m@stervision archives 2003a

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



★ ★ ★ ★ ★
シカゴ(ロブ・マーシャル)

人をあやめたヒロインが裁判を前にして弁護士に「ビリー、…わたし、怖いわ」「怖いことなんかあるもんか。なにも心配することはない。すべてはサーカスだ。見世物(まやかし)なんだよ。裁判も。…世の中も。ショウビジネスなのさ」 シカゴというのは街の名前ではない。シカゴとは「ものごとの在り方」を指し示した言葉だ。女性の被告を扱って いまだ裁判で負けたことがないという辣腕弁護士ビリー・フリンは二言目にはこう口にする「それがシカゴだ」 ● ボブ・フォッシー/アン・ラインキングのステージ版「シカゴ」は未見。おれは(嫌いではないが)積極的なミュージカル・ファンではないので、この映画が「ミュージカルとしてどの程度の出来なのか」については判断に自信がない。ただ、全体の構成から考えると冒頭のキャサリン・ゼータ=ジョーンズ「オール・ザット・ジャズ」は文字どおり観客をノックアウトすべき場面なので、レニー・ゼルウィガーの余計なカットバックなどを差し挟まずにステージだけをきっちり写すべき。また「女囚タンゴ」の後半の群舞は、あんなに目まぐるしくカットを切り変えてしまっては「群舞ならではのダイナミズム」が死んでしまう。そして最後の、ヒロイン2人による「これがわたしの生きる道」は、あれこそまさしくグランドフィナーレで、観客の万雷の拍手に応える場面なのだから、正面のカメラだけでじっくり魅せてほしかった。それと何より、ボブ・フォッシーの自作「オール・ザット・ジャズ」あたりと較べても、ほぼ全篇にわたって半裸の女たちが乱舞する話のわりにはエロティックじゃなくてガッカリ。 ● というわけで本作は、ショウガール志望の「ベティ・サイズモア」なヒロインの奇抜なサクセス・ストーリーを描いたミュージカル映画…としての評価は、せいぜい ★ ★ ★ どまりなのだ。おれも最初の1時間は「まあ、つまんなくはないけどねえ」なんて思いながら観ていた。それが中盤を過ぎたあたりでの「とある女囚」の死刑執行の場面で不意を突かれた。死刑囚が絞首刑の階段を昇り、首に縄をかけられ、床板が開く「現実場面」には、同じ女優によって演じられるサーカスでの縄抜けショーの「妄想」が入り混じる。美しい衣裳をまとった「女囚」がスポットライトを浴び、ステージの階段を昇り、満員の観客が注視する中、ドラムの音が高まり、身体に縄を巻きつけたまま台からジャンプする。絞首死体のだらんとした下肢がカットイン。サーカスのからっぽの縄の輪っか。サーカスの観客の拍手喝采。ぶらさがった死体に贈られる鳴りやまぬ拍手!・・・これこそ、虚実の皮膜が破れ、観客がそれまで「虚」と思っていたものこそ「真実」であると悟る瞬間である。突如としておれは、ロブ・マーシャルがミュージカル場面を「ヒロインの妄想」として処理した真意を理解した。いままで「妄想」とばかり思っていたものこそ「この世の実態」なのだ。死刑執行の場面に続く「ヒロインの裁判」の長いシークエンスはリチャード・ギア演じる弁護士の独壇場である。彼はつい興奮のあまり、陪審員を「観客の皆さん」と言い間違える。すべてこの世はショウビジネス! That's Chicago! つまりこれは「ゼイリブ」と同じ映画なのである。このアダプテーションによって、本作はみごとに現在の映画たりえている。いまも世界中で、首吊りにされる女囚に惜しみない拍手が贈られ、優しき人々は迷い込んだゴマヒゲアザラシの健康状態に胸を痛め、倫理は人気によって置き換えられる。正義と自由の使徒=アメリカ合衆国は民主主義とキリスト教を圧制と偏狭の地にもたらすべく正義の戦いに勝利し、解放軍を歓迎する歓喜の群衆によって独裁者の銅像は引きずり倒されるのである。 ● いや、まあ、もちろんそうした社会批評以前に本作には「清濁あわせ呑むショウビジネス讃歌」というこの手の作品の共通テーマがまず第一にあって、それを巧くあらわした台詞をひとつ。>(2人で組まないか?と誘われて)「うまくいきっこないわ」「どうしてよ?」「アンタのこと大っキライだもん」「それが問題にならないビジネスがひとつだけあるわ」 ● キャストについて。キャサリン・ゼータ=ジョーンズは「ハイ・フィデリティ」「アメリカン・スウィートハート」と積み重ねてきたビッチな個性を全開。いや、この人がこんなに魅力的な女優だとは思いもよらなかった。ロンドン時代に17歳でミュージカル「42丁目」の主役を張ったという実力も初披露。彼女がソロで歌い、踊る「1人じゃ出来ない」はすばらしい出来で、観ていて自然に身体が動いた。 それに較べてレニー・ゼルウィガーは「演技者」としてはサスガに達者なんだけど、せめて歌がもう少し巧くないと役柄に説得力がない。本人自演にこだわらず歌だけ吹替えちゃえば良かったのに。いや、もちろんあれがマリリン・モンローぐらい可愛いくてグラマーならそれで充分だし、(デビュー当時の)シャーリー・マクレーンほど可憐ならばなんでも許せるんだが。 さてしかし、ゼータ=ジョーンズほど歌えて踊れるダンサーはブロードウェイには腐るほどいるだろうし、ゼルウィガーの役を無難にこなせる女優もハリウッドならいくらでも代替可能だろう。だが、本作の何者にも替えがたい最高のキャストはリチャード・ギアである。たしかに歌&ダンスに関しては巧拙が問題にならないような撮り方がされていて、ジョン・トラヴォルタアントニオ・バンデラスなら、もっと歌って踊って魅せてくれたかもしれない。だが本作の辣腕弁護士ビリー・フリンをリチャード・ギア以上に巧みに、しかも華を持ってこなせる役者は他に考えられない。容疑者がシロかクロかなんて彼にとっては大した問題じゃない。依頼を受ける条件はただひとつ。「5,000ドル出せるかどうか」だけ。「自慢するのは好きじゃないが、もしイエス・キリストが現代のシカゴに住んでいて、5,000ドル持ってわたしのところに来ていたら、事態はだいぶん違っていたろうね」としゃあしゃあと語るような男だ。いかがわしい人物には違いないが、トラヴォルタやバンデラスでは見た目からしていかがわしくなりすぎる。彼はあくまで「有能な弁護士」でなくてはならないのだ。 あと、気が付いたので鬼の首を取ったように書いておくけど「ケータイOFF」予告篇にも使われていた「Shut up dummy!(黙れ、バカ娘!)」という台詞の「ダミー」は「バカ」と「腹話術の人形」のダブル・ミーニングになってるのだな(この言葉をキューに腹話術と操り人形のナンバーが始まる) ● 助演陣はジョン・C・ライリー、クイーン・ラティファ、ルーシー・リウとハマリ役ぞろいだが、なんと言ってもサイコーなのはピアノ弾き/司会者役のタイ・ディッグス! 「リベリオン」ではクリスチャン・ベールの「野心に燃える新任パートナー」を演じていた黒人俳優だが、どうも経歴からするとこっちが本筋らしく、ローリング・トウェンティーズの、シカゴの、非合法クラブの、もしかしたらその正体はメフィストフェレスかもしれない黒人バンドリーダーを粘土で造形したらこういう顔になる…という、まさしくそのとおりの顔をしていて、曲目紹介しか台詞がないのがじつに勿体ない。1曲くらい出演者と絡んでくれたら良かったのに。

★ ★
D. I.(エリア・スレイマン)

嘘かほんとか初めてのパレスチナ映画だそうである。ま、ハリウッドに代表される映画界のメイン・ストリームは絶対的なユダヤ人天下だからねえ。不条理な世界を舞台にした不条理劇。とはいえ、ブニュエルほどにはブッ飛んではおらずほどほどに寓意的。不条理ギャグ映画としてもクスリとも笑えぬ(まあ、教養ある大新聞の記者先生や、日本の最高学府の元・学長様には楽しめるのかもしらんが) 実際、おれが観た回のユーロスペースでは全篇を通して一度も笑いが起きなかった。だからまあ、おれにとっては退屈な映画であったけれど、でも、いまやすっかり「ミニシアター=オシャレなデートムービー」という世の中にあって、せめてフランス映画社くらいはバカップルや鳥頭OLが途方に暮れて映画館を後にするようなとっつきにくい作品を公開してもいいのではないかと思うのだ。 ● 終盤のアクション場面を観てて思ったのだが、パレスチナ側にもあそこまでCGとか作れる技術力があるのなら、かつてメナハム・ゴーラン&ヨーラン・グローバスのキャノン・フィルムが作ってたみたいなプロパガンダ・アクション映画とか作ったらいいのに。アラブの金持ちにスポンサーになってもらってさ。聖戦に身を投じるアラブ戦士たちを主人公に、アメリカを「悪の権化」として描くCGアクション超大作。恋人との涙の別れとかがあって、クライマックスはもちろん旅客機をハイジャックしてWTC突入計画の「成功」を描く。アラブ世界はもちろん、意外とヨーロッパとかロシアや中国、それに南米やカナダでは大ヒットするかもよ。…ってそれアメリカと日本以外の全世界じゃん。

★ ★
ミレニアム・マンボ(ホウ・シャオシェン)

ミレニアム・マンボ。漢字で書くと「千禧曼波」 ヒロインが2011年の時点から、2001年の過去の自分自身を振り返るという構成。つまりノスタルジックな現在。ホウ・シャオシェン(侯孝賢)と肌が合わないことは百も承知で、地声でしゃべるスー・チーを眺めに行ったので退屈でも文句は言わん。


鏡の女たち(吉田喜重)

1988年「嵐ヶ丘」以来となる吉田喜重の新作(企画・脚本・監督) おれは松竹を離れて独立プロを興してからの吉田喜重には好きな作品が1本もない(てゆーか、ようワカラン)という者なので、本作に相応しいレビュワーとはいいかねるのだが、それにしても相変わらずの、いかにも吉田喜重らしいバカには解からん冷たい映画だった。いや誤解すんなよ。「バカには解からん」てのは おれが言ってんじゃなくて吉田喜重が そう思ってるんだよ。いかにも武満徹なBGM(音楽:原田敬子)の流れるスタイリッシュな構図の空間を、登場人物たちがゆっくりと移動し、現代の話し言葉ではない不自然かつ生硬で観念的な台詞を喋る。…能ですか? ● だってこれ「年老いた母が、24年前に孫を産み落とした直後に失踪した娘(らしき女性)に巡りあうが、彼女は過去の記憶を失っていた」という話だぜ。ヒロシマとか原爆って要素はあくまで娘の出生の秘密にかかわる「ネタ」であって、基本はベタベタの世話ものじゃないの。マキノ雅弘なら必ずや観客をボロ泣きさせたに違いない、そういう類の話なんだよ。それをどうしてこう取り付く島のない作品にしちゃうかなあ。映画がチャーミングであることは決して「罪」でも「堕落」でも無いんだがなあ。まあ、長年 苦労して自分で出資者を集めて(東京では)美術館で公開してる作品だから、どう作ろうと吉田喜重の自由なんだが、おれの理解の外にある作品である。映画による戦後の総括の試みとしても「人斬り銀次」のほうがよほど素晴らしい。 ● さて、本作は2002年の6月15日に亡くなった室田日出男の遺作である。前から口跡の良い人ではなかったが、いよいよ台詞を言うのに苦労しているようで観ていてちょっと痛々しい。しかし終盤の、西岡徳馬と対峙する場面には静かな迫力が出ていて、おれが本作の中で唯一、好きなシーンだ。なお「鏡の女たち」の撮影は前の年──2001年の夏から秋であり、撮影時期からすると真の遺作は2002年6月25日、つまり室田の死後にリリースされたVシネマ「浅草哀歌(エンコエレジー) 獅子の絆」(GPミュージアム/監督:細野辰興/主演:哀川翔)のほうではないかと思われる。

★ ★ ★ ★ ★
W A T A R I D O R I(ジャック・ペラン)

うんわー。すんげーなー。うーつくしー。 ● 「ミクロコスモス」のジャック・ペランが手掛けた、今度は「渡り鳥」を題材にした新作。ジャイロコプターに乗った6チーム15人のカメラマンが鳥たちと共に空を飛び、さまざまな渡り鳥の群れの、それぞれに優雅な飛翔をカメラに収めた。およそ100分。ナレーションは必要最低限のみ。テレビの動物番組のように画面で起こっていること親切に解説してくれたりはしないし、ナレーターが鳥のお母さんの気持ちを勝手に代弁することもない。ただひたすらに、この星の上を移動していく鳥たちの姿を映し出す。ビデオではなくフィルム撮りなのが素晴らしい。予告篇やテレビの映画紹介の映像に少しでも心動かされたならば、DVDを待たずにぜひともスクリーンでご覧なさい(お近くの人は新宿タカシマヤ テアトル・タイムズスクエアの巨大スクリーンをお勧めする) いっぽう「たーだ鳥が飛んでるのを見てなにが面白いワケ?」と思った人は、まさしくそのとおりの内容だから観る必要はない。 ● 感想としては冒頭に掲げた3語に尽きる。飛んでる鳥の姿を、真横から、アップで、眺める経験はめったに出来るもんじゃないが、その流線型の体型の美しさにうっとりする。ただ、もう、ぼけーっと見とれてしまう。鳥という生き物は「飛んでるときの姿勢」が本来の姿で、ふだん、われわれが地上で目にしているものは「仮の形」にしか過ぎないのだと改めて思い至る。バサッバサッという生々しい羽ばたきの音に「生命の力強さ」を感じ、飛んでるあいだ、ひっきりなしに があがあ、きいきいとそれぞれの言葉で語り合うさまには、こいつら意外とおしゃべりな連中なのだなあ、と感心したりする。フランス語での原題は「渡りをする民」 そう、入れかわり立ちかわり、さまざまな種類の群れが、それぞれの目的地へと向かって渡っていくさまを観ていると、だんだんとかれらが旅芸人の一座のように見えてくる。見た目も、言葉も異なるさまざまな一座が、毎年おなじルートを辿って、各地の「定宿」に泊まりつつ、地球規模の巡業をして暮らしているのだ。ひとつの星の上で、人間世界の「地図」とはまったく異なる、かれらなりの「地図」が、まるでOHPの世界地図に重ねられた「別々の透明シート」のように存在するのだ。いまさらながらだが「この星に間借りしてるのはわれわれだけではないのだ」という事実が思い起こされ、(小林旭 以外の)人間はしょせん渡り鳥のようには生きられないが、せめて隣人に一宿一飯のもてなしをする定宿ぐらいは、われわれの努力で維持したいものだと思った。 ● さて、以下はネタバレなので観賞後にお読みいただきたいが──え? ドキュメンタリー映画にネタバレ!?──いやいやじつは本作はドキュメンタリー映画ではないのだ。過剰なナレーションやストーリー性がないというだけで本質的には「キタキツネ物語」や「子猫物語」と同じジャンルの映画なのだ。ジャック・ペランはハッキリとそういう意識で本作を製作している。撮影のために40種1,000羽の鳥のがフランスに集められ、孵化したときから人間やジャイロコプターのエンジン音やカメラの音に対する刷り込みを行っている。もちろん飛行の映像そのものは本物だが、それらの背景はすべて絵コンテのとおりだし、馬はスタッフが手配して走らせ、朽ち果てた自動車はスタッフが置いたものだ。そればかりではない。あの重油は牛乳に墨を混ぜたものだし、蟹が群がっているのは実際には魚の死体である…とジャック・ペラン自身がインタビューに答えている。鳥がハンターに撃ち落されるシーンだけは「たまたま撮影したもの」だそうだが、まあ「撮影のために撃ち落しました」とは言えんものなあ。すべては「伝えるべきメッセージのために周到に組み立てられたもの」なのだ。おれが米国アカデミー賞の委員だったら、本作は「長篇ドキュメンタリー部門」の選考からは落とすと思うが、そうした舞台裏を知ってなお、おれはこの映画に躊躇なく ★ ★ ★ ★ ★ を付ける。おれにとって「WATARIDORI」は──スピルバーグが「未知との遭遇」でUFOを、「ジュラシック・パーク」で恐竜を見せてくれたように──見たことのないものを見せてくれるスペクタクルだからだ。

★ ★
魔界転生(平山秀幸)

