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m @ s t e r v i s i o n
Archives 1999 part 1
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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フレンチ・カンカン(ジャン・ルノワール)[リバイバル公開]

起承転結のはっきりしない私小説のようなイマドキのフランス映画が嫌いである。かつてフランス映画は大人の映画だった。その典型がこの「フレンチ・カンカン」だ。ジャン・ルノワール1954年(「勝手にしやがれ」のわずか5年前だ)、の大人のためのエンタテインメント極めつけ。娯楽映画にハッピーエンドはつきものだが、ストーリーとは関係なく、画面からあふれ出る幸福感に感きわまって涙がとめどなく流れてくる…そんな体験が出来る映画はそう何本もあるものではない。無条件で観に行くべき傑作。 ● お話としては有名なキャバレー「クレイジー・ホース」…いや違った「ムーラン・ルージュ」の誕生秘話で、席亭に扮するのがジャン・ギャバン。自分の経営する店のスター・ダンサー(マリア・フェリクス。お色気爆発!)を愛人にしているのだが根がスケベなもんだから、下町の労務者向けの安酒場でスカートを跳ね上げて踊る若い娘(フランソワーズ・アルヌール)に一目惚れ。この娘をメインにしてカンカン踊りを売り物にした高級キャバレーを開けば当たる!と興行師のカンでピンと来た。つまりエロをソフトなパッケージにくるんで「これはエロじゃありませんよ」と言ってエロ目当ての客をがっぽり頂くという、まあ考えることは昔も今も同じ。この映画が大人の映画だなぁと感心したのは(以下、ストーリーに触れます)、ジャン・ギャバンが、しがない洗濯女をしている娘に「踊り子にならんか」と声をかける。彼女はまだ処女で、実直なパン職人の恋人がいるんだが「体を許すかどうかで舞台に立てるかどうかが決まるのね。それで悩んじゃう…。でも、このままじゃ小娘に見られるわ」と恋人相手にSEXの練習をしてから、夢見心地の恋人をさっさと置いてけぼりにしてジャン・ギャバンのもとへ駆けつけるのである(!) で、なんやかやあって2人はいい仲になって、なんやかや乗り越えてやっとこさ「ムーラン・ルージュ」オープンの運びとなるわけなんだが、好色親父のギャバンはすでに新しく発掘した歌姫に目移りしてる。で、アルヌールがむくれて楽屋に閉じこもる。ショーの開演は刻々と近づく。彼女がいなければ幕が開かない。さあどうする、という事でギャバンがアルヌールを説得するわけなんだが、このときのギャバンの言いぐさがまたスゴイ「おれをカナリアみたいに飼う気か? おれにスリッパをはいて家にいろと? 忠告してやる。恋人が欲しけりゃ王子をパトロンにしろ。亭主がいいならパン職人だ。一方は宝石と毛皮の山が、片方は暖炉のそばで幸せに老いる堅実な生活が待ってるさ」この後、まさしくジャン・ルノワールの心情吐露にほかならない感動的な大演説となるわけなんだが、それはぜひ諸兄の目でたしかめてほしい。そしてアルヌールはステージへ。映画はスクリーンを埋め尽くす歓喜怒涛のフレンチ・カンカンの競演乱舞へとなだれこむのである! いやぁ昔のフランス映画ってつくづく大人の映画だなあ。

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54 フィフティ★フォー(マーク・クリストファー)

一時代を築いたディスコ〈54〉がNYにオープンしたのは1977年。「サタデー・ナイト・フィーバー」の年だ。この映画が描くのはその2年後の1979年。〈54〉は世界中でいちばんホットなスポットだった(まだ“クール”なんてコトバはない頃だ) 高校生だったおれの夢は〈プラトンの隠れ家〉に行ってヤリまくること、そんな時代だった(どんな時代だ!?)…つまり、エイズという大津波がすべてを浚っていってしまい、ミック・ジャガーとスティーヴン・タイラーがドラッグとおさらばしてジョギングに精を出す1980年代の、前夜。そんな〈1970年代が終わる瞬間〉をこれほど鮮烈に描写した映画をほかに知らない。 ● ストーリーは「埼玉の山出しの兄(あん)ちゃんが、美貌と肉体を武器に六本木のディスコの黒服チーフに昇りつめるが、照明が落下して時代が変わり、今では地道に吉野屋の店長をしている」というもの(一部 脚色あり)。だが、なんといっても映画をさらうのは、店のオーナー、スティーブ・ルベル役のマイク・“オースティン・パワーズ”・マイヤーズ。ドラッグ漬けでホモで有名人好きの金の亡者で、店から締めだされた連中の悔しがる顔を見るのが三度の飯より好きという人間のクズを嬉々として演じている。こいつがIRSにガサ入れをくらってついに年貢の納め時、腐れ役人どもを眺めての捨て台詞がすばらしい「あんな安物のくそスーツでおれに店に入ってきやがって」…ほれぼれするゲスっぷりではないか(ルベルは1989年にエイズで死んだ) マイヤーズの毒の前に、主役の兄ちゃんのライアン・フィリップは完全に霞んでいる。“メヒコのセクシー・ダイナマイト”サルマ・ハエックと、「スクリーム」のネーヴ・キャンペルがダブル・ヒロインなのだが、ハエックの役はもう少し若い女優にすべきだった。そしてどっちの女もコネ作りのためにプロデューサーにバカバカやられてるところをきちんと描くべきだった。ライアン・フィリップがマイク・マイヤーズにちんぽを咥えさせる/のちんぽを吸う描写も逃げるべきではなかった。これはそういう話なのだから。本作とよく比較される「ブギーナイツ」は、だらだらと長いだけのダメな映画だが、ヒロインのヘザー・“ローラーガール”・グレアムとその扱いにかんしては本作より優れていたと思う。 ● それにしても〈54〉の2階席がヤリ部屋だったとは知らなかったな。

