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フォイエルバッハと「食の思想」

─河上睦子さん(相模女子大学名誉教授・

哲学/社会倫理思想)─

   当研究所では5月24日、「『和食』とイデオロギー」と題して、『季報 唯物 論研究』126号(季報『唯物論研究』刊行会編、2014年2月)において、「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録される中、「食」を通じた国 民統合を進めようという動きについて喝破した河上睦子さん(相模女子大学名誉教授・哲学/社会倫理思想)をお招きし、食をめぐる現状と今後の展望 を伺う学習講演会を実施した。当日は40名ほどの参加者を得て、活発かつ有益な議論が展開された。以下、当日の模様を紹介する。(事務局)


はじめに


 初め まして。私は今、放送大学で「食の思想」という講義を担当しています。私の講義する「食の思想」のベースとなっているのは、長年私が研究してき たフォイエルバッハの思想です。フォイエルバッハはドイツの哲学者で、ヘーゲルとマルクスの間の哲学者といわれています。私がフォイエルバッハ研究を 始めたときには、哲学界から「マルクス研究をせずにフォイエルバッハなどやるな」と物凄いパージを受けました。マルクス研究につながるようなフォイエ ルバッハ研究はいいけれど、そうでないフォイエルバッハ研究はダメだ、と当時は言われたものです。ところが、社会主義が崩壊してみたら今度は「あなた がやっているフォイエルバッハ研究は面白い」と注目されるようになりました。
 フォイエルバッハという人は感性の哲学者です。人間には理性というものがありますが、理性だけではダメだ、制度の網や社会の仕組みを頭だけで考えて いては解明することはできないと主張したのです。そして、特に「人が宗教になぜ傾倒するのか」を解明し、宗教に頼ることをやめ人間を取り戻さなければ いけないと考え、キリスト教を厳しく批判しました。キリスト教が強かった時代にそんな主張をしたために、彼はずっと在野にとどまることを余儀なくさ れ、葬式代もなかったくらい貧しい生活を続けました。
 私はどうも理屈ばかりこねるのが好きではなくて、感性を大事にしながらものを考えたいと思ってきました。私自身は宗教を信じていませんが、宗教にな ぜ人間が関わっていくのかについては長く関心を抱いてきました。宗教は人間が考え出したものですが、人が宗教に嵌るとそこから抜けられなくなる。精神 だけでなく、生活そのものにも宗教は入ってきます。そういうものを解明するのは並大抵なことではできません。
 その解明にあたってキーワードになるのは「疎外」です。「疎外」とは人間が作り出したモノや考え方に人間が支配されることです。例えば神や霊です。 神も霊も人間が作り出したものです。人間一人ひとりの力には限りがあり、乗り越えることが難しい苦しみが沢山あります。そのような苦しみに独りで向き 合うのではなく、誰かに依存することで安心したい。
 また、一人の人間に依存してその人に裏切られても困りますから、もっと大きなものに依存していれば解決できるかも知れないと思うんですね。だから神 や霊が生み出されてきたのです。人間は、長い歴史の中で、願望や理想やエゴイズムを土台として様々な集団を作ってきたんです。長い歴史の中で作られて きたものは絶対になかなか壊せません。そのためにはそれがどういう本質でどう成り立っているのかを解明しなければ、絶対に解体できないのです。

