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震災・原発事故から3年
原発・震災下での、協同組合と地域

 
 東日本大震災・東京電力福島第一原発事故から3年が経過し、被災地復興の名目でさまざまな公共工事に巨額の 予算が注ぎ込まれる一方、被災民の置かれている状況はより複雑さを増し、その苦悩はより深くなっているという。
 今回は、茨城県南部から千葉県北西部を配達エリアとし、食の地域自給や脱原発運動に早くから取り組んでこられた常総生活協同組合(本部:茨城県 守谷市)が、このたびの震災・原発事故をどのように受け止め、行動してきたのかについて、同生協副理事長の大石光伸氏よりご報告を頂いた。また、 同生協組合員の皆様からお話を伺ったので、その概要もあわせて掲載する。                                                                (編集部)

 


 「震災・原発事故から3年」というテーマで原稿を依頼された。津田さんからは「どんな事でもいいから自由に書いてくれれば」とのことでしたが、さし あたって「アソシ研の問題関心は何だろう?私たちの活動がいったい何の参考になることやら」と考えつつ、二つの事をテーマに添って書かせて頂いた。

①原発・震災下での、協同組合と地域の相互関係

②原発震災の住民被害と抵抗・・・被災地福島との社会関係


①原発・震災下での協同組合と地域


方針一転、意外な展開に



 「あぁこれで終わった」「1ヶ月以内に組合員は避難で全国に離散する」「若い職員から順に逃がす。給与は解散まで補償する」「避難せず残留している 組合員に我々年配者が残って食糧供給して生協の解散・撤退は1年後としよう」という事業撤退計画を立てたのが3月12日夜。
 13日の生協のニュースで「福島原発は炉心溶融。プルーム通過に注意し屋内退避を!関東圏も避難へ」を書いて、本部は目張りさせ、海藻類を大量調達 し配送職員に食べさせてから配送がはじまった14日の週。その通りになってもおかしくない話だったので笑わないで欲しい。この時点で生協も「終わり」 を決意していたのだ。
 事業を終了し撤退すること、資産はすべて放出するということが前提となれば、店舗や共同購入の在庫を被災地に持って行くことも自然の判断だった。
 ところが状況は「意外な展開」を示す。
 多くの人は避難しないのだ。農家も畑から離れようとしないのだ。
 そうこうしているうちに、3月17日より葉菜類・牛乳の汚染と出荷停止、水の汚染・飲用制限と続く中、生協は撤退でなく一転して母乳や土壌、野菜の 調査に押し出されて行く。1ヶ月で放射能検査費用は100万円。もう自分たちでやろうと6月NaI放射能測定器を購入。使用を地域に無

料で公開した。組合員も異議なし。それほど震災も原発事故もショッキングで、すでに「生協がどうの」という境界は意味 を失っていた。
 震災直後「自分たちはもう大丈夫だから東北の被災地に水や食糧を届けてくれ。たのんだよ」という組合員の声はそれを反映していた。おそらく、組合員 にとっても「大震災・

原発事故に直面して生協に集う私たちがどんな役割を果たせるのだろうか」ということを重ね合わせたに違いない。組合員 にとって試練だったのかもしれない。皆、カンパや物資の提供に自ら参加し、行動する組合の力に託そうとしていた。
 自覚したことはなかったが、この歴史事件の中では、もう「生協が」ではなく「地域が、東北が、福島が」という問題だった。

地域の中の組合員


 自らに降りかかった放射能に対して、人々は年齢を問わず各地域で活動を開始す

る。「放射能から子どもを守ろう@~」という自主組織が各地で次々と立ち上がった。その中に常総生協

の会員がほぼ必ずいた。自分の居住地でみずから会をつくり、つながり、調査し、情報を共有し、行政とかけあう、といっ た身近な生活点から活動を開始している。
 常総生協の組合員の特徴は控えめで出しゃばらない。しかし何かしら信念・信条をもっている人が多い。
 地域がまるごと汚染された時、共に悲しみ、共に受け止めて、考えなくなるのではなく行動しながら考えること、自己主張ではなく、地域をとりまとめる ことに組合員は専念した。生協の行動と、会員の生活点での行動が、相互補完的に進行した。