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アンダー・ザ・スキン(カリーヌ・アドラー)

退廃的な破滅を描いた映画かと思ったら、しごく健全な、生きる力をテーマとした佳作だった。「あなたがいたら 少女リンダ」を愛する人と「魔女の宅急便」に共感する人にお勧めする。 ● ヒロインはアイリス(あやめ)という名前の20代前半の女の子。幸せな結婚をしてもうすぐ子供も生まれる優秀なローズ姉さんへのコンプレックス/対抗心と「大好きなお母さんはきっと姉さんの方を愛してるんだ」という思い込みから、この頃なにもかもがおもしろくない。仕事も辞めてしまったし、優しいカレシとも別れてしまった。そんな時に母さんが癌で死んでしまい、アイリスはもう どうしてよいか判らない。母さんのかつらを被って母さんの毛皮のコートを着て夜な夜なクラブに出かけては男漁りをくりかえす…。 ● 観ているこちらはアイリスの気持ちがよくわかるから、自分を苛めるように自暴自棄な暮らしに堕ちていく彼女の姿が切ない。そして早く立ち直っておくれと願うような気持ちで観ているばかり。 ● 本作が監督デビューで、みずから脚本も書いているカリーヌ・アドラー(♀)の赤裸々な要求に、やはり新人女優のサマンサ・モートンがファーストカットから陰毛まるだしで果敢に応えている。

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輝きの海(ビーバン・キドロン)

「村八分の変わり者の女が、流れ者の男と恋に落ちる」というのはひとつのパターンで、数年前にもヘレナ・ボナム・カーター主演の「死の愛撫」というよく似た映画があった。そっちは死んだ旦那のちんちん切って私設博物館を開くキチガイ女の話で、なんと実話だそうだ。場所もたしかスコットランドあたりの断崖だったが、こちらの「輝きの海」は文豪ジョセフ・コンラッドの原作だそうだから、似てるのは偶然だろう。 ● 「死の愛撫」が完全にヘレナ・ボナム・カーターの映画であったように、「輝きの海」は徹頭徹尾、レイチェル・ワイズの映画である。クラシックな顔立ちと意志の強さを象徴するような太い眉。気高さと背中合わせの頑なさで、みずからを孤立させてしまう美しく激しいヒロイン。こういう女に惚れられる男は幸せかもしらんが、運の尽きとも言えるな。だから男が悲運な最期を遂げるのは、これはもう必然なのである。あまりにレイチェル・ワイズの映画なので、流れ者の男に扮したヴァンサン・ペレーズも、男に横恋慕するインテリ医師イアン・マッケランも、ヒロインの唯一の後ろ盾となる金持ち嫁かず後家キャシー・ベイツも、今回は仕事をしていないに等しい。

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チャイルド・プレイ チャッキーの花嫁(ロニー・ユー)

シリーズ4作目…とはいっても1989年−1991年の3年間にバタバタッと3作続けて公開されて以来だから、ずいぶん久し振りの続編は、なんと100%コメディ映画になっていた。タイトルからお判りのようにお話は「フランケンシュタインの花嫁」のパロディで(どちらもユニバーサル映画だし)、連続殺人鬼フェチのイカレ女がチャッキー人形を復活させるが(参考書が例のパソコン本のバロディで“Voodoo for Dummies木偶の坊のためのヴードゥー魔術”ってのが笑える)、チャッキーによって自分が逆に花嫁人形にされてしまう。ここから映画はグロテスクな一対の人形のかけあい漫才の様相を呈する。いや、漫才どころかコイツらは人形なのにSEXまでするのだ!(花嫁人形に「ちゃんとゴムつけてよ」と言われてチャッキー「バカ言ってんじゃねえ。おれは全身ラテックス製だ!」) ● なんといっても、この映画の見どころはジェニファー・ティリーに尽きる。太り肉の爛熟した魅力を全身から発散させて、なんかもう夢精してしまいそうな感じ。人形になってからの後半1時間は当然、声の吹替のみの出演になるわけだが、なにせ、あのバタークリームにハチミツを溶かして砂糖をまぶしたような声である。存在感は完全にチャッキー人形を凌駕していた。それにしても、ラブ・ヒューイットといい、コネリーといい、なぜかジェニファーって名前には、むちむちっとしたイイ女が多いような…(ジェイソン・リーを除く) ● 脚本はオリジネーターのドン・マンシーニ。SFXも引き続きKNBエフェクツのケビン・イエーガーが名人芸を披露。監督は香港の于仁泰(ロニー・ユー)。「キラーウルフ 白髪魔女伝」「夜半歌聲 逢いたくて、逢えなくて」などのゴシック・ホラー演出が評価されて招かれたのだと思うが、その特質をまったく発揮できずに終わってしまった。ちなみに撮影監督に鮑徳熹(ピーター・パウ)、編集&第2班監督として胡大為(デビッド・ウー)を同伴。


ムーンライト・ドライブ(デビッド・ドプキン)

