラッセル提督という司令官がいるから、彼に訴えてほしい」と教 えてくれた。提督は韓国に行って会えなかったが、副官が会ってくれて、「しばらく工事を中止する」との回答を得た。正月も終わってしばらくすると、那 覇防衛施設局が機動隊を投入し、座り込む村民を排除する意向だとの話が警備当局から入ってきた。私は機動隊をどうやって止めるのか考えた上で、これは アメリカの大統領に手紙を書く以外にない、と思ったんです。
 別の話をしましょう。あるとき、私にミソクソに抗議された海兵隊のパラシュートの訓練隊長が怒って、本当にブルブル震えていた。ところが、手は出さ なかった。さすがに。手を出してくれたらありがたいと、私は正直思っていた。相手が手を出したら、一挙に勝つんです。マスコミにそのことを全部発表す る。ところが、彼は手を出さなかった。私は翌週また会いに行きました。
 そしたら、彼が「村長、先週は私は怒ったよ」と。しかし「村長が帰ったあとよく考えたら、村長の怒りは村民の怒りを代表して自分にぶっつけているこ とに気づいた」と。「そういうふうにやるのは民主主義だよな」と。アメリカの訓練隊長が私に向かって民主主義という話をした。それはもう、全然日本政 府の役人とは違う。軍隊の中にも民主主義とか、知識とか理性とか、そんなことを語る人間のいることを知った。そのように現地の米軍と人間的な闘いを積 み重ねて、ついに基地の中に役場庁舎と文化センターの用地1万坪を獲得することができたのです。
 最初に役場庁舎を建てた。設計を担当する若い設計士を集めて、「役場が半額出すからスペインに行ってこい。ガウディが設計したという建物を見てこ い」と。私は見たことがなく、書物を通して知っているだけ。すごいと言われている。「設計に入る前にあなた方の頭を膨らませてこい。線を引くのはあな た方が専門だが、私は歳をとっているから知見は上だ。柱は全部円柱にしてくれ」と言った。役場庁舎は柱が全部円柱です。屋根の上は全部戦前と同じく沖 縄の赤瓦を載せている。「琉球建築の粋を集めた赤瓦を使え」と指示しました。
 なぜ柱が丸かというと、これはあなた方も奈良、京都に行ってわかるでしょう。神社仏閣は全部丸。ところが、いまの外務省の建物は全部四角。四角は人 を弾き返すような感じがする。丸い柱にして、そこに訪ねてくる村民を吸い込むような印象を与えたかった。ただ、次に作る文化センターまでそういう手法 をやったら、議会からケチを付ける人がでてくる可能性があるから、これはコンペにかけた。沖縄の設計業者に呼びかけた。真ん中に広場を作ってもらっ た。これは単なる広場ではない。読谷村の民主主義の拠点にしたいと考えて、私は「民主主義広場」と言ったんです。
 ところが、いまの職員たちはそんな理念は知らないから、「中庭」と言ってみたり、「広場」と言ってみたりしています。ここで5時頃、仕事が終わって 集会を開いたりする。村民が思い思いに集会や学習会を開催できる。野外ステージもあるから、周囲に座ったら1000名くらい座れる。だから、天気のい い日のちょっとした集会ならここで充分やれるのです。ギリシャの建物は歴史の教科書とか、雑誌なんかを見るとすごいじゃないですか。それを真似て作ろ うと思ったんです。そういうふうにして、読谷村の村作りは、文化の構造で基地を乗り越えるという発想です。美術館だとか、あるいは昔あった花織を軌道 に乗せるとか、「やちむん(焼き物)の里」を作るとか。
 こんな「戦場の村、基地の村」と言われた村のなかから、読谷山花織が復活し、「やちむんの里」が建設された。読谷山花織からは与那嶺貞さんが人間国 宝となり、やちむんからは金城次郎さんが人間国宝となった。そして、首里にいた紅型の人間国宝の玉那覇有公さんも読谷村に移り住んだ。その理由は、い つでも花の咲いてる、夏も冬も花が見れる、空気のいいところへ移って、王朝時代の織物の紅型を織っていきたいということでした。

