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講演学習会報告:「『永続敗戦』としての現在」
講師:白井聡氏(政治学・政治思想)

 当研究所では8月24日、「『永続敗戦』としての現在」と題して、近著『永続敗戦論』(太田出版、2013年)において、戦後から今日に至る政治情況を、敗戦の否認と際限なき対米従属を続ける「永続敗戦」の状態であると喝破した白井聡氏をお招きし、現状と今後の展望を伺う学習講演会をを実施した。当日は45名ほどの参加者を得て、刺激的かつ有益な議論が展開された。以下、当日の模様を紹介する。

レーニンに学ぶ 

『永続敗戦論』を3月に出版しました。内容的に、それなりに自信を持って出したんですけども、当初はそれ程、話題になりませんでした。6月に、経済を専門にしておられる水野和夫さんが朝日新聞で書評を出してくれまして、それがひとつ大きなキッカケとなってどんどんと売れはじめました。現在15,000〜17,000位までいくということが決まっています。私としては勿論、自分の書いたものが売れてくれるのは嬉しくはあるのですが、それ以上に、今の日本社会が抱えている問題の根本とは何なんだという事を考えて、本当の問題というのを自分なりに掴んだというある種の確信がありまして、ここのところを見つめなければ何も本質的に良い事はできない筈だという確信をまとめた本が読まれていることを嬉しく思っています。
じゃ、元々僕はどういう事を研究してきたのかと申しますと、今、東京の新宿にある文化学園大学というところで教えております。政治と社会思想と呼ばれる分野を主に勉強してきたんですが、『永続敗戦論』以外に2冊本を出しています。1冊目は『未完のレーニン』、2冊目は『「物質」の蜂起をめざして−レーニン、<力>の思想』という本です。要はレーニンの研究をやってたんですね。"レーニン"、皆さんご存知だと思いますけれども、つまり革命思想ですね。何でこんなものを研究してきたのかと言いますと、今大学においてレーニンを研究するなんて全然流行らないんですね。全く流行らないテーマです。大学にも社会主義者だとかマルクス主義者というふうに自己規してきた人というのは、かつては数多くおられたわけですけども、90年代、2000年代に入りますと雪崩を打つように立場を変えていく。特にマルクスは今でも重んじられている側面は多いですけれども、レーニンとなりますと、これは非常に評判が悪い。結局ソ連がろくでもない体制になっちゃったのは誰のせいだと。昔はスターリンが悪いんじゃないかということで、大体それで皆納得してたんですけども、ソ連が崩壊してしまいますと、スターリンが悪かったのは当然として、結局スターリンがあんな事仕出かす土壌をつくっちゃったのはレーニンだというような話が90年代位になりますとワーッと出てくる状況がありました。
ソ連の体制がよかったかというと、全然そんなことはなかった。けれども、ソ連及び東側が建前としてではあれ労働者と農民が主役の国なんだと、実態はともかく建前としてそう言っている国が存在したことが、一体どういう機能を果たしてきたのかということが、ソ連が崩壊することによって逆に明らかになってきたんですね。
どういうことかというと、当然、自由主義陣営は資本主義でやってきたわけですけども、しかしながら、その資本主義は常にある種言い訳をしなけりゃいけない資本主義でした。つまり社会主義陣営と自由主義陣営、資本主義陣営が争って、競争しているわけで、俺たちこそ正しいんだとそれぞれ自己主張していた。ですから、いくら資本主義社会だと言ったって、むやみやたらに不平等な社会にするわけにいかないわけです。もしそういう社会をつくってしまったら、資本主義の中で生きる人たちは社会主義に心を惹かれてしまうということが起こるわけですよね。どうしても社会主義的要素、再分配とか社会保障とかを資本主義の側も入れて回していかなければならない。しかし社会主義がなくなっちゃったら資本主義は弁明を必要としないわけですね。ある種、自分自身の論理にのみ従って発展していけばよいということになっている。その帰結が今の日本の情況に関して言えば「格差社会」という言葉になりましょうし、或いはアメリカでウォールストリート占拠運動なんかが言った、1%、99%の極端な富の偏在ということが野放図な形で起こる社会になって行った。
ですからレーニンもいろんな間違いを犯したでしょうし、ソ連が本当の意味でいい体制だったかというとかなり疑問があるわけですけれども、しかし、兎にも角にも一度レーニンは勝利したわけです。ある一定のエリアに於いて資本主義に一度勝利して見せたと。そこには何かがあった筈だし、何故勝てたのかということを、ちゃんと振り返らなきゃいけない筈だし、実際に勝てるという事があるんだということを示す必要もある。そういう問題意識を持ってレーニンの研究をやってきたんですね。

