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m @ s t e r v i s i o n
Archives 2000 part 1
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY(村石宏實)

脚本:長谷川圭一 特技監督:村石宏實 製作:円谷プロダクション
円谷プロが世界に誇るジュブナイルSFの正嫡である平成ウルトラマン・シリーズは「…ティガ」→「…ダイナ」→「…ガイア」と続いて一応の完結をみており、このうち「ティガ」と「ダイナ」の世界は同一の時系列にある。今度の映画は3年前にファーストラン放映を終えた「ティガ」のラストシーンから始まり、カメオ出演している「ダイナ」のメンバーにバトンを渡したところでエンドロールとなる。昨年までの小中和哉に代わって、テレビシリーズの村石宏實がそのまま監督&特技監督を手掛けているので、感触としてはTVシリーズの最終回スペシャルという印象。とは言え、きちんとウルトラ・シリーズの約束事を踏まえているので、TV版「ティガ」をまったく観ていない「ウルトラセブン」世代のオヤジ(=おれ)でも何ら混乱することなく楽しめる。 ● ウルトラマンティガは(M78星雲からやって来た宇宙人ではなく)3千万年前の超古代人「光の巨人」である(らしい) 「光あるところ影がある」(c)白土三平「サスケ」というわけで、超古代遺跡に封印されていた「闇の3巨人」が甦り…という話。一種の巨人神話だな。この3巨人のリーダーはカミーラという名の女性で、人間の姿をとった時を芳本美代子が演じているのだが、このイメージがヴァンパイアなのだ。「ガメラ3」のギャオスさながらに無数に出現する「使い魔」の空とぶ怪獣はコウモリ。で、このカミーラは3千万年前、ティガが闇を裏切って光に付くまではティガの恋人だったという設定で(すでにテレビ版の最終回でティガに変身する力を失っている)長野博クン(V6)を妖しく誘惑する。思い出して甘美な悪の世界を、というわけだ。このダークなトーンの前半部分が完全にホラー調で、お子様向けとしては怖すぎるほど。場内には幼い女の子の「こわーいぃぃ〜」という叫びが響いていた。 ● さらに子供番組としては画期的なのは、テレビ版の最終回でイイ仲となった長野クンと同僚の吉本多香美が婚約中で、結婚式を間近に控えているという設定。三角関係に苦悩するウルトラマン(!) しかも吉本多香美が「皆月」で女優開眼してしまったもんだから地球防衛軍の戦士とは思えぬ色っぽさなのである。子供には目の毒な赤の悩殺ビキニまで披露してたりして。いまにも長野クンにマット洗いとか始めそうでマイったよ(>嘘です。ごめんなさい) ● ま、もちろんウルトラマンだから基本的には「正義のヒーローが悪い怪獣を倒すお話」ではあるのだが「平成ウルトラマン」の魅力は決してそれだけにとどまらない。ここには初代「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」のスピリッツが脈々と息づいている。幼児や小学校低学年の子供たちに向かって、善玉のほうの登場人物が「人の心から闇が消えることはない」などと言いきるような、それに対してヒーローが「たとえ人の心から闇が消えることがなくても僕は信じる、…人間は自分自身が光になれるんだ」と語りかけるようなお子様番組がほかにあるか? ● 驚くべきことに円谷プロはこうしたTVシリーズを(局が出す製作費では足りないので)毎週製作費持ち出しで作っていたというのである。いやもちろんキャラクター権料などの収入があるから出来ることなんだろうが、それでも彼らの人柄は(講談社テレビマガジン編集部の優れた編集によるフルカラー26P総ルビ600円のパンフレットに掲載されている)株式会社 円谷プロダクション・代表取締役社長 円谷一夫のあいさつに明らかであろう>「また機会があれば来年も劇場映画を製作し公開したいと考えています。そのためには皆様方の応援が円谷プロには必要です。円谷プロは決して大企業ではありません。その時その時が勝負なのです。来年も皆様方にご挨拶が出来るようにミレニアムを頑張って行きたいと思います」・・・まるで馬鹿の上に愚かがつくような正直さではないか(!) ぜひ言葉どおりにあと1000年は頑張ってほしいものである。 ● 丸の内プラゼール(旧・丸の内松竹)のロビーにはなんとウルトラマンティガ御本人が控えておられて、ヒーローを畏敬の目で見あげる子供たちと、握手をしたり写真に収まったり脚を蹴られたりしていたが、面白いのはお母さんたちが「ほら、ウルトラマンがいるわよ」とか言ってウルトラマンが何でもいっしょくたなのに較べて、子供たちは「あ、ティガだっ!!」「ティガがいるっ!!」とか、きちんと1人1人のウルトラマンを区別して呼んでいる。ま、考えてみリゃ当たり前の話で、おれだってガキの頃はウルトラマンも仮面ライダーもファーストネームで呼んでいたものなあ(…と遠い目になる) もっとも、セブンやタロウはともかく“帰ってきた”ってのは他に呼び方がなかったのか>昔のおれら。…てゆーか、長げーよ文章が。

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ヴァン・ダム IN コヨーテ(ジョン・G・アビルドセン)

コヨーテの遠吠えとともに、荒野の離れ町にバイクにまたがり1人の男がやってくる。ならず者と年寄りしかいないその町では、カウボーイズとバイカーズがいがみ合っていた…。ウォルター・ヒルの「ラストマン・スタンディング」なんぞよりよほど原典に忠実でまともな黒澤明「用心棒」のリメイクである。…いや作者自身が劇中で明言してるのだ。バスの運転手がウェイトレスをこう言ってクドくのだから「サムライ・ムービーって好きかい? 日本人のウェスタンだ。今度『用心棒』って映画やるんだけど観に行かないか」とね。 ● ジャン=クロード・ヴァン・ダム演じる主人公の無骨なユーモアなど、三船敏郎のキャラクターをそのまま引用してると言ってもいい。しかし、ちゃんとヒロインが設定されてるのにヴァンちゃんたらヒロイン以外のパツキン女と3P。これはファンサービスってよりヴァン・ダム サービスでしょうな(誰も頼んでないのにケツ見せるし) 「ベスト・キッド」以来のアビルドセン作品の常連パット・モリタを始めとする死に損ないの年寄りどもが主人公の手助けをするってのも一緒。一目見たら忘れられぬ顔の195cmの長身ヴィンセント・シアヴェリなど居酒屋の親父という、まんま東野英治郎(しかもなんと無謀にも中国人の役だ) 主人公のかつての戦友で、幽霊のような神出鬼没のインディアンに(「コン・エアー」のジョニー23こと)サン・クェンティン刑務所出身のダニー・トレホ。 ● 新人(?)トム・オルークの脚本は黒澤明=菊島隆三に較べると、…てゆーか較べること自体が失礼な出来だが、まあそれはいい。「最後は素手の殴り合いで決着をつける」ってのもじつに正しいし。惜しむらくはジョン・G・アビルドセンの娯楽映画演出に往年の切れがないこと。かつては澱みなく機能していたシステムが錆びついてしまったのを見るのは悲しいことだ。なお音楽を「ロッキー」の名コンビ、ビル・コンティが手掛けている。


クラヤミノレクイエム(森岡利行)

「鬼火」「新・悲しきヒットマン」などの脚本家・森岡利行が、主宰する劇団「STRAY DOG」の演目を仲間うちで映画化した自主映画。作者と劇団員と小劇場の観客30名ほど(推定)にしか通用しない自己陶酔しきった学芸会の余興。何年も前に廃館したままになっている映画館(の廃墟)でロケをしている。しょんべん臭い場末の映画館への過剰な思い入れ。“黒澤明監督「酔いどれ天使」へのオマージュ”だそうだ。画面の端々から「ボクたちこんなにも映画を愛してるんだよお」という自己主張がひしひしと伝わってくるが、あんたらみたいな愛し方じゃ映画が迷惑だから止めてくれ。たとえて言えば「ドリームメーカー」と同じ類(って「ドリームメーカー」観てないんだけど) とても付き合えん。20分で退出。 ● ひとつ心残りだったのは、映画館の娘をやってた黒川芽以という美少女(もしかして大人?) それとVシネマの常連女優・栗林知美が厚化粧の街娼を演ってるのだが、この娘いつのまにかスゴく巧くなってるかも。 ● 舞台となった映画館の名前は中野ひかり座。この「クラヤミノレクイエム」を上映している中野武蔵野ホールとは駅をはさんで反対側。南口をしばらくいった五差路に面していた。おれが通うようになった1970年代の終わりには、すでにピンク映画の4本立てだった。最後にここでに観たのは鎮西尚一の「ロリータ・エクスタシー 肉あさり」。1988年の1月だ。その後、アングラ系劇団が芝居小屋として使っているのは知っていたが、それがこの「クラヤミノレクイエム」だったのだな。だが、賭けてもいいが森岡利行は、中野ひかり座が映画館として営業していた頃には、1度だってこの劇場で映画を観たことはないと思うね。

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追憶の上海(イエ・イン)

「レッド・チェリー」の葉櫻(イエ・イン)の新作。ロシアの強制収容所を舞台にした「レッド・チェリー」は“国際映画祭仕様”の面白味のない優等生映画だったが、それは本作でもまったく変わっていない。中国人監督による正真正銘の中国映画であるにもかかわらず、ほぼ全篇が英語台詞。1936年、国共合作以前の上海を舞台に描かれる、国民党の秘密警察に立ち向かう共産党員のヒロインと、アメリカ人医師のロマンス。「植民地もの+レジスタンス映画」のおもむき。不精髭モードのレスリー・チャンは伝説的な革命指導者の役で「後頭部に弾丸が埋まってて明日をも知れぬ命」という007のロバート・カーライルのような設定。強い印象を残すが主演ではない。 ● しかし「植民地もの」ってのは“支配する側の人間の一方的な思い入れ”をロマンチックと考えることで成り立つジャンルである。なぜそんなものを支配された側の中国人が作るのか。ま、あからさまな海外マーケット狙いなわけだが、売れりゃいいのか(って日本人のおれが言うのもナンだが) ● しかし、いくらドラマ作りのためとはいえ「仲間を裏切った元・共産党員が、国民党の秘密警察の幹部になってる」という設定にはムリがあるのでは? しかもこの男、初対面のアメリカ人医師にかつての自分の恥を平気でぺらぺら喋るのだ。中国人って、そういうことしないと思うけどなあ。

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ワイルド・スモーカーズ(スティーブン・ジレンホール)

チーチ&チョンのような「マリファナ・カルチャー/ヒッピー・カルチャーに根ざしたルーズなコメディ」を予想してたら(ルーズはルーズなんだけど)わりかし普通のクライム・コメディだった。大麻を栽培してた3人組がボスの死に乗じて自分たちでクサを捌こうとたくらむが…という話。監督・脚本のスティーブン・ジレンホール(「パリス・トラウト」)にとって15年来の企画らしいが、出し忘れの証文という感じ。 ● 主役の3人組にビリー・ボブ・ソーントン(冷静な参謀格)、ハンク・アザリア(短気なバカ)、ライアン・フィリップ(青二才)。殺されちゃうボスがジョン・リスゴウ。アザリアのガールフレンドにケリー・リンチ。マリファナ・コミュニティの女リーダーにジェイミー・リー・カーティス。ドラッグディーラーにジョン・ボン・ジョヴィとキャストが異様に豪華なのは何故?

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カリスマ(黒沢清)

脚本:黒沢清 撮影:林淳一郎 編集:菊池純一 音楽:ゲイリー芦屋
役所広司|洞口依子 大杉漣|大鷹明良 松重豊 塩野谷正幸|風吹ジュン
・・・なんだこれは!? ● まず今の時代に このような映画を成立させた製作者たちに敬意を表する。「CURE」のようにホラーとして売れるでもなく、「復讐 運命の訪問者」のように やくざものVシネマとして括ることもできない。塚本晋也のように判りやすいビジュアルがあるでもなし、かといってPFF系のミニマルな自主映画もどき(←「大いなる幻影」の“商品としての見た目”はコレ)でもない。はなはだ商品として扱いにくい素材なのである。ATGのあった時代ならともかく、おれが製作会社のプロデューサーであったなら、この脚本にゴーサインを出すのは二の足を踏むと思う。だから、偉いぞ>日活+キングレコード+東京テアトル。 ● では「カリスマ」という映画の正体はなんなのか。これはホラー映画の手法による阿部公房 的な不条理の…いや違うな…“条理の”世界を描く「風が吹けば桶屋が儲かる」という絶望に彩られた終末SFの傑作である。 ● 犯人と人質の、両方を救おうとして両方を死なせてしまった主人公の刑事は停職となり、その森へ静けさを求めてやってくる。だが、彼が直面したのは、外の世界とまったく変わらぬ政治と争いに満ちた、奇妙に歪んだ現実だった。彼はひとつの疑問に答えをださなければならない。すなわち「特別な1本の木と、森全体の、どちらを救うべきなのか」 ● 順番からいうと「大いなる幻影」の前に撮影された新作は、黒沢清が10年前にサンダンス・インスティテュートのスカラシップを得た脚本の映画化である。哲学的ともいえる寓意性の高い…ともすれば難解な台詞劇になりかねないテーマを、聡明な(ときに聡明すぎる)黒沢清はあくまでもアクションの積み重ねで物語っていく。103分。刺激的な映画体験をお望みの方にお勧めする。

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呪怨 & 呪怨2(清水崇)[ビデオ上映]

こりゃ怖い。「リング」のあの戦慄のラスト級の怖さを連続して観せられるという恐怖の映像体験。一言でいえば“化け猫”映画の今日的再生。あるいは、化け物を見せる「女優霊」。いや、見せるったって、その見せ方がハンパじゃない。ここまで化け物をしっかり見せて、それで死ぬほど怖いってのは大したものだ。 ● 「呪怨」が70分 「呪怨2」が76分だが、1のラストと2の冒頭が30分ほどダブってるのでクレジットを除くと正味100分ほどか。15分程度のエピソードをA、B、Bダッシュ、Aダッシュ、C、Cダッシュと、時制をジグソーパズルのように組み合わせて、とある1軒の家にとり憑いた“呪怨”の恐怖を描く。典型的な“序破急”の構成で、謎をはらんで始まった恐怖は「呪怨」のラストで一気に爆発し、あとは「呪怨2」でバァーッと伝染していく。 ● 監督・脚本は映画美学校 出の新人・清水崇。「発狂する唇」の三輪ひとみ、「ブギーポップは笑わない」の三輪明日美、「死国」の栗山千明、「D坂の殺人事件」の大家由祐子と吉行由実、「カリスマ」の洞口依子、「東京フィスト」の藤井かほりと、麗しのホラークイーンたちが競演して悲鳴を上げたり白目を剥いたりしてくれるのもポイント高し。男性主人公は「女優霊」「リング」の柳ユーレイだし。 ● 当サイトの基準からするとモラル的に許せない描写が1箇所あるのだが、他の怖いシーンで感覚が麻痺してるせいか、あまり気にならなかったので不問とする。 あと、ふと思ったのだが「リング」や本作でキメとして使われる「上目遣いに白目を剥いた恐怖の表情」って、歌川芳年なんかが描いてたような妖怪浮世絵からの引用じゃないかな。 ● しかし同じ東映ビデオ作品なんだから「うずまき」なんかよりこっちを全国公開すれば良かったのに。これだけ怖けりゃ「リング0」「ISOLA」に勝てたかも。次はぜひ、清水崇の劇場用新作を>黒沢満(ブロデューサー)

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ブギーポップは笑わない(金田龍)

……起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際は実に単純な、よくある話にすぎないのだろう。でも、私たち一人ひとりの立場からその全貌が見えることはない。物語の登場人物は、自分の役割の外側を知ることはできないのだ。[上遠野浩平「ブギーポップは笑わない」電撃文庫 より引用] ● われわれは映画について語るとき「主役」「脇役」と何気なく口にするが、それは「描かれている劇的な物語の中心にいる登場人物」を「主役」と呼び習わしているわけで、トム・ストッパードが「ハムレット」から「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を紡ぎだしてみせたように、とうぜん脇役には脇役なりの情けない出来事や、平々凡々たる日常があるわけだ。 ● 電撃ゲーム小説大賞(なんてものがあるのだ)を受賞した上遠野浩平の原作は、話としてはありがちな「ねらわれた学園」タイプのパラサイト学園SFなのだが、一種の叙述ミステリ的なおもむきがあって、章ごとに別々の登場人物が一人称で自分の目からみた事件、あるいは起こらなかった出来事について語るという構成がミソ。映画版はこれを忠実になぞった6部構成で、6人の登場人物がそれぞれの「人生の断片」を語ってみせる。直接の当事者によって「事件そのもの」が描写されるのは最終の第6部のみであって、普通の映画はこの部分を90分かけて描くわけだ。「ブギーポップは笑わない」が斬新なのは、そこにいたるまでの1部から5部において「主役のボーイフレンド」やら「当事者の同級生」やら「何も知らない傍観者」といった盲たちが象を撫でて「耳がデカい」だの「鼻が長い」だの「脚が太い」だの言う点である。ただ、物語の中心=象の姿を隠したまま1時間以上も観客を惹きつけておくのは容易ではない。ぶっちゃけて言えば話が退屈なのだ。「何もない」ってことを見世物として成立させるには芸がいるのだよ。意欲は買うけど力足りず。 ● では何ゆえにそんな退屈な代物を最後まで観てるかといえば、そりゃあんた、若くてかわいい娘さんたちが制服姿で画面を乱舞するからですわ。背の小っちゃいとこが役にはまってる吉野沙香。笑顔がトビキリの三輪明日美。凛々しい横顔の黒須麻耶。おとなしい奥手の女の子を演らせたら天下一品の清水真美。いやあ目の保養、目の保養。はっはっは。…でも青くさい台詞の数々は学園ドラマだからそういうものだとしても、いまどき「女の子が指鉄砲で男の子にバーンて撃つマネ」なんてのはベタすぎると思うぞ、いくらなんでも。 ● 映画を観た後で、この稿を書くために生まれて初めて「ヤングアダルト小説」なんてものを買った。挿絵のある小説なんて江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズ以来かも(火暴) てゆーか、こんな一銭にもならんことに、その情熱はどこから来るのか?>おれ。

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ボイスレター(デビッド・カーソン)