モンタナの片田舎。とつぜん親友がおれに銃を突きつける。やつのカミさんとヤリまくってるのがバレたのだ。「おれを撃つのか!?」「撃てない。代わりにお前を“殺人犯”にしてやる」そう言うとやつは銃を自分のこめかみに当てて自殺しちまった。ヤバい。誰が見てもおれが殺したとしか思えない状況だ。なんとか死体は始末したものの、死んじまった親友の女房とこれ以上 関係を続けるわけにはいかない。別れ話を切りだすと「死んでも別れてやらない」とヌカしやがった。ちくしょう、悪い女に捕まった・・・ ● よくあるフィルム・ノワールかと思っていると、この後、ストーリーは予想もつかない方向へ転がり始める。優柔不断で何事にも受け身な主人公が、それゆえに次から次へと冗談としか思えないトラブルの底無し沼へずぶずぶとハマり込んでいく様をオフビートに描いた脚本はオリジナリティがあり充分に面白い。しかしだからと言って物語の結末において主人公を受け身で主体性もないままに窮地から救い出してしまっては絶対にイカンのだ。「テメエのケツはテメエで拭く」という五つのガキでも知ってるアメリカ映画の基本を理解していないようでは★1つ。 ● ますます電気グルーヴのピエール瀧に似てきたホアキン・フェニックスは鈍重、性悪女のジョージナ・ケイツはビッチ度不足、意外な登場人物のヴィンス・ヴォーンは軽いだけでスゴみなし。ただしホアキン君と一発ヤッてすぐ退場しちゃうウエイトレスのニキ・アーリン嬢は要注目。

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ゴールデンボーイ(ブライアン・シンガー)

映画作家には鬼門であるスティーブン・キング原作もの。残念ながら本作も例外ではなかった。スティーブン・キングの小説の常として原作版「ゴールデンボーイ」も、執拗なディテイルで書きこまれた日常の世界から、やがてアチラ側へと一線を踏み越えて、どんどんエスカレートしていく様が大きな魅力なのだが、映画版は最後までリアリティの枠内にとどまる。 ● 本来ならば「眠っていたナチスの老殺人鬼を目覚めさせたことによって、自らの内にある殺人鬼をも覚醒させてしまうオール・アメリカン・ボーイを描いたホラー」であるべきはずの物語が、「ホモのおっさんを苛めてるうちに自分もホモになった少年の話」になってしまった。まあ、それは実生活でもホモのおっさんであるイアン・マッケランの圧倒的な演技力と、やはり実生活ではゲイであるブライアン・シンガー監督の個人的な好みによるものが大きいのだが。全裸の寝姿やシャワー・シーンなどで美少年フェロモン発散しまくりのブラッド・レンフロは、健闘してはいるものの、これでは初めからエキセントリック過ぎて、「どこにでもいるような模範的な優等生(=ゴールデンボーイ)がシリアル・キラーの種子を宿している」という、この物語の肝の部分が欠落してしまう。

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ブラック・ドッグ(ケビン・フックス)

ケビン・フックスと言やあ「パッセンジャー57」の監督だし、腐ってもユニバーサル映画だし、そこそこ期待して観に行ったのだが、見事に肩透かしを喰わされた。この映画、東宝東和としては珍しく原題通りなのだが、あるべき正しい邦題は「パトリック・スウェイジの 爆走トラック野郎 人情一番星」である。ビデオ発売の際には速やかに改題していただきたい。 ● 見どころは巨大トラックのカー・チェイスとパトリック・スウェイジのど根性なのだが、ヒネリも何もない脚本を、起伏のない一本調子で演出したら、どうしたってこうなるわなあ。アメリカ中西部にお住まいでピックアップ・トラックを転がしてドライブイン・シアターへお出かけになるヤング・カップルにお勧めする。

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ハムナプトラ 失われた砂漠の都(スティーブン・ソマーズ)

だてに邦題とタイトルロゴのデザインが似てるのではなかった。監督自身が“目指した”と公言しているとおり中身まで「レイダース 失われたアーク」にそっくりなSFXスペクタクル・コメディ。全体のトーンは「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」の方に近いかも。え?「インディ・ジョーンズ」はコメディじゃないって? そりゃ単に、ご立派なハリソン・フォードと、「原始のマン」「ジャングル・ジョージ」のブレンダン・フレイザーのキャラの違いだ。「ザ・グリード」に続いて金のかかったB級映画を手がけるスティーブン・ソマーズの演出は絶好調で、開巻10分でミイラ男がミイラにされた因縁話を片づけてしまい、あとはひたすらビックリ箱をひっくり返すことに専念する。気は強いけどおっちょこちょいな女考古学者の卵、という“いかにも”なキャラを演じるヒロインのレイチェル・ワイズはクラシックな顔立ちがピタリと物語にハマっている。 ● ご存知のように原題は「THE MUMMY」なのだが、本作はどのような意味においても〈ミイラ男映画〉とは言えない。だいいち、包帯グルグル巻きのモンスターが出てこないのだ。「魔宮の伝説」で猿の脳味噌料理が出てきたような意味でのグロテスク描写はあるが、ホラー/怪奇趣味は皆無。定番の“深夜の博物館”のシーンもない。せっかく物語の舞台を1923年、つまりツタンカーメン王の墓が暴かれた翌年に設定しているというのに、作者はファラオの呪いにまったく無関心なようで「この棺を開けたならばエジプト10の災いが訪れるであろう」というその10項目の条文さえ説明しない。 ● 特撮はILM。CGメインである。「ザ・グリード」のときはモンスターのスピード感を出すのにCGが有効だったが、今回はとくに見るべきものなし。“人肉を喰らうカブト虫の大群がわさわさわさと人間にむらがる”なんてのはCGで見せられても気持ち悪くないんだよな。