この3年の活動の特徴


 この3年間で、東北福島被災地支援と平行して、地元での放射線防護、食品・環境の放射線調査、圃場調査、東海第2原発差止訴訟提起、ハウスダスト放 射能調査、地域1kmメッシュ土壌汚染マップづくり、初期ヨウ素吸入被ばく線量評価、そして子ども健康調査(甲状腺検診、血液検査、尿検査)と展開し てゆく。
 見て頂いてわかるように、生協は会員と生産者との事業関係を結んでいるのだから、提供する食材の安全を測っていさえすればよかったのに、地域の土壌 汚染調査や子どもの健康調査、そして原発訴訟まで提起してゆくことになる。
 なぜそうなったのかはあまり意識されていないが、ぼんやりとは次のことが考えられていた。

・チェルノブイリの教訓として初期汚染データをとることが重要であること。
・日本政府の動きとして汚染・被ばくデータを隠蔽する可能性があったこと。
・1997年旧動燃事故でのプルーム通過、1999年のJCO臨界事故を経験しており、放射能対応ノウハウを一定程度持っていたこと。
・技術的にはすべての関係圃場一枚一枚の土壌汚染調査が先行しており、地域1kmメッシュ土壌採取と調査は地域の多くの人が関われる運動であること。
・我々の活動エリアがちょうど丸ごとホットスポットに入って汚染されたことで、健康影響が心配されたこと。
・原発問題は地域格差の構造問題があり、原発に対する地方自治や住民自治の自立性が関わること。
・組合員をはじめ、地域の女性たちは「二度と子どもたちを被ばくさせない」という強い決意を持っていたこと。
・地域の先輩たちが東海第2原発第1次訴訟を先行していたこと(2004年最高裁で控訴棄却、敗訴)。

 これらは「生協が」単独でやるのではなく、地域の中で市民協同で展開することが意識されていた。地域には、協同的に訓練された良識ある消費者・団体 として常総生協が立ち現れたようだ。
 これまで、地産地消とか地域自給とか地域環境とかを生協が掲げてもなんらの影響力も持ち得なかったところが、今回は不思議なことに、生協が行動を先 行させることで地域の市民の共同の動きをつくる結果となった。
 もちろん、行政や農業者からは「汚染地帯であることが公表されると地価が下がってしまう」「風評被害払拭に努力している生産者にまた冷や水を与える ので公表するな」「土壌の自主採取は窃盗罪に当たる」「いたずらに住民に不安を与える」等の抗議はしつこく繰り返されたが、できるだけ丁寧に対応し た。
 住民レベルの調査は、特措法による汚染調査や除染費用がのしかかる地方自治体の国への負担要求へつながり、住民からの健康不安は子ども被災者支援法 で市民と行政との共同戦線を形成することとなった。

協同組合が地域に与えたかもしれないもの

 もし、協同組合と地域の相互関係を楽観的に評価することが許され るとしたら「勇気・安心感・持続性」だと思う。
 被災地支援や放射能対策に協同組合が「行動を先行」させることで人々に「勇気」を与えることができたかもしれない。協同組合が地域の運動をつないだり実 務的に支えたりすることで市民運動に「安心感」を与えられたかもしれない。原発訴訟や甲状腺検診事業は協同組合が事務局を担うことで、地域運動・地域事業 としての活動に「持続性」を与えているかもしれない。
 留意した点は、事態に直面して判断と行動のスピードとタイミング。放射線問題は予断やイデオロギーに左右されずに淡々と実務すること。やろうとすること をオープンに提起し地域協同的に・連携すること。控えめなポジショニングをとること。


