m@stervision archives 2006a

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



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犬神家の一族(市川崑)

マキノ雅弘・岡本喜八とならんで日本でいちばん好きな映画監督の待望の新作……ではあるのだが、以前に「どら平太」のレビュウで書いたように、おれはもう齢九十を越えた崑翁を「温かい目」で見てしまっているので、30年前の傑作をセルフ・リメイクと聞いても大してドキドキもしなければワクワクもしなかった。初日に駆けつける程度の忠義心は残っているものの、正直、期待よりは「無残なことになっていなければよいが」という心配のほうが大きかった。結論からいえば、なんとか形にはなっていたと思う。だてに長期におよぶフィルム撮影を敢行したわけではない。安っぽさのかけらもない本格的な「プロの映画」を堪能した。では、ここでひろく皆さんにお勧めするかと問われると、もしあなたが1976年のオリジナル版「犬神家の一族」を未見であるならば、映画館に2006年版を観に行くよりはぜひオリジナル版を御覧なさいと言うしかない。かに道楽行く日にカニカマ喰うやつはいないだろ? なに、DVDでのテレビ観賞でも充分に醍醐味は味わえるはず。旧作は画格もスタンダードだしな() ● では、むかし映画館で旧作を観てるおれと同年代以上の皆さんならば? それでもやはり「無理して新作を観なくても、それより旧作をDVDで再見したほうがより豊かな映画体験ができますよ」と申しあげたい。「安いから」「手軽だから」って理由でビデオ撮りの映画もどきばかりが横行する日本の映画界にあって、じっくり時間と金をかけて「本物の映画」を作ろうという一瀬隆重プロデューサーの気骨には心からの敬意を表するし、映画館で映画らしい映画を観たいとねがう皆さんにそれなりの満足感を保証する作品であることは確かだが、ではここに2006年版「犬神家の一族」と いまおかしんじの「おじさん天国」を並べて「本物の映画」はどっちか?と訊かれたら、おれは迷うことなく「おじさん天国」を推す。残念ながら2006年版「犬神家の一族」は現在(いま)の映画ではないし、時代を超える傑作でもないからだ。 ● 旧作の脚本をそのまま使用し、現場ではモニター2台ならべて旧作と見較べながら撮った……というわりには、1976年版と2006年版は驚くほど違う。ガス・ヴァン・サントの「サイコ」以上に徹底して旧作を模倣したカットに溢れているのに、撮影も照明もまったく別物なのだ。この30年のあいだに「昭和22年」の風景が壊滅して、ほぼ全面的にセット撮影に頼らざるを得なかった故に、新作にはロケ撮影の美しい陽光がない。そして新作のセット撮影には深い闇がない。第三の殺人の前後に降る一連の雨の場面は中途半端に薄明るく、夜の場面は充分に暗くない。つまり2006年版「犬神家の一族」には光も影も足りないのだ(有楽座の初日だからリファレンス・プリントが行ってるはずだし、映写の問題ではないはず) でまた、色調が妙に青っぽいのだ。現代日本のビル街ならばそれも良いが、伝統的な日本家屋の室内を撮るのにブルー・トーンは相応しくないだろう(いかにもフジっぽいブルーだったけどエンドロールで確認するのを忘れたので富士フイルムかコダックかは不明) セット美術に関しては──ここまで旧作を再現する必要があるのか?という疑問を措くぶんには──見事な一級品だが、ただ富司純子の部屋の「安っぽくテカってる赤い箪笥」は何とかならなかったのか。 ● これが「映像派」といわれた市川崑の新作か、チェック用モニターが白トビ黒ウキしてたんじゃねーのか!?と下衆の勘繰りのひとつもしたくなるが、じつはおれにとってそれよりショックだったのは、あの市川崑があの「犬神家〜」をリメイクしたのに、この映画がちっともモダンじゃなかったことだ。市川崑という映画監督はセンスひとつで渡ってきたような人だ。50年も前から「下妻物語」や「嫌われ松子の一生」を撮ってきたのだ。たとえ時代劇を撮っても、いわゆる「時代劇」にはしなかった人だ。それなのにこの2006年版「犬神家〜」は野暮ったい時代劇そのものなのだ。たとえば犬神三姉妹の長女役・富司純子は、前作で大女優・高峰三枝子がやった大役をある意味では見事に演じきってると言えるが──いや、おれは好きですよ。富司純子は大好きだし、今でもキレイだと思いますけど──この人はやくざ映画、つまり時代劇しかやってこなかった人なので、芝居が重いのだ。かつての市川崑ならば決してこのような演技を許しはしなかっただろう。おかげで(こういう役を得意としてきたはずの)次女役の松坂慶子まで釣られて時代劇芝居をやってしまっている。芝居が重いということは、つまり台詞が遅いということだ。必然、カットが長くなる。それで(編集は旧作と同じ長田千鶴子なのに)編集のテンポなりリズムが「市川崑の映画」になってないのだ。残酷な言いかたをすれば市川崑はもう年寄りなので気が長くなってしまったのだな。今にして思えば2000年の「新撰組」が良かったのは、あれは生身の役者が出てなかったからかもしれん。 ● 旧作の脚本をそのまま使用したと言いつつ、前述のとおりテンポがのろくなってる=余計に時間がかるはずなのに、旧作2時間27分(エンドロールなしで「完」で終わり)から新作2時間14分(「完」のあとにエンドロールあり)と上映時間は逆に短くなっている。そのために前作からいくつかの場面をカットしているのだが、不可解なのはミステリとして必要な部分ばかりがカットされているのだ。ネタバレに配慮しつつ列挙すると、まずタイトル明けの「犬神佐兵衛翁の生涯を写真で簡略に説明する」シーンが無い。遺言状が読み上げられたあとの「おい、静馬が生きてれば今いくつだ?」「佐清さんと同い歳ですよ」という台詞がカット。そして古館弁護士の運転する車に乗った金田一耕助が「このままでは珠世さんの命が危ない。いや、あるいは彼女が犯人という可能性もある」と推理を述べる台詞が大幅に簡略化。復員服の男の登場によって署長が「これで捜査はふり出しだ。内部の者の犯行だと思っていたが、外部の者が犯人という可能性も出てきた」と言う台詞がまるまるカット。「幼いころの○○と母親の別れ」の回想もカット。なによりマズいのが、犬神一族の血の因縁の秘密を解き明かす金田一と那須神社の神官(大滝秀治)の会話が大幅に簡略化されてしまっていることで、ここがすべての始まりであり核心であり、にもかかわらず「それまで映画に出て来ていない人物たち」の複雑な人間関係が台詞で語られるという、映画にしちゃうと非常にわかりにくい部分をはしょって、旧作で観客の理解を助けていた回想シーンまでオミットしちゃってるので、本作で初めてこの物語に接する観客は、このミステリの根っこの部分がまったく理解できないと思う(※※) ● カットするばかりではなく足したところもあって、現代の観客にわかりにくそうな当時の風俗・習慣を台詞や絵で説明したりするのは結構なのだが、余計なことすんなよ!と思ったのは「珠世が佐清に懐中時計を修理してくれと頼む」場面。旧作では佐清が時計を手に取ったあと無言で珠世につき返すのだが、新作では「今日は気が乗らないから、また今度」とか言うのだ。映画をご覧になればお判りのとおり佐清=マスクの男はなるべく喋らないようにしてるはずなのに! ミステリ・ファンの市川崑とも思えぬ改悪の数々である。いったいどうしたことか。もうひとつ、謎の改変が「瓦屋根の死体」を発見する場面。ここは「恋人を探しにきた女性が、恋人の無惨な死に顔と対面する」という基本的なショック演出なのだが、新作ではなぜか彼女がそちらを向く前に一度、死に顔がカットインするのだ。つまり「死に顔→女が振り向く→死に顔→悲鳴」というカット繋ぎなのだ。いやいや、それじゃ怖くないじゃんか。なんなの一体? あとこれは旧作の時から思ってたんだけど「松子(富司純子)が箪笥に隠した獺(かわうそ)の絵(?)を拝んでる背後に佐兵衛翁の怨霊が浮かぶ」恐怖シーンは、オプチカルのオーバーラップで処理するより──Jホラーを経た今となっては尚更のこと──仲代達矢を実際に立たせたほうが絶対に怖いと思うんだがなあ。 ● 金田一耕助=石坂浩二は、他の誰かが演じることを考えれば復帰万々歳なのだが、やはり歳は隠せない。金田一耕助はもっと頼りなさそうに見えないと。あと、ラスト前の古館弁護士(中村敦夫)の台詞はほんとに蛇足。 加藤武の「よぉし、わかった!」がまた聞けたのは嬉しいけど、映画としては、この役もあんまり歳とっちゃうと粗忽者に見えないんだよなあ……。 島田陽子に代わってヒロイン「珠世」を務める松嶋菜々子は(一瀬プロデューサーの指定だそうだからしょうがないけど)「助清」役の菊之助と年齢的にも身長的にも釣り合わないし、なんか口が歪んでるし、旧作みたいにレイプ未遂場面でのハプニング乳首もないしで、どこがいいんだか おれにゃわからん。今回はフジテレビ=東映の「大奥」とバッティングしちゃったけど、ここは本来なら仲間由紀恵サンの役どころでしょ。 どろどろした物語の一服の清涼剤たるべき「那須ホテルの女中」役の深田恭子は、旧作の坂口良子の(今でいう)ツンデレな魅力に遠く及ばず。連続殺人の開幕を告げる悲鳴もヒドい。なんだありゃ。アヒルが絞め殺されたのかと思ったぜ。今ならやっぱり堀北真希でしょう。 ゲスト出演扱いの三谷幸喜もヒドい芝居で、面白くも可笑しくもない。宿屋の主人は三谷は三谷でも(旧作では鑑識課員だった)三谷昇でしょ。 「めくらの琴の師匠」は今回は草笛光子がやってるけど、旧作のまま岸田今日子で良かったんじゃないか? それで草笛さんはブス婆ぁメイクで「商人宿の無愛想な女将さん」にまわってもらう、と(……と書いた翌日に岸田今日子さんが亡くなった。1月下旬から入院してたのだそうだ。声をかけたけど、出られる状態ではなかったのかもしれない) 旧作で小林昭二が演じた「三女の婿養子」に螢雪次朗。ピンク映画の役者からスタートして「日本を代表する役者十数人」の1人に選ばれたわけだから、ほんと良かったねえ>螢さん。 旧作ではまだ「大関優子」時代の佳那晃子が演じていた「青沼菊乃」役は松本美奈子という(ググッても出て来なかったので)新人? ちゃんと湯文字一枚の上半身ハダカになります。 ● なんだか、一から十まで「旧作のほうが良かった」と言ってるだけの懐古爺ぃの泣き言みたいだけど、1976年版がなかったとしても「市川崑の映画」としてはいま一つも二つも物足りない。市川崑という看板を外して観て、初めて「まあ、面白かった」と言えるレベルだと思う。最後に建設的なことを書くと、次回作はいっそのこと「時代劇」と割り切って、市川染五郎 二役で「雪之丞変化」のリメイクなんてどうかね? いや、もちろん雪之丞はニンからいけば女形の菊之助なんだけど本作を見るかぎりでは、いまひとつスクリーン映えしないしなあ。オリジナル版で市川雷蔵がやったコメディ・リリーフ「昼太郎」は中村獅童でよろしく。
1976年版の「犬神家の一族」は東宝ビスタで製作されたが、現行のDVDにはスタンダード収録されている。東宝ビスタとは何か。DVD-BOX「金田一耕介の事件匣」封入の小冊子より引く>[1970年半ばから79年あたりまで採用されておりました通称「東宝ビスタ」(または「東宝ワイド」)──これは当時、全国の東宝邦画系封切館にはビスタサイズ(縦横比1対1.85サイズ)の上映設備を持つ劇場と、そうでない劇場が混在していたために取られていた方式で、スタンダードサイズで撮影された本篇映像を、ワイド上映設備を持つ劇場(都市部の直営館など)のみ、映写機のレンズに専用のアタッチメントをつけることで映像の上下をトリミングし、縦横比1対1.5の横長サイズにて公開。それ以外の劇場ではスタンダードサイズにて上映されておりました。]
※※ ぜんぜん解んなかったという方のために事実関係を解説すると>「飲まず食わずで行き倒れていた17歳の犬神佐兵衛を、那須神社の先々代の神官・野々宮大弐が保護。野々宮神官は妻帯していたが、じつはホモであり女性に対しては不能だった。若き犬神少年は野々宮神官と衆道の契り(肉体関係)を結び、野々宮の加護を受けて犬神製薬を創業、事業は順調に発展する。だがやがて犬神は恩人たる野々宮の「処女妻」と禁断の愛に堕ちてしまう。野々宮の妻は犬神の子を身籠るが、野々宮はそれを許し「自分の子」として籍に入れる。後年、その娘が養子を貰い、生まれた子どもが野々宮珠世。つまり珠世は佐兵衛の実の孫にあたる」ということです。


長い散歩(奥田瑛二)

許せんなあ。いや、自分の子どもを虐待してる母親=高岡早紀もそうなんだけど、それよりも本作の主人公たる隣人=緒形拳の行動が許せない。だって隣りの子(まだ就学年齢前)は親から虐待をうけていてロクに食事を与えられていないのは明らかではないか。なぜ、スグ警察なり児童相談所に電話しないのだ? しかも設定を聞けば、あんた元・校長だというではないか。そういうときの基本的対応もわからんのか! ケースによっては「一時的に自分で保護しよう」と考えることに正当性がないとは言えん。だが、こいつは子どもを護ってあげようとして体力作りのトレーニングから始めるのだ。バカか! その間に子どもが死んだらどうするのだ。しかもやっと子どもを保護して、どうするかというと、妻と娘に嫌われた/酷いことをしてきた罪滅ぼしの旅に付き合わせるのだ。バカヤロー、その子が「娘の小さい頃」を彷彿させるのはアンタの勝手な思い込みであって、あんたの贖罪とその子は何の関係もない。脚本・監督の奥田瑛二は、みずから扮した刑事に「巡礼なら独りでやれ!」と言わせているので、自分勝手な行動だという認識はあってのことなのだろうが、そんな男を主人公にした映画など到底、好きになれないし、そんな男がなにをどう贖(あがな)おうと共感できるはずもない。よって最低点とする。 ● そうした点を抜きにすれば、緒形拳も高岡早紀も好演。特に高岡早紀は歳とともにどんどんエロくなって来ていて素晴らしいの一言。「愛の流刑地」とかなんで高岡早紀にしなかったんだろう(「花と蛇3」でもいいぞ) [追記]……と書いたら、日本テレビのTVドラマ版「愛の流刑地」のヒロインに起用されたと発表された。超能力者か!>おれ。

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レディ・イン・ザ・ウォーター(M.ナイト・シャマラン)