「感性の哲学」と食


 フォイエルバッハは、最晩年に「人間とは食べるところのものである」という本を書いています。哲学者でこれを言ったのはこの人が初めてなんです。哲 学者はイデオロギーや理屈を取り扱います。知恵を使わなければいろんな事の仕組みはわかりませんが、食べる事とは何を意味してるかを考えた哲学者はい ません。これが注目されるようになったのは、「社会史」という学問領域が出てきて、ヨーロッパで食の研究がどんどんなされるようになった1970年代 からです。これは女性史と並行しています。「食べるものなど女性の世界でやればいい、料理など低次元なものだ」と言われてきたのに対して「そうじゃな い」と、女性運動家や社会史研究者が研究し始めます。1970年代初めからようやく「食の歴史」などの本が多く出版され、それらが日本では80年代か ら翻訳されるようになりました。それからはるか以前の時代に、フォイエルバッハは「人間は食べるものだ」「神様になぜ供え物をするのか」「死者になぜ 食べ物を与えるのか」などと考え出したんですね。そんなことをを考えるために、彼はギリシャの神話を研究し始めます。私は彼の研究に触れて、本ばかり 読むのでなくもう少し生活の中で考える、哲学も思想もそういうものでないかと考えるようになったのです。
 感性とは何でしょうか。「美しさ」「心地よさ」「面白さ」「楽しさ」「美味しさ」といった感性といわれる領域は「情動」なんですね。頭で考えつくも のでなく、一つの心の動きなんです。感性という領域からものを考えてみたら、私たちがイデオロギーと思っていたことも読み解けるんじゃないか。食べる ことは理性だけでなく感性の領域が大きく関わっているんじゃないか。とはいえ、この「感性」というものは曲者で、いい加減なんです。特に日本的感性は 保守的な側面があります。「そんなにガタガタ言わないでもいいじゃないか、楽しもうよ」と、思考を停止させようとするんですね。これが感性の持つ危険 性です。しかし、私たちが食べることを考える上での原点は、「頭で食べてはいない」ということだと思うのです。身体を通した世界との関わりの中で、感 性はあるのではないか。そういうものを私は「食の哲学」を考える上で大事にしようと思っています。

食とイデオロギー


 さて、最近私は『季刊 唯物論研究』に寄稿した論文に「食にもイデオロギーがある」と書きました。そうしたら、「興味深いので詳しく話をしてほし い」と色んな所から言われて困っています(笑)。こういう事を言う人があまりいないらしいのですね。日本ではイデオロギーという言葉は危険視されてい ます。
 そしてその一方で、食べることと言えばグルメ、コンテスト、そんな話題ばかりですね。食べることについてはどこでも沢山語られています。しかし一番 大事なものが抜け落ちているんじゃないか、というのが私の率直な感想だったのです。そういう中にあって、和食の無形文化遺産登録の話が持ち上がってき たことに「ちょっと怪しいぞ」と思い始めました。昔の「米イデオロギー」とか、ナチスの「食イデオロギー」の匂いを感じたのです。

