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「沖縄の自立」を考える

─「本土復帰という選択」をめぐって─

  〜 ヤマトは沖縄を
      日本防衛の捨石とした
アメリカは沖縄を

戦争の要石とした

沖縄は沖縄を

平和の石敢当にする〜 (有銘政夫氏)

 石敢当(石敢當)は、沖縄の各地でよく見られる、主に三叉路に設置 された魔よけの石碑や石標のことである。沖縄では、「マジムン」と呼ばれる魔物が市中を徘徊しており、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかる と向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。そのため、丁字路や三叉路などの突き当たりには、住む人によってこの石敢當が設けられており、 魔物の侵入を防ぐ魔よけとしている。
 沖縄は、日本列島と中国大陸の間に位置し、太平洋を通じて台湾や東南アジア等とつながりをもってきた。17世紀初めに薩摩によって征服される前 も後も琉球王朝が統治し、日中両属をはじめとする非閉鎖的な政治的・文化的独自性をもっていたとされる。
 1879(明治12)年の「琉球処分」以来、戦前までヤマト(いわゆる日本本土、ないし日本)からの差別に苦しみ、日本本土の「捨て石」として の過酷な地上戦を経験した沖縄の人々は、27年間におよぶ米軍事占領下で「自立」「分離」「独立」という選択肢ではなく、日本への「復帰」を望ん だ。それはなぜなのか。
 今回私たちは、「沖縄の自立」という課題を紐解くための手がかりを求めて、8月中旬の沖縄を訪ね、知花昌一氏(平和運動家・真宗大谷派僧侶)の 協力を得て、桃原一彦氏(沖縄国際大学教員・琉球民族独立総合研究学会共同代表)、石川元平氏(沖縄県教職員組合元委員長)、有銘政夫氏(沖縄軍 用地違憲訴訟支援県民共闘会議議長)、山内徳信氏(元読谷村長・前参議院議員)の4氏にお話を伺った。今号では桃原一彦氏、石川元平氏に対するイ ンタビュー要旨を掲載し、次号では有銘政夫氏、山内徳信氏へのインタビュー要旨を掲載する。なお、文責は全て当研究所にあ る。                                                                                      (事務局)


T.沖縄の自立をめぐる現在状況について

〜桃原一彦氏に聴く〜



本土復帰への舵を切らせたものとは何か

 沖縄 戦では、『日本の捨石にされた』という国防上の問題だけではない、もっともっと根っこの差別の問題が浮かび上がることになりました。沖縄戦で琉 球人が集団自決(集団死)を強要されたり沖縄の言葉を使うことでスパイ扱いされたということは、日本人にあらざる者として扱われたということです。
 この、極限状態で顕れた差別主義を一身に受け止めながら、さらに苛烈な米軍統治を受けながら、「自治」を模索し軍事政権と闘い、立ち向かって、沖縄 なりの政治を立ち上げようとしたという歴史が存在します。
 しかし、ある時期を境に「自治」から「復帰」へと沖縄の人々の思いは動いていきます。これは、沖縄の人たちの中にある、日本への同化志向が、戦後も 戦前も払拭できていない状態があったからなのではないか、と推測しています。そしてまた、1950年代〜60年代にかけて、教職員組合や自治労は分断 統治の壁を超えて本土との交流を深めていましたし、そのような運動を目的とするような団体ではない、例えば婦人会のような地縁団体も本土の婦人会と交 流し、沖縄の本土復帰について意見交換をしたりしています。沖縄の生活水準や人権状況が本土と比べて大幅に遅れているという問題から出発する生活改善 運動が、沖縄の家庭婦人が中心となり、公民館教育(1)と一体となって推進されました。このようにして、地域の隅々まで「日本に復帰していく」という ことを是とする価値観が本土の運動との連帯の中で浸透していったのではないかと思います。
 戦前・戦中の沖縄の「同化政策とその受容」に対する総括といったものについては、もちろん必要だっただろうと思いますが、戦後間もない時期は社会が 混乱していて中々出来なかったという事情があったのでしょう。例えば「島ぐるみ闘争」(2)といわれる軍用地接収をめぐる闘争もそうです。米軍基地問 題だけではなく、生活の基本的なところをどう改善していくか、基本的な権利を米軍からどう獲得していくかということがまず真っ先にあったということを 踏まえる必要があるでしょう。

