袖まくりに膝まくりをして浴槽の掃除をする少年の背中を、腕組みをしたアスカが不機嫌全開で眺めている。

「…なによ、なんでファーストのやつに泊まってなんかいくよう勧めるのよ、アンタは?」

「別にいいでしょ? だいたい女の子の夜道の一人歩きは物騒だし」

「はっ! ファーストみたいなフカンショー女を襲おうとする物好きなんて、この街にいるわけないでしょーが!?」

「あのね…」

スポンジで擦る手を止めて、次にシンジが口にしたのは、ごく簡単な思考実験。

「じゃあさ、アスカと綾波の立場を入れ替えて考えてみてよ」

「入れ替えるってなによ?」

「つまり、僕と綾波が同居しててさ。そんで、一人暮らしのキミを食事に誘って、食事が終わったと思ったら綾波にさっさと帰れっていわれたら…」

「アンタを生ゴボウでシバキ倒したあげく、熱々中華あんをかけてやるわ」

「………。まあ、そういうことだよ」

あまり釈然としなかったが、一応納得したふりをしてアスカは浴室を出る。

それから即座に手に取ったのは携帯電話だ。

夜道の一人歩きが物騒というのがシンジの言い分なら、一人で帰らせなければいいだけじゃない!

着信履歴を操作してディスプレイに表示させたのは保護者の名前。絶妙のタイミングで流れ始める着信メロディ。

今まさに電話をしようとしていた葛城ミサト本人からである。

「ああ、ちょうど良かったわ、ミサト――?」

ファーストのヤツ、家に帰るっていってんだけど、夜道の一人歩きも物騒だからさ、部屋に上がってくる前に、車で送ってやってくんない?

アスカはそう言おうとしたのだが。


『あ、アスカー? 実はわたし、いまリツコと一緒に飲みに来ちゃってるのよ! 
 
 だいぶ遅くなると思うから、シンちゃんには悪いけど、夕食は片付けておくよう言っといて〜』


ほとんど一方的にそう告げて通話は終了してしまった。あとは虚しくプープーという不通音が響いてくるだけ。

「…………」

一瞬アスカは表情を強張らせた。携帯を床に叩きつけようとして、どうにか踏みとどまる。

それから、まるで苦虫を数ダースほどまとめて噛み潰したような顔つきで、キッチン越しにリビングを見やった。

彼女の視線の先には、テーブルの前にちょこんと腰を降ろしてTVを眺める綾波レイがいる。

その後ろ頭を眺め、アスカはぼそりと呟いた。

長い夜になりそうだわ…。

























ady nd ky 〜second air


Act7:決戦! 第四金曜日葛城家 後編 

by三只





























「お風呂できたよ〜」

シンジの声を背中越しにアスカは聞いた。

今の彼女は、リビングの床に寝そべって、片手で頭を支えながら絶賛TVを鑑賞中。

行儀悪いことこの上ない格好だが、いまやシンジも注意する気をなくしている。

「んー、もう少ししてから入るー」

何気なくアスカはそう答えた。ちょうど見たい番組があったし。

「そう? それじゃ、先に綾波に入ってもらってもいいかな?」

「どーぞどーぞ、ご自由に」

「じゃあ綾波。お先にどうぞ」

「ありがとう。お風呂、頂くわ」

背後で立ち上がったらしい綾波レイの気配を察しても、大してアスカは気にも留めなかった。

彼女が危険に気づいたのは、青い髪の少女がリビングを出ていった直後になる。

全くの横になっていた態勢から一瞬で跳ね起きると、そのまま自室へ猛ダッシュ。

着替え一式を抱きかかえ、何事かと目を見張るシンジの前を縦断し、アスカが飛び込んだのは脱衣所だ。

そこでは、今まさにブラウスのボタンに手をかけようとしているレイがいるわけで、さすがの彼女も驚きに目を見張っている。

「ね、ファースト、せっかくだから一緒にお風呂入りましょ?」

「…どうして? 貴女と一緒に入る理由がないわ」

「んなもん、スキンシップよ、スキンシップ」

もちろんスキンシップなどデタラメだ。アスカが抱いた危惧はただ一点。

…ファーストが先に入ったら、後であたしがお風呂に入ってる間、シンジとファーストが二人きりになっちゃうじゃない!