永続敗戦論』執筆にいたる2つのきっかけ

そこでじゃ何故、どうして『永続敗戦論』を書いたかという、きっかけについて話を始めたいと思います。
2つきっかけがあります。ひとつは3.11です。そのことについては後で詳しく話そうと思いますけれども、もうひとつのきっかけは、政権交代、2009年の自民党から民主党への政権交代です。しかし、早くも2010年には鳩山政権が崩壊しちゃうわけですね。その後、菅政権になって、野田政権になって、そして全然駄目じゃないかということで再び2012年12月に自民党に政権が戻ったわけです。結局、政権交代、政権交代と言って、あの時は随分大騒ぎをしたのに、これは一体なんだったんだろうかという事。まだ菅首相の頃でしたけども、あるきっかけがあって、論文というか記事みたいなものを書いたことがあったんですが、その時に、僕ひとつのことに気づいたんですね。
それは何かというと、鳩山政権が何で倒れたのかというと、直接的な原因は沖縄の米軍基地問題です。普天間基地移設問題で躓いて、それが直接のキッカケとなっていくわけです。生じた事態そのもの、そのような事が起きた事の必然性は理解できるわけです。しかし世の中がこの退陣劇をどういうふうに受け止めたかということを、皆さん思い出していただきたいのです。さんざんニュースや新聞の当時の報道で何を言われていたかというと、鳩山さんは変な人だという話が延々とされてたんですね。つまり個人の鳩山さんの性格であるとか、政治手法、個人的資質の問題ということが、話題をほぼ独占していた。
その当時、僕は気づかなかったけれども、後になってよく考えて見て、これはとても異常な事であることに気づいたんです。それはどうしてか? 鳩山さんの個人的資質に問題はあるのかもしれない。しかし個人的資質の問題がどうあれ、ともかくアメリカの意思と日本国民の意思というものが普天間基地をめぐって衝突してしまったわけですよね。日本国民の意思としては鳩山首相を押し上げたわけですから最低でも県外という公約を掲げていたわけで、県外移設をしたいというのは日本国民の意思だと言ってよろしいわけです。これに対してアメリカは、当然といえば当然ですけど、「一度決めた話を、お前何をいうんだ、ふざけるんじゃない、そんな話は聞けるかバカヤロウ」ということで衝突してしまった。鳩山さんとしては八方塞がりになっちゃって、結局どっちを取るのか? 日本国民の意思を採るのか、アメリカがこうせいというのを採るのか、選択を迫られた。それで、アメリカがこうしろという事を採るしかないという所まで追い込まれて退陣してしまった。
つまりは、客観的な次元で言えば、アメリカによって間接的にクビにされたということです。驚くべき事に、アメリカによってクビになったんだよねということを、退陣劇が進行していく中で指摘した人がいただろうか。僕の知る限りいないわけですね。延々とメディアは何を言っていたのかというと、「鳩山さんは変な人だ」と個人の問題、つまり出来事の客観的次元というものを、決してちゃんと見ようとしなかった。ある意味、見ないようにする為に政治家個人の資質の問題を言っていたと解釈してもよろしいと思います。さらには、鳩山さん自身も気づいていなかったのかもしれない。退陣会見のときだって「私は敗れた」とは言いませんでした。これは何なんだろうかということを、僕は疑問として考え始めました。それを考えていく中でふっと気づいたのが、『8.15』という日付が何と呼ばれているのかということと、実は全く同じなんだということに気づかされたんです。