日本人への「同化志向」と「異化志向」


 1980年代に沖縄県知事を務めた西銘順治氏は当時、「沖縄人の心とは?」と問われて「ヤマトンチュ(日本人)になりたくて、なりきれない心であろ う」と答えたといいます。
 名護市が辺野古の基地を条件付きで受け入れたときの市長だった岸本建男氏は、若い頃に北米・中南米を長期にわたって旅する中で、アメリカ国内におけ るブラックパワー運動やペルー民衆のアスタ・マニャーナ精神(3)にシンパシーを感じ、さらに民衆を搾取する支配者層とその背後にある米国に闘いを挑 んだチェ・ゲバラの思想に共感を覚えていたようです。彼は北米・中南米の旅の直後、「沖縄には独自の生活体系、経済体系があり、逆に日本よりも沖縄の ほうが豊かな面もあるのではないか」という「逆格差論」を唱え、基地経済や工業開発に頼らない豊かさの追求のあり方を名護から発信しようとしました。
 しかし、名護市民投票によって辺野古への基地移転を拒否する住民の意思が示されたわずか3日後に、基地受け入れを表明すると同時に辞任した前市長か ら、名護市政を引き継ぐことになった岸本氏は、困難な基地交渉の中で、移転受け入れとともに「基地使用協定」など7項目の要求を打ち出すことを選びま した。日米両政府の支配に抗しつつ、住民の生活を守るために体制とどうやって折り合っていくのか、という難問に取り組んだ結果、このような解を出した のでしょう。
 沖縄の人々が抱えるこのような葛藤や綱引きは、例えば開化党と頑固党(4)のように、歴史的に繰り返し表面化しているように思います。
 そういう綱引きを経ながら、例えば復帰前の1970年から、ほぼ10年ごとにNHKが行なってきた沖縄県民に対する世論調査の2012年版(5)で 「本土の人は、沖縄の人の気持ちを理解していると思うか」という質問に対して「理解していない」という回答が7割を超え、2002年時の調査に比べて 大幅に増加しています。先ほど西銘順治氏が「ヤマトンチュ(日本人)になりたくて、なりきれない心」と述べたと言いましたが、いよいよ「ヤマトンチュ なんかにならなくていい心」に変化している人々が相当増えてきている、というのが、今の皮膚感覚です。
 

