タイトル
HOME過去号>101号 101号の印刷データ PDF

研究会報告:読書研究会「最終講義を読む」
   時代と格闘した著者の人生を読む

  ある分野で活躍した研究者の「最終講義」は、専門領域における研究の集大成であると同時に、それにとどまらない普遍的な内容をも示唆している場合が多い。それは、私たちに「読むこと」「考えること」の問い直しを迫るだろう。そんな動機で開催した読書研究会「最終講義を読む」。呼びかけ人と参加者から、以下のように感想を寄せてもらった。

 

今年3月から6月にかけて「最終講義を読む」と題した読書研究会を開催しました。もう相当昔、中井久夫の『最終講義』が注目を集めた時、この本をテキストに読書会を呼びかけたことがありました。その後、折にふれて読んだ、専門分野を越える普遍的視点を示唆する大学人の「最終講義」を、まとめて読む読書会という構想を持つようになったのです。ちょうど、内田樹が神戸女学院を定年退官する時の最終講義が本になったのを本屋で見つけて、アソシ研の読書研究会として呼びかけたというわけです。

  けれど、こんな、ほとんど趣味の領域に近い読書会に、果たして参加者が現れるのかどうか。とりあえず、最少実施人数2人ということで呼びかけを始めました。結果は予想に反して常時6人、単発の参加者も含めると延べ9人の参加で、無事4冊の「最終講義」を読み終えることができました。4冊とは、内田樹『最終講義−生き延びるための六講』(技術評論社、2011年)、北山修『最後の授業−心を見る人たちへ』(みすず書房、2010年)、中井久夫『最終講義−分裂病私見』(みすず書房、1998年)、内田義彦「考えてきたこと、考えること」(『内田義彦セレクション〈第3巻〉ことばと社会科学』藤原書店、2000年、所収)という、専門領域も思想的スタンスもかなり幅広い4人の最終講義です。

  進め方としては、毎月1冊、テキストを通読して参加してもらうことを前提に、私の読書感や著者の経歴、エピソードなどを、まず報告し、その後、参加者1人1人に発言してもらうという形をとりました。私の独断専行にすぎる著者評など脱線することも多く、ワイワイ、ガヤガヤ、止めどもない話しに盛り上がる、型破りな読書会だったと喜んでいます。 改めて、この4冊を通読してみて、4人に共通する「知」のあり様を考えることができました。それは、人々の現実生活との緊張感、現場で生きる「学」の重要性への共通認識。そこから発せられる、専門化し、特殊化し、閉鎖的になりすぎた現代社会の学問と学者への痛烈な批判精神です。

  中井久夫は、青年医師の頃、「楡林達夫」というペンネームで「日本の医者」を書いて、日本の医学界を内側から批判した人でした。その後、医学部闘争が大学で活発だった頃、「抵抗的医師とは何か」という、檄を飛ばしています。そうした1人の生身の人間としての生き方が、彼の精神病患者への向き合いざまに貫かれているのです。  内田樹が、「僕はインプットよりアウトプットにかけるタチ」と言い放つ時、自分を取りまく現実に、真剣勝負で挑まんとする、彼の生き方が見えてきます。彼の追っかけを自認している、あるよつ葉の配送センターの女性に教えてもらったのですが、内田樹のブログとやらへのアクセスは、すごい数字なのだそうです。 北山修は、フォーク・クルセダーズの一員として、マスメディアの世界を経験します。その非人間的世界との対比の中で、彼の精神分析医としての姿勢が生まれたのだと教えられました。

  内田義彦は、4人の中では最も年長で、既に他界しています。戦時下の軍部の思想弾圧を知る経済学者として、日本の戦後民主主義とどう対峙するのか。マルクスやスミスと向き合う彼の姿勢には、時代の中で、1人の人間として生き、学び、闘ったマルクスやスミスに共感し、自らも1人の人間として彼らの著作から学びとろうとする気迫のようなものが、ひしひしと伝わって来るのです。やはり、4冊の中では一番読みづらかったと多くの参加者が話していましたが、私にとっては、マルクスの読み方に大きな膨らみを与えてくれた1人でした。