ヒトラーと食


 ヒトラーはベジタリアンでした。酒もタバコも呑まない、肉もあまり食べませんでした。ヒトラーのベジタリアンという面とユダヤ人抹殺の事実はイメー ジとして合わないですよね。ベジタリアンって平和な人だ、肉食べないから平和だと思ってるかもしれませんが違うんです。ベジタリアンという彼の生活と 彼の政策は結びついていました。
 キリスト教にはタブーがたくさんあります。キリスト教はユダヤ教のタブーを解除し、それがある意味で反ユダヤ主義と結びつくことにもなりました。食 べ物にもタブーがあります。これをヒトラーが利用しました。ナチスのこのマークをご存知ですか?(図1)ベジタリアンのマーク、この中に肉は入ってま せんというマークです。こっちはコーシャと言って、KJと書いています(図2)。これはユダヤ式の肉の処理をした食品です。2,3日前のニュースにあ りましたが、イスラム教徒にとって食べていいものを「ハラール」、食べてはいけないものは「ハラーム」です。この「ハラール」をイギリスでピザの食材 として使ったというんですね。そうしたらイギリス人が「そんな鶏の肉は食べたくない」と言いだした。いま反イスラムがアメリカやイギリスで盛んになっ ています。何でもイスラム原理主義でダメだと言ってる訳ですが、これはまさに食のイデオロギーです。これを利用したのがナチスでした。
 また、ヨーロッパの思想の中であまり知られてないのがベジタリアニズム思想です。これはギリシャ時代のピタゴラスに始まります。彼はベジタリアンの 父と呼ばれており、その後も脈々と続きます。ヒトラーはベジタリアン好き、そして犬好きであり動物愛護者でした。これがどう結びつくかわかりますか? ドイツの動物愛護は今も素晴らしいですが、これはヒトラーの時代からなのです。ドイツでは麻酔なしでの「屠殺」を法律で禁止しています。念頭にあった のはユダヤ式の食肉処理なんです。皆さんワーグナーってご存じですよね?ヒトラーはワーグナーの音楽が大好きでした。そしてワーグナーも反ユダヤ主義 でベジタリアンでした。ワーグナーは「ユダヤ人がこんなやり方で動物を殺している」とユダヤを批判しました。ユダヤは血が付いた肉は食べません。だか ら動物を殺すときには、喉をピッと切ってサーっと血を抜くんです。その影響を受けているのがイスラムです。そういった慣習をワーグナーが非難し、ヒト ラーが「ユダヤ人は動物虐待する人種だ」としたのです。そしてヒトラーは、ますます肉食が嫌いになっていった、というわけです。ヒトラーは自然保護法 も制定し、森を大切にしました。ドイツは森が豊かです。森を大切に、動物を大切に、食べ物を大切にと一方で言いながら反ユダヤ主義を推し進めていくん です。それで国民を統一していったのです。これもまた、「食のイデオロギー」の一つの形態だと思います。
 ヒトラーは「体は国家のもの、総統のもと、健康は義務である」と唱えました。食べることは自分だけでなく国家のものだと。肉を食べると病気になると まで言ってるんです。栄養学はベジタリアニズム、肉を食べないのが一番体にいいんだと。その思想を支えたのがナチスの栄養学者たちです。肉、糖分、脂 肪を食べない方がいいとした。「自然が大事」というのもある面で危険なんですね。この精神に乗っかってナチスは共食運動で、食の国民運動をやります。 ムダをなくせ、民族共同体、公共と。食は家庭で作っちゃいけないからと、共同キッチンまで作るんですよ。食べることはみんなのもので、個人のものでは ないという言い方をします。