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サイモン・バーチ(マーク・スティーブン・ジョンソン)

撮影:アーロン・E・シュナイダー 音楽:マーク・シェイマン 主題歌:ベイビーフェイス
おれは戦争や縄張り争いや連続殺人鬼の犯行や宇宙人の侵略で人が死ぬ映画は大好きだが、難病で人が死ぬ映画は苦手なので、これは普通なら観ないジャンルの映画なのだが「ガープの世界」や「ホテル・ニューハンプシャー」のジョン・アーヴィング原作ということで観にいった。アーヴィングを読むと(観ると)「禍福はあざなえる縄の如し」という諺が浮かんでくる。幸せと不幸はかわりばんこにやってくる。幸せと見えていたものは不幸の種であり、不幸と思っていたことが幸せの芽であったりする人生の複雑さ/不思議さ。人生のお伽噺性をも内包した「人間万事 塞翁が馬」というすぐれた故事もあるな。「わらしべ長者」…これはちょっと違うか。 ● 原作(「オウエンのために祈りを」新潮社)の主要テーマであるベトナム戦争の要素をごっそり削除し、ストーリーの前半部分を中心に再構成して主人公の名前も変えた映画化にはしかし、みごとにジョン・アーヴィングの物語世界が息づいている(脚色は監督自身) それは特に映画の前半に顕著で、1960年代前半の「スタンド・バイ・ミー」を思わせる小人私生児のボーイズ・ライフが生き生きと描き出される。そう、(ラストはきっちり大泣きさせられるが)この映画はいかなる意味でも難病ものや闘病ものではないのであった。 ● サイモン・バーチを演じるのは11才の本物の小人、イアン・マイケル・スミス。いわゆる白木みのるやミスター珍のお仲間(「モルキオ症候群」というそうだ) 劇中年令は12才だが、時には老成しているようにすら見えるトリックスター役を見事にこなしている。この聡明な少年のキャスティングなかりせば映画の成功もなかっただろう。サイモンのただひとりの親友となる私生児役、ジョセフ・マッゼロのナイーブな演技も素晴らしい。マッゼロのお母さん役のアシュレイ・ジャッドは文字通り輝くばかりの美しさ。2人の少年につらくあたる牧師さんを演じるデビッド・ストラザーンは前半はわりとステロタイプな憎まれ役なのだが、サイモンに「神様は ぼくにもちゃんとプランを用意してくれてるのかな」と聞かれて、言葉につまり「…私にはわからないんだ」としぼりだすように答えるシーンなど大向こうから声をかけたくなる巧さである。お母さんの新しいボーイフレンドになるオリバー・プラットが最後まで裏切らずいい奴ってもの珍しい。 ● なお、カルキン坊や(弟)がモルキオ症候群の子供を演じた「マイ・フレンド・メモリー」のほうは未見。

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アドレナリンドライブ(矢口史靖)

内気で優柔不断な会社員と、真面目で要領の悪い看護婦が、ひょんなことからヤクザの裏金2億円を手に入れるって話だが、主人公のあまりの意志薄弱ぶりが不快で途中退出。おそらくタイトルからして、この後、開き直りの大逃亡劇がくり広げられるのだろうが、映画が始まって1時間たっても物語が転がり始めないってのは、いくらなんでも時間切れだろ。矢口史靖の「裸足のピクニック」や「ひみつの花園」の加速する転落感はけっこう気に入っているんだが。

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メッセージ・イン・ア・ボトル(ルイス・マンドーキ)

ポール・ニューマン目当てで観に行ったのだが、見せ場が来るまで我慢が出来ず1時間弱で途中退出してしまった。 ● いったい世の女性たちは、死んだ女房の事を想って いつまでもメソメソしてて「きみのこと救えなくてゴメンネ」などと悔恨の手紙を瓶につめて海に流すような男のことを、ロマンチックでステキ!などと感じたりするものだろうか。少なくともこの映画の女性たちは全員がケビン・コスナーの歯の浮くような愛の手紙に無条件でうっとりするのである。だいたいイレーネ・ダグラスなんて、そーゆーキャラじゃないだろうが(偏見?) ロビン・ライトは「プリンセス・ブライド・ストーリー」のバターカップ姫の可憐さはどこへやら、自分じゃ演技派のつもりらしいが、すっかり女っぽさが抜けちゃって絞りカスのよう。完全にジェシカ・ラング症候群に侵されておるな、可哀想に…。ルイス・マンドーキ監督は辛気臭い話を辛気臭く演出していて救いがない。辛い話をエンタテインメントとして見せるというハリウッド映画の基本が判ってないようだ。 ● さて、この映画、せっかくなので新装なった丸の内プラゼールで観た。新装…といっても椅子を新しくしただけのようだが、この椅子がマヌケなんである。背もたれが高くて、ポップコーンのカップまで置けそうな大型のカップホルダーが肘置きのところに付いているのだが、前列との間隔が従来通りなので、結果として前後の体感間隔が以前より狭くなってしまっている。大の男(=おれ。別にデブじゃないぞ)が椅子のあいだを歩こうとすると、前列の背もたれが邪魔になり、それを避けるとカップホルダーにぶつかって よろよろしてしまう。なんだかピンボールの球になった気分だ。ちょっと情けないぞ>丸の内プラゼール(椅子も館名も)