予告篇を観て、わかった! アパートの管理人のさえない中年男が人魚を助ける話だと思わせといて、じつは人魚じゃなくて人喰い地底人のメスでした。それで人間どもは押し寄せてきたオス=半魚人たちに襲われて阿鼻叫喚の地獄絵図……というホラー映画だとばかり思ってたら全然ちがった。てゆーか、今回オチが無いし。そういう構造の映画ではないのだ。ではどんな映画かというと、形としてはファンタジーなんだが、なんというかずいぶんと露骨な映画である。なんと本篇が始まる前に絵物語とナレーションで「物語のあらすじと基本設定」をぜんぶ明かしてしまうのだ。そして「だが人間たちは聞く術を忘れてしまった……」というナレーションに続いて本篇へ。 ● 中年男の前にずぶ濡れの赤毛美人があわられる。男が名前を訊く。女はこう答える「My name is Story.(名前はストーリーよ)」 そして「わたしはナーフで、この世界に器(vessel)をさがしに来た」と言うだけ。するとアパートに住む英語の話せない韓国人の中年婦人が「家に代々伝わる御伽噺」としてナーフすなわち水の精の言い伝えを知っていて、彼女の目的や、それを助ける「役割」を負った人間の存在、そして邪悪な敵やその弱点について一から十まで教えてくれる。 ● この映画が凄いのは、こうした超自然的な設定の数々を観客に信じさせるための手続きを省いてしまっている点である。主人公の中年男をはじめとして、アパートの住人たちはストーリーを疑うことを一切しない。いつも脚本家が腐心する「謎→疑問→証拠→納得」というプロセスを採らず、登場人物は言われたことを無条件で受け容れる。水の精て……とか、韓国に伝わってる御伽噺がなんでフィラデルフィアに登場すんのよ!?とか、そーゆー疑問はまったく差し挟まないのだ。これはつまり語り部であるシャマランが観客にもそういう態度を要求しているということだ。わたしの言うことを信じなさい。受け容れなさい。さすれば幸福が待っている……。 ● 劇中で「器(vessel)」の役割となる人物を演じるのは、なんとシャマラン本人である。カメオ出演なんて次元じゃない。物語のキーとなる役だ。それは「現在の社会では毀誉褒貶が激しいが、やがて世界を正しい方向へと導く一冊の〈本〉を書くことになるライター」というものだ。観客を唖然とさせたまま物語は粛々と進行し、やがてハッピーエンドが訪れて、エンディングに流れるのは子供たちの合唱によるボブ・ディランの「時代は変わる」 ● ──いったいこれは何なのだ? 従来のシャマラン映画にあった「チープなジャンル映画のプロットを重厚な演出で魅せてしまう」という面白さはこの映画にはない。バカみたいな話を愚直な演出でストレートに見せるだけ。サスペンス演出も二級品。目に見えている以外のことを言外に語ろうとしているようにも思えるがそれが何なのかピンと来なかった。唯一、ハッキリと受け取れるメッセージが「偉そうにピント外れのことばっか言ってる映画評論家など犬に喰われてしまえ!」というものである。 ● これ、おれがディズニーの会長でも困り果てたと思うなあ。触らぬ神に祟りなし。どうぞワーナーさんでも何処でも持ってってください。だって完全にデンパだもん。今後どうなっちゃうんでしょうか?>シャマラン。ワーナー映画も「どーすんのよ!?」と今後の処遇を考えあぐねてると思うけど、こうなったらいっそのこと(本人がやりたがってるんだから)「ハリー・ポッター」の監督やらしといたらいいんじゃねえか?(ハリーにこの世の真理を説くインド人教師の役とか勝手に作りそうだけどな)

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花田少年史 幽霊と秘密のトンネル(水田伸生)

予告篇を観たときから(相撲をしないので)アレ?とは思っていたのだよ。本篇を観ておれの長年の勘違いがハッキリした。「花田少年史」ってマンガは若・貴兄弟の話じゃないのね。いや、予告篇を観て「伝記にしちゃずいぶんフィクショナルな要素が強いなあ」と思っていたのだ(マジ) ● 事故がきっかけで幽霊が見えるようになった少年が騒動に巻き込まれ、両親のなれそめを目撃し、親友の父さんが亡くなった事故の真相を知る……という話。いい幽霊と悪い幽霊が出てきて、基本はコメディ・タッチながらもSFXのコワい場面もあるという、つまりこれ「学校の怪談」シリーズの新作なんですね。 ● 監督の水田伸生は日本テレビのディレクターで、映画はこれが1本目。大森寿美男による脚本は伏線をきれいに回収して、笑いのなかに親子の情を描いてウェルメイド。おれは「よくできたファミリー映画」にヨワいので星4つ付けたが、これ、タイトルに「秘密のトンネル」とあるわりには「トンネルに幽霊が出る理由」はとってつけたよう。てゆーか、この話にトンネル要らないじゃん(火暴) あと「泣かせ」のためとはいえ、片親がザラにいるイマドキの小学校で、運動会の借りもの競争に「お父さん」なんて無神経なお題が出るわけないでしょ。 ● 主演の須賀健太クン。出てきて長髪 似合わねー!と思ったら、事故の治療という名目ですぐ坊主アタマになるのだった:) ちょっと考えごとすると頭が痛くなっちゃうバカガキ ワンパク小僧で、ほかの友だちも含めてイマドキこんな小学生はいないって気もするが、作り手は意図的に一生懸命に生きている子どもたちを描いてるのだろう。話のスタイルが、まわりの大人たち(と幽霊)が寄ってたかって須賀健太クンをイジくりまくるというものなので、健太クン、リアクションにおお忙し、堂々の主役ぶりである。大きくなっちゃう前にぜひ続篇希望。 ● 篠原涼子は二の腕の太い母ちゃん像を好演。 だけど西村雅彦の父ちゃんは「普段はサエないタクシー運転手だが魂は荒くれ漁師。回想場面にロン毛&ヒッピー・ファッションあり」とくれば、これこそまさに竹中直人の役ではないか! どーでもいいとこにばかり便利に使って、使うべきとこに使わないんだから。 仇役の北村一輝はハマリ役。 セーラー服の幽霊に安藤希。最初に目にしたときの「セーラー服にしちゃ老けてるんじゃ?」という(観客の)疑問もちゃんと説明されるので安心してくれ:) あと、観てる最中はわかんなかったんだけど、須賀健太クンの地味ぃなお姉ちゃんは大平奈津美ちゃんだったのか(すっかり大きくなって!)

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ユナイテッド93(ポール・グリーングラス)

本年度最高の娯楽映画である。そして本作が傑作足りえたのは、これが実話だからだ。いや、べつに実話の重みがとか実話と知って観てるから迫真性が増すとか、そんなこと言ってんじゃないぜ。なにしろ「エアポート」シリーズ史上はじめての「ハイジャックされた飛行機が墜落して終わる映画」である。実話でなけりゃそんな脚本にゴーサインが出るワケがない。でまた実話のなかでも9.11という記憶に生々しい大惨事でなけりゃハリー・ベリーがスチュワーデスだったり、乗客としてブルース・ウィリスが乗り合わせてたり、元CIAの整備員うっかりカーゴ室に閉じ込められたりしてたに違いないのである(……ま、最後のやつは来年ぐらいにミレニアム・フィルムズが作ると思うがな) 作り手がワカッてる証拠に画面はスコープサイズ。タッタッタッタッと静かにカタパルトを登ったら、あとは一気呵成。キツいGをかけて観客を右へ左へと思う存分ふりまわし、最後は脇目もふらず一直線の急降下。地面に激突して終わり。追悼式典のエピローグも愛国心を鼓舞する大統領演説もない。墜落したらブラック・アウト。44人の人生はそこで終わるのである。 ● まだバクバクしてる心臓をなだめながら黒字に白文字のシンプルなエンドロールを眺めつつ、あらためて「そうだよ、これ実話だったんだよなあ……」と思い出す。そして志半ばにして散った4人のアラブ人の人生に思いを馳せる。<そっちかい! 映画が終わればスパッと中身を忘れられるのが身上のハリウッド産 娯楽映画とは180度ことなる後味の重いエンタテインメントであり、いま作られる意味のある映画。 ● 前作「ボーン・スプレマシー」のカーチェイス・シーンに顕著だった「どんなにカメラを振り回して細かいカッティングを施しても見せたいものを着実に観客に伝える」というポール・グリーングラスの稀有な才能は本作でも思う存分に発揮されている。 ● 管制官とかに「本人出演」が多いのは知ってたけど、軍の防空指令本部の担当将校まで「本人出演」だったのにはビックリした。だって管制官たちは何もわからない中で精一杯の努力をした「英雄」と言えるけど、アメリカの空を守るべき軍人にとっては、錯綜した情報にふりまわされて効果的な対策もとれず、あげくペンタゴンにアメリカン77便が突っ込んだのをテレビで見て呆然としてるとこで「ハイ、出番終わり」なのである。完全に失態じゃない。それなのに本人が出演して当日の失態を演じてるのは偉いと思った。アンタおとこだ。それにしてもアメリカの本土防衛って意外に貧弱なのね。

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ミュンヘン(スティーブン・スピルバーグ)

撮影:ヤヌス・カミンスキー 音楽:ジョン・ウィリアムズ

やっぱ最初の30分で選手村襲撃事件をじっくり見せるべき。主人公が登場するのが30分後だっていいじゃない。それを除けばたいへんな力作だと思った。エスピオナージュとして一級品であり「M:i:III」なんぞよりよっぽど「スパイ大作戦」の精神に忠実じゃないか。 ● だけど、じつは終映後の場内を見渡して、いちばん感じたのは「この物語をいったいどれだけの日本人が理解してるんだろう?」という観客の教養ギャップだった。パレスチナ・ゲリラとイスラエル政府の闘いだというところまでは映画を観ればわかるだろうけど、はたして「パレスチナ」と呼ばれる土地と「イスラエル」という国家の存在する土地が同一のものだという基本的な認識を、あるいは「イスラエル」国家成立の歴史的矛盾を、この兄ちゃん姉ちゃんたちは理解しているのだろうか? 「アラブ人」と「パレスチナ人」はどう同じで、どう違うのか? テレビのニュースで放映されるイスラム過激派のテロは知ってても、現状の暫定自治区に対するイスラエルの仕打ちを知っているのか? 評論家は偉そうに「ラストに写るツインタワーが墓標のようだ」などと書くが、あれが世界貿易センター・ビルだとわかる日本人がどれだけいるのか。──こういうことを何ひとつ知らないで観て、それでもこの映画は意義あると言えるのだろうか? それでも「ミュンヘン」は「娯楽」として機能するのだろうか?……といった映画の内容とは直接、関係ないことを考えてしまった。アスミックエース謹製のご立派なパンフには(オリジナル・プレスシートの翻訳はたっぷり載ってるけど)こうした政治的背景を解説する文章はひとつも載ってない。よく「アメリカが東西海岸のリベラルと内陸部の保守層に二分されていて、保守層はアメリカ以外のことにまったく関心がない」などと言われるけれど、そうした教養ディバイドは日本でも確実に進行していて、そのほうが勝ち組/負け組なんて分け方よりもよほど深刻じゃないかって気がする。世界のことにまったく関心がなくて、映画の字幕を読むのが苦手で、選挙になったら何も考えず小泉純一郎だの安部晋三に投票してしまう人たち。その人たちに「ミュンヘン」は有効なんだろうか? ● あとこれ、カラミやヌードがあるからってわけじゃないが、スピ映画にはめずらしく女の趣味が良いんじゃない? 字幕は松浦美奈。「屠殺者(butcher)の手だ」という台詞を「命を奪う者の手だ」とポリティカリィ・コレクト訳している。

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X - M E N:ファイナル ディシジョン(ブレット・ラトナー)

原題は「X-MEN: THE LAST STAND(最後の抵抗)」<そのままでいいんじゃね? ● ブライアン・シンガーがいなくなったお蔭で差別だのテロだの小難しいテーマはテキトーに流して、次から次へと化け物みたいな忍者 ミュータントが出て来て対決する。サイコーだ! これこそ本来の「超人類忍法帖」があるべき姿である。おれは原作コミックスを読んだことないので、原作ファンが納得できない改変だってぜんぜんオーケーだ。スピンアウトでもなんでもどんどん作ってもらいたい。やくざの手先の忍者ミュータント群団と対決する日米決戦なんてのもいいと思うぞ:) ● 前作のレビュウで3作目は「やさぐれてマグニートの用心棒をしているウルヴァリンが最後の最後にX-MENに表返る話であるべき」と書いたのだが、実際にできあがってみたら「ウルヴァリンの恋人がマグニートの用心棒になってて最後に恋人同士が闘う話」になっていた。なるほどハリウッドの脚本家もバカじゃないスな。というわけで今回、主役はなんとファムケ・ヤンセンお姐さま。短パンからのびる御々脚がエロいっす。離婚して「=ステイモス」の取れたレベッカ・ローミンも青い全裸女 ミスティークとして再登場。超能力を失って素の裸になってしまうというすばらしい観客サービスはブライアン・シンガーじゃ思いつかんぞ。 ● その他の共演陣も「なにもそこまで……」と思っちゃうくらいオリジナル俳優が全員そろって出演。そりゃウルヴァリンが別の役者になっちゃってたら困るけど、アイスラッガー君とかは(あの程度の扱いなら)ギャラの安い新人でもよかったんじゃねえか? わざわざ脚本を直させて出番を増やしてまで出演してるハリー・ベリーも、相変わらずストームに付随するドラマが薄いので印象に残らず。 なかでもアンナ・パキンときたらおばさん顔ってだけじゃなく体格もゴツくなってて、吸精くノ一ことローグは「悲劇の美少女」じゃなくちゃマズいんだから、本作で壁抜けガールを演じたコをローグとして起用すれば良かったのに。 あと「ウルトラヴァイオレット」のクソガキがまた出てた。ニコール・キッドマンの「記憶の棘」もこの子だし……ひょっとしてアメリカ人にはこの顔が「可愛い」と映るのか?