「日本ナショナリズム」と「琉球ナショナリズム」の双方を越えて


 「オー ル沖縄」「島ぐるみ」といいますが、一方では仲井真さんを応援する動きも当然あります。注目すべきなのは、その中心に宮古島の市長、石垣の市 長がいることです。つまり、沖縄において宮古・八重山が被差別の地位に位置づけられてきたという歴史的な事実(6)が、彼らをして「オール沖縄」「島 ぐるみ」に距離を置かせ、積極的に日本への統合を求めさせているのです。実際、宮古・八重山の若者たちは、沖縄島に進学・就職するのではなく、いきな り首都圏など日本本土に行こうとします。沖縄島に目を向けようとしないために、日本本土に目が向いていく。その結果、同化志向のような価値観を生じや すい傾向があるのです。これはある意味当然で、仕方のないことだと思っています。そしてまた、やはり尖閣諸島をめぐる領土問題が身近に存在するがゆえ に、国による「島嶼防衛計画」および自衛隊の配備増強計画を肯定的に受け入れ、日米同盟強化(=辺野古移設推進)を支持する面がみられます。自民党県 連だけではなく、日本への統合強化をプラスに見ている人も、琉球弧全体をみたときには一定数いる、ということです。
 そういった「日本への統合」を正当化する論理として、いわゆる「中国脅威論」がありますが、これを信じる人々は若者・学生に多いように感じます。実 際には、歴史上中国から軍事的に占領したことはなく、軍事占領をおこなったのは日本とアメリカなのですが。
 30代以降は、どちらかといえば「中国脅威論」より「基地経済論」を正当化根拠に考える人が多いですね。雇用・軍用地料がなくなる不安というもの が、中々「基地返還」を声に出せないようにしています。例えば親族に軍用地主がいて、軍用地料を得ていて、子どももそれを利用して進学させていたりし ますと、法事の場などで基地問題を語ることはタブーになっていくわけです。
 とはいえ、かりに沖縄が独立を目指すとしても、新たな国民国家を立ち上げていっても仕方がない、意味がないようにも思います。国民国家の焼き直しで はダメなのだろう、ということです。これは、私たちの「琉球民族独立総合研究学会」に対してもよく問われることですが、私たちは「独立」について学会 で一つの結論は出さないとしています。「独立」について幅広く議論することが重要であり、その議論のアリーナでありたいと考えているのです。
 1980年代に、詩人の川満信一(7)さんが「琉球共和社会憲法」を発表しました。もう30年前のものですから当然古びている部分もあるものの、国 家や主権というものを考え直す上で、読み直す価値が充分あると思っています。最近になって、川満信一さんは『琉球共和社会憲法の潜勢力』(未来社)と いう本を共著で出しておられますが、その中に、川満さんと平恒次(8)さんとによる「近代国家終えんへの道標」と題する対談が収録されています。この 対談を読んでみると、平さんも川満さんも、独立国家化はあくまでも日本という国民国家から離脱するための第一段階であり、その上で自ら国民国家を解体 していくプロセスを経ていくべきだ、という点で一致しています。私は今まで、平さんと川満さんの主張は相容れないものと思っていましたが、この対談を 読んでそうではないことがわかりました。
 川満さんは、上記憲法草案の中に、あえて「琉球民族」「沖縄民族」という文言を書きませんでした。これは、ナショナリズムを極力排除したいという思 いの表れです。沖縄には移住者も多いですし、沖縄人と米軍人との間に産まれた人々も多く存在しますから。沖縄の歴史は差別や排除の歴史でもあり、また 暴力の盾にされたという問題もあるけれど、自分たちの経験を財産として活かしていこう、という意識が強く現れているように思います。「日本人である、 日本人になりたい」という意識を沖縄人が自ら総括・検証し、「同化主義」を沖縄人・琉球人というナショナリズムを作り上げていくのとは違う方向で、ど のように乗り越えるか、ということを、今私たちは考えています。
 そして、もし仮に国民国家という枠で琉球が独立していくと、日本の中での沖縄出身者への差別がどうなっていくか、という深刻な問題もあります。「琉 球の独立・自立」といったとき、クリアにすべき様々な問題がこのように存在する、ということを分かっていただきたいと思います。


復帰運動の担い手として


 今、私自身には、個人という立場ももちろんあるけれども、組織としてある意味「間違った復帰」を煽ってきたことの責任を問われていると考えていま す。
 私は沖縄島北部の東村に生まれ、1944年に国民学校に入学し、その後過酷な沖縄戦を経て終戦を迎えました。家庭の事情で進学を断念しようかと悩ん でいたところ、恩師の誘いがあり高校卒業後すぐに代用教員になりました。
 大宜味村などで代用教員を勤めていたところ、転勤の話があり、この際琉球大学の二部に通って教員免許をとることを決意しました。そうして那覇の教職 員会(9)を訪ねたのが、屋良朝苗(10)との出会いです。ときは1960年、安保があり、復帰協(11)が結成され、アイゼンハワーが沖縄に来た年 です。当然、教職員会は大忙しでした。だから屋良から「教職員会の職員としてすぐ来なさい」と声をかけられたわけです。教職員会に勤めだしてみると、 教育だけでない、あらゆる県民の課題と向き合うことになりました。子どもたちの人権を守り、沖縄の平和のために活動することになったのです。
 私は教職員会では「総務部付」として、言ってみれば屋良朝苗の鞄持ちをしており、屋良の思いを一番聞く立場にありました。1960年に教職員会に入 り屋良に出会って、彼がなくなったのが1997年。その間、単に職場の上司という関係だけではなく、会長と秘書の関係であり、また私的な関係としては 仲人であり、また彼が知事になってからは後援会事務局長などを務めました。
 私は、彼が亡くなる寸前までいろんな思いを聞いてまいりましたが、屋良が一番心配していたのは、何といっても「若い人たちが72年の復帰を本当にど う思っているのか?」という事でした。
 核も基地もない平和な沖縄にしたいという事で一生懸命やってきたが、そうならなかったという思いがありますので、後世に対し、いわゆる「復帰運動」 を主導してきた組織として、ただ頑張ったという事だけでなく、その行動をきちんと検証し、評価していくことが必要だろうと、今私は改めて思っていま す。