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メイド・イン・ホンコン(フルーツ・チャン)

香港映画史上はじめての〈インディーズ映画〉と喧伝されているが、それより何より、これって香港映画史上はじめての〈青春映画〉じゃないだろうか。いや、黒社会ものや学園コメディなら過去にも何本もあったが、こういうリアルな不良少年ものは、スターシステムが生き残っている(いた)香港では難しいのだろう。スターってのは大人だからな、基本的には。この映画では(金がなくて)スターを1人も使えなかったことが幸いした。 ● 主人公の少年を演じるのは映画初出演のサム・リー(李燦森)。悪ぶっていても根の素直さは隠しようもないという不良少年ものの王道キャラ。ヒロインはネイキー・イム(厳栩慈)。一見、1980年代の原宿でハウスマヌカンをしていたような短髪のブスだが、観ているうちに段々とキュートに思えてくる。 ● 監督・脚本はフルーツ・チャン(漢字で書くと“陳果”…フザけた名前だ)。1997年の中国返還を目前に控えた香港の閉塞感をヴィヴィッドにフィルムに定着させた。アンディ・ラウから余った生フィルムを貰って、しこしこと自主映画的に撮り進めたそうだが、脚本・演出・撮影・編集・音楽とも(ウォン・カーウェイ一派の自己満足映画とはまるきり別種の)みごとなプロの仕事ぶりである。 ● 本来なら ★ ★ ★ ★ ★ をつけてもおかしくないレベルなのだが、ひとつだけ重要な留保がある。物語の結末に触れることになるが、この映画では主要人物が全員死んでしまう。自殺した少女の遺書を拾ったところから話が始まるわけだし、主人公の少年はその少女の霊に付き動かされるように生き急ぐわけだから、構成としてはこれで正しいのだが、死を破滅としてではなく、安楽の場所として肯定的に描いていることが気になった。いや、例えば「リービング・ラスベガス」なんかも死を安楽の場所として描いているのだが、やはり青春映画でそれをやっちゃいかんだろ、と思う。

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25年目のキス(ラジャ・ゴズネル)

コメディとしてはギャグもスベってるし、台詞や演技もいちいちワザとらしいし、それにお目当てのドリュー・バリモアが魅力的じゃない女の子の役で…つまりただのブスなので、前半はほとんど退屈して観ていたのだが、最後の方でドリューが自分の正体を明かして「高校のときにプロムクイーンに選ばれたからって、フットボールのクォーターバックやってたって、そんなもの社会に出たらクソの役にも立たないのよ!」と言うシーンで、不覚にもホロリとしてしまったよ。エンドロールにスタッフ&キャストの若い頃の写真がズラズラズラっと流れてくるのにもちょっとジーンと来た。つまり大人になってから振り返ればクダらない事にばかり熱中していた高校生活への、これは逆説的な讃歌なのである。 ● ドリューとお友達になるおたく少女役のリーリー・ソビエスキーが可愛い。「アイズ・ワイド・シャット」の新しいソフト版予告篇で一瞬だけ下着姿で登場してるのがこの娘らしいが、…ってぇことはアレかい? ばんばんヤリまくっちゃったりしてるのかい!?(<オヤジまるだし)

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カラオケ(佐野史郎)

どうしたらこんな位置にカメラを置けるのか?というくらい座りの悪いフレームと、間の悪い繋ぎ。出来の悪いピンク映画のような おざなりのBGM。何の工夫も感じられない設定とあまりにも陳腐な台詞。面白みのない常識人という地金が露呈した佐野史郎の演出。生理的な気持ち悪さに堪えられず30分で途中退出。何度も予告篇を観ていながら事前に見抜けなかった不明を恥じる。

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ブルワース(ウォーレン・ビーティ)

一言でいうならば、ウォーレン・ビーティの自作自演による政治風刺コメディ…ってことになるのだろうが、そう括ってしまうとちょっと違うような、FOXが拡大公開をあきらめてシャンテ・シネ単館にしたのも頷ける かなり奇妙な一品。 ● 無謀にもクリントンに対抗して大統領選に立候補した民主党上院議員が、支持率最低&株で大損こいてノイローゼになり3日間寝てないモーローとした意識のまま自分に高額の保険をかけ&殺し屋を雇って自分を“暗殺”させる算段をする。死ぬとなったら何も怖くない。もう八方やぶれで、選挙演説でも言ってはいけない本当のことを次から次へと暴露して一躍、時の人となるのだが…、とストーリーを書くと「ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ」のような映画を想像するが、なぜかそういうエンタテインメントなポリティカル・コメディには仕上がっていない。 ● 演出もかなり八方やぶれで、劇中のブルワースの意識そのままに3日間寝てない人間のモーローとした意識を映像化したような不思議な撮り方/カッティングである。ほら、よくベトナム戦争ものとかで、撃たれた兵士の朦朧とした意識の中で過去がフラッシュバックしてくるシーンとかありますわなあ。ヘリの爆音が妙に強調されたりして。ああいうシュールな感じの繋ぎ方。これが監督であるウォーレン・ビーティの意図的なものなのか、撮影のヴィットリオ・ストラーロ(!)のアイディアなのかは不明だが。 ● ブルワースがまくしたてる言ってはいけない本当のことってのもそーとー生臭い。パーティで突然、シャレにならない話を始めて場をシラけさせる奴のような一線を越えた居心地の悪さすら感じさせる。おまけに話の落とし方が「Z」とくる。 ● なんだか煮え切らない書き方になってしまったが、ウォーレン・ビーティってのが相当シニカルな人だという事だけはよく分かった。


