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参加報告:福島県被災地訪問
3・11から2年、福島はいま(上)

 
去る6月28日から30日にかけて、関西よつ葉連絡会研修部会の主宰により、福島県の飯舘村、相馬市、南相馬市、福島市の4ヵ所を回って現状を見学する訪問企画が実施され、当研究所からも参加した。奇しくも約1年前、同じく福島県の数ヶ所を見学するツアーに参加した経験があり、この1年にわたる変化を知る機会となった。以下、その模様をかいつまんで紹介したい。

「飯舘村」の悲劇 

最初の訪問先は飯舘村である。同村で酪農を営み、現在は隣の伊達市にある仮設住宅に避難中の長谷川健一さんに、村内を案内していただいた。
  飯舘村は、福島第1原発から北西に30〜45km、阿武隈山系の中央部に位置し、面積の7割以上を山林が占める。人口は約6200人(約1800戸)で、多くが第一次産業に従事。「心をこめて」「つつましく」という意味を示す地元の言葉「までい」を合言葉に合併も拒否し、農山村の伝統的な暮らしの再評価を軸とする村づくりを行ってきた。
  だが、そんな村の日常は、3・11で急変した。言うまでもなく、第1原発事故の影響である。とくに、3月14日〜15日に放出された事故後最大量の放射性物質は、北西への風に乗って飯舘村の方向へ流れ、降雪によって村内全域に降り注ぐこととなった。15日18時20分、空間線量は村役場近辺で公称44.7μSv/hの最高値を記録した。
  こうして、村は計画的避難区域に指定され、住民たちは村外各所へ避難することになるが、長谷川さんによれば、この間の時期には非常に大きな問題が含まれているという。
  まず、周知のように、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)によって放射性物質の放出量や方向が判明していたにもかかわらず、政府が自治体に公表しなかったこと、また村当局が高線量を把握しながら公表を渋り、住民の避難を遅らせようとしたこと、である。
  とくに後者では、政府による計画的避難区域の指定(4月11日)を経て、6月22日に全村民の約9割が避難を終えるまでに3ヵ月を要している。しかも、村当局はその間、かの山下俊一氏をはじめとする御用学者を招いて「放射能安全講演」を行い、住民の不安を逸らす一方、今中哲司氏ら原発に反対の学者やジャーナリストによる調査結果や「避難すべき」との助言には、一切耳を貸さなかったらしい。ちなみに、15日の最高線量で、独自調査したジャーナリストから長谷川さんが聞いた数値は、100μSv/hを超えていたという。
  その結果、住民は極めて深刻な影響を被ることとなった。すなわち、放射線量の高い中で最大3ヵ月以上も生活させられたことによって、大量の被曝を余儀なくされたこと、にもかかわらず国も村もこうした初期の被曝線量を把握していないこと、である。実際、村当局は事故当時から現在まで、あろうことか子どもたちを含め、村民の誰にも積算線量計を持たせていない。飯舘村に比べて線量の低い周辺自治体でさえ、いち早く住民に持たせたというのに、である。
  長谷川さんは、こうした村当局、村長の姿勢について、村の存続を自己目的化するあまり、住民の健康を犠牲にして省みない、と批判する。もともと、長谷川さんと村長は同じ酪農家仲間で、村づくりの展望を共有し、支え合ってきた。それが、いまでは「背と腹」の関係になってしまったという。これも、3・11の生んだ悲劇の一つだろう。
  昨年6月15日、政府は飯舘村に対する計画的避難区域の設定を見直し、年間積算放射線量を基準に、以下の3区域へ再編した。まず、年間線量20mSv以下の「避難指示解除準備区域」。居住以外の活動は可能とされ、村の20行政区のうち6区が該当する。次に、年間線量20mSv超・50mSv以下の「居住制限区域」。引き続き避難が必要とされ、該当するのは13区。さらに、年間線量50mSv超の「帰還困難区域」。少なくとも5年間は帰還が困難とされ、1区のみ該当する。
  以上の区分を基礎として、政府では、放射性物質の「除染」を通じて年間の積算線量を下げ、一定の基準値以下になれば住民の帰還を促進していく方針である。現在の目標基準値は民主党政権時代に決められた「1mSv」だが、現政権は達成が難しいとして、新たな基準値の策定を目論んでいる。一方、こうした趨勢を受け、できるだけ早期の帰還を目標に掲げる飯舘村当局は、年間積算線量「5mSv」の基準値設定を政府に要請しようとしている。長谷川さんによれば、「5mSv」とは、病院のレントゲン室などに適用される「放射線管理区域」と同じである。「なぜ飯舘村にだけ、別の基準値が必要なのか」と憤りを隠せない。
  「除染」を通じた住民の帰還で原発事故の早期収束を既成事実化しようと目論む国。村の存続に向けた住民の早期帰還を第一義として、基準値を緩和しようとする村当局。両者の利害が一致する中で忘れ去られていくのは、本来は最も重視されるべき住民の意思と健康である。
  それゆえ、長谷川さんは現在、こうした事態の異常さを明らかにし、飯舘村住民の健康と人権が守られるように願い、国内外を訪れては、自らの経験した事実を訴えている。

