アソシ 研リレーエッセイ
「お 金フェチ」の呪縛を
断 ち切ることで見えるもの
日頃、自分が見ているものはそんなに多くないような気がしています。普段の生活の中でよく目にするのは、寝に帰るだけの古いアパートの天井、通勤の車から見る道路とその周
辺、そして職場のパソコンの画面と会議室の壁くらいです。街の中は、あまり遠くのものが見えないように出来ているみたいで、大阪府茨木市なんて、
そんなに大都会というわけでもないのに、とにかく見えているものの距離が近いような気がしています。だから、よつ葉ビルの屋上で同僚とプランター
農業に勤しんでいるときも、作業の合間に遠くを見て「ほっと一息(ひといき)」ではなく、空を見上げることくらいしかできません。それでも、仲間
や同僚との会話や笑い声に癒されながら過ごしている日々です。自分は九州の田舎の出なので、田舎の景観にあこがれることもなく、特にドライブや旅
行が好きというわけでもなく、外出するより昼寝をしている方がいいというタイプの人間だと思っていました。しかし、この年齢になって意外にそうで
もないことに気づかされることがあります。よつば農業塾の用事で出かけていくときの車から見える景色や畑から見えるまわりの風景は、自分にとって
何か特別なものに感じることがあるからです。
この数年、関西よつ葉連絡会の若い職員たちと「農」研究会を続けていますが、彼らとの会話の中で、何とか「フェチ」という言葉が出てくることが
あります。この「フェティシズム」という言葉は、「性倒錯の一種」という説明もありますが、元々の意味を辞書で調べるとこんなことが書いてありま
した。「呪物崇拝。元来は宗教学の用語で,アニミズムと区別して,自然物,人工物を問わず持ち運びのできるような手頃な物体の崇拝を意味する。語
源は呪具,護符などを意味するポルトガル語フェティシュ」。街の日常から離れ、田園風景の中で自分を取り戻す瞬間(とき)があるとしたら、「風景
フェチ」でも「畑フェチ」でもなく、むしろそんなところに「本来の自分」を発見しているのかもしれません。つまり、本当はこっちの自分が本当で、
いつもの自分は何かに固執した倒錯した自分ということでしょうか。最近のリレーエッセイで通貨(貨幣)の話がよく出てきますが、「お金」に固執す
るというのも同じようなものではないかと思います。自分が「お金フェチ」という言葉から連想するのは、「コイン」や「貴金属」マニアの人くらいで
すが、「フェティシズム」の本来の意味から考えると、単なる収集家というより「お金」にとりつかれた人ということでしょうか。自分は、宝くじを
買ったら当たった時のことを想像して一人「にやけるだけの小市民」です。だから、偉そうなことは言えませんが、実はみんな「お金フェチ」になって
しまっていて、自分にとって本当に必要なものがそんなに多くないことを見失っているだけなのかもしれません。大昔は「単なる交換財としての希少金
属」だったものが、「それらしく印刷されただけの通貨」へと変化し、そのあともずっと一人歩きを続けてきた貨幣の歴史。今や衰退する国民国家に代
わり、圧倒的な金融資本が跋扈する世界が目の前に現れても、そんな景色は「でか過ぎて」良く見えないというのが実際のところだと思います。
「農」研究会のテーマは、10年前にスタートした頃と同じく「人と自然の本来の関係」と「そこから見えてくる次の社会への展望」を追求すること
です。しかし、この2年くらいのテキストは「ローカリズム原論」「百姓学宣言」「99%のための経済学」「若者よ、マルクスを読もう」と続いて、
今は「寝ながら学べる構造主義」という本の勉強会をしているところです。自分たちの中ではつながっているつもりですが、「農研はどこへ行こうとし
ているのかな?」という先輩たちの冷ややかな視線を尻目に、もう少しだけこの路線でやっていこうかと考えています。
(関西よつ葉連絡会 田中昭彦)