アメリカには「死刑になることが決まっている檻の中の男」にロマンチックなものを感じる女性が少なからずいるようで、いわば“死刑囚萌え”だな。その死刑囚が無罪を主張してたりするともう完全にハーレクイン・ロマンスの世界である。で、こういう人たちはせっせと獄中の囚人たちに愛の手紙を書いたり、自分のセクシーな写真を送ったり、面会に通ってガラス越しに愛を確かめ合ったりしていて、極端な場合は死刑囚と結婚しちゃったりする。この映画の主人公である(冤罪で服役中の)死刑囚も、4人の女性とカセットテープ文通(=ボイスレター)している。再審で無罪を実証して釈放されたのも束の間、手違いで別の女あてのテープが送られた1人の女から脅迫テープが届く「あたしを裏切った あんたに死刑を宣告する」と。そして何者かが男に罪をきせるべく、ほかの3人の女を1人、また1人と殺していく。このままでは死刑房に逆戻りだ。はたして真犯人は4人の女のうち誰なのか…? ● プロットにそうとう大きな穴がぽろぽろ開いてはいるが、いちおう最後までサスペンスを持続して飽きさせないので合格点。4人の女に無名に近い女優ばかりをキャスティングしたのも成功している。なかでは比較的 有名なのがコートニー・コックス似のブルネット、ジア・カリデス。「ダンシング・ヒーロー」のヒロインの片方や、「パーフェクト・カップル」でトラヴォルタ候補の“お手つき”を告発する美容師や、「オースティン・パワーズ:デラックス」のロビン・スワロウズ役などを演じてた女優さん。メリル・ストリープの下手なモノマネみたいなのが「ヘルレイザー4」のキム・マイヤーズ。主演のパトリック・スウェイジはいつものパトリック・スウェイジで、まあこれは(以下略) でも、ちょっと老けたかなあ。一瞬ジョン・ヴォイトに見えたりして。監督はイギリスの舞台演出家出身で、本作が「STAR TREK ジェネレーションズ」に続く2本目となるデビッド・カーソン。ベテラン・カメラマンのジョン・A・アロンゾが撮影を担当している。 ● そもそもこの話って主人公が4人の女と同時に文通してたのが原因なんだよな。いや、死刑囚だから孤独を紛らわせたいのは分かるけど、4人全員に愛を囁いちゃいかんでしょ。自業自得。


破線のマリス(井坂聡)

これは意図的なのだろうなあ。意図的だとしたらずいぶんと大胆なことである。観客の感情移入も同情も得られないキャラクターをヒロインに据えるとは。そりゃアメリカ映画にだって主人公が過ちを犯す映画はある。“ある”どころか、それはひとつの定型パターンだ。だがハリウッド映画ならば、冒頭で(主として倫理的な意味での)過ちを犯した主人公は、エンディングにいたるまでの時間を必死になって過ちを取り返そうと努めるだろう。だから観客は主人公を応援する気持ちになれるのだ。ところがこの映画のヒロインは、まさにラストシーンまで思いあがった勘違い女のままである。かといって「悪の魅力」を魅せるでもない。ヒロインにあるのは愚かさだけ。これでは娯楽映画として失格。 ● ヒロインは報道番組の編集者。だがガセネタにひっかかり無実の人間を殺人犯として名指しする映像を放送してしまって、…という話だが、まず大前提からリアリティが無さ過ぎる。プロデューサーでもディレクターでもない一介の編集者が作った5分間のクリップが、中村敦夫がキャスターをしてるような報道番組で誰のチェックも受けずにオンエアされるなんてありえるか? しかもこの女、ニュースソースの信憑性を確かめもせず、こともあろうに殺人犯と名指ししようとしてる相手への取材もしない。裏も取らない。男の顔にモザイクすらかけないのだ。いくらテレビでもここまで酷かないだろよ。だいたい誰が見たって一目で怪しい白井晃をどうして信用するかね?(まあ、これは演出の問題だけど) ● 原作&脚本の野沢尚はこれで江戸川乱歩賞を獲ったそうだが、あのう、これ「殺人犯はだれなのか?」という大もとの謎の答えを投げ出したまんまなんですけど(それでミステリと呼べるのか?) それと、あのオチで泣けってのはムチャクチャだ。あれじゃストーカーじゃねえの。子供の扱いを根本的に間違えてる。 ● ヒロインの黒木瞳はみずから熱望した役とあって大熱演だが、可哀想に脚本を読む力がなかった(普段、渡辺淳一ぐらいしか読まんのだろうなあ) テレビの犠牲になる男に陣内孝則。こいつは映画じゃ やくざ以外 演らしちゃダメだ、って言ってんのに。

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救命士(マーティン・スコセッシ)

脚本:ポール・シュレーダー 撮影:ロバート・リチャードソン 編集:セルマ・スクーンメーカー
「この街はすべてを殺してしまう。皆 死ぬんだよ」 ● キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」に描かれた(実際はロンドンで撮影された)“紐育地獄巡之図”を観たスコセッシとポール・シュレーダーの「タクシー・ドライバー」コンビが「ほんとのNYはこんなもんじゃねえ!」とばかりに(ほんとか?)取り組んだニューヨーク地獄絵図。ほとほと生きているのが嫌になる街として描かれ、作者の分身である主人公からさんざ呪詛の言葉を浴びせられて、よくもまあニューヨーク市がロケを許可したものだ。 ● 主人公のフランクは graveyard shift(墓場勤務=深夜勤務)専門の救急救命士。すなわち夜の街を救急車で流して、ひとたび通報が入れば駆けつけて、その場で救急医療処置を講じるのが仕事。なにを好き好んでクソダメの街の汲み取り屋を続けてるかといえば、それは「死にかけた患者の命を救う快感」の中毒だからだ。それも重度の。半年前に黒人少女を“死なせて”以来 ひとつの命も救えていないので いまや彼には禁断症状があらわれている。路ゆく街娼の顔が死なせてしまった少女の顔に見えるのだ。そして我々の目には、フランクの制服の白いシャツがハレーションを起こしてまるで亡霊のように映る。…まるで魂が薄まってしまった人間のように。 ● フランクたちに行き先を指示する配車係として声の出演もしているスコセッシはこの街に絶望してる(…え、ラスト? あれが“希望”と呼べるかね。あれで“救済”されるものかね) この生粋のNYっ子は、なす術もない自分たちに怒ってるのだ。不可解なのは映画の時制が1990年代初頭に設定されている事。現在のNYはずっとクリーンで安全になってるんだそうだ。ならばフィルムに焼きつけられたスコセッシの生々しい怒りは何なのだろう。「昔は酷かったんだぞバカヤロー」なんて怒りかたはしないよな。ならば結論はひとつだ。「1990年代初頭云々」の字幕はただのエクスキューズ。これこそがスコセッシの目に映った“現在の”ニューヨークの姿なのだ。「あんたら奇麗事ばかり並べてるが汚いものを目に付かない処に隠してるだけじゃないか」と怒ってるのだ(ほんとか?) ● 三晩の話で、それぞれパートナーの救命士となるジョン・グッドマン、ヴィング・レイムズ、トム・サイズモアが三者三様の狂い方をしていて素晴らしい。NYの夜を自在に疾走るカメラは「カジノ」のロバート・リチャードソン。本作もまた彩度を落とした現像法を採用している。どれだけ技法を駆使しても決して「MTV的」にならない芸術的な編集は(いまやスコセッシの半身と言ってもいい)セルマ・スクーンメーカー。本作もまた全篇にロック・ミュージックが鳴り続ける(今回は選曲:ロビー・ロバートソンの名はクレジットされてない) スコセッシのプロダクションと、パラマウントの気鋭のプロデューサー、スコット・ルーディンの共同製作である。

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ラビナス(アントニア・バード)

なんだこりゃ!? 「人肉を喰って生き延びた遭難者の実話」かと思ったら吸血鬼ものだった。この吸血鬼は血を吸う代わりに人肉を喰らうのである。それならそれでホラー・アクションと割りきって撮ればいいものを「司祭」や、ドリュー・バリモアの「マッド・ラブ」の女流監督アントニア・バードには、これを“野心的な問題作”にしようという山っ気がミエミエで、かえって意図不明の怪作にしてしまった。やたらコミカルな音楽もチグハグ。アントニア・バードには劇中でロバート・カーライルが嘲笑とともに口にする台詞を贈ろう「“道徳”か。臆病者の最後の砦だ」 ● ノスフェラトゥの役まわりにロバート・カーライル怪演。自らも血への欲求と戦いつつカーライルと対峙する主人公に「L.A.コンフィデンシャル」の神経質なエリート刑事ガイ・ピアース。気弱な司令官にジェフリー・ジョーンズ。 ● なお、タイトルの「ラビナス」とは“むさぼり喰う”とか“腹ペコ”という意味。

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サンデイ ドライブ(斎藤久志)

はじめに白状しておくが斎藤久志の映画を観るのは初めてである。自主映画時代の作品も観てないし、本作の元ネタになった「ワンピース」ものの短篇も1本も観てない。商業映画デビュー作の「フレンチ ドレッシング」は、おれのキライなタイプの“何も起こらない自主映画”かと思って観なかった(誤解のようだが) なので、本作が「いつもの斎藤久志」なのか「いつもと違った事に挑戦した作品」なのかは判らない。判らないが、じつに風変わりで面白いことをやっている。 ● そもそもの「ワンピース」って企画は「カメラ据え置きでフィルム1リール分(10分?)撮りっぱなしの編集なし」という制約の元に連作された(されている?)短篇映画群だったと記憶する。で、その中の1篇「Whatever」を膨らませて長篇にしたのが「サンデイ ドライブ」…という事らしい。 ● どういう映画になったかというと、まず基本的にカメラは動かない。その場面が続く間はカット割りもない。ただ日常生活にスタンダード・サイズの窓を開けて、登場人物たちの言動を覗き見している感じ(劇伴はある) まるで「隠しカメラによる観察ドキュメンタリー」みたいなスタイルだ。ドキュメンタリーと同じく、この映画の面白さの大きな部分は「段取りからこぼれるものが写ってしまう」という点に由来している。だが、斎藤久志が独特なのはここからだ。(当たり前といえば当たり前だが)これは偽ドキュメンタリーである。彼はあくまでも脚本に基づいて“段取りからこぼれるもの”を演出しているのだ(そこが「M/OTHER」のような勘違い映画と違うところ) そうして出来あがったのが「なんとなく成り行きで殺人・誘拐・強盗・車両窃盗犯になってしまう中年のビデオ屋店長とアルバイトの若い女についての逃避行ドキュメント」という奇妙な代物だ。 ● 塚本晋也扮するビデオ屋の店長と、唯野未歩子 演じるアルバイト娘は日常生活の延長のような自然さで殺人を犯し、車を盗み、小学生を誘拐し、知人の部屋に強盗に入る。一度たりとも声を荒げることはないし、ましてや台詞を怒鳴ったりもしない。かといって「淡々」を演じて「だから怖い」って演出でもない。2人はごく普通に会話し、笑い、行動する。これはあくまでも「いつもとちょっと違った日常の記録」なのだ。 ● この映画で心底怖いのはヒロイン・唯野未歩子の普通さである。なに考えてんだか得体の知れない普通さ。最後まで真意のつかめない普通さ。本篇の白眉は、殺人でも強盗でもない。それは、初めて店長とデキた翌朝、彼女が店長の女関係を、問い詰めるでもなく、でも結局は洗いざらい白状させといて「やっぱり店長って信用できない」と冷たく言いはなち、中年男を慄然とさせるワゴン車後部席の一景なのだ。男性観客は「怖ぇぇ…」と心から怯えること請け合いである。本作の製作も兼ねている塚本晋也は、ビデオ屋の店長をしてる淋しい中年男を演じて絶妙にリアル。おれも若い娘とSEXとかしたら「嫌じゃなかった?」とか聞いちゃいそうだもんなあ(火暴) あと“誘拐される”小学生のキャラクターが素晴らしい。補聴器をつけて一言も喋らない女の子。でも淋しげではなくニコニコしてて2人にひょこひょこ付いて来る不思議な女の子だった。


ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer(堤幸彦)

TVシリーズを映画化する場合は「初めて観た人でも違和感なく楽しめて、その上でTVシリーズの観客にだけ判る“目配せ”がある」ってのが正しい態度であろう。「踊る大捜査線」や「逮捕しちゃうぞ」の映画版にはそうした配慮があり、いきなり観ても充分に楽しめた。だが「ケイゾク/映画」のスタッフは「TVシリーズのファンを楽しませる」ってこと以外、考えてないようだ。TVから引きずっているのであろう全篇にわたる悪ふざけは大目に見よう。泉谷しげるの役や、鈴木紗理奈に惚れてる(?)らしき男がいったい誰なんだか判らないという不親切さにも目を瞑ろう。だがどうしても許せないのは、この映画、2時間のうち本筋を終えたあとのラスト30分が、難解で精神的な「TVシリーズの解答篇」のようなものへと暴走を始めて、TVシリーズを知らない観客はまったく蚊帳の外に置かれて呆然としたままエンドマークとなってしまう事だ。そんなもの(新宿東映パラス2以外の)映画館でやるんじゃねえよ。TVのファンにだけ向けて作ってんならファンの集いで上映してろ。少なくともTVシリーズを観てない人にはまったくお勧めできない。 ● もっともその「解答篇」にしてからが“絶対悪”らしき存在の男と主人公が禅問答を繰り広げるってだけの「ツイン・ピークス」の稚拙な模倣でしかない。もちろんデビッド・リンチのエンタテインメントは求めようもない。TVシリーズのファンでさえ楽しめるかは疑問だな(このシークエンスは映画版「エヴァンゲリオン」にも酷似してるらしいが、おれは未見なので判断不能) ● 本筋である最初の1時間半はといえばチープな「そして誰もいなくなった」である。非現実的な大仕掛けの、典型的なトリックのためのトリック。まともなミステリとしては機能していないし、これに騙されるのはよっぽどのミステリ識らずだけだろう。しかも中谷美紀の“種明かし解説”がだらだら長くて、そこで初めて“真犯人の犯行への関与の可能性”を写すアンフェアぶり。そもそもこの話って真犯人の動機に致命的な無理があるだろよ[ネタバレにつき要ドラッグ>双子に生まれながら1人だけ美しい姉と、姉だけを愛した父母をずっと怨んで生きてきた妹がどうして「姉と一致協力して両親の仇を討とう」などと思うものか] 最後は「主人公が命からがら逃げ出してめでたしめでたし」となるのだが、まだ孤島に残されてる生存者3名はどーしたんだよ!>刑事だろーがアンタら。 ● ひとつ褒めるなら、中谷美紀はなかなか魅力的なコメディエンヌだった。渡部篤郎は今回 臭みが少ないと安心してたら、やっぱりラストで“熱演”しやがった。特別出演・天本英世(!)の金魚売りは、やはり押井守の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」へのオマージュなのかね? オマージュといえば竜雷太の「太陽にほえろ!」絡みのくすぐり。本人がOKしてんだから大きなお世話だが、ありゃオマージュとは言えんよ。竜雷太に対しても「太陽にほえろ!」に対しても失礼だと思うけどね。 ● それにしてもキャラクターグッズ売り場の賑わいは何だったのか?


オーディション(三池崇史)

こここ、怖えー。怖すぎるう! いや、ストーリーとしては「男やもめのプロデューサーが、主演女優のオーディションで恋に落ちた相手は、とんでもないキチガイ女だった」というサイコホラーで、意図的に論理を破綻させたストーリー/演出を受け入れられるかどうかで賛否はあろうが“よくある話”なのだ。画面が痙攣したような“コマ抜き編集”とでも呼ぶべき不思議な繋ぎ方が効果的。問題は、だ。これクライマックスで「悪魔のいけにえ」も裸足で逃げだす殺伐とした残酷ホラーになってしまうのだ。三池崇史ってほんとにキチガイだな。星1つなのは、おれ個人の生理的許容枠を外れてしまった(=痛すぎる)ので。「マラソンマン」のローレンス・オリヴィエの拷問シーンを超えてるかも。 ● 主演は石橋凌。脚本上は「フツーの人」の役なのだが、こいつが演るとエキセントリックな色が付いてしまって逆効果。役所広司とか佐野史郎あたりの方が良かったのでは。恐怖のヒロインには椎名英姫(しいな・えいひ) 真行寺君枝系の細目美人でなかなかの好演だが、立ち姿が異様に悪いのも演技なのか? ああ、あの声がいつまでも耳について離れない。きりきりきりきりきり… きりきりきりきりきり…

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K a m o m e カモメ(中村幻児)

時効のわずか21日前に逮捕されるまで、“ホステス殺し”福田和子の14年と11ヶ月にわたる逃亡の軌跡。清水ひとみをヒロインに、日本中を和子の足取りを追ってロケしている。ピンク映画出身のベテラン・中村幻児は脚本・監督のみならずカメラマンも兼任、そのうえ彼女を追う刑事として出演もしている。彼は、和子を断罪しない、弁護もしない。ただ1人の中年ホステスの逃げていく様を淡々と見つめる。ヒロインは「15年を逃げ切ってみせる」と不敵に宣言したそのすぐ後で「被害者にすまない」と涙ぐむ。強気と愚痴の繰り返しのモノローグ。 ● 清水ひとみという女優はかつて当代一の人気ストリッパーだった。10日がわりで日本中をさすらって、男たちの前で股を開いてきたのだ。本作では決して美しいとは言えないヒロイン像を、整形前・整形後ともメイクだけで演じきってしまう(てことは素顔は…) なんと新橋駅前のうらぶれた整形病院の、実際に和子が手術をした部屋でロケしている。よく許可したなあ>十仁病院。 ● ときに逃げるヒロイン以上の比重をもって描かれるのが、福田和子の足跡を追って日本中を駆けずりまわる2人組の刑事。いつまで追いかけても容疑者を捕まえられず弱気になった若手刑事に、中村幻児扮する年配刑事は言う「おれは定年まで(追うことを)止めんぞ」。…そう、これは「この手に捕まえられるか判らないものを一生かけて追いかけるのだ」という映画監督としての中村幻児自身の心象スケッチでもあるのだ。 ● 福田和子の気弱な亭主に田口トモロヲ。和子の母親に絵沢萌子。

★ ★
ポゼスト 狂血(アナス・ロノウ・クラーロン)

エボラ・ウィルスのサスペンス・ホラーかと思ったら吸血鬼ものだった。ウィルスの感染源を求めて主人公がルーマニアに行くあたりから完全に怪奇映画の雰囲気。まあ、もともとの吸血鬼伝説だって黒死病(ペスト)の大流行と無縁ではないわけだから、エボラ・ウィルスとヴァンパイアを二重写しにするのは故なき説ではない。ただデンマーク映画の新鋭アナス・ロノウ・クラーロンの演出は、ちょっと重すぎて退屈してしまった。てゆーか、おれ ブラッカイマー・ウィルスに感染してる? ● ノスフェラトゥを倒すべく追っている神の暗殺者にウド・キア。…て、あんた「エンド・オブ・デイズ」では悪魔の手先やったやんか。

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ダブル・ジョパディー(ブルース・ベレスフォード)