     福島訪問の行程


6月28日(金)
●飯舘村 伊達市の仮設住宅に避難されている飯舘村の酪農家で前田区区長を務める長谷川健一さんに村内を案内いただき、お話をうかがう。

6月29日(土)
●相馬市 市内の仮設店舗にある報徳庵で、NPO相馬はらがま朝市クラブ代表の高橋永真さんから現状などをうかがう。高橋さんの案内で相馬市沿海部回り、再建した加工場などを見学。子育て世帯向けに水など物資供給や育児ネットワークづくりなどを支援する一般社団法人ブリッジ・フォー・フクシマの相馬基地を訪問。
●南相馬市小高区 相馬市に避難中で、小高区民が集まるNPOを設立した久米静香さんの案内で、国道6号線を南下し、第1原発から5km、浪江町と双葉町との境界あたりまで見学。小高区各所を回り、久米さんのご自宅で話をうかがう。
●相馬市 工務店経営の傍ら、関西よつ葉グループを含む県外産野菜の販売や放射能測定を行う、ふるうた建築放射能測定所の古宇田秀明さんからお話をうかがう。

6月30日(日)
●福島市 市の中心部にある市民放射能測定所(CRMS)福島の清水義広さんから、活動の経過と現状、課題などをうかがう。

 

「除染」モデル事業の現場で

それにしても、今回の訪問で思い知らされたのは、鳴り物入りで喧伝されている「除染」のお粗末な実態である。
  伊達市から国道399号線を登り、峠を越えて景色が開けたと思うと、そこが飯舘村である。われわれが訪問した6月末、村は折しもオホーツク海気団から吹き寄せる冷たく湿った北東風「やませ」に見舞われ、霧の中にあった。
  長谷川さんが区長を務める前田区を通り、村で最初に除染のモデル事業が行われた草野区へ進む。その道すがら、田畑だったはずの平地はすべて雑草に覆われ、時折すれ違う警備車輌以外、人っ子一人見あたらない。
  昨年6月末から9月にかけて、国は草野区の400平米を対象に除染モデル事業を行った。小学校、民家、田畑が混在していることが、対象地に選ばれた理由らしい。その内容は、家屋の屋根などの拭き取り、枯れ木などの堆積物の除去、表土の剥ぎ取りである。要した費用は計6億円。およそ相場などあろうはずもないが、結構な金額である。それでも、実際に効果があればよい。
  ところが、長谷川さんによれば、そうではない。小学校の校庭は重機で表土を剥いだことで線量が下がったが、学校の敷地を取り囲むのり面は、すべて雑草などを刈ったにもかかわらず、いったん下がった線量が再び戻っているという。
  実際に手持ちの測定器で測定してみた。空間線量は1.8μSv/hで一般的な水準からすれば高めだが、計画的避難区域だったことを考えれば、異常とは言えないだろう。しかし、のり面の雑草の上に置いてみると、数値はみるみるうちに上昇し、最終的には5.7μSv/hにまで到達した。
  「モデル事業として除染をやったにもかかわらず、いまこの数値だということは、記録しといたほうがいいよ」と長谷川さん。
  とはいえ、問題はこれだけではない。除染をすれば、必ず放射性物質を含んだ廃棄物が出る。もちろん、それらは一般のゴミのようには処分できない。本来は、国が最終的な処分地を決定し、そのための仮置き場を設置する、という手順で処理することになっている。ところが、実際には最終的な処分地はおろか仮置き場も決まっていないため、除染現場の付近で、通称「フレコンバッグ」に入れたままシートをかけられ、野積みにされている。わずか400平米のモデル事業にもかかわらず、かなりの量である。飯舘村の本格的な除染は、最近はじまったばかりの段階だ。これから除染が進めば、いったいどうなるのだろうか。