米軍統治からの脱却と

平和憲法の下への再統合


 戦争 が終わったら平和がやってくると沖縄に住む誰もが思いました。ところがそうならなかった。
 沖縄戦を経て、島中は飛行場だらけになりました。30ほどの飛行場があったそうですが、今私たちの目の前にある普天間基地は、日本軍が使っていた飛 行場でも軍事施設でもなかったのです。米軍が、役場や学校、市場、松並木など居住地域を潰して作ったのがこの普天間飛行場です。宜野湾市といっても、 宜野湾と呼ぶべき場所は滑走路にされて私たちの立ち入ることのできない土地にされてしまったのです。この軍事占領は、ハーグ陸戦条約にも違反するもの です。
 米軍統治下においては、アメリカ陸軍の中将が高等弁務官として君臨しました。琉球政府には立法院、裁判所とそれぞれ形はありましたが、アメリカの気 に入る範囲で、アメリカの施政権に影響を及ぼさない範囲で自治が認められました。私たちは傀儡政府と呼んでいました。重要法案を立法院が全会一致で決 めても、米民政府にひっくり返されることはしょっちゅうでした。今の県庁の場所に米国民政府と琉球政府があったのですが、1、2階が琉球政府、3、4 階が米国民政府です。そして4階の屋上には星条旗が翻っている。私の勤務する教育会館から直線で約150mのところにあって、常にその姿を見ていまし た。
 屋良が「異常かつ不健全な基地環境」と言ったのは、子どもたちの教育環境が本当に、劣悪だったからです。象徴的なのは宮森のジェット機墜落(12) ですね。また、日常的な出来事としても、例えばコザの女子中学生が補導しても家に帰らない。「帰らない方が家の幸せですから」と応じようとしないんで すね。何のことはない。母子家庭で米兵相手で、そういうことです。そうして家庭を切り盛りしていたという実態がありました。米兵は治外法権に守られ て、たくさんの犯罪、轢殺・射殺などがあっても抵抗できなかった。泣き寝入りです。そういう中で「まともに生きろ」というのは難しいですね。
 だから当時の沖縄教職員会は、1952年から「日の丸」を掲げる運動を真剣にやったわけです。卒業式、運動会などに「日の丸をなぜ掲げていかんの か」と。これは高等弁務官と屋良会長の間でも大論争になりました。屋良は日の丸は「民族のシンボルである」、これに対して高等弁務官は「行政権・施政 権のシンボル」であるといったそうです。さらに「アメリカ国旗を掲げよと強制しないのはせめてもの慈悲だ」と言った。私たちは引き下がることなく、今 度は万国旗を掲げることにしました。万国旗の中には星条旗も日の丸もありますからね。占領した側からすると目障りだったでしょう。いきり立った米兵が 引きちぎる事件が頻発しました。これでまた復帰運動が燃え盛っていくことになります。
 こういったことが沖縄の各地でおこなわれる中、アメリカ軍の占領支配からの脱却を求めて人権が守られる平和憲法体制の下へ帰りたいというのが私たち の復帰に対する最大の思いになりました。1951年9月8日にはサンフランシスコ講和条約が締結され、翌年4月28日に発効して、沖縄の米軍統治は続 くことになりました。だから沖縄では4月28日を「屈辱の日」と呼びます。日本への復帰を希望しながら、一国の領土を分割して他国の施政下にゆだね た、これを屈辱と受け止めた。沖縄が「(日本から)分断」されるという事で、青年団協議会がそれぞれの群島(奄美・沖縄島・宮古・八重山)で署名活動 をして、沖縄島はもっとも低かったんですがそれでも72.1%の署名を集めて国連を経由して吉田全権の下に届けられました。「すぐに日本に帰りたい」 と。

