山陰 島根県の中央部 石見と呼ばれる辺りに大森という町があります。
この町の周辺が世界遺産登録ということで大騒ぎです。
縁あって1971年頃から度々訪れています。
学生時代は休みの度に出掛けては多くの旅行者をその町へ案内していました。
マスコミに”石見銀山”が取り上げられて有名になり私も”妙に詳しい”ので色々な
事を聞かれたりすることがとても多くなりました。
昔語りって年寄り臭いし健在進行形のブログではちょっと・・・・
と言う訳でココへ載せることにしました!
生意気なことも書いてありますが思い出した順番に感じたとおりに・・・
まあ 個人の頁だから良いかなあ と 言うことで
更新 2007.10.25
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石見銀山刑場跡
島根県の大田市に大森町という町があります。
かつて大森銀山・石見銀山と呼ばれていた地域です。
戦国時代から明治維新までの統治者の移り変わりを経て繁栄期から鉱山の枯渇による
採掘作業の中止と時代は変わっていきます。
この地域は、いつのまにか長閑な山里の景色になっていました。
けれどこの一帯は20万からの鉱山従事者を抱えた一大鉱山地帯でした。
周辺と銀山域は延々と続く柵によって分けられ限定された
番所で行き来が行われていました。

銀山域にも鉱山従事者等の生活があり、寺社も有れば普通の町が形成されていたようです。
当時の人々は毎日。柵外から柵内へ通う人もいたようです。
決まった時間に番所を通過する、それは普段の生活であったと思われます。
さて、世界遺産登録騒ぎの頃まで蔵泉寺口番所跡と言われる場所の手前に刑場跡と呼ば
れる案内板がありました。
私たちが銀山を訪れていた70年代の初頭には既に古びた杭が有ったと記憶しています。
この場所について私が大森のお年寄りから聞いた話を紹介します。

昔、銀山と町の間には柵が有って行き来は番所を通って行われていた。
江戸時代の鉱山と言うと時代劇の影響で罪人が使役されていると言うイメージがあるけれ
どここでは鉱夫は職人で町への出入りも自由であった。
町の人も銀山に自由に商いに行く事が出来た。
番所の木戸が開く時、閉まる時は大変な混雑であったと伝わっている。
さて、自由に行き来は出来るけれど銀の持ち出しは厳禁でとなっていました。
禁を犯した物は理由・身分を問わず極刑で死罪と言う事でした。
実際は銀という事ではなく鉱石も持ち出す事は出来ません。
届け出をせずにはただの石ころでも鉱石と見なされた訳です。
これは銀山域で石ころを拾って番所を通過しようとしただけで処刑されてしまうという事で、山
に商いに入った商人が袂に紛れ込んだ石ころのために処刑された事もあったと言う話です。

刑場跡と呼ばれていた場所は蔵泉寺口番所の柵外の山手側にありました。
なぜ伝承でその場所が刑場と呼ばれていたか。
それは隔たれた地域の緩衝地帯で柵外、そして井戸があると言う条件からです。
その場所で処刑された人にも家族があり知らせが届いた時には既に処刑は終わっていた。
そして家族はその亡骸を引き取りに行った訳です。
崖に残っている石窟と仏像はそういう方達が手向けた物と説明を受けました。
そういう場所だったから伝承も残っていたのでしょう。

処刑する場所は河原と言うご意見を持っている方もおられるようですが、さらし首は京都の
三条河原と言うイメージでは時代劇の三文作家的な考えで余りに思慮が足りない。

そしてこの話は大森を歩いていた時に「銀山に行くのかい・危ないよ」って話しかけてきた
地域のお年寄りが語った昔話です。
山陰本線にまだ蒸気機関車が走っていた頃
僕らがこの地域を大森の銀山と呼んでいた頃の思い出話です。
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大森という場所
島根県の中部、石見と呼ばれる辺り?夜汽車で駅に着いたボクはその時この町に
何かとても懐かしいような感じがしたんだなあ?

