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研究会報告:たべもの歴史研究会
玉城哲の水田形成史論をめぐって

  
(特)日本有機農業研究会幹事の本野一郎さんを講師に実施している新規研究会「たべもの歴史研究会―“文明のたべもの史観”にむけて」。以下、第7回の内容をかいつまんで紹介する。

 前回(第6回)は、中尾佐助の提唱した「照葉樹林文化論」を軸に、文化の伝播・継承のありようについて検討しました。今回は、玉城哲による水田形成史をもとに、我が国における農耕文化の発展過程を概観します。

 照葉樹林文化圏の末端に位置する日本列島に渡来した「稲作」が、いくつかの過程を経て日本社会に定着し、日本人の生存に不可欠な基盤となったことは著らかです。農業水利の専門家であった玉城哲は、日本の歴史を稲作の歴史、さらには稲という作物ではなく水田の歴史として捉えることで、日本人自身を知るひとつの手掛かりを求めようとしました。

水田開発を概観する

弥生期までの稲作は、沼のような湿地帯に杭や矢板を打ち、自然の恵みとしての水に依存する「沼田」でした。弥生期の遺構である登呂遺跡(静岡県)を見れば、当時の稲作が沼に杭を打っただけの湿地に田植えを行っただけのものであったことがよくわかります。
  人工的な水の制御、すなわち灌漑を伴わない稲作に適した土地は多くないため、当時の稲作は点として散在するものでしかなく、多くの人口を支えうるものではありませんでした。水田が面として広がりをもち、多くの人口を支える食料源となるためには、水の制御をおこなうための井堰灌漑と、渇水に備え水を蓄えるための溜池の建設が、そしてこれらの建設にはある水準以上の土木技術と、土木工事をおこない得るだけの労働力を動員できる政治体制が必要になります。
  これらの出現によって実現したのが「池田」です。例えば奈良盆地を航空写真で見れば黒い斑点ばっかりです。私が住んでいる播磨地方も穴だらけ。これらは全部池です。この池から沼状態の水田をいくつもいくつも分岐させていく、これが水利です。この時代の最大の池は仁徳天皇陵です。われわれがいま、天皇陵には堀がつきものですが、あれは敵に侵入されないためではないんです。あんだけの土木技術を用いてお墓だけをつくるのはもったいないから、周りを池にしてあれを田んぼ形成に使ったわけです。
  続いて登場するのが「谷地田」です。関東平野などでは「ヤマンタニ」などと呼ばれます。関東平野というのは、実は平野ではなくて、関東ローム層である武蔵野台地に細い川がいくつも流れ、浅い谷筋を形成しながら東京湾へ流れ込んでいく、台地を中心とする地形です。この台地の上を流れる細い川沿いに一つひとつ水田と畑を開発していった。これが「谷地田」です。この「谷地田」が、関東武士の富の蓄積力を将来的に作り出すことになります。源頼朝が鎌倉に幕府を開き、武士階級の統治が始まる。「いざ鎌倉」と頼朝が号令をかけたら馳せ参じる武士階級とは、この田んぼを直接所有して耕していた人々です。「いざ鎌倉」で馳せ参じて戦争にいって、壇ノ浦で平家を打ち落としたわけです。で、権力を握った。この谷地田=山田の形成っていうのは関東平野から生まれたと。そういう意味で武士階級の時代を切り開いたのは山田でした。
  さらに時代は下ります。いままで述べてきたような水田開発では、どうしても耕作地としてのまとまりに欠け、大きな人口を養うことができません。養うことのできる人口の大きさは、そのまま動員できる軍事力に比例します。そこで各地の土豪は、大河川の治水による平野部の水田開発に着手します。