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ファイナル・デッドコースター(ジェームズ・ウォン)

2作目「デッドコースター」の監督デビッド・R・エリスが「セルラー」「スネーク・フライト」と順調に出世(?)してるので、「ザ・ワン」でミソをつけた1作目のジェームズ・ウォンが出戻って監督した3作目。脚本も書いているジェームズ・ウォンの功績は「人がたくさん殺されるティーン向けホラー」に〈運命〉という新機軸の連続殺人鬼を導入したことに尽きる。その発想の原点が「オーメン」の首刎ねシークエンスにあったのだろうことは想像に難くないが、なんと本作では「オーメン」に出てきた〈死の予兆写真〉までパクって 導入している。死ぬ運命の人を写真に撮ると死にザマを予告するかのような光や傷が写り込んでいるという例のアレである。本作ではヒロインが卒業アルバムの写真係という設定で、ジェットコースター事故から逃れた人たちの写真を事前に撮影していて、それぞれの写真の中に死にザマのヒントが隠されているという趣向。もちろん事前にそれを解読できた奴は皆無で、無惨な死にザマを晒してから「ああ、なるほど、この○○が○○を示していたのか」と観客だけが納得する仕組みになっているわけだ:) ● 今回は「不運な偶然が重なるシークエンス」の面白さに関してはやや手抜き気味なのが残念だが、そのぶん死にザマのエゲつなさは増しており、さらに生乳が2人分トッピングされているのでティーン向けホラーとしては間違っていない。ただ──ハリウッド映画でこう感じることは滅多にないのだが──ヒロインのメアリー・エリザベス・ウィンステッドの芝居が酷かった。「スカイ・ハイ」のイジワル生徒会長役はサイコーだったのにねえ。このコ、悪女顔だからホラー映画のヒロインのメソメソしたり泣き喚いたりの芝居が似合わないんだろうね、きっと。あと、このシリーズのお楽しみと言えば“キャンディマン”トニー・トッドがいつ登場するかと待っていたら、けっきょく最後まで出てこなくてがっかり……と思いきやエンドロールによると、冒頭の遊園地のシーンで悪魔像の声をやっておったんですと(エンドロールの最後にもひと笑いしてます)

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サイレントノイズ(ジェフリー・サックス)

アメリカ公開時にアップルの予告篇サイトで観たオリジナル予告篇がえらい怖そうだったので、日本公開を首を長くして待っていた作品。じつを言うと待ちきれなくて買っちゃった輸入盤DVDが部屋のどこかにあるような気もするが気のせいだ気のせいに違いないバカ考えるな考えるんじゃないだって観てないDVDは存在しないのと同じことじゃないか(シ立) ● えー、気を取り直して。原題は「WHITE NOISE」。E.V.P.Electronic Voice Phenomenon=電子音声現象)なんて横文字で言われちゃうと禍々しさが薄れてしまうけれど、ようは「死者の声が紛れ込んでる録音テープ」をネタにしたホラー映画である。死者の声ったって「死んだ爺ちゃんが生前に録音したカラオケ・テープ」とかじゃねえぞ。何年も前に死んでるはずの人の声や映像が、ふいに磁気テープのホワイトノイズやビデオテープの砂嵐のなかに紛れ込んで来ることがあるそうなのだ。「リング」の呪いのビデオとかもその一種と言える。ね、怖そうでしょ? ようやくハリウッド映画もJホラーを消化してオリジナルな作品を生み出すまでになったか、と期待してたのよ。ところが映画を観てがっかり。ネタはいいのに料理の仕方を間違えて台無しにしちゃった典型例なのだ。 ● 発想の元はおそらくリチャード・ギア(1949年生)の「プロフェシー」、ケビン・コスナー(1955年生)の「コーリング」、メル・ギブソン(1956年生)の「サイン」という、なぜか2002年にそろって公開された「妻を亡くした中年男が異界からのメッセージを受けとる」三部作だろう。本作の主人公マイケル・キートン(1951年生)もまた妻を亡くしてE.V.P.にのめり込んでいくのである。「E.V.P.研究」といえば聞こえはいいが、やってることは「砂嵐を録画したビデオテープを延々と見続ける」というハタから見たら完全にキチガイである。ところが見続けてるうちにだんだんと砂嵐のなかに亡くなった妻の顔が浮かんできたり声が聞こえたりするのだから(別の意味で)恐ろしい。呪いのテープどころかデンパ受信装置なんですな。そのうちなんと未来予知まで可能になっちゃって(「シックス・センス」のオスメント坊やよろしく)人助けを始めたり、しまいにゃ連続殺人事件の解決に奔走するに至っちゃ何をか言わんやである。いや、もちろんじつは[妻の死も事故ではなく連続殺人の犠牲者]だったという説明はつくんだけどさ。 ● [以下ネタバレ]殺人犯のとこに乗り込んでいく主人公。そこで明かされる驚愕の事実! なんと実行犯は精神を操られていて真犯人は邪悪な霊だった。そしてマイケル・キートンはとつじょ実体化して邪悪なキャスパーみたいになったCG悪霊に襲われるのである! ばかやろう、トンデモにも程があるだろ。最後のテロップ>「今日までに記録された数万数千のE.V.P.事例のうち、およそ12例に1つは悪霊によるものである」 なんじゃぁそりゃーっ!? 本年度がっかり度ナンバーワン。単純に面白くないのでトンデモ映画好きにもお勧めしない。 ● 監督はBBC出身のイギリス人TVディレクター。脚本家・撮影監督もイギリス人で、実質的にはイギリス映画。

★ ★
LOFT ロフト(黒沢清)[ビデオ撮り]

脚本:黒沢清 撮影:芦澤明子 照明:長田達也

そうとうに変格な木乃伊映画。木乃伊だけじゃなく幽霊まで出てくるので混乱するがプロット自体はごくシンプル。僻地の館に招かれたヒロインが屋敷に怪しい棺が運び込まれるのを目撃してしまう……という、往年のユニバーサル映画やハマー・プロの怪奇映画をこの21世紀に堂々とやってるわけだ。湖畔に設置された前近代的な自動装置などあきらかにその現れだし、ラストで自動装置が作動して[怪人があっけなく湖の底に沈む]のも怪奇映画の呼吸にほかならない。ゲイリー芦屋の劇伴も陳腐なまでに露骨に徹している。主題は「怪人と木乃伊の恋」であり、ヒロイン=中谷美紀は木乃伊の生まれ変わりである(だから口から泥を吐く) 「怪人」とはもちろん館の主である豊川悦司で、西島秀俊の本来の役回りは「ヒロインを救いに来る婚約者」である。こうした古典的な怪奇映画の構図に、黒沢清がJホラーで養ってきた幽霊描写とサイコホラーの要素を混ぜ込んであるので、一見、フクザツになってしまっているが、怪奇映像としての魅力度は ★ ★ ★ ★ に値する。 ● ではなぜ、そこから星2つが減じられているかといえば、ひとつは、舞台を「何処とも知れぬ山の中」に設定しているのは現代に生きる映画作家として逃げじゃないかと思うからで、怪奇映画をやるのならば、現代日本の風景のなかでどうやるかに挑戦すべきではないのか。てゆーか、タイトルが「ロフト」なんだから田町あたりの倉庫街が舞台ではなぜいけないのか。 ● もうひとつは、より根本的な理由だが、この映画の本質はラブ・ストーリーであるにもかかわらず恋愛感情がまったく描けていないからである。もともと黒沢清はコトでしか描かない映画監督である。画面に写るものしか描かないという典型的な叙事作家で、叙情には興味がない。怖いコトは描けるけし、怖がってる様子は描写するが、怖いという気持ちが描けない。ホラー映画やバイオレンス映画ならば、内面を描かないことが逆に武器にもなってきたわけだが、ラブ・ストーリーではそうはいかない。内面を描かないラブ・ストーリーなんてありえない。いきなり「きみが好きだ!」「愛してる!」とか叫ばれても、そこにいたる2人の気持ち(の変化)が観客に納得できなければ、ラブ・ストーリーとしては失敗である。ひょっとしてアレか? 中谷美紀は豊川悦司に初対面で「春名です」と苗字を名乗ってるのに、2度目に会ったときにはトヨエツがもう「礼子さん」と(教えてもいない)ファーストネームで呼んだりするのが、そして3度目にはいきなり「礼子ぉ!」と呼び捨てにすんのが「2人の気持ちの変化」とでも言うつもりか? 「回路」のときも思ったけど黒沢清って「40歳の童貞男」かよ! ● なにも情緒纏綿たるメロドラマをやれと言ってるのではない。あなたが敬愛するヒッチコックだって「髪が風になびくヒロインの美しいアップ」ひとつで強引に観客に納得させてきたではないか。ラブ・ストーリーだって記号的表現は可能なのだ。なぜそれをやらない? 時代がかった怪奇映画は臆面なくやれるくせに、典型的なラブ・ストーリー描写をやれぬはずがなかろう。商業監督としてまだまだ覚悟が足りんと思うので星2つとする。 ● 最後に細かい(だけど決して小さくない)ツッコミをいくつか。この映画に出てくるミイラって柔らかいんだ!? トヨエツが両腕にかかえると屍体のようにグニャリとするんだけど、それって「ミイラ」って言われるとちょっと違和感があるよな。ミイラというより屍蝋のようなものなのかもしれないけど、それだったらそれでヒロインの同僚の鈴木砂羽あたりに事前に解説しといていただきたい。こういう手続きってけっこう重要だと思うんだがなあ。 それとトヨエツがいる廃墟然とした研究棟の汚しが下手だよね>美術班。いかにも「ベニヤで建てて塗装で汚しました」って感じだもん。 あとこのヒロインなんでそんな大量にティッシュを買いますか? 最初に6パックを買って帰ってきて、次に出てきたときにも6パックを下げてるのだ。なんかの伏線?とか思っちゃったよ。 ● お客さんの気持ちよりCMスポンサーの顔色を大事にする最低の映画館=テアトル新宿にて不本意ながら観賞。おお、久々のフィルム撮りかあ、やっぱりフィルムはいいなあ、闇に味がある……などと思って観終わったらエンドロールに「VE」がいたのでショックを受けた。VEがいるってことはビデオ撮り? いや、たしかに屋外場面はややハレーション気味かもしれんし、焼却炉の場面の白いシャツとかちょっと色滲みしてる?と思わんでもなかった。だけど薄暗い室内のシーンとか、どう見てもフィルム撮りにしか見えなかったぞ。粒子(グレイン)が見えたもん! これで全篇ビデオ撮りだったら、おれのフィルム至上主義者としての信条にヒビがぁ……。 [追記]全篇ビデオ撮りだそうだ。しかも(フィルムレコーディングじゃなくて)キネコ!? が〜ん……このレベルで(編集用デジタルデータから)上映用フィルムが作成できるのならばビデオ撮りであることを非難する謂れはない。素直にシャッポを脱ぐ(シ立)<なぜ泣く!?

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おいしい殺し方(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)[ビデオ上映]

小劇場演劇の人気劇作家/演出家 ケラリーノ・サンドロヴィッチ(100%日本人)の「1980」に続く第2作。とはいっても、BSフジとUSEN(GyaO)が共同製作して、すでに地デジとネットで放映/配信済みの作品である。渋谷の「シネマGAGA!」で2週間限定のレイトショー。同日発売のDVDがお土産用に映画館で売ってるという完全に劇団のファン向けの興行。一部のアニメやアイドルとおなじで、コアなファンに何度も何度も金を使わせることによって成立してる商売である。 ● もちろんビデオ上映だが、かなり高性能のプロジェクター(DLP?)が設置されていて、でっかいテレビを見てるようなクォリティで観られる。中身のほうも「ドジで頓珍漢な女3人組がドタバタと殺人事件を解決するコメディ調ミステリ」という、小林聡美 主演で火曜サスペンス劇場でやっててもおかしくない話。ミステリとは言っても「意外な真犯人」とか「血も凍るサスペンス」とかは観客の誰一人として期待してないし、書いてる/演出してるケラにしたって「描きたいテーマ」とか言いたいことなんか何もないわけで、ただただ双方同意の上で、定形のフォーマットのなかで思いきり弾けてる、ケラ得意のナンセンスなギャグと古典的なドタバタを楽しめばよい。ひとときの娯楽として完璧な仕上がりなので満点とする。ぜひシリーズ化希望。マジで火サスや土曜ワイドの枠でいけるんじゃないか(てゆーか、まず本作を土曜プレミアムの枠で放映しようぜ>フジテレビ)


笑う大天使ミカエル(小田一生)[ビデオ撮り]

無惨。不様。画面いじりで映画が面白くなると勘違いしてる「下妻物語」フォロワーの1本だが、学友たちとの友情、ヒロインの兄への気持ちなど基本的な感情も描けていないのに、小手先だけの画面いじりなど何の意味も無い。ホワイトバランスすら合ってねえし(白ソックスや白ブラウスが白になってない)、終盤の回想の「兄と妹が夜の商店街をとぼとぼ歩いていく」シーンで、カラートーンが黄色からいきなり青に変わるのは、ありゃなんのつもりだ。CG黒犬は絶対に実写にすべきだし、特に[巨大ヒロイン]をCGにしてしまうのは完全な間違い。このCG監督出身のバカは映画のことをなにひとつ解っていない。1本の映画として(芸術的に、ではなく)説話上ぜったいに必要なカットが平気でボッコボコ抜けているのも商業映画以前(たとえば「船上で銃で撃たれて海面に沈んでいくビックリした表情の俯瞰ショット」とか) 予算が無いせいもあろうが、主要キャスト以外のエキストラのレベルが低すぎて「お嬢さま学校」という基本設定がまったく受け容れられない。でまた、乞食装束がウリの北村道子に衣裳を頼んだもんだから、案の定ちっともお嬢さまに見えやしない。だいたい「〜していただいてよろしいでしょうか」ってのは敬語じゃない。ファミレス言葉だ。ようするに(自分ではあると思ってるらしいが)映画を作るだけの知性も技術もセンスも無いってこった。アタマ悪すぎなので星1つとする。


マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝(谷垣健治)[ビデオ撮り]

ツカミとして冒頭に「トム・ヤム・クン!」にも匹敵する長廻しの一大アクション・シーンがあって、スピード感を増すためにフィルムでいうコマ抜きのようなことをやっているようなのだが、本作はビデオ撮りなもんだから動きがカクカクしちゃって見てられない。どれだけ長廻しでも単なるダンドリにしか見えず、「アクションを見てる」という興奮をまったく味わえない。5分で退出したくなった。 ● それでも(谷垣健治の初監督作への期待から)我慢して観つづけたのだが、結局これ、ものすごーくつまらない鈴木則文+JACものだった。もともとは倉田プロの企画で、若者7人が活躍するサムいコメディという方向づけをしたのは監督の谷垣健治自身のようだが、いったい誰に見せようっつーの? いや、これが全国東映系で「スケバン刑事」と2本立てで公開されたんなら、ただの「つまらない映画」で済ませてもいいよ。だけど最初っから全国公開作品じゃないってわかってるわけじゃん。観に来るのは中学生じゃなくて、倉田保昭×千葉真一に惹かれた中年のアクション映画ファン(含む>おれ)か、出演してる特撮アイドル目当ての特撮オタじゃんか(なんと倉田&千葉以外の出演者は元「特捜戦隊デカレンジャー」に元「仮面ライダーアギト」、元「仮面ライダー555」、元「仮面ライダーカブト」、元「仮面ライダー剣」、元「ウルトラマンマックス」、元「超星神グランセイザー」、それに元「実写版セーラームーン」なのだ) それなのにアクション・シーンは(アクション監督を務めた)「笑う大天使」のほうがよっぽどマシ。アイドル俳優たちの魅力的な笑顔ひとつマトモに撮れていない。これならビッグマウス北村の「VERSUS」や、下村勇二の「デス・トランス」のほうが、おれたちゃ金の無いぶんアクションとアイディアで魅せるぜ!という気合いがストレートに伝わるぶんだけ、よほど観ていて気持ちが良い。こういう観客不在の企画には我慢がならないので星1つとする。 ● アクション監督としての実力には異論のない谷垣健治だが「演出家」としてはぜんぜんダメ。御大・千葉真一の臭い芝居をちっとも制御できてないし(もともと実力のない)若手俳優たちの演技は学芸会レベル。なかでは芳賀優里亜が、やや「場数を踏んでる」感じで安心して観ていられる。ただこのコ、最初はメガネっ娘として登場すんのに途中でなしくずしに眼鏡はずしちゃうのだ。わかってねーなー。 ● まあ、予算も日数もないなかでは(時間的にも精神的にも)アクション指導で精一杯で、とても芝居の演出までつけてる余裕がない……というのが本当のところだろう。おそらくこの企画も「谷垣健治にぜひ監督で1本!」というよりは「谷垣に監督させりゃ別にアクション監督雇う必要ねえし」という後ろ向きの理由での起用であろうし、監督が新人だってのにプロダクションが用意した脚本家はシナリオ学校出たての新人(青木万央)と、その意味ではおおいに同情するけれども、出来上がったものがコレじゃあ褒めようもない。これに懲りずに次回のリベンジに期待してるぞ>谷垣健治。