前代未聞の後進性


 意外に思われるかもしれないが、実務にあたって我々は原発を推進する側のICRPの勧告を常に参照した。原発事故時の防護、国民への施策 と配慮すべき点はすべて総括されていた。この国際標準手順からことごとく逸脱していたのが、わが先進国日本で、前代未聞の醜態だった。「常総生協は、放射 線防護から食品・土壌・健康サーベイランスまで的確な対応をしてきた」と言われることがあるが、とりたてて先駆的であったわけでもなく、世界標準手順に 従って行動しただけのことであった。そこに思想はない。唯一、人体への影響を評価する「シーベルト」なるものこそ彼ら推進派が恣意的に作ったイデオロギー の産物であることを批判し、科学的に定義できる物理量を基礎とすることを宣言している。

苦悩の欠失


 生協での「協同性」は、普段は生産者と消費者の間の事が強調される。今回も「食べ物」をめぐってはそれが課題となった。ところが、常総生協では消費 者と生産者の間をとって「放射能は調べて公表することが結果として信頼を得る」と早々にぶち上げてしまったことから、消費者と生産者の深刻な対立や悩 みにならなかった。対立し、本当に悩んだり討論することを回避してしまったのだ。
 内部主体の「試練の経験」の欠失は、組合員より職員や生産者にとって大きかったと思われる。職員は組合員から直接的な苦情や追求、質問を突きつけら れることなく過ごせたし、生産者も消費者と面と向かって相対し追求されて言葉を失うこともなかった。生協によって「保護」されていた側面は否めない。
 この内的困難を、ある意味「素通り」した常総生協は、「優等生」だったかもしれないが、民衆被害者としての真の動揺と苦悩を身体に刻むことなく来て しまったことを意味する。
 そのため、分断された生産・消費の再協同性を媒介する「大地と海と食物」の中に突如、放射能という爆弾を仕掛けられ分離・除去できない時、かつて共 同体がその外部から解体され、バラバラにされ慣らされてゆく商品経済の物質力に重ね合わせない訳にはいかなかった。おいおい、そこまでやるか! で は、どこを起点に反撃・抵抗したらよいのか・・・。
 しかして、放射能問題に直面し、人々の間に口を開けているこの暗部を「生協が上手に切り抜ける」ことは、原子力ムラの資本と官僚が民衆の中に投射す る巧妙な分断の罠を見抜いて、本当に団結することを回避してしまったのかもしれない。
 生協は「食の安全」を求める自由な個が結合した近代的「アソシエーション」と定義してもよいが、それは近代資本制社会の中にあって、組合員の家庭生 活・地域生活において常に資本の圧倒的動力と流動に晒されて、物質的にもイデオロギー的にも包摂されることから、常にそことの意識的な抵抗を組織しな ければ持続しない。
 だが、そんなことは、社会全体の歴史経験を前に、生協の内部経験がなんぼのものか。「SO WHAT!」(だからどうした)でしかないとも思う。歴史局面の中で我が組合員が感じ、見抜いたこと、学んだこと、そして地域での経験の方が、より豊かなつながりと、とり まとめ・持続性の苦労の経験を積ませたに違いない。
 こうしてみると、生協もまた地域の中に溶融する契機を与えられ、その内外の相互関係によって人々が訓練された3年間だったとも言える。