企画を聞いたときから、「感動作」は撮れてもエロスやコメディが撮れない生真面目な平山秀幸が東映の山田風太郎「魔界転生」で、ビッグマウス北村龍平が東宝の小山ゆう「あずみ」っていうのは組合せが逆なんじゃないの?・・・と危惧していたとおりの結果である。この企画ならビッグマウス北村のほうが(やはり「時代劇」にはならなかったとしても)少なくとも窪塚洋介 主演の「魔界転生」としては形になったように思う。 ● 演出家としての平山秀幸の致命的な弱点は外連やハッタリが出来ないところだ。そのソフトさ/口当たりの良さが「学校の怪談」のようなジュブナイルでは有利に作用するわけだが、外連が目立たずハッタリも効かず悪の魅力のカケラもない山田風太郎なんてとてもじゃないが観ちゃおれん。 だいたいなんでわざわざ色味(彩度)を落とすのだ? この話はドギツく色鮮やかに世界を演出すべきじゃないのか? せっかくのホリ・ヒロシの衣裳も台無しである。撮影は最近の北野組を手掛ける柳島克己だが、ただ「流行ってるから」という以外に理由があるなら言ってみろ。 殺陣は、腐っても東映京撮だけあって、いちおう形になっており、ピースデリックの「赤影」に較べたら百倍はちゃんとした「時代劇」ではあるが、さりとて時代劇ファンにお勧めできるような代物ではない。 ● 悪が描けず外連も出来ぬ演出家ならば、これはもう実直に主人公を描いていくしかないわけだが、「学校の怪談」シリーズの奥寺佐渡子の脚本からは「柳生十兵衛(佐藤浩市)」というキャラクターが見えてこない。お江戸の屋敷から暇を出された柳生の不良息子。ふだんは昼行灯なれど、ひとたび剣を抜けば氷の刃から殺気がほとばしる…という、その「殺気」を感じさせるエピソードが、荒木又右衛門との対決の前に置かれるべきだし、そもそもこの男は幕府の命を受けたわけでもなく、ただ一門の者を救出に行ったはずなのに、いつからその目的が「魔物退治」にすり替わってしまったのだ? 深作欣二版では大きな比重を占めていた(普通の刀では切っても死なぬ魔物を唯一、退治できる)「妖刀・村正」の件りをばっさりカットしてしまったのも疑問である。結果として魔界衆がただ刀で切られた程度で死んでしまう=なんだ大したことないじゃん…という具合になってしまった。 ● また、上手くすれば十兵衛が天草四郎を追う「動機」ともなり得たはずの「幼なじみ」の黒谷友香の件りにしても、演出にメリハリが欠けているのでちっとも泣けない。だいたい100人 脚本家がいれば間違いなく100人とも冒頭の柳生の里の場面に「彼女がひそかに十兵衛に焦がれている」エピソードを挿入すると思うのだが、なぜか奥寺佐渡子はそれをしないので、中盤のヤマ場であるべき「秘密が明かされる場面」が盛り上がらない。平山秀幸の演出(および編集)もアッサリしすぎである。そもそも時代劇演出の肝はカット尻の余韻にある。カットを切り返すときは、それぞれの人物の「ハッとした顔」とか「無念の想い」あるいは「目元にじわりと染み出す涙」といったものをきっちりと観客に伝えてこそ、なのだ。あるいは例えば、麻生久美子が「わたくしのこの躯で転生なさいませ」と妖艶に言うときのカット尻は「相手にチラリと送る流し目」でなければならない。平山の編集は物語に心が入っていない。これでは駄目だ。 ● 俳優陣では佐藤浩市・杉本哲太・中村嘉葎雄は安定。加藤雅也は印象に残らず。意外な好演は、いつも劇団☆新感線で刀を振り回してるのが活きた宝藏院胤舜 役の古田新太。 また、田中泯ばかりにいい顔させておけるか!とばかりに大駱駝艦の重鎮・麿赤兒が唯一この物語に相応しい、素晴らしい外連を魅せてくれる。 対して台詞まわしが時代劇になってない失格組が窪塚洋介・麻生久美子・柄本明・長塚京三の4名。 ● 本作でもまた魔界衆の首領は天草四郎。深作版の沢田研二を引き合いに出すまでもなく「陽に消える…露ほどの悔いならば、今宵 推参 致しませぬ」といったカッコイイ台詞だらけの、他の共演者全員を喰ってしまえる美味しい役なのに、クボヅカ君はずうっと目を細めてアゴ突き出し、ただただ台詞を棒読みするのみ。勿体ない。こんなチンピラを使わずとも、市川染五郎を貸してくれるように松竹に頼んでみれば良かったのに>東映。 ● 麻生久美子は実力不足とかそーゆーことの前に、とりあえず脱げ! 宝藏院に「戒律を破ってこの胸を突け!」と言うときは着物をはだけて裸の胸を見せろ!(ついでに言うと黒谷友香も佐藤浩市の前で「穢れてしまったわたしの躯を見て!」とか何とか唐突でもいいからとりあえず脱いどけ!) それが娯楽映画というものだ。東映ともあろうものが何を生ぬるいことをしておるのだ。思えば深作版は…って、いま考えると深作版の佳那晃子がえらい大人の女性に思えるのだが、驚くなかれ彼女は当時25歳。つまり現在の麻生久美子と1つしか違わないのだ。うーん…。日本からはどんどん「大人の女」が消滅していっているのだなあ。 ● 柄本明は現代劇では巧いほうの役者だと思うが、この人は時代劇の演技が出来ないので使うこと自体が間違い。石橋蓮司でもいいが、ここは奮発して丹波哲郎でいきたいところ。 長塚京三も同様。てゆーか「晩年の宮本武蔵」の役だぞ。せっかく中村嘉葎雄が出てるんだから、なんで嘉葎雄に兄貴の格好させて演じさせないのだ!? あー勿体ない。 そして本作では中村嘉葎雄に振られた「柳生但馬守宗矩」を演じられる役者は、今や誰が考えたってこの世に1人しかいないではないか。そう、千葉真一である。声をかければ次の日にはロスから飛んでくるに決まってるのに。あー勿体ない。 てゆーか、そもそもこの企画には、わざわざ東宝から監督を連れてこなくとも東映には関本郁夫がいるではないか。東映はもう少し「自分の会社の歴史」というものに敬意を払ってはどうか。

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MOON CHILD(瀬々敬久)

ヴァンパイアものだって言うから耽美系のホラーかと思ったら、立派なチンピラものVシネマだった。企画・原案のガクトって人は絶対、その手のビデオとかよく観てるね。 ● 経済破綻で日本から流出した移民の吹きだまる、近未来のアジアの片隅の街で繰り広げられる「焼跡の闇市の不良少年たち」の物語。瀬々敬久としては「SFホイップクリーム」の延長線上にある世界観であり、もっとわかり易く言えばDOA FINAL」の世界で語られる「DOA 2である。本作のオリジナリティは「青臭い主人公」を守り導く「不良の先輩」の役をヴァンパイアに設定したことで、いわばアン・ライス「ヴァンパイア・クロニクルズ」の極東亜細亜バージョンといった趣き。台詞は北京語・広東語・日本語が入り乱れ、街の住民たちは相互に言葉を解するという設定。まあ、たしかに主役2人の演技は拙いが、ガクトの、前半の「ちんぴらのイキがり」と後半の「ドスの効いた台詞」を極端なまでに変えて喋りわけている姿勢などは微笑ましいし、飛び交う銃弾の量は十二分であり、また「マトリックス」ばりのSFXアクションもあり、Vシネマを観なれた男性観客に普通に勧められる娯楽作である。 ● 苦い成長をしていく主人公にガクト。(ヴァンパイアなので)諦観ただよう兄貴分にハイド。おれはこの人らのミュージシャンとしてのキャラを知らんのでアレだが、画面で見るかぎり配役が逆じゃない? 背丈からしてもハイドが「ハネッ返りの舎弟分」で、ナルナルのガクト君が「美しきヴァンパイア」のほうだと思うんだけど(関係ないけどガクトってちょっとオネエ言葉入ってない?) ハイドのさらに先輩のヴァンパイア役に豊川悦司。 ガクトの出来の悪い実兄に寺島進。 不良少年団の仲間に山本太郎。 途中から別の道を歩む仲間に台湾のトップ・スター、ワン・リーホン(王力宏) その妹に「金魚のしずく」のゼニー・クォク(郭善[王與])←いちおうこのコがヒロインなんだけど、寺島進の女房役のほうが絶対イイ女だよな。あれ、なんて女優さんだろう。 後半、なんのために出て来るんだかよくわからないサブ・ヒロインに鈴木杏。 ● あと、この映画は(いくら、おれがVシネマ・ファンに勧めたとしても)本来の対象観客はティーンの女の子たちなわけで、そうした若い観客に喫煙を推奨する映画はいかがなものかと…。


プレイガール(梶間俊一)

往年の東映製作のテレビシリーズが、中野貴雄のピンク映画版に続いて、本家・東映でリメイクされた。フィルム撮り。監督が、才能はないのに政治力だけで生き延びてきた男=梶間俊一って時点で生ぬるいんだが、内容はこちらの予想をはるかに超える生ぬるさ。冒頭が床嶋佳子のスイミング・プールのシーンなのでふむふむと思ってると、この女、わびれもせず水着のままでシャワー浴びやがるし、悪党どもは新宿のグランドキャバレーの、ステージ正面のテーブルで堂々とトランクいっぱいに詰めたコカインと札束を取引してるし、スッチーに化けた佐藤江梨子は制服のままで隅田川くんだりをうろうろしてるし、もう一から十まであまりにぬるくて頭をかかえた。しかも誰ひとり脱がない。脱ぎ担当ぐらい用意しとけってんだ! いまのところブッチギリで本年度ワーストワンである。そりゃ中野貴雄に金はないが、元シリーズへの愛と敬意は梶間俊一の百倍あるぞ。作りだってよっぽど丁寧だ。東映も梶間俊一なんぞに撮らせるんだったら武術指導に谷垣健二でも連れてきて中野貴雄に撮らせてあげれば良かったのに。● 他のメンバーに、岡本夕紀子(脱ぎません)、加藤明日美(脱ぎません)、八幡えつこ(脱ぎません。てゆーか、誰?) あと、どーでもいいけど「PCにMO挿し込んでデータをコピー」する行為はハッキングとは言わんだろフツー。

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アイ・スパイ(ベティ・トーマス)

開巻5分でガッカリした。革新性や独創性のかけらもない段取り演出。このベティ・トーマスなる女優あがりの監督(「28 DAYS」「ドクター・ドリトル」「プライベート・パーツ」「ゆかいなブレディー家 我が家がイチバン」)はアクション映画をナメてるに違いない。もっと真剣にやれ真剣に! ● チェコのプラハがハンガリーのブダペストになっただけで、あとはおおむね「トリプルX」「9デイズ」と同じ話。すなわち、黒人(もしくは黒人ぽい人)を新米スパイにスカウトして東欧の犯罪組織に潜入させる…というもの。ちなみにアメリカでは「9デイズ」(Touchstone)が2002年の6月、「トリプルX」(Sony)8月、「アイ・スパイ」(Sony)11月と、すべて半年以内に公開された。なに考えてんだか。でまた(「9デイズ」の)クリス・ロックの「CIAのベテラン・スパイ」以上に無理があるのが、エディ・マーフィーが「57戦全勝のスーパー・ミドル級チャンピオン」って設定だ。どうひっくり返したってエディ・マーフィーはボクサーには見えんでしょう。 ● じつは本作は1960年代のモノクロ・スパイドラマ「アイ・スパイ」のリメイク。おれは観た記憶がないんだけど、TV版では白人/黒人が逆で、ベテランのビル・コスピーが新米白人スパイと組むという話だったみたい。で、2人はプロ・テニス・プレイヤーとそのコーチという隠れ蓑を使っていて、この映画版ではそれを「プロ・スポーツ選手」つながりで踏襲してるようなんだが、それにしても、なぜよりにもよってボクサー? ● 話はメチャクチャ、演出はボロボロ…で、観るべきは各々の個人プレーのみ。エディ・マーフィーにはひさびさに可笑しいシーンがあるし、敏腕スパイ役で登場のファムケ・ヤンセン様は(多少、年齢を感じないでもないが)見飽きない。悪役がマルコム・マクダウエルなのも嬉しい。←だけどコイツいつ退場したんだ? 悪役の「退場」をうやむやにしてしまうなんざ、このバカ監督がいかに娯楽映画を理解してないかという証拠だ。あと、ワシントンに核爆弾を落とそうと画策する「アジアの某国」は北朝鮮を想定してるようだが、あいつら広東語を喋ってたような気がするぞ。 ● あまり目立って表記してないので気がつかなかった方が多いだろうが、本作はなんと1980年代後半から1990年代のアメリカ映画界に巨額の製作費を惜しげもなく注ぎ込んで散っていったマリオ・カサール&アンディ・バイナの「カロルコ」コンビの復帰作でもある。新しく起ち上げた会社の名前が「C-2ピクチャーズ」ってのが笑っちゃう。これって絶対に「カロルコ2」って意味だよな:)

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GUN CRAZY Episode 3: 叛逆者の狂詩曲ラプソディー(室賀厚)

中根かすみ 大谷みつほ

ウォルター・ヒルの「ストリート・オブ・ファイヤー」よろしく、冒頭で「A FABLE OF LADIES WITH GUNS」(←主役が2人なので律儀に複数になってる:)と宣言する、女が主役のガン・アクションVシネマの続篇。やはり2本同時製作で2本立て公開。どちらもフィルム撮りで各70分。今回はパイオニアLDCとジャパン・ホーム・ビデオの製作で、1・2作目のプロデューサーだった奥山和由は無関係。今度はヒロインが2人!って、それはいいけど、ヒロインを演じる女優を前作の米倉涼子・菊川怜からヲタク狙いでアイドル女優に低年齢化してしまった所為で「銃を持った女」というヒロイン像を成立させるのにかなり無理が生じている。この3作目なども2人のヒロインに、もう少し説得力のある、それなりの年齢の女優がキャスティングされていたなら傑作に成り得ていたかもしれないのに。 ● フィルム上のタイトルには「THE BIG GUNDOWN」と出る3作目はポリス・アクション。警視監の娘であることによって出世を保証されたエリート新米刑事の中根かすみ(21)が、射撃成績優秀で自信満々の、だけど現場にハイヒールで来たりするような世の中をナメてる「お嬢さま」から、試練を経て本物の警官に成長するまで。脚本に数々の論理的矛盾を孕みつつも、観客のジャンル映画的 想像力の助力も得て、なんとか形になっている。70分という尺も室賀厚の才能に見合った長さだろう。問題は「首都を破壊せんとするグリーン・ピースくずれの過激派テロリスト」という、多分ハリウッドでは設定からしてNGの悪役を演じる本宮泰風にまったく「悪役としての華」がないことで、周りのフィクショナルな世界に完全に負けてしまってる。 もう1人のヒロイン、大谷みつほも、まだ二十歳の娘さんに「恋人のテロリストを翻意させようとする射撃の得意な環境運動家」という役は荷が重すぎた。まあ、このコは将来は美人になりそうだから、5年 経って事務所からヌード解禁されたらこの世界へ戻ってらっしゃい。 中根かすみの「教育者」となるドブ板刑事に布施博@安定。 捜査課長に、コントと同じテンションで熱演するのでつい笑っちゃう、石井愃一。 ● このシリーズの大きな特徴が「A FABLE」と呼ぶにふさわしいフィクショナルな世界設定で、本作では新宿近辺にロケしていて、実景もすべて日本なのだが、ヒロインが配属されるのが「15分署」だったり、殉職警官の墓が外人墓地だったり、事件が起きるのが西新宿の「二番街東通り」だったり、台詞も日本映画としては精一杯のワイズクラックを駆使して、仮想NYたらんと努力している。劇中にチラリと登場する早稲田松竹も「マンハッタンの場末の名画座」っぽく見えるように、わざわざロビーを汚したりして。そういうスタックの努力は買うよ。…努力は。

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GUN CRAZY Episode 4: 用心棒の鎮魂歌レクイエム(室賀厚)

加藤夏希 原史奈

フィルム上のタイトルは「THE MAGNIFICENT FIVE STRIKE」と出る4作目は、なんと大々的なフィリピン・ロケを敢行しての「身代金ゲリラからの人質奪還もの」である。ちゃんとジャングルにゲリラ・キャンプを建設して、ヘリもチャーター、フィリピン製アクション映画と同量の火薬を炸裂させている。これはもはやVシネマの予算じゃないぞ!? ● われらが「マグニフィセント・ファイブ」の顔ぶれは、傭兵くずれの裏稼業(又野誠治)、頼りになるメカニック(勝矢秀人)、かつては又野と共に傭兵だった、お調子者のイメクラ店長(江原修)、元・自衛隊のクールなイメクラ嬢(原史奈@脱ぎません)、そして、誘拐された商社令嬢の親友である女子大生(加藤夏希)の5人。ストーリーはきちんと定石に則って、70分の枠内で事件の発生から仲間集め→計画立案→実行と描いていく。それぞれのキャラ描写も過不足なく的確。なかでもド素人の女子大生が、成り行きとはいえ救出ミッションに加わってM-16アサルトライフルをブッ放してゲリラをやっつける…などという荒唐無稽がそれほど不自然に感じないのだから、これはかなり巧みな脚本(緒方彩子+安部陽子+室賀厚)と言えるのではないか。肝腎のゲリラ・キャンプでのアクション・シーンが百戦錬磨のフィリピン人スタッフまかせな感じで、どうにもズサンかつ呆気ないのだが、室賀厚は下手ではあっても見得の切り方だけは心得てるので、安心して観ていられる。脱出の件りで、爆風で空中のヘリがぐぉんと飛ばされるカットがあるんだけど、あれはまさか実写じゃないよなあ。 ● ヒロインの加藤夏希(17)が素晴らしい。大人っぽい顔つきに、ようやく実年齢が追いついてきた感じだ。いい女優に化けるかも。 原史奈(21)もとりあえずポーズはサマになってる。 誘拐される令嬢に上杉梨華。 身代金惜しさに彼女を見殺しにしようとする本社社長に片桐竜次。

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デアデビル(マーク・スティーブン・ジョンソン)