沖縄人の望んだものにならなかった「復帰」、そして今なお続く占領


 そう して、1967年の佐藤内閣あたりからから、沖縄の復帰要求の相手方である日米両国政府の間では、基地の存続を前提とした施政権の返還の方策が 模索されはじめます。しかし、1972年5月15日に実現した沖縄の本土復帰は、運動をすすめた私たち沖縄人の望んだものにはならなかった。沖縄返還 は、「平和憲法の下への復帰」どころか、日米安保体制の再編強化の一環でしかなくなっていたからです。「本土復帰」は、私たちの運動を逆手にとるよう な形で実現されてしまいました。当時沖縄県知事となっていた屋良は、「いい知れぬ感激とひとしおの感激」を表明しつつも、「復帰の内容をみますと、必 ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえない」と式典で述べています。
 「本土復帰した」といっても、結局のところ、まだ占領は続いているんです。このことをよく示しているのが、10年前に起きた沖国大米軍ヘリ墜落事件 (13)でしょう。
 あの事件が起きたとき、宜野湾市長だった伊波洋一氏が普天間返還をアメリカ政府に直訴して、帰国後の報告会を開いていたんです。その報告会には私も 基地対策協議会委員として参加していました。そのとき米軍のヘリが沖縄国際大に墜落した。伊波市長以下、みんなが慌てて現場に駆けつけたが、米軍が既 にバリケードを築かれて入れない。沖国大の前は市道なのに、米軍は勝手にバリケードを築いて取り仕切っている。沖縄県警も警察権の行使もできない。こ こは一体日本の一部ではないのか。日本の主権は及んでいないのかと、怒りを禁じえませんでした。翌日には日本政府の外務政務官までやってきたが入るこ とはできなかったんです。やはり米軍は占領軍だ、そういう思いを沖縄人は強く抱いたはずです。
 私は今、屋良の遺言である「二度と国家権力の手段(物)として沖縄が利用され犠牲になるようなことがあってはならない」という言葉を胸に、日米の軍 事植民地を拒否して、琉球・沖縄の自己決定権を樹立するための運動を始めています。この思いは、今年の7月27日の「島ぐるみ会議」でもはっきりと示 されています。
 屋良の思いを引き継いで、今、改めて保革を超えた枠組み、「島ぐるみ」の運動を闘い抜いていきたいと思っています。

【注】
(1)焦土と化した沖縄では,復興のための自治組織として、戦前に「区事務所」と言われていた集落自治組織を、米軍による占領政策の一環として「字公 民館」の名称で再建し、「結い」などの相互扶助や福祉、祭りや芸能,年中行事などの地域文化,御願や民間振興,子育てや学校づくり、運動会やスポーツ 活動,環境保全や災害対策,消防など、集落に関わる様々な営みの拠点とした。

(2)1956年にアメリカ施政権下の沖縄で起きた大規模な反基地運動。1954年3月、当時の米国民政府が米軍用地料を10年分一括して支払うこと を提示したことを発端とする。この提示に対し琉球政府立法院(今の県議会)が「一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収拒否」という「土地を守る 四原則」を決議。1955年10月、米下院軍事委員会のプライス調査団が来沖し、軍用地料算定については譲歩するものの、その他の「土地を守る四原 則」は拒否する、という「プライス勧告」が提示されるも沖縄の住民は激しく反発。党派を超えた抗議行動に決起したことから「島ぐるみ闘争」と呼ばれて いる。この1956年の闘争を「第1次島ぐるみ闘争」と呼び、その後の本土復帰運動(1960年〜1972年)を「第2次島ぐるみ闘争」、米兵による 少女暴行事件を発端とする反基地闘争(1995年)を「第3次島ぐるみ闘争」、普天間基地県外移設問題からオスプレイ配備、辺野古移転と現在に至る闘 争(2010年〜)を「第4次島ぐるみ闘争」と呼ぶ場合もある。