「敗戦」を「終戦」と呼ぶ誤魔化し

8月15日は終戦の記念日と普通言われていますね。でもこれは終戦の日じゃないです。『敗戦の日』です。この日、1945年8月15日に玉音放送が流れて、敗戦が国民的事実として確定したわけですよね。日本の戦後の歴史の中で何故かこの日は、「敗戦の日」じゃなくて「終戦の日」だよねっていう、ある種の共同主観性と言いましょうか、常識というものがどういう訳か定着してしまいました。
  敗れた日、つまり負けっていうのを、すり替えた訳ですね。負けたんじゃなくて終ったんだって事にすると、何か自然現象みたいな感じがするわけです。これをもっと言えば、謂わば戦争の天災化と言ってもいいと思います。もちろん戦争は人が行うものなんですが、これが敗戦が終戦というふうに呼びかえられちゃうことによって、戦争の人為性というものが削り取られてしまうというか見えなくなってしまう。みんな国民酷い目に遭った。家が焼かれた、身内が死んだ。だけどそれは、結局のところ天災にあった様なもんだと。もの凄い台風とか、とんでもない天変地異にあって不幸な目に遭ったと。いくら不幸でも天災だったら仕方が無いと諦めるしかないわけです。
  鳩山首相退陣劇の話に戻れば、退陣劇が起こった日本国民の受け止め方ですね。この受け止め方っていうのは、敗戦の事実を見ずにそれを終戦と言い替えちゃうということと、これ実は全く同じ事をやっているんだということに気づいたんです。そういう誤魔化しをやることによって、一体何が隠蔽されたのか、これが本の主題になります。要するに、鳩山退陣劇の場合は何が見えなくなったかというと、日本の戦後民主主義と呼ばれる民主主義体制というものが本当はどういう体制なのかという事、これを見ないで済むようにしたんですね。本当のところ何がわかったかというと、どんな政党が選挙で勝とうが、政権交代はできないんだということがはっきりしてしまった。或いは、可能なる政権交代というのは、言ってみればアメリカが大枠をはめていて、その枠を決してはみださない範囲での政権交代、つまり政権交代じゃない政権交代だったらOKよ、という話な訳ですね。政権交代は不可能であると、或いは政権交代で無い限りに於いて政権交代は可能であるということです。ややこしい言い方になりますけれども、しかしながらこれは客観的な現実です。
しかし、日本人はどうしてもこの事実を見ようとしないわけですね。これが問題だよなとつらつら考えている中で3.11、福島原発の事故に遭遇することになったんです。

福島原発事故でもみられた「敗北の否認」

原子力発電ですが、僕は別に3.11以前でも原発というのは、決して良いものだとは思ってこなかったし、非常にろくでもないものだから出来れば止めた方がよろしいと思っていました。けれど、知識だとか、関心というのは高々その程度のものであって、そんなに実は真剣に考えていなかったわけなんです。ただし、日本は大変地震が多いという地理条件があって、地震に誘発されるような形で大きな事故があるかもしれないと不安には思っていました。
  それで万が一、事故が起こったならば、運転責任者である電力会社がろくでもない振る舞いをどうせするんだろうなというのは、ある意味想定内だったわけですね。今まで福島原発事故が起きた以前の様々な原子力事故において、電力会社がどういう振る舞いをしてきたかということを思えば、大事故が起こった時には誠実に振舞うであろうなどとは、とてもじゃないけど想定できませんので、ろくでもない振る舞いをするだろうなと、これは予測がついた。
  ところが実際、事故が起こってみると、僕にとって想定外のことがたくさん起きました。第一には安全神話の問題です。よく安全神話というのはけしからんと言われますけども、僕は「安全神話はけしからん」というのは、あまり意味の無い言い方と思うんですね。というのは原発をやる以上、安全神話を振りまくしかないんですね。あんなものがもし自分の身近にあって、真剣に考えはじめたら恐くてたまらない。とてもじゃないけど気が休まるものではない、おちおち生活できるものではない。じゃ平気で近くに住むためには、これは安全なんだと思い込むしかないわけです。だから、電力会社や国の側も、これは安全なんだと、日本の原発は決して事故を起こさないと言ってきた。要は嘘、インチキなわけですけれども、これを原発周囲の人間に吹き込むしかないわけですね。これが安全神話というものです。