スパイダーマンと同じマーヴェル世界に属していて、やはりスパイダーマンと同じくニューヨークを縄張りとするデアデビルは、子どもの頃に産業廃液の緑色のスライムを眼に浴びてしまい、視力を失った代わりに他の四感+第六感が超人的に発達した、いわば悪魔の毒々スーパー・ヒーローである。「デアデビル」とは、直訳すれば「勇敢な+悪魔」というニュアンスで、全身 赤のレザースーツの頭部に小さい角が2本…というコスチュームは悪魔(=デビル)のコモンイメージの援用。また「デアデビル」一語として「向こう見ず」「蛮勇」という意味がある。昼間は堅気の(盲目の)弁護士をしており、弁護士としての力不足から裁判に負けて、刑務所に送りそこねた被告人を、夜になるとコスチュームに着替えて血祭りにあげるという、非常にパーソナルな活躍を続けるスーパー・ヒーローである。これをベン・アフレックが演じているわけだが、えー、目は心の窓と申しまして、ただでさえ大根役者のアフレックから感情を表す「目」を奪ってしまうとはまさしく蛮勇というほかない。このデアデビル氏、かなりの女たらしであり、童貞少年のスパイダーマンと違って、カノジョとのデート中に「窮地に陥る市民の声」が聞こえても無視。とりあえずヤレる時はヤルという姿勢を貫く姿勢が清々しい。ここでベン・アフレックの起用が説得力を持ってくるわけですな。裁判中の姿勢も(女を引っ掛けるときと同じく)自信満々で傲慢そのもの。貧乏くさく無精ひげ生やしてたりして、あれじゃ裁判に負けるのも無理はないと観客に思わせるあたりはサスガ>ベン君。 ● 根はいい奴なんだがいささか強引で いつも女にフラれてる同僚という「サラリーマンもの」の定番キャラに「スウィンガーズ」の頃から体積倍増のジョン・ファブロー。 キャットウーマン的な悲劇のスーパー・ヒロイン=エレクトラにジェニファー・ガーナー。女子プロレスラーにしてはキレイだけど、やっぱ女優としてはゴツ過ぎ。2本のサイをあやつる敏捷系のキャラのはずなのに、どうも体のキレがのったりしてて怪力系に見えてしまうのだ(※このあと「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を観て、この人がレスラーではなく「本職の女優」なのだと気づいた) 悪の親玉キングピンにマイケル・クラーク・ダンカン。 殺し屋ブルズアイを楽しそうに演じるのがコリン・ファレル。アイリッシュのズーズー弁で,傍若無人で、おそらく今まででいちばん地に近い役と思われる。 ● 監督・脚本は原作コミックスの熱狂的な愛読者だというマーク・スティーブン・ジョンソン(「サイモン・バーチ」) 原作のファンだから原作に忠実に…という姿勢はわからんでもないが、たしかに原作の設定とか衣裳とかキャラの外見は似せてるかもしらんが、いちばん肝腎な「カッコ良さ」を移植することに失敗している。慎重すぎて大胆さが足りないのだ。大胆さが足りないから外連味に欠ける。外連味に欠けるから、この映画にはたとえば「シビれるような一枚絵」が無い。くぅーっと唸ってしまう場面が無い。 ● ストーリーにしてもそうだ。なにも生い立ちから延々やるこたぁないのだ。父親役のデビッド・キースの好演を切るのは惜しいが、そこらは ばっさりカットして、本題たる「エレクトラとのラブ・ストーリー」に全篇を費やすべきだった。1時間43分で「ラブ・ストーリー」と「父の仇討ち」を両方というのは欲張りすぎ。だからエレクトラの「変身」が描写不足になり「愛するもの同士が剣を交える」というドラマチックであるべきシチュエーションがちっとも盛り上がらないのだ。それとこれは観客全員がそう思ったはずだが、自分が裁判で取り逃がした奴は八つ裂きにして処刑するくせに、最後の最後でニューヨークのすべての犯罪の裏にいるという大悪党で、しかも父の仇であるキングピンを殺さないのは納得できん。続篇のために生かしておく必要があるのであれば「なぶり殺しにしようとする最中(さなか)に警察が到着」すれば済む話ではないか。 ● オープニング・クレジットは「摩天楼の窓明かり」が点字になる…ってのは、じつは本作を観てるときは判んなくて、あとで同趣向の「the EYE アイ」を観て気付いたんだけど。しかしアレだな。最近じゃハリウッド行けば「摩天楼の3Dデータ」とか売ってそうだよな。あと、終盤の教会のパイプオルガン裏での場面は監督が「座頭市の歌が聞える」(1966)を観て・・・無いだろうなあ多分。

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ネメシス S.T.X(スチュアート・ベアード)

新シリーズになってからは英語副題で小さく「STAR TREK」と入ってる状態が2作つづき、やっと前作で「スター・トレック 叛乱」とメイン・タイトルに昇格したと思ったら今度は「S.T.X」である。どうやら「ター・レック10」の略号らしいが(最後の「X」はローマ数字の「10」なのでピリオドが付かない)、てえことは「エス・ティー・エックス」じゃなくて「エス・ティー・テン」と読むわけね。だあれも解からんて。てゆーか、トレッキーならそんな副題なくてもこれが映画版「スター・トレック」だということは先刻承知だろうし、一般の人には「S.T.X」なんて言っても通じないんだから、つまりこの「S.T.X」というのは(10年前のアルバート・ピュン作品「ネメシス」と区別する目的以外には)誰に対しても何の意味もない不思議なサブタイトルなのだ。 ● ストーリーは、宇宙を支配するアメリカ連邦から見れば辺境に位置するアラブ人の帝国にクーデターが勃発。虐げられてきた少数民族であるクルド人の一派が政権を奪取する。しかもリーダーは白人だという噂だ。アメリカ連邦はUSSエンタープライズを派遣するが、クルド人を率いる白人テロリストはピカード船長らを出し抜き、ニューヨークに大量破壊兵器をブチ込むべく地球へと向かう。エンタープライズは、アメリカ人も嫌いだがクルド人はもっと嫌いなアラブ軍人たちの助力もあり、決死のカミカゼ・アタックでかろうじて勝利をおさめる…というもの。今回の主役はピカードではなく、データという名の義侠心に篤い陽気な白塗りの中年男が務める。 ● 今回、メガホンを取ったのは「エグゼクティブ・デシジョン」「追跡者」のスチュアート・ベアード。シリーズのそれほど熱心なファンではない おれが言うのもなんだが、あんまり「スター・トレック」っぽくない感じがした。なんか作劇も演出も乱暴なのだ。かといって宇宙活劇としては物足りないし、おれはやっぱレギュラー出演者とかが監督したほのぼのコメディ路線のほうが好きだな(←それはそれで誤解してる気が…) アラブの美人軍人に「スターシップ・トゥルーパーズ」のダイナ・メイヤー。エンド・クレジットによるとロン・パールマンが出てたようだが特殊メイクのせいで気付かなかった。X-MEN 2」のブライアン・シンガーもカメオ出演してるらしい。

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ミー・ウィズアウト・ユー(サンドラ・ゴールドバッカー)

寅さんがラストシーンで「とらや」の小市民の面々に送ってくる年賀状には下手な字で「思い起こせば恥ずかしきことの数々」と書いてあるけど、本作は2001年(この映画の製作年)に40歳となった…つまり1961年生まれの幼なじみのヒロイン2人の、パンクロック全盛時代に黒いビニールのゴミ袋ドレスを着込んで兄貴のドラッグ・パーティーに押しかけてヘロイン射たれてヤラれちゃったりとか、ニューロマが席巻した大学時代に背伸びしてアメリカから来たハンサムな大学教授を取り合ったりとか、三十を前にして急にコンサバになってステータスを自慢しあったり…といった青春時代の思い起こせば恥ずかしきことの数々を綴るイギリス映画。女2人の友情/嫉妬を描いたドラマであると同時に、風俗映画としての側面も強く、思わずわが身を顧みて赤面すること請合いの現在40歳前後の女性にお勧めする。<ずいぶんピンポイントやなあ。 ● 2人のヒロインのうち、比較的キレイで奔放で尻軽なタイプに「スカートの翼ひろげて」で尻軽の美容師、「マネートレーダー 銀行崩壊」ではユアン・マクレガーの同僚/妻を演っていたアンナ・フリエル。比較的ブスで保守的で内向的なタイプのユダヤ娘に「スピーシーズ 種の起源」でナターシャ・ヘンストリッジの少女時代を演じ、「ドーソンズ・クリーク」のレギュラーで大ブレイクしたミシェル・ウィリアムズ。どちらも実年齢は現在20代前半。アンナ・フリエルだけでなく(アメリカ人で、本国ではアイドル的な人気のある)ミシェル・ウィリアムズまでちゃんと脱いでるのが偉い。ただ、最初の1973年パートに出演してる子役はミシェル・ウィリアムズ役のほうがナタリー・ポートマン似のユダヤ美少女で「子役の配役が逆では?」と思った。 女ったらしの大学教授にカイル・マクラクラン。 監督・脚本は女流の新人サンドラ・ゴールドバッカー。

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ドリームキャッチャー(ローレンス・カスダン)

よくよく考えて、やっぱ星ひとつ増やした(火暴) B級ジャンル映画ファン以外にはお勧めできない代物なのだが、それでも おれはこの映画が大好きである。 ● スティーブン・キングの小説の舞台となる〈架空の町〉の名を社名に冠したキャッスルロック・エンタテインメントの製作。これまで同社が手掛けてきた「スタンド・バイ・ミー」「ミザリー」「ニードフル・シングス」「ショーシャンクの空に」「黙秘」「グリーンマイル」「アトランティスのこころ」といった路線からすると、本作はめずらしく派手な内容なのだが、これは「アトランティスのこころ」に続いて膨大な原作を2時間15分に縮めるという荒療治を行った名脚本家ウィリアム・ゴールドマンも、さすがに「そう、なんでもかんでも『スタンド・バイ・ミー』に出来るかよ!」ってことなんでしょうな。 ● 患者の頭の中が見えてしまう三十男の精神分析医。そしてやはり三十男の、試験会場に居なくても学生のカンニングが分かってしまう大学助教授。…と、最初に2人、登場人物が紹介された時点で(そしてこれがスティーブン・キング原作だと知っていたなら)観客には、これが「IT」のバリエーションであり、おそらくあと2人、同じような主人公が居るだろうことも想像がつく。その予想は裏切られず、子どもの頃の秘密を共有する親友4人組が雪深い故郷の山小屋に再会したところからドラマの幕が開く。観客に予測できるのはここまでで、ここから先は次から次へと予測を裏切る展開の連続で最後まで(特殊な)観客の期待は裏切られることがないだろう。これで監督がいまひとつお行儀の良いローレンス・カスダンじゃなくて、もっとB級映画の勘どころが判ってる(つまり下品な/悪趣味な)監督が手掛けて、上映時間が2時間を切っていたなら満点にしてたかも。これを言ってしまうとジャンルが特定されてしまうので黒文字にしておくが[「サイン」にガッカリ]したB級ジャンル映画ファンにお勧めする。 ● ビリング・トップはモーガン・フリーマンだが(「ベティ・サイズモア」同様)かれは主演ではない。どっちかつーとドナルド・サザーランドとかジーン・ハックマンの役どころである。おそらく観客の目には、終盤の行動がメチャクチャなものに写ると思うが、これはフリーマンの演技に説得力があり過ぎる弊害であって、あのキャラをサザーランド/ハックマンに脳内変換してみれば誰も疑問に思わぬはず。演技が上手すぎるのも考えものですな。 そしておお! 真珠湾とノルマンディとソマリアを戦い抜いた男=トム・サイズモアがまたもやこんなところに転戦して今度はあんな相手と(!) 肝心の主役4人はほぼ無名の俳優ばかり。唯一、メガネをかけたジェイソン・リーが、二言目には「そんなバナナ!」とか言うブルース・キャンベル的な役まわりで好演。 またマークの兄ちゃん=ドニー・ウォルバーグが「シックス・センス」の演技をリピートしている。 女っ気は皆無。 ● ちなみにおれの「Tシャツにプリントしたい標語」ベストワンが「ショーガール」の「LIFE SUCKS」(胸)「SHIT HAPPENS」(背中)以来、ひさびさに更新されたのでご報告申し上げておく。それは「SSDD」という略語で、意味は「SAME SHIT, DIFFERENT DAY(日が変わっても同じクソ)」。 なお、ここだけの話だが、本作の脚本にクレジットされている「ウィリアム・ゴールドマン」とはじつは石川賢の変名である。

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キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(スティーブン・スピルバーグ)

うーん。こういうのがいちばん感想に困る。けっして退屈なわけじゃないんだが、なんでこんなに長いのか。どー考えたって2時間20分もの映画にする話じゃない(適正は1時間40分以内だろう) トム・ハンクスは「ロード・トゥ・パーディション」と違って今回の役は柄に合ってるはずで、じっさい悪くはないんだが「かつてのかれ」を知る身としては、コメディ映画のトム・ハンクスがこんなに鈍重であっていいはずがないという思いが拭いきれない。レオナルド・ディカプリオもハンサムには違いないが「笑顔とパイロットの制服で女子イチコロの色男」というには幼すぎるでしょ。その父親を演じるクリストファー・ウォーケンの演技は素晴らしく感動的なんだが「親子の情」とかは隠し味に使うから粋なんであって、こう愁嘆場を強調されたんじゃ軽快であるべき話が湿ってしまう。母親のフランス女にナタリー・バイを連れてきたのは慧眼だが、これが、近作「バルニーのちょっとした心配事」での変わらず美しい彼女と較べても、まったくパッとしないのはやはり演出家の手腕だろうし。あと「デアデビル」の女子プロレスラーが何でこんなとこに居んの?(…って、調べてみてビックリしたのだが、ジェニファー・ガーナーって本職の女優だったのか! こいつガタイがゴツくて筋肉モリモリだし、てっきりWWEあたりのプロレスラーなんだと今の今まで思い込んでたよ。いやマジ、マジ) ● なんか文句ばかり付けててアレだけど、一流の厨房に一流の食材を揃えたのにシェフの手際が悪くて冷めた料理を食わされた気分。食材に敬意を表して星3つ。


アカルイミライ(黒沢清)

わからん。つまらん。 ● 不快な現実を見せられて心がすさむばかりで、おれにはどこにもアカルイミライなど視えてこなかった。終盤にSF的展開があるのかも?と思って我慢して最後まで観ていたんだけど、結局、なんだかわかんないまま終わってしまった。なに、オダギリジョーって、ああやって町から逃げ出すのが「ゴー」なわけ? コイズミジュンイチローとかブチ殺しに行くんじゃないのかよ。え、なに、そういう映画じゃないの? ● 作者である黒沢清 自身の立ち位置は見た目もそっくりな藤竜也にあるのだろうが、この藤竜也の存在がまたわからない。「壊れたら捨てる」世の中で、コツコツと壊れたもの/旧いものを直し続ける男という「設定」は理解できるが、だから何? この物語において彼は「修理者」ではないし「保護者」でも「教育者」でもない。「乗り越えるべき壁」ですらない。おれには「ただひたすらダメな中年男」にしか見えないんだけど、黒沢清は自己否定してるわけ? ほんとようわからんよ。 ● それはおれがすでに浅野忠信やオダギリジョーではなく「若者にすり寄って痛い目に遭う55歳のオヤジ」により近いってことなのかもしらんし、若い人が観ればこれが彼らにとっての「十九歳の地図」(尾崎豊じゃないぞ。柳町光男のほうだ)に写るのかもしらんが、少なくとも今のおれにとっては、表参道を我物顔で闊歩するチェ・ゲバラTシャツの高校生団や、北村道子のズタボロでオシャレなのが厭味な衣裳と同じくらいムカつく代物でしかない。 ● ビデオ撮り。ソニー・シネアルタのHDビデオと、民生用ハンディカムを併用。ハンディカムの場面になると途端に画質が落ちる。画調はトーンカーブの下のほうをすべて黒に落としてしまう(=ある明るさから下は全部、真っ黒にしてしまう)という乱暴な方法で黒の締りを実現して、あとはクラゲ合わせ。フィルム撮りした後に色味をいじってる「回路」あたりと結果的には大差のないルックになっている。

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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード(水島努)

シリーズ第11作。本作から監督が原恵一から、今までもっぱらギャグ・シーンの演出と絵コンテ(≒脚本)を担当してきた水島努にバトン・タッチされた。御上から誉められた直後でもあり、今度は必ずや思いっきりクダらないギャグ路線へと回帰するであろうことは予想のうちであり、異議はない。だが、残念ながら出来のほうがいまひとつ。いや、誤解してくれるな。おれは「オトナ帝国」や「戦国大合戦」と較べて出来が悪いと言ってるのではない。原恵一の監督就任第1作の「暗黒タマタマ大追跡」や、それに続く「ブタのヒヅメ大作戦」「温泉わくわく大決戦」と比べて完成度が低いと言っておるのだ。 ● 埼玉県・春日部市は野原家の台所の冷蔵庫に眠る、苦しい家計のなかから切りつめて切りつめて やっとのことで買ってきた最高級ヤキニクのためにはなにがなんでも晩飯どきまでには家に帰るのだ!という死ぬほどクダらんプロットは「素晴らしい!」としか言いようがない。水島が得意とする「追っかけ」で全篇のほとんどを構成するという「基本戦略」も間違っていない。じっさいに個々の「追っかけ」シーンは動画・演出ともに力があるし。だが、その戦略を効果的に実現するための「脚本」に難がある。だってあーた、せっかくの焼肉デーに限って「正体不明の謎の秘密組織」が野原一家を拉致して熱海にある本部へ連行しようとする。野原一家は敵の手を逃れるうちバラバラになりながらも、敵のボスに会って誤解を解くべく、それぞれに敵の本部がある熱海を目指す──。え、話が理解できない? しょーがないなあ。もう1度だけ言うぞ。次から次へと野原一家に襲い来る敵の魔の手。はたしてしんのすけたちは、捕まって熱海へ連れて行かれることなく、無事に熱海へ辿り着けるのか!? えーと・・・バカですか?>水島努。てゆーか、それじゃ話が進めば進むほどゴールであるヤキニク(=春日部)から離れちゃうじゃんか。なにを考えておるのだ。物語(=エモーション)に奉仕しない画力はどこまでも無意味だ。 ● 「オトナ帝国」「戦国大合戦」とシリアス路線が2本 続いたことの最大の危惧は、あんまりしんのすけを精神的に成長させてしまうと「おバカな5歳児」という根本設定が崩れてしまうということであり、本作は、ここらで一旦「クレヨンしんちゃん」というキャラをリセットする役割を負っていたと思うのだが、そのわりには、しんちゃんの「おバカ度」「イーカゲン度」「エロガキ度」も物足りない。 4人 出てくる悪役キャラも誰ひとり魅力的じゃない。なかでも「キルゴア中佐」「コッポラ本人」をモデルにしたとおぼしき2人がサイアクである。本シリーズにおける「子どもに解からぬ映画パロディ」を否定はしないが、それはあくまでも元ネタが解からなくともギャグとして面白いのが前提であって、本作におけるキルゴア中佐もどきの、なにかというと「地獄の黙示録」の台詞を引用したり、サーフィンに言及したりするのは少しも可笑しくない。あれなら普通に、黒スーツ&サングラスの「冷徹な悪役」キャラにしといたほうが、あとの「おとぼけ」と「熱血」の2人もよほど引き立つというものだ。 ひさびさの女性タレントのゲスト出演である華原朋美も、しんちゃんと絡まないのでは意味がない。水島努にはぜひとも来年の捲土重来を期待する。 ● てゆーか、いつも「しんちゃん」と同時期に公開して、いまや「ポケモン」を越えようかという勢いの「名探偵コナン」を始めとして、現在、東宝のアニメ枠は満杯状態なので、はっきり言って「クレヨンしんちゃん」は成績が下降したら(たとえそれでもまだ東映の邦画の3倍の数字だとしても)いつ打ち切られてもおかしくないという、常にサドンデス状態なのだ。映画を「商品」としてしか見ていない東宝のこと、「クレしん」が無くなれば「ハム太郎」を1本立てにしてGWに持って来れるし…とか考えてるに違いないのだ。だから来年も映画版「クレヨンしんちゃん」を作って欲しかったら、当サイトの評価など意に介さずお金を払って見に行くべし(金券ショップの利用不可

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エルミタージュ幻想(アレクサンドル・ソクーロフ)