「計画的避難」とは何だったのか

次に、同じ草野区の別の場所に向かう。ここは、農水省東北農政局が2012年5月、農地の除染の実証試験工事として、表土を5cm削り取り、その上に新たに覆土を行った水田である。汚染されていない土で覆えば、線量が下がるのは当然だ。しかし、長谷川さんによれば、場所によっては再び上昇しているところもあるらしい。どうも、山林から放射性物質がきているようだが、この点では実証試験などされておらず、詳しいことは分からないという。

●野積みにされた「除染」の廃棄物(草野区で)  

実際に測定器を置いてみると、ある場所では「0.57μSv/h」、別の場所では「1.31μSv/h」など、まちまちの数値が現れた。いずれにせよ、一度除染をすれば終わり、といった単純な問題でないことは明らかだろう。
ところで、実証試験工事が行われた水田の近くには、比較的大きな工場が建っており、従業員用駐車場には車が並んでいた。どうやら操業しているようだ。聞いてみると、ここはかつて村が誘致した精密機械器具の工場で、驚くことに、村が計画的避難区域に指定されてからも一貫して操業を継続してきたという。長谷川さんによれば、村長が国に対し、避難勧告に従う代わりに、例外的に工場の操業を認めさせたとのことである。工場の他に、入居者107人と職員110人を擁する特養ホームも、村内での事業継続が認められたという。
その条件は「▽屋内作業だけで、屋内の放射線量が年20ミリシーベルト未満▽従業員は村外から通勤▽数十人以上勤務し、村の雇用確保につながっている、など条件を満たす企業や福祉事業者」(2011年5月3日『毎日新聞』)と、限りなく恣意的である。こうして、結局8つの会社と特別養護老人ホーム1施設が村内での事業継続を認められ、これらに勤める従業員たちは、村外の避難所から通勤しているという。何のための「計画的避難」だったのだろうか。

再び「除染」の実態をめぐって

その後、われわれは、ようやく住民7割ほどの同意を得て、家屋などの本格除染を開始した二枚橋・須萱区へと移動した。

●「仮仮置き場」の前で長谷川健一さん

長谷川さんによれば、道路脇などを除いて、この3月末までに作業が完了したのは、村内の宅地およそ2000世帯の1%にとどまるという。そのほか、およそ2000ヘクタールの農地については着手したばかり、森林にいたっては、除染は住宅や農地から20メートルほどの隣接部分に限られるという。
  住民の同意が得られにくいのは、除染の全容が不透明からである。モデル事業の例のように、除染したからといって、必ずしも一様に線量が下がるわけではなく、再び線量が上昇する場合もある。その原因と思われるのが、村全体の7割以上を占める山林だ。いくら平地を除染しても、雨や風によって山林の放射性物質が移ってしまえば元も子もない。だから、本来は山林の除染こそ重要なはずである。しかし、環境省は、山林の除染は「しない」としている。現実には「できない」のだろうが、いずれにせよ、巨額の費用をつぎ込んだ挙げ句、その程度の除染をしたところで意味があるのか、との疑問が浮かばざるを得ない。
  また、家屋の除染では、築年数の経過した老朽住宅など、除染作業で損壊する恐れのある物件は対象外、土壁の除染も不可能、損壊した場合の補償もないという。となれば、同じ集落で、ある家は除染したが隣はできず、同じ家でも母屋は可能で納屋は不可能、といった事態が予想される。これまた、除染の存在意義そのものを疑わせる。
  さらに、やはり除染に伴う放射性廃棄物の処分地も懸念される。先に触れたように、廃棄物は最終処分の前の仮置き場さえ決まらず、「仮仮置き場」を作って対処している状態だ。しかし、「仮仮置き場」の実態は、適当に山林を整地し、廃棄物を入れたフレコンバッグを積み重ね、その上からシートをかけただけのもの。半年ほども放置すれば、やがてフレコンバッグが劣化し、放射性物質が流出する危険性もある。ある地区では、「仮仮置き場」に田んぼを使っていた。表土を5センチ剥ぎ取り、新しい土で覆い、防水マットを敷いてはいるが、何とも「バチあたり」な気分だ。
  わずかな範囲の除染でも、かなり大量の廃棄物が発生する。飯舘村の本格除染が完了した暁には、村の土地すべてが廃棄物で埋め尽くされると言っても、あながち大げさではないだろう。