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スーパーマン リターンズ(ブライアン・シンガー)[ビデオ撮り]

ジョン・ピーターズなどという業界では終わった名前が堂々と「製作」としてクレジットされていることからもわかるように、本作はおそらくハリウッド史上もっとも開発費と製作準備に費用のかかった映画である。別の言いかたをするなら、クランクイン前に使った金の額が──いや、もっとハッキリ言えば、完成した本篇には活かされていないゴミ箱に捨てた金の量が史上No.1の映画、なのである。なにしろ元を辿れば「バットマン」(1989)で当てたジョン・ピーターズが「夢よもう一度」とばかりに同じD.C.コミックスの「スーパーマン」の映画化権を手に入れたのが発端なのだから。10年以上にわたるスッタモンダの末、ライバルである20世紀フォックス=マーヴェル・コミックスの「Xメン」完結篇の監督に決まっていたブライアン・シンガーを引っこ抜いて、ようやく動き出すことになったわけだが、おかげで、いざクランクインするときには主役は無名の新人、NYロケ禁止、オーストラリアでビデオ撮りという(大作にしては)節約体制で作らされ、結果、全世界であれだけバカ当たりしても製作費と劇場興収で収支はトントンなどというムチャクチャな話になってしまった。そのせいでワーナー首脳部がなかなか2作目にゴーサイン出さないんだそうだが、だって2作目は実質製作費だけなんだから、1作目の半分ぐらいでできんじゃねーの? ● 今回、公開に際して書かれた記事やブログを読んでて意外だったのはリチャード・ドナー版「スーパーマン」(1978)への熱烈支持を表明する人がすごく多かったこと。クリストファー・リーヴ主演の前シリーズが公開されたのは、おれが高校から大学生にかけての頃で、そりゃ1作目も面白かったけど、おれは断然、リチャード・レスターの「スーパーマンII 冒険篇」(1981)「スーパーマンIII 電子の要塞」(1983)のバカバカしさのほうが好みだった。ついでに同時期の映画では、ジョン・ミリアスの重厚な「コナン・ザ・グレート」(1982)よりリチャード・フライシャーの軽妙な「キング・オブ・デストロイヤー コナン PART2」(1984)のほうが100倍おもしろいと思ってる。そういう人間だから本作「スーパーマン リターンズ」を観て、もちろん面白かったし、2006年に王道中の王道ヒーローをみごとに甦らせたブライアン・シンガーに対して「感心」はしたけど「感激」はしなかった。おれとしちゃ、マックG監督×ブレンダン・フレイザー主演のバージョンが観たかったね。ロイス・レーンは「ハムナプトラ」繋がりでレイチェル・ワイズでさ:) ● ブライアン・シンガーが監督を引き受けるときの条件が1978年版の「ジョン・ウィリアムズのテーマ曲を使う」ことと「マーロン・ブランドのフッテージを自由に使えること」だったそうだ。ジョン・ウィリアムズは大賛成だけど、マーロン・ブランドに関しては正直「なんで?」と思ってた。そりゃたしかに「ゴッドファーザー」(1972)のときは凄かったけど「スーパーマン」1作目のマーロン・ブランドって単なる太った爺さんで、芝居もちっとも良いと思わなかったもの。おまけに衣裳がアルミホイルですよアナタ。自主映画かよ!と。1978年の時点ですらクリプトン星のセットと衣裳デザインは「ダッセー」と思ったもの。あ、でも逆の例もあって、本作でも踏襲しているオープニング・タイトルの尾をひく青い文字。いまじゃべつに珍しくもなんともないだろうけど、1978年当時は文字に特殊効果がついてるってだけで「おおーっ!」と興奮したもんなんスよ。 ● なんの話だっけ?……そう、マーロン・ブランド。本篇を観て納得した。ブライアン・シンガーは2006年という時代に「スーパーマン」を荒唐無稽にならずに映画化するために「父から息子へと受け継がれていくもの」というアメリカ映画伝統のテーマを必要としたのだ。それほど今回の「スーパーマン」は苦悩に満ちている(ように、おれには見える) ● なにしろ(劇中設定で)5年も地球を留守にしてるあいだに、世界では9.11が起きたりイラク戦争が起きたりしてて、ロイス・レーンは「世界はなぜスーパーマンを必要としないか?」という記事でピューリツァー賞に選ばれてる始末。現代社会にアメリカン・ウェイのために戦うスーパーマンの身の置きどころはないのだ。1978年版の「スーパーマン」ではロイス・レーンに何のために?と訊かれてハッキリと「真実と正義とアメリカン・ウェイのために」と答えているが、2006年版には(「空を見ろ」「鳥か?」「飛行機だ!」はあっても)その有名な台詞は使われず、星条旗のイメージも周到に避けられている。(ビデオ撮りのせいもあるのか)画面が暗くて曇天ばかり。本来ならスーパーマンに似つかわしいスカッと晴天の場面がない。スーパーマンのコスチュームもくすんだ色合いで、まるで「スーパーマンIII」の悪いスーパーマンのようだ。──はたして現代社会はスーパーマンを必要としているのだろうか? ● その問いに対してブライアン・シンガーはどういう答えを用意したか。じつは答えていない。あたりまえだ。答えられるわけがない。誠実で、ゲイの、ブライアン・シンガーには、スーパーマンがアラブのテロリストをやっつけてユナイテッド93を墜落から救い、ジョージ・ブッシュに笑顔で敬礼する物語は死んでも書けない。だからスーパーマン(とブライアン・シンガー)は荒唐無稽な大犯罪を企てるレックス・ルーサーに救われるのである。そして解答の代わりに「父と息子」の物語に安息を求めるのだ。現代を舞台とすることから逃げずに正統派のスーパー・ヒーローを描いてみせたブライアン・シンガーに「感心」した。 ● 新スーパーマンのブランドン・ラウスはエフェクトかけすぎでCGみたい。 ケイト・ボスワースはミス・キャスト。ロイス・レーンつったらアナタ、記者根性バリバリのせっかちでそそっかしい チャキチャキの江戸っ娘ですよ。往年のキャサリン・ヘプバーンみたいなキャラの女優が演じて初めて、おっとり型のクラーク・ケントとの掛合い漫才が成立するんじゃないの。 レックス・ルーサーを楽しそーに演じてるケビン・スペイシーは「笑いながら怒るとこ」とかひょっとしてジーン・ハックマンを意図的にコピーしてる? あと、せっかく「レックス・ルーサーの情婦」にパーカー・ポージーをキャスティングしたのに、キャラ設定が「中途半端に良心がある弱気なバカ女」なので彼女の良さが活かされていない。もっと、レックスの尻を叩くような強気のヒステリー女にしなきゃ意味ないじゃん。あるいは、いまの脚本なら適役はパリス・ヒルトンだろ。 ● もひとつ感心したのは、ファミリー映画なのにちょっとセックスの匂いがあるよね。スーパーマンがローライズのセミビキニ・ブリーフ着用なのは監督の趣味としても、ケイト・ボスワースが空のランデヴーの前に靴を脱ぐしぐさとか、ちょっとドキドキした。 ● なお、「スター・ウォーズ」で使われたソニーのシネアルタを、パナヴィジョンが独自進化させたジェネシスHDビデオカメラによる撮影は、少年期のクラーク・ケントがとうもろこし畑の上をジャンプするシーンで一瞬「ん?」と思ったものの、あとは、あれ?「『スーパーマン リターンズ』は全篇ビデオ撮影」と前にどこかで読んだ気がするのは気のせいだったかな?と思うような画質で、正直、観てるあいだはビデオ撮りと自信を持って断定できなかった。おまけにエンドロールの最後には堂々と「カメラ&レンズ by パナヴィジョン」とロゴが出やがるし(いや、間違いじゃないだろうが……)

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ハイテンション(アレクサンドル・アジャ)

フランス製のホラー映画だが、これが意外にも「悪魔のいけにえ」に真っ向から挑んだゴリッゴリハードゴア・ホラーだった。フランス公開は2003年の6月。ベッソンのヨーロッパ・コープ製作だから自動的に日本の配給はアスミック・エースとなるわけだが、「スクリーム」シリーズや「SAW」の変格ホラーで儲けてきた同社といえども、本作の洒落にならないストロング・スタイルに惧れをなして3年間の店晒し。いーかげんなんとかしないといかんだろ。どーする?どーするよ>おれたち……と顔つきあわせて社内会議の真っ最中、「く〜ずやぁ〜、おはらいっ」と叶井俊太郎がリアカー引いて通りかかったので、思わず窓を開けて「屑屋さん、ちょっと!」というわけで(当サイト推測)目出度く御下げ渡しとなり「アスミック・エース提供/ファントム・フィルム配給」という丸投げ公開となった次第。あれですな。「ふたりにクギづけ」の20世紀フォックス→アートポートと同じパターンですな。聞くところによるとアレクサンドル・アジャ監督の次回作「サランドラ」のリメイク(20世紀フォックス配給)は被曝畸形の殺人家族が大活躍だそうだから、また御下げ渡し待ちか? ● ストーリーは、女ともだちの実家=田舎の一軒家に泊まりに来たヒロインのところへ「ジーパーズ・クリーパーズ」なトラックに乗った殺人鬼(演じるは「カルネ」「カノン」の鬼畜親父フィリップ・ナオン!)があらわれ、一家を惨殺して友だちを拉致していく。隠れていて難を逃れたヒロインは殺人鬼のトラックを追いかけるが……という王道パターン。ベッソン製作だけど脚本にはかかわってないので、終盤のツイストも効いて見ごたえ充分。日本公開バージョンは口パクが合ってない英語吹替版で、おまけに特殊メイクが懐かしや「サンゲリア」「ビヨンド」「地獄の謝肉祭」のジャンネット・デ・ロッシなのでB級イタリアン・ホラー感たっぷり(ただし、カット単位での残酷描写削除があるもよう) 酷ンどい目に遭いながらも殺人鬼と対峙するヒロインを演じるのは、このあと「80デイズ」の主役トリオの1人に抜擢されるセシル・ドゥ・フランス。本作では名前のとおりのセシル・カットにしてて(先述のとおり口パクが合ってないので)「愛の妖精アニー・ベル」?とか思ったのは内緒だ。ただ、フランス映画のわりには脱ぎません。オナニー・シーンあるけど。

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楽日(ツァイ・ミンリャン)

「楽日」と書いて「らくび」と読む。興行最終日を意味する業界用語である「千秋楽」の、さらに業界通用語で、映画業界では、その映画の上映最終日を指す。用例「今日、らくびだからポスター張替えよろしくー」とかね。ちなみに「初日」は「しょにち」で「はつび」とは言わない。 ● 2003年の東京国際映画祭で「さらば、龍門客桟」のタイトルで上映されたツァイ・ミンリャン(蔡明亮)作品。原題は「不散」で、同時に製作されて、日本でも同時レイトショーされているリー・カンション(李康生)の初監督作「迷子」の原題「不見」と合わせて「不散不見」で「じゃ、またね」みたいな意味の成句になるんだそうな。 ● 廃館となった実在の映画館を舞台とした「映画館最後の日」の話……と聞いてたので「ラスト・ショー」や「ニュー・シネマ・パラダイス」みたいな映画を漠然と想像してたら、なんとこれ(たぶん映画史上初の)ハッテン場映画なのだった(火暴) ● 台北にあったという、その映画館の名は「福和大戯院」。1,000人クラスの客席を誇る大劇場で、3階分はあろうかというロビー/廊下/怪談は複雑にからみあって迷路のよう。外は土砂降りの夜。人影まばらな客席。上映されているのはキン・フーの名作「残酷ドラゴン 血斗!竜門の宿(龍門客桟)」だが、だれも映画など観ちゃいない。なぜなら、この映画館はホモたちのハッテン場になっていて、特に後部客席に座った男たちは例外なくお相手探しが目的で、落ち着きなく席を替わっては隣席の男の反応をうかがい、その気がないと知れるとまた席を移っていく。アンモニア臭たちこめる男性用トイレでは、男たちが5分でも10分でも並んで小便器に向かっている(かれらはべつに小便をしているのではない) あるいは廊下を徘徊し、映画館の物置に入り込み、すれ違う男たちと意味ありげな視線を交わす。いや、これ、べつにおれの体験談 妄想じゃなくて、これがこの映画で描かれていることなのだ。ひぇ〜。ユーロスペースでのロードショーが終わったら、ぜひ浅草中映で上映していただきたい(木亥火暴) ● えー、意味がおわかりにならない方に映画興行の暗黒面をご説明すると、浅草中映の2階は有名なハッテン場らしいのだ。おれは「現場」は目撃していないのだが、初めて入ったときの劇場探検でその「不穏な空気」は充分に感じられた。そっち方面の方々って、映画みるでもなくロビーのソファに座ってたり、独特なんだよな。これはピンク映画館での話だけど、トイレで後から入ったおれが小便して出てきてもまだ並んで立ってる人たちってのは、体験してるし。ありゃやっぱ品定めしてるんでしょうなあ(←これは昔、新宿西口のトイレでも遭遇したことがあって、こんなところが!とビックリした) ● そういえば同じ六区にあった映画館「東京クラブ」の3階もそんな感じだった。なんか古い寂れた映画館って、その種の人々を呼び寄せる磁場のようなもんがあるのかね(影が蔭を呼ぶ……みたいな?) 前に釜山に旅行したときに「友よ チング」に出てきた──主人公たちが工業高校生の集団と乱闘になる──映画館ってのに行ったんだけど、そこもやっぱ1,000人クラスの大劇場で、いまはピンク映画館になってて、入場券 買って入って場内探検したんだけど、ピンク映画館で平日の昼間だから場内は閑散としてんだけど(ワンスロープの客席の)最後尾の4階部分の真っ暗な客席だけが妙に人口密度が高えんだよ。わっ、ハッテン場だよと思って早々に退散したんだが、そういうわけで少なくとも日台韓3国で映画館事情はまったく同じなのである。不思議だ(ちなみに香港の油麻地戯院にも入ったことあるけど、あそこはそういう感じはしなかった) ● 閑話休題。本篇にはもうひとつのストーリーがあって、テケツの中年女──腰が悪いらしくひょこひょこびっこを引いている──が、ふかした餡饅頭を自分で半分 食べてから、残りの半かけを1階のテケツから、えっちらおっちらびっこを引きながら3階のそのまた奥の狭い階段を上がったところにある映写室──なぜか技師は不在である──まで届けにいって、どうやらこの女、映写技師に気があるらしく、後でふたたび映写室まで様子を観に行って──やはり不在である──饅頭に手をつけてないのを見て落胆したり……といった描写が、ホモと交互に挿入される。映写技師は──じつはこれを監督の分身たるリー・カンションが演じているのだが──ほとんどラストシーンまで登場せず、会話はない。ホモたちの会話ももっぱら視線に拠るもので、つまりこの映画に台詞はない(正確にいうと2シーンだけ、ある) 聞こえるのは上映中の「映画」の音声だけ。カメラはホモ/びっこ女と共に映画館の中をくまなく歩きまわる。 ● やがて映画が終わり、場内で唯一、映画を観ていたとおぼしき老人2人が挨拶する。じつはこの2人は「残酷ドラゴン 血斗!竜門の宿」に出演していたミャオ・ティエン(苗天)とシー・チュン(石雋)である(ってことを、おれは観終わってからチラシを読んで知ったんだけどさ) やがて老人たちが去り、ホモの皆さんが帰り、掃除をしていたびっこ女も外へ出て、だれもいなくなった客席──その空間をフィックスのカメラは延々と5分以上にわたって映し出す。びっこ女がシャッターを降ろし、外のポスター掲示用のウィンドウに「しばらく休館致します」と貼紙をする(事前情報なしで観たならば、ここで初めて観客は、この日が映画館最後の日だったと知る) 打ち棄てられた場所に吹き溜まる打ち棄てられた人たち。その場所も今日で終わり。にわか正義漢の新聞記者もデジカメ持参の映画ファンもいない、いつもと同じ1日の終わり。鍵を閉めて、土砂降りの雨の中を独り帰っていくびっこ女に、服部良一のセンチメンタルな中華歌謡曲が流れて映画は終わる。82分。つまらない映画ではあるけれど、観て損したとは思わなかった。映画館ファンに。 ● 最後に無粋なツッコミをひとつ。場内にはパン兄弟の「the EYE」や韓国映画の「情事 an affair」のポスターが貼ってあるんだけど、今日で閉まる映画館には「次回上映」のポスターは貼ってないよね(そこだけ四角く日に焼けてなくて、それが余計に侘びしさを増すものなんだが)