日本海の美しさに惹かれ海辺を走る蒸気機関車を見に通うようになるのですが?
その町から山を越えた所に大森という町がありました。

江戸時代の銀山が有るそうで面白そうなので同宿の数人で出掛けてみたのです。
オンボロのバスは山道を上り、トンネルを抜けると急に静かに下りだした。

そこは不思議な場所でしたポストや電柱、昭和の普通の町のハズなのに・・・・
明治の建物や今風の住宅も有るのに・・・

イメージ的には江戸時代の宿場のような雰囲気なのです?

時間の動きも緩やかな・・? どこか不思議な場所でした。

その先の路地から丁髷を結った町人や刀を差した武士が出てきても少しも
不思議じゃあない異空間の町でした?

そしてそんなに大きな集落じゃあ無いのに寺社がスゴク多いんです。
大きな寺院じゃあ無いのですがそれぞれ趣が有って・・・・
そこが石見銀山と呼ばれる場所だったんです。

山陰の普通の町・・汽車が好きだったので山陰本線沿いに随分歩いたのですが・・
その頃ああいう風景の町はアッチコッチ結構あったのです・・・・
けれどこの大森という町は何処か雰囲気が違っていました?

後で考えると住んでいる方々がとても自然体で
旅の人って扱ってくれていたんじゃあないかなあ?

何処から来たか聞かれて仁摩の城福寺に泊まっているって答えていたので
アヤシイって扱いをされないで済んだのかなあ?
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大森に行った頃
初めて大森に行った時・・妙に寺社の数が多い町だなあと言う感じだった!

明治期の洋館や大正風の建物が有ったり
代官所前に小さな郷土資料館があったけれどそこには興味を引くモノは無かったなあ!

今も有るけれど大きな石碑が有るでしょう・・確か”西南戦争”慰霊碑なんだ・・
ああそう言う町かって感じたなあ!

その頃、大森の住民はこの町が観光地になるとは思っていなかったねえ。

そうして僕らが歩いていると「銀山に行くのか?」って聞かれた・・・・

山吹山と仙の峰に挟まれた谷のことで小学校を過ぎると殆ど人影は無かった!

山神宮と銀山道の分かれる所にジジイが一人小屋みたいなトコにいて間歩の
場所とかとても詳しかった!

羅漢寺の坊主と仲が悪く何時も悪口を言っていたなあ?

町の人以外 と 言うか 観光客って 僕らしかいなかったから・・・・
仁摩の城福寺さんに泊まってる若い人達って言われていた?

年寄りばかりでアッチコッチでお茶をご馳走になったりしたなあ・・
タイガイ大阪に孫がいるとか関西地区に
 うーん そう言う人が話しかけてきたのかなあ?

ボクが覚えているのはトンネルを抜けてスグの勝源寺さんの奥さんだな。
キリシタン地蔵を見に行くとお茶とお菓子でもてなしてくれた。

お爺さんで蔵の2階で古文書なんかを見せてくれる個人郷土館が有ったなあ?
たしか甲冑とか着せてくれたり・・・古文書なんか手渡されてぺらぺら捲って・・・・

その頃、T字路のとこの古い洋館が壊されたんだなあ・・・

そして・・・ある時 ”観光地として行けるかも”って 誰かが思ったんだねえ・?
あの頃は石見地方の町はみんな大森みたいだったんだ

あの町は大田〜川本の国道が早い時期に町並みの外に、
仁摩からの道も市街を通らず国道につながったから
町自体が綺麗に残っていたんだねえ!
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銀山食堂
大森のバスの終点、今は駐車場の入り口です。

今も残る、その横の家が”銀山食堂”です。

ここにお爺さんとお婆さんがいて遊びに来た時はバスを降りると、
この食堂に行って人数を報告するのがルール?でした。

たしか?そうしておかないと蕎麦粉が足りなくなった事があったって記憶なんですが?