「末端行政」は「先端行政」


 ですから、主体的な村づくり、創造的な村づくり、個性的な村づくりが人々を惹きつけるのです。そういう自治体を作り上げるには、まずは文化行政、教 育行政、社会教育を徹底する。村の人々が誇りになるようにやることだと思ったんです。復帰後、自治省からは、村は町に、町は市に格上げせよという指導 がありました。けれど、私は意識的に嘉手納町との合併をご破算にした。基地の中の役場庁舎に移るに際し、私は議員や職員がどう考えているのか知りたい と思い、「みんな、村よりは町になりたいか」と聞いてみました。そうしたら、「町になろう」という職員は一人も出てこなかった。議員たちも同じだっ た。「村がいいと言ってがんばってきたのに」と言う。そこには地方自治体の哲学があったのです。
 日本の社会は江戸の昔から中央が偉くて、東京が偉くて、地方は継子扱いにされてきたような歴史があるじゃないですか。そして、それはいまも変わらな い。民主主義の時代になっても中央が偉い。私はこれだけ文化行政をやっていましたから、全国の史跡整備市町村協議会の副会長を務めました。そうする と、全国協議会は毎年ありますから、そこに文科省とか文化庁の偉いさんたちがきて、激励の挨拶をするわけです。その際、地方のこと、市町村のことを 「末端行政、末端行政」と言う人がいるのです。
 会議の後の交流会になると、私も若かったから、早々とビールをついで、「末端、末端」と言っていた人のそばに行くんですよ。「局長、来年からね、ぜ ひ『末端』の代わりに『先端』と言ってくれませんか。『末端』には少し軽蔑した、見下したような、そういう印象が含まれておりますから『先端』と言っ て下さい」と。「『先端』、すごいいい言葉でしょう」と。言われて、相手は初めは何をポケッとしていますが、次第次第にわかってくる。そういうふう に、地方社会を同じように見ていく官僚たちの意識を作っておく必要があるんですね。
 私は、日本は東京だけが、頭の部分だけがよくて、本体も、右手左手も、右足左足も、全部元気がないような日本になったらダメだと考えています。北海 道も沖縄も、四国も九州も、これは手と足と同じようなもん。本土は本体だからね、どこも元気がないといけないのです。そういうふうに日本全体が元気に なって初めて、日本という国はすごいということになるんですよ。そういう発想に立って、読谷は読谷町じゃなくして読谷村のままいく。それで、読谷村は 今年(2014年)の4月1日から全国の村の中で一番人口の多い村になった。4万を越えているんです。だから、行政も議会もしっかりせんといかんので す。人口だけ多くて中味はおかしいということになったら、それこそ本当におかしいからね。

【脇浜】先生のお話を聞いて思い出したのですが、僕が小学校へ 行っていた頃、『新しい憲法の本』いうて、文部省が出した本があったんです。その本には、「新しい憲法は日本国民が作った」とはっきり書いてある。日 本国民が決定して日本国民が作った、と。みなさん、憲法を守りましょう、と。楽しいから、僕は復刻版を作ろうと思って、古いの持っとる人から借りて、 完全復刻版を作って、いま配りまくっています。

