m@stervision archives 2004b

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



★ ★ ★
プッシーキャット大作戦(本田隆一)

同時上映:すべ公同級生

「東京ハレンチ天国」でデビューした大阪芸大出身の昭和レトロ派=本田隆一のビデオ撮りキネコ作品の2本立て。 ● 最初が「プッシーキャット大作戦」で43分。ラス・メイヤー「ファスタープッシーキャット キル!キル!」のオール八丈島ロケ&オール東北弁によるリメイク。じつはおれ、ラス・メイヤーの映画って1本も観たことないので(だって明らかにつまんなそうなんだもん)原典との比較は出来ないのだが「凶暴なグラマーガール3人組の殺人享楽行」という内容からしたら、もっとピーカンの青空をバックに撮られるべきだろうし、こんなぼけぼけキネコにしないで、ビデオのままDLP上映とかでドギツい色味で見せるべきだろう。3人のうち水谷ケイと江口ナオはヌードグラビア/Vシネマの経験アリなのに今回は脱ぎ無し。ダメじゃん。これってアッケラカンと乳ほりだして人殺すから痛快なんじゃないの? あと、2作に共通する欠点だが、録音が劣悪で台詞がなに言ってんだか聞き取れない箇所多数。 ● 主役の3人より注目なのが、大金持ちの因業親父に奴隷のようにコキ使われる薄倖な海女に扮した村石千春。元・モー娘。のWのどっちかに似てるロリ顔娘で、太腿むきだしの海女のコスチューム(透けてません)で虐められる姿がタマりません。ググッてみたら、なんとこのコ、山下敦弘の新作「くりぃむレモン」の妹役を演ってるんだそうで、おおおっ。てことはあんなことこんなことを……!? あと、もちろん大阪芸大の内藤剛志こと山本浩司も「地元の警官」役で出演している。 ● 「ずべ公同級生」のほうがトリで18分。こちらは本田隆一の趣味まるだしの昭和レトロ路線。タイトルどおり「ずべ公番長」とか「野良猫ロック」の真似事ですな。ずべ公5人組がチンピラ2人組(山本浩司ほか1名)と知り合ってガッポリ金儲けのイカした作戦を練る……。なにしろたった18分だから「アジトで作戦を練りながら雑魚寝する」までで おしまいなんだけど「ああ、今日もまたな〜んも生産的なことしないで一日が終わっちゃったなあ……」という青春映画的詩情のようなものが感じられる分だけ、こっちのほうが好み。 ● ずべ公の1人が劇団「毛皮族」の主宰&主演の江本純子で、普段の公演ではニプレスで隠してる乳首出し有り。まあ「江本純子の乳首 見て、嬉しいか?」という話だが、残念ながら相方の町田マリー嬢は出演していないのだった。なお、昭和レトロ歌謡のクラブ歌手=渚ようこがゲスト出演して1曲、歌う。


ラブドガン(渡辺謙作)

「プープーの物語」は観る気が起きなかったので渡辺謙作はこれが初見。これはもう i/o port で茜一郎さんがコメントされた「大和屋竺ごっこ」という評言になんら付け加えることはない。クソこっ恥ずかしいハードボイルド台詞の羅列に、わざと目線を繋げないアヴァンギャルド撮影。解体もなにも始めっから物語など有りゃしない。商業映画でそれをやって許されるのは日本では鈴木清順だけだ。おどれごときが100年早いわ。 ● ただ宮崎あおいちゃんは素晴らしいね。メガネっ娘姿もメチャメチャ可愛いし、クサい台詞も永瀬正敏の100倍 自然だ。これ、どこでストーリーが進行していようが、誰が台詞を喋っていようが関係なく、最初っから最後までカメラがあおいちゃんだけを追いかけてくれてたら、監督の才能とは関係なく ★ ★ ★ ★ ★ あげたのに。なんじゃそりゃ。

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パッション(メル・ギブソン)

おれは天神さんやお稲荷さんにお参りすることはあっても、排他的な唯一神教の類は一切 信じられないし、ましてや「人は生まれながらにして罪びとである」などと説く宗教とは死んでも相容れないので、ここに描かれていることには何の興味も持てない。じゃ普通のドラマとして楽しめるかというと、これまた「捕まって拷問されてゴルゴダの丘まで十字架を背負って歩かされて磔にされて死んで復活する」という、普通にイエス・キリストの伝記映画を作ったなら最後の20分にあたる部分だけを2時間かけて描いたものなので退屈きわまりない。「映画秘宝」方面では「宗教映画の形を借りたエクスプロイテーション映画である」と主張してるようだが、セックス抜きのバイオレンスだけのエクスプロイテーション映画なんて勘弁だ。それでもラストの「復活」はさぞかし神々しいSFXを拝ませてくれるんだろうと期待して最後まで座ってたのに、これもアッサリ肩すかし。ちぇっ

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メダリオン(ゴードン・チャン)

じつはちゃっかり「ツインズ・エフェクト」を数に入れて帳尻を合わせてるジャッキー・チェン〈日本公開50作品記念〉超大作。てゆーか「ツインズ・エフェクト」がアリなら「プロジェクトS」と「ジェネックス・コップ」と「喜劇王」はどーした!? てゆーか「メダリオン」ってタイトルなのに、宣伝コピーも字幕もぜんぶ「メダル」になってるのはなんで?>ヘラルド映画宣伝部。 ● 美人女優 クレア・フォーラニと共演で「超自然的な要素のあるストーリー」ということで、てっきりまたジェニファー・ラブ・ヒューイットと共演した「タキシード」のような なまぬるいハリウッド映画かよ……と危惧していたのだが、これ、香港の宝飾屋から出発した巨大企業=エンペラー・グループ(英皇集団)が金を出してジャッキー・チェンとウイリー・チャンが製作総指揮を務めてアルフレッド・チョン(張堅庭)がプロデュースしてサモ・ハン・キンポーが武術指導してアーサー・ウォン(黄岳泰)が撮影して「デッドヒート」「恋戦。」「ファイト・バック・トゥ・スクール(逃学威龍)」のゴードン・チャン(陳嘉上)が監督した正真正銘の(なまぬるい)香港映画なのな。いちおう台詞はぜんぶ英語で後半の舞台はアイルランドなんだけど、大雑把なストーリー運びルーズな演出、それに「ま、いいじゃん、なんでも」なエンディングなど、香港映画そのもの。よーするにジャッキー・チェンの「アクション世界観光巡り」シリーズのアイルランド篇である。 ● てゆーか(巻末のNGシーンに写ってるカチンコに書かれたワーキング・タイトルで判ったんだけど)「シャンハイ・ナイト」の前にアイルランドで撮影してた「ハイバインダーズ」ってこれだったんじゃん! ちなみに highbinders っていうのは おれの持ってるランダムハウス英和辞典には「たかり・ゆすり・暗殺に雇われる在米中国人の秘密結社の党員」という えらく限定した語彙も出てるけど(スコットランドとそっくりな地形の)アイルランド・ロケで(クリストファー・ランバートと同ジャンルに属する)ジュリアン・サンズが出てて「不老不死の超人になれるメダリオンを求める話」とくれば、これは「ハイランダー」の語呂合わせ以外にありえんでしょう。「マトリックス」の視覚効果(の一部)を手掛けたSFX工房=ムーピング・ピクチャー社に依頼して「マトリックス」そっくりなCG-SFXをやってるし。判っかりやすうー>ジャッキー。SFXアクションということでサモ・ハン流のフルコンタクト・アクションが観られないのは不満だが、「スーパーパワーを身に付けたジャッキー・チェン」という設定は、不老不死の超人としか思えないジャッキー自身のセルフ・パロディとも取れ、ジャッキー・ファンなら(「タキシード」よりは)楽しく観られるだろう。 ● クレア・フォーラニのアクションは殆どボディダブル。本人はたぶん2動作どころか0.5動作ぐらいしかしてないと思う。<でもキレイだから許す。 「ラッシュアワー」「シャンハイ・ヌーン」に倣ってジャッキーとコンビを組むコメディ・リリーフに「メリーに首ったけ」や「マウス・ハント」に脇で出てたリー・エヴァンス。 香港側出演者は、蛇頭(スネークヘッド)のNo.2にアンソニー・ウォン。この人たしかイギリス人とのハーフのはずだけどなぜか英語台詞は別人の吹替え。てゆーか、なんで蛇頭の本拠地がアイルランドにあるんじゃい。てか、そもそも首領がジュリアン・サンズなんだから「蛇頭」である必要ないじゃんか! リー・エヴァンスの奥さん役に「ジャンダラ」のクリスティ・チョン(鍾麗[糸是]) こちらはたぶん台詞も本人。 あと、序盤の香港ロケで、オープン・カフェの給仕をやってたの、ひょっとしてニコラス・ツェーとエディソン・チェンだった?

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友引忌(アン・ビョンギ)

「友引忌」と書いてむりやり「ともびき」と読ませる。「ボイス」が予想外のヒットをしたので松竹が柳の下の泥鰌を狙って買いつけて来た「ボイス」の監督の前作にあたる韓国ホラーである。話は「ラストサマー」+「呪怨」で、大学時代の友人たちに苛められて自殺した少女が怨霊となって復讐を始めるというもの(実際には「呪怨」1作目のオリジナルビデオ版は2000年の3月公開、本作は同年の夏公開なので、本作がネタにしたのは「リング」の貞子のほうだと思われる) 「ボイス」の韓国の松たか子ことハ・ジウォンが白塗りゴス・メイク&黒髪&黒服で伽耶子も裸足で逃げ出す最恐の怨念少女を熱演するのが唯一最大の見もの(これから観に行く人は冒頭の死体ヌードが本人のものかどうか確認して報告するよーに) 2003年の東京ファンタで「悪夢」という原題で上映された。

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21グラム(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ)

「アモーレス・ペロス」のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(長いので以下、稲荷党)の新作。前作同様、手持ちカメラによる不安定な構図で、粒子が粗くコントラストのキツい画質。とことん救われない人間たちが傷口に塩すりこみ合って幸せさがしの深刻ごっこ。全篇に充満する負のエネルギー。で、ベニシオ・デル・トロは結局どうなったわけ?(最後まで観てたけど判んなかったぞ) 心臓移植を受けた患者がドナーの恋人とデキちゃう話が観たいんなら「この胸のときめき」をお勧めする。ずっと幸せな気持ちになれるぜ。ナオミ・ワッツはファーストカットから乳首出してるが、そんな思いつめた顔で脱がれても勃ちません。以上。 ● で、思ったんだけどさあ。ピンク映画で「熱烈に愛しあい結婚を誓い合った恋人同士が冒頭10分で交通事故死。女の心臓は正規のルートでドナー提供されてとある巨乳女に移植される。一方、男の巨根は闇ルートに流れておなべの股間に移植。そしてこの2人が紆余曲折すれ違いを経て、運命的に出会い、結ばれる」って話はどうかね? もちろん「元の恋人同士」が再会する感動的なクライマックスがパイズリね。究極のラブ・ストーリーだと思うんだけど。原作料は要らんからどなたかどうですかね?(田吾ちゃんでもいいぞ)

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白いカラス(ロバート・ベントン)

キャスティングを見て「わかった!ゲイリー・シニーズが犯人だ!」と思ったアナタ、残念でした。ハズレです。<てゆーか、そーゆー話じゃねえし。 ● 原題は「人の染み」あるいは「人の穢れ」。「21グラム」と同じく癒せぬ過去を抱えた女と男のドラマであり、同じように過去と現在が錯綜する話だが、野心ギラギラの「21グラム」と違って71歳の名匠 ロバート・ベントンはこれをオーソドックスなメロドラマとして演出し、残念ながら本作が遺作となった撮影監督 ジャン=イヴ・エスコフィエによる、的確で自然なフレーミングで世界をシネマスコープ・サイズに切り取り、登場人物の気持ちに沿って動いていくカメラのおかげで、カメラの存在を意識することなくドラマに酔うことが出来る。これこそプロの仕事である。2人の出会いの名場面>男が女をクルマで送る。女が「寄ってく?」と誘う。男はためらう。女は「そう…(Whatever...)」と呟いてクルマを降りる。外は雨が降っている。女が家に入るのがクルマのフロント・ウインドウ越しに見える──以下、カメラ据え置きで──開けたままのドア。男がワイパーを動かす。だが、まだクルマは出さない。フロント・ウインドウを行ったり来たりするワイパー。開けたままのドア。………。男はワイパーを止めてクルマを降りる。 ● さて、しかし問題はアンソニー・ホプキンスが、ニコール・キッドマンのメロドラマの相手に見えないこと。ニコールは朝は牧場住み込みの乳搾り、昼は郵便局のパートと大学の掃除婦をしてる34歳の根無し草。ホプキンスは退職した71歳の大学教授。クルマがエンコして立ち往生してるニコールを、たまたま通りがかったホプキンスが牧場まで送っていくのだが、それまで2人は郵便局で顔を合わせる程度の面識しかなかったのに、ニコールはアンソニー・ホプキンスを「寄ってく?」と誘うのだ。なんで? ニコールがほぼ初対面のアンソニー・ホプキンスに性的に惹かれたというのなら、それを思わせる「視線の交錯」ぐらいは演出として試みるべきだろうし、「どうせアンタもあたしのカラダ目当てなんでしょ。いいわよヤリたいならヤラせてあげる」という意味の投げ遣りな「寄ってく?」ならば──たぶんこちらだと思うのだが──もっとそのように台詞を言わせるべきではないか。 ● アンソニー・ホプキンスの演技力がすばらしいのは今さら言を俟たぬし、じっさい「過去への悔恨」に関しては完璧な演技を魅せるのだが、いかんせん友人の弁護士に「バイアグラを使う英雄アキレスか。それに何の意味が?」と揶揄されるような「37歳年下の恋人が出来て恋に舞い上がってる男」には見えない。演じているのがジャック・ニコルソンやショーン・コネリーだったならセクシュアルなニュアンスも出ただろうとは思うが、そうなると今度は、この話の核心をなす裏設定との整合性が破綻してしまう。ネタバレを避けてボカして言うならばアンソニー・ホプキンスの役は「砂の器」「飢餓海峡」の主人公と同じく「自らの未来のために出自と家族を切り捨てた男」であり、ある意味での殺人者である。そうして偽りの人生を生きてきた男なのだ。ともかく難しいキャスティングなのである、この役は。 ● それもそのはず、これ、原作はなんと「さようならコロンバス」「乳房になった男」「素晴らしいアメリカ野球」のユダヤ系作家フィリップ・ロスである(「ヒューマン・ステイン」集英社) となれば原作小説ではこの男の人生がまるで贋伝記のように事細かに書き込まれているに違いないのだ。映画化に際しては〈メロドラマ〉と〈社会派〉の二兎を追ってどちらにも逃げられたうらみが残る。まあ、たしかに単なるメロドラマにしてしまっては この話を映画化する意味がないし、そもそもメロドラマのツマで済ませるには重すぎるテーマではある。慎みぶかく2時間以内に収めるためには、どうしたってこの程度のバランスになってしまうのだろう。 ● 脚色を手掛けたのは「ジャック・サマースビー」(1993)以来となるニコラス・メイヤー。「スター・トレック2・4・6」「タイム・アフター・タイム」と本来、SF畑の人がなぜ?と思うが、ロバート・ベントンとの共通点は(おそらく)政治的にリベラル派であるということだろう。クリントン大統領のモニカ・ルインスキー醜聞の時代を背景に、授業でなんの気なしに使った言葉の言葉尻を曲解されて大学を追われる主人公……を描いた本作は、いわば下賎な覗き見趣味で個人の秘密を暴き立てて告発する検閲的清廉性の蔓延の一方で、個人の醜聞など問題にならぬ巨大な嘘が「正義」としてまかりとおる現代アメリカ社会への異議申し立てなのである。 ● まだ色々と書きたいことはあるんだけど長くなったので内容についてはこの辺で。ほんと、一言では説明しにくい映画なのだ。でも、そうした「ジェリー・ブラッカイマー的なシンプルさ」の対極にある多様性こそが映画的な豊かさであると信じる皆さんならば、観に行かれてまず損はない。 ニコール・キッドマンは ほんとうにキレイで「コールドマウンテン」よりずっと良いと思う。今回もちゃんと脱いでます。 回想シーンで主人公のガールフレンドを演じるオーストラリア出身の21歳の新星 ジャシンダ・バレットに、カレシの部屋でのプライベート・ストリップティーズ&ヘアヌードあり。 最後に(ネタバレなので伏字にしとくけど)母親が主人公に投げつける痛烈な台詞>「お前の肌は雪のように白いのに、考え方は奴隷のよう(You're white as snow ...and think like slave.」 ● さて、おれはこのレビュウをネタバレ無きよう、これからご覧になる皆さんの興を削がぬよう配慮して書いたつもりだが、本作の予告篇・チラシ・新聞広告・テレビCMを目にされた方は、すでにギャガ宣伝部の厚顔無恥なネタバレの被害者なわけだ(もちろん おれもその1人) 少なくとも本作のアメリカ配給を手掛けたミラマックスは予告篇からそのことを隠して「サスペンス・タッチのラブ・ロマンス」として宣伝していた。ところがギャガ宣伝部は予告篇で堂々とそれを売りにして、なおかつ後から「血と骨」の作家のそのことをバラしたコメントを冒頭に掲げたりしている。そればかりか映画を観た評論家/ジャーナリスト/レビュアー/売文家までがそろいもそろって「秘密」をオープンにした批評/紹介文/監督インタビューを書いておるのだ。おれが目にしたなかでネタバレに配慮した記事は(意外にも?)「映画秘宝」の監督インタビューだけだった。いったい いつから日本の評論家/ジャーナリスト以下略は配給会社から「ここから先は書かないで」と指定されなきゃ、こんな「いろはのい」も判らぬ愚か者ばかりになってしまったのだ!? ちなみにギャガの宣伝にはオチがあって、公開前の新聞広告ではアンソニー・ホプキンスの抱える秘密をメインに宣伝してたくせに、公開1週間後の新聞広告ではコロっと変わって「ニコール・キッドマン主演のラブ・ロマンス」になっていた。しかも哀れアンソニー・ホプキンスはエアブラシで顔を黒く消されてしまってんの。これきっと初日のフタを開けてみたら大コケで、どこぞの会社の偉い人から「だいたいジジイのラブ・ストーリーなんかで客が来ると思ってるのか!」と、そんなこと半年前に言えよ!なことを言われたんでしょうな。

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デス・サイト(ダリオ・アルジェント)