「滅多にない機会なんだから、偶にはいいでしょ? ねえ?」

訝しげな視線を注いでくるレイの衣服を剥ぎ取り、アスカも手早く自分の服を脱衣籠へ。

「さ、入った入った」

結局、半ば無理矢理アスカが押し切った形になる。

浴室の中にまで連れ込まれて、レイも観念した様子。黙然と洗い椅子に腰を降ろす青い髪に、アスカはシャンプーをたっぷりと塗してやった。

ちなみに自分用ではなく、ミサトが使っているシャンプーだ。値段がべらぼうに高いとかいっていたけど、そんなの無視無視。

「…目、痛い」

「あん? しっかり閉じて洗いなさいよ」

わしゃわしゃと短い髪をかき回す背中を眺めながら、アスカはシャワーへと手を伸ばす。レイが髪を洗っている間に、自分は身体を洗ってしまうつもりだ。

大して広くない浴室。互いに交替で髪と身体を洗い終えてから、一緒に浴槽へ。

「ふい〜…」

髪をタオルでまとめて、アスカは浴槽に肩まで浸かる。

正面にはレイの顔があった。狭い浴槽の中、向かいあう格好になるのは致し方ない。

身体や髪を洗っているときも、ひそかにアスカはレイの肢体を観察していた。

今も湯面に浮き沈みする部分部分を眺めながら、茫洋と呟く。

「ファーストってけっこう着やせするタイプ…?」

「そう? よく分からないわ」

お湯をすくってかけるレイの細く白い二の腕は、アスカも羨ましいと思えるほどの肌理細やかさ。

それでもアスカの視線に余裕があるのは、トータルのプロポーションの良さでは勝っている自信があったからだ。

バランスは良くてもしょせんレイは日本人体型。対するアスカは骨格からして造りが違う。

ふん、ゲルマン遺伝子を舐めんじゃないわよ?

内心で優越感に浸っていると、レイがじっとこちらを見てつめてくる。

「…なに? どうかした?」

「やはりセカンドの方が体脂肪率が多い」

「なっ…!」

「でも、局所的には羨ましい。羨望に値するわ」

胸あたりに視線を注がれ、アスカの怒りは急速に蒸発。むしろ、気味悪いものを見るような目つきでレイを見返してしまう。

もしかして、もしかして。

ファーストのやつ、あたしを褒めているつもりなの…?