安倍首相への最後の質問


【山内】私は、安倍首相に去年(2013年)5月8日の予算委 員会で質問に立っていますが、国会議員として最後の質問になると思ったから、彼に言いたいことを全部言っておいたんです。「首相は集団的自衛権の行使 を目指して動き始めていますが、それは間違っている。日本のヒットラーになるな」と忠告した。首相は憲法を変えて9条を触ることなく、96条の改正を 狙っている。「それはまさにヒットラーがやった手法だ」と厳しく批判しました。
 そしたら、私に「ヒットラー」と言われて、彼は本当に顔を赤らげて怒っていた。「取り消せ」と言ってましたよ。「いや、『取り消せ』と言われて取り 消すのもやぶさかではないが、首相のいままでの動き、発言からすると、あなたはヒットラーだ。私からはそう見えるんですよ」と言いました。
 私は1970年に「忘れない」という詩を書いて残してある。日本には平和憲法があるのに再び戦争へと国家が向かっていく。そういうことがなんとなく 頭に浮かぶんですね。私は村長になってから、重要なことは全部石に刻んで立てることにした。「憲法9条の碑」とか、あるいは憲法制定50周年の記念に 各団体に反戦の詩とか歌を書いてもらって、全部石に彫ってあるんです。石に。非核宣言をした時の祈念碑は、4トンぐらいの石を運んできて、それに書い た。日本は憲法制定から朝鮮戦争を経て、自衛隊ができた。しかも言葉巧みにやるじゃない。「警察予備隊」と言ってみたり、「保安隊」と言ってみたり。 これは日本の歴史の中にも出てくる。日本の歴史を見れば、日本の政治というのは国民をいかに騙すかということだと分かるんです。また、そういうところ に向かうかも知れないと思うから、「石」を持ってきて立ててあるわけです。「石碑」にも抵抗させているのです。
 そういうふうにして日本の政治は、アジアにあっては孤立しつつある。だから、首脳会談だって一番近い国々とさえできないでしょう。中国も韓国も応じ ていない。少し突っぱねておけば、安倍政権は反省せざるを得なくなると思います。憲法がまだ改正されんであるということは、闘う武器になるんです。そ ういうふうに私は考えています。

【脇浜】いまの山内さんのお話で、安倍総理が有効な外交関係を 結べていないと言われた。それは「自立」ではなく「孤立」や、と。ちょっと話は変わりますが、「自立」と言ったときに、誰か一人に、例えばお母さんと か行政とか、誰か一人に抱え込まれる、抱え込む、この構造は「依存」や、と。でも、お母さんにも頼るし、隣やお向かいのおばちゃんにも頼るし、行政に も頼る。ちょっとずつ依存する。いろんなところに依存すると、実は自立になるんやないか。その意味で「自立」と「孤立」は違う。障がい者運動でも、自 立というのはいろんな人と関係が結べてこその自立なんだ、というようなことが言われるんで、なるほどと、腑に落ちることもあるんです。
 いま日本は、安全保障で言えば沖縄に完全に依存して、沖縄に助けてもらってる状態ですよね。そして、アメリカに依存して、アジア諸国とはきちんと関 係が結べていない。日本は、鎖国していた時代から、明治維新があって、戦争を経て現在に至ってるんですが。そういう意味で、きちんと自立したことがな いんやないかって思うんですね。むしろ、琉球王国の方が海洋国家として自立してきた歴史があったように思うんですが。