テーブルと畳の席が有ったかなあ?
おでんの鍋が有って
壁には”オセンシソマキ”って梅を紫蘇の葉で巻いたオミヤゲが並んでいました。

間歩に入ったり寺社巡りをして遊んだあと
昼頃にココに戻ってきて頼んでおいた蕎麦を食べるんです。
それでも蕎麦が出てくるまで1時間以上はかかったかなあ?

我慢出来なくて誰かがパン屋までメロンパンを買いに行くんですが
このパン屋がまた美味しかったなあ?

あんまり時間がかかるので奥の台所?に見に行ったら
大きな捏ね鉢と薪の竈が有って蕎麦を打っていたんですよ?

太くて短くて箸でつまんでもビヨンってへの字に揺れる蕎麦でした。

だいたい2時間はかかったんじゃあ無いかなあ?

その後で羅漢寺へ行くんです。
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木村幽玄という人
羅漢寺の住職です、この人のことは話すとキリがありません!

私の人生の中で出会った最も驚いたジジイです?

十代の私は物の見方や時間の単位をこのジジイの話術から・・・
勉強になったなあ?

盲目だったこの人は一生懸命に仏様(一畑薬師らしい?)に祈ったんだそうです・・
驚いたことに「それで目が見えるようになって坊主になった」って言うんですよ・・・
そりゃあどんな宗教家だって適わない・・

この人、話が乗ってくると終わらないタブン内容なんか関係ないんだなあ?

若人達と話をするのが楽しいらしい!
終バスに乗り遅れて歩いて仁摩まで帰った事もあったなあ!

興に乗ると石窟まで出て行って説明をするのです。コレがねえ!
501有る羅漢の説明を始めるワケですよ!

そりゃあ面白いのですが時間はかかる!

普通の旅行者はそんな時間散れないけれど!
その頃の僕らには十分そう言う時間が有ったんですねえ。

そんな時だったなあ・・・・
オッさんがやってきて説明してほしいって声を掛けたんですよ・・・
坊主すっと振り向いて
「今、説明している終わったらするから待っていなさい」そんな風に言ったかなあ・・・
再び上機嫌で話し始める・・・外のオッさん痺れを切らして
「和尚さん・ワシら時間が無いんだが!」
と言ったとたん・・・振り向きざまに曲がった腰がスッと伸びて
反っくり返えって       モノスゴイ声で・・・・  
「なーにを言うかあ!時間は幾億幾千万限り無くアルワ
時間がないのではなく・・
オマエノ ツゴウガ ワルイダケダア
驚いたなあ!この一言に感動してしまった!ワケですよ・・・

若い頃に遍路して回ったって言うのでいつ頃かって聞いたら昭和初期・・
どの辺って聞いたら四国も行ったって

種田山頭火って俳人がいるのですがホボ同じ時期に歩いているんですねえ!
聞いてみたけど「そんなヤツは知らん!」って行ってました。

ああ 美智子さん(現皇后)が好きだったなあ何処かで会ったらしい?

人を楽しませ引きつける話術・物事を一方向から見ないって勉強になったなあ!

常識には基準になるモノがあり、その基準の調整で非常識が変わってしまうって・・

物凄いジジイだったんですねえ・・・

黙って座ってると”ぼろ切れが落ちてる”って感じの・・・
ワカラナイだろうなあ・・・説明出来ないなあ
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城上神社と鳴き龍
昔も今もココは変わっていません?

不思議ですよねえ代官所の直ぐ横なのに観光客があまり来ない?
数少ない昔のママの場所がココ・・

観光客って言う種の行動って面白いですねえ?

僕らは必ず行きますがねえ?彼らは来ないねえ

なんでだろう 今でもココは静かですよ!

みんなで拝殿に上がって話し込んだりしていたなあ。夏は涼しいんですよ・・・
拝殿の階段に並んで記念写真っていうのが多いんだ。

鳴き龍は床の○と○の間が一番響くんですよ・・・・

もう随分と前のことですが夏に石見神楽を見たことがあります。
拝殿の板戸を全部外して・・観客は欄干に鈴なりになって!