だとしたら前代未聞。空前絶後。今日という日の記念碑を建立してもいいのではないだろうか。

もちろんアスカがこんな反応に慣れているわけもなく。

「そ、そうね。やっぱ女性の身体ってのは、凹凸があってなんぼってもんでしょうからね!」

「ただし、胴周辺は除外。あなたとわたしのウエスト差は約1.8センチと推測。動物性蛋白質の過剰摂取が原因として上げられるけれど、内臓か皮下か、それが問題…」

最後までレイは言い終えることは出来なかった。シャワーから振り注ぐ冷水が、滝の荒行の勢いよろしく青い髪をしとどに濡らしている。

「あ、ごめんごめん、ファースト。髪の毛にまだ泡が残ってたからさあ」

シャワーノズル片手に爽やかに笑うアスカ。表情に反して、コメカミのあたりに♯マークが浮かんでいた。

「………」

頬にべっとりと濡れた髪の毛を貼り付け、レイの赤い瞳に微妙な色が動く。対峙するアスカも油断なく身構える。

湯気の漂う狭い浴室内に、不穏な空気が急速に充満して行く。

まさに一触即発と思われたその瞬間、脱衣所から響いてくるのんきな声。

「えーと、綾波ーお湯加減はどうかな? それと着替え、ここに置いておくから」

「……そう。ありがとう、碇くん」

「それとアスカ。綾波とケンカしちゃ駄目だよー?」

「す、するわけないでしょ、バーカ!」

「じゃ、二人とも、のぼせないようにね」

浴槽の中で見詰め合う赤と青、二色の瞳。

「…そろそろ上がる?」

「…そうね」

不穏な空気は霧散した。タイミングを外されて、双方とも毒気を抜かれた格好である。

浴室を出て、自慢の金髪をバスタオルで拭きながら、ふとアスカは気にかかった。

綾波レイの宿泊はまったく急に決まったこと。もちろん着替えなど用意してきているはずもなく、葛城家から貸与することになったのは当然。

だけど、ファーストがシンジに頼んだ着替えってなに?

アスカが眺めている前で、レイはブラジャーを身に付けている。そしてその上に羽織った真っ白いそれは―――どうやらシンジのYシャツのようだ。

なるほどね…。

シンジの体格の丈は、青い髪の少女にとってちょうどワンピースじみた大きさになっている。

長い袖を折りたたんだレイがアスカより先に脱衣所を出ていったのは、髪を拭う量から仕方のないことと言えるだろう。

「ちょっとファースト、待ちなさいよ…」

急いで後を追いかけようとしたアスカは、脱衣所から首を出したところで急停止する。

「はい、綾波、冷たい牛乳……」

レイに向かってコップ差し出しかけたシンジが硬直していた。

「ありがとう、碇くん。いいお風呂だったわ。……どうかしたの?」

「う、うん? い、いや、別に!」

慌ててそっぽを向くシンジの反応に、アスカは驚き、そして不愉快になる。

明らかにファーストに見蕩れていたわね、シンジのやつ…!

危険な形に細められた青い瞳が、今更ながらレイの格好を注視。

女の子が素肌の上にYシャツ。男心を鷲づかみにする魅惑の組み合わせだそうな。

雑誌やTV由来の知識なわけだが、このように目前で実証されては、その有効性に疑いを抱く余地はない。

事実、お風呂上がりでほっこりとした雰囲気をまとうレイの姿は、同性のアスカが見てもじゅうぶんに色っぽい。

普段の楚々とした雰囲気の彼女と純白のシャツという取り合わせも、実にマッチしている。

反射的にアスカは自分自身を見下ろしていた。

Tシャツにホットパンツ。こちらもお風呂上がりのいつもの格好。

瑞々しい太股と脚線美はアスカの自慢の種だが、いまやシンジが見蕩れてくれることもなくなっている。

同居して早数年。その間、毎日のように同じ格好を見ていれば、そりゃさすがに慣れるというもの。

ふだん目にすることのない他の異性の艶姿がシンジに新鮮に映るのは、ある意味仕方のないことなのかも知れない…。

冷静にそう自己分析したつもりで、なおアスカは面白くなかった。

脱衣所を出て、なに鼻の下伸ばしてんの、このスケベ! と殴りつけるのは至極簡単。

しかしそうすると、ファーストに対し負けを認めてしまうのと同義じゃないの?

何事にもとことん対抗意識を掻き立てられてしまうアスカのサガ。

即座に勝負ごとに置換してしまう難儀な性格は、先天的なものか、それともここ数年のうちに形成されたものか。

ただし、その対立軸にシンジがいる、などと指摘されても、絶対に彼女が認めないこと請け合いである。

脱衣所で思案していた時間は、誓って瞬きする間にも満たない。アスカは勢いよく履いていたホットパンツを脱ぎ捨てた。

Tシャツの裾が短くスースーしたけれど、これで魅力は百倍増しの、インパクトは更に倍にしてドン!

「シンジ〜、あたしにも牛乳ちょうだい?」

何気なさを装いながら脱衣所を出れば、予想通りシンジが目を見張る。

レイを見たときの三倍近い勢いで少年の顔が真っ赤に染まって行くのを、アスカは満足げに眺めた。





どうよ、シンジ? ファーストなんかより、あたしの方が魅力的でしょ?