“非武”の国 琉球


【山内】琉球は明治になって日本に併合されていくんですが、そ の前、すでに琉球とアメリカとの条約が結ばれてる。琉球とフランス、琉球とオランダも条約が結ばれております。実にそれはほぼ対等に近い。日本の条約 は不平等条約で、大変な条約だったわけです。私はそういう琉球王国の存在はいったいなんだろうと考えてみたときに、それは人を裏切らないということだ と思います。沖縄は日本の奈良、平安時代と同じように中国との深い交流を続けていました。それから、ヨーロッパの国々と交流も行っていました。さら に、フィリピンあたり、現在のASEAN地域の人々が琉球人のことを「レキオ」と言っていたんだそうです。レキオ。つまり、沖縄の人々は信頼できる。 だから、彼らとは交易しようというふうに、ある書物には書かれている。
 琉球王国は人間対人間のつながりでもって運営をしていた。こんな小さい国が、武力にものを言わせてだったらひとたまりもないんです。私はいまもそう 思っています。だから、先人たちのこの知恵、琉球王国の知恵というのはすごいものがあった。そういうのが最近、琉球の独立論だとか、いろんな話も表面 に出てくるようになって、いままで政府の、恐らく外務省の倉庫のなかにぶち込まれていたであろうと思われるような、琉球王国時代の資料も表に出てく る。かつて、琉球という国は、いまの奄美大島から南の宮古や八重山あたりを含めて、ここに燦然ととは言わないけれども、ちゃんとした独立国家が建って いた。しかも、朝鮮にも中国にもASEANの国々にも、いまの大使館、領事館みたいな「琉球館」というものを置いていた。その琉球館を中心としてその 国との交易をしていたんです。そういうふうに見ますと、明治政府は1879年に琉球王国を併合して、琉球王国の尚泰王という最後の王さまを東京に引っ 張って行くわけだが、それは今流の言葉を使えば、東京に拉致されたということでしょう。
 ところが、黒船が日本にきて以後の近代日本のアメリカとの関係、その他の関係というのは、まったく不平等条約でスタートしています。結局、日本に併 合されたあとの沖縄というのは、国内植民地みたいに使い捨てになった。戦争のときの言葉で言えば「捨て石」にされた。そういう状況があったわけだ。そ して今日、70年経っても、戦後70年経っても依然として沖縄に基地を押し付けて涼しい顔をしている政治家たちを見ていると、本当に腹が立つんです。
 それがいつの日か、どういう決着が付くのか知らないが、沖縄において、あるいは日本国内において琉球の自立とか、独立とかという新しい動きが出てく るというのは、長いスパンでみた歴史の一つの流れだと思う。国連の人権委員会から、沖縄における基地の集中とか、いろいろな施策を見ると「これは差別 的だ、人権問題だ」という指摘をされていても、国内においてはまったくそれを改善しようともしないわけですね。それは恐らく、北海道のアイヌに対して もそうであったわけですが。そうであっても長いスパンで見ると、民衆の闘いというのは、いい方向に動いてきたなあと思っているんです。
 1950年代、沖縄の基地をドンドン広げていくために、アメリカ兵は銃剣を突き付けてブルドーザーを持ってきて、家屋敷を潰していって土地を接収し たわけです。そのときに沖縄の人々は全市町村に島ぐるみの土地闘争に向けての体制を作らせて、銃剣とブルトーザーで襲ってきたのを跳ね返して、沖縄の 土地を守り抜いたということは、私は村長になる前から知っていて、すごいことだと思っていました。そのときに、全部アメリカ軍の言いなりになっていた ら、沖縄の土地の大半は永代小作権をアメリカに握られてしまって、アメリカ領になっていたわけです。それをはね除けて、立法院、現在の県議会において は四原則貫徹を貫いて闘った。
 私はその哲学を生かして、「読谷の反基地、村作り闘争は村長一人で請け負いはしませんよ」と言ったんです。村民ぐるみの闘い。なんでも村民ぐるみな んです。祭りも村民ぐるみ。手作りの祭りを作り上げていく。そして、その反基地闘争は、農協も入るし、漁業組合も、商工会も、学校の先生方も全部入 る。福祉団体も入る。それは、村民みんなが危険に晒され、命が脅かされているわけですから。空から危険なものが降ってくるわけだから。そういうふう に、命を守る闘いは、読谷村は全部村民ぐるみでやったんです。沖縄の歴史を見ていると、教科書問題に対しても県民大会には8万人か9万人くらい集ま る。そして基地問題。辺野古移設反対の集会が、この建物の裏の方にある読谷村の運動広場で開かれました。ここにまた10万の人が集まる。
 一本にまとまらないと日本政府と闘えない。市町村長たちもみんなそれを認識して、オール沖縄の動きができた。あまり表には出てこなかったが、それは 想像がつくわけです。
 沖縄が結束した方向に向かうことについて、危機感を感じたのは首相官邸でしょう。安倍首相とか石破幹事長とか、官房長官たちだったと思いますよ。だ から、とにかく金目は惜しまない、と。名護の市長選挙でさえも、石破幹事長が名護市にきて500億円の名護振興基金をつくると突然言うじゃない。私は 同じ日に街宣車に乗って、同じ場所で反論した。選挙の最中、公職選挙法にも抵触するような、反するようなことを、自民党幹事長の石破氏が言っている。 お金で有権者を買い取ろうとする卑劣な行為であると反論し、市民に訴えました。

