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特別企画:小沢福子さんを囲んで
      小沢福子「政治」を語る

 

  「3・11」から1年を経て、政治の混迷はますます深まり、人々の絶望も行き着く先が見えない。しかし、ここで諦めては既成政治家たちの思うツボ。私たちにとって「政治」とは何なのか、改めて考える中から一筋でも変化への希望を見出したい。そんな思いから、去る4月〜5月の3回にわたり、これまでよつ葉グループの仲間として、地方自治体議員を通じて政治に関わってきた、前大阪府議会議員・小沢福子さんを囲む機会を設けた。以下のとおり、ご本人に概要をまとめていただいた。

 

はじめに

60歳を越え、振り返ってみたとき、豊中市議9年(1974〜87年、途中落選も含め3期)大阪府議12年(1999年〜2011年、連続3期)と合計21年間も議員活動に携わってきたことに気づきました。

 

          ■小沢福子さん

今回、アソシ研でテーマをいただき、3回にわたって語る場を設けました。 あまり論理的でない頭を使っての語りですので、3回のテープ起しを研究所の山口さんが苦労して要約してくださいましたが、理路整然としていて「経験を語る」という設定の報告としては私らしくないと感じました。   そこでワガママを言って、私自身がまとめることといたしました。 私の語りはあっちこっちにすぐ話が飛びます。参加してくださった皆さんは、一体何を言いたかったのかなと思われたのではないかと恐縮しています。

3回のテーマに沿って私の伝えたかったことをまとめましたので、改めてご一読願えればうれしいです。

政治の仕組み
−市民の常識と行政の常識−

世界からみたとき、日本は立憲君主制民主主義国家として認識されています。君主制ということに反論はありますが、今回のテーマではないので省きます。 議員活動は、当然市民の方たちとの交流が日常業務となります。意見を求めたとき、「政治はむつかしい」とよく言われます。確かに情報公開が充分であったり、企業活動も含めた社会活動で一般的に使われている言葉とは違う表現であったりするので「何を言ってるのかわからへん」こともありますが、でも行政も組織の一つですから、暮らしの言葉に置き換えるとわかりやすくなります。

憲法を声に出して読んでみよう

参加していただいた皆さんには、職場やお友だちと一度でいいから、声に出して憲法を読んでみて下さいとお願いしました。 「立憲」ですから最高法規である憲法に基づいた政治・行政が行なわれます。 憲法に基づき、その精神に沿った法律・条例が定められ、実施される中で税金が使われていきます。

  私は戦後すぐの生まれですから、社会人になる過程で、憲法に基づいた住民の異議申し立で政治状況が変わるんだということを体験的に知っています。 公害問題での企業責任を問う内容を持つ法律ができたり、生活保護の充実を求める裁判で勝利し運用の変更を実現したりとたくさんの戦いがありますが、それらは憲法を基礎にたたかわれました。義務教育の教科書無料化も憲法に基づいて実施されています。   最近では原子力発電反対運動の中で「憲法違反だ」というスローガンも見受けられます。

 

私たちが求める平等・公平公正を政治に押しつけよう

以上のように、行政は、法律・条例に基づいて税執行をします。つまり法律・条例にないことには、税金を使えないということです。ですから社会の変化の中で新たな仕組みが必要になったときは、法律ができるまで何もできません。2000年に施行された介護保険制度を例にするとわかりやすいと思います。 しかしこれらのことは、「対応が遅いねん」と腹をたてつつも、理解することはできます。 私たちが感じている市民と行政の常識の違いは、もっと本質的なものです。 私たちはたくさんの税金を払っています。何に使ってほしいかと言えば、社会保障の充実が一番の要求です。万一のとき、安心してその危機が乗り越えられる制度の充実を求めます。 また税金も収入に応じて差をつけるのは当然です。

  私たちは暮らしが大変になった人達に税が使われることは当り前と感じることが常識です。 しかし行政は、全ての人(金持ちも)が平等であり、全ての人々の間で公平公正を考えます。 これは根本的な違いです。 行政・政治の平等は私たちの不平等、私達の平等は行政・政治の不平等です。 社会保障の分野で曲がりなりにも充実がはかられてきたのは、たくさんの人々のたたかいがあったからです。