(3)スペイン語で「また明日」「何とかなるさ」の意。のんびりと大らかに、無理をしないで生きていこうという楽観主義的な考え方。

(4)廃藩置県前後の沖縄において、沖縄の帰属をめぐって対立した2つのグループのこと。開化党が親日派であり、頑固党が親清派とされる。頑固党の一 部は清に亡命し、日本の処分に対して清に救済を求め、さらに新県庁の施策に従わないなどの抵抗活動を行うなどした。

(5)河野啓「本土復帰後40年間の沖縄県民意識」(『NHK放送文化研究所年報2013』、NHK出版)119頁。

(6)1609年に薩摩の支配を受けた琉球王府は、薩摩に交易から得る利益の大半を吸い上げられたため、財政危機に陥ることになる。この危機を打開す るために導入されたのが、宮古と八重山に対する人頭税であるが、これは非常な重税であり、この税を課せられた宮古・八重山の人々は琉球王府と沖縄本島 の人々に深い恨みを抱くこととなった。宮古と八重山の人々にだけ人頭税を課したのは、宮古と八重山はかつて異国であり、成敗制圧した今、何をしても許 されると首里の琉球王府は考えたのではないかとみられている。

(7)1932年宮古島(旧平良)市生まれ。沖縄タイムズ元編集委員、元「新沖縄文学」編集長。詩人、個人誌『カオスの貌』主宰。詩集に「川満信一詩 集」ほか。著書に「沖縄・根からの問い」など。1981年に『新沖縄文学』48号で「琉球共和社会憲法C私(試)案」を発表。

(8)1926年宮古郡平良町(現平良市)下里出身。米スタンフォード大学準教授などを経て、現在イリノイ大学名誉教授。専門は労働経済学、経済発展 論。

(9)復帰前の沖縄において、教職員の経済的・社会的地位の向上を図るために組織された団体。現在の沖縄県教職員組合の前身であるが、校長などの管理 職も組織しており、いわゆる労働組合(職員団体)ではない。1947年に結成された「沖縄教育連合会」を前身とし、1952年に「沖縄教職員会」に改 称した。初代会長は屋良朝苗である。その後、本土復帰運動の中心的団体として活躍。

(10)やら・ちょうびょう。琉球政府および沖縄県の政治家・教育者。1902年沖縄県中頭郡読谷村生まれ。広島高等師範学校を卒業後、沖縄県内の学 校で教鞭を取る。沖縄戦後、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会長などを歴任し、1968年11月より唯一の公選行政主席として沖縄の日本復帰までそ の職にあり、復帰後は沖縄県知事を2期務めた。その足跡から「復帰の父」と呼ばれる。1997年没。

(11)沖縄県祖国復帰協議会。1960年に結成された復帰運動の中心的団体。沖縄教職員会などの諸団体が母体となって結成。関係諸機関に対する復帰 要請や復帰に関する宣伝活動を主たる目的としていた。1972年の本土復帰後も復帰協はしばらく存続したが、復帰5年後の1977年に解散。

(12)1959年6月30日に米占領下の沖縄・石川市(現・うるま市)で発生したアメリカ空軍機の航空事故。操縦不能となったアメリカ空軍機が住宅 地に墜落、民家35棟をなぎ倒した後、宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突し、さらに隣のコンクリート校舎を直撃、炎上し た。この事故による死者は17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼。校舎2棟と民家8 棟が半焼する大惨事となった。

(13)2004年8月13日に在日米軍(アメリカ海兵隊)のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落した事件。米軍普天間基地所属の大型輸送ヘリコプター が訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学1号館北側に接触、墜落、炎上した。搭乗していた乗員3名は負傷したが、1号館内にいた大学職員20数 名、他民間人に負傷者は出なかった。沖縄県で住宅地に米軍のヘリコプターが墜落したのは1972年の復帰後初めての。近くの民家やガソリンスタンド、 保育所などにヘリコプターの部品が落下したこともあり、事故に対して宜野湾市をはじめとした沖縄県内の各方面から非難が相次いだ。また、事故直後、消 火作業が終わった後にアメリカ軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察・行政・大学関係者が現場に一切立ち入れなかったことも 反発を招いた。         (以上、事務局)