  問題は何かというと、運転をしていた国と電力会社ですけれども、この当事者たち自身が安全神話の中に取り込まれていたことです。要するに素人に向かって絶対安全なんですというのは、第三者的に見て当然というか、それ以外方法がないです。事故は起こるわけがないんだと言いながら、身内の間では、きっと事故は起きるに違いないというふうに考えて、絶対起こさないように様々な安全対策をするという以外には運転をする方法ありえなかっただろうと思います。ところが、驚くべきことに、素人に対して「日本の原発は事故を決して起こしません」というふうに叫び続けた結果、自分たち自身がそう思い込んでしまっていた。このことは不覚にも僕には想定外でした。
第二に、いまホットなニュースとして水処理、汚染水の処理がどうしようもなくなっています。本当に厳しい状況が露呈しています。そもそも溶け落ちた核燃料をどう取り出すかという、とてつもない想像を絶する困難が待ち構えているわけですけども、その困難にたどり着く以前に、水が手が付けられなくなった。言ってみればこの事故に対する処理の第一歩のところで、既に躓いてこけちゃったんじゃないかと、もう立ち上がれないんじゃないかと、今そういう状況になってきてしまったわけですね。
  なんでこんな事になったんだろうというと、事故処理の体制が根本的におかしいと思います。どうしておかしいかと言ったら、東京電力が第一次的にやってるわけですよね。東京電力は特別な企業とはいえども、一民間企業ですよね。この事故がとにかく何十年かかるかわからないけれど、とにかくどうにかしないといけない、汚染を更に出してしまう様な事態をどうにかして食い止めないといけないということは、今の日本国家が抱えている間違いなく最大の課題ですよね。とすれば、当然の事ながら日本国家が全面的な責任の主体となって取り組むべき問題である。私は全くの常識的な判断としてそう思います。が、しかし現実には東京電力にやらせているわけですよね。これが事故処理対策の根本的な矛盾というかおかしなところですけども、このポイントは何かというと、事故以前の原子力推進対策と全く同じなんです。
  謂わば、国と営利企業である電力会社がいざとなるとお互いに責任をなすり付けあう事が出来るような体勢でもって、ずっと原発推進をやってきたわけです。いま事故処理にどういう体制で臨もうとしてるかというと、同じ体制でやろうとしているわけですよ。恐るべきことです。正に両方が責任をなすり付け合うような体制でやってきたからこそ、こういう重大事故を起こしてしまった。にも関わらず、事故が起きても尚、同じ体制でこの事故を処理しようとしている。適切に処理できるわけがないわけです。
  今回の水の問題は、もう2年前からわかっていた事です。2年前からわかっていたにも関わらず、深刻な事態については見たくない、これは深刻じゃないんだというふうに一生懸命思い込もうとする。これが言ってみれば、この本のキーワードになるんですけれども、日本人のメンタリティーの中に、定着してしまったところの「敗北の否認」です。客観的にどう見ても負けてるんですが、負けてないと、いやまだ負けてないからと、謂わば観念的に解決するというか、誤魔化す。
その結果、どうなるかというと、皆の行動の総和というものが、ひたすら体制維持の方向へと向うわけですね。体制維持ということで考えれば、原子力推進体制がこの過酷事故を経ても尚、基本的に温存されていく体制です。体制維持とここで言いましたけど、もうひとつ含みがあります。それは何かというと、やはり事故直後、やはり慄然とせざるを得なかったのは、個人の安全とか生命とかいった、要するに国民を守るということよりも明らかに体制を維持するという事の方が優先されていると思わざるを得ないような行動がいっぱいあったことです。