  本を読むということは、その本の著者、1人の人間がその時代で生きた、その生き方を読むということです。読む自分も、1人の人間として、現実世界の中で生きている。多くの人とつながり、関係しながら、その中でいかに生きるべきかを考え、読んでいる。そのぶつかり合いの中から、学ぶことが生まれ出る。同じ本を読んでも、1人1人が読む中身はまったく違うかもしれない。そんな読書の緊張感と楽しさを、参加された人たちが、少しでも感じてもらえたなら、よかったのですが……。 

  (津田道夫:研究会呼びかけ人)

 

参加者からの感想


現実の状況を打開するヒントを得た

4人の著作家の書いた「最終講義」という表題作をテーマにするという一風変わった読書会でしたが、参加者の顔ぶれも多彩で色々な意見が出て毎回楽しく過ごしました。 欲を言えば、意見が一巡したところで大体時間切れとなってしまったので、もう少し時間の余裕があって多指向の議論が更に続けられると尚良かったかと思いました。  内田樹、北山修、中井久夫、内田義彦と作者の年代が若い順から進行しました。内田樹の作品には、独特なものの見方に刺激されながら、私とは同年代のためか判りやすさがあり、納得するところが多かったのですが、世代が上がるにつれ難解になり、内田義彦になると専門が経済学史ということもあり、ある程度の予備知識がないと正確に理解できないのでは、と思う部分もありました。 ただ、いずれの著者も、医療や学問・思想論という自分の専門分野に長期にわたって身を置く中で独自の見解を築きながら、だからこそというべきか、専門領域での知見のみに捉われない縦横無尽なものの見方を持っている。そして、どの方も「最終講義」の中では自分の業績を語ることよりも、物事のありように対する自分なりの見方、考え方をどうして、どのように行なうようになったかに重点を置いて語っているのが特徴的でした。

  内田義彦がアダム・スミスの経済論とマルクスの「資本論」の研究を同時進行して行なってきた事を述べていますが、それは「研究成果」として出来上がった○○論の中身を研究したり比較することに主要な意義を求めたのではなく、一人の思想家が自分の生きている時代の流れをどのように理解しようとし、その行く末をどう見通したら良いのかを求めて考察を重ねたところに共通したものを見出し、二人の時代に対する鋭敏なセンスを磨く姿勢と情熱に共感したからだと思います。 多少大げさな表現になりますが、現代日本の政治的・経済的な混乱と腐敗・堕落の極みの中にあって、私たちが何を指針にして現実の状況を打開してゆくことができるのか、貴重なヒントが得られる「最終講義」でした。  中井久夫さんが作品の最後に西行法師の句、「吉野山去年の枝折の道かへて未だ見ぬ方の花をたづねむ」を挙げて見習いたいと記していますが、はるか末席ながらそれに習うことができればと思っています。 

(小泉圭:クリエイト大阪梶j


自分なりの「概念装置」を求めて

読書会「最終講義を読む」に参加を希望したのは、案内文書に「各々の最終講義は専門分野の集大成であるとともに、普遍的な真理へ突き抜けている」という内容があり、そこに惹かれたからです。自分自身の日常活動に手応えを得ているものの、一方でこのままで本当に良いのかという焦燥感や、確かな将来展望が見い出せない不安を抱いています。読書会で自分の焦りや不安を打開するヒントを見つけたいと思い参加しました。