[DVD観賞] イタリアでも今年の正月に公開されたばかりというダリオ・アルジェントの最新作。前作「スリープレス」に続いて製作:クラウディオ・アルジェント、共同脚本:フランコ・フェリーニ、音楽:クラウディオ・シモネッティ(ゴブリン)、そしてSFXがセルジオ・スティヴァレッティという黄金の布陣で贈る初期ジャーロ路線(≒猟奇殺人ミステリ)への回帰作。特に今回はセルジオ・スティヴァレッティが大活躍で全裸美女のグロ死体これでもかというぐらいに堪能できるので、そういうのが嬉しい方には文句なくお勧めできる。アルジェント組 初登板となる「アレックス」のベルギー人カメラマン、ベノワ・デビエが捉えた夜のローマや(タンポポみたいな)種子の舞い飛ぶ庭園などの自然美映像は素晴らしいが、その分「サスペリア」のようなゴシック調の映像美を期待する向きには肩すかしかも。 ● 日本で発売されたDVDは英語版。原題は「カード・プレイヤー」。正体不明の殺人者が若い娘を拉致しては、その娘の命を賞金にローマ警察 殺人課にインターネットでポーカー・ゲームを挑んでくる。警察側が負けると人質の死にざまをウェブカムで実況中継……という「殺人ドットコム」とほぼ同じ話。ま、誰もが考えそうな話ですけどね。ヒロインは殺人課の女刑事。アマンダ・プラマーとジュヌヴィエーヴ・ビジョルドを足して2で割ったみたいなマゾ顔のステファニア・ロッカが演じていて、例によって犯人の標的となって思う存分いたぶられるわけである。最後は犯人と命を賭けてタイマン勝負のポーカー・ゲーム。この決着が爆笑もので[ロイヤル・ストレートで勝ったと思った犯人だったが、ヒロインにA〜5のストレートを作られて「あたしの勝ちよ。数の少ないほうが勝ち」「それ、ルールが違う!]──ま、教訓としてはローカル・ルールは事前に打ち合わせましょうってこったな。あと字幕は「マイダスの指」くらいちゃんと「ミダス」と訳しなさい。

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世界の中心で、愛をさけぶ(行定勲)

いやあ、ワカる! ワカるよう>大沢たかお君。たしかに田舎の高校生(もちろん童貞)の頃に長澤まさみちゃんみたいなコとスクーターに2人乗りして、後ろから抱きつかれて「ムネ、あたる?」なんて訊かれた日にゃあアンタ、大人になっていくら柴咲コウとヤリまくったって、なんか物足りなく感じるのはワカるよ。ヤルぶんにはいいけどちんぽと恋は別もんだからなあ<あんたサイテー。 ● 大ヒットしたから……ってだけでなく、なにかと話題の本作だが、これ、どこにそんなにツッコまれる余地があるの? いや、たしかに序盤は柴咲コウ絡みの爆笑スケッチ(※1)から始まるし、こいつは劇中最大の催涙シーン(すなわち長澤まさみちゃんの○○シーンだが)の直後にも強烈なギャグ(※2)をカマすので、おれなんか ぼろ泣きしながら「なんでやねん!」とツッコミを入れるという器用な真似をするハメになったわけだが(←バカ)、でも大胸 おおむね 長澤まさみの平成版「愛と死を見つめて」といってもいいマトモな催涙純愛映画になってると思うけどなあ。予測される「えー!? イマドキ白血病かよ!」というツッコミに対しても脚本でワン・クッション置いてるし、いまや21世紀だというのに平然と「また逢う日まで」のガラス越しのキッスをやる度胸は褒めてあげてもいいんじゃないかと思うのだが。演出もべつに東宝系 全国公開作品だからって(「黄泉がえり」のときの塩田明彦のように)大衆に媚びることもなく いつもの行定ワールドだし、だいたい「記憶」というのは この監督の好きなテーマじゃないの(カメラの篠田昇つながりで、行定の師匠=岩井俊二の「Love Letterとも二重写しになる) むしろ行定勲の本当の勝負は(これまでのフィルモグラフィーとなんら重なるところのない)東映「北の零年」でしょう。 ● ただ、ひとつ気になったのは回想シーンを「1986年」と字幕まで入れて特定してる割には時代考証にまったく無頓着な点。長澤まさみちゃんの制服のスカート丈が今風のミニスカなのはファン・サービスとして目を見開く つぶるとしても、実際には1981年発売のウォークマンII が1986年に「新発売」されてたり、深夜放送のことを深夜のラジオなんて言ったり(「深夜のラジオ」なんて日本語は無い)、1986年といえば当の行定勲が18歳の青春まっさかりだったはずなんだが、どうして風俗考証をこれほどないがしろに出来るんだろう? だって本作に限っては(美術時代のクォリティや撮影のレベルからしたら)決して「予算が無い」せいではないよね。ほんと不思議。 ● 主演の長澤まさみちゃんは言うことなし。 で、また相手役の新人=今田耕司の少年時代みたいな顔をした森山未來クンがこまっしゃくれて無くてとてもイイ。ややヒラメ顔で目が顔の左右についてるあたり「ウォークマン聞きながら思いつめた顔して歩き回る青年時代」を演じる大沢たかおの面影もあり、ナイス・キャスティングでしょう。 写真館を営む爺ちゃんに山崎努。若い頃はいろいろあった。人殺し以外はなんでもやったよ……って、ひょっとして「GO」のクソ親父と同一人物という設定ですか!? 名台詞をひとつ>「天国ってなぁ生き残った人間が発明したもんだ。そこにあの人がいる。いつかまた逢える──そう思いたいんだ」 あと、後半に登場する「仄暗い水の底から」「油断大敵」「ジョゼと虎と魚たち」と最強子役の道をあゆむ菅野莉央ちゃんにも注目。 ● 2時間18分。シネスコ・サイズ。しんみり終わりがちな話を、ラストに晴天のオーストラリア・ロケを入れてスコーンと突き抜けさせたのはいいアイディアだと思うが、それまで「世界の中心」「世界の中心」ってあれだけ前フリしといてロケ地点がエアーズ・ロックじゃないのはロケ許可が下りなかった? なら別の場所にすりゃいいじゃねえか。あれじゃ「世界の中心からちょっとズレたところで、愛をさけぶ」だぞ。フィルム撮り。撮ったのは篠田昇。あまり意味のない符合だとは思うが気が付いたので書いておくと、篠田昇の商業映画デビューは「ラブホテル」(1985) どちらにも手持ちカメラによる映像が印象的な埠頭の場面がある。デビュー作のラストで画面に花吹雪を舞わせたカメラマンは、最後の作品で遺骨を風に撒いてこの世を去って行った。 ● エンドクレジットで気が付いたんだけど、これ、テレビ局主導じゃなくて「東宝映画」製作なのだな(冒頭に社名ロゴ、出た?) てことは、ひょっとして東宝映画史上──東宝がフジテレビともスタジオジブリとも関係なく自力で作った映画では過去最大のヒット作ってことになるのでは? ● ※1序盤の爆笑スケッチ:台風がいまにも上陸しようかという夜。フィアンセの柴咲コウがいなくなった大沢たかおは、彼女を紹介してくれた同級生クドカンが営む「燃えよドラゴン」という名のバーに行ってみるが柴咲はいない。「電話してみたのかよ?」「いやまだ」「なにやってんだ。とりあえずかけてみろよ」と言われてケータイを持ち窓際へ。と、カウンターの向こうでテレビを見ていたクドカンが驚いて大沢を呼ぶ「おい、あれ、柴咲じゃねえか!?」。大沢が電話をかけながらテレビを覗き込むと、台風ニュースの画面。暴風下の四国・高松空港前でレポートしている記者の後ろに、ケータイを開きながら横断歩道を渡る柴咲コウの姿が。ビックリして思わずケータイを閉じてしまう大沢。クドカン「なんで切るんだよ!?」「あ、いや…」。その瞬間、テレビの中の(ケータイの画面を見ながら下を向いて歩いてた)柴咲コウがクルマに轢かれる。テレビ、スタジオに切り替わってキャスターが心配そうに「いまの方、大丈夫ですかねえ…」。顔を見合わせてるクドカンと大沢。大沢、店を飛び出していく……。<コントかよ! ※2クライマックスの強烈ギャグ(ネタバレ):大沢たかおの役名は朔太郎、略して「サク」というのだが、大沢の今カノの柴咲コウはじつは昔[入院してる長澤まさみに頼まれて(高校生の)朔太郎に交換カセットテープを届けていた小学生]だった。それで現在の(朔太郎との結婚を間近に控えた)柴咲コウが故郷の写真館に飾られていた「朔太郎と長澤まさみのツーショット写真」を見つけて、涙ぐみながら ひと言>「…サクちゃんだったんだ」って、ええええええー!? アンタ[手紙の届け先が現在のカレシ]だと知らなかったんかい! じゃなに? 2人はクドカンが「同郷の後輩」を大沢たかおに紹介したってだけで互いに過去の因縁を知らずに今日まで付き合ってきたんかい! てゆーか、大沢たかおはこれから結婚しようって相手に高校時代の「一生一度の恋」のことを話してなかったんかい!

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海猿 UMIZARU(羽住英一郎)

製作責任者がフジテレビの亀山千広、制作プロダクションが「踊る大捜査線」「サトラレ」のROBOT、監督がROBOT所属で ずうっと「踊る大捜査線」シリーズの助監督を務めていた羽住英一郎……という布陣から想像されるとおりの娯楽映画。いかにもテレビ的な安っぽい「感動」要素も含めて、100%製作側が意図したとおりの「商品」に仕立てあげる手腕はたいしたものだと思う。 ● ダイバー部隊の軍事教練ものということでデ・ニーロの「ザ・ダイバー」、韓国映画の「SSU」に続く三番煎じかと思ったら、雰囲気としては「ザ・ダイバー」の そもそもの元ネタである「愛と青春の旅立ち」から直接パクッて来ているようだ。主題歌として劇中でもココ1番で多用されるジャーニーのなんでいまごろ!?な「オープン・アームズ」も、元をただせば「愛と青春の旅立ち」のジョー・コッカーのノリなんでしょうな。まあ、当時「産業ロック」と揶揄されたジャーニーは、戦略的な産業エンタテインメントである本作には相応しいといえば相応しいか。 ● 海上保安庁の潜水士は「バディ」と呼ばれる相棒と常に2人一組で任務にあたり、2人は文字どおり生死を共にする──というバディ・システムが「ザ・ダイバー」にも「SSU」にも無かった本作のオリジナリティ。おれがいちばん引っ掛かったのは、優秀なダイバーである主人公のバディに「体力的にも技術的にも劣る素人ダイバー」を設定していることで、愛すべき剽軽者である かれが必死で頑張る姿がドラマを盛り上げるわけだが、たしかに一般論としてはそれは正しい作劇法である。だが忘れてもらっては困るのは、海保の潜水士というのは人命救助に関わる仕事だということだ。これは単に かれ自身の「努力と達成」の問題ではない。遭難者は死んじゃったけどキミは一生懸命がんばったよね……で済まされる問題ではないのだ。ベスト・オブ・ザ・ベストを要求される職務に、体力的にも技術的にも劣っている及第点スレスレのような者を「情」で合格させるのは絶対に間違っている。言い方を変えるならば本作の脚本家(「陰陽師」「催眠」の福田靖)は「映画の嘘」のつき方を根本的に間違っている。 ● それに較べたらたいした問題ではないけれど、かとうあい の演じてる「初めてページの構成/編集を任されたファッション誌の編集者が、その校正刷りが出るという時に、母親の看病のために1週間、田舎に帰ったために馘首にされてしまう」という設定もどーなのよ? べつに危篤とかじゃねーんだから校正ぐらい済ませてから帰れよ……という話もあるが、それにしたって彼女が正社員や契約社員だったら「上司の承認を受けて休暇を取った」のが理由で馘首ってのは不当解雇だし、逆にバイトだとしたら そもそも(監修役の編集者も付けず)バイトにページを任せる編集長ってのが無責任だろ。ちょっと(脚本家に)社会常識なさすぎ。 ● 本作には「次のシーンの劇伴が、前の場面の終わりから先行して(小さい音量で)流れ始める」というサウンドトラック編集が成された箇所がたくさんあって、劇伴担当は佐藤直紀という主にテレビで活躍してる作曲家なんだけど、普通そういう場合は「メロディー」主体の曲が使われるわけだが、この人はなぜかそこにドラムとかの「リズム」主体の(イントロの)曲をアテてしまうので、なんかスピーカーから「ばす…ばす…ばす…ばす…」って雑音がしてないか?とか思ってると、次の場面になってヴォリュームが上がって初めて「ああ、音楽だったのか!?」と判明するというマヌケな事態になっている。てゆーか、ミキサーも気付けよ。 ● しかし(これは映画とは関係ないけど)あのような大変な仕事をする潜水士をたった50日の訓練で仕立てなきゃならんのだから海保の教官も大変だなあ。あと本作は「海上保安庁 全面協力」だから当然、敬礼の仕方も厳格に海保のやり方に倣ってると思うんだけど、海保の敬礼って けっこう横に肘をはる陸軍式なんだね。

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犬と歩けば チロリとタムラ(篠崎誠)

もともとセラピー・ドッグ協会がスポンサー(?)の企画みたいだから仕方ないけど、女に棄てられたダメ男と、飼い主に捨てられた野良犬の友情の話が、途中からセラピー・ドッグ協会のPR映画になっちゃって気色わるぅ。 ● でまた、セラピー・ドッグ養成所の校長を演じてる(明らかに素人の)ヒゲ男がミスター・マリックみたいないかがわしさを全身から発散してて「先日も九州で2匹ほど捨て犬をレスキューして来ましてね」などと英語交じりで喋るのが、まるきり詐欺師の口調。これが「セラピー・ドッグ」という制度そのものに、いかがわしいイメージを付加してしまっていて逆効果なのでは? 犬を訓練するのに「日本語の発音は曖昧なものが多いので、ここではすべて英語です」って日本人の喋る英語のほうがよっぽど発音もイーカゲンで曖昧だと思うけど。 ● いったいあれは誰だろう?と思ってエンドロールを見ていたら「大木トオル」って出てきて「ああぁ、ブルース・シンガーの…。でも、またなんで?」と思ってたら、今度は「セラピー・ドッグ協会監修:大木トオル」とか出てきたぞ。えええっ、大木トオルっていまやそんなことになってんの!? ● ドラマとしてもココリコの田中 演じる主人公と捨て犬タムラの話はいい塩梅なんだけど、母親の看病のために故郷に帰ったりょうと「引き籠もりの妹」とのドラマがとってつけたみたいにしょっぱくていけない。終盤の感情的山場として設定されている「襖ごしの姉妹の会話」もとても醜悪で、まるで篠崎のデビュー作「おかえり」の安っぽい模造品のよう。 あと「チロリとタムラ」ってタイトルなのにベテラン・セラピー犬 チロリはまったく本筋に絡んでこないじゃん(脚本は「のんきな姉さん」の七里圭) いちばんダメなのは、ビデオ撮りなので犬たちの美しい毛並みが台無しなのだ。あんな薄汚い色じゃ癒されるもんも癒されんよ。 ● ダメ兄貴と対照的な「チャキチャキした妹」にPuffyの吉村由美@まあまあ達者。 妹の亭主はひょっとしてあれ、フィギュアの原型師ってやつですか? 

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のんきな姉さん(七里圭)

おれ、この映画、スカした予告篇で損してると思うけどなあ。薄暗い雪原を黙々と歩き続ける人影のロングショットにコピーとかがスッと浮かんでは消えていく…という1カットだけの予告篇。おれはてっきりおれの大っキライな、ロクに照明も当てない薄暗い画面で俳優がみんなぼそぼそしゃべり事件らしい事件も起こらない「静かな映画」の一派かと思ってしまったよ。チラシのデザインもスカしてるし、見れば撮影は「M/OTHER」とかの田村正毅(本作では「たむらまさき」名義)だってゆーしさあ。いや、もちろんそーゆー映画が好きな人たちに売ろうとしてるからそういう宣伝をしてるわけだが。 ● でも、まあ原作が山本直樹ってことは最低限エロはあるだろエロは……という下世話な期待と、この作品で監督デビューした七里圭(しちり・けい ♂)が「廣木隆一などの助監督をつとめていた」というチラシの一文に「万が一」と思って足を運んだのだが、足を運んで正解だった。その「万が一」が出たのだ。「静かな映画」好きの娯楽映画音痴のやつらに独占させておくには勿体ない傑作である。 ● 結婚を間近に控えたヒロインのもとに1冊の新刊本が届く。彼女の弟が書いたその小説は姉弟の近親相姦愛を描いたものだった……。姉の名は安寿子(ヤスコ)。弟は寿司夫(スシオ)。つまり「安寿と厨子王」の物語である。姉は会社勤めのOL。弟は美大でヌードモデルのバイトをしてる おとなしい青年。2人は両親をはやくに亡くし、2DKの公社住宅でふたりぼっちでひっそりと暮らしてる。そんなある日、姉は「結婚するので家を出て行く」と弟に告げる……。 ● この映画がスリリングなのは、クリスマスの夜に婚約者とデートもせず、独りオフィスで残業するヒロインによって語られる〈物語〉が、はたして「彼女の回想」なのか「弟の書いた小説」なのか判然としないことで、実際に姉の登場しないシーンもあるし、途中からは「以前に見たのと同じようで微妙にズレたシーン」というのが頻繁に登場してくる。どこからが記憶(≠事実)で どこからが空想なのか──。脚本を書いた監督自身がパンフで言及しているように「胡蝶の夢」「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」といったメタ・フィクショナルな屋台崩しの好きな方にお勧めする。 ● 姉を演じるのは(ちょっと中井貴恵に似た)梶原阿貴。 弟に(中井貴一には似てない)ジャニーズ系の顔だちの塩田貞治。同世代の積極的なガールフレンドに後ろから抱きすくめられて「え? なに?」とか、かぼそく抵抗しながら押し倒される様がもう……って、コラー!男に萌えるなー!>おれ。 ● 前述したようにヒロインが残業している深夜のオフィスが「現在時制」として設定されているのだが、そこに何処からともなく出現しては「いや安寿子クン、それは違うんじゃないかな」とか突如として話しに割り込んでくるどこにいたんだアンタ!?なオトボケ課長に三浦友和。ヒロインの婚約者に大森南朋。弟を誘惑する老紳士に佐藤允……と意外な豪華キャスト。フィルム撮り。82分。 ● テアトル新宿でのロードショー時には上映前に20分の短篇「夢で逢えたら」(35mm)が併映された。これは七里圭のデビュー作で、ひと組のカップルの「出逢い」と「気まずい時間」と「別れ」を主にヒロインに寄り添って描いていくが、映像上の実験として(SEとBGMだけで)台詞の音声がすっぽりと抜けている。つまり台詞はすべて口パクになっている。おれは何の予備知識もなしに観たので、登場人物が最初に口パクしたときは(映写室に走ろうと)反射的に椅子から腰を浮かしかけたぜ。八の字眉のヒロイン=安妙子(やす・たえこ)がキュート。


クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち(オリヴィエ・ダアン)

脚本:リュック・ベッソン

前作のヒットから続篇の企画が浮上。要請を受けた原作者が半年以上もかけて続篇の構想を熟考してる間に、リュック・ベッソンが横からちゃちゃっと3週間で書きとばした脚本でプロデューサーに取り入り、製作権までゴーモン社からかっぱらって自社ヨーロッパ・コープで粗製造した続篇。まるでフランス映画界のバリー・ウォンやな(才能はバリー・ウォンのほうがあるけどね) あのさあ。バカミスならバカミスでもいいんだよ。「そんなことあるわけねーだろ!?」っていうトンデモ・ミステリでも、「んなバカな謎解きがあるかよ!?」というバカミスでもいいんだよ。面白ければ。だけどせめてバカはバカなりに物語の辻褄ぐらい合わせろよ。おまえのはぜんぶ投げっぱなしじゃねーか!>ベッソン。 ● まず始めにお断りしておくが、これは現代のフランスを舞台にした話ではない。現代のフランスによく似たパラレル・ワールドの話である。その世界では全国民のDNAデータが警察のコンピュータに登録されていて、死体の血液から採取したDNAを照合すればたちどころに被害者が特定され、また、入院中の意識不明の重要参考人に自白剤を注射して強制聴取を行うことが警察のマニュアルで認められている。その世界では「アンフェタミン」は単なる覚醒剤ではなく、身体パワーを増強させて高いビルから飛び降りても骨も折らず、胸板に近距離から数発の銃弾を喰らってもビクともしない超人になることの出来る「ポパイのホウレンソウのようなもの」を指す名称である。 ● 物語はここで理路整然と要約できるようなものではないのだが、簡単に言えば「悪の秘密結社がわざわざ自分から通報して本拠地にジャン・レノ警視を呼びこんで連続殺人事件の発生を報らせ、その一方で悪の秘密結社の首領クリストファー・リーは、観客にも(そしておそらく当人にも)詳細不明の〈ヨーロッパ征服計画〉のために、最後まで正体不明の〈キリスト教最大の秘宝〉を手に入れるべくカルト小教団のメンバーを意味もなく凝った方法で次々と血祭りにあげるが、最終的には誰が何のために仕掛けたのかわからない〈死の罠〉に落ちてすべてが水の泡になる」という話である。話が終わってエンドロールが始まると同時に、まるで観客の気持ちを代弁するようにイギー・ポップの「No Funちっとも面白くねーんだよ!)」が流れ出すのは、なんかの悪い冗談かね? ● てゆーかこれ、ケーサツが無くても成立するんじゃねえか? だってジャン・レノは結局、誰も救ってないし、何も解決してないじゃん。おれらは画があって観てこうなのに、これを脚本で読んでゴーサインを出すプロデューサーが(リュック・ベッソン以外に)存在するってのが信じられんよ。あと、原題にも入っている「黙示録の天使たち」の正体がよく解からなかったという皆さんのために教えてあげよう。身のこなしでピンと来たぜ。あの顔の見えないフード付き修道服のやつらの正体はヤマカシだ。 ● 今回、ヴァンサン・カッセルに代わってコンビを組む「格闘技使いの若手刑事」の役まわりはブノワ・マジメル。 「スペース・トラッカー」「バンパイア・キッス」のコリン・タウンズによる安っぽくて虚仮脅しの劇伴のみ素晴らしい。 あとフランス/ドイツ国境のマジノ線の地下要塞がけっこう大々的にフューチャーされてるので、話や出来はどーでもいいという軍事オタクの皆さんにお勧めする。

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実尾島シルミド番外地 特攻!兵隊やくざ(康祐碩)

大杉漣|白竜 遠藤憲一 泉谷しげる|勝新太郎 石橋凌|粟津號 榎木兵衛 阿藤海 || 高倉健

熱き血汐の東映三角マーク魂が炸裂する男哭きの傑作。1968年、北朝鮮の特殊部隊31名に38度戦を越えて侵入され、大統領官邸まであわやというところまで攻め込まれた韓国政府(KCIA)が「目には目を」で、金日成暗殺のための特殊部隊を組織して極秘裏に訓練を開始する。沖合いに浮かぶ無人島=実尾島(シルミド)に集められたのは北朝鮮特殊部隊とまったく同数の31名──すべて戸籍を抹消された死刑囚やならず者たちであった! 空軍空挺部隊の精鋭たちによって施される地獄の訓練。生き地獄の毎日の中で育まれるはぐれ者たちの友情と結束。そして戻る場所のないかれらに下される国の非情な決断……。ええいこうなったら、おれら一寸の虫けらにも五分の魂があるってこと、大統領やお偉い奴らに見せてやろーじゃねーか。ならず者部隊の〈男の意気地〉を賭けた最後の特攻が、いま始まる──! ● 甘っちろいロマンスや感傷的な回想シーンは一切ない。男、男、男の世界。甘いマスクの韓流ハンサムなど1人も出てこない。ズラリと並ぶVシネ顔。まさしく東映「網走番外地」+大映「兵隊やくざ」の世界である。同房の囚人同士の対立と友情や、印象的なおふくろの写真のエピソードは「網走番外地」だし、指導兵たちの猛烈なシゴキや、上等兵殿と二等兵のユーモラスなやりとりなどは「兵隊やくざ」そのもの。実際、若き日の勝新太郎が「愛嬌のあるはみだし者」の役回りで出演して笑い(と涙)をとるのだ。いやあ、CG技術の進歩って偉大だなあ(ちがいます) 音楽はジェームズ・ホーナー。いつもの自曲パターン使いまわしで……え、ホーナーじゃない? まったくの別人? あ、そうですか。[追記]正しくはジェームズ・ホーナーじゃなくてハンス・ジマーだったようですな。耳の悪さを白状してるも同然でお恥ずかしい……。 ● 監督の──韓国最大の製作/配給会社シネマ・サービスの創立/経営者でもある──韓国の角川春樹ことカン・ウソク(康祐碩)は社会派監督/脚本家としては「オアシス」のイ・チャンドンほどの腕は無く、「悪い男」のキム・ギドクのような強烈な作家的個性にも欠ける。かれはただひたすら過去の映画職人たちが磨きあげてきた定石をあざとく使いまわして、観客の(センスではなく)心に訴える。演出は泥臭いし、サスペンス描写も二流。島での訓練に明け暮れた「3年」という時間が見えてこないなど、基本的な欠点も目に付く。映画評論家が選ぶベストテンに入るような作品ではない。映画としての完成度から言えばポン・ジュノの「殺人の追憶」とは較べ物にならない。だが、浅草や新世界の名画座でフィルムが擦り切れるまでのリピートに耐えうるのはこういう大衆娯楽映画なのだ。お行儀のいい映画ファンの口には合わんだろう。オンナコドモにゃ勧めねえ。だが男ならこれを観ろ。 ● いやまあしかし、これが実話だってんだから狂ってますな。「目には目を」で金日成暗殺を計画するってのは国民性として理解できるとしても「情報を収集して冷静な判断を下す」のが仕事のはずのKCIAの部長ともあろう者が「(軍人としては)シロートの前科者や一般市民を集めて訓練して特殊工作員に仕立てる」って、どんな計画だよ! そりゃ話としちゃ面白いけど、まったく合理的じゃないだろ。最初っから軍の精鋭を使えばいいじゃん。だいたい「向こうが31人だったから、こっちも31人」て、思考回路がやくざと一緒じゃねえか。まったく韓国人て……(以下略)  なお、本稿の〈韓国版「兵隊やくざ」と「若き日の勝新太郎」〉という件りは i/o port えんどうさんの投稿からパクり インスパイアされました。

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チルソクの夏(佐々部清)

デビュー作の「陽はまた昇る」にもヒットした「半落ち」にも食指が動かなかったので佐々部清 監督作はこれが初見。ロケ地の下関出身だという佐々部清のなかば自主企画で、脚本も自分で書いている。ジャンルとしては青春映画や恋愛映画というより、むしろ貧乏少女もの。つまり「キューポラのある街」に代表される「家庭事情が複雑で貧乏な女の子が、それでもめげずに明日を信じて健気に頑張る」というタイプの話。もちろん「貧乏」なくして貧乏少女ものは作れないので、時代設定を今から四半世紀の昔──1977年の夏から1978年の夏までの1年間に、舞台を田舎の詩情ゆたかな港町・下関に設定している。また、ヒロインの初恋の相手を海を隔てた釜山の高校生にして「姉妹都市の親善陸上競技大会で出会った2人が1年後の再会を約束する」と設定することによって「恋愛」のファクターは生臭さを抜かれ、しごく抽象的なものとなる。映画が主に描くのはヒロインが──学資稼ぎの新聞配達をしながら──陸上部仲間の3人と一緒に、ときに悩みながらも学業にスポーツに打ち込む毎日である。 ● つまり本作はプロの大人が作った(時代おくれの)青春映画であり、冒頭と巻末に「現在」の場面を置き、全体を「美しい想い出」という甘酸っぱい味のオブラートでくるんだ(ある種の)ファンタジーである。ファンタジーだから「貧乏」とはいえヒロインには奨学金による進学の道が開けているのだし、七夕祭りの夜に韓国人とデートしたヒロインが地元のヤンキーに絡まれてレイプされたりもしない。「本当の絶望」や「永遠の決裂」が描かれることはないし、それは初手から作者の真意ではない。したがって現代の若い観客にとっては「けっ、じじいの昔話だぜ」と唾棄されるかもしれないが、おれのような(1977年に中学生だった)じじいにとっては、しっかりした説話技術で気持ちよく泣かせてくれる極上の一品となる。同好のじじい&ばばあの皆さんにお勧めする。 ● さて、極上といえば4人の少女たちの健康美である。4人とも陸上部員という設定だから全員が体操服。しかも時代が1977年だから短パンやジャージなどという無粋なものではなくぴちぴちブルマーだ。オーディションで陸上経験者を選んだだけあって、このコたちがスラリと伸びたナマ足ぴちぴちブルマーで ともかく走る走る!(どー見ても「1977年の高校生」の体型じゃないとかそーゆー野暮なことは言いっこなしだ) そのうえロッカールームでの白ブラ下着姿のサービスカット(としかいいようのない)着替えシーンが2度も3度も用意されているので今関あきよし監督への差し入れにもお勧めだ。 ● やや大人びた顔つきで落ち着いた性格のヒロインに水谷妃里(ゆり)、撮影時15歳。「新乳性飲料セノビー」のCMで「アリtoキリギリス」の小っちゃいほうをジャイアント・スウィングしてた女の子……だそうな。 対照的にキャピキャピした性格の親友に「クレアラシル」CMの上野樹里、撮影時16歳。本作が映画デビューで、先に公開された「ジョゼと虎と魚たち」が2作目になる。 ヒロインの父親の稼業が「カラオケに仕事を奪われた流しのギター弾き」という設定で、ヒロインの「貧乏」にひとやく買っているわけだが、これを演じているのが映画初出演の山本譲二。実際に下関出身なのだそうで、チョン公嫌いかたくなな親父像を好演、絶品の弾き語りも披露してくれる。劇中にはほかにも当時の歌謡曲がふんだんに使用されており、主題歌となっている「なごり雪」はエンドロールでイルカ自身が韓国語バージョンを歌う。 ● 撮影は坂江正明。細かいツッコミだけど、七夕祭りの夜(花火大会アリ)の、街を一望できる展望台が、あんな閑散としてるわけないでしょ。

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ワイルド・フラワーズ(小松隆志)[ビデオ上映]

プロの映画監督になって はや10年選手だというのに、いまだに自主映画時代の「いそげブライアン」の…と言われてしまう小松隆志が「いそげブライアン」と同じくプロレス愛をテーマにして、やっと商業映画での代表作と呼べる作品を撮った。東京テアトルが幹事会社となって始まったビデオ撮り/DLP上映プロジェクト「ガリンペイロ」の第2期1本目。てゆーか、第1期があんまり不発続きだったので仕切り直し再出発の第1弾である。製作をパル企画なんぞに任せていたのが失敗の原因だったとようやく気付いたようで、今後は東京テアトルみずからが製作主体となって作っていくようだ。本作から本篇のアタマにもレーベル・ロゴが出るようになった。 ● 慶大医学部出身の独身青年医師がある日 突然、顔に覆面をしたり派手な模様を描いたりしてるいかつい女たちの一団に拉致される。父親から「死に別れた」と聞かされていた かれの母は、じつは女子プロレスの伝説のチャンピオンで、引退後に老舗団体から独立して新団体「ガリンペイロ」を興したアイアン飯島だったのだ。かれは癌死した母の遺言で無理やり新社長に祭り上げられるが、赤字続きの弱小団体の前途は多難だった……。 ● つまりストーリーとしては「スポーツ映画」ジャンルの「ポンコツ・チームもの」に属する「やる気のないコーチもの」である。やる気のなかった駄目コーチ(本作の場合は社長)がチームの熱意と人柄にほだされて本気になっていく…という例のパターン。主人公と同時期に入団してきた2人の新人選手(一生懸命な女の子キャラと、空手選手くずれのはぐれ者)という「外から来た人」を話の中心にすえることによって、主人公の視点と観客の視点を一致させた構成が上手い。 ● 脚本を手がけたのは、本作のプロデューサーでもある東京テアトルの榎本憲男。いまなおプロレス、それも女子プロレスに対する世間の目は偏見と(ある種の)侮蔑に満ちているわけで、大のプロレス・ファンだという榎本は、そうしたステロタイプから目を逸らすことなく、初めて彼女たちの練習を見学した主人公にまず「なんでそんなに練習すんの? プロレスって八百長でしょ?」と言わせ、そのうえでプロレスという世間一般の常識が通用しない世界を、魅力的に、そして笑っちゃうくらいリアルに描き出し、クライマックスでは「プロレス的なるもの」の奥底に潜む真理を説き、そしてまさしくプロレス的としか言いようのない決着を用意する。誤解してほしくないのは、これらすべてがプロレスだということ。表層のステロタイプも その裏にある真理も、嘘も本当もひっくるめて「プロレス」であり、それこそがプロレスの魅力なのだ。まあ、映画としてはアルドリッチの「カリフォルニア・ドールズ」(←なぜDVDが出ない!?)に遠く及ばぬものの、プロレスに興味がない/今まで一度もプロレスを観たことがない…という方でも100%楽しめる、まるで松竹映画か東京映画のような大衆的なプログラム・ピクチャーの佳作である。広く皆さんにお勧めする。 ● 惜しむらくは本作のクライマックスで提示される「プロレスの醍醐味」が文字どおり画面外のナレーターによって説明されてしまうことで、それでも おれらはプロレス・マニアの小松隆志によって的確に振付け/編集された わずか数分の場面に「過去の記憶」をダブらせて号泣できるんだが、一般の皆さんにとっては「理屈」としては納得できても、この映画によってプロレスの醍醐味を実感するところまでは行かないでしょう。でもそれは仕方のないことだ。そこで言われていることは、実際に試合会場で あるいはテレビの画面で、試合開始からリアルタイムで観戦して初めて感じられる類のことだから。 ● 主人公の青年に「女に降りまわされる男」を演らせたら天下一品の岡田義徳。「へたれ社長」キャラとして本職のレスラーたちにリングで苛められてるときの痛がってる顔は、あれは演技じゃないですな:) 女子レスラー役はすべて吉本女子プロレスこと「JDスター」の所属選手たちがそのまんま演じていて、演技力をさして必要としない「単純なキャラ設定」を各自に振り分けてボケさせる使い方もうまいもの。覆面レスラーやペイント・レスラーが劇中ずっと(日常生活でも)覆面やペイントをしたままという演出もまったく正しい。 ヒロインの「純朴で熱血な新人レスラー」を演じるのは全女の納見佳容とピンク映画の里見遙子を足したみたいな顔とキャラ(←これで通じちゃったアナタは「普通」じゃありません)の鈴木美妃。じつはこの人だけはプロレス経験のない新人女優なのだが、撮影前に2ヶ月間、選手たちと一緒に練習したおかげで割れた腹筋と逞しい太腿のみごとな「女子プロレスラーの体」になっている。 もう1人のヒロインである「さびしがりやの不良っコキャラの最強新人レスラー」に石川美津穂。こちらは同じ吉本興業でも「アクション女優を育てるためにプロレスラーとして修行させる」という摩訶不思議なコンセプトの「アストレス」(=アスリート+アクトレス)という団体に所属。もともとキックボクシングの経験があるそうで、アクションはサスガだが、演技力がいま1つ2つぐらい不足(演技の勉強もしてるんだよねえ?) ライバルとなる老舗団体のエース・タッグに同じくアストレス所属の東城えみ と限定復活のキューティー鈴木。この東城えみが六本木のキャバクラなら入店1ヶ月でナンバーワン間違いなしの容姿で、キャラ的には「クールな天才レスラー」でべつに露出が多いわけでもなんでもないんだけど、なんともいえんエロさを発散していてすばらしい。今度いっぺん観に行ってみよっと。 作品の肝となる台詞を語る「アイアン飯島」役にベテラン 高畑淳子。 もういいかげん酸いも甘いも噛みわけ過ぎちゃって舌が麻痺してる老舗団体の老獪社長に麿赤兒。 特別出演的なコミック・リリーフに つぐみ。彼女の使い方もバツグンに上手い。 ● [追記:東城えみ]BBSで白木つとむさんに教えていただいたが、前に北沢幸雄のオムニバス「驚異! 勃起促進剤」(の3話目)と菅沼隆のデビュー作「見られた情事 ズブ濡れの恥態」に出演していたピンク映画女優の東城えみと同一人物だそうだ。そう言われればたしかに。「驚異! 勃起促進剤」のレビュウでも「ちょっとロシア入ってる感じでなかなか良い」とか書いてるじゃんか>おれ@ボケ老人。 しかし、てゆーことは東城えみって1999年から2000年にかけてピンク映画やエロ系Vシネマに続けざまに出演したあとで、そのまま芸名を変えずに2001年に吉本興業(アストレス)へ入団してその年の9月に(25歳で)プロレス・デビュー……ってこと? もともと本名に限りなく近い「芸名」のようだけど、それにしてもピンク映画卒業後の「再デビュー」で名前を変えないってのは珍しいよな。>Yahoo!オークションのインタビュー記事