あからさまになった対米従属体制

その代表を具体例で挙げれば、スピーディー・システムの件です。これは放射性物質が飛び散った時に、どういうふうに飛んでいくかということをスーパーコンピューターでもって予測計算するシステムです。これには何十億円というお金=税金を使って、長年開発してきていたわけです。じゃ実際、地震が起きて原発事故が起きてこれどうなったか? 全く使わなかったんですね。実際ちゃんと機能していたにも関わらず、そのデータというものは揉み消された、握り潰された。しかも単に握り潰されただけだったらまだしも、ちゃんと米軍だけにはこのデータは提供されていた。
  戦後の日本政府は何なのかという事をこれ以上雄弁に物語るエピソードは、無いかもしれませんね。日本国民なんてどうでもよろしい。日本国民より米軍の方が遥かに重要、大事だというふうに日本の政府自身が思っており、実際にそのように行動しているということです。こういう事が次々に明るみに出てくる中で、当然、私なんかはもう強烈に頭に来ました。本当にどうしようもない国だと、それまで僕はレーニンを専門に研究をやってきたわけですけど、僕のレーニンの2冊の本は、ひと言で要約しちゃえばどういう事を主張しているのかと言えば、やっぱり革命は必要なんだということを書いてたわけですけれども、この3.11が起きてこれまでの僕自身の仕事が過去のものになったと思ったんです。
  革命なんて誰も言わなくなっちゃったこの世の中で、そうは言ったって必要なんですよということを僕は長々と、しつこくしつこく書いてきたわけですけれども。あー、別に俺がこんなこというまでもなく現実の方がそれを証明してくれたと、自分のレーニン研究ももう過去のものだなという感想を、現実に対して持ってたんです。しかし同時に呆然とせざるを得なかった。そういった自分の考え方、感じ方というものと、世の中の大部分の感じ方がこんなにずれているのかという事ですね。物凄くズレがある。
  僕は大学で教えることを仕事にしているわけですが、原発事故が起きて、先程申しましたように全然原子力のことなんて知らなかった。核分裂からエネルギーを取り出して発電するってどうやっているのか、原発と原爆はどこが同じでどこが違うのか、なんていうことはよく知らなかったんですが、まぁにわか勉強しました。にわか勉強をして、それからどういう形で原子力政策というのが日本で、或いは世界で進められてきたのか。そういう事もにわか勉強して大学の講義で学生たちに伝えることをやりました。僕としてはあまりにも当たり前の行動だと思ったんです。これだけ重大なとんでもない事が、この国で起きてしまった。しかし、幸運にしてまだ滅びていない。
これだけの事が起きて、若い人たちに伝えるべきこれ以上大事なことってないんじゃないかと。当然、僕は若い人たちにすぐ伝えないといけないと、あまりにも当然な事だと思いました。けれども、そういうことを実際にやっている大学の先生、大学人がどれくらいいるだろうかというと、数えたわけじゃないから正確なことは言えませんけれども、パーセンテージにしてみたら10%いないと思いますね。5%もいないんじゃないでしょうか。僕にとっては全く信じがたいことです。ここに心理的抑制、ブレーキのようなものがどうやら働いているらしいということが感じ取られます。
  問題は、電力会社が腐敗しているとか、それから経済産業省がとんでもない腐敗官庁だとかいうような所に留まらないという事です。もう市民社会も腐敗している。この2年間、僕は生きていて気持ちが悪いんですね。気持ちが悪いってどういうことかというと、僕はこういう考え方を持つし、こういうふうにお話しているように、それを機会があれば人に向って喋りますけども、どうやら自分の隣人というものは全く別の価値観を持ち、また行動原理を持っているらしい。そして、それは僕にとって全く理解不能であり、多分向こうは僕のことを理解不能だろうと。だとすると、僕にとって気持ち悪い社会、気持ち悪い社会を支えている気持ち悪い行動をする気持ち悪い人たち、これが自分の身の回りにうじゃーっと居るんだということです。その気持ち悪さといったらない。だからこの2年間、何というか隣人が気持ち悪いというふうに、本当に今まで30年ちょい生きてきて、そういうふうな感覚を初めて持っている。本当にこれは不幸な事でもあり、そして耐え難い事でもあります。