有楽町マリオンの丸の内ピカデリーでは1で「ダブル・ジョパディー」、2で「氷の接吻」とアシュレイ・ジャッド主演作を右左で上映している。なにを考えてんだか>松竹の編成担当者(たぶん何も考えてない) この女優は当サイトの区分からいくと「一枚看板だがチラリ胸見せまではOK」というクラスである。つまり一時期のシャロン・ストーン路線だな。だがアシュレイ・ジャッド(のエージェント)は大きな勘違いをしていると思う。「氷の接吻」と「ダブル・ジョパディー」あるいは「サイモン・バーチ」を見比べれば明らかなように、この人は「男を惑わす悪女」よりも「母の微笑み」が似合う女優さんなのだ。 ● さて「ダブル・ジョパディー」。「冤罪で刑務所にブチ込まれたヒロインが出所して真犯人に復讐を誓う」という、つまり「さそり」である。とはいえ、もちろんこれはハリウッド映画なので「さそり」ほど反社会的ではない。ラストにはハッピーエンドを迎えにゃならんので、梶芽衣子のように脱獄したりお巡りをブッ殺したりはしないのだ。真犯人の正体は、ストーリーをほとんどバラしてる予告篇を観るまでもなく観客には自明であり、演出もそれを隠そうとはしていない。ヒロイン受難篇を30分でテンポ良く片付けて、騙されたと知ったヒロインが出所してリベンジを開始するまでが わずか5分という能率の良さ(<褒めてる) 脚本の詰めが甘く「いざ復讐」という段になってからの展開がぐずぐずになってしまうのは困ったもんだが、それでも「ドライビング・ミス・デイジー」「ラストダンス」のブルース・ベレスフォードの安定した演出で、最後まで飽きることなく楽しめる。 ● アシュレイ・ジャッドはこういうスッピンで頑張る役に合ってるとは思うが、まだ汚れ方が足りないかなあ(汚れが激しいほど輝くはずの役なんだが) ヒロインを個人的な執念で追う保護監察官に(最近こういう役しかやらない)トミー・リー・ジョーンズ(室田日出男だな) 獄中でヒロインに有益なアドバイスを与える、元弁護士のタフな女囚ローマ・マフィアが素晴らしい(こっちは渡辺やよい<誰も知らんて) こんな脇じゃなくて2番目ぐらいの役が出来る実力がある女優だ。 ● しかしアメリカの女子刑務所ってあんな体育館みたいな大部屋なのか? ヒロインは計画殺人犯だぞ。それと、どっちにしてもこれ、子供には残酷な話だよな。だってラストは「喜んで、坊や!お母さんは無実だったのよ。人殺しはお父さんの方だったの:)」だぜ。

★ ★ ★
氷の接吻(ステファン・エリオット)

アシュレイ・ジャッド2本立ての2本目は「氷の接吻」。やはりヘラルド映画が配給した「氷の微笑」をモロに意識したタイトルだが、内容はヒッチコックの「めまい」の直接の影響下にあるロマンチック・スリラーである。「プロの尾行者がターゲットの女に恋してしまう」というストーリーライン。主要な舞台がサンフランシスコである点。ミステリアスなヒロインの、さまざまなウィッグを使い分けての変装。そして人生にトラウマを抱えた主人公。「めまい」のリメイクと言ってもいいほどだ。 ● 監督は「プリシラ」の成功でハリウッドにスカウトされたステファン・エリオット。ジタン。魚座のネックレス。あれは何というのか半円のガラス玉の中の町に雪が降る置物など、小道具の使い方も小粋に、前半の演出はしごく快調。仕事にかまけて妻と娘に捨てられた主人公が、いつも娘の幻と会話をしてる(画面には主人公にだけ見える娘の姿が写ってる)という設定も面白い。ところが1時間を過ぎたあたりで主人公が「救ってあげたいと思ってるはずの女を破滅させるような行動」をとるあたりから、脚本が観客を置き去りにして迷走を始める。ヒロインの守護天使だったはずの主人公が、変態ストーカーに変貌してしまうのだ。それにともない観客の心も映画から離れていく。「変態男の話です」ならそれでもいいが、作者は明らかにこの映画をラブ・ストーリーとして撮っているのだから。あと、何より唖然とさせられるのは[連続殺人犯であるヒロインが道義的責任を一切責められる]ことなく映画が終わってしまう点である>いいのかそれで? ★ ★ ★ は前半1時間に免じて。物好きな人 以外にはお勧めしない。 ● 本作の皮肉なトーンは「めまい」の子供であるデ・パルマの「ミッドナイト・クロス」をさらに孫引きしたような気配もある。重要な役で出演しているジュヌビエーブ・ビジョルドがデ・パルマの「愛のメモリー」の主演女優なのは偶然ではあるまい。ヒロインのアシュレイ・ジャッドは衣裳とウィッグと男をとっかえひっかえ楽しませてくれるが、男をとろかす妖艶さに欠ける。残念ながら「氷の微笑」のような大胆なファック・シーンもなし。ユアン・マクレガーは、ワシントン駐在の英国諜報部員@ハイテクおたくという役柄で「真面目な青年が恋に狂う」というパターン。フランス人(?)のカメラマン、ギイ・デュフォーによる撮影と、新鋭マリウス・ドゥ・ヴリース(←個人名)のサスペンスフルな音楽は良かった。

★ ★
ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ(アナンド・タッカー)

まこと日比谷みゆき座に相応しい映画である。岩波ホールや文化村ル・シネマや三越映画劇場などにお出掛けになる淑女の皆様には大いなる好評をもって迎えられよう。中味も観客がこの筋立てから期待するであろう通りのものを見せてくれる。つまり、つまらなくもないが面白くもない。ストーリーも映像も演出も刺激的な部分は皆無。いやそれでも、これがアクション映画とかホラーなら最後まで付き合うんだが、コメディですらない新派もどきは趣味じゃないのでね。45分で途中退出。

★ ★
コモド(マイケル・ランティエリ)

「ディープ・ブルー」の製作者&「アナコンダ」の脚本家&ティペット・スタジオのCG特撮&ジョン・デブニーの音楽…というパッケージにはとても見えないC級感ただよう大型生物パニックもの。アメリカ東部の、スティーブン・キングの小説に出てくるような島で、業者に不法投棄されたコモドオオトカゲ(体長6m)が繁殖して、そこではもちろん公害企業の工場が廃液を垂れ流していて…という話。SFXマン出身でこれが監督デビューとなるマイケル・ランティエリは、ドラマが撮れるってことを証明したかったのか知らんが、登場人物のパーソナルなドラマを掘り下げるのに熱心で、肝心のコモドオオトカゲ vs.人間の対決が後景に追いやられてしまってる。あほか。こんな映画で感動を狙うてどないすんねん。こいつが証明したのは商業映画のイロハのイすら理解してない監督だって事だけ。 ● 離れ島で餌がなかったら人間襲うより先にまず共喰いするでしょうよ。それと、そもそもトカゲの血って赤いのか? ティペット・スタジオによるCGコモドはほんとにフィル・ティペット?という程度の出来(動きがティペットらしくない) メカニカル・コモドも、スタン・ウィンストン・スタジオあたりの一級品と比べると動きがないに等しいし、キャラクターに魅力がない。 ● 誰にもお勧めしないが、どうせ止めても観に行く人は観に行くのでしょうな。…あ、おれや。

★ ★ ★
橋の上の娘(パトリス・ルコント)

橋の上に娘がいる。それも欄干の外側に立って川面を見下ろしている。思いつめた顔。背後から声「バカな事をするなよ」夜霧の中から男が現れる。哀愁に満ちた愁い顔。「ほっといて頂戴」「自棄になってるなら、うってつけのアルバイトがある。ナイフ投げの的なんだが…」(火暴) ● いきなりモノクロ映画だし、ヴァネッサ・パラディには化粧っ気がないし、もしやおれの大嫌いなおフランスの気取ったゲージツ映画かと危ぶみはじめたところ…、さすがはフランス映画界に数少ない娯楽映画の作り手パトリス・ルコント。カマしてくれるぜ。落ちぶれたはてたナイフ投げ芸人と、男運のわるい尻軽娘の、これはヌケヌケとデタラメな狂騒的ラブコメ・ロードムービーである。ちょっと今、映画で適切なたとえが浮かばないが「ジョンとヨーコのバラード」とか似合いそうな。ただ惜しむらくは、これ、本来はスターの映画であるべき素材なのだな。つまりフランスならジャン=ポール・ベルモンドとブリジット・バルドーとか、ハリウッドならスティーブ・マックイーンと(若い頃の)ジェーン・フォンダとか、あるいは香港映画ならレスリー・チャンとマギー・チャンとかが、スターの魅力でもって魅せるべき映画なのだ。ダニエル・オートゥイユとバネッサ・パラディて、あなた、フランスじゃ人気俳優かもしらんけども、スターの輝きってもんが足りんでしょうが。それに、ハスッパな娘さんは魅力的だが、すきっ歯の娘はどうもねえ。しーんと静まり返った東急文化村ル・シネマでの観賞ってのも足を引っ張ったかも、だ。

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ジェネックス・コップ(ベニー・チャン)

ジェネックスとは“GEN−X”…つまり GENERATION X =X世代のこと。香港黒社会にも義理や仁義にあと足で砂をかけるクールな新世代が台頭。日本の若手過激派やくざ(仲村トオル)と組んで、旧世代やくざを血も涙もない冷酷さで抹殺していく。「こいつらと渡り合うには」ってんで、香港警察のはみだし警部(エリック・ツァン)が警察学校を放校になったオチコボレ3人組をスカウトして…という話。毒を持って毒を制す。つまり「ワイルド7」だな。 ● その実体はよくある香港映画の馬鹿アクション。ベニー・チャンの演出は「やはり『フー・アム・アイ?』は100%ジャッキー・チェン監督作品だったのか」と思い知らせてくれる出来。この映画の目玉はハリウッドからSFXスーパバイザーを連れてきた事と、潜入捜査官となる渋谷のセンター街にいるような(<典型的おやじ発想やな)3人組をピチピチのアイドル・スターが演じてるという事だ(そのうちの1人が「メイド・イン・ホンコン」のサム・リー) いうならば「ジェネックス・コップ」というよりも「ジャニーズ・コップ」 ● 義理も仁義もわきまえた旧世代で、潜入刑事たちと精神的共闘関係となる狂犬やくざを演じるン・ジャンユー(呉鎮宇)が、いつもながら圧倒的な存在感。それと、かつて主人公と因縁があった敵のボスの女に扮したちょいと梅宮アンナ似のジェイミー・オングがイイ。製作会社メディア・アジアの経営陣の1人であり、本作品のプロデューサーとしても名を連ねるジャッキー大哥がチラッと特別出演している。 ● それにしても(「シュリ」でもそうだったけど)“液体爆弾”っていうとかならず「青白く発光する液体」なのは何故?

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歯科医(中原俊)[ビデオ上映]

プロデューサー:成田尚哉 脚本:及川章太郎 撮影:前田智
「エロス」をテーマとする低予算5本連作“MOVIE STORM”の2本目。「コキーユ 貝殻」で10年ぶりにロマンポルノ的なるものへの回帰を果たした中原俊が、デビュー作からの付き合いである成田尚哉と組んで日活ロマンポルノ魂を全開した。「母を亡くして以来 インポになっていたマザコン歯科医がSMに目覚めて回春、妻との愛を一線を踏み越えてどこまでも深めていく」という一種の阿部定もの。石井隆脚本の「縄姉妹 奇妙な果実」、松川ナミの「奴隷契約書 鞭とハイヒール」といったフィルモグラフィを持つ中原俊にとってこれは昔とった杵柄。70分という尺も勝手知ったる呼吸で熟練の腕を見せる。画作りに関しても、劣悪な条件のビデオ撮りながら、外景の挿入など精一杯の美しい画作りを行なっていて好感を持った。ビデオならではのアップを多用したフレーミングも効果的。 ● 水中フェラで窒息寸前になったり 火のついた煙草をおっぱいに押し付けられたり おまんこツルツルにされたり と体を張った熱演を見せるのは「新・極道記者 逃げ馬伝説」「極道懺悔録」の金谷亜未子。この人いまひとつ華がないというか印象が薄いと感じるのはおれだけか。なにしろ観終わってどんな顔してたか思い出せないのだ>それは裸ばかり見てたから(火暴) タイトルロールの“歯科医”に「金融腐食列島 呪縛」では地検の急先鋒をやっていた遠藤憲一。抑揚を抑えた台詞に感情を持たせることができる稀有な才能。なにしろ声が強烈なのだ。声に特徴があるといえば、上田耕一が取り調べの刑事役&ラストの印象的なナレーションで画面外から声だけの出演をしている(この人もロマンポルノ出身だ) あと「死体:松梨智子」てのには笑ったね。 ● しかしこれ「歯科医」ってタイトルなのに主人公が歯科医である必然性がないのでは?(もっとも「マラソンマン」みたいな拷問を見せられても萎んじゃうが>何が?) この歯科医のセンセー「自分たち夫婦をモデルにしたエロ小説を書いてる」って設定なんだが、せっかく iMac 持ってるのにわざわざ iMac の隣にワープロ専用機を置いて、それで執筆してる。じゃあ iMac は何に使うのかというと iMac はエロサイト閲覧専用なのだ(走召火暴)

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マグノリア(ポール・トーマス・アンダーソン)

LA郊外、サン・フェルナンド・バレーに住む22人の複雑に絡みあう人生模様を描いた3時間8分の映画・・・いや、この映画じゃなくて、ロバート・アルトマンの「ショート・カッツ」が。…で「22人」を「12人」に直すとそのまんま「マグノリア」になるわけだ。 ● これってそんなに良い映画かい? おれには「ショート・カッツ」の稚拙な模造品にしか見えなかったけど。いくつもの小さな綻び(ショート・カッツ)の向こうにLAという街への鎮魂歌を奏でてみせたアルトマンの至芸に比べて、「マグノリア」の登場人物は「誰かぼくを赦して欲しい」とか「誰かわたしを救って頂戴」と大声で誰はばからず主張するような連中だ。なんかそういうのって、すごくあさましいと思わないか。自分を救えるのは自分だけだ。てめえを清廉潔白だなどと言う気はないが、少なくとも おれは「誰かに赦してもらおう」なんてこれっぽっちも思わないし「誰かからの赦し」なんてご遠慮申し上げる。ポルノ映画の扱いがとてつもなく偽善的だった「ブギーナイツ」といい、ポール・トーマス・アンダーソンって新興宗教でも入ってんじゃないの? トム・クルーズ、ジュリアン・ムーアを筆頭に俳優陣が全員オーバーアクトなのも、それを制御しない演出家の責任だ。クライマックスの仕掛けも奇を衒ったつもりか知らんが、要は「ショート・カッツ」の地震のバリエーション。若造の「おれってアート・フィルム作家だもんね」という気取りが透けて見えて到底 好きになれない映画だった。おれがプロデューサーなら、監督がこんな代物作ってきたら、即刻クビにして違約金を請求するけどね。

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ブギーナイツ(ポール・トーマス・アンダーソン)

マグノリア」の公開にちなんでポール・トーマス・アンダーソン監督のデビュー作「ブギーナイツ」が東京・新宿のシネマスクエアとうきゅうでレイトショー上映されている。で、P・T・アンダーソンのダメさ加減と、ジュリアン・ムーア&ヘザー・グラハムのお宝ヌードを再確認すべく足を運んでみた。しかし2時間35分の映画を夜9時から上映するとは、いい度胸だぜ>東急レクリエーション(<褒めてる) ● じつは最初のときよりずっと面白く観ることが出来たのだが、やはり好きになれない映画だ。2度 観て理由がはっきりした。これ、監督が登場人物を断罪してるんだ。「ポルノ映画に関わってるような人間は酷い目に遭って当然だ」とでもいうように。世間では「ポルノ映画製作者たちへの愛にあふれた作品」などと理解されてるようだけど、とんでもない。監督・脚本のP・T・アンダーソンは聖職者の視線で彼らを見ている。本人は深い愛情を注いでいる気だろうけど、それは“罪人”を哀れんでるだけだ。心の底では軽蔑してる。だから、本篇の登場人物たちはおのおの神の試練に遭って初めて“更正”して“まともな人生”を歩むことが出来る(ロリコンの“大佐”は救われない) おれだって別にアメリカン・ポルノの業界人じゃないんだから、立場としちゃあP・T・アンダーソンと同じなんだけど、それでも元・洋ピン ファンとしては、どうしても思ってしまう「ふざけんじゃねえ」って。フィクションである映画にムチャクチャなイチャモンだと承知で言うが「てめえの都合でキャラクターの人生を不当に歪めるんじゃねえ」ってことだ。アメリカン・ポルノの内幕ものとしては、ヘンリー・パチャードの「A姦アクトレス バック・バイブ(Great Sexpectations)」のほうが格段に優れている。 ● まともな批判もひとつ書いておくと、冒頭のディスコのシーンでバート・レイノルズ扮するポルノ監督が、バイト店員のマーク・ウォルバーグを見初めるわけだが、ホモ映画じゃねえんだから「目と目とが合っただけでピーンと来たの」じゃ説得力がないでしょ。「マーク・ウォルバーグが監督のボックス席にドリンクか何かを運んできて、そこでジーンズの股間に目が止まる」とか何とかさ。 ● 以下は資料として書いておく。主人公のエディ改めダーク・ディグラー(マーク・ウォルバーグ)は、麻薬がらみの殺人事件に巻き込まれるあたりも巨根一代ジョン・ホームズをモデルにしている、…と思ってたら本編中に「ジョニー・ワッドは女を殴るのがいかん云々」という台詞があった。おお、という事は、この劇中世界にはジョン・ホームズが存在してるのだな。えーと、つまりジョニー・ワッド(チンポコ・ザーメンの意)というのはジョン・ホームズがボブ・チン監督と組んで連作していたハードボイルド・ポルノの主人公なのだ。日本でも「ファイヤー・セックス 6人の女(Blonde Fire)」「セックスU.S.A. 挑まれた女(China Cat)」「ジャッキング・ポルノ 噴出(Liquid Lips)」「ポルノ・アメリカ 指を濡らす女(Tapestry of Passion)」などが劇場公開されている。本篇中の「ブロック・ランダース」シリーズは明らかにこれを元ネタにしている。ジャック・ホーナー監督(バート・レイノルズ)のモデルは、ゴージャスなオールスター作品を得意としていたセシル・ハワードあたりか。てゆーか、カメラマンを演じたリッキー・ジェイって誰か実在のポルノ監督によく似てるんだけど誰だっけかな? ジュリアン・ムーア扮するアンバー・ウェーブスは完全にアネット・ヘヴン。顔つき、おっぱいのサイズ、肌の白さ、二の腕のシミまで一緒。ヘザー・グラハムのローラーガールには特定のモデルはいないと思う(ああいうカエル顔の女優さんは何人かいたけれども) 黒人男優と結婚するプラチナ・ブロンド(メローラ・ウォルターズ)は役名がジェシー・セント・ヴィンセントってことは、ビッチ女優ジェシー・セント・ジェームズがモデルってことか(どっちかって言うとセカに似てる) ウィリアム・H・メイシーの浮気妻、ニナ・ハートリーは本物のベテラン ポルノ女優。たしかリトル・アナル・アニーの名で、ポルノ書店の奥で上映するようなブルーフィルムからキャリアを始めてる叩き上げの人。ジュリアン・ムーアから息子の親権を奪ってしまう女性判事を演じてるのが1980年代初頭のポルノ・クイーン、ヴェロニカ・ハート。主演クラスでありながらアナル・ファックがOKで、しかも演技力があるという素晴らしい女優だった。 ● そう、アメリカン・ポルノは(本篇で描かれているように)ビデオ撮り主流になった頃からポルノではあっても映画ではなくなってしまったのだった。鳴呼!