日本における食とイデオロギー


 これ を真似したのが、日本における「正食運動」です。お米というのが日本の精神を表すとしました。米はただの食べ物ではなく、精神を表すものなんで す。ジャポニカ米とは普通の食べ物でなく、宗教的なコメなんです。だから天皇が水田を使って新嘗祭をやるでしょう?あれは天皇がやるのが大事なんで す。
 日本米と日本人の精神性は直接関係して、日本米の優秀性は非コメ食への差別意識を助長したんですね。朝鮮に侵略した、中国に侵略した、あっちの人種 は非コメ食なんだ、非コメを食べてるからダメだ、白米を食べられるように変えなきゃいけないと。言葉だけでなくコメで同化したり差別したんです。「私 たち日本人はコメを食べているから、日本人として一体なんだ」と、昭和初期には国が大いに宣伝します。これは天皇様が作ったものと一緒だから、と天皇 制を支えたものでもあります。食の豊かさを象徴するのが白米だったんです。兵隊に行ったのは、兵隊は白米が食べられたからです。
 「マクロビオテックス」という概念がありますが、これを作った人は桜沢如一という人物です。この人が石塚左玄という人物の考え方と東洋思想の「易」 というものを組みわせて作ったのですね。そして「玄米がいい」と盛んに勧めます。この思想は地産地消にも広がっていくのです。体と大地は分けられない という考え方からです。「身土不二」といった思想ですね。これ自体は食の環境思想として興味深いところがあります。しかしその一方で、桜沢は『戦争に 勝つ食べ物』という本のなかで「ヒトラーを学べ」と書くんです。ヒトラーのベジタリアニズムを日本に取り入れ、それに学べと。「愛国栄養学」と称して 「ドイツ魂をドイツの小麦で、バターは肉よりもパンで」とヒトラーが言ったのと同じように、「日本魂を日本の米で」と言い出したのですね。
 そう考えると、コメコメっていうけどちょっと危ないんですね。特に「国体」と結びついた戦前の日本米賛美は、日本の国体を誇り、国民性を育み、天皇 制を支える一つの土台となります。コメを食べると日本の精神が宿ると色んなところで言われたんです。時々行事の時だけ、大事な時だけコメを食べなさい と言われたんです。普段は庶民は雑穀食べなさい、その代わり結婚式とかだけ行事食は米を食べなさいと言われました。
 伝統的な食事、行事食、これが私のような宗教批判をずっとやってきたような人間からすると、気にかかります。今、みなさんは「ハレの日」にご飯を食 べますか?節句とかお食い初め式とか、いま神社がすごく流行ってますよ。赤ちゃんのお宮参りで神社に行くと、お食い初め式用の膳や食器のセットをお土 産にくれるんです。そしてお食い初め式には神社にまた来て下さい、と案内状まで来るんです。あまり硬いことは言いたくないけれど、なぜ神道が今こんな 元気になってきたのか私は気になるんですね。おせち料理、おとそ、盂蘭盆とか、お彼岸とか、私も大好きですよ。おはぎなんかも自分で作りますから。こ れが行事食。おせち料理を自分で作らずに、皆さん1万円で買ったりする人もいますが、これを強制され始めたら、何なんだと思うでしょう。私の作ったさ さやかなおせちだっていいじゃないかと。
 ここでいよいよ、今日の主題である「和食とイデオロギー」に入ります。「和食」とは何か?政府のパンフレットによれば「和食は日本の伝統的な食文 化」と書いてあります。本当にそうなんでしょうか?無形文化遺産を申請したのは誰かというと日本政府。農林水産省は当然として、文化庁、外務省、文科 省も申請に関わっているんですね。申請者には、このほかに食産業と料理業界。京都の料理人らがいます。何で京都なのでしょうか。こういうところが私は 気になるんですね。あとは学者です。官産学、「和食文化ムラ」ですよ。「原子力ムラ」みたいですね。そうなったら困るので、あえて私は「和食文化ム ラ」と呼ぶことにしています。無形文化遺産申請の検討会が作られたのは2011年、3.11の後なんですよ。「3.11があったのにこんなことをする なんて何を考えているの」と、私は京都の料理人たちにずいぶん訝ったものです。
 和食の基本型は「一汁三菜」と言われていますが、皆さんは「一汁三菜」を食べていますか?昔、私がこう尋ねたとき、相手に「菜って何?」とか「野菜 を食べろという意味ですか」などと聞かれてびっくりしたことがあります。「菜」とはおかずの意味です。ご飯と汁と菜。三菜の内容は、焼き物、煮物、酢 の物です。「一汁三菜」というのはジャポニカのコメが基本です。また、健康食とは国家への貢献です。いま医療費がどんどん高くなってますよね。和食を 食べて元気になって長生きできるし病気にもならないから国にとっていいんだ、という考え方です。もちろん、これが一方的に悪いとは私も思いません。良 い面も確かにある。しかし悪い面が見えなくなると困ったことになるのです。
 私はこういうことを庶民の方からどのように組み替えていくかが大事だと思います。総否定する気はありません。自然の尊重でも、中身、例えば食材でい えば私はエビが大好きですが、日本のエビなんかないですよ。あってもずいぶん高いでしょう。安いのはみんなインドネシアから来ていますが、インドネシ アの食産業はみんな多国籍企業ですから、インドネシアの人が作って儲けているわけではなく、昔の「黒人」のような状況に追いやられています。こういっ たことを含めて色んな視点から考えないといけません。自然と言われてる食材はどういうものか考えて頂きたいんですね。そういう視点を持ってやっていか ないといけないんじゃないかと私は思います。私は神奈川県に住んでいて、生活クラブ生協をまたやり始めましたが、そのおかげで色んな情報が入ってきて 「ちょっと高いけどこの方が安心」という方が私は大事だと思うようになってきたんです。「おいしい」「安い」だけではイデオロギーに絡め取られてしま うんですね。逆に言うとインドネシアの人が苦しんでる、福島の人が苦しんでる、そういうのがあるから、中身を知りたいんですね。知ることこそが、イデ オロギーを解体させていくことだと思っています。