誤魔化しの上に築かれた日本の繁栄

この自分が異様と感じる日本の状況がどうしてつくられてきたのかと考えた時、日本の戦後史を貫く、核心に「敗戦」を「終戦」とすり替えた政治的意図があるという、昔から言われてきた問題を再発見しました。そして、このすり替えがうまくいったというのは、何によってかというと、それは戦後の歴史によって、それもかなり長い年月をかけて、このすり替えというのは成功していくわけです。
  このすり替えが成功した最大の理由は何だったか? それは間違いなく経済成長です。要するに、戦後というのは、「平和と繁栄の時代」だというふうに言われてきたわけですね。特にこの繁栄というファクターです。例えば第二次大戦の日本は敗戦国である。例えば中国は自分たちが戦勝国だと言ってるけれども、未だに平均点で見れば日本の方が高い生活水準を実現している。或いはソビエト、ロシアも戦勝国だけども、断然日本の方が生活水準が高いじゃないか、と長年誇ることが出来たわけですね。つまりどういうことかというと、負けたはずなんだけれども、まるであたかも負けてなかったの如くに実感として日本国民は感じる事ができる歴史を歩んできたわけです。だからこういう具合に長年、特に経済成長通じて、敗戦ということが、なんとなく敗戦じゃなく終戦だったんだ、という形で誤魔化すことが成功してきたと思います。
  それにしても何でこんな誤魔化しをしなければならなかったんでしょうか? それは要するに責任問題です。どういうことかと言ったら、誰のせいで最初から負けるとわかっていた太平洋戦争を始めて300万人の死者を出して負けたのか。誰のせいだと言った時に、戦争を指導した層がいるわけですね。その後、戦後の日本はどうなって行ったかというと、この主導層というのがかなりの連続性をもって、戦後の日本の指導層となっていくわけです。要するに、この人たちにとっては、敗戦だったという印象を出来るだけ最小化しなければならない。敗戦の事実がはっきりしてしまうと、「何でお前らまた偉そうな顔してるんだ」という話になっちゃいますから、何とかしてこれを誤魔化したいということになる。それが「敗北の否認」です。
  当然の事ながら、この日本の保守指導層というものは、アメリカに対して頭が上がらないわけです。正にアメリカのバックアップによって自分たちが日本の統治者として引き続き振舞うことが出来るわけですから、アメリカに対しては絶対に頭が上がらない。そういう意味で言えば、この人たちは敗北を否認するどころか、敗北を恐ろしく内面化していきます。アメリカに対する敗北を内面化する。けれども、他方で敗戦を否認しなきゃいけない。これをやる為には、どっかでアメリカに対して負けていることのガス抜きをしないといけない。それが何に向けてかというと、ひとつは対内的にですね、国内に対するもの。これは、さっき述べたように経済的繁栄が最も重要な役割を果たしました。そしてもうひとつは、アジア諸国に対して負けてないと振舞うこと。「永続敗戦」と僕が名づける体制の基本は、今述べた構造です。永続敗戦という奇妙な言葉ですけれども、インスピレーションを得たのは二つで、ロシアのトロツキーによる革命論に出てくる言葉がひとつ。もう一つは、加藤典洋さんという文芸批評家の先生がいますが、20年近く前に『敗戦後論』という本を書いています。かなり話題になった本です。簡単に言うと、加藤さんは「戦後」じゃなくて正確には「敗戦後」でしょう、それを歴史認識の出発点にしなきゃいけない、という話をしている。僕は『永続敗戦論』の中で加藤さんに言及をしていますけども、そこには批判的継承の意図があります。つまり、鳩山の退陣劇を通じてわかったのは何だったのか、3.11を通じてわかった事は何だったかというと、「敗戦後の時代」などというものは実は存在してないじゃないかということです。先程言ったように戦後民主主義なるものは幻想だった。ということは、何が続いているのかと言えば、敗戦をもたらしたレジームというものは基本的に連続している。だとすれば、必ず負ける体制がずっと続いているという事でもあるし、他方で敗北の否認、アメリカに対する敗北の究極的な内面化が続いている。絶対に頭が上がらないわけですね。で、負け続ける。
  何故、負け続ける事になるのかと言ったら、ちゃんと負けを認めた事がないからだと、それをずっと誤魔化し続けたから。ずっと誤魔化し続けて来た故に、ずっと負け続ける様な状態が生まれてしまう。これが「永続敗戦」ということの示す意味であります。皆さんの中にも農業に関わっている方もいらっしゃると思いますけども、何と言っても今TPPの問題が身近な問題として立ちはだかっていると思います。日本の政治家を見ていて、何であんなに弱腰というか、どうしようもないのかと思われると推察しますが、それは何故かという理由は、この永続敗戦の構造にあります。結局、彼らが日本で偉そうな顔をしていられるのは、アメリカさんのおかげですという話ですから、いうこと聞かない訳にはいかない。彼らは、自分を自己保身する為だったら、日本国民の有形無形の財産及び日本国民それ自身と言っていいかもしれませんけれども、それを最後の最後まで売り渡す用意がある、そういった連中じゃないですか。それは第二次大戦で「国体護持」の名の下に起きた事と同じなんですよね。