 
政治を変えられるのは人々の力だけ

選挙のたびに「まかせて下さい」という演説を聞くでしょう。 でも21年間、政治の場にいて確信していることは、本当の変革は、市民が共通認識を持ち動いた時にしかできないということです。そしてその動きがあった時は、年度の途中であれ、さまざまな理由があれ、コロッと変わるということです。  私たちの暮らしの良識を磨き、この良識を押しつける力を大きくしていくことが、私に課せられた議員活動の方針でした。

議会・議員の実体 
−私が体験したこと−

いまでこそたくさんの市民が議員に立候補し議会・議員が身近にいると感じられるようになりましたが、私が当初豊中市議会議員に立候補した1974年の頃は、政治に関係する筋の人が出るんだろうという感覚が色濃くありました。自らの政治的立場を「革新系無所属」と名乗って初めての選挙を戦いました。住んでいたのは豊中市南部の庄内と言われる所です。ここは、本当に庶民的な下町で、駅前などはいつ明りが消えるのだろうと思われるくらい飲み屋やいろいろな店が深夜まで営業をしていました。 無所属で当選し活動を始めた頃、近所のおっちゃん、おばちゃんに、「あんた、政治をするんやったら、どこかに所属せんかったら続けられへんで」と言われたことをよく覚えています。 つまり当時は、既成政党別で政治を視ることが常識だったということです。

 当時の市議会は、政党別に会派が分かれており、参議院にあった保守系無所属の議員会派である「緑風会」の会派までありました。ここに所属していた議員の方は、羽織袴で会議に出席することもありました。 これ以後40年が経とうとしています。今では市町村議会に市民派という無所属の議員はたくさんいます。 既成の組織は崩れ、政治は変わる、約半世紀(50年)という時間の流れはいるけれど、必ず変わるのです。どの方向に変えるのかを長期展望していくことが政治に携わろうとする市民の課題だと思います。

 

政治・議会は今も男尊女卑

  先進国の中でも日本は、女性議員の数が極端に少ないことはご承知のとおりです。 男女を問わず、新人議員には始めの1年間程は何かと無言の圧力を感じさせられます。 相手は官僚であり、議員同士です。 議員からは無視、官僚(担当者)からは無言です。

本会議が始まる前に手渡された議案書の調査に入ります。官僚の説明を求めますが、こちらの質問があるまで答えません。また質問にだけ答えます。関連づけて説明などしてくれません。大きな会派には提出した資料も、こちらが探りあてて要求しない限り手に入りません。いんぎん無礼が続きます。 議員からはヤジと議会規則の押し付けです。当時の豊中市議会は一般質問の時間が10分でした。でもどの議員も1分程は長くなります。議長が注意しますが、少しの超過は大目にみていました。私も2年程たった時の一般質問で少し時間が超過してしまいました。その時の議長対応は「時間です。暫時休憩します」と言って退席。マイクのスイッチは切られ、議場の照明も落とされ、議員も全員退席してしまいました。マイクがなかっても声は大きい方なので最後までやり通しましたが、当時はこんなもんでした。

議会議員の認識は、年度当初の一般会計予算に賛成は与党、反対は野党というもののようです。その分類からいけば野党であり、会派にも所属せず、そのうえ女性の議員であったからでしょうか。 また委員会の視察旅行で夕食のときに、全員にお酌してまわるよう年長議員から言われたことがあります。当時としてはめずらしかった議員活動報告に書いて撒きました。それもあとで問題になりましたが、訂正を拒否しました。現在こんなことはありませんが、当時はこのような感覚の議員が平気で口外していました。 でも根本的な差別を感じるのは、府や国のような広域行政になるほど、女性が立候補しづらいという現実です。とくに子育て最中の女性も進出できる環境が要ります。抜本的な議会制度の改革を痛感しました。

当時の自民党に親近感
これには私も驚いた

70年代に議員になった私の頭の中は、社会党・共産党が革新という分類でした。でも一人一人の参加を求める体質がない、全面支持でなかったらオープンな関係は持たないような雰囲気に「違うだろ」と感じていました。
でも議会に参加して驚いたのは、質問などを聞いていて自民党のおっちゃん達に親近感を覚えることでした。
当時の自民党の市会議員は酒屋や米屋、風呂屋など商いをしている人が結構いました。朝10時から委員会は始まりますが、配達など一仕事してから来るんだと言っていました。