つくられた和食


 農水省のHPで書かれている「和食が日本文化である理由」には自然、家族、健康といった文言が並びます。こういった言葉を聞く限りではとてもいい話 です。でも、それはどこまで信じられる話なのでしょうか。
 食文化とは、食にまつわる文化を総称する概念です。和食文化遺産の登録に加わった江原絢子さんも、食文化の定義を「伝承されてきた食物摂取に関する 生活様式だ」とされています。日本は貴族文化の栄える時から「膳」でやっています。一人ひとりのお膳にご飯とお汁というふうに予め分けています。外国 の人には、男女の箸や茶碗が大小になっているのかが気になるようです。ドイツの友達などは「それは差別だ」と言いました。箸や茶碗どころか、「膳」に は男飯・女飯まであるんです。男飯は一汁三菜あるけど女飯は二つしかない。汁と香のものとご飯だけ。そういうこともあるんです。
 次は精進料理ですね。仏教が日本を作った時の料理、これがまさにイデオロギーなんですが、仏教は殺生を禁じるから肉を絶ったんですね。肉を絶ったか ら精進料理という形ができるようになったんです。675年に仏教を基礎に肉が禁止されます。律令国家を作るときに、肉を断って野菜と魚を、という形に なるんです。でも庶民は食べてますよ、ちょこちょこと。完全に肉を断つようになるのが近世から近代にかけてです。庶民も食べなくなります。「穢れ」と いう発想で、日本の中で大きな食べ物のイデオロギーだけでなく女性のイデオロギーにもなります。
 出産の穢れ、血の穢れ、生理の穢れも同じ。食べ物について言われることが女性にも当てはめられることが結構あります。穢れの発想は元々神道に由来し ます。仏教と神道が一緒になって、精進料理という文化が作られます。
 その次は懐石料理。これは千利休の茶文化に由来します。これが庶民に広がり、楽しく酒を飲みながらご飯を食べる食文化が生まれます。その時代、近世 から近代にかけてアイヌとか沖縄の料理があるはずですが、日本の食文化から排除されます。これもイデオロギーです。
 いよいよその次に、西洋料理が登場します。明治時代に肉やパンが入ってきます。中華料理はずいぶん以前からだと思われていますけれど、日清戦争以降 に日本に入ってくるんですよ。大事なのはこの辺から見事に日本は自分の中に西洋料理や中国料理を取り込んでいったことです。ラーメンなんてほとんど日 本料理ですね。
 原田信男という研究者が「西洋の食が入って初めて和食という言葉ができた」と言っています。つまり西洋食が入ってくる前にはこの「和食」という言葉 はなかったのです。
 西洋食とは何か、それは肉食です。西洋人の体の大きさを見て「食べ物が違うからああなる」とか、「いや違う、日本のコメを食べるとこうなる」などと 明治の知識人たちが論争したのです。なかでも福沢諭吉は自身が病気になったときに肉を食べ、病が治ったために肉食を推進するようになりました。もう一 人は森鴎外です。彼はドイツに行って栄養学を学びました。森鴎外にとって西洋食を導入する主眼は軍隊経営であり、ドイツ栄養学を基礎としました。軍隊 内で脚気が多発したとき、イギリスの伝統的健康食の研究をしていた海軍の高木兼寛が「パンや小麦を食べている人達は脚気にならない」と言ったんです ね。でも森鴎外は「ドイツの栄養学でも『コメは大事だ』と言っているから大丈夫だ!」と言ったんです。そして「コメは日本の文化だ」と言ったんです よ。ここで文化が登場します。ここで初めて「和食」と「西洋食」という考えが出てくるんです。和食和食というけど、それは西洋食の反対概念として出て きたのです。
 食文化の本質とは何かと言うと、精神と観念とか価値観の問題なのです。「食べて美味しい」とかではないのです。「和食に気をつけたい」というのはこ れが理由です。和食推進の表向きの理由は米、和食離れを食い止めるためとか、食育が大事だからとかですね。あとは地域食文化の活性化をしたいとか、京 都の人たちが望む日本料理店の海外進出、観光客の誘致です。日本の農産物を輸出するため、という理由もありますね。これらがメインです。あとは風評被 害を封じ込めるためです。『美味しんぼ』という漫画でも出てきましたが、「風評被害」は一つのイデオロギーになってきたなあ、と改めて思うんですね。 そこを巡る母たちの苦しみ、放射能汚染されてない食べ物を探そうとしてるわけです。問題は「子どもの食を守る母性」がイデオロギーになってるんじゃな いかということです。チェルノブイリの時にヨーロッパのお母さんたちがいっぱい頑張ったんですよ。みんなで古いミルクを集めたりしたのです。それを男 性もみんなで助けました。日本の政府は福島で女性を利用しましたね。お母さんたちがやらなきゃいけない、と。このように、食に関するイデオロギーは 色々あるんじゃないかと私は思っています。
 皆さんは「食生活指針10項目」ってご存知ですか?政府が作った私たちの食生活に関する指針です。こんなこと政府に言われたくないですよね。ぜひ皆 さん見てみてください。体重を測れとかいちいち書いてあるんですよ。これを国民に対する食育、生涯教育というんですって。「和食を食べよう、給食から パンと牛乳をなくそう」とかね。私は自分で焼くくらいパンが大好きなんですが。でも「給食」ってどうあるべきなのか、もっと考えてもらいたいですよ ね。ヨーロッパはむしろ自由なんです。牛乳飲む人もカレーがいいとか和食があるとか中国のとか、メニューは自由なんです。和食文化の推進で狙っている のは何かというと、つまるところ「家庭で和食教育しろ」ということです。今、家庭で和食作れますか?みんな忙しいのに。家庭で食事を作るのは女性の仕 事だという前提からして問題なんです。