グループ魂 の でんきまむし(藤田秀幸)[ビデオ上映]

まるっきり映画の呈をなしちゃいない。てゆーか作者にもハナからまともな映画を作ろうなんて気はない。悪ふざけ自主映画として観る分には ★ ★ ★ を進呈してもよかろう。 ● 主たる役者陣は〈悪意と差別のエンタテインメント〉を十八番にしている劇団「大人計画」の面々で、作・演出家の松尾スズキもサブキャストとして怪演をみせている(所ジョージの強壮ドリンクのCMで、重要書類をシュレッダーに放り込んでへなへなと崩れおちる温水洋一がここの出身) このビデオ作品自体の脚本・監督の藤田秀幸は自主映画作家で、劇団「大人計画」とは関係ない(と思う)が、描かれている世界は やはり徹底した悪意に貫かれていて、フツーの映画ファンはそーとーな違和感を覚えるだろう。ジョン・ウォーターズの「ピンク・フラミンゴ」を愛する人にお勧めする。

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八月のクリスマス(ホ・ジノ)

30代の男性が不治の病に侵されて、それでも最後の日々を動揺することなく静かに生きていくさまを描く韓国映画。この男が写真館の主人という設定で、さまざまなお客の記念撮影のシーンが生きていた日々の証として効果的に使われている。ヒロインの役割を担うのがミニパトの駐車違反取締係の女の子。仕事の不満を聞いてもらったりしているうちに、この中年男性にほのかな恋心を抱くようになる。だが恋愛感情を告白するどころか、キスすらしないままに男はすっと逝ってしまい、彼女は最後まで男の病を知ることなく日々の暮らしを続けていく…。 ● ついうっかり“静謐な時間が”とか“平凡な、けれどかけがえのない日常”などという常套句を書いてしまいそうなほど、おれには退屈な映画だった。韓国のスーパースターだというハン・ソッキュ演じる主人公がいやに達観していて、なにかというとニコッと微笑むのが嫌味で、ちっとも感情移入できない(てゆーか、こいつが小松沢陽一に似てたのが原因かも) ● 結局「八月のクリスマス」というタイトルの由来は説明されないまま終わってしまうのだが、これってなにかの慣用句か何かか?(知らないのはおれだけ?)

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催眠(落合正幸)

催眠誘導による殺人。つまり黒沢清 戦慄の傑作「CURE」と同工異曲である。ただ「CURE」をそのままパクったのでは全国東宝系で公開するにはが強すぎるので、水で10倍に薄めてストーリーと映像をTV的にわかりやすくして、ラストは「リング」をパクって派手にしてみました、という映画。稲垣吾郎、宇津井健をはじめとする俳優陣も、めいっぱいTV的な説明的かつ、わかりやすい演技で応えている。それにしても菅野美穂は、もうその道一筋という感じで頭が下がります。クライマックスはかなり本気で怖いけど「CURE」のようにアトを引くことがないので、気軽にオカルト・ホラーを楽しみたい方にはオススメ。

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菊次郎の夏(北野武)

親を知らない子供との2人旅。自分の膝枕で眠る子供にぽつりとつぶやく「この子もおれと同じか…」。え゛っ、ほんとにこれが北野武の映画か? こういう台詞を口に出すのは「キッズ・リターン」や「あの夏、いちばん静かな海。」のような映画においても周到に回避されてきたはずではなかったか。あえて自家薬籠中のものとした独特のスタイルを捨てて、今回はウェルメイドな映画を目指したという事なのだろうが、山田洋次といっしょの土俵に上るのならば同一の基準で判定せざるを得ない。今のところ北野武にはウェルメイドな喜劇をつくるだけの力量はない。事前に完全な脚本も用意せず、感性で撮って編集で形にするというスタイルではウェルメイドな喜劇(いや喜劇だけじゃないけど)は出来ないのである。 ● 子供を、会ったことのない母親に会わせてやるのが旅の目的なのだが、菊次郎は母親に新しい家族がいるのを見てすごすごと引き上げてしまう。なんで? 別に育てろって言ってんじゃないんだから、生き別れた子供に会えば母親だって喜ぶと思うけどな。

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鉄道員 ぽっぽや(監督)

この映画の悪口はいっさい書かない。なぜならおれは高倉健のファンだから。健さんと小林稔侍のかけあいを見られるだけでおれは満足だ。スタジオ・システムというバベルの塔が崩壊して以来、日本映画は演技における共通言語を失ったわけだが、この2人の間にはまさしく“同じ釜の飯を食った戦友”だけが持ちえる空気がある。いったい人は、高倉健が日本に残された最後の映画スターだということが判っているのであろうか。“最後”というのは文字どおり“最後”なのだぞ。勝新太郎も三船敏郎も亡くなったいま、もし高倉健なかりせば日本からは永遠に映画スターという貴種は絶滅してしまうのだ。日本政府は中国産のトキの保護につぎこむ金があるならば高倉健の映画に出資したらどうなのだ。おれは今の健さんが主役以外はやる気がないメンタリティの持ち主であろうことを百も承知の上で、脇役でもなんでもいいから映画に出続けてほしいと真剣に願う。 ● ストーリーは周知のとおりなのでここでは触れない。ひとつだけ、映画を観た人にしか通じない話で悪いが、あの場面で湯気のたつ鍋を残してあるのが作者の優しさだと思う。