  内田樹、北山修、中井久夫、内田義彦氏、どの本も読み応えがあり、さすが「最終講義」でした。それぞれに一番心に残ったことを記します。 内田氏は「人間は自己利益のためにはそんなに努力しない」「自分の成功をともに喜び、自分の失敗でともに苦しむ人たちの人数が多ければ多いほど人は努力する」「近代日本の知識人でしたら、日本の近代化という歴史的責務を背負っていた」と述べています。 労働現場や教育現場、あらゆるところで「競争」と「自己責任」が持て囃されています。私利私欲こそが活力の源、とばかりに成果主義がとり入れられています。これは明らかに間違いでしょう。チームワークや使命にこそ価値を置くべきです。 中学校のいじめ自殺問題がありますが、教員同士が仲間ではなく競争相手になっていること、子どもの生きる力を育むよりも学校間競争に負けないことが教育目的になっていることが「いじめ隠蔽」の大きな要因だ、と私には思えてなりません。内田氏が橋下「維新の会」に抗う理由も、ここにあるような気がします。自分自身が仲間の皆さんと活動を長く続けていくうえでも、「何を背負うのか」を意識していきたいです。

  北山氏の論で面白かったのは、「マスコミュニケーション」と「パーソナルコミュニケーション」の区別。音楽家としてマスコミで活躍した北山氏、精神分析のフィールドはパーソナルコミュニケーションだ、と。政治家の仕事も、パーソナルコミュニケーションの積み重ねが基本だと私は思っています。 しかし、それで政治を変えることができるのか、大きな選挙に勝てるのか。「マスコミ」「パソコミ」の両方を駆使できるのが、本物の政治家なのでしょうか。しかし、一人ひとりの声に学ぶ姿勢がなければ、薄っぺらな政治家になってしまいます。軸足は「パソコミ」に置きつつ、政治宣伝の技量も洗練して行きたいです。 中井氏の言葉では「心の生ぶ毛」が気に入りました。いわゆる「心臓に毛がはえた」は、無神経な剛毛のイメージです。柔らかな生ぶ毛を蓄え、自分を必要以上に傷つけることなく、また他人にも細やかな心遣いができる人間になりたいです。 一番難解だったのが内田氏。残念ながら、マルクス、スミスはよく分かりませんでした。 「自分を取り巻くいろいろの問題について貧しいながら自分で考える本をいくら客観的に読んだって、真に内在的に理解することはできません」  「ひとりびとり、講義の主題とは一応別個に、自分自身の問題について素人ながら真剣にいろいろと考えるという作業をしながら講義を聞くということでなければ…身についたことにならないでしょう」  ここからは、内田氏が学生や市民を自立した一人の人間として信頼を寄せていることが伝わってきます。人生の主人公として主権者として、自分なりにモノを見る「概念装置」を造ることこそが大切だというのが、内田氏の思いでしょう。今回の読書会で私の「概念装置」はいささかでも進化したでしょうか。

  読書会ではチューターの津田さんが、誰のどのような質問にも一つ一つ真剣に向き合って丁寧に返答してくださいました。また参加者お一人お一人が各々に異なった視点からの感想や意見を述べられました。大変刺激的で面白かったです。有難うございました。

 (北上哲仁:川西市議会議員)

 

日常を離れ、自分を振り返る機会に

地域・アソシエーション研究所の講座「最終講義を読む」に参加したのは、初回の本が内田樹さんの本だったのに引かれたからでした。とりあえず初回だけ参加しようという軽いノリで行ったら、何となく最後まで参加することになってしまったのですが、同じ本を読んでも、感想を話し合ってみるとそれぞれ全く違うことを感じていて、毎回新鮮な気分で過ごしながら、楽しんで終わることができました。 特に、北山修さんと中井久夫さんの精神医療についてのお話は、これまで全く勉強することのなかった分野でした。中井さんの「心の柔らかい場所」についてのお話は、理屈が通じないということが、しばしば人間の自我を守ろうとする働きの結果であること、自我を防衛する機能が如何に強固(時に自分も破壊するほど)かつ繊細なものであるかを学ぶ機会になり、今後、日々の人との関係を考えていく上で、とても参考になりました。

  忙しくてバタバタしていると余裕も無くなり、勉強会などに出るのも億劫になるのですが、そんな時に、ムリにでも参加して少し日常から離れてみることで、自分を振り返る良い機会になったと思います。どうもありがとうございました。

(津林勇太:鰍謔ツば農産)

 


地域・アソシエーション研究所 101号の印刷データ PDF
200×40バナー
©2002-2014 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.