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007 ワールド・イズ・ノット・イナフ(マイケル・アプテッド)

ぼくはあたまがわるいので おはなしがよくわかりませんでした。さいしょにボンドがとりもどしたのは なんのおかねですか? ● ま、それはさておき、これで通算19作目、ピアーズ・ブロスナンになって3本目となる007最新作。アクション映画としてはミシェール・キング大活躍の前作「トゥモロー・ネバー・ダイ」に到底およばないが、監督にマイケル・アプテッドを引っ張ってきた甲斐あって、ヒロインのソフィー・マルソーや悪役のロバート・カーライルがちゃんと芝居を見せてくれるし(ソフィー・マルソーは芝居だけじゃなく他にもいろいろと見せてくれる:)、いつもは最初と最後しか出てこないジュディ・デンチのも今回はドラマに絡んでくる。先頃、事故死してしまったデズモンド・リューエリンのが“セリ下がり”で退場して行くシーンなど、大向こうから“発明屋!”と声がかかりそうだ。後任たることジョン・クリーズも、まんまモンティ・パイソン調の台詞で笑わせてくれるし、ストーリーが不明瞭という些細な欠点さえ目をつぶれば、充分に楽しめる娯楽大作である。 ● もう1人のヒロインであるデニース・リチャーズがカエル顔と巨乳しか印象に残らないのは、これは監督の責任ではない。てゆーか、この役は要らないのでは?(その方がよりイギリス色が強まるし) あと、肝心のピアーズ・ブロスナンにあまり芝居処がないのは、ボンド個人のドラマを膨らませ過ぎてティモシー・ダルトンの二の舞になる事を避けるための、製作者サイドの判断であろう。 ● ボンドカーは今回もBMW。しかしニューモデルをあんなグチャグチャに潰されてBMWはあれでほんとに満足なのか?(作り手の悪意さえ感じられるのだが…) ● 話題のLUNA SEAのエンディング曲は思ったほど悪くないが、かと言って、デビッド・アーノルド編曲版「007のテーマ」を押し除けてまで聴きたいってほどのものじゃないわなあ当然。

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榕樹 ガジュマル の丘へ(フー・ピンリウ)

現代の中国。近代化が進む広州市の、まるで取り残されたような一角、その名も「安居街」のアパートに老寡婦が1人暮らしをしている。心優しい息子は事情が許すなら同居してやりたいのだが、工務店の経営が火の車でとてもそんな余裕はない。そこで、老母の世話をする女中を雇うのだが、この婆さん、トンでもない偏屈ババアで、息子が雇った女中を3ヶ月で3人も追い出しちまった。だから今度の出稼ぎ娘も長くは続くまいと思われたが…。 ● 山田洋次が「ドライビング・ミス・デイジー」を撮ったらかくや…という感じ。なるほど監督のフー・ピンリウ(胡炳榴)がチャン・イーモウやチェン・カイコーのひとつ上の世代のベテラン監督というのも頷ける。「良心的社会派」映画に相応しい すべてが予定調和のストーリー。「映像派」でも「ドキュメンタリー・タッチ」でもないオールドスタイルの「スタジオの映画」だが、まあ良い映画である事は確かで、場内には良心的観客が洟をすする音が響いておった。 ● 偏屈ババアに扮したパン・ユイ(藩予)は中国映画には珍しい「演技らしい演技」をしていた。女中娘パイ・シュエユン(白雪雲←なんと美しい名前だ)は、美人じゃないけど愛嬌のある下町の看板娘タイプ。田中裕子か友里千賀子かというセン。息子役の俳優が山田洋次そっくりなのが笑えるぞ。

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ミフネ ドグマ#3(ソーレン・クラウ・ヤコブセン)

【1】ロケ撮影に限る、【2】BGM禁止、【3】カメラは手持に限る、【4】撮影用の照明禁止、【5】オプチカルやフィルター処理禁止、【6】殺人・武器禁止、【7】回想禁止・舞台は1箇所のみ、【8】アクション・SFなどのジャンル映画禁止、【9】スタンダード・サイズに限る、【10】監督名の表示禁止・・・という、自然主義のように見えて、じつはこの上なく不自然な制約を自らに課して映画を撮っているデンマークの変態監督集団「ドグマ95」の第3作。 ● 故郷と家族を捨てて都会に出て行った野心家の弟と、UFOキチガイの白痴の兄。家政婦として雇われた娼婦と、その弟の放校問題児・・・「社会からはみだした4人が擬似家族となり、ようやく自分の居所を見つける」という話。撮影用照明を使わない代わりにフィルムに不自然な増感を施しているので、極端に粒子の粗い画面となり、それがかえって人工性を強調する。また、夜になっても暗くならない北欧の自然が、観客の時間感覚を狂わせる。結果として「心温まるヘンタイお伽ばなし」とでもいうべき不思議な映画になった。おれは話の展開上、てっきりラストにはドグマのルールを無視した大嘘をつくつもりだと期待してたので、その点はちょっとがっかり。それにしてもデンマークにもミステリー・サークル(=畑に出現する幾何学的模様)ってあるんだねえ(ドグマのルールからいけば、撮影のために現場を加工するのは反則なので) ● タイトルの「ミフネ」とは、言わずと知れたわれらが三船敏郎の事。田舎者であることを隠して都会人の振りをして生きてきた本篇の主人公は、「七人の侍」で三船敏郎が演じた、百姓の出自を隠して侍を気取る菊千代の姿に二重写しとなる。弟が兜の代わりに鍋をかぶって「はちゃちゃほちょがおー!」などと三船敏郎ががなりたてる日本語を真似すると、頭の弱い兄は手をたたいて大喜びする。むかし観た日本映画に出てきた「強くて絶対にあきらめない七人目のサムライ、トシロー・ミフネ」は兄弟にとっての憧れのヒーローなのだ。これは監督の実体験だそうだ。嬉しいじゃないか、日本映画が北の果てに住む人たちの心の糧となっているとは。おれは黒澤明じゃないけど(<あたりまえ)ものすごく誇らしい気持ちになったぞ。

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女校怪談(パク・キヒョン)

韓国で1998年に興行収入のトップとなった怪談映画。観てみると…なるほど大ヒットの理由はそういうことか。かの国のティーンたちに熱狂的な支持を受けたというのも頷ける。これは「学校が血を流してるのに どうしてあなたは気付かないのか」という映画なのだ。エスカレートするいっぽうの受験地獄。日本の戦前そのままのスパルタ体罰セクハラ管理教育。この映画で描かれる女子高は、文字通り血を流している。幽霊は“わたしの青春を返して、楽しい学生時代を返して”と化けて出てくるのだ。ラスト近くでかわされる「すべて過ぎ去った事よ」「何も過ぎ去っていないし、これからも同じ事が起きる」「わたしが何とかするわ」「1人の力では変わらない」という女教師と幽霊の会話からも作者たちの主張は明確だ。 ● もちろん本篇はテーマ云々の前にすぐれたエンタテインメントとして存在する。学校という閉ざされた世界に登場するのは、死んでからも教室に居続けるセーラー服の貞子、霊感の強い鈴木紗理奈タイプのヒロイン、美人で性格の悪い優等生、ノイローゼ気味のガリ勉娘、おどおどとした苛められっ子、そして新任教師となって9年ぶりに教室に戻ってきた名取裕子似の卒業生。全体の雰囲気は岸田森が活躍してた頃の東宝ホラー。それに「リング」や「CURE」が発明した気配のカメラが効果的に借用されている。正直言ってミステリーとしてのネタはすぐ割れるし、ホラーとしての怖さもさほどではないのだが、それでも面白く観ていられるし最後はちょっと感動する。「シックス・センス」で泣いた人にお勧めする(すでに「囁く廊下」というタイトルでビデオ発売されているらしい)

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守ってあげたい!(錦織良成)

菅野美穂主演による、ゴールディ・ホーン「プライベート・ベンジャミン」の翻案。クリント・イーストウッドの「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」などとも同様の落ちこぼれ新兵教練もの。 ● ハリウッド映画をパクることは非難しない。訴えられない範囲でどんどんパクればよろしい。おれが頭に来るのは、オリジナルの製作者の100分の1も神経を使っていない本邦の作者たちの無神経ぶりに、なのだ。安易に盗むだけ盗んで、そこに何の創意工夫も付け加えないならば、それはただの泥棒だ。 ● こうした「新兵教練もの」では主役の次に、いや、もしかしたら主役以上に重要なのが「新兵たちを鍛える鬼軍曹」の存在であることは言うまでもない。つまり「プライベート・ベンジャミン」ならアイリーン・ブレナンが、「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」ならイーストウッドその人が演じたパートである。ところがあろうことか「守ってあげたい!」においては、この重要な役に杉山彩子という聞いた事もない/実力もない女優を充てている。憎まれ役に存在感なくしては対立のドラマが生まれないし、対立がなければ、和解と連帯の感動も永遠に訪れない。 ● 監督・脚本の錦織良成は自分の腕も、観客もまったく信用していないのだろう。シゴかれて疲れきった顔の新兵に「ああもうウンザリ」などといちいち台詞で語らせる必要がどこにあるのか。菅野美穂は悪くないが、そもそもヒロインが魅力的に見えるように脚本ができてないので、観客の共感は得られない。1時間弱で退出。

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ノイズ(ランド・ラヴィッチ)

カレったらスゴいんですぅ。宇宙から戻ってからというもの人が変わったみたいで、ベッドの上でも野獣のようにアタシの中にズンッズンッズンッって。アタシ、思わず昇天…(はあと) ● 宇宙飛行士の妻(=原題)で「ローズマリーの赤ちゃん」をやろうってアイディアは良いよ。でもアイディア止まりなんだよな。そこからのストーリー展開に能がなさすぎ。この宇宙人、別に地球を侵略しようとかってんじゃなくて、やってる事は「ET」と同じなんだけどねえ。 ● ヒロインに(ミア・ファローの髪型の)シャーリーズ・セロン。つまり「ディアボロス 悪魔の扉」のときと同じ役である。それなら あっちの方が色っぽくて良かったよな。この人、顔はアネット・ベニングみたいな親しみやすいタヌキ系なんだけど、背が高くて首がニョキっと長いので、ついミスター・ノーを思い浮かべてしまうのはおれだけ? “人が変わる”宇宙飛行士の夫にジョニー・デップ。今回は「フェイク」のようなシリアス・モード。デップの変化に気付くNASA職員にジョー・モートン、…って自分だって“他の星から来たブラザー”じゃないかよ。監督・脚本は新人のランド・ラヴィッチ。

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スリーピー・ホロウ(ティム・バートン)

製作総指揮:フランシス・フォード・コッポラ 脚本:アンドリュー・ケビン・ウォーカー
撮影:エマニュエル・ルベツキー 美術:リック・ヘインリックス 衣裳:コリーン・アトウッド
音楽:ダニー・エルフマン 原案&共同製作&特殊メイク:ケビン・イエーガー 視覚効果:ILM
その偏愛を自作に濃厚に滲ませてきたティム・バートンが、ついに真正面から取り組んだゴシック・ホラー。1時間46分を一気呵成に観せきる とてつもなく美しく まがまがしくて おどろおどろしい連続猟奇殺人ミステリーの大傑作。…つまり横溝正史ものである。馬車チェイスのアクション場面をはじめ、演出は驚くほど本格的。ティム・バートンといえば「異形の者へのシンパシー」ってのがトレードマークだが、ここでは首なし騎士に要らぬ同情を寄せる事もなく、怪物はあくまでも強く恐ろしく、ヒロインはあくまでもけなげで美しいのである。まあ、ヒーローがヘナチョコってのがティム・バートンらしいっちゃらしいんだけど、それがかえって金田一耕助らしいと言えなくもない(何のこっちゃ?) ● その、頭脳明晰なれど世間識らずで生活能力皆無の名探偵にジョニー・デップ。1799年当時の科学捜査を実践するために「何をどう使うんだかよく判らない奇妙奇天烈な機械」や「何をどう混ぜ合わせたんだかよく判らない怪しげな薬品」の数々がつまった黒カバンをつねに携帯している。なぜか(金田一耕助なのに)アシスタントの小林少年を連れてたりして。 ● 闇と霧の中に浮かびあがる凄艶なヒロインにクリスティーナ・リッチ。これがもうほんとうにキレイなの。「バッファロー'66」で あれだけビザールな魅力にあふれていた女優もティム・バートンの目には「最高の美人」に写ってるんだろうなあ。金田一のトラウマとなっている(回想の中の)美しい母に愛妻リサ・マリー(自分の妻を「愛する母親」役にキャスティングするのはマザコンの証しかね?) 他にもリッチの義母に扮したミランダ・リチャードソンが年増女の妖しいフェロモンを発散させている。 ● 首なし騎士はクリストファー・ウォーケン!(“首なし”騎士ではあるのだが、ちゃんとウォーケンの首がついたシーンもあるのだ) さすがのティム・バートンも「首なし騎士」よりもウォーケンの首付きのほうが100倍コワイってのは計算外だったかも。台詞の一切ない怪優はまるでドラキュラ伯爵のよう。「(滅多にウォーケンにはオファーされない)キスシーンがある役だから受けた」とのことだが、それがどんなキスシーンなのかは観てのお楽しみ。そして、まわりを固めるのがクリストファー・リー、マイケル・ガンボン、ジェフリー・ジョーンズ、マイケル・ガフ、マーティン・ランドー、アルン・アームストロングといった、そうそうたるホラー顔の面々。完璧なキャスティングである。 ● これじつはティム・バートン自身の企画ではなくて、「ドラキュラ」「フランケンシュタイン」に続く「フランシス・フォード・コッポラ プレゼンツ」の古典ホラー第3弾(バランスのとれた作品に仕上がったのはその所為か) ほぼ100%スタジオ撮影と思われるが、そのセット撮影/美術の素晴らしさが特筆もの。中世ヨーロッパのような霧深いスリーピー・ホロウの町、主舞台となる“丘の上の古い屋敷”、うっそうとした“魔女の森”、(「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」そのままの)“ねじれた大木”、(「フランケンウィニー」でも引用されていた)「フランケンシュタイン」の“風車小屋”・・・まさしく怪奇幻想の舞台装置である。おそらく“奥の方”や“周りの部分”はILMによるCGなのだろうが素人目にはまったく判別不能。撮影は「雲の中で散歩」「大いなる遺産」でも幻想的な空気の色をフィルムに焼きつけていたメキシコ人カメラマン、エマニュエル・ルベツキー。「プライベート・ライアン」でもやっていた、わざと彩度を落とした現像法も効果的(肌の色と、血の色がぜんぜん違う) そして久々にジャンル映画に復帰したダニー・エルフマンが、鳴らすこと鳴らすこと! ● 最後に(「スリーピー・ホロウ」とは全然 関係ないんだけど)パンフに載ってたイアン・マクダーミットのプロフィールが可笑しかったので引用しておく:銀河皇帝を演じた「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」で知られる。スター・ウォーズ最新作「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」にもパルパティーン元老院議員の役で出演している。<おい!


A・LI・CE(前島健一)[デジタル作品]

「すべての場面がコンピュータ上で製作されたフルデジタル・ムービー」ってのが売りなんだけど、よーするにゲーム画面だな。3Dソフト製のキャラクターはマリオネット程度の動き/表情しか出来ない。それも操演技術が限りなく稚拙なので人形アニメの表現力には到底およばない。キャラに重力がかかっていない(=空を浮いてるように移動する)のは未熟なコンピュータ・アニメの典型。アニメ演出としても、客から金とって観せられるレベルではない。なんだこれは。ゲーム画面としちゃ上出来なのかもしらんが、まだまだ映画と呼べるレベルではない。15分で途中退出。 ● 演出は「銀河英雄伝説」の前島健一。脚本はゲーム「シェンムー」の吉本昌弘…って中村幻児や石川均と組んでピンク映画の脚本を書いてた吉本昌弘? ● 本作はハードディスクのデジタルデータを、米国テキサス・インストルメンツ社のDLPシステムでスクリーンに写している(つまりフィルムもビデオテープも使わない) DLP(デジタル・ライト・プロセッシング)システムとは、よーするに「性能の良いビデオ・プロジェクター」で、当然 従来のプロジェクターの欠点をそのまま引き摺っている。良くなったのは、明るさとコントラスト。新宿ジョイシネマ3の中型クラスのスクリーンに写しても充分に明るくクッキリと見える。色滲みもない(あるいは、ほとんどない) ただし、黒が「暗いグレー」にしかならないのは(光と影のフィルム映写ではなく)光の明暗で表現するプロジェクターの限界か。エッジに ことごとくジャギーが出るのは元データの問題かもしれないが、チラツキが酷いのはプロジェクターの問題だろう。もっとも、この上映で使われているDLPシステムは、アメリカで「SW1」の上映に使われたプロトタイプより一世代前の機種らしいから「デジタルシネマ」の本当の実力は、やはり日劇プラザで実施されるという「トイ・ストーリー2」デジタル上映を待たなければ判らないようだ。

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メトレス(鹿島勤)

いや、ナメてかかって悪かった。意外とちゃんとした映画だった。だって原作が渡辺淳一で、主演が“肉体で主役をゲットした”(と言われている)川島なお美だぜ。その上“血管にワインが流れてる”(と自分で言ってる)川島なお美の役が、銀座4丁目のレストランのソムリエで、その彼女と不倫して、女房に三行半つきつけられる役に三田村邦彦をキャスティングするセンス。おまけに脚本が不倫問題の権威 ジェームズ三木、音楽が三枝成彰、監督が「ずっこけ三人組」の鹿島勤だ。誰だって、この人たち冗談で作ってんのかなって思うじゃん(思わない?) ● 「メトレス」なるフランス語を引っ張ってきて それらしく理屈をつけてるが、一言でいえば「OLが仕事を取るか結婚を取るかで悩む話」 なんで両方取れないのかというと三田村邦彦がわがままだから。津川雅彦と三田村邦彦の格の差が、そのまま映画の出来に反映されているわけけだが、それでも一応 最後まで飽きずに見せる。見せると言えば川島なお美。出し惜しみしたりゲージツ映画ぶったりする事なく、見せるべきものをきちんと見せている。偉い。プロだねえ。…ま、何のプロかは別にして。

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GEDO 外道(ダレン・スー)

