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京浜急行 四季の私記 

(1992年) 

 横須賀の,それも京急の横須賀中央駅の近くに生まれた私は,京浜急行を見つめながら育った。中学と大学は毎日京急で通った。就職して間もなく東京に住みはじめ,日常的に京急に接することがなくなってもう20年近くになるが,京急が(JR横須賀線と共に)特別な存在であることには変りがない。
 小さいときから鉄道は好きだったが,少し鉄道ファンらしくなってからはまだ10年とちょっと。でも,京急ファンとしては多少年季が入っているといってもよいだろう。

 1 おもかげ

 私の幼いころ,つまり1955年ごろの京急は,いま思うと,戦後の混乱がようやく収まって新しい時代を迎えようとしているころだった。車両の色はマルーンレッドに統一される前で,黄色と赤茶色のツートンカラーのものがかなり走っていた。
 全体に前身の湘南電鉄のおもかげが色濃く,湘南田浦,湘南逗子など「湘南」を冠した駅名いくつもあったし,金沢文庫駅脇の検車場には「湘南電気鉄道」という文字が残されていた。いまならCI戦略でこうした点はまっ先に直すのだろうが,当時はそこまで頭が回らなかったのか,のんびりしていたのか。私の祖母をはじめ,地元に育った伯母たちなどはいつも「湘南で横浜へ行った」などという言い方をしていたから,私は東海道線の湘南電車と混乱させられたりもした。「湘南○○」という駅名が「京浜○○」になるのはずっと後の1963年のことだった。さらに「京急○○」になったのは1987年である。

 2 春

 京急電車の赤は鮮やかでかつ上品で,白い帯との対比が美しい。都会のビルの密集地でも,三浦半島の緑の中でも,野比以南の海のそばでも,赤の鮮やかさを誇るかのように疾走する。横須賀線の紺とクリームも,特に緑の中では映えるし,好きなのだが,どこへ持ってきても絵になるのは京急の赤だ。
 春,桜が多いのは杉田・京急富岡のあたり,ついで久里浜・野比だろうか。追浜以南のトンネルの合間の谷あいに,あちらに少し,こちらに少し,と咲いている桜もよい。このあたりでは,桜より前に梅も見ることができる。
 安針塚・逸見間で横須賀線と直角に交差する。このあたりの山の上から一度写真を撮ってみたいと思っているのだが,なかなか果たせない。

 3 砲台山から

 私の育った家の裏山はかつては砲台山とよばれたところで,東京湾が見下ろせる。終戦までは軍の施設があったところだから,れんが積みの倉庫や防空濠の残骸がごろごろしていて,子どもにはかっこうの遊び場だった。現在は公園として整備され,横須賀中央公園となっている。
 この山の下を京浜急行の横須賀中央・京急安浦間のトンネルが通っている。山の上からは,トンネルを出た電車が左へ大きくカーブして京急安浦(むかしは公郷(くごう)といった)の駅を過ぎ,その先堀ノ内の手前の切り通しに達するのを見ることができる。私は砲台山に行くたびに,20分ヘッドの1サイクルの電車を見た。
 この山を安浦側に下りたところに小さな踏切がある。ここはその昔,尋常小学校の龍崎さんという女性の訓導(先生)が生徒を連れて渡ったとき,踏切に取り残された一人の子どもを間一髪で救い,自分は電車にはねられて死んだという事件のあったところである。私の家には,「あゝ龍崎訓導」という本が残っていた。踏切のわきに小さな追悼の碑があったように思うがいまはどうなっているだろうか。そういう事故の記憶があるためか,祖母は私がこの踏切を一人で渡ることを禁じたが,私にとっては電車を近くから見上げることのできる貴重な場所だった。
 今年の6月,久しぶりに砲台山に登ってみたら,京急安浦の沖の埋め立てが進んでいるのにおどろいた。 安浦というのも,昔, 安田善兵衛(かつての安田財閥の主。東大の安田講堂もこの人の寄付金でできた)が埋め立てたから安浦というわけだが,いまの埋め立てははるかに大規模に行なわれている。そこにこんど大学ができるという。静かな安浦の駅も変貌するかもしれない。

 4 海

 京浜急行ときいて連想するのは「海」,という人も多いだろう。いまは京急で海へ行くというともっぱら津久井浜や三浦海岸だが,久里浜より先の区間が開通する前は,東京・横浜から京急でというと逗子へ行く人が多かった。したがって,京急はどうしても横須賀線の補助という役割に甘んじていた。このころの逗子・鎌倉の海岸はまさに芋を洗うような混雑だった。
 ちなみに,明治・大正時代には,京浜電鉄は羽田・大森の海へ行く路線として売り出していたそうだ。
 横須賀の地元の人間が手軽に泳ぎにいったのは,堀ノ内・京急大津・馬堀(まぼり)海岸のあたりの海だった。ことに馬堀海岸はその名のとおり海にもっとも近かった。子どもは海水着のままシャツをはおるだけで電車に乗って泳ぎに行った。いまこのあたりは埋め立てられてかなり高級な分譲地となり,当時のおもかげはない。