「鉄道員 ぽっぽや」の上映前に思ったこと。

・・・ということで、代わりに本篇以外の悪口を書く^^) ● 東映の熱意がこの企画を成立させたことには敬意を表する。いまの時代、たとえそれが高倉健の映画であっても製作費を集めるのが並大抵の苦労ではないだろうことは想像に難くない。それにしても、だ。本篇の上映前にこれから観る映画の場面を使ったタイアップCMを何本も観せるのはなんとかならんのか! ● 映画館はジジババ(>おれも含む)でいっぱいだった。まことにご同慶の至り。だが、こんなジジババに訳のわからんアニメの予告篇を5本も6本も観せてどうする! なかでも特に訳がわからなんだのが「少女革命ウテナ」と「アキハバラ電脳組」の2本。どちらも3分ぐらいある予告篇なのだが、映画のストーリーどころかどんなジャンルのお話なのかすら皆目見当がつかないのだ(「…ウテナ」のほうはいわゆるやおい系?←それってどういう意味?)なんなんだ、いったい。 ● 大林宣彦の新作(尾道の船の上で上映中らしいが)「あの、夏の日 とんでろ じいちゃん」の予告篇もやっていた。今回もいつものように“優しいヒゲのおじさん”を装って少女を騙くらかしてハダカにしていたが、例の法律は大丈夫なのか?>大林監督。

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奇蹟の輝き(ヴィンセント・ウォード)

これって“売り”としては感動のラブ・ストーリーなんだろ? いくら霊界が舞台だからって丹波哲郎に宣伝させてどーすんだよ>ヘラルド映画。 ● それってあれか? 古くは中川信夫の「地獄」から、「丹波哲郎の大霊界」、幸福の科学の「ノストラダムス 戦慄の啓示」に至るまで、欠かさず観ているような人間(>おれ)にターゲットを絞ってるってことか? ● 自殺して地獄に堕ちた妻を、天国にいる夫が助けにいくという話だが、構成がまったくなっていない。開巻10分でまず夫婦の子供2人が事故死して、5分後に夫が事故死するのだが、妻が自殺するのはそれから45分もかかるのである。つまり最初の1時間はストーリーがまったく動かず、夫婦してひたすら自己韜晦に浸るのみ。だいたい、サル顔のアナベラ・シオラがうじうじしてるのは仕方がないとして、夫のロビン・ウィリアムスをもう少しポジティブな性格にしてもらわないと、映画全体が陰気になってしようがないんだが…。天使役のキューバ・グッディング・Jrはミスキャスト(ほんとはこれがロビン・ウィリアムスがやるべき役である)。せっかく地獄の道案内にマックス・フォン・シドーをキャスティングしてるのに、まったく見せ場がないのも勿体ない限り。ゆいいつ、エリザベス・マクガバンの小っちゃい頃みたいな顔をした、娘役のジェシカ・ブルックス・グラントちゃんがキュートでよかったが。 ● アカデミー賞をとったデジタル・ドメインの特撮は、どこが?というほどイマジネーションに乏しい平凡なもの。話題の〈油絵天国之図〉も、おれはちっとも感心しなかった。それより、もっと色々な地獄巡りを見せてほしかったぞ。

★ ★
ラストサマー2(ダニー・キャノン)

ジェニファー・ラブ・ヒューイット! …例のリーバイス・カラージーンズのCMでケツをぷりぷりさせ、おっぱいをぷるんぷるん揺らして街を闊歩している女の子が、全篇にわたってぷるんぷるんさせている映画。もう、ほんとにそれだけである。ご参考までに本作における彼女の衣裳を列記しよう。まずはブラの上から白のタンクトップ(おっぱいぱんぱん)→ショート丈のインディアン・シャツ(へそ出し)→胸のラインを強調したサマードレス(肩は完全露出)→シャワーシーン(見えるのは肩だけ)→白いバスローブ(薄手なので透け乳首あり)→黒のビキニ→その上に白のシャツをはおる(第3ボタンだけ留めて胸の谷間をことさら強調)→この状態で雨に濡れて身体にピタリと貼りつく。まさに見あげた巨乳…違った、プロ意識である。彼女がいかに自分の商品価値を自覚しているかはポスター・デザインからも明らか。たしかに演技力は松田聖子とどっこいどっこいだが、それがどうした? ● いちおう中身に触れておくと“はじめから誰が生き残るか判ってる「13日の金曜日」”である。それと、音楽が「ハロウィン」にクリソツなのは何かの冗談か?