②原発震災の住民被害と抵抗


理解と経験は共有できないが


 原発震災から3年を経て、福島の仲間たちとの信頼の微妙なゆらぎ・ズレを感じざるを得ない。
それは私たちが無頓着であると同時に、彼らの中のゆらぎ・地域内部の苦悩・疲れと消耗という、相互理解を超えるところにあると思う。それほど、福島の 人々は過酷な運命を背負って、今ただ一度の人生を翻弄されて「生きて」いるということだ。仕事を奪われることで精神的腑抜けになっている場合もある。 「土は農民の宝」「耕すことが農民」と放射能汚染を従属相対化する農民たちと、操業してなお魚を海に捨てる作業に疲れ、禁漁なる規制で補償を受けて骨 抜きにされる漁業者は、たくましさに対照的な面がある。
 歴史経験の共有は容易でない。実際同じ場面にいなければ理解できない。このジレンマが相互にあり、ここでもまた距離を離してゆく。理解と経験の共有 化は断念した。
無理は無理。今を「生き延びる」ために、いっしょに酒を飲んでカラオケをして発散させる。東電はいくら出したのかはカラオケの音にかき消されてしま う。
 だが2013年末、二本松に「福島有機農学校」が設立された。2020年東京オリンピックに対抗し、福島現地で世界集会を開催したい。あと7年、コ トを積み上げ、世界に発信する。

多重な裂け目


 棄民政策をベースに「流民化・新天地」か「強制帰還・福島封じ込め」がすすんでいる。
 全国へ離散し「流民」化し息を潜めて暮らす人々。賠償打ち切り強制帰還政策による「福島封じ込め」「隔離分断政策」は圧倒的である。しかし、今さら 福島に戻れるだろうか。避難者の刻印はつきまとう。
 残った人々の中で、分断の傷は「触らない」という装いの中にかろうじてバランスを保っている。世界的包囲網と多重な言説が仕掛けられたエートス・プ ロジェクトの中で、自分を納得させ、暮らしを継続することに専念せざるを得ない。
 汚染/非汚染、安全/危険、避難/残留、帰還/移住、100ミリシーベルト/20ミリ/1ミリ、学校給食での地産地消の意図的推進・・・分断の言説 は事欠かない。被害住民の団結・結集のスローガンは粉砕された。東電と国に対する人民裁判も砕かれた。
 地域社会のいたるところに裂け目があり、長きに虐げられても忍従深く共同体を維持してきた(と思われる)かつての福島ではなくなったようだ。もはや この裂け目を超えるようなことはほとんど無理ではないかと思えるほどだ。
 福島の被害者は、まるで「不良債権」か「迷惑者」のような扱いで、いつのまにか社会の荷物として「復興を遅らせる加害者」扱いされているかのよう だ。かつて九州南西部水俣に溜まっていた「流民」は、国家と企業によって朝鮮植民地に日本窒素肥料興南工場に送られ、朝鮮の人々を被支配者としてあて がわれた。
 歴史の被害を背負い込むというのはこういうことなのか。
 「人民の経験」とは常に分断され封じ込められ、記憶も水没させられる。しかし、その当事者のみ骨の髄までその運命を刻印するにちがいない。「福島連 帯」とは、深く沈潜して怨嗟を撓める(槌でたたいて固める)ことにあるように思える。
 共同体の外から画策された、解決されがたい民衆の内部分裂への開襞部を癒やし、埋め合わせる闘いははじまったばかりである。人々の性(さが)の苦し い経験こそを大事にしたい。
 私は後半生、恨みをもって告発し続けることにした。だが、これだけの被害を受けて、東電からも無視され、電気を止めると恫喝されてもなお、生協の若 いリーダーたちは「争いを好まない」そうだ。こうした「穏健さ」こそが歴史当事者性を喪失させる社会の圧倒的な力と言わざるを得ない。やはり首都圏は 壊滅すべきだったのだ。