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幻遊伝(チェン・イーウェン)

↑とおなじ台湾映画とは思えない田中麗奈と「藍色夏恋」のチェン・ボーリン(陳柏霖)のアイドル映画。香港でツインズがやってるような、あの手の映画である。映画のオープンセットに紛れ込んだ女のコが、どうしたわけか昔にタイムスリップして、盗まれた千両箱をめぐってハンサムな義賊青年や、キョンシー使いの霊幻道士や、自分に瓜二つの女鼠小僧と大騒動に……という話(ちゃんと水浴びシーンもある!) ゆるゆるの映画ではあるが1980年代の香港映画ノリで観てればあんまり退屈しない。しかし日本じゃ(テレビも含めて)ほとんどこーゆー現実離れしたアイドル映画は作られなくなっちゃいましたなあ。ほんとなら長澤まさみがヴァンパイアと戦ったり、松浦亜弥は3年前に「スケバン刑事」になってるべきなんだが。 ● 原題「TRIPPING 神遊情人」。台湾とオメガ・プロジェクト+角川ヘラルド+ポニーキャニオンの共同製作。監督は「現実の続き 夢の終わり」「運転手の恋」のチェン・イーウェン(陳以文)。なぜか撮影が名匠リー・ピンビン(李屏賓)で、?と思ったら監督はエドワード・ヤンの弟子筋だそうな。台湾で漢方薬局を開いている、という設定の父親に大杉漣。香港からウー・マ(牛馬)がワンシーンだけゲスト出演。


青春☆金属バット(熊切和嘉)[ビデオ撮り]

「鬼畜大宴会」「アンテナ」「爛れた家」「揮発性の女」の熊切和嘉の新作<すいません、歳なもんで、いちいち書いとかないと熊澤尚人とゴッチャになっちゃうんです。てゆーか、ほんと言うと、宇治田隆史や本田隆一ともゴッチャになりがち。ひでーな。 ● いかにも青年漫画な展開のストーリーといかにも青年漫画な台詞。おれ、原作コミックス読んでないけど、なんとなく山本直樹の絵に変換しながら観てた。でも青年漫画なら主人公と坂井真紀の激しいSEX描写は不可欠だろ。いや、もちろん本作での坂井真紀は特殊メイクで「巨乳女」を演じているので脱ぐに脱げないんだが。そして不良警官の安藤政信は万引き人妻の紺野千春@エロい!を激しく犯さなアカンだろ。女房役の女・大杉漣こと江口のりこを台所でバックからヤる描写はあるんだけど(どうしても「PG-12」に収めたい製作サイドの意向でもあるのか)脱ぎOKの女優さんなのに見せないし。もちろんPG-12なので言うまでもなく「金属バットで頭蓋骨パッカーン→脳味噌バッチャーン」の描写もなし。ダメじゃん。意味ないじゃん。原作は「ヤングチャンピオン」だろ? R-15でいいじゃん。中学生なんか観にこねーよ。てゆーか「ヤンチャン」読んでる中学生は中学生に見えねーよ。 ● 主人公を演じる竹原ピストルは、本業は「野狐禅」というフォーク・デュオのヴォーカルだそうだが、鬱屈した青年像をなかなかの好演(エンディングで流れたこいつの曲はスゲー良かった) 野球好きのルンペンをなぜか若松孝二が演じている。 ● ファーストカットの「坊主頭の後頭部」からありありとビデオ撮り。ふーん、アンタら画が汚くても平気なんだ? 色が小汚く濁ってても「映画の出来とは関係ない」と思ってるんだ? ビデオ撮りの薄汚さが限度を超えているので星1つ減とする。

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紅薔薇夫人(藤原健一)

原作:団鬼六 脚本:藤原健一 撮影:中尾正人 撮影助手:田宮健彦

東映ビデオがひとやま当てた石井隆×杉本彩「花と蛇」の二匹目の泥鰌をねらってアートポート+日活+新東宝が共同製作した団鬼六のSMポルノ。5月に銀座シネパトスで先行ロードショーされたのだが、敢えてピンク映画の番線に落ちてくるのを待って観賞。 ● 報道班として赴いたガダルカナルの激戦地で出会った1人の兵士から託された一冊のノート。それは内地で資産家の運転手をしていたという兵士が、美しき令夫人への歪んだ愛を描いた緊縛画集だった。そして数奇な運命は、敗戦後の焼け跡でこの3人を再会させる……。 ● 資産家の令夫人・有川美希を演じるのは、アイドル→ヌードグラビア→Vシネマと芸能界の王道を歩んできた坂上香織(31歳)。「ウルトラマンコスモス」の副隊長役で「あれ? テレビ界に転向しちゃうの?」と思ったけど無事こちら側に戻ってきてくれました:) もっとも、帯を解くまでに30分。それなりのお約束シーンは揃っているものの「杉本彩の肉体ドキュメント」という呈だった「花と蛇」に較べると、本作はじつにオーソドックスな団鬼六映画に仕上がっていて、「花と蛇」が有していたエゲツなさに欠けるぶんだけスポーツ新聞やサラリーマン週刊誌での扱いの差が如実に現れてしまったのは皮肉だった。 ● かっちり照明を当てたフィルム撮り70分というフォーマットからも明白なように、一連のアートポートのビデオ撮りH系作品とはまったく別もの。坂上香織のほかにも大沢樹生・津田寛治・清水昭博といった著名俳優の出演、おそらく地方の温泉旅館ロケだと思うが(想像される予算規模からすれば)驚くほどがんばっている美術班の仕事ぶり、そしてピンク映画やVシネマで活躍する藤原健一によるメロドラマ調の古風な演出から連想されるのは、1970年代の日活ロマンポルノの諸作である。つまり観客が、予算の制約ゆえの「そこんとこは目をつぶって」フィルターをかけずとも普通に観られる「映画」になっている。 ● 「花と蛇」のレビュウでも書いたが、団鬼六のSM小説の基本形は「貞淑な和装の令夫人が、下衆な男によってもたらされる性的悦楽の前に淪落する」というもので、本作のようにそれを男性側主人公の視点から描いた場合は「気高きもの、美しきもの、純潔なるものを汚したい」という欲望を描いた物語となる。あれですね、おろしたての白いズックを見ると踏まずにはいられないという本能と同じですね(そうか?) 主人公の「すべては夢なのか。どうして美しいものを壊してしまったのだろう……」という独白から始まる本作はテーマをきっちり抑えてはいるのだが、ラストがどうにも締まらない。ま、これは必ずしも「団鬼六的」とは言えないのだが──1本の映画として構成する場合は「貞淑な令夫人」などという男の勝手な妄想(ファンタジー)を、やがて「性的悦楽に悶える生身の女の凄まじさ」が木端微塵にうちくだく。女の底なしの性欲に圧倒されて、最終的に男どもは膝を屈するしかない……という結び方が定石であって、いや、坂上香織の最後の台詞は「……女でいたかった」だし、そっちの方向に持っていこうとしてた気はするんだが、それがきちんと(濡れ場で)表現できていないので、どうにもすっきりしない終わり方になってしまった。 ● 縄師のクレジットが「ハッピーのマスター」で、なんじゃそりゃ?と思ったら、どこだかのSMバーの店長なんですな。たしかに「見せる」縛りとしてはサマになってるが、あのさ、胸縄ってのは、ただ「胸の上下(うえした)」を縛りゃいいってもんじゃないんだよ。ちゃんと乳房を搾り出すように締めあげなきゃ意味ないじゃん(あばら骨 縛ってどーする?) あと、やくざの親分に恥ずかしい姿態を要求されたヒロインが「勘弁してください」って言うのは「堪忍してください」の間違い。SM映画のヒロインのキメ台詞でしょうが。しっかりせーよ。 ● 脱ぎのある女優は3人。坂上香織のほかに、令嬢@処女役の新人・永瀬光と、卑しいあばずれ女郎役の黒田瑚蘭。観てるあいだはぜんぜん気付かなかったけど、帰ってきてググッたら、なんだ黒田瑚蘭って2000年頃にピンク映画に出ていた黒田詩織なんじゃん。ピンク映画引退後「かんの梨果」と名乗ってたのを再改名したんですな。発声とかまるっきり別人だったぞ。 ● ということでアートポート+日活+新東宝は、このレベルのプロダクションを維持できるなら、来年以降もこの「21世紀ロマンポルノ」シリーズをぜひ続けていただきたい。ちなみに本家の東映ビデオのほうからは「花と蛇3」の噂はいっこうに聞こえてこないが、あれですかね。やっぱ武田久美子の離婚待ちですかね?


間宮兄弟(森田芳光)

午後のまどろみを破るヘリの音で始まり、感情的クライマックスに自転車による道中付けを配してることからも明らかなように、森田芳光が意図的に1980年代はじめの作風に回帰した新作。おそらく森田芳光の意図したとおりの仕上がりで、その意味では完成度は高く、演出の腕は衰えていないのだが、映画ってのは言うまでもなく時代の産物であって、1980年代はじめの映画を、いま作られても困る。古臭いだけだ。てゆーか、キモいよ、お前ら。登場人物のだれひとり好きになれなかった。ひとつわかったのは中島みゆきの演技って犬山犬子と質が同じだ。

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バタリアン4(エロリー・エルカイム)

眉間を撃ち抜けばクタばる……のはロメロ・ゾンビの設定であって断じてバタリアンではな〜い! 脳を破壊しても身体をコマ切れにしても活動を止めない。だから樽詰めにするしかない……ってのがロメロ・ゾンビ(とそのたくさんの亜流映画)に対しての「バタリアン」のオリジナリティであったはずだ。頭に穴が空いたぐらいでヤラれちゃうなんて──オバさんはアンタたちをそんな子に育てた覚えはありませんよ! 


ステイ(マーク・フォースター)

ああ、くだらねえ。皆さんがまちがって観ちゃったりしないようネタバレ承知で書いてしまうが、絵解きパズルみたいな断片を90分近くも見せられて、最後にすべては[いまわの際に見た夢]でした……という映画である。いや、もちろんアレとかソレとか、同趣の映画は以前にもあったわけだが、この映画の作り手が勘違いしてるのは、あのさ、元の話が面白くなけりゃそれをどう解体しようが思わせぶりに語ろうが面白くはならんのだよ。「ユージュアル・サスペクツ」よろしくラストの謎解きで「ね、ココがあの描写に繋がってるワケよ」とか得意顔で語られても「それがどーした?」としか思えんよ。まったく時間の無駄。

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ウルトラヴァイオレット(カート・ウィマー)[ビデオ撮り]