「映画番長」ワラ(^0^)番長(シリーズ監修:塩田明彦)

2000年にBOX東中野で上映されたエロスをテーマとする「ムービー・ストーム」5連作、同じくその年の秋にシネマ下北沢で上映されたデジタルビデオによる「ラブシネマ」6連作に続く、低予算デジタルシネマ連作シリーズの新企画。今回の企画・製作はユーロスペース。カメラはパナソニックの24PミニDVカムコーダーAG-DVX100を使用。テーマごとに監修者を決めて3〜4本を一挙上映。企画の通しタイトルが「映画番長」で、塩田明彦・監修による第1シリーズ3作品のテーマタイトルが「ワラ(^0^)番長」である。この後も7月に瀬々敬久・監修の「エロス番長」4本、9月には高橋洋・監修「ホラー番長」4本が決まっていて、好評ならその後も続ける気らしい。 ● 「ワラ(^0^)番長」というのは「笑(ワラ)番長」という意味のようだが、今回の3本はどれもコメディというより荒唐無稽活劇で「独立少女紅蓮隊」に至ってはコメディ要素は皆無。「ワラ(^0^)番長」というよりは「アクション(-_-メ)番長」である。てゆーか、いっそ「活(カツ)番長」「女(スケ)番長」「怨(ウラ)番長」とかのほうが番長っぽかったのに。なんだ「番長っぽい」って。

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独立少女紅蓮隊(安里麻里)[ビデオ上映]

「映画番長」ワラ(^0^)番長シリーズより

デビュー作たる「帰ってきた刑事まつり」の一篇「子連れ刑事 大五郎!あばれ火祭り」に濃密に漂うマニア臭が、世のアクション映画通を瞠目させた映画美学校出身、まだ20代の女性監督、安里麻里(あさと・まり)待望の初長篇。72分。これがまさしく〈1970年代アクション映画魂〉炸裂の、荒唐無稽活劇かくあるべしという傑作であった。荒唐無稽な設定の中で思い詰めた目をしたヒロインが荒唐無稽なアクションを死ぬ気で繰り広げる。そして観客はその荒唐無稽の真剣さに涙を流すのだ。 ● 満点の星空…を模したチープな特撮画面。そこに「わんすあぽなたいむの話じゃ……」とナレーションがかぶり、これが「ストリート・オブ・ファイヤー」のように「どこでもない別の世界」の話であることを宣言する。どこかのガード下。逃げまどう群集。その中に1人の腹の大きい女。…が突然の陣痛にその場でしゃがみ込んでしまう。ナレーション「暴動の中でわたしは生まれた。その時、わたしの運命は決まった」。そして天に(豆電球の)星が1つ生まれる。 ● 彼女の名はユキ。沖縄アクターズ・スクール オリオン・ダンサーズ・アカデミーでレッスンを受けていたところを特別教習にスカウトされ、ほかの3人の少女と共にユニットを結成。「すべての楽器を武器に」をスローガンに「王国」の独立を回復するための歌って踊れて人も殺せる少女スパイとして帝都に送り込まれる。──ひと呼んで独立少女紅蓮隊! ● おおまかなコンセプトは「ニキータ」の少女版で、ヒロインの設定が「死刑囚」から「王国独立の尖兵として日本に送り込まれる少女タレント」になっているわけだ(脚本:南川要一) もちろん「琉球王国独立」云々というのはフィクションのための道具立てに過ぎなくて、安里麻里が沖縄シンパというわけではない(追記:と思ったら安里麻里は沖縄出身なんだそうだ) おそらく彼女のやりたいことは「1970年代の荒唐無稽活劇のリメイク」であって、当時の映画の作り手たちが明確に作品に反映させていた「反国家/反権力」の意思も──本作の悪役が日本国政府であるにもかかわらず──ほとんど感じられない。 ● まあ、たしかにまだ至らぬ箇所も散見されるのだが、それらはすべて予算とビデオ撮りの制約に拠るものであって「この予算と撮影日数の範囲内で」という条件下では ほぼ完璧な仕上がりである。前に「子連れ刑事 大五郎!あばれ火祭り」のレビュウで「いますぐVシネを撮らせたい」などと失礼なことを書いてしまったが前言撤回する。東映の黒沢満は、いますぐ旧・東映セントラル系のスタッフを招集して安里麻里に劇場用本篇を(フィルムで)撮らせるべきだ。なんなら本作のリメイクでも続篇でもいい。集客が心配ならモーニング娘。関係が主演だって構わんぞ。 ● ヒロインのユキを演じるのは宮崎あおい/洞口依子 系の幼児顔少女、東海林愛美(しょうじ・めぐみ)17歳。他のメンバーに立花彩野・太田千晶・宮下ともみ。4人ともダンス・レッスンの賜物か、きちんと脚があがるのでアクションもまあまあサマになっている。 少女たちを鍛える/指揮する教官に津田寛治。この人だと、どうしても甘さが滲んでしまって「非情さ」が感じられないので、できれば松重豊か菅田俊でいきたかったところ。少女たちに特別教習を施す際の名台詞>「お前たちのダンスはプロパガンダだ!」

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ロスト★マイウェイ(古澤健)[ビデオ上映]

「映画番長」ワラ(^0^)番長シリーズより

黒沢清「ドッペルゲンガー」の共同脚本家・古澤健の監督デビュー作(監督・脚本・編集) 偶然ではあろうがテーマ、ストーリーとも、先に公開された藤原章「ラッパー慕情」とたいへんに似通った内容の作品である。 ● 四十を目前にして何ひとつ夢も果たせず、新潟か福井あたりの田舎でパッとしない人生を送る穀潰し三十男3人組。ゴロー(松重豊)は田宮モータースという名のシケた中古自動車屋を営んでいる図体ばかりデカい優柔不断の意気地なし。しんぺーは、いまだ衣食住すべて親任せの実家住まいで、自分勝手で調子ばかり良い卑怯者。そしてリョウスケは地元の原発で働く、社会性と協調性のかけらもない怠け者。ある日、河原で放射能廃棄物のドラム缶を拾ったリョウスケはドラム缶の中身を浴びて、目から物体を消滅させる威力を持ったレーザービームを発する能力を身に付ける。やがて噂を聞きつけた黒服の男たちがリョウスケをつけ狙うようになる……。 ● よくあるタイプの「社会人」になりきれない男たちのだらだら友情ムービーに「殺人レーザービーム」という異物を持ち込むことによって(だらだらした)活劇に仕立てている。それってちょっと今岡信治的?と思ったらエンドクレジットの「スペシャルサンクス」に名前があった(原案提供とかかな?) ちなみに他にも監督補に坂本礼、制作応援に広瀬寛巳とピンク映画系のスタッフが参加。76分。エンディング・テーマは、ばちかぶり(田口トモロヲ)の「未成年」


稲妻ルーシー(西山洋市)[ビデオ上映]

「映画番長」ワラ(^0^)番長シリーズより

「完全なる飼育 愛の40日」「ぬるぬる熱燗」の監督で、黒沢清「蜘蛛の瞳」の脚本家でもある西山洋市の新作。70分。「刑事まつり」の一篇「特殊刑事:リトル左膳と5リットル刑事長」は、おれには理解不能なセンスの学生ギャグ映画だったが、佐藤仁美 扮するヒロインが行く先々で不条理にまき散らす悪意が大騒動を巻き起こす…というスラップスティック活劇を意図していると思われる本作もまた、おれには理解不能でチャーミングのチの字すら感じられない稚拙な学生映画だった。おれの大っキライな黒沢清の「神田川淫乱戦争」に近いかも。


Re:プレイ(ローランド・ズゾ・リヒター)

主人公のライアン・フィリップは病院のベッドで目覚める。スティーブン・レイの医者が顔を覗き込んで気分はどうだと尋ねる。医者は「悪い知らせがある」と言う「きみは死んだのだ──いや、幸いにも蘇生には成功したが、そのあいだ、きみの心臓は2分ほども止まっていた」のだと。かれはここ2年間の記憶を失くしていた。最後の記憶は2年前の嵐の日に兄の家を訪ねた日のこと。だから、とつぜん病室にあらわれて かれをなじる金髪のサラ・ポーリーにも、妻だと名乗るブルネットのパイパー・ペラーボにも見覚えがなかった。はたして失われた2年間に何があったのか──おれはほんとうに兄を殺したのか? ● 「アンデンティティー」の脚本家マイケル・クルーニーの新作。おいおいまさか[最初っから主人公は死んでいて、すべては「死人の妄想」でした]ってオチじゃねーだろうなあ…と思ってたらほんとにそうだった。いや別にトンデモなオチだって構わんけど、そこに持っていくための見せ方ってもんがあるでしょう。「アイデンティティー」やM.ナイト・シャマランの諸作はその「見せ方(=隠し方)」そのものをエンタテインメントに仕立てていたわけだが、「トンネル」のドイツ人監督ローランド・ズゾ・リヒターの演出は、ただ徒に混沌を混沌のまま並べるだけでサービス精神──ヤマっ気とも言うが──に欠けている。1時間半の徒労。がくっと疲れた。 ● ウエールズ・ロケのイギリス=アメリカ合作でミラマックスの資本も入っているのだが、現時点ではアメリカ未公開&DVD未発売。さもありなん。

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ビッグ・フィッシュ(ティム・バートン)

いや、佳い映画だってのはわかるよ。おれだってジーンと来なかったわけではない。だけどさあ…。これ、ドラマとしては「堅物息子が迷惑親父と和解する/を理解する」話として作られてるわけでしょ? 作者/観客の視点は当然「息子」のほうにあるわけで、だから最初は(観客の目には)親父のことが「自分勝手で嘘つきで傍迷惑な放蕩親父」と映ってなきゃ駄目なんじゃないの? にもかかわらずアルバート・フィニーがこの役をあまりにも魅力的に演じてしまうので、観客には おれにはそんな親父を恥ずかしいと感じてるビリー・クラダップのほうがよっぽどワカランチンのバカ息子に思われて、ちっとも感情移入できなかったのだ。だってそうだろ。いつも法螺話ばかりしてて「事実」を話さないから父親のことが理解できない…なんて、アンタいい歳して、なにパカなこと言ってんの? あんなに正直に自分自身を晒してる人間のどこが理解できないというのだ。 ● ならば本篇の見どころはもっぱら親父の語る法螺話人生になるわけだが、これも個々のエピソードとしては面白いんだけど全体としてはバラバラで「ほら吹き男爵の冒険」や「ピノキオ」のような名作法螺話と較べてしまうと「1本の長篇ドラマ」としてのうねりに欠けるというか…。たとえば「迷い込んだ桃源郷」の話とか「町を買い取る」話とか、物語全体の中でうまく機能してないような気がするんだけど。ただ、墓地のエピローグは文句なくすばらしい。一瞬、虚実の皮膜が透けて見えるようで「ストーリーを物語ること」の本質に迫っていると思う。以上、色々と文句は付けたが「普通の映画」としては充分に楽しめるはず。

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ドーン・オブ・ザ・デッド(ザック・スナイダー)

オリジナル版のプロデューサーも製作に参加しているジョージ・A・ロメロ「ゾンビ」の正式なリメイク。前にも書いたが、おれはロメロの「ゾンビ」は以降のゾンビ映画の「約束ごと」を規定したという意味ではエポック・メイキングではあるものの、ホラー映画としては それほど大した映画だとは思っちゃいなくて(ホラーとしては「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」のほうが優れてると思う)、よく言われる「現代消費社会を批判」云々ってのも後付けの理屈としか思えん。これは昔、ダリオ・アルジェント監修版を観たときも、しばらく前にロメロのディレクターズ・カットを観たときも、つい2ヶ月ほど前にDVDでロメロのアメリカ公開版を観たときも変わらぬ印象である。てゆーか、ロメロ版のほうがつまらんじゃん。退屈だし。おれはゾンビ映画としては「デモンズ」や「バタリアン」のほうがずっと好きだし、ホラー映画としても優れてると思ってる。 ● さて、そういう立場の人間から観ると本作「ドーン・オブ・ザ・デッド」はもうサイコー!である。よもや また(銀座シネパトスや新宿東映パラス3でなく)日比谷映画このような映画を観られる時代がやって来ようとは思いもよらなかった。いや、じつに嬉しい。「バイオハザード」をヒットさせてくれた旧・アミューズ宣伝部には、あらためて感謝したい。 ● 本作が劇場映画デビューとなるCM出身のザック・スナイダーはオリジナル版の欠点であった間延びした牧歌的な演出を廃し、目が覚めたら世界が滅んでいたという秀逸な導入部から、ジョニー・キャッシュが黙示録を歌うオープニング・タイトル、そしてショッピング・センターへと主要キャラクターが集結するまでの序盤を息つぐ間もなく一気に描き、その後も「束の間の平和」には適度に笑いを織り交ぜて、濡れ場までサービスする心遣い(サラ・ポーリーじゃありません)を見せつつテンポ良く話を進め、そのまま怒シ壽の脱出劇へと雪崩れ込み、エンドロールの最後の最後まで使って観客をぐったりと疲れさせる。絶望に満ちた終末ホラーの傑作。必見。 ● 脚本のジェームズ・ガンがトロマ出身なこともあり、妊婦がらみのグロテスクなネタなど好き者の皆さんを喜ばせる描写も満載。終盤の「急ハンドルにおっとっと」の場面で思わず爆笑&拍手してしまったのはおれだけではなかろう。ただし本作はハリウッド・メジャーのユニバーサル映画なのでゾンビの「人肉食」描写は最低限に抑えられている(これを本格的に描くとアメリカではNC-17指定──17歳未満入場禁止──になってしまうのだ) また、トロマ映画ならば確実に[妊婦の腹を喰い破って新生児ゾンビ]が出てきたはずなのだが、そこは無難な描写に差し替えられている。 ● ショッピング・モールに立て籠もった連中が「ゾンビに噛まれたらゾンビになる」という事実が判明してからも半袖/タンクトップのままでいることにツッコむのは野暮というものだが、ひとつだけ文句をつけると、本作は「死者の夜明け」ってタイトルなんだから、導入部で「目覚まし時計の回転パネルがカチリと音を立てる」カットの直前に「地平線からオレンジ色の巨大な太陽ゆらゆらと昇ってくる」という1カットが絶対に必要でしょう(…無かったよねえ?)

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トロミオ ロミオ&ジュリエット(ロイド・カウフマン)

原作:ウィリアム・シェイクスピア 脚色&製作主任:ジェームズ・ガン

[輸入DVD観賞] トロマ版「ロミオとジュリエット」。1997年アメリカ公開。言うまでもなくディカプリオ版「ロミオ+ジュリエット」の便乗企画である。内容は100%、いま皆さんが思い浮かべたとおり──NYのアンダーグラウンド・シーンを舞台にタトゥーボディピアスだらけの人々が赤い血のり緑のゲロにまみれる話である。BGMはもちろんパンク/サイコビリー/ヘビメタ系。 ● 冒頭。NYの路上に立ち、モンテキュー家とキャピュレット家の確執を解説するのはモーターヘッド家のレミー。モンテキュー家の当主は、かつては古き佳きブルーフィルム(「わかるだろ? フランス女にソフトフォーカスの…」)の製作者だったが、事業と財産(と女房)をキャピュレットに騙し取られて、いまは飲んだくれの貧乏黒人。いっぽうキャピュレット家はあくどいやり口で次々と事業を拡大、ひとり娘のジュリエットの、屠畜業界の大立者=肉屋のアーバックル家への輿入れも決まり、わが世の春を謳歌していた。だが、キャピュレットの屋敷で開かれた仮装パーティーに牛の着ぐるみを着てやって着たモンテキューの息子 トロミオが、ジュリエットと互いにひと目惚れしてしまったことから運命の糸は大きく狂い始める。早速その夜、ジュリエットの寝室に忍んで来て、それまで従姉とのレズしか知らなかった処女のジュリエットとハメまくるトロミオ。2人の関係はやがて両家に多くの不幸な死をもたらし、モンテキューの一族(とNY市警)に追われる身となったトロミオは、地元の(少年)愛にあふれた神父に解決策を相談するが……。 ● DVDのパッケージのコピーは「ボディ・ピアス、変態SEX、人体切断──シェイクスピアを偉大にしたすべてが満載!」 この映画を当時26歳で大学生バイトみたいな感じで製作主任と(150ドルのギャラで)脚本を手掛けたのが「ドーン・オブ・ザ・デッド」「スクービー・ドゥー1&2」の脚本家 ジェームズ・ガンである。トロミオとジュリエットの愛の睦言には原典を残しつつ、あとは大胆に──「イーカゲンに」とも言うが──脚色。恋に悩むジュリエットの前に、殺された従兄弟たちがぐちゃぐちゃメイクで現れて「テメエばっかりイイ男みつけて幸せになりやがって、おれたちゃ踏み潰されるアリかい!」と怨みつらみを言うのが可笑しい。本作ならではのツイストは2人が[じつは兄妹]だったという設定にしていることで、ラストは様々な障害を乗り越えて結ばれた2人が[畸形の]子どもに恵まれて郊外の一軒家で陳腐な幸せを手にしましたというオチがつく。ちなみに[畸形の特殊メイクをして]この姉妹を演じてるのはロイド・カウフマンの愛娘たちである。 ● ジュリエット役はジェーン・ジェンセン。可憐だった頃のヘレナ・ボナム=カーターにちょい似。トロマ映画だからもちろんヌード有り。仮装パーティーのシーンにはトロマの二大キャラ=「毒々モンスター」と「カブキマン」も特別出演している。

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リアリズムの宿(山下敦弘)

貧乏臭くて見っともない主人公が、貧乏臭くて見窄らしい田舎町を旅して、貧乏臭くてミジメな目に遭う話。すべてハズし、ハズしで持っていって、奇妙な話を気まずい間で繋いで、「。」じゃなくて「、」のところでスッと終わってしまうのは、まるっきり小劇場演劇の手法。なるほど、つげ義春の貧乏旅行ものと小劇場芝居を結びつけたのはアイディア賞だ。最後を「いい話」にまとめなかったのはエラいが、ロケ先の鳥取県の関係者は、これ観て「二度と映画になんか協力するもんか」と固く心に誓ってると思うぞ。 ● 主役の2人を演じるのは二大貧乏業界を代表して、小劇場から「阿佐ヶ谷スパイダーズ」主宰の長塚圭史と、関西自主映画界から山下作品の常連、山本浩司。小劇場と自主映画界の人たちにとっては、この映画、自分たちの日常そのものだから、笑うに笑えないんじゃないかと……。あと、この人らって、いくら金は無くてもタバコだけは吸うのな。 ● 途中で旅の道づれになる奇妙な女に、尾野真千子。「砂浜をパンツ一丁で走って来る」という衝撃的な登場の仕方をするのだが、そのシーンがなんと超ロング。せっかくのヌードも小指の爪ほど(しかも背中)しか見えないのだった。バカタレ!そーゆーとこはハズさなくていいんだよ!