 高校のとき,冬に三浦半島一周40qを歩く会があった。そのスタートが馬堀海岸の駅だった。私たちが準備体操をしていると,駅へ向かう女子高校生が,「あら,寒中水泳やるみたいよ」と言った。それほど海はすぐそばだった。
 いま東京方面から京急に乗ってくると,海がはっきり見えるのはようやく横須賀中央を過ぎてからだろう。このあたりも埋め立てが進んで海が遠くなり,横須賀の沖に浮かぶ猿島も少し見えにくくなった。猿島はちょっとゆがんだ形をしているので,京急安浦の手前から馬堀の先まで,刻々とその形を変えていく。
 大森で泳いだ時代は別にしても,かつてはどこももっと海に近かった。海岸で海苔を干しているのが見られたのはどこだろう。富岡のあたりか。金沢八景や金沢文庫では潮干狩りをした記憶もある。

 5 トンネル

 山口百恵が歌った「横須賀ストーリー」(作詞 阿木燿子)には,「急な坂道 駆けのぼったら 今も海が見えるでしょうか」という一節がある。裏山からいつも海を見下ろしていた私にとって,この歌詞にはこれぞずばり横須賀とひざを打ちたくなるようなリアリティがある。(ちなみに山口百恵は中学2年(だったかな)のデビュー直前まで横須賀に住んでいた。)
 この歌にあるように,横須賀は(横浜の東京湾側からずっとだが)山が海に迫っていて,町中に急な坂道がある。京急の追浜(おっぱま)から京急安浦までの8q余りの間にはトンネルが13ある。この間の車窓は変化に富んでいて乗る立場としてはたいへん楽しいが,1930年に湘南電鉄が黄金町・浦賀間を一気に開通させるのはたいへんなことだったのだろうなと思う。近年になっても,大雨のときに土砂くずれに見舞われるのは横須賀地域である。
 明治のはじめ,自然条件がフランスのツーロンだかに似ているということで横須賀に軍港ができたものの,1889年の横須賀線開通までは,横須賀はまったく交通の不便な土地だったらしい。私の祖父は幼いころ,つまり横須賀線開通前に東京からやってきたのだが,そのときは横浜のどこからか船で来たそうだ。

 6 冬

 三浦半島は冬暖い。三浦海岸あたりだと東京より3〜4度は暖いと思う。快晴の続く冬,おだやかな光を浴びながら走る赤い電車も,京急の美しい姿である。
 三浦半島の中でも,付け根の金沢八景と終点の三崎口のあたりでは冬の気温が違う。野比より先では霜はほとんど降りないし,雪もめったに積もらない。三浦大根はこの気候を利用して作られる。冬の木もれ日の中のハイキングに好適な場所もいろいろあるが,中でも武山から津久井浜へ下りる道からは,海の眺めがよい。
 雪が降った日に,横須賀中央から東京へ向かう電車に乗ったことがある。横須賀中央付近では雪は北側の屋根に少し,吹きだまりに少し,というくらいの積もり方だった。それが,短いトンネルを抜けるたびに,目に見えて雪が多くなっていくのである。見慣れた景色が濃淡さまざまに雪化粧し,新鮮だった。

 7 高架

 このごろはふだんは京急に乗る機会がない。それでも,横浜方面に用事ができたときはなるべく京急を利用するようにしている。たまに乗ると線路や駅,沿線の変化がよくわかる。青物横町・鮫洲では長年うっとおしく空をふさいで高架工事が行なわれていたが,いつか久しぶりに乗ったら新しい線路に移っていて,目がさめたような気がした。
 資料を見ると,戦後の高架化は1966年完成の川崎付近に始まっている。(それより前,京浜川崎の横浜寄りでそばを市電が並行して走っていたのはいつごろまでだったのだろうか。) 以来,かれこれ30年にわたって高架化工事が続けられてきたわけだが,ようやく一段落を迎えようとしているようだ。
 冬の朝など,高架の上からはところどころで白い富士山が見えた。周りのビルも高くなったいまはどうなのだろう。

 8 大津

 久里浜線が久里浜より先に延長されると,ダイヤは完全に久里浜線が中心になり,本線の堀ノ内・浦賀間は実質的に浦賀支線になった。浦賀の造船所に活気がなくなっていったのもこのころだった。華やかに進水式が行なわれた時代もあったのだが。
 堀の内の分岐点の先,本線と久里浜線に挟まれたところには,かつて大津刑務所があった。小さな刑務所だが,ちゃんと高い塀に囲まれ,見張りの塔がいくつか立っていた。地元ではふざけて,近くの県立大津高校をもじって大津大学と呼んだりもした。いま,その跡地には公営住宅が建っている。
 大津高校は,そのすぐ先,新大津の駅のそばにある。私の祖母は,この高校の前身,県立横須賀高等女学校の教師をしていた。その時代の木造校舎が十数年前まで残っていた。この校舎を使って,映画『おはなはん』のロケが行なわれたことがある。このあたりは,いまも桜が美しい。