蟻の群れ、ライオンを襲う


【脇浜】もう、一揆を起こすべき時代になっているんとちがいま すか。

【山内】私は「沖縄一揆だ」と言っています。民衆一揆なんです よ。私はいま一生懸命に原稿を書いています。できたら県知事選(2014年11月16日)に間に合わせたい。それに間に合わなくても辺野古闘争はあと 何年も続くでしょうが。本のタイトルは『解放を求めて』(沖縄タイムズ社)。読谷補助飛行場の返還をめぐっての、私の回顧録です。ところが、いま辺野 古闘争の真っ最中なので、今朝サブタイトルを決めたのです。サブタイトルは「蟻の群れ、ライオンを襲う」としました。
 要するに、こんな小さな蟻が穴から出てきて、ライオンの四本の足から上っていって、口にも、目にも、鼻にも耳にも、これ以上入らんぐらい蟻が詰まっ たら、そのライオンは立っておれないんです。もんどり打って前の川に飛び込むか、海に逃げるしかないんです。その蟻を私は民衆に例えているのです。気 付く人は気付くと思ってるんですがね。だから、脇浜先生の言う一揆みたいなもんです。

【脇浜】僕らの年になれば、別にまた刑務所に入っても失うもの はないし、高血圧の薬とか、いっぱい持ってみんなで捕まろう、と。大勢で、全国で集めてやろうか、と。いまの野党には、何の革新性もあらへんもん。だ から、運動さえあったら多少は変わるやろうし。これはえらいことやというて目覚めてもらう意味で、薬いっぱい持って、警察困るかも知れんけど行こう や、いうて。どないして人集めよか、いうて。そういう呼びかけを書いて、ばら撒いとるんです。

【山内】沖縄では、シルバー層はだいぶ覚悟ができてます。それ と、沖縄の基地、嘉手納飛行場、弾薬庫。新しくできてしまえば、辺野古は最強最新の基地だと、中国側からも、北朝鮮からも、韓国からも見られてしま う。それはむしろ、戦争を誘発する。それならば、先にこっちが撃つかという話になったらえらいことになるんですね。だから、沖縄側からすれば、沖縄は そういう戦争、ミサイルを撃ち込まれる標的になってしまう。だから私たちは辺野古へ行って反対し、抵抗しているのです。阻止するんだ、と言って頑張っ ています。

【脇浜】そんな感じやね。安倍いう人は、もちろんアメリカに追 随してるけど、本当にアナクロニズム。だって、今度はオスプレイも買う言うとるし、その上にステルスを今度三菱重工に作らせる。武器輸出は、アメリカ もちょっと嫌がってるみたいやから。どうも、安倍は辺野古をゆくゆくはアメリカに返してもらって、日本の軍国主義の拠点にしようと、そこまで考えとる んちゃうかな。

【山内】アメリカに提供するといえば、それほど国内の反対は盛 り上がらないで基地が作れるでしょう。アメリカも利用されてるわけです。将来的には自衛隊、国防軍が使う。しかも、飛行場があって軍艦も接岸できる じゃないですか。それを狙っているんです。