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ピーター・パン(P・J・ホーガン)

オーストラリア映画。前に「ほんとうは恐ろしいグリム童話」ってのが流行って、映画でもシガーニー・ウィーバーの「スノーホワイト」とか作られたけど、その伝でいけばこれは「ほんとうは性的なピーター・パン」とでも言うべきか。おれはディズニー・アニメにまったく思い入れがない人間だけど、それでも「ピーター・パン」と言えばディズニーのアニメ映画とそれを基にした絵本の印象しかないわけで、だから──なんか保守的なPTAのオバサンみたいだけど──本作のあからさまに性的なウェンディに戸惑ってしまった。なにしろこの娘、ハンサムなピーター・パンに出会っていきなりキスをねだったりするのだ。でもピーターは「キス」が何なのかを知らないので、その場の危険は回避されるんだけど、結局、最終的には「永遠の子ども」であるはずのピーター・パンに禁断の林檎を与えて、ピーターに知らなくてもいい悲しみをもたらす。無邪気な物語にこれほど深刻なエモーションを詰めこむ必要があるんだろうか? まあ、原作小説を読んでもないのに、こんなことを言うのもナンだが、この話ってウェンディは肉体的にも精神的にも成長して大人になるかもしれないけど、ピーター・パンの内面が変化=成長しちゃマズいんでないの? 本作のいちばんの悪役は、嬉々として「永遠の鬼ごっこ」に興じるフック船長ではなくて、このウェンディなのである。「ピーター・パン」の新作が観たいなら、一昨年 ディズニー・アニメのB班(=オーストラリアとカナダのテレビ製作班)が作った「ピーター・パン2 ネバーランドの秘密」のほうをお勧めする。 ● 監督は「ミュリエルの結婚」「ベスト・フレンズ・ウェディング」のP・J・ホーガン。 ウェンディ役はケイト・ベッキンセールの妹みたいな感じのレイチェル・ハード=ウッドちゃん。 「焼け石に水」のフランス女優 リュディヴィーヌ・サニエが台詞なしのサイレント・コメディ調で小妖精ティンカー・ベルを演じる。おれはもちろん12歳のおしゃまな少女より身長12cmの巨乳の妖精のほうが好みである。 恒例に従ってフック船長と気の弱い父親の二役に扮するのはジェイソン・アイザックス。好演ではあるのだが、この人「ハリー・ポッター」で憎まれ役をやってるじゃん。「ねえねえ、ドラコのイジワルなおじさんが、なんでウェンディのやさしいパパなの!?」と、小さなお友だちが混乱するんじゃないだろうか。この二役には(ギャラの問題を別にすれば)トム・ハンクスなんかピッタリなんだけどねえ。 笑っちゃうのは「優しいお母さん」役のオリビア・ウィリアムスで「シックス・センス」と同じく ここでもやはり帰らぬ者の夢を見ながらソファで眠ってるのだった:)

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花嫁はギャングスター(チョ・ジンギュ)

やくざコメディ。世界の先端を行く傑作を生み出している韓国映画だが、ことコメディとなると1960/1970年代の日本映画のような泥臭いベタな笑いがいまだに主流で、本作も例外ではない。それでも それゆえに韓国では「友へ チング」と同じ2001年に公開されて「友へ」を上回る観客を動員。翌年に公開されたベタコメの本場=香港でもその週のトップとなった大ヒット・コメディ。韓国では昨秋にパート2も公開済。 ● 原題は「組暴の女房」。話はちょうど「二代目はクリスチャン」の反対で、テメエの腕ひとつでのし上がってきたガチガチの女組長@26歳 独身が、孤児院で生き別れたきりの姉に20年ぶりに病室で再会。末期癌の姉の「死ぬ前に妹の花嫁姿を見たい」という願いに応えてフツーの結婚をすべく、慣れぬメイクにドレスに見合いにと奮闘する……。つまり「アナライズ・ミー」「トラック野郎」シリーズや「男はつらいよ」の初期作品などと同じで、コワモテの主人公が似合わぬことをする落差と、周りがその傍若無人さに振り回される様を笑うコメディである。コワモテで傍若無人な主人公が「女」だというのが本作のユニークなところ。もちろん最後は「友情(愛情)」で〆となる。 ● ヒロインは「SSU」のシン・ウンギョン(申恩慶) ヅカ受けしそうな颯爽とした男伊達コントすれすれの豊かな表情演技でみごとなハマリ役。惜しむらくはボディ・アクションが明らかに「運動能力のある人」の動きではなくて、格闘シーンではボディダブル丸わかりなこと。これは本作全体の欠点でもあって、コメディとしては上出来なんだが、劇中に数回 用意されている喧嘩(でいり)のシーンが、陳腐なワイヤー・ワークを多用した技斗センス皆無の、しょせんは「コメディ映画のアクション」でしかない。これがもうちょっと見応えがあったら傑作になったのに残念。 あと関係ないけど「縄張り」は韓国でも「ナワバリ」って言うんだねえ。これ訓読みだから日本語だよな。業界用語だからそのまま輸入されたのかな?

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きょうのできごと a day on the planet(行定勲)

(たぶん京大の)大学院に進学することになり、京都市街の古い町家を借りた大阪の大学生の引っ越し祝いに大阪からやって来た仲間たち6人の、京都の一夜とその他の出来事。「出来事」と言ってもメインの6人にはなにも起こらない。それ以外の場所で起きた2つの「ちょっとした出来事」が平行して描かれ、6人にもテレビの画面やラジオの放送を通じて伝えられるが、それとてツインタワー・ビルに航空機が突っ込んだりするような大事件ではさらさら無い。描かれている内容が、惚れたとか腫れたとかあのヒトあたしのことどう思ってるのかしらとか嫌われたらどうしようとかあまりに他愛ないので、これはきっと小劇場演劇でよくやる、ラストシーンでいきなり核ミサイルが落ちて世界の終わりが来るってパターンに違いない…と待ち構えていたのだが、けっきょく最後まで事件らしい事件はなにも起こらず、今日は「明日」という名の今日に続いていくだけなのだった。 ● 原作は(チラシより引用するが)「J文学のネクスト・エイジとして注目を集めている」柴崎友香。脚色は行定勲と益子昌一の共同。行定勲は確信を持って何事も描かず「どこにでもいる若者たちのどうでもいい一日」を写す。それによって「なにも起こらない一日」の掛け替えの無さを感じてほしい…って、ことらしいが、そんなやつら心底どーでもええわい。 ● したがって本作の観賞ポイントは、酔っぱらってキャピキャピの なにわ言葉で喋る田中麗奈+伊藤歩と、チャキチャキの大阪弁でまくしたてる池脇千鶴ちゃんを「かわいいなあ…」とニヤけながら堪能する映画ということになる。じっさい1時間50分の上映時間のあいだ、他に観るべきところは無いし、女のコが出てこない場面は途端に退屈になるのだから。 ● ちなみに本作は、全篇が「ABCDEFG」だとしたら、Eのあたりを切り取ってアタマに持ってきて「ABCDE'FG」という構成になっているのだが、このプロローグはどー考えても余計。すなおに「スカート買えんでメッチャ口惜しい」から始めたほうがずっといいと思うんだけど。

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メイ(ラッキー・マッキー)

メイには幼いときから友だちがいなかった。左眼が弱視で海賊みたいな黒いアイパッチをしてたせいかもしれない。目は手術して良くなったけれど引っ込み思案な性格は治らず、動物病院のナースをしている現在まで ずっと1人で生きてきた。唯一の友は小学生のころ、亡くなった母に作ってもらったお人形。友だちが出来ないなら作ればいい──そう言って作ってくれたのだけれど、壊れるからと触らせてもらえず眺めるだけ。そうしてメイはガラスケースの中の、少しいびつな顔のフランス人形とだけ会話をしてきたのだった。このような人間の常として夢見るロマンチストとして育った彼女は、近くの自動車工場に勤める 美しい手をしたメカニックに一目ぼれ。こっそりと後を付けまわして「デート」をするようになる…。 ● ダリオ・アルジェントやロマン・ポランスキーの大ファンだというラッキー・マッキーの監督・脚本 第1作。裏版「アメリ」あるいは「乙女の祈り」系の妄想少女ホラーの傑作。ヒロインを演じる、ヘザー・グラハムとアーシア・アルジェントを足して2で割ったみたいな顔だちのアンジェラ・ベティス(撮影時おそらく25、6歳)は、まさしくキャリーの役まわり…と思ったら、なんとこの女優さん、TV版「キャリー」(2002)でキャリーを演じているのだった。 なにかと親切にしてくれる──もちろんそれには理由があるのだが──動物病院の同僚ナースに「最終絶叫計画」シリーズのアナ・ファリス。 憧れの対象となるメカニックに「キャリー」に出てた頃のジョン・トラヴォルタ似のジェレミー・シスト。「ホラー・マニアの映画青年」という監督自身のようなキャラ設定で、自分でもハーシェル・ゴードン・ルイスみたいなC級ホラーを作ってて「Regie di...」と監督クレジットをイタリア語で入れてるのだった(火暴) 一見、お似合いのカップルのようだけど、しょせんアメリカのオタクはネアカ(死語)で底が浅いので、死んだ犬の解剖の様子を微にいり細にいり嬉々として語るヒロインにどん引きとなり結局、メイは捨てられてしまう(まあ「2人は幸せに暮らしました」…じゃホラー映画にならないし) 相手が日本のオタクだったら良かったのにね。[2003年の東京ファンタにて観賞]

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C A S S H E R N(紀里谷和明)

製作・脚本・撮影監督・編集:紀里谷和明

なんだよなんだよ貶さないのかよ。ちぇっ。ガッカリだなあ。いやいや。おれ けっこう好きなんだよ、こーゆー実験的な青臭い映画。 ● そもそも「CASSHERN」は「映画」といえるのだろうか。たしかに「画を映す」という意味では映画かもしれないが、これは間違ってもモーション・ピクチャーではない。元来、写真家である紀里谷和明の頭にあるのは「一枚絵」であって動画ではない。樋口真嗣がコンテを切ったというバトルシーンにしても、あくまで「コンテのコマを繋いだもの」であって「連続した画の連なり」にはなっていない。観客はDVDを8倍速で観せられてるようなもので、コマとコマと間にある(はずの)アクションは想像で補うしかなく、往々にして前後の画は繋がらない。「そっからいきなりそこへは行かんだろ」というコマ繋ぎが平然と多用されるのだ。 ● 繋がらないのは画面だけではない。ストーリー展開もぎこちなく、説話は下手糞。台詞は理解できても、目まぐるしく変化する背景画に場面設定が理解できないシーン多数。背景美術は、昔々 パソコンで初めて動画が扱えるようになった時代にマルチメディアCGタイトル(死語)のCD-ROMで一時代を築いた旧・シナジー幾何学の庄野晴彦。ロシア・アヴァンギャルド×スチーム・パンクなデザインで、ヨコ六連の蒸気機関車などユニークな造形物もあるのだが、CG美術の典型的弊害として画全体が均一にゴチャゴチャしてるので「画の迫力で圧倒する」ところまでは行ってない。 ● 実写とCGの融合ということでいえば、最近はよくニュースや天気予報でキャスターがCG画面の中に入って解説をするが「CASSHERN」で行われているのはまさにそういうことである。しかもここでは俳優は肌の質感を消され、実写のほうがCGに同化する。つまり本作は「ロジャー・ラビット」や「モンキーボーン」よりも「ファイナルファンタジー」や「アップルシード」に近い位置にある。てゆーか、もっと近いのは「丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる」や幸福の科学の「ノストラダムス 戦慄の啓示」なんだけど(火暴) ● 言い換えれば本作は、気鋭のPV監督にして宇多田ヒカルの夫である人物がその社会的ステータス(と幾ばくかの蓄財)を最大限に利用して6億円かけて作り上げたプライベートCGアニメなのだ。個人映画だから「観客を楽しませる」ことより「作者のヴィジョンを表明する」ことが第一義となる。てゆーか、ほぼそれがすべてである。映画としての完成度は同じテーマを持つ女池充の「発情家庭教師 先生の愛汁」と目糞鼻糞。そんなもの普段のおれなら問答無用で星1つで口汚く罵るところなんだが、嫌いになれないのだなこれが。生硬で青臭いテーマ性剥き出しの台詞の数々に不覚にも心動かされてしまったのだ。新人監督の1作目だぜ。このぐらいの覇気が無くてどうするよ。少なくとも紀里谷和明はこんなもんでよかんべイズムとは無縁のところで、同じく麻生久美子 好きのピースデリック馬鹿よりずっと真摯に作品に向き合ってる(…と、ここまで書いてて、じゃあ「イノセンス」とどう違うのか?って気がしてきたが、現在の押井守がこれを撮ったらやっぱり怒ってたと思う) ● そりゃ周りにもっと映画のプロが大勢いて、1人の監督/脚本家のヴィジョンを「すぐれた娯楽映画」として形に出来ていたなら、それに越したことはないわけだが、それは多分、たった6億円では実現不可能なのだ。60億ならともかく6億でこれを作るには「紀里谷和明の個人映画」として作るよりほか無かったのだ……と思う。なお、付け加えれば本作は「映画」失格かもしれないが女池充のピンク映画のように「商品」失格ではない。内容はともかくマーケティングへの目配せは万全で、現に丸の内ピカデリーは満員。「キル・ビル Vol.2」と劇場を入れ替えて大きいほうで上映していた。 ● じつを言うと、おれはガキのころ「科学忍者隊ガッチャマン」は熱心に観てたのに、同時期に放映されていた同じタツノコ・プロ製作の「新造人間キャシャーン」はなぜかあまり記憶が無くて(なんだろう、裏でなんかやってたのかな?)、だから原作アニメのファンなら怒り心頭であろう、終盤の(ストーリーの)屋台崩しも大いに気に入った。 ● 俳優陣に関しては(前述のように)あまり演技を云々できるような使い方をされていないのだが、そんな中でも大滝秀治の老獪な黒幕ぶりと、卑怯な悪人を演じた及川光博は輝いていた。特にミッチー、素晴らしいね。もっと巧いプロの俳優はいくらでもいるだろうけど、終盤の声のトーンの変え方とか「娯楽映画の演技」として完璧でしょう。 キャシャーン役の伊勢谷友介も(演技の巧拙はともかく)はっきりした滑舌と輪郭線の太い演じ方が「主役の演技」として適確。 惜しむらくは敵役の唐沢寿明で、見た目からしてあまりに「普通の人」なんだよ。いまの日本映画界でCGに埋もれることなく この大悪役をまっとうできるのは竹内力しかいないじゃないか! なんでわかんないかなー?>紀里谷和明。 ● てゆーか、竹内力が悪役を、哀川翔がキャシャーンを演じた三池崇史バージョンも観てみたい気もする。そーすると大滝秀治が石橋蓮司で、及川光博は遠藤憲一。寺尾聰が藤竜也で、小日向文世が美木良介、西島秀俊が曾根英樹、宮迫博之が田口トモロヲ、三橋達也がミッキー・カーチスですかね。てゆーか、それ「D.O.A. FINAL」だし。

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赤い月(降旗康男)