ロシアの異才 アレクサンドル・ソクーロフの「モレク神」に続く〈歴史4部作〉の第2弾。原題は「ロシアの方舟」。ロシア帝政の亡霊を乗せて北の海にただようエルミタージュ(=フランス語で「隠れ家」)という名の巨大な方舟の内部を余すところなく90分ワンカット一発撮りという離れ業で描いた偉業/異形の映画。 ● チラシの惹句には「映画史上初!! 驚異の90分ワンカットの映像」とあるが「90分ワンカット」に関しては(少なくとも)マイク・フィッギス「タイムコード」(2000)という前例があるので「映画史上初」というのは間違い。但し「タイムコード」の公開バージョンは15テイク目なので(←これはこれで凄いが)「90分ワンカット」でしかも「ファースト・テイク」という暴挙は たしかに本作が「映画史上初」だろう。なにしろすべてが国宝級の美術品を展示したままのエルミタージュで撮影するために美術館がクリスマス休暇の12月23日を選んで、照明が設置できないから自然光だけで撮るためにロシアの短い冬の光が射す4時間の間に撮影を終えるべく(ソクーロフが本作以前とこれ以降に撮るすべての作品の全出演者を合わせてもこれほどの数にはならないであろう)867人の俳優とその他に数百人のエキストラとカメラばれしても大丈夫なように王朝風の衣裳を着こんだ22人の助監督を含む撮影スタッフが「せーの!!」で一発撮りをしたというのだから、まこと正気の沙汰ではない。 ● 撮影にはソニーのHDカム「シネアルタ」を使用。体力勝負のステディカム(=カメラマンが撮影用カメラを抱えたまま歩き回っても画像がブレないよう装着するハーネス。「蕎麦屋の出前バイク」「大リーグ・ボール養成ギプス」をヒントに考案された←ちょっと嘘)をみごと最後まで操作したのは、「ラン・ローラ・ラン」でもステディカム・オペレーターを務めたドイツ人カメラマン、ティルマン・ビュットナー。なにしろひとつの展示品の前に1分間 立ち止まっていたらすべてを見終えるのに5年かかるという巨大な美術館の、ほぼ端から端までが舞台となるのである。その移動距離もハンパじゃない(なんと1.3km!) ● 内容は「海の上のピアニスト」や「ゴーストシップ」のボールルームとか「シャイニング」のゴールドルーム・バー、あるいは「乙女の祈り」の〈空想の王国〉のシーンが90分続くと思えばよい。絢爛たる衣裳に身を包み、しかし(フィルムレコーディング特有の)色味のうすい、死人のように真っ白の肌色をした貴族たちがゆらゆらと宮殿の中をたゆたう。カメラは監督自身の一人称視点となり、ロシア語でなにごとかを呟きながらエルミタージュの中をゆっくりと進んでいく。各間には──おそらくロシア人ならば「おお、あれは松の廊下」「あいや、こなたは池田屋二階」と瞭然なのだろう──観察者の存在にも気づかぬ歴史上の登場人物たちが、それぞれの時を過ごしている。いわば、死を目前にした老人の、脈絡のない追想のようなものであってドラマとしては退屈きわまりないのだが、その最後に用意された絢爛たる大舞踏会が幕を閉じ、おおぜいの着飾った貴族たちが階段を下りて玄関ホールを抜け宮殿を出てゆく長い長い退場シーンに漂う「ああこの時代はもう二度と還ってこないのだ」という寂寞感の生々しさは、おそらく「ビデオ撮りだからこそ」のものであって(全体としてはいささか退屈なれど)この映画には一見の価値がある。惜しむらくは「ニコライ2世の家族の穏やかな朝食風景」の場面で振り向いた少女の顔が血塗られていたならば完璧だったのだが。<間違った期待。なお渋谷ユーロスペースにて2日間だけ行われた本作のハイビジョン上映については別稿に記した。 ● なお、スペシャル・サンクスの筆頭にマーチン・スコセッシの名がある。さて、次作は(当初の予定どおりならば)いよいよ日本のヒロヒトを描くものになるはずで、ユーロスペース関係者とともに戦々恐々としながら完成を待ちたい。

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タイムコード(マイク・フィッギス)

[輸入ビデオ観賞] 「リービング・ラスベガス」のマイク・フィッギス監督、2000年の日本 未輸入作。なぜDVD/ビデオすら発売されないかというと理由があって、それはこの映画には字幕がつけられないからだ。 ● 説明しよう。本作は最初から最後まで画面が4分割されていて、30人ものキャストによって基本的なストーリーライン以外の台詞はすべて即興で演じられるロバート・アルトマン「プレイヤー」的なドラマを、LAの4箇所で「せーの!!」で廻しはじめた4台のデジタル・ビデオカメラによる90分ワンカット×4で記録したものなのだ。当然この4つの画面は時間的にシンクロしていて、ときにAのカメラとBのカメラが1つの場面を2つの角度から写すこともあり、それまで俳優Cを追いかけていたカメラが、画面を横切った俳優Dのあとを付いて行ったりする。ただ、人は4つの映画を同時に観ることは出来ないので、4つのうち、その時々でメインとなる画面のみ、音声が通常音量になり、あとの3つの音声は絞られる(が、そのあいだもドラマは進行している) つまり言い方をかえれば「4台のカメラで撮ったテレビの生ドラマを、編集なしで そのまま4つの画面で見せている」ようなものだな。あるいは「ブギーポップは笑わない」の6つのパートを6分割画面で同時に…もういいですかそうですか。さらに恐ろしいことに公開されたバージョンは15テイク目だそうで、この人たちはこんなこと2週間で15回も繰り返したんだそうだ(DVD版には一部、出演者の異なるファースト・テイクも収録されている由) ● メインとなるのは4人。女優の卵のサルマ・ハエックと、そのレズ恋人…というよりパトロンの金持ち実業家ジーン・トリプルホーン。映画プロデューサーのステラン・スカルスゲールドと、その妻サフロン・バロウズ。サルマ・ハエックはもちろん野望の女なので映画プロデューサーと寝てる。もはや完全にアル中のプロデューサーは、次から次へと持ち込まれるクダらん映画の売り込みに心底ウンザリしてて、引退してイタリアで暮らしたいと夢見てる。妻はノイローゼ気味で精神分析医(グレン・ヘドリー)の帰りに夫のオフィスに寄って衝動的に離婚を告げると、ブックストアのトイレで泣いてるときに出会った女優(レスリー・マン←エロっぽくて素晴らしい)とベッドインしてしまう。一方、恋人の帰りをオフィスの前に停めたリムジンの後部座席で待っているジーン・トリプルホーンはオーディションが長引いて(ほんとはプロデューサーとおまんこしてるんだが)なかなか戻ってこないのにイラついて・・・といったストーリーに、さらに細かいワキ筋がいくつも絡んで来て、最後にはいちおうカタルシスティックな大団円を迎える。 ● 他に、映画会社の無能な重役にホリー・ハンター。取引先からの「ギフト」としてオフィスに派遣されてくるマッサージ師にジュリアン・サンズ。インチキな映画を売り込みに来る山本又一郎にカイル・マクラクラン。まあ、15回もやってこんな程度か?ちゅう話もあるが、完成度は別にして話のタネに観るぶんにはまったく退屈しない。てゆーか、サブの画面で濡れ場が始まると気になって仕方がない自分が厭だ。 ● さて、こんな次第だから字幕の付けようがないのだ。各画面の下に字幕を付けるわけにもいかないし、通常位置に字幕を入れると下2つの画面が半分ほど字幕で隠れてしまう。だいたい誰が喋ってる台詞だか判りにくいだろ? 吹替えにしてしまえば解決するのだが、やっぱり吹替版のみだと商品(DVD)として成立しにくいんでしょうな。…って、アップする前に、念のために検索してみたら、いつのまにか「スターチャンネル」で放映されてたみたい。どーやって字幕つけたんだ!? [追記]BBSに書き込んでくださったテスケレさんの記憶によると、スターチャンネル版の字幕は[実際に出る字幕は1つ(たまに2つ)で、字幕の位置はメインの画面に被らないように、右端・左端・上・下と縦横無尽に動き、画面の中心には「今の字幕はここ」を示すマークか矢印がつく]というアクロバティックなものだったそうだ。

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ホーンテッド・キャッスル(ベン・スタッセン)

いちおうジャンル映画なのでチェック入れてみた。ベルギー産の3Dアイマックス映画である(40分) デビューしたばかりの若きロック・ミュージシャンが、幼い頃に生き別れた母の遺産としてイギリスの古城を相続する。城を訪れた主人公は不思議な霊に誘われるまま奇怪なダンジョンに迷い込む…。基本的にはCGの3Dアニメで、唯一の登場「人物」である主人公のみ、ベルギーのロックバンドの(たぶん彼の地では)人気ボーカリストを実写で取り込んでいる。つまり「ロジャー・ラビット」のアニメ・パートと同じ仕組みなのだが、3D−CGアニメを3D撮影することによって、かなりのリアル感を達成している。まあ、昨今のCGゲーム画面を見慣れてる人にはどーってことないレベルかも知れんが。 ● 本作の大きな特色が、ほとんどの場面を主人公の一人称視点で製作している点で、地下のダンジョンを高速ケーブル・ゴンドラで疾走していく趣向は、よーするにユニバーサル・スタジオにある「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ライドを3Dでやってるわけだ。もちろんアイマックス・シアターでは椅子は動きゃしないが、3D効果で体が勝手に揺れてしまうから大したもの。ところが、ところどころで三人称視点で主人公を写してしまうので、せっかくの趣向も台なし。最初から最後まで一人称カメラで通せばよかったのに。 ● 未熟なストーリーや、カメラの不自然な移動スピードなど、現時点では試み以上の評価はできない代物だし、ジャンル映画ファンにもお勧めは しかねるが、新しもの好きなら一見の価値はあるかも。 ● 品川プリンスシネマと同じ建物の上層階に位置するメルシャン品川アイマックス・シアターに行くのは今回が初めて。スクリーンサイズや場内レイアウトは新宿にあった東京アイマックス・シアター(現在のテアトル・タイムズスクエア)とほぼ同一。3Dメガネが、新宿で使用していたイヤー・スピーカー付のゴツイやつから「ゼイリブ」タイプの黒サングラスに変わっていたのはたいへん結構(おれ、あの重たいメガネをかけるのが厭で3D作品を敬遠していたのだ) ちなみに おれは映画サービスデイ(1,000円)の夜の回に行ったのだが、それでもお客さんは7、8人。普通の日なら「広大なアイマックス・シアターに1人きり」という恐怖映画体験ができる可能性はかなり高いと思われる。上映前に冠スポンサーのメルシャン・ワインのCMがかかるが、他のアイマックス作品の予告篇は無し。なぜだ!?(「スペース・ステーション」の予告、観たかったのに…) てゆーか、潰れちゃうとヤなのでこっそり言うが、いくら出してるのか知らんが、あれじゃ宣伝効果はまったくないぞ>メルシャン株式会社。

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ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔(ピーター・ジャクソン)

予告篇の冒頭に「第1部は〈序章〉でしかなかった!」と出たときは「おいおい」とヘラルド宣伝部に心の中でツッコミを入れていたのだが・・・いや、ほんとうにそのとおりだった。前作は2時間58分の長い長い長い物語設定とキャラ紹介だったのだ。典型的な連続活劇のストーリー・パターンと御都合主義的展開──予告篇で「潮の変わり目にわしは戻ってきた」つってあのおっさんが出てきたときにゃ椅子からコケたぜ──によって語られる気高き騎士たちの剣と勇気と希望の物語。魑魅魍魎の徘徊する異世界を舞台にした詩的で荒々しいアクション・エピック。必見。 ● 基本場面はすでに三部作一括撮影済とはいえ、SFXなどは前作からさらに改良され、コビト族の首の合成も自然になってるし、自然な色味のシーンも増えている。トンガリ耳フェチの皆さんからの不満を受けて今作ではヴィゴ・モーテンセンがリヴ・タイラーのトンガリ耳を愛撫するエロティックなシーンも用意されている。新キャストとしてブラッド・ダリフまでがブラッド・ダリフの役で出てくる。前作でとやかく言われた戸田奈津子の「どうだこれで文句あるか」と言わんばかりの格調高い字幕も素晴らしい。 ● 成功の最大要因は(原作がそうなんだそうだが)指輪を持つイライジャ・ウッドが担当する「モラル」テーマの部分と、ヴィゴ・モーテンセンらの担当するアクション場面をすっぱり分けてしまったこと。つまりこの第2部では(互いに補完しあう)別々の話を変わりばんこに語っているのである。これにより物語がスッキリした。そして、ともすればうじうじと陰鬱になりがちな「モラル」テーマのパートには、ユーモラスなフルCGキャラのゴラムを配してバランスをとっている。じつはゴラムというのは身の内に「かつての善良な心」と「指輪の魔力で歪められてしまった邪悪な心」が相克するという「指輪物語」全体のテーマを象徴するかのような重要なキャラなのだが、それを落語の与太郎と熊さんの掛け合いのようなコメディ・リリーフとして処理するという戦略が功を奏した。地元ニュージーランドのWETAデジタルによる(俳優の演技と動きを元に作成された)CGアニメーションは見事の一語。「ハリ・ポタ」の召使い妖精ドビーは言うにおよばず「EP2」のヨーダをも凌駕する存在感で、まさしく全篇のキー・キャラクターと成り得ている。 ● ゴラムや圧巻のモブシーンなどCGのクォリティが素晴らしいので、すべてがCGで処理されていると思ってしまいがちだが、じつはミニチュア班・美術班の貢献も大きく、劇中の城や民家は現実に建てられたものだし、「悪の塔」も高さ8メートルのミニチュアが製作された。兵士がつける甲冑は実際に一着ずつ鋳造され、のべ4万8千着が作られたそうだ。 ● 愚かにもおれは第2作を観るまで気づかなかったが、この世界では「森と水は善」で「鉄と火は悪」なのだな。森と水はつねに主人公たちを救い、匿い、ときに生命を再生し、穢れを浄化する。対して、鉄は森を焼き払った炎から作られ、例のゾンビ兵たちは明らかに鉄鋼製品の謂である。なによりこの物語最大の悪役は「真っ赤に燃える炎」なのだ。なるほどアメリカでヒッピーの聖典となるわけだ。 ● 褒めるばかりではアレなので欠点も挙げておくが、やはり2時間59分は長い。どんなに出来が良くとも2時間半ぐらいでダレてしまう。それと相変わらず地図の表記が英語なのは興醒めだし、距離を表すのにマイルを使うのは止めてもらいたい。おまけにコビト族の好物はフィッシュ&チップスだし。あと、これは物語の構成上しかたがないんだけど、前作のラストで登場してあれだけ強そうだったゾンビ兵軍団が意外と弱いのもなんだか…。それと、イライジャ・ウッドが持ってる「エルフのロープ」やら「エルフのマント」って前作で貰う場面 出てきたっけか?[追記]DVDのロング・バージョンには入ってる由。 ちなみに他の19個の指輪の顛末はやはり語られぬまま。 ● 先行オールナイトだったのでコスプレして来てるバカファンが何人か居て、でも映画を観るには帽子やら付け髭やらが邪魔なので、席について場内が暗くなってからコソコソと外してるのだった。お前ら新宿タイガーマスクか!

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処女(カトリーヌ・ブレイヤ)

「ロマンスX」「本当に若い娘」の女性監督カトリーヌ・ブレイヤの、いつもの、挑発的な、つまらないソフトポルノ(なら観に来るなよ!>おれ) 間違っても「社会を覆う〈処女〉の概念に大きな問いを投げかけた美しい衝撃作」などではない。話は「ひと夏の体験」+「似てない姉妹の友情/反発」もの。ウケねらいがミエミエの理不尽なラストに唖然とする。15歳のお姉さんを演じるリヴ・タイラー/ミラ・ジョヴォヴィッチ系のロキサーヌ・メスキダは撮影時18歳@ヘアヌード有り。 ● 東京地区の上映館である渋谷のシアター・イメージフォーラムは2館あるので、タイトルを言わないとチケットを買えないわけなんだが、おれの前にいた専門学校生らしき女の子2人組「えーと…処女で学生2枚」「学生証ありますか?」…うーん、いいかも(火暴)


近未来蟹工船 レプリカント・ジョー(松梨智子)[ビデオ上映]

バカ映画の女王=松梨智子の新作ビデオ。前々作「毒婦マチルダ」のレビュウで「映画以前の出来」と書いたが、今回はピンク映画の本職の照明マン、荻久保則男を撮影監督にすえたおかげで見た目がいちおう「映画」らしくなっている。それだからよけい始末が悪いのだ。「毒婦マチルダ」は映画にもなにもなっちゃいなくて何だかワカンナイけど、とりあえずどす黒いパッションとスピードだけはあった。ところが今回、中途半端にフツーの映画っぽい画面の中で「過剰なストーリー」と「叙述のスピード感」は停滞し、劇団「猫のホテル」の佐藤真弓を主演女優にしてみずからは演出に徹したせいで、自作自演ならではの「やけっぱちの愛嬌」といったものまで失われてしまった。あまつさえラストでは感動に落とそうとすらするのだ。あんた、こんな「バカ映画」でさえ無いフツーの映画作ってどーするよ?>マツナシ。 ● 自主映画作家には2つのタイプがある。ひとつは「生理や本能で撮る」タイプ。一般に女性映画作家はこちらが多い。ところが松梨智子はバカのように見えてじつはもう一方のタイプ。すなわち「頭で考えて戦略で撮る」タイプの監督なのである。労働者哀歌のストーリーにいまどき「蟹工船」を持ってくる中途半端な教養/センスからもそれが窺える。このタイプはゆくゆくは商業映画の世界へと進出していくケースが多いのだが、彼女の場合、悲しいかな「演出家」としての才能が絶対的に欠けている。律儀に(おそらく毎晩)劇場に詰めている姿を見ても御本人はとても「いい人」なんだと思う。だから残酷なようだけど今からでも(過剰な自意識とは折り合いをつけて)ほかの道へ進んだほうが幸せになれると思うぞ。 ● 俳優陣に関しては特筆すべきことはないが、月蝕歌劇団の三坂知絵子が「17歳の処女」ってのはなんか許せないもんがあるな。 それとヒロインのビンボ臭い衣裳はあれは自前なのか?(それとも演出意図?) 本当なら500円以上とっちゃいかん代物なんだが、BOX東中野の閉館番組ということで香典代わりに1700円置いてきた。御愁傷様ですお疲れさんでした>BOX東中野の皆さん。

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卒業(長澤雅彦)