沖縄訪問印象記

―沖縄の自立運動にみる

“nationless nationalism”の萌芽―


 知花 昌一が「うちの村の祭りを見に行こう」というので、読谷村波平の祭りへ行った。沖縄定番のエイサーと棒術の催しが延々と続く賑やかな祭りだっ た。日本の祭りとはまったく異質で、たぶんに中国文化の影響が濃厚な印象を受けた。何年か前、台湾の東海岸花蓮で、少数民族の踊りが日本の盆踊りと手 つきからリズムまでそっくりなのを見たが、台湾先住民より沖縄人の方が中国文化の影響を濃く受けているのは、一つの発見だった。
 「基地反対」勢力と「基地が必要なら本土と平等に」勢力が合体したオール沖縄が2013年1月28日に安倍総理大臣に渡した建白書には「オスプレイ が配備された昨年は・・・復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員とし て・・・」という文言があった。波平の祭りはまさに「古来琉球から息づく歴史、文化の継承」の一つであろう。
 この 歴史的文化底流が政治的表現をとるとき、沖縄(琉球)独立論になるのだろうが、それはまだ政治的思想とか、それを綱領に掲げる政党(以前は存在 した)もないが、アカデミック・イデオロギーとしては登場している。今回の沖縄訪問は、この独立、少なくとも沖縄自治がどういう状態にあるかを探る試 みでもあった。オール沖縄、構造的差別という言葉に反映されているように、本土「ヤマト」への従属への反発と抵抗は普遍的であって、日本復帰が果たし てよかったのかどうか疑問だと、復帰運動を指導した古老たちが語った。復帰運動を担った人々は「日本復帰」ではなく、「平和憲法」のもとへ帰りたかっ たのだが、それを裏切られたという点で、「平和憲法を沖縄で実現しよう」という独立論に、支持かどうかは別にして、共感をよせている。古老の一人は、 復帰後第3代知事の保守派西銘順治でさえ、「大 和人になりたくて、なり切れない心」と沖縄人の心を表現した、と話してくれた。本土復帰後初の沖縄県知 事となった屋良朝苗の弟子であり、沖教組委員長として復帰闘争を闘った石井元平さんは「琉球・沖縄の自己決定権を樹立する会」準備会の幹事である。彼 は「間違った復帰運動をやってきたことの責務を問われる立場にいる」と語った。同じように復帰闘争を闘った有銘政夫さんは若い人たち(30〜40代) の独立論に共感を示し、自分が現役(教師)のときに行った復帰時の「国民教育」で「基本的人権」や「平和」を扱ったつもりだが、結局一種の「皇民化教 育」「同化教育」にされてしまったと反省している。そのためにも安倍政権と闘わないと教え子に恥ずかしいと、傍らの知花昌一に目をやって、優しく笑っ た。古老の一人山内徳信さんは、「目の前の権力と闘わずして独立論はない。抽象論よりも、自分の読谷村の反基地闘争から語りたい。ニーチェの言葉に 『汝の立つところを深く掘れ、そこに泉がある』があるが、そういう具体的闘争や実践から自立や独立へ進むべきだ」と言って、読谷村の闘いと琉球史を話 してくれた。有銘さんも山内さんも、琉球の「非武」の文化を熱く語った。
 このように「沖縄人」を日本の県民でなく、はっきり口に出さないにしても、一つの「民族」と見る点では、復帰闘争の古老も若い世代の独立論者も同じ である。