まあ、はっきり言っちまえば降旗康男の演出力は昔からこの程度のもんだったのである。ただ、かつては周りを歴戦の勇士や優秀な裏方さんたちが固めていて、それが降旗康男の劇世界(ヴィジョン)を実現していたわけだ。いまの降旗組はまさに矢尽き刀折れた状態で、なのに(そこは昔の人だから)丸裸の状態での戦い方というものが判らなくて、昔と同じことをやろうとした結果、こんなことになってしまったんだと思う。戦犯だらけの中から敢えて三悪人を挙げるとすれば、主演の常盤貴子、脚色の井上由美子、そして撮影者の木村大作ということになろうか(てゆーか、なによ「撮影者」って?) ● 常盤貴子の演じるヒロインは、造り酒屋の亭主に付いて満州に渡り、関東軍の後盾よろしきを得て大富豪となり、満州社交界の華と謳われる情熱的で恋多き烈女──つまりスカーレット・オハラの役である。もっともこれは、後から作者の意図を推測してこう言うのであり、観ている間は誰一人そういうふうには感じられない。おれなんか最初「この女、自分だけ安っぽい真っ赤なドレスを着て、なにニヤついてんだろ?」と不思議でしょうがなかったのだが、途中で「ひょっとしてこれ、自分では〈ゴージャスな美女〉を演じてるつもりなのでは?」と恐ろしいことに思いいたり背筋が凍った。げげっ。観客の想像力なくしては完遂しない演技。なんじゃそりゃ? いつもテレビで〈等身大のキャラクター〉しか演じてないから、こういう〈身の丈を越えた人物像〉を演じることが出来ないのだ。 ● これはひとり常盤貴子だけの問題ではなく「ヒロインに思いを寄せる関東軍の将校」を演じる布袋寅泰や「妻と布袋の関係を知りつつも商売第一で見て見ぬ振りをする夫」を演じる香川照之にしても同罪で、布袋など、日本にこれだけたくさん役者がいるなかで何が悲しゅうてギタリストなんぞを使わにゃならんのよ?>富山省吾@馬鹿プロデューサー。香川もまた、脇で映画に出る分にはとてもよい芝居を見せることも多々あるのに「主役」として映画を背負うとまだまだ貫目不足なのが露呈する。せめて観客がキャラクターの「本来あるべき姿」をいちいち想像で補いながら観なくても済むようなレベルの俳優は望めぬものか?  ● 意外にも良かったのが「ヒロインがいれあげる年下の情報将校」を演じた伊勢谷キャシャーン友介で、「地獄に堕ちた勇者ども」におけるヘルムート・バーガーの役回りをクッキリとした演技で好演。下手かもしんないけどいちばん印象に残る。プロの俳優たちがそろってモデル上がりに負けてるってのはどーゆーことよ? ● あと、常盤貴子については、テレビでは脇で脱いでデビューしたくせに、全国公開の大作映画に初主演に際して「見せるのが背中だけ」という、彼女の仕事に向き合う姿勢にも当サイトは強く疑問を表明するものである…バンっ(←机をたたく音) ちなみに予告篇で「椅子に座っての対面座位でチラリ乳見せ」をしてたのは常盤貴子ではなく、別のロシアの女優さんだった。 ● 三悪人その2は脚色の井上由美子。これはヒロイン・波子(とその夫・森田勇太郎)のキャラクターが描けていないことに尽きる。この2人以外はわりと平面的なキャラクター(=物語上の役割)を与えられているので、とにもかくにも主役の2人が立体的にイキイキと描かれてないと話になんないのに、2人が体現するのは「人間の単純に割り切れない複雑さ」ではなく、単なる「支離滅裂な人格破綻者」にしか見えない。 ● だいたいこのヒロイン、亭主が死んだのをいいことに前から目を付けてた若い男を咥えこんで、それを子どもたちに非難されると「生きるためには愛する人が必要なのよ!」と強弁。まあ、おまんこが好きなのはいいけど、アンタ、自分の嫉妬から1人の女を殺したことの贖罪はどうなったんだ? で、結局その若い男とも別れることになると、また「あなたが帰ってくるのを待ってるわ。わたしの腕の中へ。それが今からわたしの〈生きる〉ことです」とかなんとか心にも無いことを約束しちゃって。賭けてもいいけどこの女、日本に帰ったらスグ新しい男を作るね。「お願い。過去を忘れさせて!」とか言ってさ。それで万が一、男が帰って来たらこう言うのだ>「戦後の混乱を女1人でどう生きろっていうの! 生きるためには愛する人が必要なのよ!」 ● 亭主は亭主で、一介の商人(あきんど)が商売繁盛を誓って小指を詰めたりして……キチガイですか? 終盤ですべてを失って落胆してるのを女房が「また一から出直せばいいわ。まだ46歳じゃないの」と慰めるけど、昭和20年で「46歳」といったらもう余命十余年の「初老」じゃないの? ……んで結局、タイトルの「赤い月」ってどういう意味だったの?>井上由美子。 ● 技術屋さんの多いカメラマンのなかで唯一の根性主義者として知られる木村大作だが、本作ではデジタル・インターミディエイトという玩具を与えられて大ハシャギ。つまりコーエン兄弟の「オー・ブラザー」などと同じ方式で、フィルムで撮影したコマをすべてスキャンして画像データとしてコンピュータに取り込み、ソフトウェア上でカラー調整を行っているのだ。ただ木村大作というカメラマンは美的センスを持ち合わせていない人なので、色の抜き方=残し方がいちいち下品。全体の色味を落としてヒロインのドギツい赤い色だけ残したりと、もう、ガキのお絵かきレベル。マジで紀里谷和明の爪の垢でも煎じて飲ませたい。色を抜く/残すルールも不統一で、なんのための(費用のかかる)デジタル・インターミディエイトなのか、まったく意味不明。かえって(もともと無い)本作の品格をさらに落としている。だいたい冒頭の東宝マークの「東宝株式会社」という黄色い字からして濁ってたけどいいのか?

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キル・ビル Vol.2(クエンティン・タランティーノ)

本作のアメリカ版特報(TEASER TRAILER)は、意図的にスクリーン・プロセスばればれなモノクロ撮影で、ユマ・サーマンがオープンカーをトバしながら観客に向かって自己紹介っちゅうか粗筋紹介をするという代物で、おれはなんの疑問も無く「これは予告篇のために撮影したんだろう」と思ってたんだけど、なんとその特報がそのまま「Vol.2」の冒頭場面なのだった。1本の映画として作るつもりなら、そんな場面は要らないわけだから、やっぱ2本に分けることが決まってから追加撮影したんでしょうな。 ● そのモノクロ場面と、あと、教会での惨殺の前段(惨殺場面そのものは「Vol.2」でも やはり描かれない)の回想から始まることもあって、なんと本作の1巻目は全部モノクロである。いや、単に「モノクロで撮影した」ってことじゃなくて、上映プリント自体もモノクローム・フィルムを使用しているようなのだ。(なんか逆説的な言い方だけど)白黒にかすかに緑がかって/黄色がかって見えるのがモノクロ・フィルムを使ってる証し。そのあと中盤にも2度ある(カラー・フィルムを使用した)モノクロ場面の完全な無彩色と較べると違いは明らか。あと、ほかにも途中でほんの少しの間だけ画面がスタンダード・サイズに狭まる場面があるんだけど、これはタランティーノのお遊び以上の意味は無いようだ。 外国映画の上映用プリントは1巻(リール)およそ20分。本作は2時間16分なので、たぶん全7巻。 ● 「Vol.1」は異国語の台詞が多かったせいもあって、いわばタランティーノとしてはいちばんの得意技を封印して挑んだと言える。その点、ほぼ9割近くが自国語の台詞となった本作では「Vol.1」での鬱憤を一気に晴らすかのようにタランティーノ節 全開で──DVDで「Vol.1」を見直した直後だったからなおのこと──喋くりはええから早よ戦わんかい!とイライラするほど徹底的に、物語の進行に寄与しない与太を喋りたおす。だからこれは「パルプ・フィクション」がサイコーで「Vol.1」はイマイチだった…というタランティーノ・ファンのための映画である。 ● 「キル・ビル」とカタカナで表記された「Vol.1」のポスターに続いて「Vol.2」のアメリカ版ポスターには「謀殺比爾」と漢字題名が表記されているが香港映画風味は思いのほか薄い。ユン・ウォピン(袁和平)老師を武術指導に招いているのだが、中国での修行場面は刺身のツマ程度の扱いで、カンフー映画ファンが溜飲を下げるような格闘シーンは無い。では代わりに何があるかというと「Vol.2」は完全にマカロニ・ウエスタン仕立てになっている。蜃気楼で もわもわっとしてる地平線から主人公が歩いてくる。その超ロングが、カット繋ぎでずん、ずん、ずんとアップになる──そういうタイプの映画。ただし、あくまで「仕立て」であってマカロニ・ウエスタンそのものではない。だってガンファイトがない映画を「ウエスタン」とは言わないものな。どーせやるんならタイトルも「KILL BILL, Volume Due」とかにして、1時間でインターミッションを入れりゃよかったのに。ちなみに、最後はちゃんとギャガ宣伝部の言うとおり(女と男の)ラブ・ストーリーとして収束されます。 ● マイケル・マドセンとデビッド・キャラダインの男性敵役2人に(アクション映画的な)見せ場が用意されていないので、2部作を観終わっての印象は、ともかく女が強い映画ということ(キャラダインは予告篇には「それらしきカット」があったので削られちゃったのかも) 本作におけるアクションの圧巻は中盤のユマ・サーマンvsダリル・ハンナの巨女(おおおんな)対決。特にダリル・ハンナは血まみれ版プリス(「ブレードランナー」)とでもいうべき肉弾アクションを魅せて、ここ十余年の失速をとり返す輝きを見せる。 ● そしてもう1人、〈再生屋〉タランティーノの手により鮮やかな復活を遂げたのが、ヒロインの仇にして最愛の男=ビルを演じたデビッド・キャラダインその人。この人の場合、フィルモグラフィを眺めても「いつ以来のメジャー復帰」と言うべきかもよく解らないB級映画人生を送って来てるわけだが、本作でのかれは67歳にして憎々しくて色気があって見事な仇ぶり。「プレミア日本版」今月号のインタビューから記憶引用するが、「ショーン・コネリーやクリント・イーストウッドに出来ることはおれにも出来る」と言い切り、(たぶん若い女であろう)インタビュアーの「キース・リチャーズのように、歳をとってますます渋くてクールになられましたね」という見え透いた世辞に「…悪いけどな。おれは昔からクールだったぜ」とキッパリ。くぅ〜。カッコ良すぎるぜ>おっさん。 ● エンドクレジットには再び梶芽衣子の「怨み節」。しかも今度は歌詞字幕付き。みんなで歌えってことですか?>ギャガ。 あとユマ・サーマンの苗字って「鬼道」さんて言うの? Vシネみたいな名前だな<違います。 それと…あのう、おれ「キル・ビル Vol.3の展開が読めちゃったんですけど。タランティーノは絶対、両腕を失ったジュリー・ドレフュスと[全盲になったダリル・ハンナ]のコンビで「ミラクル・カンフー 阿修羅」をやるつもりだと思うね。…え?「Vol.2」で終わり?「Vol.3」は無い? そうですか。…ほんと?

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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ(水島努)

シリーズ第12作。ひとつハッキリしたのは、今後もこの水島路線が続くのなら、もう大人の観客にはお勧め出来ないということ。…いや、なに、「ドラえもん」や「ポケモン」と同じく「クレしん」も本来の観客である小さなお友だちの手に戻すべきときが来たというだけのことだ。 ● 今回は「西部劇」篇。劇場版「クレヨンしんちゃん」には、大別すると「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」や「爆発!温泉わくわく大決戦」のように野原一家の日常を異次元が侵食して来るタイプと、「アッパレ!戦国大合戦」や「雲黒斎の野望」のように野原一家(あるいは かすかべ防衛隊)が異次元に迷い込んでしまうタイプの作品があるわけだが、本作は後者の系列で、野原一家と春日部の住人たちが「無法者の支配する荒野の町」にタイムスリップしてしまうという(水島努 本人は意識してないようだけど)「漂流教室」ネタである。 ● じつを言うとアヴァン・タイトルの導入部は素晴らしい仕上がり>[鬼ゴッコをしてるしんちゃんたち かすかべ防衛隊の面々が、商店街の店と店の隙間を駆け抜けると、目の前に突如として出現する廃館となった映画館]──道路拡張で新しく作られた「バス通り」に町のメインストリートが移動して、今では人々の暮らしからすっかり忘れ去られた昔の街道筋なのだろうか。ほかの商店が表通りに店舗を移動する中で、当時すでに斜陽だった映画館だけが廃業を決め、主と観客を失った建物が、そこにタイムカプセルのように存在している。つい最近まで神保町のすずらん通り さくら通りに残っていた東洋キネマを憶えているだろうか、ちょうどあんな佇まい。そして、その映画館=カスカベ座は廃館以来ずうっと無人の観客席に向けて「西部劇」を上映していて、なにかの拍子に迷い込んだ春日部の住民たちを映画の世界へと捕り込んでいた……。 ● ね? なんかのホラー映画で観たような設定ではあるけれど、「クレしん」でそれをやるわけだから「どのような感動的な展開が待っているのか!?」と映画ファンなら期待せずにはおれない導入部でしょ? ところが水島努は、本篇が始まってしまうと(「そこが映画の中である」という設定は常に意識されているものの)「廃館した映画館が意思を持って観客をスクリーンの中へと捕えたりするのは何故か?」という、いちばん大事な点をないがしろにしたまま話を進め、「春日部の住人たちがどうしたら現実の世界に戻れるのか」という命題についても、単に「映画が終わったら戻れる」と解釈して、決して「映画館を成仏させたら呪いも解ける」というふうには考えず、だからカスカベ座の気持ちは最後まで顧みられない。同じスクリーンの中/外の話であってもウディ・アレンが「カイロの紫のバラ」のビターな結末で「われわれ映画ファンにとって映画館とはどういう場所であるのか?」を見事に示したのとは雲泥の差だ。きっと水島努は映画ファンではあっても「映画館ファン」ではないのだろう。 ● そして水島努は自称「映画ファン」かもしれないが「西部劇ファン」かどうかは、かなりアヤしい。というのは、どっぷり西部劇の設定なのにディテイルが甘々なのだ。おれなんか西部劇はガキの頃 テレビで見てただけだが、そんなおれから見てもそうなんだから、本格的な西部劇ファンの人から見たら失笑ものなのではないか。だいたい「西部劇の終わらせ方」っつったら決闘だろ決闘! 決闘以外に何がある!? 何が悲しゅうて西部劇に巨大ロボットが出てこにゃならんのだ!? 巨大ロボットを出さなきゃスペクタクルが作れないんなら最初っから西部劇なんぞに手を出すな。しんのすけたち かすかべ防衛隊をスーパーマンに変身させて百万馬力で空 飛ばすのも納得いかん。主人公が正義の味方に変身してスーパー・パワーで強大な敵をやっつける…といったドラマツルギーからいちばん遠いところにあるのが「クレヨンしんちゃん」ではなかったのか。 ● 前作での「大神源太」や「キルゴア中佐」に続いて、本作ではマイク水野という実在キャラクターの安易な借用も好ましくない。元ネタが解からないと笑えないというのは自分の首を絞めてるに等しい。第一そのパロディぶりがちっとも面白くないのだ。どーせやるなら、本人を呼んできてしまった「爆発!温泉わくわく大決戦」の丹波哲郎のように、本篇の中だけできちんとキャラが立ってないと駄目でしょう。 ● ──以上、なんやかやと失望の度合いからすれば を付けたいくらいなのだが、これまでの付き合いに免じて星2つとしておく。 ● [追記]BBSでの「masked and anonymous」氏のフォローがあまりに素晴らしかったので、こちらに無断転載しておく>「新作クレしんへのかなわぬ要望」 1)偉くなった風間くんに酒場でミルクか、ジュースを飲んで欲しかった。 2)当然、「決闘シーン」が絶対必要。基本的に子供が主な観客なので、生死に関わる拳銃&ライフルによる「決闘」は描きにくかったという制約もあったろうが、ならば、例えば風間君としんちゃんの対決は、コルク銃対おしっことか、ジャスティス知事の弾を胸に受けたひろしが「荒野の用心棒」「荒野の一ドル銀貨」の様に助かるという手とか、色々考えられたのでは? 3)マイクからひろしとみさえが借りた馬が生きていない(駄馬から名馬へという西部劇のお約束は?) 4)機関車の薪をくべるシーン、ただ、みさえがマイクにはっぱをかけるだけでなく、「マルクスの二挺拳銃」(その元ネタ「周遊する蒸気船」)の様に車両自体を破壊して燃料にしていただきたかった。 以下ネタバレ。5)オチをあーゆー「メタ・フィクション」まがいにするのなら[つばきちゃんは閉館した名画座の娘 or 映写技師で、閉館したんだけど悲しくて一人フィルムをまわしていた。そこに吸い寄せられるしんのすけ達。名画座を出た(=ドラマの98%)が終わったあと、春日部の町中でつばきの後ろ姿をみたしんんすけが必死になって追いかけるけど、みつからなかった]…ってエンディングもあったんじゃないか?

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東京原発(山川元)

おもしろい。……けれどうすっぺらい。それが本作最大の欠点である。観た人は10人中が10人とも本作のことを「原子力事業の危険と欺瞞(とそれに対する国民の無関心)をブラックコメディとして描いた啓蒙映画」だと感じるだろう。映画を通じて提供される「情報」のおもしろさにドラマが付いていっていないのだ。たとえばおなじく役所広司が出演する情報映画である「タンポポ」と較べても、本作で描かれるキャラクターはどれも深みがなく平面的であり、あるいは「六ヶ所人間記」や「海盗り 下北半島・浜関根」のようなプロパガンダを目的としたドキュメンタリーが内包する人間ドラマの豊かさに、はるかに及ばない。監督・脚本は「卓球温泉」の山川元。こうした試みはおおいに評価されるべきだと思うが、エンタテインメントとして作るのならもっともっと頑張んなさいということだ。てゆーか、徳井優はほんとに病院 行ってただけだったんかい! ● この映画は明らかに広瀬隆「東京に原発を!」──1981年にJICC出版局(現・宝島社)から出版され、現在は増補して集英社文庫に入っている──の存在なくしては生まれなかったにもかかわらず、それに関するクレジットが一切ないのは不誠実の誹りを免れないだろう。……とはいえ、同書を未読の方にとっては「目からウロコのオモシロくてタメになる映画」であることには変わりないので強くお勧めする。

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シェイド(ダミアン・ニーマン)

……あれ? いや、おれ、ずうっと起きてたと思うんだけど、主人公の「動機」がよく解からなかったぞ。アトランティック・シティでなんちゃらかんちゃらと言ってた気がするけど、実際にそこで何があったのか説明されてた? いや、だってそれが無けりゃ(作者VS観客の勝負としては)アンフェアでしょう。腑に落ちなくてパンフを買ったら、いきなり「舞台はラスベガス」・・・って、ち、ちっが〜う! プロローグを別にすれば、舞台は最初っから最後までロサンゼルスでしょーが。ギャンブル映画だからラスベガスを舞台にしたほうが客が来ると踏んだのか、SPO宣伝部はパンフの人物紹介もことごとく「ラスベガスのレストランの…」とか「ラスベガスのクラブの…」と嘘八百。だいたいラスベガスにあんな山だの坂だのがありますか。クライマックスの大勝負の舞台となるルーズベルト・ホテルといえばアナタ、チャイニーズ・シアターの向かいにある有名なホテルでしょーが。序盤のキャラ紹介パートで「主人公の若手の凄腕カード師がホテル・カジノでディーラーをしてる」って設定でラスベガスもちょこっと登場するんだけど、パンフを見ると「カードの天才ヴァーノンを東海岸から呼び寄せる」・・・って、ち、ちっが〜う! お前ら試写室で寝てただろ!>SPO宣伝部。 ● シェイドとは密かにマーキングした不正カードの隠語。「クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア(のレスタト役)」「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い(のドリアン・グレイ役)」のスチュアート・タウンゼントと、地味ぃにビデオスルーされたリメイク版「シャレード」「MI:2」のサンディ・ニュートン、そしてガブリエル・バーンの主演による、あんまりドキドキするところもないヌル〜い出来のイカサマ賭博師ものである。カモから上手いこと騙し取ったはずの金が、じつはギャングの上納金で…といういつもの話。本作でデビューした監督・脚本のダミアン・ニーマンは、大学の映画学科在学中からギャンブラーとして武者修行を重ね、なんと本作の資金はラスベガスで稼ぎ出した(と、SPO宣伝部はパンフで主張している) ● あたかも「主演」であるがごとくSPOが宣伝してるシルベスター・スタローンは「ハスラー」でいうミネソタ・ファッツの役まわり。つまり手強い敵役。30年間 トップに君臨しつづける伝説のイカサマ賭博師という設定なんだが、どー見ても「手先が器用」にも「切れ者のギャンブラー」にも見えないのはご愛嬌としても、なんかこの人、不自然なフェイス・リフトでもやったらしくて、目と鼻のまわりが紙粘土で固めたみたいなんですけど……。でまた、スタローンのお相手が、もはや「人工…」の後に「…美女」と付けるのがためらわれるメラニー・グリフィス。この2人のツーショットは生きたまんまマダム・タッソーの館に飾れる感じで、もうこーなったらダーク・キャッスルの次回作はぜひこの2人主演で「ワックス・ワーク」のリメイクを作ってもらいたいね。シャバにいるんならマイケルも招んでさ。てか、それ、コワさの種類が違うし。 ● どこに買収されたんだか懐かしやRKOピクチャーズの製作。…すいません。また嘘つきました。RKOなんて同時代じぁありません。音楽:クリストファー・ヤング。かすれ声の「ギャングの用心棒」に扮した(ちょっとロックさま似の)ロジャー・R・スミスがなかなか儲け役で、当サイトの注目脇役リスト入り。