  たとえば、急流で知られる天竜川の治水をおこなったのが今川氏と今川氏を打ち破った織田氏です。彼らは天竜川をコントロールして、その水を駿河の平野部の水田開発に利用しました。そこで蓄えた力をもって尾張名古屋、つまり濃尾平野に進出します。濃尾平野にその土木技術を拡張して織田氏が勢力圏を拡張していきます。このような開発は1500年から1600年の僅か100年のあいだに、日本各地でおこなわれました。関東平野の水利は利根川を治めた徳川氏が整えましたし、武田信玄は甲府盆地に流れ込む急流をみんなコントロールして、甲府盆地を全部水田に変えました。それから上杉謙信、彼も新潟平野をコントロールしました。日本の大きな川を土木技術でコントロールして、灌漑用水として平野部に流し込むことに成功した人々が各地の大名、戦国大名にのし上がっていくわけです。戦国大名は100年かけて水田開発競争をしていたんですね。
  地理の授業で日本で一番大きな平野はどこですか?ということを必ず習います。1位は関東平野ですね。一番大きな耕作地を確保した勢力が一番兵力を握り、一番富を握る。従って、関東平野を握る徳川が勝つことは、水田形成史という歴史からみると、必然だったということがわかります。
  さて、戦国時代が終わり徳川の世になって、さらに水田開発が進むわけですが。これは品種改良によって稲作の北限を上げていくとともに、日本中の河川の上流に向かって棚田を形成していったということでもあります。「水田にできるところはすべて水田にしよう」という情熱すら感じられるこの時期の水田開発は、もっぱら町人の請負によるものでした。つまり、商売で儲けた人たちがその財力をもって新田開発に投資をし、そこで生産した米から利鞘をぶんどって、ますます超え太っていくという構造が生まれたのです。
  徳川300年の平和のなかで、商人が力を得ていった理由は町人請負新田開発なんです。彼らは富の蓄積を繰り返して強固な基盤を求め、その結果、ありとあらゆるところに水田ができてしまった。これはある意味で過剰開発なんです。過剰開発の結果、何が起こるかというのは、日本の近代史を考える上でものすごく大事な話です。
   弥生時代の沼田から1500年の戦国時代が始まるまでの1500年間に、約100万ヘクタールの水田が形成されたということがわかっています。そんなに飛躍的な土木開発の技術が拡大したのではなくて、ゆったりとした右肩上がりで増えていったものと考えられます。この開発ペースにに連れて、人口も増えていきます。
  次の100年、つまり戦国時代から江戸時代が始まるまでの100年間の戦国大名の新田開発の勢いっていうのは凄かったんです。まったく手付かずの平野部を全部、水田という富の生み出す宝に生まれ変わらせることで、それまでの1500年と同じぐらいの水田を作り上げたわけですから。この約100万ヘクタールの開発っていうのは凄い勢いだったと思います。ある意味ではロマン溢れる時代。殺し合いはしてたんだけれども、一人の人間がのし上がって大成功を収めることもできました。この凄い下克上の時代は、日本の歴史のなかで唯一「フロンティア」と呼びうる流動的な100年だったのだろうと思います。
  ここまでで水田は約200万ヘクタールになり、人口がグッと増えます。その後、江戸時代の280年ぐらいのあいだに、さらにまた約100万ヘクタール、町人が水田を開発します。
  都合、約300万ヘクタールの水田開発があったからこそ、明治維新のときに明治政府は富国強兵政策を取ることができました。日本が欧米の植民地にならなかった理由はここにあると言ってもよいでしょう。日本列島全土に張り巡らせた富の創出装置が、この約300万ヘクタールの水田にあった。というふうに玉城哲は考えたわけです。