予告篇で、安っぽいCGの街並みの中を動き回るミラ・ジョヴォヴィッチの、ガウスぼかしをかけすぎて肌のディテイルがすっかり失われCGキャラみたいになっちゃってる顔を見て「いまどきハリウッド映画で、そのクォリティはどうなのよ?」と思っていたのだが……ひやぁ、これ、香港映画だったのか。いや、比喩じゃなくて。3人いる製作総指揮のうち1人が香港映画界の影の大立者=サロン・フィルムズのチャールズ・ウォン(汪長智)なのだ。この会社はカメラ/レンズなどの撮影機材レンタルを独占的に取りしきってるので、香港映画のエンドロールを見てると最後に必ず名前が出てくる。サロン・フィルムズのもうひとつの稼業が「海外映画のアジア・ロケの現地コーディネート」で、本作も香港と上海にロケしている。また、ソニーのシネアルタによる撮影は「ダブル・ビジョン」「不夜城」「宋家の三姉妹」「ゴッド・ギャンブラー完結編」「ワンス・アポン・ア・タイム 天地大乱」の大ベテランのアーサー・ウォン(黄岳泰)で、プロダクション・デザインが「香港国際警察 NEW POLICE STORY」「インファナル・アフェア」「レディ・ウェポン 赤裸特工」「クローサー」のチウ・ソンホン(趙崇邦)。問題の、まるで一世代前のゲームのようなCGを手掛けたのは、実際にゲーム用CGの大手でもある「ツインズ・エフェクト」「情癲大聖」のメンフォンド・エレクトロニック・アーツ(萬寛電脳藝術設計)。本作が香港映画である証拠に、ちゃんとヒロインがゲロを吐く(火暴) ● 「ピストルやマシンガンをのように使って、ガン・アクションとカンフーを融合させる」という、いままで誰も考えつかなかったおそろしくバカバカしい(だけど見た目はえらくカッコイイ)アクションを創始して、世界中のB級アクション映画ファンの爆笑 絶讃を浴びたわりには日本でもアメリカでも誰も正式なタイトルは覚えてないガン=カタの映画の監督の第2作。なんでも前作では武術指導のジム・ヴィッカーズと意見が対立して、カート・ウィマーが自宅の裏庭で入念にねりあげた「ガン=カタ・アクションの洗練された美しさ」が損なわれてしまったのだそうで、次回作、すなわち本作「ウルトラヴァイオレット」では思う存分、ガン=カタの神髄をお見せする、ということだったのだが……(はい、皆さん ご一緒に)ええーっ!? どこがぁ!? ● だってアクション映画としては前作より明らかに後退してるじゃん。ミラ・ジョヴォヴィッチの用いるガン=カタは日本の居合斬りのようなもんで、押井守の「ケルベロス」をパクッたみたいな敵の装甲兵士の一団と睨みあった刹那、白刃一閃、気がつくと敵はみんなバッタリ……という演出が多用される。つまりアクションそのものは描かれないのだ。まあ、なかには「ブラッド・シノワという名称のわりにはタイ語らしきものを喋ってるチャイニーズ(?)ギャングの一団にビルの屋上で取り囲まれるがガン=カタの妙技で同士撃ちさせてしまう」というCG合成を効果的に使った面白いシーンもあるにはあるのだが、全般的に体技(アクション)の魅力に欠ける。てゆーか、そこまでスタッフを香港人で固めておいて、なぜ香港の武術指導を呼ばない? ● 通常のアクション映画で「カー・スタント」に相当する部分も本作ではすべてショボいCGで描かれるので「スピード感」や「スリル」といったものとは無縁。前作がシネスコだったのに今回 ビスタサイズになってるのも「シネスコだとデータ量2倍なんで勘弁してください」というCG班からの要請によるものじゃないかと勘繰ってしまう。それさあ優先順位が逆だよね。アクションがちゃんと出来てれば、背景なんて上海の高層ビル街の実景でいいんだよ。CGなんて二の次 三の次でいいんだよ。まずガン=カタをきちんと魅力的に見せてくれ。話はそれからだ。 ● とは言うものの(火暴)話なんかまったくどうでもいいということでもなくて、いちおうSFなんだから、せめて前作程度には世界観を固めておいてもらいたい。本作はどうやら「被差別民としてのヴァンパイア族」ものの亜種のようなのだが、普通に映画を観てるだけじゃ、どうにも設定がよくわからない。チラシや字幕で「新種のウィルスに感染した超人間〈ファージ〉」となってるのは、原語ではヘモファージ HEMOPHAGE。つまりヘモグラビン(血液)+ファージ(細菌を喰らうウィルス)という造語のようだ。このウィルス──劇中ではHTVウィルスと呼ばれる──に感染した人間は、身体能力が向上して犬歯が異常発達する代わりに、体内の血液がウィルスにどんどん食べられてしまい、定期的に血液を補給しないと死んでしまう……という設定らしく、劇中で「ヴァンパイア」と蔑称されるウィルス感染者たちは明らかにAIDS患者(HIVウィルス感染者)の謂なのだが、この辺はほんとうに只の「設定」というだけで、物語のテーマとして触れられることもなく、ストーリーはミラ・ジョヴォヴィッチ版の安易な「グロリア」へと収束してしまう。ヴァンパイアものであるらしいがヴァンパイアである必然性がどこにもない、のだ。あまりの中途半端さに、ついこないだ「アンダーワールド:エボリューション」を公開したばかりのソニー・ピクチャーズ宣伝部も手をこまねいて、劇中で頻出する「ヴァンパイア」という言葉を字幕ではすべて無視してしまっている。普段、宣伝部主導の勝手な字幕改変には反対する立場のおれだが、本作に関してはそれが正しい判断でしょう。このうえ、じつは彼女はヴァンパイアで……とか言い出したら客が混乱するだけだもの。

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嫌われ松子の一生(中島哲也)[ビデオ撮り]

昭和22年(1947)に生まれて波乱万丈の人生を送り、平成13年(2001)、孤独に人生の幕を閉じた川尻松子。愛しては裏切られ愛しては裏切られ、それでも愛した53年の生涯 ── 今村昌平左幸子主演で撮れば、はらわたにズシリとくる重喜劇になったであろう題材を、中島哲也は「下妻物語」のスタイルそのままにキッチュなミュージカル・コメディとして超スピードで描いてみせる。 ● 異才である。同じビデオ撮り&コンピュータ編集の箱庭映画でも、そこらのバカCM監督やクソMTVディレクターとはケタの違う才能である。同じスタイルの映画が2本続いたことにより勘違いされがちだが、中島哲也の本質は形象にあるのではなく、あくまで登場人物の心情にある(とおれは思う) 「下妻物語」があれだけ広範な支持を得ることができたのは「見たこともない変わった器」に盛られた料理が昔から知っている懐かしい味だったからだ。饒舌で過剰なスタイルは──かつての黄金時代には普通に使われてきたにもかかわらず、世の中が複雑になるにつれてマトモな羞恥心を持った作り手にとってはほうるのがとてつもなく難しくなってしまった──ド真ん中のストレートを観客の心にズバッと投げ込むための戦略的手段なのだ。 ● ただ、その異才にして、今回はそのスタイルに足を取られてしまったように思う。「下妻物語」での一人称語りと、本作の三人称話法の違いも大きいだろうし、そもそもおれには「殴られても独りぼっちよりはマシ」などという女が1%も理解できない/したくないってのもあるが、結局、最後まで松子の心の声は聞こえてこなかった。感情が伝わってこなければ、全篇を魚眼レンズで撮ってるみたいな狭苦しい画面設計やドギツイ色調は拷問にも転じよう。中島監督には、死んだ伯母のアパートを片付けにきた瑛太に感じたことと同じ言葉をかけてあげたい──あのさあ、まず最初に窓、開けろよ。風通しをよくしないと息苦しくて仕方ないんだよ。 ● 深田恭子+土屋アンナという奇跡のようなキャスティングに支えられていた「下妻物語」にあって、おれが唯一 納得できなかったのが、レディースのアタマ=小池栄子と、イチゴが憧れる二枚目=阿部サダヲという配役で「ええーっ!? なんで本当にカッコイイ人を使わないの?」ってのが理解できん。同じギャグにするんでも、そこは竹内力を使うべきじゃないのか?と思ったりした。残念ながら本作ではその違和感が全篇に拡大されている。まがいものを使ってギャグをやっても、それはますますテレビのコントに近づくだけだと思うんだけど。 ヒロインの中谷美紀は「疾走」の〈やくざの情婦〉役で大化けした直後だけに、このような演出ではさぞやストレスが溜まったことだろう。興行的要請を無視して言うならば(タコ顔の上手さからしても)これ、本当は濱田マリの役だよね。いや、マジ、マジ。濱田マリを各場面にあてはめてごらんよ。ピッタリだから。それで中谷美紀は山田太一 脚本+深町幸男 演出でNHKドラマスペシャルに主演したら面白いんじゃないかね。それなら心ゆくまで熱演できるし。 あと、柴咲コウは(口元のホクロも含めて)中谷美紀とキャラが被ってるのに──また、それが狙いのキャスティングとわかってて──よく出たなあ。 ● 昭和22年から平成13年までをカバーする話のわりには、中島哲也は「昭和映画」にするつもりは無かったらしく、美術・小道具等の時代考証はビミョーにイイカゲン。いつでもない「なんちゃって昭和映画」である。てゆーか、この映画、愛も孤独も人生もみんな「なんちゃって」って感じがするなあ。本気の感じがしない。 ● かつて「スワロウテイル」を R-15 に、「極道戦国志 不動」を R-18 に指定してきた映倫だが、本作のレイティングは PG-12。それってつまり小学生が贋札で商売したり人殺しをするのはあってはならないことだからNGだが、[中学生]が引き籠もりのババアを[金属バットで殴り殺す]のは──戦争映画で人が殺されるのと一緒で──仕方がないことだからOKってこと? それとも単に直接描写がないからセーフなの? でもそれなら「インプリント ぼっけえ、きょうてえ」の[近親相姦]だって台詞で語られるだけで直接描写は無かったよねえ? うーん……いまいち基準が謎だ。

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デスノート(金子修介)

おれはもう十何年も前から現役の漫画読みではなくて、たとえば、この1年間で買った漫画は楳図かずおの復刊と(手塚治虫のリメイクである)「プルートウ」だけ。だからベストセラーだという原作コミックスは未読……どころか、じつは映画化されるまでタイトルも聞いたことなかった。ゆえに原作ではどのような描写になってるか不詳なのだが──、 ● えええっー!? デスノートって表紙に堂々と英語でDEATH NOTE」って書いてあるの!? しかも、開いて最初のページには使用説明書がこまごまと書いてあるの!? じゃなにか?あの死神はアングロ・サクソン系なのか?(現代英語で書いてあるってことは、せいぜい200歳ぐらいだよな) せめて古代アルメニア語とかにしとけよ。あるいはせっかくCG使えるんだから、最初は「わけわからない象形文字みたいなの」が、拾った者の使用言語──この場合は日本語──に超自然的な力でモーフィングするとかさ。いずれにしても「表紙にタイトルが書いてある」ってのは無いだろ。死神がノートの効用を説明して「つまり……デスノートだな」と言うとかさ。「英語ならカッコイイ」というセンスがダサすぎ。 ● ダサいのはデスノートの設定だけじゃなくて、全篇、近年まれに見るほどの説明台詞/段取台詞だらけの脚本である。状況説明を、ある程度は台詞に頼らざるを得ないのはわかるが、もうちょっと「活きた台詞」に出来んか?>脚色:大石哲也。基本的には「名前を書き込むだけで相手を死に至らせるノート」を手に入れた傲慢な天才青年と、謎の名探偵の智恵比べを犯人側から描いたサスペンスで、つまり倒叙ミステリと同じく「いつ正体がバレるか」「いつ捕まるか」のハラハラドキドキで観客の興味をつないでいく構成。おそらく原作コミックスでは「ひとつり危機を乗り越えたと思ったら、今度は次の脅威が……」というのをじっくりと描いてるのだろうが、映画化に際して典型的なダイジェスト脚色を行ってしまっていて、そのために、新たな「状況」が説明されると主人公がすぐそれに対処する「行動」を起こして危機を「解決」してしまい、サスペンス映画でいちばん重要な部分……すなわち「バレるかバレないかのハラハラドキドキ」をほとんど省略してしまっているのだ。ダメじゃん。ストーリーそのものの面白さゆえ最後まで飽きずに楽しんだが、11月の完結篇ではもうちょっと頑張ってね>金子修介&脚本家。 ● 映画本来のテーマとは関係なく「美少女を可愛く撮る」ことに命を懸けている金子監督。今回は(金子修介が総監督をつとめた)TVシリーズ「ウルトラマン マックス」で地球防衛軍(みたいな組織)のデータ分析アンドロイド「エリー」を演じていた満島ひかりちゃんを主人公の妹役に起用。「マックス」では(アンドロイドだから)笑顔が撮れなかった分、普通の女子高生を演じる本作では可愛らしい笑顔を(ストーリーの進行とは無関係に)たっぷりとフィルムに焼き付けている。主人公のカノジョを演じる香椎由宇も今まででいちばんキレイに撮れてたんじゃないか? ただ、後篇で大きくフィーチャーされるらしいキャピキャピ・アイドル役はあのコ(戸田恵梨香)でいいのか? ちっとも柄に合ってない感じだぞ。 ● [追記]細かいツッコミを2つほど。藤原竜也が最初に道に落ちてるノートを見つけて、思わず「上」を見るでしょ。アレおかしいよな。たとえば「道にパンティが落ちてた」とかなら、どこの物干しから落ちたのかと上を見るかもしんないけど、路上に帳面が落ちてても、普通の人は空から落ちてきたとは考えないよね。アレをやりたいんなら「2冊目のノート」と同じように、藤原竜也が「落ちてきた瞬間」を目撃しなきゃ。 あと、瀬戸朝香が恋人のFBI捜査官あての「捜査中止命令書」を開封するシーンがあるけど、いまどき封書って……。電話連絡とかEメールにしねえかフツー? ● 本作はひょっとして「盗撮追跡コード入りの初めての日本映画」かも。じつは1、2年前からワーナー映画配給の作品にかぎって、ときどきフィルム上に、長短の横棒を数本重ねた「当たるも八卦当たらぬも八卦」の八卦占いのシンボルみたいなのが数コマ×数カ所にわたって焼き付けてある──バックが青空とか砂漠みたいな単色だと肉眼でも見える──ことに気付いて、これたぶん、プリント1本1本ごとに異なった箇所に焼き付けてあって、それを現像所のデータベースと照合すれば「違法販売されたDVDがどこの劇場で盗撮されたものかがわかる」って仕組みじゃないかと思うんだけど、おれが新宿ジョイシネマで観たプリントには「地下鉄のシーン」に何ヶ所か、それが入っていた……ような気がする。だれか他に気づいた人います?