う、うん。アスカの方がずっと…。

ずっと、なによ?

な、なんでもないよ!





そして、現実は―――。





「なんて格好しているんだよアスカ!!」

「え? え? えーと、SHIKINAMIモード?」

「何わけのわかんないこといってんだよ!?」

「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」

「いや、それはどこから見てもパンツで……じゃなくて! いいからさっさとズボンでもなんでもいいから履きなって!」

予想外の少年の反応と剣幕に、さすがにアスカも面食らう。

言われるままに脱衣所にUターンしてホットパンツを履いてくれば、顔を赤くしたままのシンジが視線を合わせてくれない。

テーブルの上に出されている牛乳を口にして、ようやくアスカは軽い自己嫌悪に陥った。

単純に綾波レイに対抗しようとだけ考えていた自分。

形振り構わぬ力技、というか自爆技だったんじゃないの、これ?

………。

そ、それはともかく!

冷たい牛乳が喉に流し込み、アスカは精神的な再建を試みる。

とにかく、インパクトという一点にかけては、十分な成果は上げられたと思う。

自爆だろうがなんだろうが、シンジにより強い印象を与えたことは間違いない。

でも、ファーストはどうなんだろう? シンジに与える影響も考慮して、意図的にYシャツをセレクトしたんだろうか…?

そっとアスカは対面の綾波レイの表情を伺った。ちょうど牛乳を飲み終えたらしく、手の甲で唇あたりを拭っている。

Yシャツのボタンとボタンの隙間から覗く素肌と、ほんのり桜色に色づく首筋。

むき出しの太股を組みかえれば、シャツの鋭角な裾の部分から付け根付近までがチラリと覗く。

ギリギリで下品とはいえない絶妙なバランスと仕草に、内心でアスカは舌を巻いた。

これら全てが計算付くだったとしたら?

…ううん、きっとそれは考えすぎよ。

だいたいシンジに泊まって行けと薦められたのだって、きっとファーストにとっても予定外のことだったんだから。

それにしても、ファーストってやっぱり足が細いのよね。太股と太股の間に隙間が出来るんじゃない…?

そんな風に観察を重ねるアスカの目前で、やおらレイは立ち上がった。

Yシャツの裾を跳ね上げながら、パタパタと脱衣所まで駆けていく。

普段の彼女らしからぬせわしいない行動に、ちょうど口に牛乳を含んでいたアスカの代わりにシンジが訊ねた。

「どうしたの綾波?」

「パンツ履くの忘れた…」

ブーーーーーーーーッ!