裸電球に照らされた拝殿の中で神楽が・・・

舞手がケッコウなお年の方が多かったのが妙に印象に?

派手な神楽とはチョット違って昔の祭りって感じだったなあ。
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伝 女郎屋の跡
良く覚えてはいないのですが裁判所近辺の岩肌に渡り廊下で
つながった小さな座敷が連なっている景色がありました?

誰に説明されたか覚えていないのですが女郎屋だったって聞きました?

真偽の程は解りませんがなかなか凝った渡り廊下が魅力的でした。

座敷って言っても精々4〜6畳程度の部屋だった様な記憶ですねえ?
裁判所の横じゃあ無いかなあ・・・

なんで裁判所の横で女郎屋なのかなあって疑問に思った記憶が・・
まさに”伝”なんですよ。

大森ってその手の事が多いいんです。
誰が最初に聞いたかも解らない・・・・・
けれど誰かに説明してもらったんだと思うんだなあ?

はじめていったメンバーって記憶にないんです!
でも誰かが連れて行ってくれて案内してくれたんです。

この女郎屋の跡を誰に教わったのか・・・

でも今となってはその建物自体が消えてしまいましたからねえ!
古い写真を探してもあまり撮していないんです。
だって目的は山陰本線の蒸気機関車だったんですから・・

まあ ソッチも撮していないなあ?

なにしに行っていたのかなあ・・
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山神宮のカメ
大森の山神宮 佐毘売山神社のカメです。

今から30年以上前の写真ですが・・
このカメは今でもこの場所に同じように置かれています。
その頃はカメの横に大きな銀鉱石が金網に囲まれて有ったのですが?
何時頃かなあ 無くなってしまいました?

その頃からかなあ・・・大森を石見銀山って呼ぶようになったのは?
佐毘売山神社も社務所があって階段を下りた向かい側・・
川を渡って2軒ほど民家が有ったと思います。

間歩も龍源寺だけが鉄の柵が有って(横から入れるのだが)その他の間歩は柵も無かった!
小学校には子供達がいて・・・挨拶されたっけ

山吹山の下山道横の間歩に良く入ったなあ! 真っ暗で 夏でも寒くって・・・・
不思議な町だったなあ大阪万博後の旅行ブームでも観光客なんていなかったモノ

だいたい町の人達が大森を観光地って思っていなかったフシがある?
そりゃあ廃屋も有ったけれど生活の香りが・・・・

僕らが旧大森県庁って教わった洋館が有って・・・
唐人屋敷・刑場跡 今は看板も無いんですよ?
残して置きたい景色はドンドン崩れていく・・・

情緒を感じた場所には物置とかが・・町並みばかりにお金を使って・・

世界遺産って銀鉱山 産業遺跡なんですが・・・
うーん 古い町=江戸時代の宿場町 って 何とかならないかなあ?

お寺の方の掲示版に・・書き込みが有って!
ちょっと こんな気分です。

そうだ 最近、三徳山の投げ入れ堂をテレビでよく見るような?

大田市が世界遺産登録で有頂天になっているウチに・・・既に世間は次の候補地に・・
大森が世界遺産になれなかったとしたらそれは彼らが大森の価値を理解せず
観光地の呼び物=世界遺産って思っているからなんですよねえ?

石見銀山って町は無い かあ ・・・

鳴き龍と佐毘売山神社のカメそれにアソコとあの場所・・・

確かにボクが必ず訪れる場所って観光客は来ないねえ!

産業遺跡として世界遺産は申請し観光地として大森の町は活用する・・
コレが何で出来ないのかなあ?

ヨーロッパ世界の経済を動かした石見銀の遺跡を調査に来た人達を
古民家?を利用したお土産物屋や蕎麦屋の町並みに案内したってダメだって!

個人的にはねえ”龍源寺間歩”が昔にママなら・・・
案内人がキチント間歩と周辺を説明出来れば・・・・ まあ ムリだなあ!
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