「卒業」というよりは「アメリ女とダメ教授」といった趣きのラブ・ストーリー。やる気ない人気ない授業おもしろくない…の三ない大学講師(堤真一)@41歳独身。こんな男でも結婚してくれるという菩薩さまのようなカノジョ(夏川結衣)がいるにもかかわらず、プチ・ストーカーな二十歳の短大生(内山理名)に振り回されて・・・なんて紹介の仕方だとラブコメだと思われそうだがコメディの要素は皆無。しっとりと繊細(たいくつ)なラブ・ストーリーである。 ● これさあ…、いや…、内山理名はたいそう可愛い・・・かったんだと思うよ──オーディションを受けたときは。でも、いまの内山理名ってどーみてもブスじゃん。てゆーか、豚に似てない? この娘がグラビアとか雑誌の表紙になってんのとか見てても不思議でしょうがないんだけど、いまの彼女をアイドルとして遇することを誰も疑問に思わんのか? おれなんかこの映画 観てて、内山理名がアイドル台詞を言ってテヘッと微笑むたびに、すたすたとスクリーンに入ってって木槌で後頭部をスコーン!とやりたい衝動に駆られるんだけど。 ● で、また堤真一が、ダメ男ぶりが真に迫りすぎてて、なんでこんな優柔不断男に女2人が惚れるのかサッパリわからんのよ。女性陣はあれにウットリできるのか? だってあれ、堤真一が正直に「あ、おれ、夏川結衣とケッコンするんで。ゴメン。それにほら。キミ…豚だし」と言えば済むことじゃんか。まあ、最後まで見ればそうした演技も計算づくのことと解かるし、実際、堤真一は決して下手ではないのだが、いかんせんラブ・ストーリーの主演男優としての「華」に欠けるんだよなあ。じゃあ誰がいいって? そりゃもちろん「ダメ教授」とくれば我らがアベちゃん以外ありえないでしょう! おれなんか途中から堤真一の演技を阿部寛に脳内変換して「アベちゃんならもっと別のリアクションがあるぞ」とか「アベちゃんならそこでひとつ笑いをとるな」とかツッコミを入れながら観てたもんな。相手役は そうさなあ…「自分勝手なアメリ女」ってことでこの際、広末涼子でいいや。アベちゃんとヒロスエならこの映画、いまの百倍オモシロクなると思うんだがなあ…。<アンタ 嗜好が偏りすぎ。 ● 脚本は三澤慶子と長澤雅彦・長谷川康夫の共作。じつは本作にはちょっとしたミステリが仕組まれており、映画の中盤でとあるミス・リーディングが明らかになった時点でスッと靄が晴れたように話の全体像が見えてくる構成になっている。ところが長澤雅彦は、そのキーポイントの演出があっさりしすぎ。おまけに堤真一がもうアタマっから「わたしには辛い過去があります」「わたしの性格が暗いのは過去の傷痕が癒えぬせいです」という顔をして演技するもんだから、面白くも何ともありゃしない。これがアベちゃんなら、誰がどー見ても「生来のダメ人間」にしか見えないから、まさか過去にそんな辛い出来事があったなんて観客が考えもしないので「転換」がより劇的になるのになあ。 ● ヘタレ主役の2人に較べて、夏川結衣がじつに素晴らしい。ほとんど全篇、悲しいばかりの役どころなのだが、へんに陰気臭くなってないのがイイ。このところ、「陰陽師」「壬生義士伝」、本作、そして北野武の「座頭市」と、ようやく実力に相応しい評価をされてきているようで「夜がまた来る」以来のファンとしては たいへんに嬉しいぞ。 ● おれは日比谷のシャンテ・シネで観たのだが、ひとつ後ろの列に座っていた大学生風のバカップルが上映中ひっきりなしにヒソヒソと喋っていて──どうやらスクリーンの出来事をいちいち確認しあってるらしいんだが──まあ、注意して黙らせるほどの映画でもないので放っておいたのだが、映画が終わって女がひと言「ねえ、結局、○○○○って誰なの?」「えー、ワカんねー」 バ、バカすぎる…。いったい何を観て育ったらそこまでバカになれるのだ!? ● …と絶句して帰ってきて、いまチラシの裏面を読んだら・・・げげげ、このチラシ、映画の根幹を成すプロットを堂々とネタバラシしてるじゃねえか! 東宝宣伝部いくらが腐ってると言ったって、それが「サイコ」のシャワーシーンをバラすに等しい行いだと解からぬほどバカではないだろうから、おそらく解かっててやってるのだろう。なぜそんなバカな真似をしてるかといえば、これはもう、そこまで解説してあげないと客が映画の内容を理解できないからとしか考えられない。説話技法も何もあったもんじゃない。酷い時代になったものである。こんな時代に「物語ること」を商売にする長澤雅彦になんだか同情してしまったよ。

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プール(ジョン・ポルソン)

「ワイルド・シングス」や「クルーエル・インテンションズ」の成功で、二匹目のドジョウをあてこんだ企画なのだろう。ティーン版の「危険な情事」であることを隠そうともせず「そうだよこれはティーン版の『危険な情事』だよ。悪い?」と開き直って模倣しているティーン向けエロ映画(高校生が観られることが大前提なので「PG-13」指定にするため乳首露出はない) ● 高校水泳部のエース・スイマーが名門大学のスカウト視察を直前に控えて、ラブラブのカノジョがいるにもかかわらず、ゴージャスなプロンド美女の転校生に誘惑されてついついイッパツやってしまったら、そいつがとんだサイコ女で、主人公はすべてを失うはめになる…。 ● 企画意図そのものはたいへんに結構だし、終盤にいくにしたがって悪女ヒロインが「危険な情事」というより「13日の金曜日」のジェイソンみたいにエスカレートしていく下品な演出にも何の問題もない。主人公のジェシー・ブラッドフォード(「チアーズ」のパンクにいちゃん)と、黒髪の、庶民的なカノジョを演じる(「ロズウェル」の親しみやすいタヌキ顔娘)シリ・アップルビーもまあ、適役であろう。ただどうにも致命的だったのは「ゴージャスなブロンド美女」の役回りのはずの、「トラフィック」のヤク中娘のときはそれなりに印象的だったエリカ・クリステンセンが、いつの間にやらブサイクなブタ娘になってしまってたこと。怖いねえ。成長期のティーン女優をキャストするリスクというものでしょうな(アッという間に巨人になっちゃったリーリー・ソビエスキーとかね) ● 水泳部のコーチにダン・ヘダヤ。 ジョン・ポルソンは「サイアム・サンセット」オーストラリア人監督。 後半から急に「銀残し」のような画調になったような気がしたけど、あれは何の意味があったんだろう。 意味がないと言えば「SWIMFAN」という原題にもまったく意味がない。せめてタイトルぐらいもうちょっと智恵をしぼったらどーよ?

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カルマ(ロー・チーリョン)

幽霊などといったものは先入観と潜在意識から人間の脳が作り上げた幻覚に過ぎない、と主張する気鋭の精神分析医のもとに「I see dead people.」な若い娘が訪ねてくる…。「INNER SENSES」という英語原題からも明らかなように「シックス・センス」の二番煎じである。またここでも幽霊の描写にはジャパニーズ・ホラーからの影響がアリアリ。 ● 主演:レスリー・チャン、製作:イー・トンシン(爾冬陞)、監督・脚本:ロー・チーリョン(羅志良)は「ダブルタップ」「夢翔る人 色情男女」のチーム。キョンシーのようなコメディ映画や「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」のような魔物妖怪の類を別とすると、現代を舞台とした香港映画においては、なぜだか「幽霊」にはあとから合理的な説明がついてしまうのが常のようで、本作も例外ではない。だからホラーとしての出来は中途半端。「被害者の幻覚に過ぎない」とタネ明かしされてしまったあとでは、いくらおどろおどろしい特殊メイクをした幽霊が迫ってきてもあんまり怖くないのだ。途中からシラけてしまって「こりゃ ★ ★ だな」と思って観てたら・・・おおおおお、終盤にトンデモな展開が! いやサスガはレスリーさま。世界広しといえども愛のパワーで[さまよえる悪霊を昇天させてしまう]などという荒ワザが使えるのはレスリー・チャンただ1人。 ● ヒロインには、2002年の香港アカデミー賞で最優秀 助演女優賞と新人賞をダブル受賞したカリーナ・ラム(林嘉欣) 母親が台湾人と日本人のハーフだそうで、なるほどヴィヴィアン・スーをさらに薄倖顔にして、水野美紀を1/4ほど混ぜたみたいな顔してる。たしかに熱演ではあるけれど、序盤の病んだ状態での、マンガなら目の下にタテ線が入ってるようなメイクはちょっとやり過ぎでしょ。劇中の職業が、あれはたぶん外国映画に中国語字幕をつけてるんじゃないかと思うけど字幕翻訳家のヒロインというのは珍しい。 レスリーの同僚/親友にヒゲ面のレイ・チーホン。 漢字原題は「異度空間」 ※レスリーさまの素晴らしき愛の力についてもっと知りたいという人は別ファイルネタバレ含)へ。

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スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする
(デビッド・クローネンバーグ)

モーガン・フリーマン主演の「スパイダー」が公開されてから、まだ1年も経たないのに、同タイトルの作品、それも(広義では)同ジャンルの作品を公開するってのはどうなのよ?…と思わないでもないが、あちらの原題は「ALONG CAME A SPIDER」、こちらは原題も「SPIDER」なので致し方ない。サブタイトルを付加して差別化してるだけマシか。ニュー東宝シネマのチケットには「スパイダー(2003)」となってて笑った。両作品とも東宝系だし、きっと東宝の経理部の人とかは「紛らわしんだよバカヤロー!」とか思ってんでしょうな。 ● デビッド・クローネンバーグの新作。つまらなかった。だって(「イグジステンズ」の後だから余計そう思うのかもしらんが)ぬるぬるねちょねちょしていないクローネンバーグなんて! 「過去の不確かな記憶」と「少年時代の強迫観念」というテーマも、おれ、フィリップ・リドリーの「柔らかい殻」も好きだし、寺山修司の「田園に死す」なんて生涯ベストワンというくらい好きなのに、本作は なんだか予想される結末を勿体つけて語ってる感じで、ちっともゾクゾクしなかった。 ● ただし冒頭の10分だけは素晴らしい。オープニング・タイトルは、塗装が剥がれ落ちて、ロールシャッハ・テストのような「染み」が見ようによっては蜘蛛やサソリにも見える古い壁が、ゆっくりとフェイド・イン/フェイド・アウトしていく。駅。レイフ・ファインズが列車から降りる。彼は落ち着きなく不安げにきょろきょろし、しじゅう何ごとかをぶつぶつと呟いてる。古い建物。窓は煉瓦で埋められドアには釘が打ち付けられている。次のカットでは、彼はよく似た古い建物の前にいる。そこは彼がこれからの1時間半を我々とともに過ごす下宿であり、窓にはガラスが嵌められドアも打ち付けられてはいない。単に移動カットが省略されただけかもしれないし、見ようによってはその下宿自体が彼の妄想の産物のようにも思える。下宿の管理人に待つように言われて、人気のない食堂の椅子に腰かける。カットが変わると、それまでは画面に写っていなかった老人が彼に話しかけてくる。それは切り返しのトリックにも思えるし、見ようによってはその老人が、彼の眼にだけ映っているとも解釈できるのである。自分が「見たと思ったもの」と実際に「見たもの」は必ずしも一致しないことを描いた心理ミステリ。ミニシアター向き。

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ブラック・ダイヤモンド(アンジェイ・バートコウィアク)

製作:ジョエル・シルバー

ジョエル・シルバー製作+アンジェイ・バートコウィアク監督によるリー・リンチェイ主演「ロミオ・マスト・ダイ」の続篇・・・ではなくて、ほんとうはDMX主演「DENGEKI 電撃」の続篇・・・でもなくて、じつはこれ、トム・アーノルドとデブ黒人(アンソニー・アンダーソン)がエンドロールで掛け合い漫才を演じるシリーズの第2弾なのである。うーむ、意表を突いた続け方だ。デブ黒人がDMXの片腕で、トム・アーノルドが外部の協力者という配置は「DENGEKI 電撃」そのまま。エンドロールで披露される、御両人による「DENGEKI 電撃」評>「面白かったのはエンドロールだけだ」 ● さて、本篇のほうだが、武術指導にユン・ケイ、敵役の台湾マフィアにマーク・ダカスコス、その情婦にケリー・フーという万全の布陣なのに、なんでマトモな格闘シーンが撮れないかなあ。ラストのリー・リンチェイとダカスコスの対決なんて、せっかくのスタント・ダブル無しでいける場面のはずなのにカット割りまくりだし、あろうことかリー・リンチェイまでダブル使ってるっぽいし。それにあのぅ…、リー師父、それは悪役の勝ち方なのでは? ● マクガフィンである「黒いダイアモンド」やギャングの設定、使用武器/機器など全般に非現実度が高く(つまり、リアル志向の犯罪アクションではない)、主人公=DMXの「銃を使わない」とか「小学生の子どもがいる」という性格づけなど、明らかにアメリカでは小中学生の観客をターゲットにしてるふしが窺えるのだが、にもかかわらず平然とR指定作品(=17歳未満は保護者同伴)として仕上げてしまうジョエル・シルバーの態度には疑問を感じないでもない。てゆーか、そんなことしたら小中学生は他の映画のチケットを買って入場して、本作をタダ観するだけだと思うけど。…ま、もっともPG-13指定(=13歳未満の観賞は要注意)になると、「チアーズ」の黒人チア・リーダー、ガブリエル・ユニオンのストリップ・ダンス(ただしブラ・パンまで)が見られなくなるので、おれはRで満足だが。 ● 原題は「CRADLE 2 THE GRAVE」。「ゆりかごから墓場まで」という慣用句だが、アタマに「FROM」が付いてないので「墓場行きのゆりかご」と読ませたいのかも。

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アナライズ・ユー(ハロルド・ライミス)

演出・脚本の出来、ギャグの量とも前作の六掛けがいいところ。「狂ったように可笑しい」瞬間は最後まで訪れないし、本作ではビリー・クリスタルの奥さんとなったリサ・クドローがギャーギャー喚かないのでガッカリである。チャズ・パルメンテリの代わりに──てゆーか、チャズ・パルメンテリの姐さん役なのかな?──登場のキャシー・モリアーティ(いつのまにかキャシー・モリアーティ=ジェンタイルなんて長ったらしい名前になってるぞ)も、まったく活かしきれてない。本作ではデ・ニーロ親分は、足を洗ってカタギになるべく いろいろと不慣れな仕事にチャレンジするのだが、最終的にテレビのマフィア・ドラマのスーパバイザーとして雇われ、オーストラリア人の主演俳優(アンソニー・ラパグリア)にいろいろとシチリア人の流儀を教えることになる。このパートが上手く回転していれば、さぞや面白い映画になったろうに。残念。 ● というわけであまり褒めるところのない本作なのだが、とりあえずロバート・デ・ニーロとビリー・クリスタルの息の合った掛け合いを見てるだけで幸せ…という人(おれだ おれ)にはお勧めできる。それと、とりたててそのことに対する言及があるわけではないのだが、ラストシーンはNYっ子なら泣かずにいられないはず。

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帰ってきた 刑事まつり[ビデオ上映]

絶好調刑事(鈴木浩介) 発情女刑事(吉行由実) はぐれちゃった刑事(是枝裕和)
姦☆刑事 セクサロイド・コップ(瀬々敬久) アトピー刑事(井口昇)
背徳美汁刑事(本田隆一) 必殺!! 十字剣刑事(塩田明彦) キューティ刑事(松梨智子)
ぱいぱん刑事(新藤風) 子連れ刑事 大五郎!あばれ火祭り(安里麻里)