また「今日は遅くならんようにしてくれ」と委員長に要求する議員の理由は、町内の葬儀の準備が理由でした。70年代は、豊かになったと言ってもまだまだ知れたもので、受付から葬儀の飾りつけ、また炊き出しの準備など近所総出でやっていたものです。 「それで票をかせいでるんや」と言ってしまえばそれまでですが、人生最期のまつりごとに充分のお金を出せる庶民はそんなにいるわけでもない時代、地域を動きまわって世話をする大衆性に考えさせられました。 また風呂屋の浴場組合を地盤に選出されている議員がいました。温水プール建設の議案に対して、その議員は「市民が温水プールに入って風呂を利用しなくなるから、近隣の風呂屋に助成金を出すべきだ」と質問しました。 これには他の議員から失笑が漏れましたし、行政も「温水プールはお風呂ではありません」と言ってその要求は拒否しました。でも、私はここでも考え込んでしまいました。こんな恥ずかしい質問は、私やったらようしません。でも、市民から見たらどう判断するでしょう。市民も“そんな助成出したらあかん”と思うでしょう。と同時にこんなわかりやすい要求はない、自らの地盤のためには何でも言う態度に、無意識の親近感をいだくのではないでしょうか。

一方、革新と言われる当時の社会党の議員たちの質問です。理屈は通っているけれど、人の体温を感じないのです。建て前先行です。 当時は社会党にはたくさん議員がいました。まだ労働組合の組織がしっかりしていましたので、自治労や全逓・全金・全電通・教組など組織割りで議員が出てきていた時代です。 「三公社五現業」から出てきている議員は、元の職場から給料も出ていました。全電通出身の議員は給料日に職場へ出向き、まず顔を出すのは局長室、それから組合事務所だったと聞きました。“それはないやろ、まず組合事務所やろ”と思いました。 このように、暮らしのあり方が質問ににじみ出ます。

「人の振りみて我振り直せ」と昔から言われますが、本当にその通りで、人のことをあげつらう前に自分の質問がいかに現場を反映しているか、そのためには実態調査に力を注ぐ。市民の語る言葉でピンと来たらその言葉で質問することを身につけようと努力しました。 私は50才になってから府議会議員になりました。いまでは自民党も二世議員が大半です。 ある時若い二世議員に豊中時代の自民党議員の大衆性について話をしてたら、「ね、皆さん偉いでしょう」と自分が誉められたように反応してきました。私は内心「こりゃアカンわ」と思いました。自民党がダメになったのは自らが招いた結果です。二世・三世と世襲議員で地盤をゆずり、党の理念を発展させるための新しい人を迎え入れる努力をしなかったからです。

 

社会党どころではない− 組織に頼ったのは自民党

「労働組合の組織に頼っている」と社会党がヤリ玉にあがった時期がありました。昨年の大阪市長選挙でも橋下市長が平松前市長の攻撃材料に使いました。確かに一部あたっていますが、自民党の組織依存はそれ以上です。 法的根拠があって税執行ができると述べました。長期政権を握っていた自民党は、「○○の健全育成につとめる」と法律をつくり、団体を組織し、補助金を出す訳です。この○○の中に「商工業」とか「農業」とかを入れこめば、法的根拠のできあがりです。そして、これらの団体は各省庁の担当分野にわたってあるわけですから、総数は大変な数になります。

  政権交替以後の事業仕分けで「へー、そんな団体あったん?」と驚かれた方も多いと思います。
  つまり税金で地盤固めをしていたわけです。 自民党に限らず権力を握るとはこういうことです。長期政権は必ず澱みます。 明治以後、長期保守政権が続きました。補助金だけで政権維持ができる訳ではありません。支持者の訓練もいります。自民党議員にとって「党公認」を取りつけることは絶対条件です。 たとえば、ある選挙区で自民党がもめたとします。誰が「党公認」を得るかの争いになります。現職が公認をおろされたとします。公認をとった新人が勝ちます。なぜなら自民党支持者は「公認候補」に投票するからです。現職と親しかっても、それは変わりません。  「敵から学ぶ」ことも多々あると思います。 いずれにせよ、政治情勢は流動的です。誰が権力の座につくかわかりません。また、補助金もかつてのように湧いてきません。あらゆる団体・層が流動しています。 ここは腰を落ち着けて、政治に何を望むか論議をする時期ではないでしょうか。

 