盛大に牛乳を噴霧するアスカの目前で、シンジの顔は赤を通り越して深紅に染まっている。











リビングで再びTV観賞をしているレイのYシャツ姿を横目に、アスカは頭を抱えていた。

現在シンジは入浴中。

金髪少女の苦悩は、何も青い髪の少女と二人きりで間が持たないとかいった類の心配ではない。

予想以上の、否、予測不可能な角度から放たれる綾波レイの天然攻撃の数々。

それらがことごとくシンジにクリティカルヒットしているのに対し、自分が空回りしている感じが否めないのだ。

今のアスカの味わう戦慄をRPGに例えると、どうにか倒したボスの後に真のラスボスが姿を現した状況に酷似しているかも知れない。

魔王と勇者とお姫さまという三すくみの状況が脳裏に浮かぶ。

しかし、配役は誰が誰になるのやら。

「…どうしたの、アスカ?」

気づいたとき、風呂上りのシンジが傍に立っていた。

「な、なんでもないわよ」

「そう? なんか凄く怖い顔してたけど」

「だからなんでもないってば!」

いつものような言い合いを繰り返す二人の住人を前に、ゆっくりとレイが立ち上がる。

「ところで碇くん。あたしはどこに寝ればいいの?」

「あ、そうだね」

返事をしながらシンジは廊下の収納棚へ。来客用の布団一式を抱えて戻ってくると、意味ありげな視線を同居人の方の少女に注いでくる。

その意味を察した瞬間、アスカは全力で金髪を左右に振り乱した。

「あたしの部屋に一緒に寝せてやるなんて、ぜーったいに御免だからね!」

「でも…」

「はん! ファーストなんかミサトの部屋にでも泊めてやりゃあいいのよ!」

「駄目だよ、ミサトさんの部屋は。僕やアスカならともかく…」

「ちょっと待ちなさいよ! なんでアンタやあたしならミサトの夢の島な部屋で大丈夫なワケ!?」

再燃する二人の言い合いに、半ば割り込むようにしてぼそりとレイが口にした言葉は、この日最大の爆弾だったかも知れない。

「…わたし、碇くんの部屋で眠りたい」

次元の違う一撃は、ヤシマ作戦もかくやと思われる凄まじい貫通力を発揮。

見事に貫かれ絶句するアスカの耳に、シンジの返答が反対方向からまた貫通して行く。

「うーん、僕の部屋? 別に構わないけど…」

アスカの頭脳は混乱を通り越してフリーズした。

喋ろうにも口が動いてくれない。何か言わなくちゃと思っているのに何を言えばいいのか分からない。

来客用布団一式を抱え自室へと戻っていくシンジをただ見送って、それから首だけ動かしてレイを見た。

表情はそのままなのに、赤い瞳に僅かに勝ち誇った色が見えたのは、アスカの気のせいだろうか?