前作のヒットによりアッという間に企画されてアッという間に作られてアッという間に公開されたビデオ撮り短篇集の第2弾。まさに学園祭ノリの一発芸だった前作とくらべると、準備&製作期間にいくらか余裕があったせいで、より「作品」ぽくなってしまっているのはプロとしての性でしょうな。こっそり作ってちゃちゃっと公開しようと、各監督とも(なにせ製作費は自腹なわけだし)遊びのつもりで作っていた前作が、だれも予想しなかった大ヒットをしてしまったせいで、今回、第2弾に起用された監督たちは好むと好まざるにかかわらず観客の目を意識しないわけにはいかなくなったという事情もあるだろうし。だから「映画」としては今作のほうが格段に見応えがあるのだが、前作のバカバカしさを期待した向きには肩すかしかも。 ● 今回の10本のなかでは井口昇の「アトピー刑事」が圧倒的に素晴らしい。エロでグロでゲロでサイコなラブ・ストーリー。あなたに愛の真実を教えてくれる。余人には作れぬワン&オンリーの傑作である。この人は普段からAVというビデオ撮り&微小製作費の現場で鍛えられているために「ビデオの画質に適した撮り方」を心得ているのが強みだ。主演:松本玲子。 ● 映画美学校 出身の新人・安里麻里の「子連れ刑事 大五郎!あばれ火祭り」はタイトルから明らかなように「子連れ狼」──それも三隅研次の映画版「子連れ狼」だ。「バスケット・ケース」な乳母車@赤色灯つきを押した女刑事が、片目の殺し屋と対決する。台詞は無い。純粋にアクションだけの10分間。このお嬢さん、よほどのアクション映画好きと見えて、過去のアクション映画のクリシェを徹底的に研究して取り込んでいる。アクションの切れ味、編集の呼吸、サスペンスの盛り上げなど職人はだし。画像処理などしてる金も時間もなかったはずなのに、まるで銀残しのような黒の締まった画調もすばらしい。いますぐVシネを撮らせたい。てゆーか「GUN CRAZY 5」と「6」の監督は彼女でキマリだろ。主演:宮田亜紀。 ● 中原翔子・遠藤憲一・森下能幸・塩田時敏といった豪華(?)メンバー出演による本田隆一の「背徳美汁刑事」は「プレイガール」もの。タイトルはとりあえず内容を考える前につけたらしく、劇中ではヒロインは「そう…わたしは潮吹き刑事!」と自称する。ま、それで内容は想像がつくと思うが。十篇中で唯一ヌードありなのもポイント高し。これを観ると「東京ハレンチ天国 さよならのブルース」の1970年代趣味が単なる意匠ではなかったのがよくわかる。赤や青のネオンがよく似合う1970年代映画のうらぶれた やるせなさをよく再現している。遠藤憲一と中原翔子の切ないオナニー対決には、つい泣いてしまったよ(ちょっと嘘) ● あとは上映順に。Vシネ界の雄・鈴木浩介「絶好調刑事」は「TRICK」の生瀬勝久のズラねたのパクりで10分間ひっぱる志の低さ。秋本奈緒美のコメディ演技が下手すぎ。次篇に出てる林由美香とくらべると天と地ほどの差がある。てゆーか「主人公が女刑事であること」というのが大前提なのに秋本奈緒美、主演じゃないし。主演はズラをかぶった諏訪太朗だし。 ピンク映画界から吉行由実の「発情女刑事」は、女子高生の頃から刑事ドラマに股間を濡らしてた刑事萌えの女刑事に林由美香、かっこいいエリート刑事に岡田智宏…という、いつもの少女漫画チックなユミリン・ワールド。なんと冒頭には某メルヘン巨匠「A...MOVIE」ロゴが出る(!) 「幻の光」「ワンダフル・ライフ」「ディスタンス」の是枝裕和「はぐれちゃった刑事」は、なんちゅうか…無理してバカ映画を作ってる感じが痛々しい。こうしたものは本来の資質にないのだろう。主演:岡元夕紀子。 ピンク映画界からもうひとり。瀬々敬久「姦☆刑事 セクサロイド・コップ」は、野村芳太郎「張込み」の設定で「ブレラン」をやってる。出演は佐々木ユメカ・伊藤猛・川瀬陽太という、いつものメンバー。あんた、エロ担当なんだから、その巨乳女優(平石一美)を脱がせなきゃ存在意義がないでしょ。 塩田明彦はこうしたものが苦手なはずがないと思うのだが「必殺!! 十字剣刑事」は信じがたいことに「黄泉がえり」よりつまらない。頼んますよ、ほんと。 バカ映画の女王=松梨智子の「キューティ刑事」は、これはいつもどおりの製作費で「いつもどおりのこと」をやってるだけ。あたしみたいな損な性格だと(本当はあたしのほうがずっと可愛いのに)あたしより可愛くない内面ブスのほうがモテるので口惜しい。なんでみんなあたし(←もちろん松梨智子が演じてる)の可愛さに気づかないの?…と相変わらずの自意識過剰ぶり。だけど「内面ブス」を男に女装させて演じさせるってのは姑息なんじゃないの? さて、前作のようには無断映像/音楽使用が目立たない本作において、あくまでDVD化/テレビ放映を阻む真性危険物が新藤風(「LOVE/JUICE」)の「ぱいぱん刑事」である。話は なんてことない寺山修司「トマトケチャップ皇帝」なんだけど、新法成立をものともしない大胆さに観ててハラハラしたよ。おれが支配人だったらこれを上映する度胸はないかも。 ● 以上、十篇で木戸銭 千円。当たり外れはあるものの一篇 百円と思えば腹も立たんでしょ。調子に乗って現在すでに篠崎誠 幹事のもとで第3弾&第4弾の製作が同時進行していて、第3弾は小沢仁志・「鬼畜大宴会」の熊切和嘉・「A」の森達也ほかの「最も危険な刑事まつり」、第4弾は津田寛治・大森南朋・田中要次・柳ユウレイら俳優の監督挑戦篇で「新・刑事まつり 一発大逆転」となる由。…もっとも、早くもブームは過ぎ去ったようで平日 夜の回のシネマ下北沢はがらがらだったが。

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インプラント(ロバート・ハーモン)

ギャガ宣伝部が宇宙人ホラーか医学サスペンスみたいな邦題を付けてるが、原題は「THEY」…つまり「やつら」だ。やつらとは何か。それは「闇に蠢く(うごめく)なにかである。やつらはクローゼットの中やベッドの下の暗闇に潜み、部屋の明かりが消えたら お前を捕まえようと狙ってる…。幼児の頃から独立した子供部屋を与えられて独りで眠るのが一般的なアメリカ人にとっては、たいへんに身近な「夜の恐怖(NIGHT TERROR)」をテーマとしたホラー映画である。いちおう撮影のためにタトポロス・デザインによるクトゥルー系のクリーチャーが作られているのだが、それらははっきりと画面には映らない。闇の中で蠢く触手のようなものが見える(ような気がする)だけである。作者たちが描こうとしているのは「闇の実体」ではなく、闇に怯える人々の「恐怖」のほうだから。もっとも子供の頃から街灯のある町に生まれて襖1枚へだてて親の観る深夜テレビの音や話し声が聞こえてくる借家育ちで、大人になっても暇あらば暗闇の映画館で過ごしてる おれのようなような者には、暗闇の恐怖というのがいまいちピンと来ないし、ストーリーがやや一本調子なきらいがあるのだが、血みどろのモンスター映画ではなく本格的なホラー映画を作ろうとした作者たちの心意気を買う。 ● 監督は(生きていたのか!)「ヒッチャー」のロバート・ハーモン。日本公開されなかった…のではなく、劇場用映画の監督自体がヴァン・ダムの「ボディ・ターゲット」(1993)以来となるようだが、いたずらにショック演出に頼らぬ節度は好ましい。 アメリカでも日本でもタイトルの上に「presents」として大々的にクレジットされているウェス・クレイヴンは、じつは本作の監督でも脚本でもなく製作でも製作総指揮ですらないんだけど、それじゃあいったい何をしたの? ● ヒロインのローラ・レーガンは、ジェイミー・リー・カーティスの若い頃を思わせるショートカットのブロンドで、ちょっとサル顔が入ってるけど、行動的で聡明で、体型はスリムなのにナイスバディ。 もう1人の、ちょっとゴス入ってるブルネット美人は「モンテ・クリスト伯」のダグマーラ・ドミンスク。 ちなみに撮影がレネ・オオハシという日系カメラマンだった(本作が初の劇場用作品みたい) 気に入った台詞をひとつ>「(頭を撃ち抜いて)自殺した最期の瞬間、彼は何を考えていたのかしら(What's in his head?)」「…弾丸」

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ダークネス(ジャウマ・バラゲロ)

その家では40年前、6人の子どもが消えた。そしていま、7人目の子どもが父親となって家族を連れて帰って来た──あの家に。 ● ブライアン・ユズナがスペイン映画界に招かれて「エンパイアの夢ふたたび」と設立したファンタスティック・ファクトリー製作によるホラー映画。舞台はスペインだが台詞はオール英語。監督・脚本はスペインの新鋭ジャウマ・バラゲロ。いちおう別ネタではあるが、全体の印象は驚くほどバラゲロの前作「ネイムレス 無名恐怖」に酷似している。すなわち、中盤までの(論理を欠いた)コケ脅かしはそこそこ怖いもののネタが割れてくる終盤はシリすぼみ&シリ滅裂となってしまう。この人にはまだ、長篇映画を構成するだけの力が無いのだろう。本作の場合なら、冒頭の回想シーンはカットして、新居に引っ越してくる家族の「希望に満ちた描写」として始めるべきだし、喜び勇んで家中を見てまわる子どもたちの描写に紛らせて「家の特殊な形状」はきちんと観客に画として見せるべき。いちばんダメなのは、エンドロールのせりあがるタイミングが早すぎること。あそこで少なくとも3秒ぐらいは映画館を暗闇のままにしておかないと、せっかくのダークなエンディングが活きないではないか。 ● …と文句ばかりつけたが、じつは本作は熟れ頃になったアンナ・パキンを愛でる映画でもある。なんだか童顔からそのままオバサン顔に移行した感じで正統的な美人ではないし、幼児体型のまま大人になってしまったようなむちむちっとした躯つき。この人には、優等生っぽいキャラの中に(決して崩れてはいないんだけど)どことなく全身から性的なものを発散している、なんちゅうかコックティーズな魅力があるように思う。ま、ゲテモノ喰いと言われたら反論できんが。このコ、まだ十七、八かと思ったら(いま調べたら)もう二十歳なのな(…アメリカの安達佑実?) 他に、レナ・オリン、イアン・グレン、ジャンカルロ・ジャンニーニの出演。

★ ★
007 ダイ・アナザー・デイ(リー・タマホリ)

スタント監修&第2班監督:ヴィク・アームストロング

通算20作目、ピアーズ・ブロスナンになって4本目となる「007」最新作。監督が「ザ・ワイルド」「狼たちの街」「ワンス・ウォリアーズ」と、ゴツゴツしたアクションが持ち味リー・タマホリと聞いて、これは初期の「ロシアより愛をこめて」のタッチへの回帰を目指してるのかも…とひそかに期待していたのだが、出来上がったのを観たら、回帰したのは「ロシア…」じゃなくてロジャー・ムーアの秘密兵器 肥大化路線だった(泣) 「007」といえばスタント・アクションの代名詞であって、本作でも第一人者のヴィク・アームストロングが腕を振るっているが、ポスト・プロダクションでなんでもかんでもCGにしてしまってるので、監督の資質もアクションの醍醐味もすべてが厚化粧の下に塗りこめられて特徴のない工業規格品と化してしまってる。無残…。 ● もひとつ期待してたのが、今回、北朝鮮が悪役ということで偉大なる首領様がスクリーンでどのように描かれるか楽しみにしてたのが、出てきたのは軍服を着た立派な将軍、ケネス・ツァンなのだった。なぜ曾江(ケネス・ツァン)@香港人? どーせならアン・ソンギとか使えばいいのになあ。てゆーか、メインキャストのしゃべる朝鮮語が(発音のせいか)「なんちゃって朝鮮語」に聞こえてしようがなかった。香港のホテルでは北京語しゃべってるし。ちなみに北朝鮮政府はいちおうポーズとして製作会社に抗議してたみたいだけど、自国の軍事力をこれだけ過大評価してくれたら首領様も大満足でしょう。けっこう中国からフィルムを取り寄せて息子と一緒に喜んで観てるんじゃないか? グァッハッハ。焼け焼け焼き尽くせえ!南の資本主義の奴隷どもを丸焼きにしてしまえええぇぇ!…とかね。 ● マドンナのオープニング・クレジットは歌・映像とも最悪。劇中で突如「ロンドン・コーリング」がかかるのはジョー・ストラマー追悼?と思ったけど、よく考えたら彼の死よりアメリカ公開のほうが早いんだな。あと、アイスランドの海の冷たさって「呼吸できるかどうか」の問題じゃないような気がするけど。 ● 結局、いちばん印象に残ったのはハリー・ベリーによる「ドクター・ノオ」再現シーンだった。どーやったらあんなに腰を上下させて歩けるんだ!? 彼女が演じたジンクス役をメインにしたスピンアウト企画が進行中で、来年早々にも撮影に入るらしいけど、ただの「女性版007」じゃ面白くないので、「トゥモロー・ネバー・ダイ」から中国情報局出身のミシェール・キングと、別のシリーズから元FSB(ロシア連邦保安局)のアーシア・アルジェントを借りてきて3人組ヒロインにしたらいいんじゃないか。「聡明なリーダー」「無愛想な武闘派」「ひねくれ者の不良娘」といい按配にキャラがバラけてるし。所属はNSA(アメリカ国家安全保障局)ということになるから、ボス役はサミュエル・L・ジャクソンといきたいところだが、そうなるとギャラが高くつきすぎるので「声だけの特別出演」てことにして、スパイ・ガールズにはインターホンを通じて指示を出すってのでどうかね?

★ ★
タキシード(ケビン・ドノヴァン)

「今度の誕生日プレゼントは何がいい? ジュラシック・パークの新しいのか?」「やだなあパパ。キョーリューなんてガキの見るもんだよ!」「じゃあ何にする? カッツェンバーグおじさんのアニメも好きじゃないんだろ?」「だってダッセー〈きれいな涙〉なんて」「それ以上言うとパパ怒るぞ」「…ごめんパパ」「よしイイ子だ。さあ、何がいいか言ってごらん」「ぼく、ジャッキーの映画がいい!」「もうワガママなんだから。しようがないなあ」と言いつつケータイを手に取り「…ああ、もしもし? ぼくだ。スティーブンだ。すまないが早急にジャッキー・チェンをオフィスに呼んでくれ。ニューラインには内緒だぞ。ああそれから、思ったんだがジュラパの4は再検討の余地ありだな」・・・という次第で(当サイト推測)誕生したドリームワークス製作のジャッキー・チェン映画。 ● スパイ・アクション=コメディなのだが、どうやらありものの企画を使い回ししたらしく、ジャッキーの代わりにテキトーな黒人コメディアンをすげても──ジャッキー・チェン主演でなくとも成り立つ映画である。例によってCGの使いすぎでジャッキー・アクションの魅力は皆無。印象に残るのはジェニファー・ラブ・ヒューイットの胸の谷間に見とれるジャッキーのニヤけ顔だけ。しょーがないだろ河合奈保子の昔から巨乳好きなんだから。天下の大スターに「HOOTERS(おっぱい)」なんてTシャツまで着せて。ジャッキーをバカにしてんのか!>スティーブン・スピルバーグ。 ● ジャッキー・チェンは(リー・リンチェイと違って)聡明なビジネスマンだから、普段ならこんな映画に出るはずはないんだが、なにしろスピルバーグ大好きだからなあ>ジャッキー。断れなかったんだろうなあ…。ジェームズ・ボンドを思わせるモテモテ英国人スパイ=ジェイソン・アイザックスとの共演部分、すなわちジャッキーがタキシードを着る前の序盤と、脱いだ後のエピローグのみ面白かったので、星1つ増やして ★ ★ とする。 ● ちなみに本作は、渓谷の清流で鹿がおしっこする場面から始まって、その川の水が流れ流れてペットボトルに詰められるシーンがタイトルバックとなり、飲み水をバクテリアで汚染して自社の瓶詰め水の売り上げ倍増を狙うミネラル・ウォーター会社の社長が悪役なんだけど、おれ絶対に、商売上手なスピルバーグはコカ・コーラペプシコから(競合商品を攻撃する見返りとして)莫大な「タイアップ料」をせしめてるとみたね。

★ ★ ★
レッド・ドラゴン(ブレット・ラトナー)

トマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」の2度目の映画化。マイケル・マン監督「刑事グラハム 凍りついた欲望(MANHUNTER)」(1986)のリメイクではない。あくまで「原作小説の再映画化」である。アメリカでは「ハンニバル」からわずか1年1か月後の公開という東映なみのスピード公開。搾れるところから搾りきるという、ディノ・デ・ラウレンティス爺さん御年83歳の商売っ気まるだしな姿勢には感動すらおぼえる。そればかりじゃない。ハリウッド映画としては異例の短期間で「羊たちの沈黙」のテッド・タリーに脚本を書かせ、競演陣にも「ハンニバル」に引けを取らない豪華な面子をそろえられるのがプロデューサーとしての実力である。おそらく「ラッシュアワー」の早撮り手腕のみを期待されての起用であろうブレット・ラトナーはちゃんと納期を守って仕上がりもまずまず。それなりにドキドキもするしハラハラもする。 ● しかーし! 唯一最大の眼目がアンソニー・ホプキンス演じるハンニバル・レクターを大フィーチャーすること(=それ以外は好き勝手やってもOK)という、またとない企画をこんな「無難に」仕上げてどーする!>ラトナー。映画としては畸形でもいい。レクター博士の狂気を、凄みを描かずしてどーする!? 「ハンニバル」のリドリー・スコットと比べるとハッタリが下手すぎる。ダニー・エルフマンの怪奇色ゆたかなBGMと、ダンテ・スピノッティの陰影ふかいカメラ(もちろんシネスコ)が無かったらどうなっていたことやら。 ● キャストではなんといってもエドワード・ノートン・・・の奥さん役でメアリー・ルイーズ・パーカーが出てたのが嬉しい:) ハリウッド映画では使い方の難しいエミリー・ワトソンもじつに正しい使い方をされている。 エドワード・ノートンの同僚役で、「僕たちのアナ・バナナ」でカラオケ機器屋の日系人店員をやってた中国系俳優(ケン・リョン)がまた出てた。ノートンの親友なのかな? あと、エンドロールで気付いたのだが、冒頭場面の指揮者はラロ・シフリン(!)だったそうだ。 ● ちなみに、ダンテ・スピノッティはマイケル・マン組のカメラマンでもあるので、つまり「刑事グラハム 凍りついた欲望」に続いて同じ話を2度 撮ったことになる。にもかかわらず両作の印象はまったく違う。プロのカメラマンとしては当然のことだが描いてることが違うので撮り方を変えているからだ。マイケル・マンは原作「レッド・ドラゴン」のある一要素に焦点を絞って撮った。対して、本作ではその部分がすっぽり抜け落ちているのだ。すなわち、捜査官がサイコキラーの心の内を理解しようと勤めるうちに、だんだんと異常犯罪者の心理と同化していってしまうという恐怖である。映画版「レッド・ドラゴン」はあくまで「気の狂ったモンスターと対峙するヒーローの物語」だ。すなわち恐怖は常に外部にある。自分自身の中にあるモンスターの存在は最後まで無視されたまま。政治的 裏目読みは当サイトの本分ではないが、それにしても「ボーン・アイデンティティー」といい本作といい、自分の内面に目を向けず、敵を外部に求めるという傾向は、いまのアメリカの無意識の反映なんだろうか? みずからの心に巣喰うモンスターとの対決をテーマとする「ロード・オブ・ザ・リング」が際だつ所以である。

★ ★
13階段(長澤雅彦)