食を自由に解き放つ感性


 問題は「正食運動」なんですね。正しい食べ物、正しい調理とかあるんですか?何が正しいのか、私は「正しい」は嫌いです。それがイデオロギーですか ら。イデオロギーって表面上は意外と良いことを言ってるんですよ。でも徐々に私たちの頭が慣れてしまうんですね。日本のコメ大事だ、食べ物大事だ、和 食大事だとなると、政府の誰かさんが言いそうですよね。日本日本と言うけど私は西洋の学問をやってきた人間なので、ナショナリズム的な物言いに違和感 を覚えます。食べ物は、おいしいものは、境界がないんです。個人の壁を越えていくんです。私も西の人だから関東や北の食べ物はなかなか馴染めません。 でもこっちの味噌が正しいと言われたらちょっと変じゃないか。食べ物は、夫のおふくろに負けないようにしてるうちに夫の味覚が変わっていったり、自分 も変わっていったりして、味覚は国境を超えられるんです。それが料理と言われてるものです。食材は土地から出てきても、それを改造するのが料理です。 料理したものを人間は昔から食べるんです。生ばかり食べているのではないんです。こういう点で、イデオロギーを批判する時に、頭だけで「だから無形文 化遺産はダメなんだ」というのではなく、危ないところを見て、なおかつ、食べ物の一番大事なところは一人ひとりが美味しく食べることなんですね。一緒 に食べたらおいしいんですよ。共食も悪くはないんです。一緒に食べることが「共に食べること」です。イデオロギーは頭でも考えなきゃいけないけれど、 体で人と一緒に料理しながら感性の気持ちを持って変えていかないといけないんじゃないか。日々そう思っております。ありがとうございました。

司会:時間となりました。今日は本当にありがとうございました。 (拍手)






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