「…ファースト!」

思わず詰め寄ってしまうアスカがいる。

自分でも制御できない感情が、より直接的な行動へ転化されようとする寸前、シンジがリビングへと戻って来た。来客用とは別の布団一式を抱えて。

「とりあえず、床にお布団引いてきたけど。もし嫌じゃなかったら、ベッドを使ってもらっても構わないから」

「………」

爽やかに言ってのけて、まるで何事もなかったようにリビングへ自分の布団を敷き始めるシンジは、いっそ天晴れである。

…あーそうだ、そうだった。こーゆーやつだったわよね、シンジって。

内罰的で内向的で、自己決定能力に乏しいと思われる碇シンジであるが、それは誤解だ。

ネガティブな性格の大半は、幼少期の母親の喪失や父の保護放棄といった後天的な原因に拠るもの。

確かに気弱だし、プレッシャーに弱いのは間違いない。神経だって大して太くない。

しかし、マイナス要因に圧迫されていないシンジの人格は、それなりに穏やかで安定しているのである。

ともあれば、天然とさえ思われそうな能天気ぶりを発揮することもしばしばだ。

ここ数年、身近で外圧をかけ続けてきたアスカが証言するのだから間違いはない。

アスカは恐る恐る視線をスライドさせる。

そこには、茫然自失といった風の青い髪の少女が立っているわけで。

もちろんアスカにそう見えるだけで、赤の他人にはまったく普段どおりの彼女に見えたことだろう。

「それじゃ、そろそろ寝ようか?」

二人の少女の内心を知ってか知らずか、シンジは平然と提案。

「そうね。そろそろ寝ましょうか。ねえ、ファースト?」

コクリと頷くと、青い髪の少女はシンジの部屋へと歩み去った。その背中はまるで幽鬼のようにアスカには映る。

気持ちは察するわ、ファースト。同情はしないけど…。

アスカも自室へと戻り、電気を消して布団へ突っ伏して約一時間後。

枕に埋めた顔の青い瞳が、カッと見開かれた。

そろりとベッドから降り立ち、足音も立てずドアをゆっくりと開ける。

「なにやってるのかしら?」

廊下には、Yシャツ姿の綾波レイが、ちょうどシンジの部屋から出てくるところ。

「…トイレ」

「枕を持って? へー、ふーん?」

腕組みをし、薄闇の中で半宗教絵画的な笑みを浮かべるアスカ。自分の勘も捨てたもんじゃないと自画自賛。

「枕、替わると眠れないから」

「そうねー、そうかも知れないわねー」

「でも、碇くんが使っている枕なら、眠れるかも知れない」

「…は?」

スタスタと、何事もなかったようにリビングへと向かうレイ。

すかさずその細い肩を抑えようとするアスカだったが、暗い廊下で目測を謝ってしまった。

結果、双方ともバランスを崩す。

電気も消えたリビングへ、あられもない格好の少女二人がもつれ合いながら転がり込む。

そんな彼女らの足元にちょうどシンジが寝ていたりしたのだから、色々と救われない。

「ふぎゃっ!?」

「…あ」

リビングの電気が点けられた。

「なにやってんのさ、二人とも…?」

何故か正座をさせられた二人を前に、さすがのシンジも不機嫌そう。

「え、えーとね? ファーストのヤツが一人でトイレに行くのが怖いっていうから…」

アスカ自身、下手な言い訳と思いつつ口にしてみた。目線だけで、話を合わせなさいよ、ファースト! と合図を送る。

「そうなの綾波?」

コクコクとレイが頷くと、

「じゃあ、仕方ないね」

驚いたことにシンジは納得した様子。

寝起きということを勘案しても、綾波レイが一人暮らしなのを失念しているとしか思えない。

「気をつけてね。もう夜中なんだからさ…」

語尾に欠伸が重なった。そのまま電気を消して布団に潜り込んでしまう少年を眺めて、アスカとレイ、二人の少女の顔には、安堵より微妙な表情が過ぎる。

夜半過ぎに、年頃の娘がそれなりに色っぽい格好をしているのだ。

多少狼狽してくれてもいいのではないか? 

「もしかして、シンジってフカンショー…?」

遠慮仮借ないアスカの呟きが、事態を過不足なく表現している。

全く他人事のような口調だったが、仮にそうだとしても、彼女に全く責任がないわけでもないだろうに。

一方、青い髪のYシャツ少女はめげていなかった。

何気ない仕草でシンジの布団の隣に枕をおいて横になる。

あまりの自然な動きは、アスカの反応も半瞬以上遅れてしまうほど。

「なにやってんのよ、ファースト?!」

さすがに小声で言って、アスカもシンジを挟んで反対側に身体を伏せた。

「…一度、してみたかったから」

「何を?」

「ピロートーク…」

「………あんた、意味わかってんの?」

そんな風に少年の頭上で小声でやりとりを交していると、

「なにやってんの、二人とも?」

「あ、ごめん。気にしないで」

「碇くんは眠っていてくれて構わないわ」

「…えーと、個人的には凄く眠りたいんだけど」

「眠れない? それじゃあ碇くんに子守唄を歌ってあげる」

「…なによ、そのヤゴヤゴいう子守唄は?」

「ぽっかぽーかにしーてやんよー」

「それ子守唄違うし!」

「いやだから、あのね…」

「さっきからうっさいわねアンタは! とっとと眠りなさいよ!」

…未だかつてこれほど理不尽な叱責を受けた人間はいるだろうか? いや、いない。

思わず倒置法で頭の中で反論してしまうシンジだったが、三人目の女性の声が思考を中断させた。

「あら〜、三人してなにやってるのかしら?」

声が聞こえたのは二人の少女も同様で、アスカは露骨にしまったという顔つきになる。  

思い返せば、だいぶ遅くなると言っていた。宿泊すると言っていなかった以上、帰ってくるのは実に当たり前ということを失念していたのだ。

再びリビングの電気が点けられた。

リビングの入り口には、香水とアルコールの匂いを漂わせながら、葛城ミサトが立っていた。







ミサトが少年少女三人に事情の説明を求めたのは、いわば当然の流れといえる。

被保護者の少女の格好はまあいつものものだとして、泊まりに来ているはずの青い髪の少女の格好が、素肌にYシャツだけという非常に扇情的なものだったからだ。

名目上といえど、ミサトが保護者であることに変わりはない。少なくとも未成年の彼らに対して、なんらかの責任を負う義務があった。

とはいっても、どうせ酒の肴にするつもりなんでしょうけど…。

リビングの椅子に縮こまりながら、アスカの推察は実に正鵠を射ている。

その証拠に、ラフな部屋着に着替え、迎え酒と称したビール缶片手のミサトの顔には、明らかなニヤニヤ笑いが浮かんでいた。

「一緒に鍋を食べて、ね。なるほど、なるほどね〜」

なにがなるほどなのよ、このイカズゴケっ!