これからの政治を展望する  −必ず勝つ、だから明るく歩もう−

「必ず勝つ」と言いましたが、政治での勝利は市民の良識が反映されることだと考えています。政治は無数の人々との共同作業です。共同理解があって始めて前に進むことができます。 日本は今や成熟社会です。成熟したことがもたらす新たな悩み(健康・将来・経済など)に対して、何を良識とすればよいかが大きく揺らいでいると感じています。私の明治生まれの祖母は「ちょっと不足が一番よい」とよく言っていました。煩悩の多い小市民の私は、この言葉がとても腑に落ちます。「ちょっと不足」は工夫を生みます。目的を持って前に進むことができます。 医療にせよ教育にせよあらゆる情報が入り乱れ、暮らしの中でさまざまな迷いが生じています。 「人が生きるとは、そのために必要な社会とは政治とは」を、今こそあっちでもこっちでも「いどばた会議」する時だと思います。

 

政治は継いでいくもの

橋下政治・維新の会のニュースが流れない日はありません。小泉政治の時もそうでしたが「スター」にゆだねたい政治状況のようです。 表面上の平和と豊かさが生み出した現象だと思います。本当に切羽詰ったときに選ぶかと問いたいです。 ただ、この流れがなぜ起きたか、真剣に分析する必要があります。

  私は74年、25才の時に豊中市議会議員となりました。一議席を争う補欠選挙で、対立候補は共産党でした。その時の私の数えられる票は家族の5票だけ。この補欠選挙に勝った時、マスコミの全国ニュースで流れました。 当時、この選挙を共にした同じ世代の仲間にとって、その意味はわかりませんでした。 つまり、戦後も30年が経とうとし、安心して教育を受けられるようになり、社会が経済発展していく中で、政治に市民が自由に参加できない、行政組織も窓口に行けばエラソーにしている、既成政党同士の組織政治に風穴を開けようという市民の意志の表れだったと気がついたのはずっと後になってからです。

  一人一人の参加、一人一人との連帯、それしか私達にはありませんでした。
  組織なしに勝ったこと、アメーバのような人とのつながりが当時の政治情況に与えた影響は大きかったから全国ニュースで流れたのだと思います。  では、今回の橋下ブームについては、既成政治の何に対する反論なのでしょうか。バブル崩壊以後、既得権は次々となくなっていったのに、一部で温存されていることに対する拒否、それを整理できない政治に対するいらだちが一つ上げられると思います。そして、もう一つは「がんばったらそれだけ利益が与えられる」という上昇思考に飲み込まれたことです。 橋下政治の目的は「新自由主義」政治だという批判がありますが、それだけでは根本をついたことにはならないと考えています。 政治主体である市民が生き方の展望を見失っていることが、とても大きな問題としてあります。 これこそ、私一人でやれることではありません。政治は共同作業、私のつながりの中で市民の良識をきたえていきたいです。 そして政治は、一代でできなくてよいということです。よく「自分がやった」と自慢欲望にとらわれている人がいますが、間違っています。橋をつくるなど、税金があればできます。 共同作業・共同認識の中でしか政治の質は変えられない以上、「市民の良識」が生み出した展望を次々と継いでいくことこそ、とても大事な政治姿勢であると思います。

あきらめない
粘り強さがいるからこそ明るく

最後に共同認識を広めるには時間がかかるということをお話して終わります。
今、原子力発電について50%以上の方たちが反対という状況になりました。 私も若い頃、原子力発電についてはわからなくて、いろいろな集会に参加して学者先生の話を聞きました。本当にむつかしい話でした。 でも「シーベルト」などわからなくても、最終処分できないことが理解できれば反対にきまっています。 しかし、経済発展の声に押されて、現在50基にもなっています。そして、今や反対の声が多い数です。私自身の認識したときから数えても約40年かかりました。 高度成長を感じたのはいつ頃かを問うと、70年代、80年代と答えはマチマチです。でも、国家レベルでは60年代なのです。皆に少しのおすそ分けがまわってきたのが80年代ということは、約20年のタイム・ラグがあります。 早くに問題を察知し、危機を訴えても、多数の市民にその危機が感じられるまで、時間がかかります。 でも、気付けば一緒に声を上げてくれます。市民を信じ、時間差のあることを念頭において、皆が立ち上がったときに精根尽き果てていたということのないよう、粘り強く歩んでいきたいと思います。
ご参加ありがとうございました。

(小沢福子:前大阪府議会議員)

 


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