「これで帰れると思うかい?」

最後に、長谷川さんが区長を務める前田地区の公民館を訪れた。ここには文科省の設置したモニタリングポストがあり、常時空間線量を計測している。見れば、数値は1.616μSv/hとある。ところが、その柵のすぐ脇で、同じく地上1メートルの高さで実測したところ、計測器の数値は2.29μSv/hを示すではないか。長谷川さんによれば、モニタリングポストから離れれば離れるほど数値は高くなるという。それは、ポスト設置の段階で地面を整地しており、しかも機材自体が鉄板で地表からの影響を遮断する形になっているためだ。飯舘村に設置されたモニタリングポストのほとんどで、実測は概ね1.5〜2倍前後の数値を示すという。ちなみに、直下の地表を計ったところ、なんと計測可能な19.99μSv/hを超えてしまった。
 

●モニタリングポストの数値と実測値

こんな実態の下で、日々発信されるモニタリングポストの数値に何の意味があるのか。長谷川さんによれば、それは分からないが、一つだけ確実なのは、この数値が文科省の公称数値となることだという。つまり、将来、仮に飯舘村の住民、とくに子どもたちに健康被害が出た場合、国はこの公称数値を盾に「因果関係はない」と言うはずである。それゆえ、長谷川さんは、そうした欺瞞を覆すために、2011年12月から毎月、およそ3ヵ所のモニタリングポストについて実測値を記録すると同時に、前田区の全戸についても玄関先の空間線量を測定して、反証データを蓄積している。
  以上の実状を見る限り、長谷川さんが指摘するとおり、国や村当局の言う「除染すれば帰村できる」との方針が、いかに危険で欺瞞に満ちたものか、よく分かる。そこで、長谷川さんは村長や村当局に対して、住民の安全な帰還が可能になるまで、村全体で他の市町村に集団移転する「仮の町」構想も選択肢に入れるべきだと訴え続けているが、ハードルは高い。というのも、飯舘村が「帰る」と言っている以上、行政上の慣行から、周辺自治体は何もできないからだ。
 

報徳庵ではボランティアのコンサートも

「放射線量が高くても構わないという人は戻ればいい。行政が押しつけることではなく、自己判断に任せるべきだ。たしかに、年寄りたちは『戻りたい』と言っている。でも、子どもや孫は戻れない。家族や地域が分断されたまま、元のように仕事もできない。それで一生を終えていいのか。にもかかわらず、行政は『村に帰る』という方向性しか出していない。それは現実味がない。」
  「行政は『村を壊したくない』と言う。でも、早く帰ることにこだわっている間に、村の人々は自分の置かれた状況に従って、別の場所に土地を見つけたり、家を買ったりして、バラバラに離れているのが実態だ。もう壊れはじめてるんだ。なぁ、これで帰れると思うかい?」
  長谷川さんの問いかけの重さに、われわれは誰一人答えることができなかった。