胸のうちで悪態をつくアスカであったが、次の保護者の台詞には動揺せずにはいられない。

「ったく、普段からシンちゃんと一緒に暮らしてるんだから、偶にはレイに貸してあげてもいいんじゃないの?」

「葛城三佐に激しく同意。セカンドの独占欲は異常…」

「なっ、なっ…!」

二の句が告げないでいるアスカの目前に、ホットミルクの入ったカップが滑ってくる。

「二人とも貸すとかどうとか何いってるんですか。僕はアスカ専用の給仕ってわけじゃないんですよ?」

「まあ、そりゃアスカ専用の【給仕】ってわけじゃないでしょうけどね〜」

微妙に会話が噛みあっていない。

ミサトの加速するニヤニヤ笑いが癇に障って仕方なかったが、アスカは黙ってホットミルクを啜った。

バターとハチミツの芳ばしい香りが、気分を落ち着かせてくれるような気がする。

「…とりあえずファースト! あんたは客なの。たとえ招かれざる客でもね、もうちょっと遠慮するもんでしょ?」

自分を遥か遠い棚に放り上げてのアスカの主張は、どう割り引いても負け惜しみでしかなかった。

しかし、その実、複雑な意味が内包されている。

彼女の名誉のために敢えて遠回りに直訳すれば、あたしのテリトリーを荒らすな! といったところだろうか?

失笑を漏らすミサトを前に、アスカはレイの襟首を掴んで持ち上げた。

「ほら! とっとと寝るわよ!」

「まだミルクを飲み終わってない…」

「いま何時だと思っているわけ!? 夜更かしはお肌に悪いんだから! さっさと来る!」

これ以上、ミサトの、うんうん分かっているわよといった生暖かい眼差しには耐えられない。自分が失言ぽいものを口にしてしまったと気づいたからなおさらだ。

半ば無理矢理レイを引きずって、アスカはリビングをご退場。

二人の使ったコップを片付けながら、シンジは深い溜息をつく。

「はあ…、それにしてもどうしてあの二人は、あそこまで仲が悪いんでしょうね?」

「そお? わたしには結構楽しそうに見えたけどなあ。ケンカするほど仲が良いっていうしね〜」

「そうですか? とにかく、ケンカするにしても、僕を巻き込まないで欲しいですよ」

しみじみ漏らすシンジに、ミサトは軽い違和感を覚えた。

新たなビール缶のプルタップを引き抜きながら、訊ねてみることにする。

「ときにシンちゃん、二人がああなっている根本的な原因って、なんだか分かってるわよね?」

「ええ。本当、食べ物の恨みっておそろしいですよね」

「………」






















それからしばらくして、綾波レイが再び葛城家の夕食へと招待される機会があった際。

胸を張ってキッチンのテーブルを指し示すシンジがいる。

「今日もすき焼きにしてみたよ!」

そこには、二つのガスコンロ。コンロの上には、これまた二つの鉄鍋が。

片方の鍋の中では大量の肉と少量の野菜。もう片方では大量の野菜だけが煮えていた。

「どう? こっちは綾波用で、こっちはアスカ専用に…」

「…碇くん、あなた、分かっていない」

「へ?」

「今回はファーストの言うとおりよ。アンタって、ほんと全然分かってないわよねー」

「????」




















act8に続く?




三只さんからの久しぶりのLady And Sky 2、Act7後編です。前編はだいぶ前のことになりますが…。

待っているといいことがあるものです。三只さん流のアスカシンジ(それにレイも)をお楽しみください〜。
それにしてもシンジはこんなに時間が経ったのに相変らず恋愛音痴ですね(えっ

読後はぜひ三只さんへの感想メールをお願いします。