「これからご覧いただくハリウッド映画『GEDO』に主演した中条きよしです。今回は存在感ある大人のやくざを思う存分 表現したつもりです。では私の新曲『旅』をお聴きください」…って、場内テープでいきなり笑かしよんなあ>中条のアニキ。 ● 東映が金だして、アメリカのC級映画のスタッフで撮ったアメリカ産の、やくざものVシネマ。LAに乗りこむ武闘派若頭に“男”中条きよし。組のLA責任者に、着ぐるみ体型に太ってしまい、シャブをやってた時より顔色不健康な清水健太郎。「シャブ漬けにされて殺された妹の仇を討ってほしいの。お礼はわたしのカ・ラ・ダ…」と迷惑顔のアニキにむりやり迫るヒロインにセイコ・マツダ(フロム・ハリウッド)…いや、ヌードにはなってないので安心されたし。なんでも新しい亭主がやくざの1人として出演してるらしい。 ● 製作は「人間の証明」「野性の証明」「宇宙からのメッセージ」「EAST MEETS WEST」「大統領のクリスマス・ツリー」とアメリカ・ロケ作品には必ずプロデューサーとして名を連ね、最近は東映ビデオの金で千葉真一の「ザ・サイレンサー」や、松田聖子の「サロゲート・マザー」といった偽ハリウッド映画を製作している謎の業界ゴロ サイモン・ツェー。監督はその「ザ・サイレンサー」のダレン・スー。今回はゲストスターに「北斗の拳」「シティーハンター」「サイボーグ・キラー」「リング・オブ・ファイア/炎の鉄拳」「ファイナル・ターゲット/血の報復」「キング・マヒーの秘宝」(以下延々と続く)のB級カンフー・スター ゲイリー・ダニエルズを引っ張ってきた。キューバ・グッディングJr.の親父(キューバ・グッディング・シニア)が質屋の親父役で顔を見せている。 ● え、作品の評価? だから「やくざものVシネマ」だってば。おれとしては松田聖子じゃなくて、Vシネ常連のオネエチャンが出てきてハダカになってくれた方が嬉しかったね。

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13ウォーリアーズ(ジョン・マクティアナン)

世評の高い「マグノリア」が ★ ★ なのに、「13ウォーリアーズ」に ★ ★ ★ ★ もくれてやってはレビュワーとしての見識を疑われても仕方がないところだが、仕様がないじゃないかこーゆー見識なんだもの、おれは。 ● 製作総指揮が元カロルコ→シナージのアンドリュー・バイナ、原作がマイケル・クライトン、監督がジョン・マクティアナンという豪華布陣で超大作として作られたが、ポスト・プロダクションで揉めに揉めて、その間にシナージ社は倒産、出来あがりが気に入らなくて原作者の(ベテラン映画監督でもある)マイケル・クライトンが撮りなおした(らしい)とか、ジョン・マクティアナンが次に撮った「トーマス・クラウン・アフェア」の方が封切りが先になってしまったとか、「アラン・スミシー監督作品」にならなかったのが不思議なくらいの問題作。ところが、これが面白いってんだから映画とは判らないものである。 ● これは神と人間と化け物が同居していた時代の物語。北欧神話の世界である。「アラビアの詩人アントニオ・バンデラスがお偉いさんの妻に手を出して“遠国の交易使節”という名目の島流し。ロシアでバイキングの王の葬送に遭遇する。そこへ、得体の知れぬ化け物に襲われて全滅した故国の村からの伝令が到着。巫女のお告げにしたがってバンデラスは訳も判らぬまま〈13人目の戦士〉としてバイキングの猛者と共に北の地へ旅立つ」という前置きを手際よく15分で処理して、後は血沸き肉踊る冒険アクションの世界に突入する。「村の砦に襲いかかる騎馬集団と、傭兵の戦い」しかも「豪雨の中」という設定からは嫌でも「七人の侍」を想起するだろうが、それよりもむしろ石川賢のバイオレンス劇画に近い。バイキング戦士の気高く豪放磊落な男っぷりが素晴らしい。「粗にして野だが卑ではない」というやつだ。「13人のキャラクターの描き分けが出来てない」ってのはその通りで、キャラの見分けがつくのは4、5人だが(ヘンテコな名前だし)、そこを描きこんで3時間の映画になるよりは、今のままで1時間40分てのが正しい選択だと思うね。 ● バイキングの王子を演じた(身長193cmのチェコスロヴァキア出身の俳優)ウラジミール・クリッヒが圧倒的に素晴らしくて、アントニオ・バンデラスを喰っている。村の女王を演じた(「ジャッカル」で顔アザ捜査官を演じていた)ダイアン・ヴェノーラが出演シーンは少ないながらも強い印象を残す。ジェリー・ゴールドスミスの手になる勇壮なBGMも素晴らしい。男臭いアクションが好きな人に絶対のお勧め。 ● しかし、これ同じ「ダイ・ハード」組なら、フィンランド出身のレニー・ハーリンに撮らせてあげれば良かったのに。奴のプロダクションって、その名も「ヴァルハラ」じゃなかったっけ? ● あと、どーでもいいけど「13ウォリアーズ」って音引きが入るの、ダサくない? てゆーかウォルター・ヒルの「ウォリアーズ」を知らんのか? てゆーか「石井館長が音引き書いちゃったから、書き直せとも言えず、引っ込みがつかなくなって」音引き入りなのか?>ギャガ。 ● この映画、東京のメイン館はニュー東宝シネマ1だったのだが、わずか1週間でシャンテ・シネ2に移動していた。あのさ、頼むから徒歩5分の距離の映画館同士で番組の入替えをするのはやめてくれないかな>東宝。おかげで危うく、もう一度「アンナと王様」を観ちゃうとこだったじゃないか(たまたま おれが入った回は両館の入替時間が同じだったのだ) おれは間に合ったからいいけど、時間ギリギリに駈け込んだ客はどうするのだ。 ● まあ映写環境としては(「鰻の寝床」構造で映写距離だけは日本劇場と同じ)ニュー東宝シネマ1の薄暗いスクリーンよりは、シャンテの方が優れてるので良かったが、それにしても今どき銀座シネパトス3ですら上映中は消えている天井灯と非常灯が、点いたままってのは(たとえ建前上だけでも)「アートシアター」を標榜する映画館としてはかなり恥ずかしいんじゃねえか?>日比谷シャンテ・シネ。

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キッドナッパー(グラハム・ギット)

騙された。「チャーリーズ・エンジェル」そっくりのタイトルロゴや「スパイ大作戦」のようなオープニングを観れば、誰だって「プロがプロならではの技能で、丁々発止とわたりあう映画」を期待するじゃないか。ところがこれ「バカな奴らがバカな真似をしてバカを見る映画」なのだ<ダメじゃん、それじゃ。 ● 監督・脚本はタランティーノをパクッた「シューティング・スター」でデビュー作したグラハム・ギット。今回は1970年代風のアクション・コメディを目指したようだが、なにせこいつらフランス人だから仕事もしないでブータレてばかり。爽快さや豪快さのカケラもないフニャチン映画。笑えもしない。もいっぺんベルモンドの映画 観て、出直して来な。 ● 役者も全部ダメ。特に紅一点(となるべき)エロディ・ブシェーズ。こんなゲジゲジ眉のカエル顔のおとこ女とイッパツやるために、250万フランの分け前の半分を差し出しちまう主人公はバカとしか言いようがない。小ぶりなおっぱい投げ出しての濡れ場もちっとも嬉しくないぞ(←ちょっと嘘)

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リング0 バースデイ(鶴田法男)

シリーズ最終作(たぶん)は、タイトル通り「貞子誕生篇」。つまり貞子が「貞子」になるまでの話で、ヒロインは貞子自身。観客がヒロインに感情移入できなければ映画としては成立しない。だがそれと同時に「リング」シリーズにおいて貞子は「観客が恐怖する対象」であらねばならない。つまり「観客が貞子に味方しつつ恐怖する」という二律背反の命題を、全作の脚本を担当する高橋洋は、とんでもないウルトラC(死語?)で解決してみせる(それが何かは観てのお楽しみ) ● 「風俗や服装が1970年という設定には見えない」とか、「あの規模の劇団で、本番中にぶらぶらしてる研究生がいるはずがない」といったこまかい疵はあるにしても、全体的にはたいへん良く出来ている。話としては「キャリー」で、高橋洋がデ・パルマ ファンだということはもうひとつのデ・パルマ作品との類似からも明らか。観客は「自分の望まぬ特殊能力を持ってしまったヒロイン」を哀れに感じ、同時に画面のそこかしこに存在するこの世のものならぬ者の気配に慄然とするだろう。 ● 「リング0」単体として観る分には(星4つは少しおまけ気味にしても)文句はない。だがシリーズとして考えた場合、貞子が「受けた仕打ちのあまりの酷さに、世の中全体を怨むにいたる」終わり方でなければ、その後「リング」「リング2」で貞子がしでかした事の「動機の解明」にならないわけで、その点でちょっと説得力不足(=鬼畜度が足りない)か。たしかに貞子は、井戸の底=「不幸のどん底」に突き落とされはするが、それ以前からもずっと不幸であり、「幸せの絶頂」というものを例えひとときでも経験していないので、ちょっと「落差不足」なのだ。もちろん「不幸の累積が怨みを増殖させる」という描き方もあるが、それにしちゃあそれまでの仲間由紀恵がけなげ過ぎる。 ● 貞子を演じる仲間由紀恵が素晴らしい。悲劇のヒロインとして(今どき稀有な)「可憐」と形容したい美しさ。貞子と対峙するレポーターを演じる田中好子も存在感をみせる。視線の強さが良い(おれは田中好子を良いと思ったのは初めてだ) 田辺誠一は「甘い二枚目」を絵に描いたような役と演技。 ● 監督はVシネマ/テレビスペシャルで数々の実話怪談ものを手がける鶴田法男。前2作で中田秀夫が試みた「リング」での「ラストの貞子出現」や、「リング2」における「深田恭子の死に顔」のような直接的なショック演出を廃して、「気付かないところにフッと現れる怖さ」のようなものを追求しているように見受けられる。怖さでは中田秀夫の方が上か。黒沢清作品も手がける柴主高秀の、陰影の濃い映像も秀逸。 ● この作品のパンフはインタビューが沢山載っている点には好感が持てるが、ストーリーが載ってなくて、キャストも4人だけで配役表もないってのはどーゆーこと?

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ISOLA 多重人格少女(水谷俊之)

原作を未読なのだが、いくらなんでも(角川書店の編集者のチェックを通って出版されている)商業小説がこれほどムチャクチャなはずはないから、やはり映画化にあたって「脚本」および「脚本補」として4人もクレジットされている脚色家チームが取捨選択を間違えたということなのだろう。前から不思議に思ってるんだが、なんで映画だとムチャクチャな脚本でも許されるのかね? それも自主映画じゃなくて客から1800円也を頂戴する商業映画だぞ。映画会社のプロデューサーだって、この脚本が小説として売られていたら絶対に「金返せ!」と思うに違いない。それなのにどうして脚本として印刷されていると「映画になればきっと面白いに違いない」などと思ってしまうのか? 酷い脚本が面白い映画になることは絶対に無いのに。 ● もっとも致命的なのは、タイトルに「多重人格少女」と銘打っておきながら、黒澤優演じる多重人格少女が主役ではないという事。ヒロインは木村佳乃演じるテレパスで、しかも彼女が対決する相手は多重人格少女とは別の相手なのだ。そりゃ例えば「リング」だって貞子が主役ではないが、映画を支配しているのは紛れもなく貞子の存在だ。ところが「ISOLA」においては、肝心の多重人格少女に存在感がまったくない。彼女が何のために殺人を続けるのかという謎が最後まで解明されないし、だいたいラストに至っても少女の多重人格障害は解決されないまま放っておかれるのには唖然とするしかない。そもそも阪神大震災を背景とする必然性がまったくないし、ボランティアとして訪れた素人にいきなり多重人格障害の相手をさせるってのもムチャな話だろう。多重人格にそれぞれキャラクターを端的にあらわす漢字の名前がついてるのも笑える設定である(漢字に強い多重人格!) ● 演出は水谷俊之。おれはこいつの映画を良いと思ったことが一度もない。ピンク映画の年間ベストワンになったシュールな「視姦白日夢」も、少しも良いと思わなかったし、世評の高かった一般映画進出作「ひき逃げファミリー」もまったく評価しない。去年の「セカンドチャンス」など最低の映画だった。本作もしかり。ヒロインを美しく撮るというホラー映画の基本すら出来ていない。ホラー映画の撮り方がまったく判ってないのは、カメラ(栗山修司)と編集(高橋信之)も同様である。多重人格少女が恐くもなければ美しくもないのだ。あと、狂暴な人格になったとたんに「積み木くずし」メイクになるってセンスはどうにかならんか。 ● 木村佳乃は無駄骨。新人・黒澤優は魅力なし。精神科医の手塚理美はテレビ演技。石黒賢はミスキャスト(マッドサイエンティストなんだから石橋蓮司とか三上博史の役でしょ)「向精神薬」が「抗生新薬」に聞こえるエロキューションを何とかしなさい。もう1人のヒロインに扮する「M/OTHER」の渡辺真起子(ヌードあり)に至ってはクレジットを見るまで顔もわからない下手な演出。少女の鬼畜義父に(水谷俊之のピンク映画時代の主演男優である)山路和弘。避難先の体育館のシーンでは(同じくピンク映画のベテラン)下元史朗も顔を見せている。 ● 結局、この映画でもっとも印象に残ったのはエンディング・クレジットの背景に映し出される(ディズニーランドのパレードのように美しい)神戸の〈ルミナリエ〉の光景だった。だいたい、この映画がなくたって「リング0」の興行成績には一切 影響しないはずだから、そういう意味では作るだけ無駄だったのだ。

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シビル・アクション(スティーブン・ザイリアン)

いや実話だってのは判るけどさ、負けて終わる裁判映画ってのも珍しいのでは? もうじつに盛り上がらないこと甚だしい。おれとしては嘘でもいいから感動的なクライマックスが観たかったね。 ● 主人公は“裁判で勝つことを目的としない”弁護士。彼の専門は企業相手の賠償訴訟。裁判を避けたい大企業の示談金が彼のゴール。交通事故の被害者に名刺を配ってまわるような、訴訟社会のアメリカならではの弁護士だ。被害者への同情なんてこれっぽっちも持ち合わせちゃいない。陪審員団の目に、被害者が哀れに写れば写るほど示談金の額がハネ上がるってなもんだ。愛車のポルシェを乗りまわし、自分の成功にイイ気になってるような男を演じさせてジョン・トラヴォルタは適役。ところが、だ。(これは脚本の責だが)そんな男がなぜ自分の事務所と自分自身を破産に追いこんでまで「たかが小さな田舎町」の飲料水汚染訴訟にのめり込むのかが、まったく理解できない。ここが納得できなければこの映画は成立しないのに、だ。たとえば、同様に民事訴訟専門の弁護士だった「評決」のポール・ニューマンは負け犬だった。酒浸りの老いぼれ。この男にとっては、その1件の訴訟が「自分が弁護士として、…血の通った人間として踏みとどまれるかどうかの最後の一線」だったのだ。そこには(依頼者の意思に背いてまで)裁判に持ち込むだけの個人的な理由が観客に納得できる形で存在した。トラヴォルタにはそれがない。「偽りの成功の虚しさに気付いて」というのが一番妥当だろうが、彼がそれに思いいたるスプリング・ボードが弱すぎる。この男は子供の死など見慣れてるはずではなかったか。 ● 監督・脚本のスティーブン・ザイリアンは「シンドラーのリスト」「いまそこにある危機」「ツイスター」「ミッション:インポッシブル」そして新作「ハンニバル(羊たちの沈黙2)」の売れっ子脚本家だけあって、脇のキャラクターがじつよく書けている。ブルース・ノリス(「シックス・センス」のどもり先生)が演じる大企業の顧問弁護士のおどおどとした様子(「チーズマン」なんて名前なので、いちいち相手が「チーズマンさん…で良かったんですよね」と確認するのが可笑しい) 汚染元である皮なめし工場の労務者に扮したジェームズ・ガンドルフィニの、無骨ながらも被害者への深い同情と負い目を感じさせる目の演技。皮なめし工場の親方ダン・ヘダヤの、煮ても焼いても喰えない偏屈おやじぶり。そして誰より、親会社の顧問弁護士を演じるロバート・デュバルの素晴らしさ! 野球好きのトボけたおっさんと思いきや、とんでもないタヌキで、一言たりとも声を荒げぬまま底しれない凄みを感じさせる名人芸。おれなんか完全に(トラヴォルタではなく)ロバート・デュバルに味方して観てたもんね。さらに加えて、ジョン・リスゴウ、ウィリアム・H・メイシー、キャシー・ベイツといった芸達者も出演。 ● (前述のように)胆を欠いた映画ではあるが、助演陣の演技には観る価値がある。ドキュメンタリーのような生々しさを感じさせる撮影(コンラッド・L・ホール)と、ポンッと時制を飛び越えてのカットインにハッとさせられる編集(ウェイン・ウォアマン)も秀逸。

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13F(ジョセフ・ラスナック)

ソフトウェア会社のオーナー・エンジニアが、自ら開発した擬似現実空間にジャック・イン中、何者かに殺される。彼の片腕だった主人公は、かけられた嫌疑を晴らすため自分もソフトウェア空間へと身を投じる・・・という最近 流行りの仮想現実もの。じつに判り易い映画である。冒頭に掲げられるエピグラフがいきなりデカルトの「われ思う。ゆえにわれ在り」だ。ストーリーも一見、複雑そうだが、脚本家がどうやら「伏線」と思って書いているらしい部分が、すべて「次に起こることの予告」として機能してしまっているので、ドラマにもヴィジュアルにも驚かされることはまったく無い。フィルム・ノワールを観なれていればミステリー的な部分もすぐにネタが割れてしまうだろう。 ● 監督は「ゴジラ」では第2班監督を務めたドイツの新鋭ジョセフ・ラスナック。ローランド・エメリッヒのセントロポリス・フィルムが製作。製作総指揮には(カメラマンの)ミヒャエル・バルハウスの名も見える。1999年をブルートーンのフィルム・ノワール調で、仮想の1930年代をセピア調で撮影したのは、やはりドイツのウェディゴ・フォン・シュルツェンドーフ。ハリウッドのドイツ人脈を総動員して作られたようだ。主演は見なれないクレイグ・ビエルコ。謎の美女にグレッチェン・モル。殺されるオーナー・エンジニアにアーミン・ミューラー・ストール。過去と現代で別々のキャラで登場するキーパーソンにヴィンセント・ドナフリオ。

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ガラスの脳(中田秀夫)

