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市民環境研究所から
  福島から離れて住む者の「責務」

 
  
 

市民環境研究所というNPO法人を立ち上げ、ここを拠点に「環境塾」を開催しながら、多分野にわたる環境問題を議論する場を作りたいと思ったのは、京大を退職した2003年春のこと。だが、別の大学に勤めることになり、当初の計画は大きく変わらざるを得なくなった。今年の春、ようやく自由の身となり、思う存分、環境塾を開けるものと思っていた。ところが、まったく開催できずに年末がやってきた。福島原発の崩壊がすべての予定を変えさせたのだ。
  「さようなら原発1000万人署名」運動の「京都の会」の連絡先を引き受け、6万5000人以上の署名の集約作業に明け暮れていたところへ、「福島原発告訴団」から告訴・告発人への参加要請があり、その関西支部を引き受けた。話しが入ったのは8月末。9月中ごろから10月末までの短期勝負である。告訴・告発人になってもらうには弁護士への委任状に署名・捺印が必要だから、街頭署名のようにはいかない。人から人への手渡しを基本とする地道な運動だったが、大きな反応が返ってきた。関西支部では10月末に1680名の参加が得られ、全国では1万3262名の大集団となり、11月15日には福島地方検察庁に第二次告訴を提出した。
  提出に合わせ、福島市での集会に参加すべく、秋が深まる福島へ赴いた。3.11以降、初めてのことだ。京都から東京までは新幹線、東京からいわき市へは常磐線。車中では放射線測定器を窓際に置き、観測を続けた。京都から茨城県内までの空間線量は0.05マイクロシーベルトほど。それが、勿来駅を過ぎると0.1台に、いわき市から郡山市に向かえば0.2へとなり、二本松から南福島に入れば0.3から0.4となった。福島市内では常時0.5前後が検出され、風が吹いて砂や土が舞い上がる場所では0.7台だった。もはや、この環境下で生きていくことを覚悟しなければ、一歩も進まない。福島の人々が置かれている状況を、遅まきながら体験した。
  全国から集まった300人のデモ隊は地方検察庁に向かって進んで行くが、平日昼間だから住宅街には人影がない。それはともかく、福島で2泊3日を過ごす間、この集会以外で「脱原発」「反原発」という文言をまったく見ることはなかった。郡山やいわき市でも同じだ。わずかに共産党の宣伝カーから、原発云々の言葉が聞こえただけである。もはや福島では、「原発」や「放射能」という単語がタブーのようだ。京都を発つ前にも聞いていたが、ここまでとはと思っていなかった。
  その夜、南相馬市で働く知人と会った。彼の家族は会津若松市に疎開したままだ。南相馬市では人口の4割が転出し、残った人々の気力は萎え、原発に怒る力も失せているという。この1年8ヶ月、国がこの人々に対して、生きる希望を持ち得るような施策をまったく講じてこなかった結果だろう。そんな郷土の雰囲気の中で告訴団を立ち上げた人々を、これからも支援し、孤立させないことが、福島から遠く離れた地に住む者の務めである。そう心を引き締め、新幹線を乗り継いで帰洛した。帰路では、線量は0.5から0.1以下へ、京都に着いたときには0.05となった。

(石田紀郎)


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