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涙女(リュウ・ビンジョン)

カナダ=フランス=韓国という海外資本で製作された(中国政府の脚本審査を通さない)無認可映画。それもそのはず、だってこれ「資本主義はつらいよ」というお話なのだから。 ● お話は一言でいえばヤンキー姐ちゃん奮闘記。ほら、よく縁日とかでテキヤの姐ちゃんがたこ焼き売ってたりするじゃない? 本作のヒロインがまさにああいう人である。もとは地方の歌劇団に所属していたのだが、社会主義政策がアポ〜ンして国が金を出してくれなくなりアッサリ解散。ひと旗揚げようと男と一緒に北京に出てきたものの、男はアッという間に昼間っから麻雀三昧のダメ亭主に。しかたがないので女房が代わりに路上でリュックに詰めた海賊版DVD/VCDを違法販売の日々。体にピタッとしたラメ入りシャツ光沢素材のスパッツ履いて、顔は いまの松田聖子そっくり。腕の力を抜いて手の甲を進行方向に向け、腕を前後にぷらんぷらんさせて、ガニマタでケツ振っててれんてれん歩く。困ったときの得意技はうそ泣き。そんなこんなで生きてきた聖子だったが、運悪くお巡りに捕まり「商品」は没収。亭主は麻雀のケンカから傷害罪でパクられ、おまけに子守に預かってたガキの両親に夜逃げされては、さすがの松田聖子も進退きわまった。 ● ガキを連れて田舎へ戻った聖子は、昔 ヤンチャしてたときのカレシで、いまは結婚して堅気の葬儀屋──中国語で喪事公司をやってる男と再会。うそ泣きの特技を活かして「泣き女」のビジネスを始める。「泣き女」といってもこの地方では、おーいおいおいと大声で泣くタイプじゃなくて、葬儀や葬送行列で♪高〜砂〜や〜(←それは結婚式)みたいな嘆き節を謡うのが商売。なにせ聖子チャンは元・歌手だから(強引な営業の成果もあって)みるみる売れっ子になっていくが……。葬儀屋のカレシの名台詞「生きてる間は公安。死んだらおれたちが仕切る」 ● 原題は「哭泣的女人」。監督は中国映画としてはめずらしくエロティックな描写のあった「硯」でデビューしたリュウ・ビンジョン(劉冰鑒) 野川由美子のキャバレー嬢が女の根性でしたたかに生きていく…みたいなタイプの映画である。上映時間90分ちょうど。森崎東の「女」シリーズとか好きな方にお勧めする。ヒロインのリャオ・チン(寥琴)は元・京劇役者で、本作で映画デビュー。1974年生まれ。濡れ場&ヌードあり。

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ションヤンの酒家みせ(フォ・ジェンチイ)

「山の郵便配達」のフォ・ジェンチイ(霍建起)監督による風俗メロドラマ。 ● 長江(揚子江)の上流、四川盆地に位置する古都・重慶。もうほとんど山岳地帯なので街にかなり起伏があり、また、長江と嘉陵江が合流する「Y字」のところに街があるので、対岸との移動手段としてケーブルカーが設置されているのがとても映画的(コン・リーの「たまゆらの女」でも効果的に使われてましたな) 不便な場所にあるのが幸いして中国政府お得意の「ぶわーっとブッ壊して、賽の目に区画整理する」という手が使えないためか、古い街並みと情緒を多く残している重慶だったが、「開発」の波はひたひたと押し寄せてきていた。 ● 本作のヒロイン、ションヤンは(新宿副都心の摩天楼の影にひっそりと生き残っている西口駅前のしょんべん横丁のような)飲み屋街「吉慶街」で酒家(みせ)を開いていて、毎晩、みせの前に座っては物憂げにタバコをくゆらせながら名物・鴨の首を売っている。自分勝手な家族の問題に煩わされながらも、このところ毎晩 通ってきていた中年男といい仲になるのだが…。 ● 原題は「生活秀 LIFE SHOW」。街と人の姿を描くのが風俗メロの主眼なので、ストーリーが「よくある話」なのはぜんぜん構わない。だけどヒロインの設定(あるいはキャスティング)にリアリティを欠くように思える。だってそれだけ美しかったら、なにもしょんべん横丁で鴨の首なんぞ売らずとも、上海でも深[土川]でも行ってクラブで働けばいいじゃん。その美貌ならスグ金持ちの男を捕まえて、妻の座に収まるなり自分の店を持つなり出来るでしょうに。てゆーか定石から行くと、この中年男、人の良さそうな振りをして、じつは田舎で女をスカウトしては都会のクラブに売っ払う女衒やくざに違いないと思ってたら、なんと正体は[吉慶街の再開発を担当する森ビルの開発部長]なのだった(ま、結果的には同じことだけどさ) ヒロインを演じる陶紅(タオ・ホン)は実際に重慶出身の人気女優。ベッドシーン有りだがヌードは無し。 ● 日本の同ジャンルの作品と較べて大きく違うのは、本作は いかにも「人情ドラマ」のように見えてじつは「人情ドラマ」の要素がほとんど無いこと。ヒロインを悩ますまわりの家族は全員そろいも揃って自分勝手な個人主義者ばっかりなのだ。いや、まあ、「自分勝手な個人主義者」というのが現代中国人のデフォルト・キャラではあるのだが、それにしてもねえ。ウェルメイドのように見えて、あまり気持ちよく酔わせてはくれない。 ● ここからはネタバレになるけど──ラストシーンとかも、中年男の正体が判明して恋に破れ、また(映画の冒頭のように)吉慶街に座るヒロイン。そんな彼女の姿に、スケッチに来ていた絵描きの若者が「描いてもいいですか?」いいわよ。好きに描いて。夜も更けて、ひとわたりデッサンを終えた若者、画材をしまいながら「明日もいらっしゃいますか」と尋ねる。「なぜ?」「続きを描きたくて」「(フッと笑って)わたしはいつでもここにいるわ」・・・うーん、キマった。定番とはいえ素晴らしい。はい、そこでカメラ、ポーンと引いて、ビルの谷間にポツンと取り残された吉慶街の夜景を見せてエンドロール・・・と思ったら、カメラはそのあとも「ヒロインの泣き笑い顔のアップ」を延々と──はいお客さん、ここ見せ場です見せ場。よく見て頂戴とでも言わんばかりに──撮り続けるのだった。んもう。そこがダサいんだってば。ばっちり美人メイクでヒロインを演じる主演女優ともども、演出家はなにか勘違いをしてるような気がする。

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テキサス・チェーンソー(マーカス・ニスベル)

言わずと知れた「悪魔のいけにえ」のリメイク。「アルマゲドン」「パール・ハーバー」のマイケル・ベイが製作、監督は例によってMTV出身の新人ということで「バッドボーイズ 2バッド」みたいなMTV演出/編集だったら厭だなあ…と危惧していたのだが、観てみれば案外とチャラチャラしてないストロング・スタイルのホラー映画に仕上がっていたので安心した。なに、初手から「悪魔のいけにえ」を超えるものが作れるとは思っちゃおらん。これぐらい出来りゃ満足だ。 ● なにしろトビー・フーパーの「悪魔のいけにえ」とアリステア・マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」はエンタテインメント界の二大ビギナーズ・ラック傑作と言われていて(←おれがいま言った)どちらの作者もその後、テクニックを身に付けて手足れの職人となったものの、バランスを欠いて稚拙だったが その稚拙さが一種 異様な迫力を獲得していた処女作を上回る傑作を生み出すことは、2度と無かった(フーパーまで過去形かい!) だから手先の器用さと処世術に長けたマイケル・ベイとMTV監督に、そのような稚拙な迫力が生み出せるはずもない。撮影になんとオリジナル版のカメラマンを引っ張り出して来ていて、特に前半部ではドキュメンタリー感をもりあげる「物陰カメラ」を多用しているのだが、同時にマイケル・ベイお得意の「頭蓋骨に開いた穴を通り抜ける」ような不可能カメラワークを使っちゃったら意味ないじゃん。あと、せっかくオリジナル版どおりの1973年に時代を設定してるんだから(いかにも現代ホラーらしく)終盤でヒロインが反撃に出たりしちゃ台無し。あくまで「抵抗不能/理解不能の恐怖に晒されて、命からがら逃げ延びる」という風にしてもらわないと。 ● 新・レザーフェイスさん御一家は御家族全員が御健勝で、しかも御賢兄がR・リー・アーメイという最強ぶり。でもその分「本物のキチガイを目の当たりにした恐怖」というのは薄れてしまった。あと、あの末っ子のガキンチョはあれで終わりかい!(なんのフォローも無しかい!) ヒロインのジェシカ・ビール@白タンクトップには透け乳あり。 ● 今回、ヘラルド映画が作った最初のチラシ──オモテ面のコピーが〈悲鳴の祭典。〉のやつ──では、裏面のコピーが〈30年の時を経て、今蘇る「悪魔のいけにえ」〉となっており、テキストも(レザーフェイスをレザーフィエスと誤植するという凡ミスはあるものの)「悪魔のいけにえ」のリメイクであることを大々的に謳っていた。ところが2種類目のチラシ──オモテ面コピーは〈お願い、あの音を止めて。〉──になると、「悪魔…」の「あ」の字も出てこない内容に変更されてしまっている。これ、きっと宣伝プロデューサーが途中で「そんな30年前の映画のリメイクで売ったって客なんか来るわけないだろ!」と、立場的に逆らえないどこかの偉いさんにイチャモン付けられたんでしょうな。

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レジェンド・オブ・メキシコ デスペラード(ロバート・ロドリゲス)
[フィルム版/DLPシネマ版]

エル・マリアッチは死んだ。アントニオ・バンデラス扮するギターを持った雇われガンマンは、一見「デスペラード」と同じキャラに見えるが、まったくの別人である。てゆーか、本作に出てくるのはエル・マリアッチの亡骸(なきがら)、…亡霊に過ぎない。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・メキシコ」という原題はセルジオ・レオーネへのオマージュのつもりらしいが──おれ、べつにレオーネ、好きじゃないけど──こんなチャカチャカした編集タメのない演出のどこがレオーネなんだよ! 第一、不真面目だろ。こいつら本気が感じられないもん。出てくる奴らは精いっぱい汗臭そうにレオーネ面(づら)を装っちゃいるが、こいつらからは酸っぱい体臭も匂って来なければ、パンツにしょんべんの染みも付いてそうもない。そりゃそうだ。だってこいつら撮影前にはきちんとシャワーを浴びて清潔なパンツに穿き替えて来るんだから。そして談笑しながら楽しく撮影を終えたあとは、ミネラル・ウォーターとダイエット・コークで乾杯するのだきっと。けっ。そんなこったから まともなキャラ描写ひとつ出来ねえんだよ。本来の主役の見せ場を奪ってデカい面してるジョニー・デップなんて結局、最後までジョークと悪戯の大好きなアメリカ人観光客にしか見えないじゃんか。こちとらテメエらの映画ごっこに付き合ってるほどヒマじゃねえや。 ● 最初に出るクレジットは「ア・ロバート・ロドリゲス・フリック」。filmじゃなくてflickなのは、これがフィルムで撮られてないから。「スター・ウォーズ」と同じくソニーのシネアルタのシステムを使用したHDビデオ撮り。エンドロールに「カラー・コレクション&デジタル・インターミディエイト by インダストリアル・ライト&マジック」と出るだけあって、色調は統一され、画質も一見 及第のようだが、メキシコの強烈な陽光を捉えられていないのは致命的だろ。青空に入道雲がもくもく出てても、雲が重く垂れ込めてても、画面の明るさはいつも一緒──お天気雨のような薄暗い画面なのだ。もちろんビデオだから強烈な光は白トビしてしまい、オデコや鼻のアタマは白くテカり、肌はのっぺりと赤く写り、ド派手な爆発も炎の中がただの白ヌケになる。 ● おれは新宿ミラノ座のフィルム版とT・ジョイ大泉のDLPシネマ版(=デジタル上映)の両方とも観たが、こんなものがフィルムより優れてるなど色めくらのタワゴトだ。たしかにビデオは目の前にあるものを撮ることに適したメディアだが、しょせんビデオは目の前に「在るモノ」しか撮れないのだ。光も撮れない。影も撮れない。空気も撮れない。男たちのアツい心意気も撮れない。実体の無いものを焼き付けるのがフィルムのマジックというものだ。「いまさらフィルムで撮るなんて暗闇で映画を作ってるようなものだ」とロドリゲスは言うが、それなら結構。アンタは明るい場所で映画ごっこを続けるがいい。おれは暗闇に留まる。 ● 意外だったのはT・ジョイ大泉のDLPシネマ版のほうが、スクリーン・サイズも映写機との距離も3倍ぐらいある巨大なミラノ座のフィルム版より暗かったこと。プロジェクターの設定、ミスってるんじゃねえか?>T・ジョイ大泉。あと、DLPシネマ版は相変わらず(DVDみたいに)字幕にジャギーが出る。もう登場してから4年も経つんだから、そのぐらいの技術クリアしろよ!

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オアシス(イ・チャンドン)

小説家から映画監督に転身、「グリーンフィッシュ」「ペパーミント・キャンディー」と韓国現代史の暗部をえぐる渾身の問題作を発表し、昨年はついに文化庁長官にまで登りつめた韓国のアンジェイ・ワイダことイ・チャンドン(李滄東)の第3作。今度は前2作とはガラリと趣きを変えた〈愛のファンタジー〉である。イ・チャンドン自身の発言を引く>「カンヌ映画祭に行ったとき、街が映画を観に来た人たちであふれてるのを見て、映画というのはファンタジーを売るものだと改めて気が付きました。人はファンタジーによって自分の人生を変えたり、何かを生まれ変わらせることが出来るのかもしれない。それは恋愛と同じものだろうか? 自分はどのようなファンタジーを売ろうとしてるんだろうか?……というようなことを、あれこれ考え始めたことが『オアシス』の出発点だったと思います」 ● ただし警告しておくが、ファンタジーといっても口当たりのよいヤワなラブ・ストーリーを期待していくと酷い目に遭う。知ってるよ、前科者と障碍者のラブ・ストーリーなんだろ? いやいやアンタが想像してる程度の生易しい代物ではないのだ。イ・チャンドンは、観客のハートのまわりに分厚くこびりついた皮下脂肪をバリバリと引き剥がすため、いきなり劇薬を喰らわせる。 ● 男は まもなく三十になろうというのに刑務所の中と外を行ったり来たりの厄介者。全身から嫌われ者オーラを発してるので、街を歩くと皆が自然に除けていく、こそこそと視線を避ける。轢き逃げで3年ちかく服役して、今日やっと出所したのに、家族は誰も迎えに来ない。そんな厄介者が、轢き逃げ被害者の家に挨拶に行って出会ったのが、死んだ男の娘であるヒロインだった。かなり重度の脳性麻痺で、かろうじて身動き/自力移動はできるものの、身体は捻じれ、顔は歪み、言葉はうああうわうという呻きに埋もれて聞き取れない。画面に登場した瞬間に観客全員が身を引くような存在だ(おれもうわっと思った) だがそんな彼女のなかに潜む美しさに気付いた男がひと目惚れ・・・するわけがない。最初、男はこう思ったのだ「…こいつならヤれる」 ● さあどうだ。身体障碍の女をレイプしようとする下衆野郎。少なくとも外見だけはカッコ良かった「悪い男」のチョ・ジェヒョンがハダシで逃げ出す唾棄すべきサイテー男である。しかも相手は正視に耐えないヒロインだ。これで気持ちよく酔えるなら酔ってみろ……という作者の挑発に、あなたは耐える自信があるか? そして、そんな2人を「主人公」──すなわち観客の感情移入の対象として成立させるための手段として、イ・チャンドンはかれらをとりまく(見た目だけはフツーな)人々を、前科者よりもよりも薄汚くて、身体障碍者よりも醜い〈人間の屑〉として描いていく。なんちゅうエゲツナイことを…。映画を観ていて怒りに体が震える経験なんて滅多にないぞ。そしてその怒りの矛先である一般市民たるや、とりもなおさずおのれ自身の姿なのだ。これはイ・チャンドンの泥まみれのファンタジーである。味噌も糞もいっしょくたに飲み込む覚悟のある観客にだけ「愛の美しさ」に涙する権利がある。 ● 授業中じっと座ってらんない小学一年生のガキそのまんまの主人公を演じるソル・ギョング(薜景求)は「ペパーミント・キャンディー」の有薗芳記モードとも「燃ゆる月」の平田満男モードともまったくの別人。一時期のロバート・デ・ニーロに例えて「驚異のカメレオン俳優」といった形容をよくされるが、内面だけでなく姿勢から歩き方から喋り方から…つまり人間1人をまるごと創造してしまう力技は いっそ「SF/ボディ・スナッチャー」の莢型エイリアンに近いものがある。 ● ヒロインには、「ペパーミント・キャンディー」でソル・ギョングの初恋の相手を地味に演じていた、ムン・ソリ(文素利) これ、もう演技とか感情表現とか以前の問題として、肉体的にもの凄いことをやっている。自分の意思では自由にならぬ、不自然に捻じれた骨盤や背骨や顔の筋肉を、意図して再現しなければならないのだ。その困難さは暗黒舞踏の比ではない。ところどころ挟み込まれる「幻想シーン」は、頑張った彼女への監督からの御褒美でしょうな。いちおう書いとくがヌードも濡れ場もある。 ● ひとつ、観ていてどうしても違和感を感じたのが、彼女にとってソル・ギョングは「父親を轢き殺した犯人」じゃないの。自分を犯そうとした男に惚れてしまうことは万に一つ有るかも知れないが、親の仇を赦すことは絶対にない──特に韓国人の場合は──と思うんだけど偏見かね? あと、どーでもいいけど「主人公の兄嫁」がピンク映画女優の佐倉萌そっくりでしたな。 ● 最後になるが、東急レクリエーションの名誉のために書いておくと、本作上映のために文化村ル・シネマ2では最後列の座席を左右1脚ずつ取り外して2台分の車椅子スペースを作ってあった。ただでさえ席数の少ない立見お断りの(本音を言えば1席でも多く確保したいはずの)ミニシアターとして、立派な行いだと思う。前にBBSで誹謗めいた発言をしたことを陳謝したい。