いや、不覚だった。こんなトンデモ映画に泣かされてしまうとはなあ…。 ● 「リング」「リング2」「女優霊」といった恐怖映画で名を成した中田秀夫監督は、手塚治虫が1971年、週刊少年サンデーに発表した短篇マンガを「ジャニーズJr.の小原裕貴と後藤理沙 主演による1970年代のアイドル映画」として映画化した。単に映画の時制を1972年に設定してるのみならず、映画のスタイルそのものが「1970年代の気恥ずかしいアイドル映画」の模倣なのだ。たとえば2人の初デート場面には「表参道」「風船」「ソフトクリーム」「『ローマの休日』ごっこ」「ベレー帽」「遊園地」「突然の雨」「濡れながら両手を広げてぐるりぐるり」といった(いまやコントでしか使われない)マストアイテムこれでもかと満載され、バックにはシモンズのフォーク歌謡「ひとつぶの涙」が流れるのである(!) うーむ。じつになんとも真意のはかりかねる映画だ。どこまでが“ワザと”で どこまでが“本気(の勘違い)”なのかサッパリわからん(「100%本気」という可能性もあるが、それはあまりにも恐ろしすぎる…) ● まあ「2000年の日本からは失われてしまった“純粋さ”を1972年という時代に求めた」と解釈するのが妥当だろう。だが「1954年と1972年を同じメイクで演じるまったく老けない榎木孝明」とか、一方では「1972年に高校生だった人物が1999年に白髪の老人になってる浦島太郎現象の怪」とか、「少女の父親を何故よりにもよってモロ師岡に、それも付けヒゲ&不自然なカツラで演じさせてるのか」とか、「看護婦役の河合美智子はなぜ演歌の花道モードなのか」とか、「後藤理沙のあれは ろれつの不自由な人を演じてるのか、それとも地か」とか、「それまでバスに揺られて通っていた病院なのに、後藤理沙がマスコミに苛められてるのをテレビで見るや、一瞬で病院に出現する小原裕貴はどこでもドアを持ってるのか」とか、解釈不能な演出が多過ぎるのだ。 ● そして何よりも「高校生の男子が植物人間の美少女に毎日毎日こっそりキスをしに通ってくる(それを誰にも見咎められない)」とか「生まれて17年間ずっと植物人間だったのに、目覚めていきなり歩けるようになり、1日で言葉を憶える」ってのは、マンガでは許されても実写では(いくらファンタジーとはいえ)リアリティのボーダーラインを踏み外してるだろう。いや後藤理沙が人魚だとか天使だってんなら話は別だけど。 ● 星4つの評価の割りには全然 褒めてないって?…いや、うむ。眩暈のするような展開に(内心で)数え切れないほどのツッコミを入れつつ観ていたのは事実なんだが、最後に感動して涙が止まらなくなったのも本当なのだ。愚直な一途さがボディブローとなって効いてきたってとこか。小原裕貴と後藤理沙は「アイドル映画の主演スター」の務めを十二分に果たしている。もっとも、信じて観に行って怒り心頭となっても責任は持てんのであしからず。


うずまき(Higuchinsky)[キネコ作品]

トゥルルルルルル。トゥルルル…カチャ「はい?」「もしもし?マンちゃん?」「おお、ベンちゃんか(以下略)…ということで製作されたに違いない東映の「リング」便乗ホラー2本立て。「うずまき」の製作は東映ビデオの黒澤、「富江 replay」の製作が大映の土川・・・三池崇史の「DEAD OR ALIVE」を共同製作した仲である。 ● で、「うずまき」だが、なるほどこりゃうずまきだ。「山間の小さな町がうずまきに侵食される」さまを、ただ だらだらと描写するだけ。そこにはドラマとか起承転結といった概念はなく(蚊取り線香が燃え尽きるように)時間がきたらぶつんと終わってしまう。エンディングがファーストカットと同一なのは無限ループのつもりだろう。 ● ケータイとデジカメのあるノスタルジックな過去。気恥ずかしい台詞の数々。素人俳優の学芸会演技。キッチュな怪奇趣味・・・大林宣彦が尾道ロケで「HOUSE」を撮ったら…いや“撮りそこなったら”かくやという代物である(但し、少女ヌードはない) ● 画面は極端に彩度を落としたグリーン調。黒も白もうすぼんやりして、人肌が薄汚い鉛色になるのはキネコ(ビデオからのフィルム変換)の特徴(せっかくフィルム撮りしたものを、わざわざビデオに落として加工&細工。それをもう1度キネコでフィルムに戻したんだとさ) ● おそらく監督は自分が「最低の失敗作」を撮ってしまったなどとは露ほども思っていまい。それどころか「会心の傑作」と得意満面に違いない。確信犯なのだ。監督の Higuchinsky(本名・樋口暁博)は宇宙人かと思ったら(「うずまき」公式HPのプロフィールによると)「ウクライナ生まれ」だそうだ。なんだ、「ウクライナ人」じゃあ仕方ないやね。相手が「ウクライナ人」じゃあ怒るだけ無駄だわ。どうか死ぬまで好きなように(ビデオクリップの世界で)活躍してくれ。…ということで、映画とは関係のない「ウクライナ人」は放っとくとしても・・・黒澤満よ、いいのかアンタこれで? ● ヒロインの初音映莉子をはじめ、キャストに誰一人魅力なし。美術&SFXは、スチールのビジュアルとしては素晴らしいが動画ではない。良かったのは音楽(鈴木慶一&かしぶち哲郎)とエンディング曲(Do As Infinity)だけ。これは映画とは違う、なにか別のものなので星は付けない。 ● 映画の公開に合わせて、伊藤潤二の原作コミックスがB6判1冊にまとめられ再発された(小学館/1200円) 初めて読んだのだが驚いた。こりゃ終末SF伝奇ホラーの大傑作である。まさに楳図かずお「漂流教室」の嫡子じゃないか!(諸星大二郎も入ってるか) ウクライナ版「うずまき」は、原作の半分ぐらいまでを絵ヅラだけなぞったに過ぎなかったのだ。「ビデオクリップ屋の道楽」に費やす金と暇があったら原作コミックスを読まれることを強くお勧めする。

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富江 replay(光石冨士朗)

「うずまき」に続いて観たもんだから、東映三角マークに波頭が砕けて、朝焼け雲に大映マークが輝いて、まぎれもないフィルム撮影の木目細やかな画面で、起承転結のあるドラマを観せられただけで「いやあ映画っていいもんだなあ」などとどっかのホモおやじのような心持ちになってしまったので、本篇に対する評価は大甘かもしれない事をあらかじめお断りしておく(って長い前置きやな) ● 伊藤潤二の漫画原作による「富江」というキャラのユニークなところは(富江が殺人鬼なのではなく)富江に魅せられた人間が殺人鬼になってしまうという点だ。「富江という異分子が入りこむことで、すべての人間関係が険悪になる(=友だちの振りをして近づき、恐ろしい裏切りをみまう)」というストーリー展開はサイコ・スリラーからの借用である。ところろが本作では、その優れた独創を捨てさり富江という化け物のモンスター映画にしてしまっている。分かりやすく言えば映画版「リング」の真似をしているわけだ(監督はピンク映画やVシネマで活躍していた光石冨士朗) それはそれなりに恐いし、前作とは比べ物にならないほどきちんとしたホラー演出&脚本&撮影がなされているのだが、富江というせっかくの稀有なキャラを活かしきれてないうらみは残る。あと(これは前作でも感じたことだが)「明治時代から犯罪史の闇の部分には、常に“川上富江”という名が登場していた」云々というような裏付けはないほうが恐いと思うけど。 ● 宝生舞は化け物ってより化け猫って感じ。台詞も低い声で力強いしえらい丈夫そうな富江である(この人、前よりふっくらしてない?) 1作目で富江を演じた菅野美穂が優れていたのは、この世のものならぬ者のはかなげな存在感があったこと。富江が、孤独な人間に「あ、この娘は自分と同類だ」と思わせることで、心の隙間にするりと忍びこむ様子を、菅野美穂は的確に表現していた。菅野美穂と宝生舞では「エイリアン」と「エイリアン2」ほど違う(って、どーゆー比喩だ?) ● 富江と対決するヒロインに山口沙弥加。いかにも不幸を呼び寄せてしまいそうな“薄幸感”が素晴らしい。相手役に窪塚洋介。なかなかかっこ良くて売れそうな感じ(もう売れてる?) 脇を固める菅田俊、遠藤憲一、モロ師岡といった異能俳優の存在が恐さを三割増しにしている。ただし、院長の愛人の看護婦を演じた冨樫真とかいうガニ股女はいただけないが。 ● 「うずまき」同様「富江」の原作コミックスも映画公開に合わせてB6判1冊にまとめられた(朝日ソノラマ/840円) こちらは楳図かずおの正統な後継たる怪奇ホラーで、(映画ではなく)古賀新一コミックス版の「エコエコアザラク」の直接の影響下にある。…ってそれより、ありゃりゃ原作の富江像は「孤独」どころか美貌をかさにきたゴーマンな女王様じゃないか。ああ!前段の文章とぜーんぜん辻褄が合わないけど…まいっか、もう書いちゃったし<おい。 ● それにしても、なぜ地下の電気室に斧があるかね?

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ストーリー・オブ・ラブ(ロブ・ライナー)

「『恋人たちの予感』(1989)のロブ・ライナー監督が、結婚して15年目の夫婦の離婚危機を描いた続篇的なラブ・ストーリー」って、まあ、たしかにその通りなんだけど、ビリー・クリスタル&メグ・ライアンのカップルが、ブルース・ウィリス&ミシェル・ファイファーになった時点で、前作では大きな要素を占めていた「コメディ」という要素がすっぽり抜け落ちてる。友人夫婦に扮したリタ・ウィルソンとロブ・ライナー自身が孤軍奮闘してるが、それも空回り気味。スタイルこそなんとなく前作を踏襲しているようだが、今回は脚本がノーラ・エフロンじゃないってのが痛かったな。残念でした。 ● エリック・クラプトンが音楽を担当していて、新曲「アイ・ゲット・ロスト」をしつこく何度も何度も聞かせてくれる。

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新選組(市川崑)

脚本:佐々木守&市川崑 撮影:五十畑幸勇 照明:下村一夫 美術:櫻木晶 編集:長田千鶴子
ナレーション:江守徹 声の出演:中村敦夫 中井貴一 石坂浩二 萬田久子 清水美砂 岸田今日子
紙芝居である。黒鉄ヒロシの漫画を切りぬいた平面の人形を操演しての紙芝居。それにカメラの五十畑幸勇とライトの下村一夫が光と影を与え、長田千鶴子が“崑タッチ”のリズムを刻む。そうして出来あがったものは、俳優と背景が紙である以外はまさしく本物の映画にほかならない。新東宝時代のモダンを彷彿させる市川崑本来の魅力に満ちた待望の傑作。 ● もともとディズニーの「シリー・シンフォニー」に憧れて映画界に入り、昭和8年に人形アニメーターとしてそのキャリアをスタートさせた市川崑にとって、これは原点回帰ともいうべき作品だ(この際「火の鳥」はなかった事にするとして:) ● 市川崑は、いつもながらに美しい、シンプルでセンスのよいタイトルバックを見ても明らかなように、大変にグラフィカルな感覚に秀でた人である。この「新選組」という原作漫画に惹かれたのも、話の内容よりもまず、黒鉄ヒロシ独特のグラフィカル/タイポグラフィカルな遊びの部分ではないかと思う。 ● そこに魂を吹きこんだのが脚本の佐々木守。読切短篇形式である原作から、政治的エピソードを大幅に省略して、隊士たちの恋愛話を中心に、ときには原作にはないエピソードも加えて「20代の若者たちの、青春の疾走と葛藤の映画」としてストーリーを組みたてた。ナレーターの江守徹は、隊士たちの享年を読みあげた後、「みんな…若い」と絶句する。 ● それにしても、だ。生涯73本目の映画としてヌケヌケと「紙芝居」を撮ってしまう(撮影時たぶん83才の)市川崑も偉いが、これだけのボイスキャストを集めて、おそらく一千万近くは行ってるんじゃないかと推測される「たかが紙芝居」の製作費を出したフジテレビもそうとう偉い。市川崑のファン、あるいは時代劇を観なれている観客限定で必見のお勧めとする。

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ディナーの後に(イム・サンス)

「3人の独身女性がディナーの後にSEXについてしゃべくるだけの映画」を覚悟して観に行ったのだが、なんだ、ちゃんとヤルことヤッてんじゃん(コリアン・エロスものと思われるのが嫌で、宣伝ではそういうシーンがあることを隠してたようだ) なんか得した気分:) ●  葉月里緒菜に似てるホジョン(カン・スヨン)は若くしてデザイン事務所の社長。奔放にSEXをエンジョイしてる。小林聡美タイプのスニ(キム・ヨジン)は大学院生。オナニー好きの好奇心旺盛なバージン。中山美穂と桜庭あつこを足して2で割ったみたいなヨニ(ジン・ヒギョン)は、売れない脚本家(?)と付き合ってる。保守的なセックス観の、結婚願望の強いウエイトレス。 ● 「シバジ」でベネチア主演女優賞を獲ったこともあるカン・スヨンだけは脱ぎNGだったようだが、他の2人は盛大に脱いでくれていて、特にストーリーの中心となるヨニ役のジン・ヒギョンときたら じつにもう ふっふっふっ…あ、いや。 2人とも(いわゆる)ポルノ女優ではなく一般映画/演劇のフィールドで活躍してる人だそうで、このあたりまだ韓国では「芸術なら脱ぎますわ」というタワケた理屈が通用してることがうかがえて微笑ましい。日本でも五木寛之とか渡辺淳一とかの名前で女優がほいほい脱いでた時期があったものなあ(ちなみに現在の日本は、こういうまやかしの時代をメデタク卒業して「芸術だろーが何だろーが脱ぎたきゃ脱ぐ」という健康な時代に入っている) ● え?中味?中味はまあ、日活ロマンポルノによくあったような風俗ドラマ、てゆーか、SEXシーンのあるトレンディ・ドラマといったものである。ほぼ全篇の手持ちカメラ&自然光照明&同録という手法がリアリティを生んでいる。 ● それにしても韓国の女性ってみんな、隣りに友達のカレシが居ても平気で気持ち良いオナニーのやり方の話とか出来るんでしょうか?(え、あなたも!?)

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ICHIGENSAN いちげんさん(森本功)

「鈴木保奈美が黒い乳首を見せて引退した映画」という語られ方を世間ではしているようだが、いやしくも京都市の助成を受けて、数十人のスタッフが精魂こめて作りあげた、すばる文学賞受賞作品の映画化作品を、主演女優の身体的特徴の一部だけで片付けてしまうのはいかがなものか。…おれは筋肉質の裸身もなかなか素晴らしいと思ったぞ(火暴) ● 「京都市の金で作った、スイス人留学生とめくらの若い女との、京都の四季を背景にしたラブストーリー」という概略から想像されるほどには官能的(だってガイジンめくらのラブシーンだぜ)ではなく、意外とあっさりしている。当初、予定されていたという脚本・田中陽造+監督・相米慎二というコンビであったなら、もっとねっとりとした生々しい映画になっていたであろうになあ。2人の好意が恋心に変わる決定的なシーンである「めくらが対面朗読のボランティアのガイジンに、古典的なポルノグラフィを読んでくれといい、そのまま男の膝枕に横になる」という場面でも、膝枕で男の声を聞いてる女の顔でフェイドアウトしてしまうのではなく、おれだったら【女の頬に固いものが当たる→男がドギマギして謝る→女が一言「続けて」→ジッパーを下げてフェラチオ→陰茎をくわえるめくらの頭の上から、ポルノ小説を朗読するガイジンの声…】いう展開にするけどなあ(>ピンク映画の見過ぎ) ● あと、鈴木保奈美と、ガイジンを演じるエドワード・アタートンの体臭のなさそうなキャラクターも、この映画を淡白にしている要因だろう。鈴木保奈美の母親を演じる和服姿の中田喜子が、なかなかに艶っぽくて素晴らしい。おれなら娘よりお母さんの方と…あ、いや。

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アンナと王様(アンディ・テナント)

「蛮国の偏狭な王と見えた人物の正体がじつは聡明な知識人であり、文明国からきたご婦人の方がよっぽど無作法で愚かな迷惑者であった」という話を2時間半かけて描いている。あの王ならば英国人の家庭教師などいなくとも立派にシャムの国を治めたであろう。 ● 観る前から判ってたことだが、チョウ・ユンファはミスキャストである。ユル・ブリンナーにあった「王としての威厳」が感じられない。当然だ。威厳とはすなわち冷酷の裏返しである。そして冷酷こそはチョウ・ユンファのキャラクターから最も遠いところに位置する属性なのだから。したがって、王が人間味を見せはじめる(=ユンファ兄貴が得意技を使い始める)後半から映画は完全にアニキのものとなる。それと反比例して、ジョディ・フォスターはどんどん魅力を失っていく。「かつて女であった者」として異国を訪れ、王と出逢ったことにより再び「女」に戻る役であるはずなのに、ジョディ・フォスターは干からびたままで(アニキが劇中で嘆くように)一向に女にならないのだ。特殊な役ばかりやってたものだからロマンティック・ロールのやり方を忘れてしまったか? 男に弱いところを見せるのがそんなに嫌か? ● 本作はミュージカル「王様と私」のリメイクではなく、その原型となった映画「アンナとシャム王」の、原作小説の、モデルとなった女性の、手記の映画化(ややこし…)だそうで、ミュージカル・シーンは無し。でも元が同じだから当然ストーリーはほとんど一緒で、晩餐会での王様と家庭教師のダンスシーンもちゃんとある。ところが流れないのだなあ「シャル・ウィ・ダンス?」が。ジョディ・フォスターに歌えとは言わんから、せめてインストで流すぐらいの観客サービスが出来んか?(同じ20世紀フォックス映画じゃないか) 監督は「エバー・アフター」のアンディ・テナント。はなからデビッド・リーンのようなグランド・ドラマは期待しちゃいないが、もう少し緩急使い分けてドラマを転がせないものか。あれだけたくさん子供を出しといて死なせて泣かせるしか芸がないってのもなあ…。そりゃ「王様と私」は今の目で見ればアジアへの偏見に満ちた政治的に正しくない映画かもしらんけど、少なくともあの映画には「アンナと王様」に無いものが2つあったぞ。それは潤い品位ってやつだ。残念ながらアニキのファン以外にはお勧めできない。 ● キャレブ・デシャネルによるタイ、ならぬマレーシア・ロケの風景はとても美しい。「男たちの挽歌」以来の盟友ケネス・ツァン(曽江)が「リプレイスメント・キラー」に続いて、ここでもシャム国の裁判官の役で出演している。

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ラブ・オブ・ザ・ゲーム(サム・ライミ)