水争いが齎した日本人の集団主義

さて、先ほど私は、江戸期の町人請負新田開発が過剰開発だったと言いました。実は、水田開発が約240万ヘクタールぐらいになったときに、水が足りなくなってしまったんです。しかし、人々は次々と上流に棚田を作り上げていって、新田開発という投資を続けたのです。水は上流にあるのですから、上流に田んぼをつくったら水は先に確保できます。だから、上流に水田をつくります。ところが、そうすれば当然、下の水田に水が不足するようになります。ここから「水利権」という発想がでてきます。上流と下流が絶えず水争いをするようになり、日本各地で大岡越前守のような人が大岡裁きのようなことを求められました。水利を巡る殺し合いを殺し合いにならんように、両方ともが命をつなげるように裁いたわけです。そこのなかから何が生まれてきたのか。いまの近代国家といわれる日本の近代文明のなかに生き残ってきた集落の形成です。
  もう一つ、水田が約300万ヘクタールになって明治維新を迎えましたね。それからもまだ日本の国は水田をつくる場所も能力もありました。近代に入るとポンプアップで水を上に上げることができるわけですから、さらに上へ上へと約50万ヘクタールの水田を作り、合わせて約350万ヘクタールの水田が戦後の人口爆発を支えたのです。
  しかも、土壌改良と稲作技術が近代化されることを通じて、収量も上がります。それでいよいよ米の生産が過剰になって困る、という話が出てくるんです。それが1971年、減反政策のスタートです。2000年間の歴史の中で初めて「米をつくることが悪いことだ」と日本人が考えたのです。これはみんなショックだったでしょう。稲作農家は誇りを奪われました。減反政策の決定的な間違いはそこだと、僕は思っています。
  前述のとおり、私たち日本人が水田を300万ヘクタールつくるのに、約2000年かかりました。そして、何とこの減反政策の30年ぐらいで、約100万ヘクタールの水田を失いました。僅か30年で1000年の仕事をパーにしたのです。これはもう元には戻りません。今、少子化が社会問題とされていますが、実は田んぼが減っていくということと、人口が減っていくということはパラレルに起こっています。水田が350万ヘクタールまでいって、1億2000万人が生きてこれました。今、水田が350万haからから100万ヘクタール減ったのですから、人口も約3割減らさないと勘定が合いません。実際に、人口がいずれ8000万になるといった予測も出ていますね。日本列島の風土から言っても、これから先、250万の田んぼで人を養っていくのは8000万人が限度なのでしょう。
  過剰開発をしたから集落に従属する人々が生まれ、とにかく村のいうことさえ聞けばよい、お上のことばかり聞いてればなんとか生きていけるという仕組みを、そのまま近代国家に引き継いでしまったのだと。

新たな共同体原理を求めて

私は、この江戸中期から始まる農村共同体の負の側面と徹底的に戦いました。そして勝てなかったけど負けもしなかった。生き延びた。農村のなかで生き延びた。そのなかで学んだことはいっぱいあります。お陰さまで、と感謝する気持ちもあります。そこでつくった多くの仲間もいます。だけど、全体としてみれば、日本の国家建設というのは極めて歪んだかたちで近代を迎えて、近代のなかで個人を解放するということが一つもなかった。ヨーロッパで近代をみな志して近代革命をやった人々っていうのは、人間の解放、個人の解放を、個人の自立を目指したわけです。明治維新以降、日本人が個人として解放されたことは一度もありませんでした。だから、全体の一部でしかあり得ない存在としての日本人、これをいまどう解くかが問われていると考えます。
  私は長らく集落論においては集落擁護派でした。それは日本の共同体のベースを形作って、なおかつ、そこから展望を見出す以外にな、資本主義をひっくり返すことはできない、と考えていたからです。その一方で、前述のように集落の存在が非常にマイナスな役割を果たしたというのも事実です。私は集落と闘ってきましたし、また世話にもなってきたとも認識しています。
  私は、祝島の原発反対運動の30年の歴史に、集落共同体のもつ力を見出しました。彼らの場合は、海のなかから生み出せる自然に依存した生活、生産体系が自前のものとしてあります。祝島では、海から採れるヒジキの3分の1は会員制で売り払うけれども、3分の2はみんな贈答用に送るのだそうですね。そうすると、送り先からお返しがくるんだと。お返しはボンレスハムだったり何だったりと多種多様であり、そのお返しがあるためにわざわざ何かを買う必要がないのだとか。この話を僕は聞いて非常に感銘を受けたんだけれども、このような営みによって支えられた強みを共同体が持っていたからこそ、お金による切り崩しにも崩れませんでした。
  反公害闘争を闘った漁民や農民たちは皆、共同体に依拠し自然と共に生きる人々として、近代の尖兵である工場の煙や排水といった毒物を流す、自然を汚す者どもと闘ってきました。そういう人々の意識が本当に近代を超えて新たな共同体の指針になりうるかどうかということを問題意識として、改めて集落共同体について捉え直しているところです。

(研究所事務局)


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