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ドッグ・デイズ(ウルリヒ・ザイドル)

オーストリア映画。いわゆる「サバービアの憂鬱」ものである。孤独と猜疑心に苛まれる醜悪な現代人の姿を非情に描き、観客に不快な思いをさせることを目的とした映画。同じオーストリア映画界のミヒャエル・ハネケほど計算ずくではなく、(本作はフィルム撮りだが)北欧のドグマ一派の諸作にひじょうに近い感触。日射が少ない土地柄なのでベランダや庭で日光浴をしたり、とハダカがたくさん出てくるのだが、それらはエロティシズムとは無縁で、登場人物たちは服を着ているよりハダカのほうが醜いからハダカにされるのである。見応えがあるといえばあるんだが、「ね、醜いでしょ?」と見せられても、おれの気分としては「だから何?」としか答えようがないので星2つ。 ● このレビュウは、イメージフォーラムの人が捕まっちゃうとアレなので上映終了後にアップした。じつは劇中に乱交クラブの場面があって[勃起したちんぽをしゃぶってる]とことか丸写りなのだ。こんなもの映倫どころか税関も通るわけないので、手荷物として黙って持ち込んだか(チラシに「協力」としてクレジットされている)オーストリア大使館の外交貨物としてフィルムを輸入したのだろう。イメージフォーラムの自主配給作品なので、おおかた上の階の「イメージフォーラム・シネマテーク」でやってる実験映画と同じような意識で無修正上映しちゃったんだろうが、下の「映画館」でそれをやっちゃマズイだろ。当然、映倫審査も受けてないはず。無邪気なんだかバカなんだか……。 ● 字幕は山下宏洋という人。明らかに「字幕」というものに慣れてなくて、長〜いカタカナ名前のファーストネームだけイニシャルにしてそこにルビを振る──例えば「クリント・イーストウッド」だと字数オーバーなので「C・イーストウッド」にして「C」に「クリント」とルビを振る──とか、「旧教徒」に「カトリック」とルビを振るといった意味のない短縮を多用。ルビが読める時間があるならルビにする必要なんてないし、読めないならルビは無意味。「いいバッグね。本皮?」「プラスチックよ」って、それを言うなら「ビニール」か「合成皮革」だろ。初歩的な誤訳。あと(原語でなんと言ってるかわからんけど)掃除をしている自分ちの家政婦に「精が出るわね」とは言わんよね。

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インプリント
ぼっけえ、きょうてえ(三池崇史)[ビデオ上映]

原作:岩井志麻子 脚本:天願大介 撮影:栗田豊道 衣裳:北村道子

ワールドカップ初戦だそうで世の中はサッカー一色。よし!連日満員を伝えられる本作観賞には今夜をおいて他になし!ってことで渋谷のシアター・イメージフォーラムに突入。目論見どおり場内ガラガラ。てゆーか、帰りの電車まで空いてたぞ。サスガだぜ>ワールドカップ。 ● ま、ワールドカップはどーでもいいんだが、三池崇史いよいよアメリカ進出となる本作である。テレフィーチャー界のスティーブン・キング御用監督ミック・ギャリスが元締めとなって、「サスペリア」と「悪魔のいけにえ」と「悪魔の赤ちゃん」と「ハロウィン」と「ファンタズム」と「グレムリン」と「狼男アメリカン」と「ZOMBIO 死霊のしたたり」と「ヘンリー」と「TATARI」と「メイ」の監督を集めて(暴力描写/残酷描写に関する規制の少ない)ケーブルテレビ向けに製作するアンソロジー企画「マスターズ・オブ・ホラー」の、栄えある13人目の監督として、限定公開された/DVD発売された「オーディション」でアメリカの映画人たちを震え上がらせた三池崇史が選ばれたのだ。製作プロダクションは角川映画で物語の舞台も日本だが、主演はビリー・ドラゴで出演者全員が英語をしゃべる(岡山弁字幕が付く)完全にアメリカ資本のアメリカテレビ映画である。63分の中篇ゆえか千円均一興行。 ● 「ぼっけえ、きょうてえ」とは岡山弁で「とても怖い」という意味。名古屋弁だと「どえりゃあ怖いがね」、熊本弁なら「ほんなこつおとろしか」、イマドキの若者だったら「ヤベえよ。マジ、鬼ヤベえよ」か。知らんけど。いや、たしかに鬼ヤバい映画ではある。サービス精神旺盛な三池崇史のこと「『オーディション』が気に入ってもらえたんなら」ってことで、脚色には同作の天願大介@今村昌平Jr.を招んでキリキリキリキリ、キリキリキリキリっと観客の恐怖中枢を逆撫でしていく。「殺し屋1」に匹敵する残酷描写を売りものにしつつも、結局「いちばん怖いのは人間の心でした」という定石に落とし込む……と見せかけて最後は[フランク・ヘネロッター]へのオマージュでしめるという、お腹いっぱい……てゆーか、胃にもたれるぐらいのおもてなし。 ● 今回、撮影が〈即物派〉の山本英男ではなく、ハリウッド在住の〈耽美派〉栗田豊道なのも画面をゴージャスにしている(但し、シアター・イメージフォーラムで上映されているビデオマスターは、カラー調整は美しいが解像度が異様に低く、VHS上映かよ!と見まがうほど) 残念だったのはビリー・ドラゴの陳腐なオーバーアクト。「英語による感情表現」ということでは語り部の娼婦役・工藤夕貴のほうがずうっと上手い。三池崇史も初めての英語映画で、うまく演出意図を伝えられなかったのかもしけないけど、ドラゴの安っぽいB級芝居が映画のグレードを落としている。ここにビル・プルマンかデビッド・モースあたりをキャスティング出来てたら満点だったのに。 あ、そうそう。最近、あらゆる映画に出まくってる日本映画界の女・大杉漣こと江口のりこも「意地悪な同僚の娼婦」の役で出てきて、夢みたいなことをホザくヒロインに「And I'm a Empress of Japan.(フザけたこと言ってんじゃないよ)」と、とても字幕には出来ない厭味を言っている(残念ながら脱いでません) ● というわけで、ホラー・アンソロジーの一篇としてはまことに正しい仕上りなのだが、プロの雇われ監督たる三池崇史としては痛恨の計算外だったのが、現役大統領が中絶禁止法案に署名し、女性に中絶の権利を認め 妊娠3ヶ月以内の堕胎を合法とした1973年の最高裁判決がいまにもひっくり返されそうな国で、この原作が扱っている日本古来の忌まわしき風習──しかしながら、どこの地方でも普通に行われていた行為を露悪的に直接描写したら、どんな反響が返ってくるか、に考え至らなかったことだ。こんなもの(たとえケーブルテレビとはいえ)お茶の間で放映した日にゃ保守的なキリスト教徒勢力からどんな抗議を受けるか判ったもんじゃない。金のためならどんな人体破壊も残酷描写も厭わないハリウッドの人非人プロデューサーたちも、サスガにこれにはビビって敢えなく本篇はアメリカでは放映中止(イギリスでは放映) 三池としては受けた注文をまっとうできない、プロとしては恥ずべき事態となった。 ● しかも「映画秘宝」誌での三池崇史 発言によると日本でも、映倫から「審査する規格の対象外だ」と審査拒否されてしまったそうで、つまり本作は「映倫を通さず映画館で公開された初めての映画」ということになる。いままでにも映画館の組合に加盟していないポレポレ東中野とかで細々と公開される映画でそうしたケースはあったが、角川ヘラルド映画のようなメジャーな配給会社が大々的に宣伝して公開する映画では初めてのはず。 ● そもそも公的機関でもなんでもない業界団体の有料審査を、なぜすべての配給会社が律儀に受けてるかというと、全国の映画館の99%が加盟する興行組合に「映倫審査を受けていない映画は上映しない」という内規が存在するためである。つまりアレだ。家を借りるときに連帯保証人がいないと借りられないのと同じことですな。特に本作のように残酷描写をふくむ作品や、きわどいセックス描写のある映画の場合は、下手したら支配人が桜田門にアゲられちゃうわけだから、映画館サイドとしては「映倫審査済」という〈保険〉がないと引き受けない。卵が先か鶏が先か?じゃないけど、事情は配給会社だって同じことで、映画の内容に批判を受けても「ちゃんと映倫の審査を受けてます」と言い逃れができるわけだ。もちろん高尚な映倫設立の理念はいろいろあるんだろうけど、つまりはそういうことなのだ。今回の場合、角川ヘラルド映画としちゃ止むを得ず無審査上映に踏み切ったのだろうが、とはいえ本作のように鬼ヤバい映画を連帯保証人もなく公開に踏み切った同社のクソ度胸と、組合の規定違反を承知で引き受けたイメージフォーラムの心意気には大いなる敬意を表したい。 ● 上で「映倫を通さず映画館で公開された初めての映画」と書いたけれど、ここで言う「映画館」とは「フィルム上映の映画館」という意味で、じつは渋谷にあるシネ・ラ・セット(シネカノン経営)とアップリンク・ファクトリー/アップリンクXの3つのビデオシアターは最初から「映画館」の組合に加盟しておらず、ここで次から次へと公害汚水垂流しのように上映されているビデオ作品は、ほとんど映倫の審査を受けていない(本篇のどこにも映倫マークが出てこないので判る) こうした流れはやがては、現在、AVセルビデオ業界で起こっているような映倫の有名無実化につながるのか? 全国ロードショーされる映画は映倫審査を受けるけど、渋谷のミニシアター1館でやるような映画は自主審査という流れになっていくのか? 注目して見守りたい。 ※ こんな書き方すると映倫無用論者かと思われるだろうが、おれはじつは、映倫は「あったほうがいい」と思ってる。なぜなら、このシステムを失うとアッという間に、石原慎太郎の鶴の一声とかで(いつもは犬猿の仲のくせに こういうときだけは立場を同じうする)創価学会と共産党のババアどもが映画を「有害指定」する事態になるに決まってるからだ。

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T R I C K トリック 劇場版2(堤幸彦)[ビデオ撮り]

あれ? 片平なぎさが教祖で上田耕一が助手のカルト教団って、こないだテレビでやった新作スペシャルと同じじゃない? この島に逃げて来たって設定? それにしちゃ上田とも山田とも初対面みたいな演出だし……と観てる間じゅう「どゆこと?」と思ってた。帰ってきて調べたらなんのこたぁない新作スペシャルに出てたのは名取裕子+西村雅彦だったんだけどさ。あいや決してこれはおれのアルツハイマーが進行してるという証ではないぞ。違うと信じたい。いや、そうじゃなくて、つまり「TRICK」って、もう、新しいことやる気がないのね。製作・脚本の蒔田光治@東宝にも、演出の堤幸彦にも「映画版だから」とか、ミステリとしてもカッチリしあげて「『TRICK』もやれば出来るじゃん」と客を唸らせてやろう……などという気負いはサラサラなくて、前にやった話をテキトーに書き直して、あとは演出が小ネタでクスクス笑いを取ればOK。ほんとそれだけなのね。ビデオ撮りの画質はいまだに色調が赤くて屋外シーンの白トビが酷いし、「劇場版1」より後退してるじゃんか。1から10までこんなもんでよかんべイズムが充満した怠惰な愚作。たとえば仲間由紀恵と阿部寛のあのキャラを使って三谷幸喜に書かせれば(演出が堤幸彦であっても)少なくともこの100倍はマトモなスクリューボール・コメディ/ミステリが作れると思うけど、でも、きっとそれじゃ「TRICK」ファンのお客さんは満足しないんでしょうな。客が殺したのか、客におもねった作り手が殺したのか、いずれにしてもシリーズとして完全に死んでることだけは確か。

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クリムゾン・リバー3 ダ・ヴィンチの暗号を解け!
(ロン・ハワード)

ジャン・レノ扮するパリ警視庁の敏腕警視がトンデモ宗教の謎を追う猟奇探偵ミステリのシリーズ第3弾。原作が大ベストセラーだそうだが、おれは未読。今作から製作がアメリカのコロムビア映画にバトンタッチされたがフランス人はちゃんとフランス語を喋っている。今回「猟奇」と「血」の量に関しては、冒頭の「ダヴィンチ見立て殺人」だけでちょっと物足りない。しかも奥さんあれって──死体が写った次の瞬間にアッサリと明かされるので書いてしまうが──正確にいうと「見立て殺人」ではなくて、トンデモ・ミステリに付きもののまだるっこしいダイイング・メッセージなんですよ。つまり、あの殺された人物──ルーヴル美術館の館長は銃で撃たれてから館内のあちこちを歩きまわって謎の詩文を書き残したりミステリを解く鍵を絵の裏に隠してからわざわざハダカになってダヴィンチの解剖図みたいなかっこして死んだ、と。それだけ時間があるなら内線で警備員呼びゃ助かったんじゃねえか?とか言っちゃいけません。トンデモなんですから。またトンデモに相応しく、ミステリの風呂敷のデカさがハンパでなく、この手のジャンルが大好きなおれとしては大いに楽しませてもらった。 ● ヴァンサン・カッセル、ブノワ・マジメルに続いてジャン・レノの相棒(違ったかも)をつとめるのはトム・ハンクス。薀蓄を垂れては困った顔をして逃げ回るだけ……というハリソン・フォードでもいいような役なんだが、高額なギャラを貰ってるだけあって、探偵映画の肝であるべき「ラストの謎解き」だけはそれなりの仕事をしている。あと、哀しき殺人者を演じるポール・ベタニーがものすごい儲け役。トム・ハンクスとのカンフー対決があれば完璧だったのに。だからそーゆー映画じゃないから。 ● ちなみに今回、すべての日本語字幕(=白文字)に墨フチが付いていて、とても読みやすいんだけど、こんなこと従来のオプチカル処理では不可能だよねえ? 最初っから日本専用に「日本語字幕入りのネガ」をハリウッドで作ってもらうか、全篇のデジタルデータを取り寄せてコンピュータ上で字幕を入れてフィルムレコーディングするしかないと思うんだけど、さすが超特作だけあって金かけてんなあ>ソニー・ピクチャーズ。


ポセイドン(ウォルフガング・ペーターゼン)

たぶん「猿の惑星」「ダイヤルM」あたりを契機として、本作といい「オーメン」といい「ロンゲスト・ヤード」といい、この頃だんだんとリメイク対象作品が、かつてテレビの洋画劇場でくりかえしくりかえし放映されていたような(おれら世代には)おなじみの映画ばかりになってきて──これはつまり、リメイクのスパンが「昔のモノクロ映画のリメイク」からカラー時代に突入したってことで、総天然色の名作洋画はイコール、カラーテレビの目玉番組だったから何度も何度も放映されていたわけですね──そうなると必然、リメイクされた新作を観るたびに年寄りの繰言のごとく「前のほうが良かった」と繰り返すことになるわけで、今回もまた、アーウィン・アレン製作の20世紀フォックス版「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)の記憶がいまだ鮮明なだけに、ワーナー映画からの登場となったCGリメイクは作られる必要のなかった映画であるとしか言いようがない。だって「ポセイドン・アドベンチャー」だよ。べつに「一般の目に触れる機会の少ない作品」ではないし、若者に敬遠される時代劇でもシェイクスピアみたいな昔の英語でもない。テレビでも普通に放映できるしDVDだって発売してんじゃん。てゆーか、製作費に1億6千万ドルもかけて全米オープニング週末の興収が2千万ドルという(観客じゃなくてスタジオにとって)ディザスター・ムービーになるくらいなら「E.T.」や「エクソシスト」みたいにデジタル・リマスタリングしたオリジナル版をリバイバル公開すればいいのに。 ● そんなワケで監督を引き受けた「U・ボート」「パーフェクト・ストーム」のウォルフガング・ペーターゼンは、ヤケになったのか知らんが、元版の特徴だった「感動ドラマ」を切り捨てるという暴挙 冒険に出た。だから主人公が(元NY市長というキャラ設定を持つにもかかわらず)ハッキリと自分たちだけ助かればいいという立場で行動するし、観客の印象に残るいいもんキャラの登場人物が(文字どおり)他人を蹴落としても自分だけ助かろうとする姿を、序盤で容赦なく観客に示す。ペーターゼンは言う[衝撃的でリアルな映画を作ろうと思ったんだ。まわりを見渡してごらん。9.11事件の大惨事、ハリケーンや大津波などの大災害が実際に起こっている。ならば映画も現実的なレベルで、そのときの感情を再現する必要があるんじゃないかな。(主人公たちの行動は)非情にも思えるが、それでこそ観客たちは感情移入できるんだ。自分ならそのときどうするだろうと、問いかけることができるわけさ]「DVDでーた」6月号 ● おれは、これ間違ってると思う。現実の酷さや運命の非情さなんて観客は100も識ってるさ。だからこそ、せめて虚構の世界では(自分には無いかもしれない)勇気や博愛を目の当たりにして「自分もイザとなったらあのように行動できるのだ」と思いたい……というのが、一般的な観客の姿だと思うし、少なくともメインストリームの娯楽映画が目指すべきゴールではないのか。このような精神の映画が、監督主導のインディペンデント映画ならともかく、ハリウッドのメジャー・スタジオのエグゼクティブ全員の目を通り抜けて公開されてしまったことが信じられない。 ● まあ、それでも言ってるとおりの映画を作ったのならば「さすがは硬骨漢ペーターゼン」と認めないでもないが、こいつ、オリジナル版を[とてもハリウッド的でわざとらしく、演技も演出もありきたり]と批判しておきながら、見るからにろくでなしキャラの登場人物に、主人公たちに憎まれ口をきいた直後に天罰としか言いようのない死に方をさせたり、主要キャラの1人が「石油が引火して火の海となっている水面に、ゆうに5階分はある高さからダイブして仲間を救う」などというリアルのかけらもない描写をしたり、あげくラストには自己犠牲のすばらしさを謳いあげるような──じつにウォルフガング・ペーターゼンらしからぬ──陳腐な演出を施してしまうのである。言ってることとやってることが一貫してないじゃん。かっこわる。よって星1つ。