【脇浜】やっぱりそんな感じですね。だから、単に移転とかいう んじゃなくて、まさに日本の軍備増強に向けた大きな一歩やと思います。

【山内】長い目で見ると、そういう流れになるでしょうね。そし て軍事産業と結びつくというのが致命傷ですよ。あとは戦争をしなければやっていけない状態に追い込まれていきます。それを安倍首相は知ないのです。
 首相だから何もかも知っているというわけではありません。本当の人間の生き方とか、本当の平和というのが何なのか、そういうことを知らんのですよ。 ただ、利用するだけ。靖国神社も利用する。沖縄も利用する。靖国神社がなければ、戦場で死んだ人々を祭る所がないとなったら、それは具合が悪いから、 君たちは死んでも心配するな、ちゃんと靖国神社に祭ってあげるから、ということです。彼らは間もなく「名誉の戦死」と言うでしょう。

【脇浜】言葉についての質問ですけれども、非武装の「非武」、 これは、いまの平和憲法の脈絡ではなくて、琉球王朝の時代からある言葉ですか。沖縄の一つの伝統ですか。

【山内】伝統ですね。「非武」の思想は、琉球王国から続く沖縄 の知恵であり宝です。

【脇浜】というのは、先生がさっきおっしゃった「レキオ」。こ れは確か、フィリピンかなんかでポルトガル人が、琉球王朝が非常に信頼のおける平和国家だということを書いていた、というようなことを聞いたことがあ るんで、そういう時代から「非武」という思想はあったのでしょうか。

【山内】ポルトガル人もそう思っていたし、さらにイギリスの大 航海者バジル・ホール(1788年〜1844年)が1817年、セントヘレナ島で「武器のない国大琉球」「戦争を知らない」「戦争しない」人々の存在 をナポレオン・ボナパルトに報告しています(春名徹訳『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫)。アジアのジパングの南のほうに琉球という国があるが、そこは 「非武」の国だ、と。そしたら、ナポレオンは理解できなくて、「大きな大砲がないんだろう」と質問するんです。ホールは「違う、鉄砲もない」と。ナポ レオンは「じゃあ、大砲はなくても槍や弓矢はあるだろう」と聞き返す。ところが、「それもない」と。「戦争をしない、人を殺さない」ですから。こうい うやり取りの記録が残っているんです。
 琉球全体を精神的に安定させる仕事は、「聞得大君」を頂点に女性がやった。そして、現実の政治的な仕事は王さまがやった。そういうふうに行われてい たんです。ですから、小さい琉球王国なのにすごい知恵者がいて、調和のとれた安定した王国だったと思います。
 アメリカからペリー提督一行の黒船がきたとき、それは1853年ですが、日本は鎖国政策を続けてきた徳川時代の末期です。その当時、ペリー艦隊一行 と対等に英語の話せる男たちが琉球王国にはいたのです。それだけでも、私はびっくりするぐらいですが、彼らは中国(当時は清国)の北京にも行ってい た。当時の北京というと、ヨーロッパ文化も、あるいはヨーロッパ人もいっぱいやってきたわけです。かつての奈良、平安時代だと唐の都・長安(現在は西 安)に留学や修行に出かけて勉強したじゃないですか。それと同じように、琉球王国の人々は、ペリー提督がきた時代には、すでに北京に出かけ、学んでい たということです。

“村ぐるみ”の闘いが基本


【脇浜】僕は日本が敗戦したときに、まずひとつには、軍国主義 者を日本の民衆がきちっと裁判にかけなかったこと。それから、侵略した国への謝罪は何にもしてなかったこと。せっかく平和憲法ができたのに、それが大 きな積み残しやと思とるんです。完全に。