 9 快速特急

 私の見てきた京急でこれまでで最大のできごとは,1968年の都心乗入れと快速特急の運転開始だった。地下鉄1号線(浅草線)への乗入れ開始の日の昼前,私はさっそく新橋まで乗った。乗り慣れた電車が地下へもぐっていくのはかつてない興奮だった。最前部に立ち,息をのむようにしてトンネルの彼方を見つめた。同じ電車に京急の関係者らしい人が数人乗っていて,本当にうれしそうにしていた。
 快速特急の運転開始は,都心乗入れの1週間前のことだった。特急の停車駅が次々に増えて欲求不満になっていたから,快速特急は救世主のような気がした。大学紛争の時代の不規則な学生生活をしていたころ,行きは可能な限り快速特急に乗った。横須賀中央駅発は毎時17分,37分,57分だったと思う。クロスシートの600系が来るとそれだけで得をしたような気分で,読書に励んだ。
 快速特急は長いこと朝夕は走らなかった。それがやがて夕方走るようになり,朝は通勤快速ができた。朝のラッシュ時の電車は昔よりずいぶん早くなった。まだ乗る機会がないが,平日の夕方にはさらに京急ウィング号が走り始めた。川崎も横浜も通過というのは痛快なことだ。
 いまの快速特急の車両は2000系。私は車両自体にはあまり興味がないのだが,この2000系出現のときは,その新鮮なフォームに目を見張る思いがした。
 600系をはじめとする京急の車両は,四国の高松琴平電鉄にもっとも多く引き取られて第二の人生を送っているという。いちど訪ねてみたいものだ。(→「琴平詣でずの記」

 10 初電・終電

 学生時代の最後の年,しばらく朝早くからのアルバイトをしたことがあった。特急の始発の横須賀中央駅発は5時23分ごろだった。冬だとまだ真っ暗で,白い息をはずませて駅へ小走りに歩いた。電車の中はさすがに暖くてほっとした。この時間でももう座るのは難しかった。品川の手前,八ツ山橋のところで急に視界が開け,昇ったばかりの朝日が車内にさしこむ。赤く照らし出された都会はいつになく美しかった。
 久里浜までの終電は,当時は品川発23時13分だった。麻雀をするときはいつも終電の時間が気になった。この久里浜行きは,乗りすごすと戻る電車がない。あるとき,横浜で飲んだ帰りに寝過ごして久里浜まで行ってしまった(東京で飲んだときは横須賀までにはちゃんと覚めるのだが)。 タクシー代がないわけではなかったが,夏だったから,いい気分で歩き始めた。ほとんど歩いたことのない道だったからだいぶ道に迷い,家まで約2時間かかった。もちろん,酔いはすっかり覚めていた。
 いま久里浜までの終電は品川発0時02分だという。

 11 夢

 『鉄道ピクトリアル』の1970年10月の臨時増刊号は京急の特集号だった。その記事のひとつに「将来計画」という項目がある。改良計画としては駅の改良や高架化があげられ,これらはだいたい計画どおり実現した。
 新線計画としては,(1) 第2次久里浜線延長,(2) 逗子延長線の二つがあがっている。
 (1) は,三浦海岸から油壷まで1973年を目標に延長する,というものである。このうち実現したのは途中の三崎口まで(1975年)で,その先はさっぱり進んでいる様子がない。空港線の延伸と改良が緊急の課題になってこちらは忘れられているようだが,そろそろなんとかしてほしい。
 (2) は,逗子線の逗子海岸(現在は統合されて新逗子となっている)から葉山まで3.5kmの新線建設を検討する,というものである。三浦半島の西側を走る鉄道は昔から何度か計画されたことがあるようだ。逗子と葉山の間の道路は特に夏は大渋滞となるから,もちろん検討の価値はあるのだが,いまとなっては用地の買収は不可能に近いのではなかろうか。残念なことだ。

 空港線の延伸で,京急はまた大きく変わるだろう(→「遅ればせながら空港線初乗り」)。いろいろ困難もあるようだが,長年国鉄と果敢に闘ってきた京急のたくましさがさらに発揮されるのを,私は楽しみにしている。


 [参考文献]

<特集> 京浜急行電鉄(『鉄道ピクトリアル』243 1970年10月臨時増刊,鉄道図書刊行会)
<京浜急行電鉄特集>(『鉄道ピクトリアル』380 1980年9月臨時増刊,鉄道図書刊行会)
長谷川弘和・吉川文夫『かながわの鉄道』(神奈川合同出版,1978)
廣田尚敬・吉川文夫『ヤマケイ私鉄ハンドブック 10 京浜急行』(山と渓谷社,1983)
吉村光夫『日本の私鉄 14 京浜急行』(保育社,1982)
飯島巌 他『私鉄の車両 18 京浜急行電鉄』(保育社,1986)
吉村光夫・諸河久『日本の私鉄 3 京浜急行』(保育社,1989)
『日本鉄道名所 3 首都圏各線』(小学館,1987)
『全線全駅鉄道の旅 別巻1 東京・横浜・千葉・名古屋の私鉄』(小学館,1991)

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(2002年3月3日形式変更)