「さよならゲーム」「フィールド・オブ・ドリームス」に続くケビン・コスナー3本目のベースボール映画。やはりこの人にはベースボールがよく似合う。…って、そんな事はどうでもよくて、こーゆーフツーの映画は他にいくらでも撮る奴ぁいるだろうに、なんでサム・ライミの処へ持ってくかね? 大人ぶりっこはいい加減やめて、頼むから「スパイダーマン」の監督を受けてくれよ>サム・ライミ。 ● これは1人のベースボール・プレーヤーの引退を描いた物語だ。話はデトロイト・タイガースが敵地NYのヤンキー・スタジアムに乗りこんでくる場面から始まる。とは言っても、優勝のかかったヤンキースと違って、下位のタイガースに取っちゃただの消化試合。先発は19年目のベテラン、今年40才になるビリー・チャペル。だが試合前に、オーナーから球団売却の報と引退勧告を受け、そのうえ恋人からは別れを告げられ(「あなたとボールとダイヤモンド。完璧だわ。勝つのも負けるのもあなた1人の力。わたしなんて必要ないのよ」)最悪の気分だ。NYっ子の罵声の中で投げる、今日が現役最後のマウンドかもしれないのだ。彼は老骨に鞭打ち、残り少ない力を振り絞って1球、また1球とミットに投げこんでいく。胸中には恋人との想い出が走馬灯のように蘇える…。 ● いかにものエピソードばかりだとか、2時間20分は長過ぎるとか、試合中にぼおっとして恋人との想い出に酔ってるケビン・コスナーはアルツハイマーにしか見えんとか、いろいろケチをつけたい点はあるが、野球への愛に免じて(For Love of the Game)不問とする。野球好きの人限定で ★ ★ ★ ★ のお勧め。 ● ケビン・コスナーは人類を救うヒーローよりも、こういう裏ぶれたカウボーイが向いてると再確認。ヒロインにはメガネ顔がキュートなケリー・プレストン。メグ・ライアン役を無難にこなしている。あと、ヒロインの娘を演じるジェナ・マローンが可愛くて要チェックだ。 ● 撮影がジョン・ベイリーなのでサム・ライミ流カメラワークは今回もお預け(ちぇっ) ベイジル・ポールドゥリスまでジェームズ・ホーナーばりのリリカルなスコアを書いている。

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親指スター・ウォーズ(スティーブ・オーデカーク)
THUMB WARS

すべて親指によって演じられる「スター・ウォーズ(エピソード4)」のパロディ。…といって想像するほどチープな代物ではなく、優に日本映画1本分の製作費をついやして本格的なミニチュア&オプチカル合成を行い、親指の腹には表情豊かな目と口がCG合成される。デス・スターならぬサム・スター(THUMB STAR)とか、Xウィングならぬサム・ウィングなどのミニチュア・モデルも(それこそ今となっては「エピソード4」と比肩しうるレベルで)造りこまれている。28分という上映時間も適切で、ちょうど笑い疲れた頃にエンドマーク。 ● 監督・脚本は「ジム・キャリーの エースにおまかせ!」のスティーブ・オーデカーク。1999年5月19日に「エピソード1」の前夜祭としてケーブルテレビで放映された。これに味をしめて同趣向でデッチあげたのが「親指タイタニック(THUMBTANIC)」で、さすがに2本目は飽きた。てゆーか、基になる物語の強さが違うって事でしょう。

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深海からの物体X(アル・パッセリ)

いや、ひさびさの苦行であった。かつてヘラルド・ベストアクション・シリーズやジョイパック・ベストアクション・シリーズで精神修養していた日々を思い出した。話としてはC級…いやZ級の「ザ・グリード」。目覚めていながらうなされるという体験をお望みの方にお勧めする。

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平成金融道 マルヒの女(和泉聖治)

脚本:香月秀之 夏樹陽子|ブラザー・トム 加勢大周|白鳥智恵子 宍戸錠
身の丈に合わぬエジプト・ロケから戻った和泉聖治、馴染みのVシネマのフィールドへの“復帰”第1作は、夏樹陽子主演の金融コン・ゲームもの「平成金融道 裁き人」の第2弾(…とは言え、ヒロイン以外の設定がすべてリセットされていて、どうやら前作は無かった事にしたいようだが) なんとこれが「ナイル」の不調が嘘のような快作なのだ。うむ、やはり野に置けレンゲ草ということか<誤用? ● 「マルヒの女」と言っても、(秘)ではなく(避)。本篇のヒロイン立花亜希子は、倒産回コンサルタントなのである。ハーバード大卒の才媛で、男顔負けの度胸と気風、しかもイイ女なので、街金のおやじブラザー・トムも、エリート検事・加勢大周も下心ミエミエでついつい彼女に手を貸してしまうのだな。彼女だって男たちの下心は百も承知のはずなのに、結局いつも上手い具合にはぐらかされるのはお約束。 ● 今回の敵は宍戸錠 演じるプロの“倒産屋”鬼塚修平。会社を作っては借りた金を懐に入れたまま計画倒産させて濡れ手に泡のまる儲け。人生をマネーゲームと考えて、家も財産も持たずホテル住まいをしている伝説的な“怪物”である。冒頭は昭和40年代の回想シーン。鬼塚の仕組んだ取り込み詐欺のせいで町工場の一家が夜逃げに追いこまれる。「今度生まれてくるときは平気で人を騙せる人間に生まれてきたい」と悔し涙で死んでいった善人の父。…その姿を目に焼きつけて「あたしは絶対に人に騙されない人間になるんだ」と固く心に決めた少女。そう、その少女の長じた現在が立花亜希子なのだ(「夜逃げしてきた家の娘がどうやってハーバード大に?」などと無粋なツッコミをしてはいけない) ● 本作は、そんな父の仇、生涯の宿敵との対決に挑むヒロイン夏樹陽子の魅力を活かす事を何より最優先に作られたスター映画である。騙し騙されのスリリングな対決を描く香月秀之の脚本も、水を得た魚のような和泉聖治の演出も、ブラザー・トム、加勢大周、宍戸錠、前田武彦、片桐竜次、中野英雄、山口美也子、庄司歌江、川本淳一といった個性豊かな共演陣も、すべて夏樹陽子をサポートするために存在している。そしてこの東映育ちの女優は、そうした演技を知っている最後の世代の映画女優である。ひととき、かつての幸福なプログラム・ピクチャーの記憶を蘇えらせてみたいと願う同胞にお勧めする。 ● 宍戸錠の手先を演じる白鳥智恵子のシャワー・シーンあり。


週刊バビロン(山城新伍)

つまらなくはない。つまらなくはないのだが、おれは、下半身スキャンダル専門の女性誌記者を世の中で一番下賎な職業だと思っているので、そんな輩に記者魂だの何だの言われてもチャンチャラ可笑しいだけだ。「世の中は下半身で動いてる」って、そりゃ事実かも知らんが、だからと言ってアンタが他人様の閨房を覗き見して良いって事にはならんでしょうが。 ● ブラック・コメディではなく正統的な一寸の虫にも五分の魂もの。三宅裕司は経営難で廃刊が噂される低俗女性誌の契約記者。実際に祥伝社に潰された「微笑」あたりがモデルか。ダンカン扮する同僚記者が、政治家と売れっ子女性ニュース・キャスターの結合写真をスクープするが、逆に記事を握りつぶされ自殺に追いこまれる。で、その弔い合戦、というストーリーなのだが、悲劇のヒーローともいうべきダンカンのキャラクターが無茶苦茶である。女性記者の尻を触るなんざあたりまえ。抗議をしても屁の河童。張込中の密室の車内で煙草は吹かす。抗議をすると「家庭でも吸えない。職場でも吸えない。いったいどこで吸やあいいんだ」などと怒りだす。女性記者に襲いかかって「そんな短いスカートはいてる方が悪いんだ」。女房子供が、毎晩 麻雀と酒で帰ってこない亭主に愛想尽かして実家に戻ると「お前たちのために日夜、働いてるんじゃないか!」…つまり自己中心&女性蔑視の最低な下司野郎なのである。こうした人物を「侠気(おとこぎ)のある奴」として描いているという事はイコール、山城新伍はそーゆー思想の人なのだろう。★1つの所以である。…だいたい杉田かおるの尻なんて触りたいか?(火暴) ● 山城新伍の演出は往年の添えものプログラム・ピクチャーとしては及第点だが、2000年という時代にどうしてこんな企画が商品として通用するのか理解不能。あ、ただ「あの政党はもうひとつの広告代理店とくっついてる」という台詞をしゃべらせた事は評価する。それと石橋蓮司。

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九ノ一金融道(梶間俊一)

「九ノ一金融道」っていうから、てっきり、きれいなお姉さんが妖しい忍術を使って金を取り立てる話かと期待してたのに(「秘技・卍しぼり!」とかさ…)、じつは「利子が9日で1割だから“九ノ一”」なんだと。がっかり。だれか作ってくれないものか>山田風太郎のエロチック裏金融もの。 ● 本作の正体は、街金(まちきん)の女社長をヒロインにすえた「ミナミの帝王」タイプの裏金融コメディである。脚本はわりと面白く書けているのだが、演出の梶間俊一にテンポがないのでちっとも笑えない。梶間俊一って才能もないのに東映時代からどうして撮りつづけていられるのだろう?(政治力に長けてるのか?)「ああ、まともな演出家であったならば、ここは笑える場面だろうな」と思うことしきり。主演は最近えらい安売り感がめだつ清水美砂。いつも思うのだが清水美砂ってどこでどう間違って美人女優の範疇にはいってしまったのだろう? サブヒロインとして(たぶん元ワンギャルかなんかで最近脱いだ、わりと巨乳の)小野沙織が出てるのだが、本作では脱がない。じゃあ何のために出てくるの? 脱がないんなら巨乳だけが取柄の素人ブスではなく、まともな女優を使えばいいのでは? いちばん着実に笑かしてくれるのは街金のやくざ社長・石橋蓮司と信金の汚職課長・酒井敏也の悪役コンビ。それにしても石橋蓮司は出まくりだなあ。大杉漣の保持する年間最多助演記録(当社調べ/ピンク映画を除く)に挑戦でもしてるのか? ● タンゴ調のBGMには、いちおう中川孝なる人物がクレジットされているのだが、どう聴いても(梶間俊一の監督作である)「ちょうちん」のエヴァン・ルーリーをそのまま使いまわしてるようにしか聞こえないのはどういう訳だ、こら。

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バニラ・フォグ(マーク・ターロフ)

トゥルルルルルル。トゥルルル…カチャ「はい?」「もしもし?ミルチャン?」「おお、サラちゃんか。『バッフィ』の映画化の件、考えてくれたかい?」「それよりお願いがあるんだけど」「水臭いなあサラちゃん、おじさんに何でも言ってよ。きみがおしめをしてる時からの知り合いじゃないの」「あのブリッコ年増女のやった『ユー・ガット・メール』って映画あるじゃない。あたしもあーゆーのやりたい」「え?…ああロマンチックなのがやりたいのね。分かった。早速、脚本家にストーリーを…」「ううん、あのまんまがいいの」「(それってパクリじゃ…)」「やらせてくれたら『バッフィ』の映画のこと考えてもいいかなあって…」「すぐ撮ろう いま撮ろう。何でも希望言って。そのとーりに撮るから!」「そお? じゃあ魔法も入れて」…という経緯で成立した(ような気がする)アーノン・ミルチャン製作総指揮&サラ・ミシェル・ゲラー主演によるファンタスティックなラブ・ストーリー。 ● ヒロインは、お母さんが遺してくれたNY下町の小さなレストランのオーナー・シェフ。もっともシェフとは名ばかりで料理はお粗末、店は閑古鳥。経営難で閉店寸前という時にマーケットでステキなカレに出逢う。彼は五番街の高級デパート「ヘンリー・ベンデル」が新たにオープンさせる高級四つ星レストランの責任者だった。そして、その日からなぜか突然、ヒロインは魔法の料理が作れるようになって…という話。結局、最後まで「ヒロインに魔法をかける天使(?)の正体」や「ヒロインに魔法をかけた動機」についての説明が無いまんま終わってしまうってのが唖然とする。 ● じつにどうしようもなく子供だまし。こんなもの褒めたらプロの映画評論家の沽券に関わるような代物だが、おれはシロートなので堂々と褒めるぞ。おれはこの他愛のない話がとても気に入ったし、おまけにどうやらサラ・ミシェル・ゲラーに恋してしまったようだ。「可愛いくって意地悪で脱いだらスゴイ」という持ちキャラの魅力を(ここでは“可愛い”に重点を置いて)全開にしている。いやあ素晴らしい。お相手は「リスキーブライド 狼たちの絆」などすっかりB級映画の人となったショーン・パトリック・フラナリー。これは可もなく不可もなし。代わりに、フラナリーの色っぽいアシスタントお姉さん役のパトリシア・クラークソンと、ヘンリー・ベンデルの社長に扮したディラン・ベイカーが、抜群のコメディ・リリーフを魅せる。監督はこれがデビューのマーク・ターロフ。「シリアル・ママ」や「I love ペッカー」のプロデュースをしてた人のようだが、本作はべつにブラックではない。ロマコメを愛する人に広くお勧めする。 ● ただ、料理するときは帽子ぐらい被ろうね>サラちゃん。

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狂っちゃいないぜ!(マイク・ニューウェル)

JFK、ラガーディア、ニューアークと空港を3つもかかえ、全米一の過密さを誇るNYの空をコントロールする男たち=航空管制官を主役にすえたドラマ。円形レーダーに映る十幾つもの光点を、重なる事なく着陸させる…テレビゲームのような仕事だが、1つの光点には数百人の命が懸かっていて、もちろんリセットは効かない。ストレスも相当なものだ。「コントロールを仕事にしてる男が、自分をコントロールできなくなったら…」という皮肉な話で、作り手としては「M★A★S★H」のようなクレイジーなコメディを目指してたらしい。なるほど傑作コメディが撮れそうな題材ではある。でもそれなら監督は(マイク・ニューウェルじゃなく)オリバー・ストーンに頼むべきでしょ。明かに脚本の要求するスピードに演出が付いて行ってないもの。非常事態下で主役の2人がNY地区のすべての航空機を誘導するクライマックスを、あんなにあっさり処理しちゃイカンのだよ。 ● 役者は個性的な人が揃ったが、だからと言ってアンサンブルが良いとは限らないのがキャスティングの難しいところ。スーパークールなナンバーワン管制官だったのに、強烈なライバル出現ですっかり自制心を失ってしまう主人公にジョン・キューザック。おろおろ演技はお手のものなのだが、スーパークールって前提にちょっと無理があるような…。まあチャーリー・シーンがやるよりはリアリティあるけど。ワイルドでクレイジーな新任の管制官にビリー・ボブ・ソーントン。不精髭に皮ジャン&バイクという出で立ちで相変わらずの化け役者ぶりを発揮している。キューザックの色っぽい奥さんにケイト・ブランシェット。ゴージャスな金髪美人で、どう見ても「エリザベス」とイメージが重ならないんだけど、これってやっぱり巧いって事なんだろうなあ。ビリー・ボブの若妻にアンジェリーナ・ジョリー。ウィノナ・ライダーと共演の「GIRL, INTERRUPTED」(1960年代ティーン版「カッコーの巣の上で」)で今年のゴールデン・グローブの助演女優賞を獲ってしまった若手注目株。ベアトリス・ダル似のフェロモン巨乳で、なんとジョン・ボイトの娘さんだそうだ。いっそ「007」の次回作で父娘で悪役なんてどうかね?

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コンフェッション(ローディ・ヘリントン)

賞というものは時に役者の人生を狂わす麻薬となる。可哀想にキューバ・グッディングJr.はいまやアカデミー賞中毒だ。それまで地道に黒人脇役俳優としてキャリアを重ねてきたのに、何を間違ったか「ザ・エージェント」で最優秀助演男優賞なんぞを獲っちまったもんだから、その後はジャック・ニコルソンの胸を借りた「恋愛小説家」、ロビン・ウィリアムスの前で肌色パンツ一丁でひらひら踊ってた「奇跡の輝き」、そしてアンソニー・ホプキンスに挑んだ「ハーモニーベイの夜明け」(近日公開)と、すっかり名優気取り。この、みずからの製作による単独主演作は「冤罪で警察に追われることとなった正義の弁護士が真犯人を捜すさまをハードボイルド形式のモノローグで語る」という完全なナルちゃん映画になってしまった。役者にはガラってもんがあるのだ。残念ながら、あんたが深刻な顔して悩んでみてもデンゼル・ワシントンには見えんのよ。 ● ま、ようは「逃亡者」である。「奇妙な老人が遺したミステリー小説を自分の名前で出版してベストセラー作家となるが、じつはその本と寸分たがわぬ連続殺人が起きていた」という話。脚本家が謎解きを放棄してしまってるので、ミステリーとしては腰くだけ。監督はパトリック・スウェイジの「ロードハウス 孤独の街」や、ブルース・ウィリスの「スリー・リバーズ」のローディ・ヘリントン。刑事役でB級映画の星、トム・ベレンジャーが出てくるが、ほとんど活躍せず。というわけで本篇唯一の見どころは「ヘルレイザー」のアシュレイ・ローレンスの乳ピアスである(火暴) ● 本作は(「レザレクション」がコケたせいかどうか)ろくに宣伝&告知期間も無いまま えらい急に公開されて案の定、初日からガラガラ。…てゆーか、ユンファ兄貴や007をさしおき何故コレを初日に観るか>おれ。…てゆーか、どうせ何か1本捨て公開しなきゃならないなら「ゴッド and モンスター」を公開してやりゃいいじゃんよ>ギャガ。

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レザレクション(ラッセル・マルケイ)

トゥルルルルルル。トゥルルル…カチャ「はい?」「もしもし?マルちゃん?」「おお、ランちゃんか。『ハイランダー4』の件、考えてくれたか?」「それよりさあ。頼みがあんだけど」「水臭いなあランちゃん、何でも言ってよ。あんたとおれの仲じゃない」「こないだ『セブン』てゆー映画を観たんだけどさあ…」「(え?いまごろ?)」「おれもあーゆーのやりたい」「まかしてよ。何でも言いなりの子飼いの脚本家がいるからさあ。テキトーにストーリーでっちあげさせて…」「いや、あのまんまがいい」「(それってパクリじゃ…)」「やらせてくれたら『ハイランダー4』に出てもいいかなあって…」「すぐ撮ろう いま撮ろう。何でも希望言って。そのとーりに撮るから!」 ● …という経緯で成立したに違いないクリストファー・ランバート原案・製作・主演によるサイコ・スリラー。「天才的な犯人に成すすべもなく十数人を殺され、最後に赤ん坊を1人救ってメデタシメデタシ」という話。雨の降りつづく大都会。聖書にもとづく連続猟奇殺人。神経症のようにつねに不安定に揺れ動くカメラ。歪んだ構図。刑事と妻の不安定な関係。ふと現れる真犯人・・・「セブン」そっくり…て、ゆーより「セブン」そのまんま。唯一違うのはデビット・フィンチャーとダリウス・コンディが周到に観客の視線から隠していたグロテスクな死体の数々を、この映画ではこれでもかってほど見せてくれる。 ● ランちゃんことクリストファー・ランバートは最初の猟奇殺人ではやくも「これは連続殺人だ」と見抜く天才刑事。じつに気持ち良さそうに苦悩演技に興じている。デビッド・クローネンバーグが「神の愛を説く神父」という、もう犯人としか思えない役で出演。 ● 監督は「ハイランダー」シリーズの盟友、マルちゃんことラッセル・マルケイ。撮影はテレビ出身のジョナサン・フリーマン。アメリカではストレート→ビデオだったようだ。ま、ここまでソックリにしちゃマズいわなあ。あとどーでもいいけど、犯人のプロフィールで「公園で鳩と話してるところを保護されて2年間、精神病院に」ってヒドくないか? 話すだろ、鳩とぐらい。…話さない?>即入院。