三度の相馬市へ

二日目の29日に訪れたのは相馬市である。2011年11月、2012年7月、そして今回と、3回目の訪問だ。前回と同じく、NPO法人・相馬はらがま朝市クラブが拠点としている同市中村塚田の仮設店舗にある「報徳庵」で、朝市クラブの理事長を務める高橋永真さんにお話をうかがった。
周知のように、3・11の際、相馬・双葉の「相双地方」は津波と原発事故によって大きな被害を受けたが、その中にあって相馬市は、放射線量が比較的低いため、早くから復興関連の工事が集中した。一昨年も昨年も、ホテルや民宿は復興工事の関係者で溢れていた。しかし、高橋さんによれば、そんな「バブル」は終わったという。
「ガレキ撤去なんかの大事が終わって、外から来ていた人々もずいぶん少なくなった。浜の民宿も、いまはガラガラ。仮設に入っている世帯も1500戸から1000戸くらいになったと思う。半壊だった家を直したり、他に転居したり。」
もともと漁業関連の仕事で成り立っていた相馬市だけに、原発事故による漁業への影響が未だに最大の問題であり続けている。

未だ本格操業は見通しつかず

われわれが訪れたとき、相馬の漁港は昨年に始まった試験操業から1年が過ぎたところだった。当初はわずか3魚種だった対象魚種や操業海域は段階的に拡大され、今春から名物のコウナゴ漁も再開された。週1回だった出漁回数も週2〜3回へと増えた。とはいえ、未だ本格操業再開の見通しは立っていない。
  試験操業は現在、港から約50キロ沖、かつ水深150メートル以深の場所で行われている。それより手前で浅い海域では、放射性物質の影響が懸念されるからだ。そのため、獲れる魚の9割以上は、指定の海域に生息する魚種ではないとして、水揚げできないのが実情だ。かつては築地市場などで持て囃されたヒラメ・カレイ類、アイナメなども海に戻さなければならない。漁業がこんな状況では、仲卸や加工業者もお手上げだ。
  「いまは、震災前なら1〜2社で扱える量を十数社で分け合っているような状態。年間の売上が80万くらいじゃ、従業員も雇えずに家族でやるのが精一杯。おまけに、福島で加工しているってことで、かつての値段以下じゃないと取り引きしてくれない。やっても利益が出ない。」
  高橋さんによれば、こうした状況は、残念ながら、そう簡単には変わりそうもないという。
  「試験操業で水揚げされた魚は、検査して問題がなければ、売れる物は量販店や弁当屋などに流れて加工される。産地を書かなくていいからね。国としては、このまま魚種を拡大していって、問題が出ないようなら、静かに手を引きたい考えだろうな。『ここまでやったから、あとは自分らで』って。助成金を出さずに済むし。
  たしかに、このまま順調にいけば、あと1年もすると、うちも相馬の魚が使えるようになるかもしれない。でも、一般の消費者が普通に買ってくれるかどうかは疑問だね。それは相馬市も漁協も分かっているはずだと思うよ。」
  実際、海洋の状況は陸地以上に判断が難しい。注意深く水深や海域、魚種を選び、綱渡りのようにして試験操業を続けているのが現状だ。にもかかわらず、ただでさえ厳しい相馬の状況に、さらに追い打ちをかけるような事態が発生した。
  東京電力が、第1原発で高濃度の放射性物質を含む汚染水が大量に漏れ、海に流出したことを認めたのである。そのため、相馬双葉漁協は9月に予定していた底引き網漁の試験操業を延期せざるを得なくなった。直近の検査では問題がなかったものの、消費者の目が厳しくなり、実際に中京方面の取引が停止になったという。