純化した「永続敗戦」の先にある破綻

最後のまとめに入りたいと思います。刊行後の日本の政治状況に簡単に触れて話をまとめたいと思います。残念ながら、僕が「永続敗戦」と呼ぶ構造をもう叩き壊さない限り僕らには何の明るい未来も無いと思いますが、この構造は叩き壊されるところか、いま純化しているといっていい、そういう状況にあります。純粋永続敗戦みたいになっている状態です。その端的な表れは何かというと自民党の復権です。しかもその自民党たるや、安倍晋三の自民党であるわけですね。自民党にも様々な傾向があるというふうによく言われますけれども、その中でもとりわけ岸信介の孫ということで、戦前との連続性を色濃く感じさせるキャラクターが率いるところの自民党です。ハッキリ言えば極右的なキャラクターです。これに率いられた自民党が復権をする。自民党が他の党を弾圧して、無理矢理そうなったんじゃなくて、あくまで選挙で勝ってそうなっている。勿論、選挙制度の不備があるじゃないかと色々言われますが、総体的に見て最大の得票を取っているというのは間違いない。となると、敗戦の否認というものを、これを続けたいのは日本国民の意思だと思わざるを得ないんですね。ですが、どうせ遅かれ早かれ敗北を認めざるを得なくなるんです。僕が言った敗北の否認、敗戦の否認という態勢はもう持ちません。これは世界の客観的な構造からして無理です。だからそういった意味じゃあんまり、いま自民党が勝っているからといって絶望しなくてもいいのかもしれません。
  大災害の後に右翼政権が人気を集める、これは世界の歴史を見てみて、実はそんなに珍しい現象ではないんですね。つまり非常な不安にかられた時にナショナリズムであるとか、そういったものに人々は依拠したくなるというメンタリティーがある。これはそんなに理解することは難しくないと思いますが。ですから歴史上で数々起こっています。ある時すごく右ブレをする。だけれども、また情勢は大きく変わってきますので、そういう意味では決して安定した状態ではないんです。
他方でまた戦争準備が進んでいます。国家安全保障会議の設立云々ということで、解釈改憲で憲法をいじらずに集団的自衛権の行使もいけるんだという様なことを自民党が言い出している。恐ろしい話です。9条改定も96条も改定すらも必要ないということで押し切ろうとしているわけで、間違いなく政治的に大問題になってくる。
  その先に待ち受けているのは、実は日米同盟の危機です。戦後、日本というのは大日本帝国と根本的に異なる国家体制になったという建前があります。これがあるからこそ、日米同盟は成り立つ。仮に戦前の日本と同じファシズム国家だったら、まさかアメリカが大っぴらにパートナーとするわけいかないでしょう。ところがこの虚構が破綻してしまいました。
  日本の外務省は、「価値外交」という標語を掲げています。価値外交って何でしょうかというと、これは、民主主義、人権という普遍的な価値を大事にする、尊重する国家同士こそが親密な関係を保って行けますよ、というのが価値外交の方針だそうです。これは平たく言えば、アメリカと日本は仲良しだけれども、中国は仲間はずれだよね、という話なんですね。あいつ等は独裁体制だし、人権問題抱えまくりだし、価値観を共有してないよねと。それに対してアメリカと日本は価値観バッチリ共有してますよ、という風に日本側が中国を外して、アメリカに擦り寄りたいというための概念なんです。けれども、アメリカが「おい、ちょっと待て」と、「お前ら俺らと本当に価値観共有してるの?」という話になってきちゃったわけですね。これは、歴史認識問題をめぐって噴出してきた問題で、安倍さんは敗北を否認したい人たちの代表なわけですね。本当は日本は悪くないんだというのが本音です。これまでは、対アジア関係に於いてのみ、こういった姿勢が、靖国参拝問題もそうですけれども、外交問題となると言われてきましたけれども、しかし突き詰めればアメリカの関係に於いても大問題にならざるを得ないのは当然なわけです。アメリカによる戦後対日処理を否定するのか、という話にならざるを得ないからです。
  安倍さん、2月に訪米してTPPについて大いに前に進めますと、日本でコンセンサスが取れて無いにも関わらず、かなり強引にいったわけです。つまり、大きなお土産を持って行った。大きなお土産をポチが咥えて行きまして、そして、尻尾を千切れんばかりに振って、いやもっと正確に言うと寝そべってお腹を見せて"ご主人様"とやって見せたんですが、オバマは握手をしてくれないんです。これこそ想定外じゃないですか。どんなにご機嫌とっても振り向いてくれない。これは戦後のずっとほぼ一貫してきた保守政治、戦後の日米関係史の中で、極めて新しい事が起きたというべきではないでしょうか。
  こうなったらアメリカがどう出てくるかなって事が、日本のシステムが変わっていく唯一の契機と見なければならない様な、そんな情けない状態というのが現状ですね。希望の無い話ですが。