したたかな権力


 関東大震災、阪神大震災は「都市の震災」だった。東日本大震災は虐げられた歴史を持つ「地方の災害」だった。
 福島は歴史を繰り返すように蹴散らかされて、脅迫的帰還で封じ込められる。
 4号機も倒壊し東京も避難区域となっていれば、関西に避難民の山が押し寄せ、首都機能は暫定的に関西に移しながら、時間はかかるだろうが、関東大震 災後のように壊滅から再デザインされるであろう。その間、権力維持はつつがなくおこなわれただろう。ゼネコンによる東北復興どころか、世界最大量の資 本が跋扈し列島改造バブルとなったであろう。リセットされて「希望の帰還」になったかもしれない。そうして人々の健康はひねくれてもなお、補償もな く、広島・長崎、水俣病のように死ぬのを待つ政策がとられたであろう。
 福井の原発事故で京都・大阪を中心に関西が被ばく汚染され、避難となった場合はどうなっていたであろうか。まあ、福島に準じて切り捨てられたであろ う。
 その点で、虐げてきた地方、福島の事故くらいは、猫の手(?)をひねるようなものだったのかもしれない。だが我々は折られた手足を引きずっても抵抗 する。
 日本の国家官僚は、チェルノブイリ事故から5年後には補償負担に耐えられず国家破綻したソビエトを素早く教訓化していた。避難指定や住宅補償、健康 調査などを国が認めてしまうと、国民の「既得権益とたかり」にあって国家破綻すると。国会議員による「子ども・被災者支援法」が成立と同時に、官僚は それを意思統一し、一切の補償を切り縮め、国民を甘やかせないように万全の包囲網を敷いて支援法の骨抜きを図り成功した。その冷厳さを「暴言ツイッ ター」をマスコミにリークしてまで、国民に思い知らせた。
 我々は、福島の市民による健康検診に連動し、その周縁部である関東圏で「関東子ども健康調査支援基金」を作り、最後まで抵抗の砦を築く。

「人民の経験」


 田中正造は「人民は人民の経験を信じて一歩も譲るべからず、又動くべからず」と言う。
 私はテレビを見ないのでわからないが、生協の若い女性理事から、NHK大河ドラマの「八重の桜」は明治政府に駆逐され迫害された福島の民衆の怨嗟の ドラマだったそうだ。彼女は「歴史は権力側によって書かれることを知った。被支配の側からの視点をもたなければ・・・」と。
 東海第2原発訴訟の弁論に行く途中のサービスエリアでいっしょに昼食をとりながら、組合員の原告から聞いたのだが、テレビで足尾鉱毒事件と田中正造 にかかわるドラマがあったそうだ。驚いたのは福田英子の名前がその口から出たことだった。高校時代、私は彼女に惹かれていた。大阪事件から朝鮮半島に 逃げ延び本国革命を工作した彼女の行動力とその決意をしたためた文章(「妾の半生涯」)は私の精神のひとつの核になっている。40年後まさかその名を 組合員から聞こうとは。話は大杉栄と伊藤野枝その四女のルイさんに至り、彼女の生きざまを小説にした松下竜一さん、その「暗闇の思想」を信念とされて いる小出裕章さんの話にまでなった。常総生協が掲げる「健土健民」も、茨城から田中正造の元にかけつけ足尾鉱毒事件をその目で見た黒澤酉蔵から受け継 ぎ、今そのお孫さんのいるサツラク農協から牛乳を頂いていること、「有機農業」の名命は一楽照雄(日本有機農業研究会初代理事長)が黒澤翁から聞き出 した「天地有機」に拠ることなどに話は及んだ。なんと人々の中に脈々と歴史が引き継がれている。
 民衆の抵抗の歴史の文脈が必要だ。
 松下竜一さんが言うように、「暗闇に潜むということは、なにかしら思惟を根源的な方向へとしずめていく気がする」。
 支配―被支配関係を歴史的・集団的に刻印する社会は、危機に直面したとき、その暗黒部を顕在化させ、人々の根源的な歴史的脈絡もつなげてゆくように 思う。どちらに有意に振れるかは、現在の支配の力関係に依存する。しかし被支配の鬱積と怨は振幅を増幅させる秘め事でもあるように思われる。
 我々は地勢的にも外縁部から淡々と連帯する。チェルノブイリ27年、福島はまだ3年。まだ緒戦・序盤戦で、原子力資本・国家に対する、民衆・地方・ 市民の抵抗ははじまったばかりだ。ふふふ。   (2014年3月4日)


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