【山内】敗戦後の議論不足でしょうね。私が村長になって、本 土に行って講演があるときに必ず言ったことが一つあります。何かというと、日本政府は戦後処理を、ちゃんと早くやれ、ということ。そうせんと、戦後世 代の時代になったら、それはもう感覚が違ってくるから、必ず問題を残しますよ、と。戦前世代が播いた種は、すべて教育界にも、あるいは政界にも経済界 にも、そういう人がいるあいだに全部刈り取っておかないと、これはもう禍根を残しますよ、ということでした。
 私が村長に就任して早い頃、読谷補助飛行場のことを「決着をつけろ」と、議会の中の有力者が言っていました。村民の中にも、司法で解決したら、とい う声もあったんです。私は当時39歳でしたが、「私は司法の道を選びません」と答弁した。戦後の短い期間ではあるが、日本の司法を見たときに、例え ば、米軍の日本駐留を憲法9条違反だとした「砂川事件」の伊達判決だとか、憲法第9条と自衛隊法の関係が争点になった「恵庭事件」の判決だとか、いく つかは民衆の声を反映したものがありました。最近だと自衛隊イラク派兵差止め訴訟の名古屋地裁の判決があります。でも、それはもう本当に微々たる数な んです。私はいまの司法は完全に日本の政治から独立して、独立した判断ができるというよりも、司法に関わっている官僚あるいは裁判官たちの意識の中に は、自分たちも国家の、政府の一員だという気持ちがあるから、司法に頼ったら負けだと思っていました。だから、読谷補助飛行場の返還は村民ぐるみで、 「戦争が終わったら返す」といったものを、責任を追及して政治的に解決します、と言った。だから、司法で決着はつけない。政治的に解決をする。この道 を選んだのです。
 沖縄県内でも、旧軍に接収された用地の返還なんかを司法に訴えたところは、全部負けたんです。負けた。いまの日本の裁判というのは、司法というのは そんなものですよ。だから、私はこれを村民ぐるみで闘い取って返還をさせる。司法に頼らず、住民を信じて一緒に要求を貫く。これしか、いまの日本には 残ってないんです。だから、先生が「一揆」というのは、私はもう大賛成。直接行動に訴える以外にないのです。

【脇浜】今回の沖縄訪問のテーマ、「沖縄の自立」というのは、 山内さんの言われる、「汝の立つところを深く掘れ」。つまり具体的な問題を足元からやっていく。理想としては独立論もそうやけど。それを抜いてはいけ ないんです。それが自立の道なわけやから。僕らもだいたい闘争するのにいちいち許可はいらん、と。自分がこの情勢で一番ぴたっとくる方法でやろうと言 い続けてきました。

【山内】自分たちが、闘ってる人間が住んでる足元で自立を作ろ う。学者たちは学者でいろんないい研究をしてもらおう。そういうものの総合的な力が沖縄の自立につながるんですよ。沖縄がいま、辺野古を押し付けられ ていても、沖縄中の人が出てきて跳ね返す力があれば、これは自立に向けて大きなバネになりますよ。まだそこまでは行ってなくて、誰かがやってくれるだ ろう、と。これじゃあいかんのです。これじゃあいけない。そしてそれぞれの地で闘えと、僕は言っているんです。
 辺野古までいけない人は地元で闘えばいい。朝、横幕を持って、辺野古を支援しようとか、名護市内でも那覇でもいい。そういうふうにすると、各地にそ ういう一揆みたいなものが顔を出してくるんですよ。そういう闘いを勝ち抜いた、沖縄闘争を勝ち抜いた向こうに沖縄の自立はあるんです。そして、いつで も権力者というのは、民衆が団結して立ち上がろうとすると、それに分断するための楔を打ってくる。敵はいつでも内部にもいるんです。そういうものに崩 されてはいけません。

【脇浜】先生、今日は本当にありがとうございました。

【山内】私の心を支えてきたのは、「汝の立つところを深く掘 れ、そこに泉あり」(※)。他所を頼っては自立はありえない。そんなふうに思いますね。お疲れさまでした。

※「沖縄学の父」として知られる那覇市出身の民俗学者、言語学者、伊波普猷が主著『古琉球』のはしがきに記したニーチェの言葉。



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