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通貨と金髪(望月六郎)[ビデオ上映]

伊藤秀裕のエクセレント・フィルムがギャガを騙くらかして金を引き出した「エロス」をテーマとする低予算5本連作“MOVIE STORM”の1本目。ビデオ撮りという事からも明らかなようにビデオマーケットをメインターゲットにしたシリーズで、「エロを入れといてくれりゃ後は何をしても構いませんよ」というピンク映画的スタンスのようである。 ● で、トップバッターの望月六郎(監督・脚本)が作ったのは笑えないブラック・コメディ。「通貨と金髪」という奇矯なタイトルは、翻訳すると「日本のバブル経済と対米関係」という意味になる。いやほんとだって。これ、大島渚や若松浩二が作ってもおかしくない政治的な映画なのである。 ● 諏訪太朗 演じる経済学教授はバブル期に投資評論家としてテレビで売れっ子になり、自らも大儲けしたが、バブル経済が崩壊した今では三流大学のシケた助教授でしかない。彼はまた金髪フェチのマゾ変態でもある。金髪と白い肌の女には無条件でひれ伏さずにおれない。そんな教授の前にアメリカからの金髪留学生があらわれる…。彼は憂国の士でもある。経済学の教授として、1人の日本人として、通貨を貯める術を知ってても使い方を知らない この国の現状を真剣に憂いているのだ。裸のホテトル嬢に札束をばらまいて「君が代」を強制的に歌わせるシーンは日本映画史上に残る名場面であろう。 ● かように、すこぶる刺激的なテーマではあるのだが、出来上がった映画がつまらないのが致命的(一色伸幸+滝田洋二郎のコンビなら面白い映画にできたかも) カメラマンにせっかく安藤庄平を起用しても、ビデオ撮影→プロジェクター上映の薄汚れた画面では到底、実力を発揮し得ない(テレビモニターで観た方がむしろ印象がいいだろう) そして、それより何より観客を唖然とさせるのは金髪の留学生を演じているのが髪を染めた日本人だということ。それも白人ぽい顔つきでも何でもないただのタヌキ顔(新人・木村衣里) 好意的にとれば「日本語の台詞がしゃべれなければ」とか「金髪の記号性が際立つ」とかいろいろ理由はあるのかもしらんが、本物の金髪白人女がヒロインじゃなかったら成立しない話でしょ、これ。なに考えてんだか>望月六郎。

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ANA+OTTO アナとオットー(フリオ・メデム)

「穴と夫」・・・あ、ごめんなさい、ごめんなさい。もう2度としませんから。 ● 不思議とファンタスティック系映画の豊かな土壌があるスペインから、また新たな異才が登場した。映画のすべてが緻密に計算されたジグソーパズルのような(←誰もが使う形容)ラブ・ストーリーである。赤い糸で結ばれた運命の恋人たちの出逢い・別れ・再会を、ラストシーンからさかのぼり、「穴」と「夫」(←だから!)それぞれを交互に語り手として「1つの出来事に2つの見方がある」というよりは、まるで「2人の恋には2つの事実がある」とでもいうように観せていく。ラストにいたってすべてのピースがピタリと嵌まるかというと、辻褄の合わない余分なピース、すなわち運命の脇道がいくつも残る。それこそがこの映画の魅力なのだ。…抽象的にすぎるか。つまり、不吉な予感に満ちたフラッシュバックを多用したニコラス・ローグの「赤い影」にも似た、サスペンス映画の手法によるラブ・ストーリーなのである。 ● 演出はこれが4作目となるフリオ・メデム。見事な構成の脚本は監督自身によるもの。中盤までの舞台はスペインなのに、全篇が北欧映画のようなクールな色彩設計のカメラはカロ・F・ベリディ。ちなみに「北極圏の恋人たち」というのが原題だが、これは日本語タイトルの方が優れてるな。 ● 小学生・高校生・20代と3人の女優が「穴」(←しつこい)を演じるが、イチオシは高校生を演じたサラ・バリエンテ。20代を演じたナイワ・ニムリは人気歌手でもあるスペインのスター女優らしいけど、ちょと水気が足りない感じ。20代の「夫」には「テシス 次に私が殺される」のフェレ・マルティネス。 ● それにしても…[ネタバレにつき要ドラッグ]>この展開でハッピーエンドじゃないのは救いがなさすぎると思うが。 ● あと、言っとくが、金取って売るパンフに「洋服屋」だの「紙ヒコーキ作家」だのといったドシロートの「感想文」を載せるのは禁止な。

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ジーンズ 世界は2人のために(シャンカル)

「ハリウッドと手を組んだ新しいインド映画」と宣伝されているが、中味は従来どおりのベタベタなインド映画(タミル語)である。世界各国の史跡・名勝でロケしているが、これは「君は世界8番目の不思議」という歌の背景に使われるだけで、別に「八十日間世界一周」みたいなストーリーという訳ではない。 ● 「南インドの都マドラスに住む大金持ちのお嬢さんと、LA育ちの双子のインド人医学生が恋をして…」という話。前半がLA篇、後半がマドラス篇という構成。双子の片方との結婚を望むお嬢さんに向かって頑固親父が「双子の息子の嫁はやはり双子の娘でなくてはならぬ!」と無理難題を言い放つところで「インターミッション」。後半へ続く、となる。もちろん後半の冒頭では(諸賢も薄々ご想像のとおりの)驚天動地の解決策が示されて場内爆笑となる次第だが、日本の劇場だと休憩を飛ばして連続上映してしまうので今ひとつ引きの効果が薄いのだな。せめて5分でも明かりを入れてはどうか。その方がより笑えると思うんだが>シネセゾン渋谷。 ● 売り物のダンスシーン。LA篇ではMTVを意識した振付でヴェニス・ビーチにモノホンのパツキン娘をはべらせて踊ったりするんだが、これが逆効果。残念ながらインドのオシャレは日本のダサイなのだ。韓国人ラッパーのMTVというか、NHK紅白歌合戦というか、まあそーゆー代物になってしまっている。結局、おれが一番心トキめくのはサリー姿で群れ踊るインド娘たちだったりする。美しい臍とふっくらした下腹には何ものも替え難いということだ(火暴) ● ヒロインのアイシュワリヤ・ライはたしかに美人なのだが、なんかこうグッと来るものがないのだなあ(それにちょっとカエル顔?) 双子を演じるプラシャーントは正統的な二枚目なのでラジニ兄貴の濃さに慣れてしまった目には、ちょと薄口で物足りない。 ● ところでこれ、何が「ジーンズ」なの?(アメリカだから?) ● まあ、なんだかんだ言っても3時間を退屈させないのはサスガ。寅さんの居なくなった正月映画、初笑いはぜひインド映画をお勧めする(東京エリアだと他にも、中野武蔵野ホールで大傑作「シャー・ルク・カーンのDDLJ」を、キネカ大森では「愛と憎しみのデカン高原」を上映中…ってスゴいよな>この状況)

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ナトゥ(インダス・ヘリテイジ)

「ウッチャン ナンチャンのウリナリ!!」の番組内企画として南原清隆とケディ・ティン(←だれ?)主演で作られた38分のインド映画の、パロディ…とは言えないな。これ、完全なインド映画である。ちゃんと35mmで撮影してるし主演の2人以外は監督・音楽・振付師をはじめ、すべて本物のインド映画(タミル語)のスタッフ&共演者だ。正式にインドの映倫を通した、インド国内でインド映画として上映可能な作品なのである。ストーリーも38分の中に「愛しあう貧しい兄妹」「悪者地主の横暴」「濡れ衣で投獄」「運命の出逢い」といった定番の要素、そしてお約束の「驚くべき出生の秘密」まで盛りこんで、歌と踊りもちゃんと3曲入ってる。それでいてダイジェストにはならず、ちゃんとドラマとして成立してるのだから大したものだ。脱獄の描写を簡潔な3カットで処理してしまう手際の良さを見よ。いつもだらだらと2時間超の映画ばかり撮ってるハリウッドのボンクラ監督どもは、このインド人監督の爪の垢でも煎じて飲んだらどうか(←常套句) ● 主演の2人は大袈裟な素人演技だが、インド映画の演技がもともとそういうものなので違和感なし。台詞&歌は現地の俳優がアテレコしてるが、口パクは合ってるのでタミル語の台詞をきちんと憶えて喋っているようだ。踊りにしても「どうせTV番組のシャレ企画」とバカにすることなく一生懸命に振付をこなしている様には好感が持てる(下手は下手だが) ● どうしても、とお勧めするほどの代物ではないが、木戸賃も(ナ・トゥーで)720円なので、「ジーンズ」を観に来るような観客ならついでに観て損はしないだろう。

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ブルー・ストリーク(レス・メイフィールド)

マーティン・ローレンス主演のアクション・コメディ。「建設中のビルに盗んだダイヤを隠した宝石泥棒が、2年間のお勤めを終えて出てきたら、ダイヤを隠したビルはなんとLA警察になっていた! やむを得ず刑事に化けて建物に入ったはいいが、新任の(本物の)刑事と勘違いされて…」という話。パターンとしては「外部からやってきた八方破れの刑事が大変な騒動を巻き起こしながらも、あれよあれよと事件を解決していく」という「ビバリーヒルズ・コップ」の二番煎じである。主人公とチームを組む地元署の刑事が「気の弱い堅物の新人刑事」と「お人好しの部長刑事」ってとこまで一緒。 ● 監督が「原始のマン」「34丁目の奇跡」「フラバー」のレス・メイフィールドなのでコメディ・パートはかなり笑えるが、アクションに締まりがなくててんでダメ。あと、主人公に、ラストで犯人を射殺させるのは脚本の致命的(←洒落にあらず)なミスである。プロの泥棒は人を殺さない。殺しをする泥棒は外道である。それが映画におけるルールというものでしょう。 ● マーティン・ローレンスはエディ・マーフィーの全盛期よりは数段落ちるが、クリス・タッカーよりはなんぼかマシといったところ。新人刑事にドリュー・バリモアの元カレ、ルーク・ウィルソン。部長刑事にイイ味 出してるウィリアム・フォーサイス。

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カーラの結婚宣言(ゲイリー・マーシャル)

脚本:ゲイリー・マーシャル&ボブ・ブラナー 撮影:ダンテ・スピノッティ
ゲイリー・マーシャルが「プリティ・ブライド」の1本前に撮った作品。あえなく2000年最初の〈2週討ち死に〉映画となったが、生憎とこれが大傑作である。「グリーンマイル」の試写を観たスピルバーグじゃないが「私はこらえきれずに四回泣いてしまった」 ● 「白痴の娘さんが、コントロール魔のお母さんに善意の邪魔をされつつも、やはり白痴の青年と恋に落ちて、しっかりと自分の手で幸せをつかむ」という東芝日曜劇場の世界。ヒロインの自立は裕福な両親の経済的なバックアップがあってのものだし、この世界では黒人も彩り程度にしか登場しない。ともすれば臭くて偽善的で観ちゃいられない映画になる素材だ。しかもコメディとはいえ馬鹿を馬鹿にして笑いを取るわけだから匙加減をまちがえたら観客にソッポを向かれる事になる。だが、さすがは職人ゲイリー・マーシャル、深刻な部分はさらりと流し、これを「子供のように純粋な心を持った恋人たちの、けなげなラブストーリー」として演出する(つまり「小さな恋のメロディ」だな) そこで描かれるのは「自らの足で拠って立つこと=自由は何よりも尊い」というアメリカ映画の普遍的なメッセージに他ならない。 ● この映画を後味の良いものにしているのは、なんと言っても、憎まれ役の母を演じるダイアン・キートンの力である。てめえで娘を全寮制の養護学校に放り込んでおいて、卒業して家に戻ってきた娘を相変わらず「何も出来ない障害児」扱いして“保護”しようとする高圧的な母親。メリル・ストリープやジェシカ・ラングあたりにリアルなメソッド演技で演じられた日にゃ「救いようのない嫌な女」になるところなんだが、ダイアン・キートンは頭では娘の行ないを馬鹿げた危険なことと思っていても、娘の熱意についほだされてしまう心根の優しさを滲ませて、憎まれ役なのに憎めない。カーラを演じるジュリエット・ルイスは「巧い演技」という意味では完璧で、あまり美人じゃないところも含めてじつに愛らしいヒロインなのだが、この役は無名の新人の方がリアリティはあったかも。白痴のボーイフレンドにジョバンニ・リビージ。ハンサムでも長身でもないところが感情移入しやすくて(火暴)よろしい。カーラの理解あるお父さんに「出てくるだけで映画の品質を保証する」名優トム・スケリット。意固地になる妻に向かって言う名台詞「年を重ねて子供に背を向けるのは、豊かな実りを失うことだ」 もちろんゲイリー・マーシャルの盟友ヘクター・エリゾンドも出てくる。 ● ひとつだけ文句を付けておくと、この話で2時間9分は長過ぎる(たとえ長いと感じなくても、だ)

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おしまいの日。(君塚匠)

これって何を描いた映画? 「働き蜂の夫のことを心配するあまり、妻が狂っていく」という物語なのだが、結局 最後まで「W ダブル」の妻バージョン、つまりキチガイ妻のサスペンス・ホラーなんだか、それとも「おかえり」と同種の哀しい夫婦のラブ・ストーリーなんだかハッキリしないのだ。いや、チラシのコピーの文面や、山田洋次がコメントを寄せているという事実から判断するとおそらく後者なんだろうが、それにしちゃあ裕木奈江がいちいち怖すぎる。「荻野目慶子のように怖い」と言えば、どれほどの怖さかお判りいただけようか。「接待で午前様だから夕飯は要らん」と言ってるのに、毎日毎日 手の込んだ夕飯を作って、寝ずに夫の帰りを(あのジトッとした目で)待っていたり、夫の仕事ぶりを電柱の陰から覗いてたり、寝てる夫の腕に勝手に空気バンド巻いて血圧 測ったりするのもコワイが、そのうえ彼女には「居もしない猫」の姿が見える。裸の女とかなら おれもよく見るが…あ、いや。で、何がコワイってその幻覚の猫の名前が「にゃおん」なのだ。あなた、猫に「にゃおん」と名づける女と暮らせますか? いっそホラー映画として撮りゃ良かったのに。 ● …と、ここまで書いたところで、本屋で新井素子の原作をめくってみたら、なんだ原作はサイコホラーじゃないか! 「ローズマリーの赤ちゃん」も入ってるぞ。…てことは映画版は完全な演出ミスか、あるいは原作とまったく違うジャンルの映画を作ろうとして失敗したか、だな。 ● 裕木奈江は演技派なのかと思ってたら、全然そんなことなかった。いちおう夫婦のベッドシーンもあるので、裕木奈江のおっぱいポロリをサービスカットと思える諸兄にはお勧めする。働き蜂の夫に(相変わらず不器用な)高橋和也。ヒロインの高校時代の同級生に菜木のり子(こちらも何故かヌードあり) その旦那に金山一彦。名手・前田米造の透明感を強調したカメラが「家族ゲーム」を思い起こさせた。いや、「思い起こさせた」ってだけだが。

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愛は波の彼方に 愛情夢幻号(ハーマン・ヤウ)

香港では「ゴージャス」と同時期に封切られたレイモンド・ウォン(黄百鳴)製作の旧正月映画…と言えば香港映画ファンには自明なのだが、念のため説明すると、よーするにハッピーエンドが約束された他愛のないバカ映画である(←誤解のないよう補足するが、貶しているわけではないよ) ファーストシーンのたららんたりらんという気の抜けたBGMで脱力したら後は最後まで力が抜けっぱなし。ユルユルダラダラもまた味と自分を納得させる事のできる香港映画ファンにお勧めする。 ● 企画としては「『タイタニック』が当たったから豪華客船もので一丁どうよ?」という飲茶の席でのレイモンド・ウォンの鶴の一声で決定されたとおぼしき内容の「金持ちのお坊ちゃんの嫁さん捜し」もの。アンディ・ラウが「ま、仕事だから言われた通りやりますよ」とカマトト演技を爆裂させている。世間知らずのゴーマンお坊っちゃまを真心に目覚めさせるヒロインに石田ひかり。日本製テレビドラマの海賊版VCDのおかげで香港でも知名度が高いらしい。今や日本じゃ めったに見せないビキニ姿も強制的に披露、しまいにゃ腰ベルトひとつでヘリコプター縄梯子ぶら下がり空中飛行などという無茶までやらされている。前に「はなまるカフェ」に御本人が出演してしゃべってたが、なんでも「客船を借りきって航海しながらの撮影だったために途中で帰ろうにも帰れなかった」そうである。それ人身売買じゃんか>さすが香港映画。アンディ・ラウの執事に怪優アンソニー・ウォン。プロデューサーのレイモンド・ウォン自身も「タイタニックかぶれの旅行客」という設定で「タイタニック」のしょうもないパロディを一から十まで繰り広げる。もう開き直ってるとしか…。 ● 監督は「八仙飯店 之 人肉饅頭」「エボラ・シンドローム 悪魔の殺人ウィルス」「欲望の街・外伝 ロンリーウルフ」の鬼畜派…というより娯楽派ハーマン・ヤウ(邱禮涛) もっともタイトル・シークエンスの最後にクレジットされるのは、監督ではなくプロデューサーなので「これは誰の映画か」と言われれば、やはりレイモンド・ウォンの映画という事になるのだろうな。

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極道(やくざ)血風録 無頼の紋章(伊藤秀裕)

もはやお馴染みとなった新宿昭和館における、やくざものVシネマの封切上映。的場浩司と竹内力の初共演というのが売り。的場浩司が広域暴力団はえぬきの幹部、竹内力がはみだし者愚連隊のリーダーという構図で、あいも変わらぬ権力抗争がくり広げられる。伊藤秀裕という監督は、ロマンポルノ時代から妙に観念的な映画を撮る人だったが、ここでは武知鎮典の自己陶酔どっぷりの脚本を得て、作ってる人たちだけがカッコイイと思ってるナルシスティックな台詞をしゃべらせまくる。でまた、的場浩司だから似合わないんだよな、そーゆー台詞が。「大学出で元傭兵のインテリやくざ」って設定からして無理があるんだが、こいつ偉そーに「この世界の男たちは能書きを言わずに、黙って行動して黙って死んで行く…そこがいい」って、アンタがいちばん能書き垂れてんですけど。テメーの台詞にうっとりする前にやることあんだろ、やくざ映画なんだから。30分で退出。

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