「デッドマン・ウォーキング」「ラストダンス」に遅れること7年。日本でも製作された〈良心的〉死刑囚ドラマ。東宝系の前作「黄泉がえり」と較べると本作のほうが伝統的な「日本映画」のイメージに忠実で、とりあえず「映画を観てる」気になれる──つまらない映画ではあっても。 ● 序盤。人を過失死させた反町隆史が仮釈放で刑期を早めに務め上げて、実家である下町の印刷工場(こうば)に戻ってくる。妹は、被害者への莫大な賠償金など家族への負担を強いる兄をなじり、「あたしたちがどんな肩身が狭いか、ちゃんと判ってる!?」と言い捨てると住居のある2階へと駆け去る。すっかり煤けてしまった父親が狭い階段を見上げてぽつり。「…縁談、流れてなあ。許してやってくれ」・・・ってギャグか!? つかこうへいか! つい吹き出しそうになっちまったじゃないか。なにもそこまで古くしないくてもいいんだよ。 ● てっきり「山崎努が死刑囚・反町隆史の冤罪を晴らす映画」かと思ったら「山崎努が、仮釈中の殺人犯・反町隆史を助手に雇って別の死刑囚の冤罪を晴らす映画」なのだった。地味な内容なので本来なら冒頭に「衝撃的なシーン」を配すべきなのだが、すっと地味に始まっちゃうのでツカミがからきし弱く、しかも終盤近くなるまで「物語のミステリーの対象」が反町隆史にないので、観客が最後まで興味を維持するのは至難の業。山崎努の動機は中盤で明かされるものの、それはあくまで個人的なこだわりであり、調査対象の死刑囚とのあいだに感情的なリンクは成立しない。反町隆史にいたっては「山崎努がなんでよりにもよって元・殺人犯の反町を助手にスカウトしたのか?」という観客が最初に感じるであろう疑問が説明されず(まず最初に「なぜわたしを?」「まあ今にわかるさ」とかなんとかお約束の台詞があるだろフツー?)その内面も描写されないので、こいつが何を考えているかはまったくわからず。発端となった事件も断片的にしか描かれないので、そもそも観客にとって「事件の解決」がどーでもいいことになってしまうのだ。脚本は「誘拐」の森下直(♀) 脚色の仕方を根本的に間違ってる気がするがなあ。れっきとした弁護士(笑福亭鶴瓶)が「期限は死刑執行までの3ヶ月。文字どおりのデッドリミットです」などと真顔で無神経な台詞を喋るのも気になった(ハードボイルド映画の気の効いた台詞とは違うんだからさ) ● 役者については(山崎努ではなく)反町隆史を褒める。この人の「演技」は館ひろし=岩城滉一系で、言ってしまえば上手いとか下手とかいう類の演技ではないのだが、そうした特質がこの映画からいくらかでも辛気臭さをとり除き、娯楽性を加味しているように思われる。

★ ★
黄泉がえり(塩田明彦)

ショックを受けた。あまりの出来の酷さに…ではない。帰りのエレベーターの中での評判の良さに、だ。おれは日劇で観たので女子高生とかはいなくてOLとかサラリーマンとかだったけど「いやあ、ヤラれちゃったよ」とか「ヨカったよねえ」とか口々に話してんだぜ。マジかよ!? ほんとにこれがいいと思ってんの? おれは心の中で「酷い。酷すぎる…」と呟きながら劇場を後にしてきたというのに。この感覚のズレはなんなんだ。普段テレビを見てる人にはこーゆーのがイイのか? てゆーか、いまどきはこーゆーのじゃなきゃダメなのか!? ● 宇宙からの怪しい光を浴びて死者たちが墓からよみがえる。つまり設定としてはロメロの「ゾンビ」と一緒である。ただ本作ではゾンビたちは腐らず人肉を食べずゆらゆら歩かない。愛する人を亡くして悲しむ者の前に、愛する人が生前の姿のままで戻ってきたら…という「感動的なファンタジー」として企画されているわけだ。ファンタジーだから「よみがえり=黄泉還り」についての科学的説明はない。それはいい。だけど「黄泉がえり」というタイトルの由来を、登場人物の「それじゃ生き返ったというより黄泉がえりじゃないですか!」というだからどこがどー違うんだよ!的な解説にもなんにもなってない一言で済ませちゃっちゃダメでしょ。ここはやはり草なぎクンあたりが「じつは古代の神話にこういう言い伝えがあるんですよ」とかなんとかこじつけてくれないと。 ● 一事が万事で、犬童一心・斉藤ひろし・塩田明彦という自主映画系の脚本家チームはアイディアを長篇娯楽映画として展開/構成する基本的な才を欠いている。ここにあるのはその場かぎりの安っぽい感傷を垂れ流すだけの、それも過去のヒットした外国映画からパクッたのが丸わかりだらだらとしたエピソードの連なりでしかなく、全篇を貫く1本の太く大きな線は存在しない。いったい塩田明彦は「害虫」というハードボイルドな傑作のあとで、どうしてこういうだらしのない映画が撮れてしまうのか。まともに映画を観てる客をバカにしてるとしか思えない序盤でのネタ割りカット繋ぎはありゃなんなんだ!? ● しかも、こうまで酷いと「これって新人監督いじめ?」と勘繰りたくなってくる、まともに演技の出来ないテレビのバラエティ番組のようなキャスティング。ダチョウ倶楽部に至ってはあまりの口跡の悪さに何を喋ってるのかまったくわからない有りさま。草なぎクンは厚生労働省のエリート官僚という設定なのにインチキ広告代理店の営業みたいなスーツ着てるし。唯一まともな哀川翔が、きちんと「演技」をしているがゆえに浮いてしまってるという皮肉。さいわいなことに日本語には この映画を評するのに最適な言葉がある。それは「茶番」だ。星1つが相応しい作品だが、砂浜の横移動など悪くないシーンもあったので、哀川翔の存在感と忍足亜希子さんの可憐さに免じて星2つとする。


T.R.Y. トライ(大森一樹)

松竹の話から書く。こないだの土曜日に新宿ピカデリー会館に行ったんだが、そしたら地下のピカデリー2&3では「壬生義士伝」と超ロングラン態勢の「たそがれ清兵衛」という松竹時代劇が並んで上映中で、そのどちらもが中年男女&老年夫婦で超満員なのだ。おもわず「今年は昭和何年だっけ?」と思ってしまったよ。なんだかんだ言っても、ふだん映画館に足を運ばない人たちをこうして吸引しているのだから大したものだ。映画館経営としても「ハリポタ」「指輪」「マトリックス」と大作シリーズをすべて押さえて安泰だし、もはや松竹は一時期の倒産危機を完全に脱したと言ってよいのではないか。当時、奥山和由を解任した新経営陣がいちばん最初にしたことが、すでにプリ・プロダクションに入っていた「日本沈没」リメイクの製作中止だった。いまにして思えばそれがいかに正しい決断だったかは明白である。金をかけたから客が来る…のではない。客が「観たい」と思わせる内容だから来るのだ。 ● さてお立会い、その「日本沈没1999」の監督だった大森一樹に社運を賭けた超大作を任せてしまったのが東映の新社長・岡田裕介である。ここ10年の日本映画をまともに観てる人間なら、大森一樹にそんな娯楽大作が作れるとちょっとでも思うことからして何をか言わんやなのだが、この映画が救いがたいのは企画の前提からして「踊る大捜査線」と「ホワイトアウト」のヒットが織田裕二の魅力によるものだと勘違いしてる点にある。 ● 横溝正史賞を得た原作がどれほど面白い小説なのかは知らないが、すくなくとも「シャブ極道」「恋極道」「少女」「笑う蛙」の成島出による脚色はコン・ゲームものの基本すら判ってない酷い代物。たとえば主人公を観客に紹介する「最初の騙し」は絶対にシリアス調で観客を騙すべきだし、終盤で、いよいよ「決行」を明日に控えた主人公が(いろいろあって)屋上でひと息ついた後の(織田裕二の)場面は不要である。あそこから直に「本番」に繋げなくてはサスペンスにもなんにもならんじゃないか。だいたい主人公のキャラクター設定からして間違ってる。本作での織田裕二は最初っから反清復明の運動家たちの義に打たれて計画に参加する「じつに立派な人」なのである。詐欺師なのに。主人公はあくまでも「金と命惜しさに厭々手伝ってる、アタマは切れるが胡散くさい詐欺師」であるべきだ。であればこそ「主人公がいつ裏切るのか」というサスペンスも生まれるし、そんなイーカゲンな人物が終盤で自己犠牲的な行動に出るからこそ感動するのじゃないか。 ● 脚本を練る代わりに製作者たちが注力したのが、いかにオダユージをカッコ良く撮るかという一点である。「20世紀初頭の上海」という時代設定をはなから無視した髪形と服装で、もう全篇がええかっこしユージのワンマン・ファッション・ショーなのである。大森一樹の演出は誰ひとり感情移入できるキャラクターがいないという凄まじさ。歴史ロマンとしてはモブシーンの演出が致命的に下手で、アクション映画としてはアクションのアの字の最初の横棒1本にすらなってない。いや、まったく酷い。織田裕二ファンにのみお勧めする。・・・で、結局のところ「T.R.Y.」って何の略なの?

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ヴァン・ダム in
ディレイルド 暴走超特急(ボブ・ミショロウスキー)

ジャン=クロード・ヴァン・ダム主演最新作。もはやメジャーどころは何処もマトモに取り合ってくれないらしく「レプリカント」「ファイナル・レジェンド 呪われたソロモン」そして本作と3本続けて怪しいイスラエル商人アヴィ・ラーナー率いるミレニアム・フィルム(=ヌー・イメージ社の別レーベル)からの御目見えとなった。おそらく3作とも劇場公開されてるのは日本だけじゃないかと思うが、…てことは、ひょっとするとおれはヴァン・ダム映画 劇場観賞率が世界で100番以内とかに入っちゃったりするのか!?(それは厭かも) 同社からはこのあとさらにヴァン・ダムが少林寺の修行僧に扮してアメリカで父の仇を討つという衝撃的な内容の「ザ・モンク(=坊さん)」という──もろチョウ・ユンファの「ブリットプルーフ・モンク」とカブりそうなタイトル&内容の──リンゴ・ラム監督作品が控えてるのでギャガさん、ひとつよろしく(てゆーか絶対、もう契約してると思う) ● タイトルの「ディレイルド」とは DE + RAIL-ed、つまり「脱線事故」のこと。話は「カサンドラ・クロス」の焼き直しで、ヴァン・ダムの役はNATOの秘密工作員。「お宝」を持った女泥棒(「マルホランド・ドライブ」のローラ・エレナ・ハリング/脱ぎません)の護衛として乗り込んだスロヴァキアからミュンヘンへ向かう列車が「暴走超特急」と化してしまう次第。監督は「エネミー・フォース 限界空域」「シャークアタック」「処刑ドクター」「ボディーハード」「ブラックピューマ」のボブ・ミショロウスキー…って、うわ、1本っきゃ観てないぞ。てゆーかマイケル・パレの「ボディーハード」なんか観てる自分にビックリしたぜ。 ● とうぜんのように出来のほうはそーとー好意的に観てると自負するおれでも呆れるほど酷い。「チープなCG特撮」と「行われていないアクション」を、生まれて初めてフィルムを繋いだとしか思えないアヴァンギャルドな編集で見せられるC級作品。敢えて90分の試練に挑もうという剛の者 以外にはお勧めできない。 ● ヴァン・ダムはスパイであることを家族に隠していて「任務」のときは「出張」と偽っていたので、今回はたまたま家族がパパをビックリさせようと思ってこっそり列車に同乗しちゃったもんだから余計な心配事まで背負いこむのだが、その息子に扮してるのがヴァン・ダムの実の息子のクリストファー君!(推定、中学生) 登場するやいなや挨拶がわりに親父仕込みのまわし蹴りを披露。クライマックスでも、ちゃっかりいちばん美味しいところを持って行くのであった。親バカ…てゆーか、ヴァン・ダムの場合はただのバカか。 ● あと思ったんだけどさあ、スパイの偽装職業として「ジャン=クロード・ヴァン・ダム」ってのは最強の隠れ蓑じゃないかな。だってほら相手がヴァン・ダムなら、どんなに誇大妄想的なことを喋ってても、いくら怪しい行動をしても「ヴァン・ダムだから」で済んじゃうじゃん。「おやヴァン・ダムさん、こんな夜中に こんなところで何を?」「プロフェルドの生物兵器拡散計画を阻止すべく秘密文書の在り処を探っているのだ」「…大変ですねえ。頑張ってください」 …ね?


アレックス(ギャスパー・ノエ)

なにが最悪かっていちばん最悪なのは「カルネ」「カノン」のギャスパー・ノエの新作なんだから絶対に不快な代物だと重々わかっていながらモニカ・ベルッチのハダカに釣られて観に行ってしまったおれがいちばん最悪だろ。サイテー。 ● さて、おれが犠牲となって内容を確認してきたので、諸兄にこの映画の最良の鑑賞法をお教えしよう。それは終わりの30分だけ観るのだ(ビデオなら最初の1時間ほどは早送りしてしまえば良い) 但し、巻末にはテレビ東京では放映不可な(しかも意味のない)画面効果が含まれるので、その前にすかさず退出する(スイッチを切る)こと。さすればスッピンのモニカ・ベルッチのお宝シーンのみが楽しめて穏やかな気持ちで映画館を後にすることが出来よう。…いや、なに、大丈夫。それまでの1時間に観る価値のあるものは何ひとつ写ってないから。原題は「イリバーシブル(=不可逆な)」

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ボーン・アイデンティティー(ダグ・リーマン)

原作は1983年に翻訳が出たロバート・ラドラムの「暗殺者」(1980)。ラドラムも後年はまあ…あれだったが、この「暗殺者」は内藤陳の時代でも一、二を争うエスピオナージュの大傑作である。レニー・ハーリンの「ロング・キス・グッドナイト」(1996)などは明らかに「暗殺者」を素ネタにしている。それが原作者から直接、映画化権を譲ってもらったという「キル・ミー・テンダー」「スウィンガーズ」「go」のダグ・リーマンの手によって(ようやく)映画化された。原作が書かれてからまもなく四半世紀。ロバート・ラドラムは2年前にこの世を去ったが、本作には製作総指揮としてクレジットされている。 ● ダグ・リーマンにとっては初のハリウッド・メジャー作品であり、初めてのアクション映画への挑戦でもあるわけだが、極力、ハリウッド映画的なバカバカしさを排除したクレバーな(つまりヴァン・ダム的なものとは対極にある)サスペンスとして仕上げた手腕はまずは及第点だろう。 ● 記憶を失くした特殊工作員。頭では忘れていても体は覚えてる…というわけで、この話においては「記憶喪失の主人公に肉体的な危機がおよぶが無意識に体が動いて相手を倒してしまう」というシークエンスが(アクション映画としての)最初の見せ場になるわけである。ところがダグ・リーマンはそれを例の、ぐぅわんという可変速カメラワークAVID編集で誤魔化してしまうのである。おれはここでひゅう〜と気持ちが冷めてしまった。そりゃアクションもカーチェイスもコマ切れにすればみんな安全だろうさ。だけどそんなまがいものからは本物の興奮は生まれない。ヴァン・ダムの映画はたしかにバカバカしくて真実のかけらもないが、少なくともアクションの見せ場だけは心得てるぞ。 ● そして、じつをいうと本作は【「暗殺者」の映画化】とはとうてい言えない代物である。おれもさきほど主人公の正体を書いてしまったが、原作ではそれこそが話の焦点となっている「主人公の正体」を、映画版では冒頭からアッサリと割ってしまう。そして主人公と彼の属する組織とのマンハントものに話を絞り、実在の凄腕テロリストをモデルにしたカルロス絡みの話もばっさりカット。もうこの時点で「暗殺者」とはまるっきり別の話なのだが、まあ、百歩譲ってそれは良しとしよう。上下巻の大冊を2時間以内のアクション映画にするための選択肢としてはありかもしれん。 ● おれが不満なのは、マット・デイモン扮するジェイソン・ボーンの「自分が何者かわからない」という不安や恐怖がきちんと描かれていないからだ。「いつどこで誰に何のために狙われるのか判らない」という恐怖ではないぞ、「ひょっとしたら自分は冷酷な殺人マシーンかもしれない」という恐怖だ。それこそがこの話の胆であるはずなのだ。だから、殺るときはもっと非情にならなければ。彼はそう訓練されているのだから。それでヒロインが「もうやめて!」と叫んで、そこでハッと気付く…とかさ。つまり主人公の人間性の目覚めは「記憶を失ってから後」でなければならないのだ。最後まで面白く観たのはたしかだが、そこが不満だ。

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秘密の涙(パク・キヒョン)

テアトル池袋で開催された「辛・韓国映画祭」の1本。「女校怪談」のパク・キヒョンの2作目。主体性の無さゆえに妻に去られた男やもめの、イッセー尾形をちょい若くして創価学会員みたいにした感じの主人公が、雨の夜に制服の女子高生を撥ねてしまう。さいわいに意識があるようなので車に乗せて自宅に連れ帰る。翌朝、少女は記憶をうしない、失語症になっていた。中年男はいつしか口をきかず笑わぬ少女の虜になっていく…。 ● ストーリー自体はファンタスティック映画なのだが、サスペンスやホラー演出には重点はおかれず、作者の意図はあくまで自己陶酔型(たいくつな)ロリコン・ファンタジーである。ヒロインの新人 ユン・ミジョは典型的な自主映画ヒロイン顔で──それどんな顔だよ、だからカエルもしくはカメレオン系の顔立ちに目だけがギョロっとしてて、つまりあれだ、デフォルメしなくても三留まゆみのイラストそっくりなのだ──をしてて、衣裳はもっぱら、制服とか、男もののシャツ1枚とか、だぶだぶのセーター(袖が長くて手が隠れちゃう)とか、裸身にバスタオルとかなのだった。ある種のアニメ・ファンにも強烈にアピールしそうな気が。

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イナフ(マイケル・アプテッド)

ソニー・ピクチャーズ宣伝部の方針には反するが、オリジナルの予告篇ではそれが売りになってるし、おれもこの映画からそれを隠してしまったらメソメソ泣いてるだけのジェニファー・ロペスなんて何の魅力もないと思うので書いてしまうが・・・社会的権力のある夫の暴力的支配にさらされたヒロインが、愛する娘と自分自身を護るため、目には目を、歯には歯を、DVにはDVをというわけで格闘技を習得して反撃に転ずる…という話である。普通この手の映画だと、ヒロインの前に現れた夫よりも強くて魅力的な男性が助けてくれるか、夫が自分の仕掛けた罠に嵌まって事故死してしまうかのどちらかの展開なのだが、本作の場合はヒロインが(智恵とか仕掛けに頼るのではなく)夫にタイマン勝負を挑むのだ。それでこそジェニロペである。いまごろベン・アフレック君はこの映画を観てキンタマ縮み上がっていることだろう。週3厳守だ。 ● というわけで、話の構造上しかたがないのだが、劇中の大半でジェニファー・ロペスは逃げ回って泣いてるだけなので、映画としてはあんまり面白くない。苛められて輝くタイプの女優というのもいるが、彼女はそうではないしね。キャスティングにも j.LO至上主義が貫かれているので、共演陣はほんとにどーでもいい扱いしか受けず。暴力亭主に悪の魅力はないし、ヒロインの新たな恋の対象となるのも冴えない男優。ジュリエット・ルイスやフレッド・ウォードも出てるが、さしたる見せ場なし。 ● ちなみに「主人公が家庭内の〈脅威〉からこっそり逃げ出すジャンル映画」の法則に漏れず、本作でもまたヒロインと幼い娘はわざわざ暴力亭主が隣で眠ってるときを選んで逃げ出そうとするのであった。夫が会社 行ってる昼日中とか、せめて愛人と密会するときまで待てんか? ヒロインが習得する格闘技はクラヴマガという耳慣れないもの。なんでもイスラエル発祥の護身術だとか。