「人間が狂わされちゃってる」

地域経済の柱となる漁業に明るい変化が見えない一方で、地域社会には、震災直後に比べて気がかりな変化が感じられるという。
  「震災直後は『自分たちでやらなくちゃ』という感じだったけど、いまは『誰かが何とかしてくれる』って雰囲気が広がってるような気がする。とくに計画的避難区域からの避難者や漁師には補償金も入ってくるから、『焦って働かなくてもいいべ』って投げやりな状況もあったり……。」
  望んでそうなる人は誰もいないだろう。将来の方向性を選択しようにも、何時になれば避難が終わるのか、漁が再開されるのか、自分ではどうすることもできない。そんな現状が透けて見える。
  「補償金をもらえない人からは妬みも出るわな。呑み屋なんかじゃ、『○○(計画的避難区域)の者はいいな、何もしねえでカネもらえて』『なんだと、自分の家に帰れねえんだぞ』なんてモメごとはしょっちゅう。補償金目当てでボッタクられたり。人間が狂わされちゃってるんだよな。」
  「震災前は、漁師なんて寝ないで漁して、頑張れば頑張っただけ儲けるのが誇りだったんだ。それが、いまは漁もできずに補償金や助成金を当てにして、カネが転がり込んでくるのが当たり前って状況になっちゃった。昔の相馬には稼ぐ美徳があったけど、いまは妬み合戦よ。誰々はいくらもらった。あいつは車買った、家買った。こんな状態が5年も続けば、間違いなく地域は潰れるべ。」

高橋永真さん

  高橋さんは震災直後から、朝市を開催したり、リヤカー隊による仮設への訪問販売活動を行ったりしてきた。それは当初から、被災者として支援を受けるだけでなく、自分の生活を自分で切り開いていかなければ真の復興は進まない、と考えていたからである。いま、その思いはますます深くなっているという。
  「いま思うのは『普通の日本人になりたい』ってこと。汗水垂らして働いて、税金も払って、対等な立場に立ちたいのさ。震災直後は全国各地から支援をいただいて感謝していたのが、いつの間にか当然だと思うようになってくる。まずいよなぁ。やっぱり、これまでご縁で支援をいただいたんだから、これからは『俺たち普通に暮らしてますよ』ってことでお返ししていかないと……。」 高橋さんは昨年、3・11から一年を機に水産加工工場を再建したが、それもまた、まったく同じではないにせよ、かつての相馬の暮らしを少しでも取り戻すための重要な一歩である。

「とにかく仕事をつくらなきゃ」

同時に、朝市クラブの活動も徐々にその性格を変えた。かつては、全国から寄せられる支援物資の配布が活動の中心だったが、現在はそれよりも、被災者同士の交流や、被災地に関心を寄せる全国の人々との交流の場としての役割が増している。この点を強化すべく、高橋さんは福島交通と提携し、被災者自身が案内役となって被災地を回る「ふくしま復興かけはしツアー」にも取り組んでいる。マスコミなどでは忘れ去られつつある被災地の現状を知ってもらうと同時に、高橋さんがつくる水産加工品をはじめ、味噌や醤油など相双地方の地場産品を知ってもらうためだ。
  もともと相馬の浜は鮮魚が中心で、何社かあった加工業者も、魚種や大小・重さを揃えて市場に流すのが基本だったという。その中で、高橋さんは寿司ネタや冷凍、生協や量販店、惣菜用の加工などを行っていたが、これまで調理のような加工はしたことがなく、する必要もなかった。もちろん、いまは昔のようなやり方には戻れない。
  「なんたって、相馬も含めて福島の場合は地元産を出せねえんだから、原材料は外から入れるしかない。でも、特色も出せないし、国内産だと材料費も高くつく。うちも松前漬けから始まって、いろいろやってきた。最近は、フィリピン産のシマダコをモロミ醤油に漬けて生食用に加工したり。ただねぇ、最初はかなり注文が来でも、しばらくするとガクンと落ちる。結局、値段と品質につきるんだよな。復興支援だけじゃ続かない。」
  もちろん、単独では頑張ろうにも限界がある。そこで、高橋さんは地域で仲間を募り、新たな試みに挑戦しているという。
  「いま、相馬の仲卸は2代目〜3代目が中心。2代目は俺より少し上の世代で、過去の栄光を引きずっているねど、3代目〜4代目の若い世代は、現実を直視して、これまでと違った動きをするようになってきた。そこと一緒に何かやろうと。
  たとえば、昔の相馬には、ドンコ(エゾアイナメ)のすり身を肝とあえて団子にして、吸い物や鍋に入れて食べる文化があった。そんな加工をイベントなんかで試したりしている。」
  「あと、飯坂温泉の温泉卵屋さん、二本松有機農業研究会、二本松の道の駅、郡山、飯舘村の避難女性たちでつくる『かーちゃんの力』と共同で販売会社を作ったんだ。マージンを支払うと採算が苦しいんで、当面、これまで復興支援で関係ができた企業の労働組合なんかに社員販売を働きかけていく。まずは『お試し価格』で安くてうまいものを提供し、継続的な販路づくりにつなげていきたい。とにかく仕事をつくらなきゃ、どうしようもない。これまでも、ネットの復興支援枠なんかで商売をしてきたけど、一時はともかく、いまは低調なんだよね。やっぱり、一般の商売ベースに乗せていかないと続かない。単独では難しいから、同じような境遇の人たちが集まって、それが強みを発揮する形になればと思ってる。」