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オーメン(ジョン・ムーア)

20世紀フォックスの商魂にまんまと乗せられて2006年6月6日の火曜日初日に観賞。ま、こういうのは縁起ものだから。<違います。おおっ、タイガーも来てるよ、サスガ。 ● オリジナル版の逆を行くという冒険をした自信満々な「ポセイドン」のペーターゼンに対して、「エネミー・ライン」「フライト・オブ・フェニックス」で可もなく不可もなくな演出を見せたジョン・ムーアは正反対のアプローチを取った。どう頑張ってもオリジナル版に勝てないのはわかってる。はじめから負け戦(いくさ)が明らかならばオリジナル版を踏襲して一歩でも近づくための努力をしよう……という謙虚な方法論である。オープニング・クレジットでビックリしたのは based upon とかじゃなく「脚本:デビッド・セルツァー」とクレジットが出たことで、え、それってオリジナルの脚本をそのまま使ってるってこと!? 観てみるとたしかに、舞台が2006年になってる以外は細かなアレンジ程度で、95%はオリジナル版のままなのだった。まあ、セルツァーは現役の脚本家なので、今回のために雇われて細かなリライトをしたのかもしんないけど。あと、おれはてっきり、せっかく2006年の6月6日に公開するんだからオリジナル版の「ダミアンが6月6日の午前6時生まれ」って設定を「2006年6月6日生まれ」に変えて、その子が5歳になった──2011年の話として描くんだとばっかり思ってたけど、これも元のままだった。ともあれ、リチャード・ドナー演出のエモーションを忠実に再現しようとするジョン・ムーア監督の姿勢には好感を持った。オリジナル版を尊重したホラー描写も──リメイク版で付け加えた安っぽい悪夢の描写はいただけないが──総じてまあまあの及第点。そうなると結論としちゃやっぱり「観るなら昔の『オーメン』をどうぞ」ってことなんだけどさ。 ● ビリング・トップはジュリア・スタイルズ。ダミアンが自分の子ではないかもしれないという〈妄想〉に怯える若い母親像を、予想以上の好演。そうそう、例の「墜落」シーンは2階から3階に当社比前作の150%のパワーアップだ! さて、今回のリメイク版でいちばんのウィーク・ポイントは父親役にある。グレゴリー・ペックと比べちゃ可哀想なんだが、俳優属性が「曲者キャラ」であるリーヴ・シュライバーは明らかなミス・キャスト。そもそも「オーメン」とは、宗教的な背景を取り除いてしまえば、子殺しの話である。5年のあいだ愛し慈しんできた〈我が子〉を殺さなければならなくなった父親の物語なのだ。愛する妻を失い、最後には幼い息子を我が手にかける父親。そう、この映画こそトム・ハンクスが必要なのだ。 それと乳母役には、ぜひメリル・ストリープをキャスティングしてほしかったなあ。 ダミアン役の男の子は悪くはないが、演出がちょっと「邪悪な子」っぽく撮りすぎ。神父がどんなに「あの子は悪魔の子だ」と主張しようと、見た目はあくまで天使のように可愛いくて無邪気だからこそ恐ろしいんじゃないか。「どっからどー見ても悪魔の子」なら殺すのに良心は痛まない。「頭では判っていても、どー見ても悪魔の子には見えない」からこそ、その子を殺さなきゃいけない父親の苦悩が深まるのじゃないか。予告篇にあった「ダミアンが落ちてく母さんに向かってバイバイ」というシーンが本篇ではカットされているので、監督だかプロデューサーに判ってる人はいるようなのだが。 あと関係ねーけど、駐英アメリカ大使がトヨタのレクサスに乗ってたぞ。いいのか!? ● 字幕は林完治。ロンドンのアメリカ大使館の看板に「駐英アメリカ大使」と字幕をふるのは変。記者が主人公に尋ねる「神父が死ぬ数ヶ月前に会いましたね?」という字幕は、明らかに台本の「moments ago(死ぬ直前)」を「months ago」と見間違えたんですな。全世界同時公開でアセってたんでしょうが、だれか気付きなさいよ。神父が死んだのは「昨日」の話じゃんか。

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クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!(ムトウユージ)

なんでまた唐突にサンバなの?と思ったら……ああ、「マツケンサンバ」から来てるのね。でも、それやるなら去年でしょ。 ● リアルタイムで劇場版を観るようになってかれこれ11年。ただ今年は、おれの環境に大きな変化があって、それは失業者になったこと……じゃなくて、去年の5月にHDレコーダーを買ってからテレビ版「クレヨンしんちゃん」を毎週、観るようになったのだ。おかげで予習は万全。今年の劇場版は脇キャラの皆さんまで100%把握した……と思ったら、なんなんだよあの黒服グラサンのMIB先生は! あんなキャラ、この一年間テレビに出て来なかったぞ。途中まで悪役が紛れ込んでるのかと、それにしちゃ園児が騒がんのはおかしいし……???と思ったじゃないか。「泣き虫のマサオ君が、気の強い女王さまキャラの園児に夢中」って設定も初耳だし、ひょっとして一年ぐらいの予習じゃ不足ってこと? どんだけ大河ドラマなんだよ!>「クレしん」 ひょっとして、おれの知らないところで別のシリーズが進行してる? ● ……というような、今回は、知ってるはずの人が知らない人みたいに感じて、疑心暗鬼におちいるお話。てゆーか、何度も映画化されているジャック・フィニィの古典SF「盗まれた街(ボディ・スナッチャーズ)」の勝手リメイクであるのは、わざわざ御親切にも劇中に登場する女性取締官の名前をジャクリーン・フィニーにしてくれなくとも予告篇を見りゃ露骨に明らかなわけであるが、本作のオリジナリティは、その〈そっくり人間〉たちがなぜかサンバが大好き!ってとこにある。劇中でも、みさえさんから「サンバとそっくり人間となんの関係があるのよ!」とツッコまれておる。ふむふむ。で、どんな理屈をつけてくれるのかな?と期待してると、悪の首領いわく「みんなが踊ってるのを見たいから」だって。ザケとんのかコラ! それじゃ理由になってないだろーが。その前に、なんかしらのトラウマなり思い出なりがあって、だからみんなが踊ってるのを見たい」と。そこまで書いて脚本家の仕事ってもんでしょーが(今回の脚本は、もともと「ドラえもん」組にいた演出家で「クレしん」の脚本は1作目の「アクション仮面 vs ハイグレ魔王」以来となる、もとひら了) ● まあ、当サイトが邪推するに「今度の映画は『盗まれた街』で行きたい」というムトウユージ/シンエイ動画からの企画に対して、旭通のバカPあたりが「そーゆーSFとかの暗い路線はガキ受けが弱いんですよねぇ。どースか、ここはひとつ、『サンバでアミーゴ!』で明るくハッピーに」とかなんとか無責任な意見を言ったせいで、こーゆーことになったんじゃないかと思うが。いや、べつに「サンバが好き」でもかまわんのだよ。ただ、目的が「地球征服」なら理屈はいらないが、サンバ大好き!には理由が必要でしょう。理屈ヌキに「だってサンバが好きだから」で済ませるんなら、それこそ悪役にマツケン本人(松平健)を引っぱって来なきゃ。それが娯楽映画の説得力ってもんでしょ。 ● さらに言えば、このネタで致命的なのは、肝心のサンバの動画がちっとも魅力的じゃないんだよ。劇中で使われるサンバ・ミュージックのクォリティも低すぎ。観てて ちっとも腰が動いてこないもの。声優の皆さんも(苦手なのはわかりますが)鼻歌がちっともサンバになってないし。日本土着のリズムたる春日部音頭に完全に負けてんじゃん。前作もそうだったけど、アニメーションとしての力は歴然と落ちてるね。 ● ただ──こっから褒めます──ムトウユージはアニメーターとしては錚々たる前任者たちに劣るとしても、演出家としては確かな才能を持っている。じっさい──終盤で悪役が正体をあらわして腰くだけになるまでは──SFホラーの傑作といっても良い出来なのだ。この人の実力は、たとえば「そっくり人間の噂がどうやら本当だとわかって、ひろしと『今日は会社休めないの?』『そうはいくかよ』みたいな会話をかわして、渋々、夫を会社に送り出したあとで、無性に不安になったみさえ赤ん坊を胸に抱く」なんていう何気ない描写に現れている。「ママがニセモノかもしれない」という子どもにとって最悪な不安をかかえた風間クンがとぼとぼ家路につくうちにだんだんと足どりが早くなって、ついにはタッタッタッと駆け出してしまう……というのを、腰から下だけのアングルで描いたシーンなど、とても上手いと思う。正義の味方はMacOSを使ってるという思想も圧倒的に正しいし。ただ──ギャグでやってるのは解かるけど──「クレしん」の絵柄で眉あごアップを延々とやるのは苦しいと思うぞ。

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単騎、千里を走る。(チャン・イーモウ)

チャン・イーモウの新作は──タイトルから想像がつくとおり──「秋菊の物語」「あの子を探して」に連なる融通の利かぬバカの一徹もの。ながらく断絶した関係にある息子が末期癌と聞いて、無視されても帰れと言われてもただただ病床に付き添う……のではなく、頼まれもしないのに息子が喜ぶと勝手に思い込んで誰にも相談せずいきなり中国の奥地まで京劇役者を撮影に行っちゃう北国の漁師……などという役を、客から「バッカじゃないの!?」とツッコミを入れられることなく、逆にその不器用な一徹さに周りの人間が感動しちゃうという無茶な設定が通る俳優は、たしかに高倉健以外にはいないだろう。よーするに、あれだ。恋愛映画でよくあるパターンの「おれはお前のことが好きだーっ。その証明に素手で東京タワーによじ登ってやるーっ!」「いやいや、それぜんぜん関係ないから。単にあなたの自己満足だから」とか、そーゆー類の話なのだ。それでよじ登る途中にさまざまな予測外の出来事があり、言葉なんか通じなくても人と人は判りあえる……って結論になるんだけど、そりゃこじつけが過ぎるってもんだ。やっぱ健サンが中国語を喋れない/喋らない──「謝謝」程度も言わない。あくまでも「ありがとう」と日本語で通す──ので、交渉を通訳にまかせて傍観してる場面が多く、そのため話がまどろっこしいし、そのうえこの人は一切、説明をしない人なので、いや、東映仁侠映画の世界なら「言わなくても判ってる」でいいけど、これはコミュニケーションについての映画なので話に無理があると思う。 ● あと、どーでもいいけど健サンは中国にいるあいだ、ハンチング帽をかぶってるんだが、室内でもずっと被ったまま。中国じゃそーゆーもんなのかな。日本人の感覚としては、飯をご馳走になったり芝居を観賞するときは「帽子を取れ帽子を!」と思っちゃう。なお、序盤の日本ロケ部分は演出:降旗康男+撮影:木村大作の高倉健専属コンビが担当している。


エリ・エリ・レマ・サバクタニ(青山真治)

いや、べつに毛嫌いしてるわけじゃないんだけれど「EUREKA」「路地へ 中上健次の残したフィルム」「秋聲旅日記」には食指が動かず。「月の砂漠」は観ようかと思ったがタイミングを逸して。だから青山真治の映画を観るのは「EM エンバーミング」(1999)以来。 ● まあ、話の内容を聞いたときから、たぶん苦手なタイプの映画だろうとは思ってたんだけど、なんつっても宮崎あおいだし爆音上映ってのにも興味があって映画館まで足を運んだ。お客さんよりもCMスポンサーが大事なテアトル新宿なので、予告篇が終わって「さあ本篇!」というところでJTBと京急のバカバカしいCMを観せられムカムカムカムカ(ちなみにこの日は全回とも「予告付き」での上映だったので言い訳は効かない) で、ようやっと本篇が始まったんだが……オープニング・クレジットが終わる前に寝落ちした(火暴) 目が覚めて、しばらく観てたんだけど、なにしろ話はねえし、もうどうしようもなく退屈で退屈で、耐えられず半分ぐらいで途中退出。階段をあがって外に出てから気づいたんだけど、あれ? おれ、宮崎あおいの顔、見てねえぞ(木亥火暴)


ミラーマン REFLEX(小中和哉)[ビデオ作品]

脚本:小中千昭 製作:円谷プロダクション

最初、何も知らずに予告篇を観たときは、幽界だの禍(まが)れだの、またぞろJホラーの新作かと思ってたら「ミラーマン」とタイトルが出たのでビックリした。で、本篇を観てみたら、やっぱり演出から画面のトーンから何から完全にホラー・サスペンスである。これ、れっきとした本家・円谷プロ製作作品なのだが、いったい何を考えておるのだ。ホラーがやりたいんなら、なにも「ミラーマン」を引っ張り出してくる必要はなかろう。ドラマ重視も結構だが、肝心のヒーローが(=絵ヅラが)カッコ良くないんじゃ何のための特撮ヒーローか。予算の関係で街並みのミニチュア・セットを建てられず、巨大ヒーロー・アクション部分をすべて(夜空に見たてた)黒バックで撮影するための苦肉の策であろうが、やたら夜の場面が多いのも特撮ヒーローものに似つかわしくない。だいいち「鏡のヒーロー」なんだから光が無きゃ活躍できんしょうが(オリジナルの設定ってそんなんじゃなかったっけ?) イライライライラしながら観てたので(このジャンルとしては もともと長めである)1時間50分の上映時間が4時間ほどにも感じられた。たしかに、ビデオ映画界に蔓延するこんなもんでよかんべイズム(c)椎名誠とは無縁の力作であり、丁寧に誠意をもって作っているのは伝わってくるのだが、その勘違いぶりが耐え難いほどにヒドかったので星1つとする。 ● おれは渋谷シネ・ラ・セットで「おいら女蛮」のモーニング・ショーと続けて観たのだが、この2本、たとえば東映系で2本立てフィルム上映されてたなら、なんだかんだ言いつつも腹は立たなかったような気がする。