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イノセンス(押井守)

アニメーション制作:プロダクションI.G 音楽:川井憲次

前にBBSでも書いたが、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫は請われて本作のプロデューサーに着任早々、本作を「攻殻機動隊2」というタイトルで進行していたプロダクションI.G代表の石川光久に対して、こう言ったそうである「ナメるなよ石川。12万人しか動員していない作品の続編がどうして売れるんだ?」 ならばおれはこう言おう「ナメるなよ鈴木、石川、それに押井。4万人の信者が3回ずつ観る映画じゃなくて、本気で100万人クラスの動員を狙うんなら、せめて50万人に解かる映画を作れ」と。予告篇を観たときから危惧していたのだが、この映画、一見客にはあまりに敷居が高すぎるのだ。そもそも前作とは別物と言いながら、観客が「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」を観てることを前提に「消えたクサナギモトコ」に関する説明を省いてることからしてフザけてる。そこをきちんと描かなくては、物語の核となる「主人公バトーのモトコへの想い」を観客が共有できないではないか。これで本作はラブ・ストーリーのつもりなんだだそうだ。え、どこがですか? ● きちんと物語を伝えようとするならば、本作のアヴァン・タイトルは狒々爺いが(ガイノイドと呼ばれる)愛玩用人形をいやらしく愛でる場面であるべきだし、ツカミとして突如 狂った人形(アンドロイド)が爺さんを虐殺する描写から始めるべきだった。「007」シリーズを思わせるオープニング・タイトルは悪くないが、本来ならここでは「バトーの見る悪夢」の形を借りて、前作のポイントを(必要なら新たに画を描きなおして)観客に伝えておくべきで、特に脳味噌と魂(ゴースト)以外は全身サイボーグであったモトコが、ネット上のソウトウェア・プログラム「人形つかい」と融合して電脳の海に消える件りは絶対に必要である。雑誌の付録DVDなどで配布された6分間プロモーション・フィルムの冒頭には入っていた「2人の再会の暗号は2501」という重要な設定を最初に観客に伝えておかないのも理解できない。そして、観客に伝えるべき情報を伝えた後で、電話のベルが鳴り、悪夢から目覚めたバトーが捜査に出動する、と。この物語の導入部としてはこれ以外の展開はありえないではないか。押井守は言うかもしれない。そーゆーの今までさんざんやって来たんだと。きっと客だって飽きてるに違いないと。 たしかに押井守の映画を常に3回ずつ観てる4万人の信者にとってはそうかもしれない。だけど、あとの100万人にとってはそういう段取りが必要なんだよ。それが娯楽映画の作り方というものだ。 わるものの正体が最後まで不明瞭なのも気になった。べつに勧善懲悪の話ではないから必ずしも「わるものをやっつける」必要はないが、勝つにしても負けるにしても主人公が誰と/何と対峙してるのかは、もっと観客に解かりやすく描いておくべきだと思うが。 ● そうして基本的なことを疎かにした一方で押井守は今回〈前人未到の難業〉にチャレンジしている。それはすべての台詞を箴言の引用だけで構成するというもので…って、お前は武知鎮典か! そうした晦渋な台詞を登場人物たちはまったく表情を変えずに喋り、主人公のバトーに至っては(眼を機械化してるので)キャラクターの感情表現のキーである瞳がない(!) それはつまり観客にのっぺらぼうに感情移入せよと言ってるようなものだ。…あのねえ押井クン、映画に「大衆性」って大事なのよ。本作で使用されるメタファーに沿って言うならば、大衆性こそが観客とコンタクトするための映画の「肉体」にほかならない。大衆性を捨て去ってその先に何があるのか? 肉体を失い、ゴーストだけの抽象的な存在となった「押井守」という記号(ブランド)が残るだけではないのか。そうなってしまったら誰もあなたの映画の「中身」は観ないよ。信者は映画館に「押井守」という記号を確認しに来て、そこらじゅうに押された「押井守」の烙印に安心して帰るだけだ。 ● 肝心の「画」も、そりゃ標準以上に上手いんだけど、とりたて「スゴい!」とは感じなかった。いや、もちろん描いた本人たちは「今回は凄かった…」と思ってるだろうし、本職のアニメーターにとっては、描けといわれても描けないくらい物凄いレベルなんだろうけど、シロートのおれから見たら、相変わらず3DのCGとアニメ部分の違和感を感じこそすれ、画力に圧倒されることも、動画に快感を覚えることもなかった。背景をCGにするんなら全部CGにしないと、場面が変わって背景がCGになった途端に(演出以前の問題として)「あ、ここで何かが起きるぞ」と解かっちゃうじゃんか。あと、タイトルの出方とかダッセ〜と思ったのはおれだけ? 正直、この話なら川尻義昭+マッドハウスの組み合わせで観たかった・・・って悪態三昧のわりには星3つ付けてんじゃねーか>おれ。てゆーか、品川のアイマックスシアターで再見しようと思ってるし…。信者じゃねーか!(火暴)

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花とアリス(岩井俊二)

いや、マイった。マイりました。畏れ入りました。やはり岩井俊二は少女映画を撮らせたら天才的。他愛ない会話。ささいな表情。目の動き。指先の仕草。もう、どうしたら少女が(男の目に)可愛らしく映るかを知り尽くしてる。…結構これ、ぜんぶ岩井俊二の振り付けで現場でいちいち見本を見せてたりして(怖わっ) みずから作曲(?)したクラシック音楽が全篇にBGMとして流れ、すべての場面が(フォトショップのガウスぼかしをかけたように)柔らかな光を発している。ふわふわしててスグ溶けちゃう綿菓子のような映画。 ● ビデオ撮りのビデオ・ルックで、どこをどう切り取ってもそのままキットカットのCMに使えそうなイメージ映像の羅列で、つまりどー考えても おれの反感 買いまくりなはずなのに、アヴィド編集によるコンマ何秒単位の短いカットの錯綜も気にならぬばかりか、気が付けばニヤニヤとスクリーンを眺めてる自分がいるのである。はっ。いかん いかん。こんな人買いの作ったエクスプロイテーション映画みたいなもんに騙されちゃいかん!と頬をつねって自分を戒めるのだが、また5分も経たないうちに、だらしなく目尻は下がり、頬は緩み…。か…完敗だ。ある意味、8ミリ美少女映画の最高峰と言えるかも。 ● 好事家向けのポルノグラフィという点では「イノセンス」とまったく同じジャンルの作品であって、おれが20代の若者だったら「イノセンス」のほうを熱く語ったかもしれんが、もはや四十過ぎの好色中年男としては「仏頂面の男たちが晦渋なことを独白しつづける映画」よりは、16、7の可愛い女の子たちが無邪気に戯れてるのを眺めてるほうが幸せってこった。てゆーか、もうそれ、映画の感想じゃないし。 ● 「花とアリス」というのはヒロイン2人の役名で、鈴木杏が「荒井花」で花ちゃん。蒼井優が「有栖川徹子」で愛称 アリス。「ハナ篇」→「アリス篇」と続いて、最後に「ハナとアリス篇」になる3部構成。鈴木杏ちゃんが頭を打った先輩に「あなたは記憶喪失です」と暗示をかけてカノジョに成りすますという「ハナ篇」がメイン・ストーリーに見えるので、途中からいきなり蒼井優の事情を描く「アリス篇」が始まったときは場当たり的な寄り道に思えて「岩井俊二、ちゃんと構成ぐらい考えろよ」と思ったのだが、寄り道に見えたのはぜんぶ伏線になっていたことが「ハナとアリス篇」で判明する。CMを繋げただけに見えて、ちゃんとストーリーも進行させてるとこが侮れない。なぜか全篇に少年漫画、…誤植じゃないよ、少年漫画へのオマージュが散りばめられ、手塚治虫のあのキャラまであのような形で登場して来ては、もはや「でもでもやっぱりフィルムで観たかった」と星4つに留めることが おれに出来る精一杯の抵抗である。<なにも無理して評価を下げなくても。 ● 16歳の鈴木杏は外見はすっかり女のコだが、中身はガハハ笑いがスゲー似合う小学生の男の子キャラのまんまで、ダイスキな先輩とデートしてても つい敬語つかっちゃう体育系メンタリティの持ち主。ドタバタ系のコメディ・センスが抜群で、杏ちゃんて見た目は可愛いけど中身は小林聡美なのね。実際の高校生活でも友だちは男の子ばっかなんじゃないか? 対照的なのが実年齢18歳の蒼井優。一見 写真うつりは地味なんだけど中身はとっても女のコ女のコしてて、たしかにこのコがモテるの解かるわ。杏ちゃんタイプは損なんだよな。だから今回、岩井俊二のフェチな視線も完全に蒼井優のほうを向いてて、最後にはチャッカリ主役の座を奪ってしまうのだ。きっと鈴木杏は初号試写を観て「おいおい主役はあたしあたし!」とアゼンとしたと思うぞ。それで家に帰って「映画どうだったの?」と訊かれて、「いーんだけどさあ。なんかさあ。優ちゃんのほーが目立ってんだよねー」とお母さんに愚痴こぼしたりしてると思うね。

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花と蛇(石井隆)

「花とアリス」の続篇。杉本彩が慎み深い深窓の貴婦人・遠山静子を、鈴木杏がその姪のセーラー服の清純な女子高生・荒井を演じる。すいません嘘です。 ● いかにも「怪作」といった予告篇の印象から「石井隆ってゆーより石井輝男じゃねーの!?」と危惧された本作だったが、冒頭にいつものように右肩あがりのタテ書きで「石井隆 監督作品」と出た瞬間から、これが紛れもなく石井隆の映像世界であることを実感する。脚色はもちろん石井隆。 ● 原作は団鬼六の代表作。その後、本人とフォロワーたちによって数限りないバリエーションが書かれることになるその原型の物語であるが、ヒロインが杉本彩だから「花と蛇」本来の「貞淑な和装の令夫人が(下衆な男によってもたらされる)性的悦楽の前に淪落する」話ではなく「高圧的な貴婦人がドレスプライド社会的地位を剥ぎ取られ、屈辱にまみれる」という(これもまたSM小説の一典型である)ストーリーに置き換えられている。羞恥責めではなく肉体的にハードな責めが中心なのも欧州型のBDSM映画としては悪くないし、後半には本物の縄師・有末剛による(本気の)和装&刺青SMショーもたっぷり堪能できるので、SM映画ファンには文句なくお勧めできる。 ● 団鬼六のSMものの醍醐味はヒロインの沈黙=羞恥の美学──縄がけされ、ときには猿轡をされた貞淑なヒロインが、性的愉悦(あるいは尿意)に必死で耐えて身悶えする。息を詰めて見守る男たちの前で縄のみしみしいう音だけが響く──にあるわけだが、本作では(秘密ショーの司会者である)ピエロが「ヒロインの心理の変化」を逐一、台詞で解説してしまうのも、まあ、百歩譲って効率的な説話のためと認めよう。ただ、本作が「団鬼六の映画化」としては決定的に欠落させているのは「最後までヒロインが性的快感に屈しない」というその一点である。ヒロインが男たちの言うことを聞くのは、別の人質の命を救うためであって、責められる快感の虜になったからではない。もちろん石井隆は、夫とのメロドラマ的再会のためにそうしているのだが、そこに決定的な計算ミスがある。杉本彩は快感に負けて夫の前で悶え狂うべきなのだ。夫はそれを成す術もなく(ちんぽをおっ勃てて)見つめるべきなのだ。そのほうが最後の夫婦のおまんこは絶対に感動的になるはずなのに! てゆーか過去の「天使のはらわた」だったら確実にそうしていたはずなのに。 ● そう、「花と蛇」と題されていても結局、本作は名美と村木のメロドラマとして構築されている。名美の杉本彩は宣伝惹句でもなんでもなく「肉体の限界」に挑戦しており素晴らしい。本作に出演した事情がどのようなものであるのせよ、彼女にとっては勲章となる作品だろう。 問題は相手役のほうで「森ビルの御曹司の頼りない夫」という役柄に野村宏伸というのは、一見、合っているようだが、なんといってもこれは〈村木〉なのだ。最後には命を賭して名美への愛を貫く男の役なのだ。ここはやはり根津甚八の出番でしょう(年齢的にもそのぐらいの年の差があったほうがしっくりくると思うんだけど) 野村宏伸の演技があまりに酷いので石井隆も心配になったのもかもしらんが「妻を第三者に差し出す夫の心情」をすべて台詞で言わせてしまうのもヒドい。あれじゃ演出家失格だ。あと石井組はいつもそうだが録音技師が下手クソ。台詞が明瞭でない場面がいくつもある。 ● …と、いろいろ文句はあるのだがこれだけの虚構を、ともにもかくにも観客に信じさせたのだから立派なものだろう。映画が終わって地下の映画館の暗闇から歌舞伎町のネオン街に出ても、まだ夢から醒めていないような……夢の続きを観ているような感覚がしばらく続いたのは、映画に力がある証拠。また、作品評価としては星4つだが「商品」としては文句なく ★ ★ ★ ★ ★ である。これだけ完璧な商品はめったにあるもんじゃない。よくやった!>東映ビデオ。きっと今ごろ、Vシネ女優あたりを主演に持ってきて予算を縮小した続篇をパート5ぐらいまで企画してるんだろうけど、どーせなら予算を倍増して高岡早紀を口説き落とすぐらいの気骨を見せてほしいものである。 ● 杉本彩は、もう脱ぎまくり縛られまくりで、すっかり目が慣れてしまうほどヘアヌードも満載。映倫コードに従って基本的にヘアヌードは単体ヌードのみで、絡みのシーンではヘアは見せないという原則が貫かれているのだが、おお、ラストの石橋蓮司との絡みではヘアが見えているではないか! つまり本作は「セックス・シーンでヘアが描写された史上初の作品」ということになる。…って、コラ、映倫! これに認めるんなら今後はピンク映画にも認めろよな。 杉本彩のボディガードとして雇われて一緒に生贄にされてしまう若い女に、Vシネマ女優の未向(みさき)。 なお、片岡修二の「地獄のローパー2」こと「緊縛・SM・18才」(1986)で、工事用クレーンによる地上数十メートル裸吊りという前人未到の責めをみごとに受けてみせたM女優・早乙女宏美が「SMアドバイザー」としてクレジットされている。 ● あと余談だけど、なにがショックって、今回の「花と蛇」に関する石井隆のインタビュー記事で、あまりにツマらなそうなのできっと同名異人の新人監督だろうと思ってパスしてた「TOKYO G.P.」が石井隆本人の作品だったことが判明したことがすげーショックだ。えー、じゃあ観なきゃいかんかなあ?>「TOKYO G.P.

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盲獣vs一寸法師(石井輝男)[ビデオ上映]

製作・脚本・撮影:石井輝男

美貌と肉体美を誇るダンサーをめくら男が攫って異常な性感の虜にしてしまうのが「盲獣」で、深窓の貴婦人@後妻を醜い小人が強請って肉体関係を強要するのが「一寸法師」である。つまり江戸川乱歩の小説はある部分、とても団鬼六と似てる。いや、これはもちろん方向が逆で、江戸川乱歩の猟奇趣味のうち、耽美的要素に特化したのが団鬼六の世界なのである。じっさい「一寸法師」からミステリ要素を省くと、ほとんど「花と蛇」と同じ話になる。 ● 団鬼六とは反対に、石井輝男は「耽美」にはまったく興味を示さない。劇中にハダカは溢れているものの性的興奮を誘う類のものではない。新東宝、東映と渡り歩いてきたベテラン監督の興味はもっぱら「猟奇」に向けられ、犯人が2人なら猟奇も2倍という理屈でビデオ・スクリーンに猟奇博覧会をくりひろげる。みずから脚色した石井輝男は、2つの話をほとんど混ぜ合わせることなく、最後まで並行したまんまで語りきってしまう。「きっとお互いの犯罪を新聞報道で知り、競うように犯罪を重ねたんでしょう」だって。<おい! ● ビデオ撮りのスタンダード・サイズ(てゆーか4:3のフル・フレーム) 内容C級に相応しく画質もC級。一部場面には録音不良もあり台詞が聞き取れない。美術費が限りなくゼロなのでロケハン勝負で、昭和初期の面影を残す路地裏を丹念に探し出して撮影しているのが素晴らしい。これでフィルム撮りだったらと本当に悔やまれる。 ● 盲獣に攫われる「浅草レビュウの女王」に、元・丹波哲郎の付き人で、現所属も「丹波道場」という藤田むつみ@トウの立ったヌードあり。 一寸法師に狙われる貴婦人に「白痴」以来の美女優・橋本麗香@残念ながらヌードなし。 貴婦人に惚れてる三文小説家にリリー・フランキー。一寸法師に全日本女子プロレスの故リトル・フランキー。名探偵・明智小五郎に塚本晋也。…と、まあ、この辺はいいとして、荒々しいセックスのケダモノである「盲獣」には永澤俊矢ぐらい使ってほしかったね。 ちなみに「鳶のカシラ」を演じてるのがピンク映画にもよく出てくる東映専属・町田政則である。あと映画監督・中野貴雄が「地獄女史」と(素顔の)レビュウ客の二役で出演。 ● 2001年の12月14日に今は亡き自由が丘武蔵野館のオールナイトで先行プレミア上映されて以来、音信不通となっていた作品である。おそらく事情は「シャボン玉エレジー」と一緒で、資金回収のためにまずDVD発売が決定して、んじゃその前に箔付けのため劇場公開を…ってことだろう。DVDブーム様様である。ビデオシアター「渋谷シネ・ラ・セット」には初めて入ったが、場内の後ろ半分は普通の客席なんだけど、前半分がソファ席になってて、最前列の低ソファはほとんど座椅子状態。早稲田にあったACTミニシアターや、名古屋シネマテークの座椅子観賞が好きだった方にはお勧め。