試験操業の準備をする若い漁師たち

  高橋さんは津波で加工場を流されたが、借地借家だったため、所有者が受けられる助成金を受給することはできなかった。また、漁業者でもないため、原発事故に伴う東京電力の補償金とも無関係である。そんなゼロからの、あるいは地域経済の現状を見ればマイナスからの出発にもかかわらず、自らの力、そして同じような境遇にある人々の横のつながりによって、今後の展望を思い描こうとしている。まさに、人間の底力を感じさせる。

 

  福島から遠く離れた関西で、政府やマスコミが「復興ムード」を喧伝する中、「福島のいま」を再認識する貴重な機会となった。  

  (つづく)   (山口協:研究所事務局)

 


大阪・能勢町で長谷川健一さんの講演会と写真展を開催

私も参加する地域の実行委員会の主催で、8月11日に長谷川健一さんの講演会を、17日、18日に長谷川さんの写真展「飯舘村」を、いずれも大阪府能勢町で開催しました。
  講演を聞いて、行政の対応の酷さに驚きました。除染活動では、表土を5p削り取って、汚染されていない土と入れ替えただけで完了とする、瓦やビニールハウスを一枚一枚ペーパータオルでふき取るなど、素人でも明らかにおかしいと気がつくようなことを国が巨額の資金を投じて行っているのです。行政が設置したモニタリングポストでは、実測の半分の数値しか出ません。後に健康被害が出た際、放射線量との関連を否定するためでしょう。放射能から人々を守るどころか、責任逃れをするつもりなのでしょうか。
  「行政っていったい何のためにあるんだ?」「被災者を救う気が全くないんだろうか?」と恐ろしくなりました。長谷川さんは、行政と別に月1回、民家の軒先で個人的に線量を測定し、データを残しています。行政がなんとかしてくれると思ってはいけない、長谷川さんのように自分で考えて行動することが大事なのだと気付かされました。
  ショッキングな内容が続く中、私が最も印象に残ったのは、長谷川さんの村の人々への愛です。長谷川さんは、病院が近いなどの5つの条件を決め、ご自分の足で候補の仮設住宅7ヵ所を回り、同じ地区の人が入る仮設住宅を厳選して決定されました。また、コミュニケーションがなくならないよう、同じ地区の人が必ず同じ仮設に入れるように調整されました。写真集「飯舘村」の仮設住宅での生活の写真をみると、決して悲惨ではなく、暖かい、やさしい雰囲気が伝わってきます。困難な状況にあっても、村の人々の絆を守る長谷川さんは本当に立派な区長さんだと思いました。
  長谷川さんは酪農以外にも、イノシシの放牧、狩猟、自家製の蕎麦粉で蕎麦打ち、牧草の作付けなど、さまざまなことに挑戦されていたそうで、とても楽しそうに話して下さいました。でも今は、そのすべてが出来なくなってしまいました。
  農場をご案内した際、牛を見ている長谷川さんは、とてもやさしい笑顔でした。ところが、「また飼ってみたいですか?」との質問には、「こんな想いをするんなら、もう……」と悲しそうな表情をされました。多くの人々の仕事や生きがいを奪い、家族をばらばらにしてしまう原発事故は二度と起こしてはいけません。「絶対原発を止める!」という強い意識を持って今後の活動に励みます。

  (山崎聡子:許k摂協同農場)

 


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