 知花 昌一は、沖縄自立は絶対必要だが、独立論には批判的である。琉球王朝を美化する保守思想や、狭量な沖縄民族主義を心配するからである。それに、 知識人が構成する「琉球独立学会」が琉球人の参加しか認めないことに批判的であった。「辺野古の闘いにはヤマトの人々も参加している。『排除の論理』 は沖縄文化にはない」と言った。(辺野古の闘いの警備にネオリベラル的民営化の波が押し寄せている。民営警備会社、警察、自衛隊、米軍という重層構造 になっている。この点については『人民新聞』で論評した)ところで、彼が案内してくれたのは祭りだけではない。基地周辺や、取り返した基地のその後の 姿、政府が補助金で地元を無視して作った箱物の末路を見せてくれた。基地周辺の歓楽街にはペンペン草が生え、飴と鞭の日本国政府の沖縄政策の飴が勝手 に建築した何某センターとか何某研究所も草ぼうぼうの廃墟で、栄えているのは取り返した基地で人々が耕した畑や作った商業地・産業地だけであった。他 者依存の経済は結局すたり、地元民の必要と知恵と力で創り出した自立経済は栄えるのだ。依存、とりわけ「つかみ金」補償が自立経済を破壊する例が、辺 野古埋め立てに伴う補償金だ。名護漁協は西海岸と東海岸から構成され、辺野古は東海岸に位置する。漁協人口は西海岸の方が多い。日本政府はそこに目を 向け、埋め立ての影響を受けない西海岸にも1世帯1千万円の補償金を払うと持ちかけ、漁協の埋め立て反対姿勢を崩した。「何の損害も受けないで1千万 もらえるのだから、賛成に手をあげるわね」と知花昌一が言った。先人から受け継いだ恵みの海、自立経済の源である海を、事もあろうに漁業者が手放すと いう異常事態を作り出したのだ。
 この旅で出会ったのは、復帰闘争を闘った古老、沖縄独立を唱える壮年層、戦争や復帰闘争を知らない大学生という3世代で、私は、日本と異なり、世代 間のつながりが底流としてあることを感じた。個々のインタビューについては、横谷さんの報告に委ね、私の文は印象記である。世代間をつなぐのは、やは り日米安全保障をめぐる基地問題と沖縄への構造的差別であろう。沖縄国際大学で米軍ヘリコプター墜落事件の10周年記念集会や、辺野古の座り込みや、 乗り合いバスの中で、学生たちと会話を通して、それを感じた。ただ驚いたのは、政治的構造差別を知っているのに、日本の沖縄人差別の歴史を知らず、 「差別があったんですか」と、逆に驚いて質問してきたことだ。「世代間つながり」と書いたが、琉球語や文化や歴史や社会や他の社会との交流関係を、民 族史として教えるカリキュラムはないのだ。教育が文部科学省の支配下にある点は、日本の各県と同じである。沖縄を民族としてとらえるなら、当然独自の 民族教育があってしかるべきだろう
 「独立・自立の内容はこれからの研究課題」と沖縄国際大学の桃原一彦准教授が言った。印象的だったのは、彼の研究室にでかでかと貼られていたチェ・ ゲバラの写真と人類館事件の写真。一方はインターナショナル、一方は民族主義の象徴である。彼は、独立は戦略で、日本からの離脱を通じて、近代国民国 家を乗り越え、それを通じて宮古八重山など被差別地域の多様性を尊重する、琉球共和社会を実現したいと語った。琉球民族独立総合研究学会の松島泰勝龍 谷大教授(彼とは沖縄訪問前にインタビュー)も、同じことを言っていた。軍隊を持たない、国民国家から脱皮した、新しい21世紀的「国」、コモンズ的 なもの、中央集権化を避け、各地域が平等な連邦制のようなもの、と独立のイメージを語っていた。彼も偏狭な民族主義を警戒していて、 “nationless nationalism”という興味深い造語を使った。要するに「琉球のことは琉球人が決める」ということで、これは万国共通の原理である。自分たちのことは自分たちで決 める、自分たちにまかせてくれと、あの阪神・淡路大震災からの復興のとき、視察にきた中央国家の閣僚や役人に神戸の人たちが要求したものだった。社会 党の党首が総理大臣だった頃で、結局地元無視の復興、災害資本主義を地で行くような復興が進み、多くの人々が取り残され、いまだに苦しんでいる。
 戦後沖縄を呪縛しているものは、我々「ヤマト」の人間を呪縛しているものと、本質的には同じものではないかと、思った次第である。
(脇浜義明)





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