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オーファンズ(ピーター・ミュラン)

そのケン・ローチ作品「マイ・ネーム・イズ・ジョー」などで名高いスコットランドの名優ピーター・ミュランの初監督作品。舞台はミュランの故郷、スコットランドのグラスゴー。子供のころに父親を亡くして以来、女手ひとつで育ててくれた母さんが死に、いい歳した息子3人と(小児麻痺で車椅子の)娘1人がすっかり取り乱してしまって通夜の晩に次から次へと悲惨な目に遭う。はたして兄弟4人は翌朝10時の葬儀に無事、顔をそろえられるのか!?…というコメディ。本邦のSABUが撮ってるような類の映画である。つまり要所要所にハートウォーミングを入れるとしても、基本的にはスラップスティックに撮らなければいけない話なのだ。少なくとも「脚本家ミュラン」はそのように書いている。ところが「演出家ミュラン」のほうは(エンドクレジットで献辞を捧げている)1993年に亡くなった自分の母親を思い出してしまったのか妙に湿っぽいトーンでちっとも笑えんのだ。大のオトナが親が老衰で死んだくらいで取り乱すなっちゅうの。 ● エンドロールにはわざわざ「フィルム編集」(=AVIDは使ってない)とクレジットが出る。

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西洋鏡 映画の夜明け(アン・フー)

清朝末期の北京を舞台に活動写真の伝来を描いた、中国人監督と中国人スタッフと中国人俳優によるアメリカ映画。いや、アメリカ資本だから「アメリカ映画」だと言ってるのではない。この映画の登場人物たちは中国人の顔をして北京語を喋っているが(そして実際に演じているのは正真正銘の中国人なのだが)その中身は完全に西洋人なのである。考え方や行動原理があまりに近代化されていて、中国映画を観るつもりでいるとロシア軍人を演じるハリソン・フォード以上に違和感アリアリなのだ。主人公の青年は北京の名門写真館に奉公してるのだが、風来坊のイギリス人が持ち込んだ「動く写真」に魅せられて主人に内緒でガイジンの手伝いを始める。かれはまた親の進める縁談を嫌がり、北京随一の京劇役者のひとり娘に身分違いの恋をしていて、つまり恩ある主人と愛する人の商売仇という立場になってしまって苦しむのだが、まあ西洋かぶれの主人公はいいとして、写真館の主人や京劇役者が不忠者/不孝者である主人公に対して理解がありすぎる。啓(ひら)かれ過ぎているのだ。監督のアン・フー(♀。漢字だと胡安。本来はフー・アンさんですね)は「中国生まれで11歳で文革に遭遇、二十歳でアメリカ留学」というから中身は完全に中国人のはずなのだが、すっかりアメリカナイズされてしまったようだ。ま、あるいは脚本の勉強でハリウッド映画を参考にしすぎたか。なにしろ主人公の老父には(あれは「引退した宦官」という設定なのだと思うが)おかま言葉の友人までいるのだぞ。配給元のギャガという会社はカナダ映画の「カンパニー・マン」をアメリカ映画と言い張ったり、そーゆーことに嘘ばっかついてる会社なのだが、こと本作に関しては「アメリカ映画」という表記で正しいのである。 ● ま、そうした違和感を気にしなければ、映画についてのお話なので面白く観られるだろう。ひとつ気になったのは主人公たちは映写機として使っていた機械で撮影までしちゃうんだけど、映画創成期の映写機ってカメラ兼用だったの?

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カンパニー・マン(ヴィンチェンゾ・ナターリ)

脚本:ブライアン・キング 撮影:デレク・ロジャース 美術:ジェームズ・フィリップス

「CUBE」のヴィンチェンゾ・ナターリ監督、5年ぶりの新作。ちょっとした好奇心から「カンパニー・マン」すなわち産業スパイとなった郊外暮らしの平凡な中年男が巻き込まれる記憶の迷宮。ギャガが次から次へと繰り出している新春2週間打ち切りシリーズの1本なのでアッという間に終わってしまうのだが、「マトリックス」のSF的側面や「ダーク・シティ」に惹かれた人は必見。「マイノリティ・リポート」に失望した向きも是非。 ● 「CUBE」と同じくカナダ映画。これが第1作だという新人による脚本。デジタル・エフェクトとデジタル・ポストプロダクション頼りの、明らかにあまり金のかかってない製作体制だが、現実の風景をうまく利用したプロダクション・デザインと、デジタル加工によるモノクロと見紛うほど彩度を落とした画面が、ヴィンチェンゾ・ナターリの抜群のビジュアル・センスとあいまってクールなルックを作り出している。 ● 主演は「金色の嘘」の、クラシックな顔立ちが活きているジェレミー・ノーザム。かれを迷宮へと案内するウサギの役にルーシー・リウ。<劇中の大半でおかっぱ…というかモガなウィッグを付けてるんだけど、ルーシー・リウ+モガ=片桐はいりなのだった(泣) ● 「カンパニー・マン」というのはワーキング・タイトル(=製作時の仮題)らしく、最終的にフィルム上のタイトルは「サイファー」(アラビア語で数字のゼロの意。転じて「暗号」)となっている。「カンパニー・マン」のままのほうがカッコイイのに。なお、念のため註釈しておくと、劇中の極悪ハイテク企業が本拠地とするワシントン州レッドモンドはマイクロソフト・コーポレーションの本社所在地として有名(もっとも劇中ではMSの天敵=サン・マイクロシステムズをもじった「サンウェイ・システムズ」という名前になってるんだけど)

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ブルー・イグアナの夜(マイケル・ラドフォード)

ストリップ小屋もの。カリフォルニア州法の定めによりステージではトップレスまででGストリングスは外さないが、カーテンの向こうで個室ラップダンスのサービスあり。建前上は本番・フェラチオは禁止なれど、それもまたチップ次第…。LAの場末のストリップ小屋「ブルー・イグアナ」を舞台に女優6人が脱ぐ踊る(ジェニファー・ティリーだけはボディ・ダブルかも) ● …と、まず最重要事項をお伝えした上で具体的な内容についてだが、どうも女優たちが集ってのワークショップが基になっているらしく、各々のエチュードが形になって来たところで「1984」「イル・ポスティーノ」のマイケル・ラドフォード監督が脚本にまとめて演出した…ということのようだ。たとえばダリル・ハンナの演じる「惚れっぽくて人が善すぎるぶんアタマの足りない踊り子」というキャラなど、いかにもインテリのイメージしそうな典型的舞姫像だし、逆に「ヘヴィメタのBGMにノってブラック・レザーの衣裳で金切り声をあげながらヘッドバンギングするバイカー御用達のハードコア・ストリッパー」なんてのはジェニファー・ティリーのセルフ・イメージそのもの。レナード・コーエンで踊るもの憂げな舞姫に扮したシーラ・ケリーという女優さんはプロデューサーにも名を連ねている。ゆいいつの若手&巨乳はシャーロット・アヤナという女優さんなのだが、あれですな、どんなに動いても無理な姿勢をとっても形の崩れないおっぱいほど味気ないものはありませんな。あと、ダリル・ハンナの密かなる崇拝者となるロシア人のスナイパーに「エネミー・ライン」のウラジミール・マシュコフ。サーシャという役名は「エネミー・ライン」と同じなんだけど、ひょっとして同じキャラなのか!? 問題なのは、詩作が趣味のアジア系ストリッパーに扮した韓国系女優サンドラ・オーで、香港のサンドラ・ンよりブサイクってのは、いくらなんでもカンベンしてくれ。アメリカ人のアジア女趣味って、ほんとに謎。 ● 即興を持ち寄るというスタイルの致命的な欠点として、それぞれの女優がそれぞれに思い入れたっぷりに悩みを演じる(ジェニファー・ティリーを除く)わけだから、全体にしんみりしすぎなのだ。ストリッパーという浮き草稼業ならではの楽しさだってあるわけで(でなけりゃ続かないでしょ)そちらをまったく描かず、まるで苦界に身を沈めみたいな描きかたはフェアじゃないだろう。あと、これはやっぱり一昼夜の話にすべきだよな。 ● 東京の公開はもちろん銀座シネパトス。地下鉄を降りて(常連の皆さんならお分かりいただけようが)どうせ「3」だろうと思って三越側ではなく日産ギャラリー側から地上に出て歩いていったら、なんと「1」でやってて笑っちゃったよ。てゆーことはつまり「フィアー・ドット・コム」の封切よりも「ウォーク・トゥ・リメンバー」のロードショー落ちよりも入ってるってことだぞ。いや、世の中にはスケベな野郎が多いんですなあ。<アンタに言われたくない。

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アウトライブ(キム・ヨンジュン)

なぜだか東南アジア一帯に伝播している池上遼一 劇画の流れにある韓国の女流作家の人気コミックスを原作とした、オール中国ロケによる韓国産武侠片。つまり「風雲 ストームライダーズ」と大変によく似た成りたちの映画である。ただ本作が、CGの多用でアクションのダイナミズムを殺してしまった「風雲」と大きく違うのは、武術指導に香港からチン・シウトンと彼のスタント・チームを招いて、思うぞんぶん腕をふるわせていること。程老師も、本家・香港映画で生身のアクションが軽視されがちな近年の鬱憤を一気に晴らすかのように暴れまくりで、もう人間が独楽のごとく廻ること廻ること! 香港武侠映画ファンならば、このアクション・シークエンスを観るためだけに1,800円を払う価値があろう。 ● 対してドラマのほうは、元から明への変わり目の中国を舞台に(当時)漢人からは一段 低く見られていた高麗人の武術家である主人公と、蒙古将軍の娘の悲恋が主筋となっているのだが、これが初監督となるキム・ヨンジュンは、この手のドラマに付きものである突如として盛り上がる熱いエモーションを扱いきれていない。また、大長篇であるらしい原作コミックスをむりやり2時間にまとめた脚本にそーとー無理があったか、あるいは撮影したものの長くなりすぎてそーとーカットしたかのどちらかで、明らかに描かれるべき場面がすっぽりと抜けていたりする。なにより「2時間の映画」としてまとめる際には「冒頭で主人公をこっぴどく痛めつけて、最後まで立ちはだかる憎っくき敵役」の存在が絶対に必要で、たとえ原作に忠実な脚色かしらんが、ダイジェストにしてしまった時点で「敵役1人あたりに対して費やされる時間」は原作の数分の一になってしまうわけで、結果として本作では主人公が敵を次から次へと簡単に倒していってしまうので、最後に残った敵がどーみても「最強の敵」に見えんのだ。ダメでしょそれじゃ。あと、ラストにのこのこ出てくる3人は「見てたんなら助けろよ!」って話だよな。 ● 主人公に(「銀杏のベッド」で過去からの敵役を演っていた)ちょっとレオン・カーフェイ系の濃いい顔立ちの、シン・ヒョンジュン(申鉉濬) ヒロインのモンゴル娘に典型的な韓国美人の、キム・ヒソン(金喜善) …あのー、この2人ってどー考えても異父兄妹という設定じゃないかと思うんですけど、いいんですか愛しあって子供まで産んじゃったりして? ● 字幕は韓国映画字幕界の戸田奈津子(<ずいぶん狭い世界やなあ)こと、根本理恵。ふだんはとても巧い人なんだが、時代劇は苦手らしく、主人公の青年が育ての親の老師に対して「おじ様」って「あしながおじさん」じゃないんだから。「叔父上」とかにしてくれよ。あと時代劇で「僕」とか「君」は禁止な。 ● しかし「飛天舞」という素晴らしいオリジナル・タイトルがあるのに、なんでまた「アウトライブ」なんてダサい英語タイトルのほうを採用するかね?>松竹宣伝部。ハリウッド映画ならともかく、カタカナにしたほうが客が来ると思ってんなら大きな勘違いだと思うが。

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刑事デカまつり[ビデオ上映]

アメリカ刑事(高橋洋) さよなら地球刑事(奥原浩志)
スローな刑事にしてくれ(市沢真吾) だじゃれ刑事(佐々木浩久) 刑事vs刑事(廣木隆一)
特殊刑事:リトル左膳と5リットル刑事デカ長(西山洋市) 引き刑事(堀江慶)
NOと云える刑事(青山真治) 夫婦めおと刑事(万田邦敏) モーヲタ刑事(山口貴義)
霊刑事(黒沢清) 忘れられぬ刑事(篠崎誠)

現在の日本映画を代表する7人の実力派監督による今だかつてないプロジェクト…なる触れ込みの「Jam Films」に呼ばれなかった監督たちが忘年会の席で盛り上がって「じゃ、なにか!? おれたちゃ、日本映画を代表してないってのか!?」「けっ。岩井俊二がなんぼのもんじゃちゅうねん!」「篠原だとかおれと紛らわしい名前つけんじゃねえってんだ!」「だいたい〈今だ〉じゃなくて〈未だ〉だろ。どないなっとんねん。責任者出てこい!」「おーよ、こーなったらどっちが実力派か見せたろやないけ」と、酒の勢いでその場で電話かけまくって10人の監督(と2人のパシリ)を集めて年末年始の2週間ほどでチャチャチャっと作ってしまった、ビデオ撮り短篇集。「渋谷がなんぼのもんじゃい! 男はシモキタよ、シモキタ」というわけでシネマ下北沢で2週間の限定上映となった。※1.事実関係には一部、推測が含まれている(でも多分このとおりだと思うぞ) ※2.ちなみにこれがポスターだが、このディレクトリ名、タイトルの読み方 違ってるぞ!>シネマ下北沢。 ● ノリとしては「プロの監督が作った短篇集」ではなく「学園祭とかでやるよーな学生自主映画」である。作り手側もそれは十二分に承知していて、木戸銭も千円ポッキリ。準備期間も予算もなく、ひとり10分以内という枠なので、もちろん全員が思い付きの一発ネタ。ただプロの監督とシロートの違いは「一発ネタだけでは10分は持たない」ということを理解してるか否かであって、パシリをやった御褒美に混ぜてもらった(おそらく映画美学校卒の)新人・市沢真吾の「スローな刑事にしてくれ」など、まさかこの21世紀に学生自主映画の古典的な定番ギャグを見せられるとは思わなんだ。その点、プロの監督である廣木隆一「刑事vs刑事」などは一発ギャグ2本、5分ほどでさっさと切り上げてしまい、他のプロ監督勢はいちおう一発ネタをなんらかの形で発展させて形にしている。おれがいちばん笑ったのは「発狂する唇」の佐々木浩久による「だじゃれ刑事」。「血を吸う宇宙」の中村愛美と(なんと)作家・中原昌也の主演で、なるほど柳下毅一郎の日記で頻繁に記述されているとおりのキャラで絶品だった。突如として登場する諏訪太郎の泣かせる爆笑台詞「映画ってこんなもんじゃないだろ! おれとか内藤は自主映画に命かけてたよ。はぁ…。帰って『ユキがロックを捨てた夏』観よ」 ● 日本ホラー界期待の新人監督・高橋洋の初監督作は「戦争のはらわた」のチープなパロディ。完全に学生映画だが笑えることは笑える。これで一生、フィルモグラフィーには「デビュー作は『アメリカ刑事』」と記載されるわけですな。 「タイムレス・メロディ」の奥原浩志による「さよなら地球刑事」はSFファンタジー(…と言えなくもない) 「完全なる飼育 愛の40日」「ぬるぬる熱燗」の監督で、黒沢清「蜘蛛の瞳」の脚本家でもある西山洋市の「特殊刑事:リトル左膳と5リットル刑事長」は、おれには理解不能なセンスの学生ギャグ映画だった。 「引き刑事」堀江慶はパシリNo.2。これも単なる学生映画。 青山真治の「NOと云える刑事」は寺島進 主演。かっちりした構成で無難にまとめた短篇映画。 「夫婦刑事」の万田邦敏はサスガにこーゆーのは慣れている。高橋洋の「アメリカ刑事」を観た後で、その出演者2人を呼んで、続篇ならぬ続篇をふふんと鼻歌まじりで作ってしまった完全な典型的なデスクトップ・ムービー。 「恋のたそがれ」「ヤマトナデシコ」の山口貴義の「モーヲタ刑事」は10分もののツボを抑えていて達者なんだけど「ディテイルがモーヲタじゃないと笑えない」という下北沢にこんな映画を観に来る客層に対しては致命的な欠点を抱えている。 黒沢清の「霊刑事」は本人による自己パロディ。ところがこれが一発ネタを延々と引っ張るだけで退屈。3分にしなさい3分に。 ラストはこの企画の発案者&幹事の篠崎誠による「忘れられぬ刑事」。これがいちばん出演者も豪華でおそらく撮影時間もかかっているのだが、それがかえってちゃんとし過ぎてて笑えないという難しい結果に。 ● 以上、〆て1時間35分。おれはもうこーゆーのは充分に観たので途中で少々退屈してしまったが、映像の無断むにゃむにゃとか音楽の無許可ごにょごにょとかの事情でDVD化/テレビ放映不可能につき、話のタネに観ても損はしないだろう(千円だし) てゆーか、これ、大学の新歓とか学園祭などのルーズな空間でやれば爆笑間違いなしなので実行委員の皆さんはダメもとで話をしてみたら? ● [追記]その後、チラシを入手したのだが、それに所載の篠崎誠の文章によると、最初は篠原の「浅草キッドの『浅草キッド』」の上映をオファーされたのだが、生憎と ひと足違いで他館での上映が決まっており、そこで[次の瞬間、なにを血迷ったか、思わずこんなことを口走ってしまったのだった。「でも劇場のスケジュールがあいてるならそれまでに新作撮りますから、それでどうですかね? 知り合いの監督たちにも声かけますよ。みんなで短編映画撮りおろし」] いつも上映劇場探しで苦労してる自主製作時代の監督の悲しい性ですな。[こうして運命の歯車は回ったのだ。もう誰に求められぬ。それじゃまるで学園祭ノリじゃないかって? だまらっしゃい! 我ら血迷える12使徒の野望、それは世界中を学園祭にすることなのだ!] そいつは失礼しました。あと、失礼ついでに、堀江慶は日芸の卒業製作「グローウィン・グローウィン」がすでに劇場公開されているプロのパシリの方だった。失礼した。