「永続敗戦」後の未来に向けて

もう少し希望のある話を、最後にひとつだけ付け加えたいと思うんですが、それは沖縄です。沖縄の事に関して関心を持っておられる方、たくさんいらっしゃると思いますけども、沖縄の政治は、日本の本土と対立するような形になっているわけです。例えば、仲井真知事がオスプレイに関して、強行配備するなら全基地閉鎖に行く、というような事をいう。仲井真さんって元々は霞ヶ関で官僚をやっていた人なわけで、基本、保守なわけです。それから沖縄自民党も辺野古に関して「NO」だと言っているわけですね。つまり、もう沖縄は自民党まで含めて、全部反中央政府になっているわけですね。ですから沖縄独立運動というものが、今後非常に強くなってくるだろうという事は、容易に予想がつくことだと思います。
元外交官、作家で『国家の罠』を書いた佐藤優さんが、ずっと前からこう言っていました。ソ連崩壊を目撃したけれども、今の日本がそれに重なるんだと、崩壊しつつあるんだということをおっしゃっていました。僕は、それに対して言い過ぎなんじゃないという気がしていたんですが、ここ2〜3年、佐藤さんの言っておられることは、その通りだと思うようになりました。沖縄は何なのかと言ったら、ソ連におけるバルト三国の立ち位置ですね。バルト三国だってソ連の体制末期に至るまで本当に独立するなんて事は、勿論、外国も思って無かったし、ソ連の人も思ってなかったし、恐らくバルト三国の人たち本人が、当事者ですらそう思ってなかったと思う。ところが急速に、絶対独立するんだということになって、実際出来てしまうわけですね。だから沖縄独立だなんて言ったって、殆どの人間が本土の人間は、そんなの夢物語と思っているし、ひょっとすると沖縄の人間だって殆ど夢物語だと思っている方が多いだろうと思います。しかし、それは急速に動く時は動くわけですよね。
沖縄の独立、言い換えれば日本からの離脱が起きた場合に、もちろん物凄く混乱をはらみますけども、起きた場合に本土はどうなるんだ、ということになる訳ですね。バルト三国が独立をして、 その後、ソ連崩壊に向ったわけだけれども、あの時、何が起きたかというと、「あ、こういう事していいんだ」ということにロシア人が気づいちゃったわけです。ロシア人たちもバルト三国の有様を見て、こういうことやっちゃっていいんだということに気づいた。それによってソ連の体制が崩壊の道を走り始めるわけです。
ただし、私が述べたような言い方は、危険性をはらんでいます。沖縄の人たちを、ある種、日本を変革するための尖兵、前衛に立たせるという話に、間違えれば成りかねない話でありますから、慎重な物言いをしなければならないと思っています。けれども情勢としてはある。我々は、我々として出来ることをやっていかなくちゃいけないし、それは何のか、ということを皆で考えていかなくちゃいけないというふうに思っています。長くなりましたが、私からの話は以上で終らせいただきたいと思います。

(研究会事務局)


講演を聴いて

白井さんのご講演を聴きながら、大阪の公立学校で卒業式・入学式における「日の丸・君が代への不起立不斉唱」を貫き処分を受けている教員の方々を支援する集会に参加したときのことを思い出していました。
集会の席上、減給の不当処分を受けている辻谷博子さんは、自らの不起立不斉唱を選んだ動機について次のように述べておられました。
「母は、戦争中の出来事について『あの頃は仕方なかった』と言います。私は、自分の生きる時代のことを『仕方なかった』とは言いたくないんです」。
翻って、国民に日の丸・君が代への忠誠を誓わせ、国家への犠牲を強いようとする人々はどうでしょうか。
憲法史学者の古関彰一氏が『世界』5月号に「自民党改憲案の書かれざる一条」という論文を書いておられます。その中で古関氏は、昨年4月に自民党が発表した日本国憲法改正草案の中に開戦規定が書かれていない理由を次のように分析しています。
「自民党改憲案が、現行憲法の平和主義を放棄し、戦争のできる国家への転換を目的としていることは、(一部では)よく知られているが、それにも拘わらず、通常、戦争を想定している国の憲法には規定されているはずの開戦規定がどこにもない」が、これは「『武力攻撃に至るおそれのある事態』などを判断するのは、実質的に米軍であり、米軍が出動した際に、自衛隊が米軍の後について補給・輸送・武力行使等の『支援』を行う、すなわち、米軍の補完部隊として世界中で米軍の行う戦争に『協力』できるようにすることが憲法改正の最大目的であるから」だと。
白井さんのご講演を聴く中で、自民党改憲案における開戦規定の不在の理由が私の中で明白になるとともに、我が国の保守指導者のくだらなさを改めて思い知りました。
「戦争のできる、普通の国」を目指しているはずの彼らが「普通の国家指導者なら自前で下すべき決断」から逃げ回り、米国に委ねようとしているという覚悟のなさは、醜悪の一言に尽きます。
敗戦の現実から目を逸らし、ただただ対米従属を続けることで自己の延命を図る我が国の保守指導者に引導を渡すため、白井さんのような理論家や辻谷さんのような実践者との連帯を広げ、抵抗の一翼を担いたいという思いを新たにした次第です。

(横谷和彦)


地域・アソシエーション研究所 115号の印刷データ PDF
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