★ ★ ★ ★ ★
ソルジャー(ポール・アンダーソン)

この日は「菊次郎の夏」「恋におちたシェイクスピア」「奇蹟の輝き」「ソルジャー」とハシゴしたのだが、その中でただ1本だけ泣いた映画が「ソルジャー」ってのは(自分で言うのも照れるが)おれってかなり特殊な感性してるよな。この映画に★5つ付けるのは日本中で30人いないと思うので、おれを信用して観に行って例えつまらなくても怒ってはいかんよ(<弱気) ● 「ブレード・ランナー」の脚本家デビッド・ウェブ・ピープルズの新作だが、これはSF映画ではない。あくまでもSFの道具立てを背景としたアクション映画なのである。そういう意味ではピープルズが脚本・監督したルトガー・ハウアーの「サルート・オブ・ザ・ジャガー」の方に近い(というか、より近いのは「ランボー 怒りの脱出」だが)。だからこれをSF映画としてみると5分ごとにツッコミを入れたくなる(人間が生活できる空気がある貴重な星をなぜ産廃捨場にしてるのか?とか、そういう星の探索車がゴムのタイヤ履いてるか?とか、遺伝子レベルから育てられた“感情を持たない”ソルジャーが殺されるときに悲鳴をあげるか?とか…) ● カート・ラッセルは〈最強のソルジャー〉、生まれたときから相手を殺すことだけを考えるよう育てられ、感情というものを持ったことのない歴戦の勇士(あきらかに米国海兵隊をイメージしている)だったのだが、遺伝子レベルから操作された新世代ソルジャーの出現によってあっけなくお払い箱になり、産廃として辺境の星に捨てられる。そこで、その星に不時着した移民たちに助けられて初めて“人間らしい暮らし”ってやつに触れるわけだが、感情のないカート・ラッセルは無口で仏頂面のまま(まあどの映画でもそうなんだが)。かれの心を動かしたのは居留地の色っぽい奥さんの一言だ「どんな気持ちなの、ソルジャーでいるのって?」。最強のソルジャーは、生まれて初めて自分の言葉でこう答える「恐怖。…恐怖と懲罰だ(Fear and Discipline)」。おれはここで泣いたね。だって泣けるじゃないか。今まで40年間(こいつは40才なのだ)というもの、女子供も容赦なく殺し、敵が人質を取ったならちゅうちょなく人質ごと撃ち殺し、仲間が撃たれてもいっさい顧みることなく、そうやって生きてきた男が…感情を表したことのない男が心の中に抱えていたものが“恐怖と懲罰”だったなんて哀しすぎるじゃないか。色っぽい奥さんには幼い息子がいて、この子が恐怖から口がきけなくなってるんだが、この子とカート・ラッセルの絡みがまた泣けるのだ。ラスト・シーンなんてぼろぼろ泣いた。やっぱ変かな>おれ。 ● 主人公の子供時代をカート・ラッセルの10才になるじつの息子が演じてるのだが、この子、名前がワイアット・ラッセルっていうんだよな。当然ワイアット・アープにちなむんだろうなぁ。なんというか、カート・ラッセルってほんと…。

★ ★
チャーリー・シーン フル・ブラント(ブレット・マイケルズ)

チャーリー・シーン、マーク・ダカスコス主演と聞いて想像できるとおりの、頭のわるぅいC級アクション映画。東映ビデオの米国ロケVシネマと言われても驚かないような低予算作品。それも道理で、チャーリー・シーンが主演・脚本・製作総指揮、“人気ロック・グループ「ポイズン」を率いる”ブレット・マイケルズが監督・脚本・製作総指揮と、放蕩生活に愛想を尽かされメジャーからホサれたチャーリー坊やがダチと2人で金出して作った映画のようだ。お父さんのマーチン・シーンと、叔父さん(かな?)のジョー・エステベスも共演、なんかチャーリー・シーンのリハビリ映画の様相すら呈している(リハビリを客に観せるなって!)

★ ★
もういちど逢いたくて 星月童話(ダニエル・リー)

レスリー・チャンと常盤貴子の哀しく切ないラブストーリー、…ではなくレスリー・チャンの潜入刑事ものである。 ● 常盤貴子サイドから起ち上がった企画のようだからこんな事を言っても意味ないんだが、この映画、香港の女優で観てみたかった。せめてレスリー・チャン中心に再編集して台詞をすべて広東語に吹き替えてるであろう〈香港公開バージョン〉を観てみたかった。それぐらい常盤貴子の“演技”はヒドい。台詞がきちんと喋れていない。…広東語の、じゃないぞ、日本語の台詞が、だぞ。表情も3通りぐらいしかない、というかそもそも表情で見せようってところがアップ中心のテレビ的演技なんだろうが。頭っから彼女の小芝居がえんえんと続いたときにゃ、もう劇場を出ようかと思った。 ● ミシェール・キングがちょろっと出てくるのだが、ずっとアクション一筋で演技力なんて関係なさそうなキャリアを歩んできたミシェールの方が百倍ぐらい上手かったぞ。

★ ★ ★ ★ ★
RONIN(ジョン・フランケンハイマー)

はっきり言って、こんな映画を褒めるのは年寄りの証拠だろう。1970年代のアクション映画への郷愁が点数を水増ししてるだけかもしれん。だが、ええい構うもんか・・・★5つの大傑作である。ジョン・フランケンハイマーよ、疑って悪かった。「ブラック・サンデー」や「フレンチ・コネクション2」の頃のパワーが完全に復活してるじゃないか。御歳69才のベテランにいったい何が起こったのか!? ● 話としては「ミッション:インポッシブル」や「丹下左膳余話 百万両の壷」といっしょで〈複数のグループが、とあるお宝を奪いあう〉という単純なもの。だが、その中身は「ミッション:インポッシブル」のゲーム感覚(←これはこれで好きだけど)とは何から何まで正反対。生身の男たちのゴツゴツしたぶつかりあいのドラマである。見せ場もSFXには頼らずに、ヨーロッパの石畳のせまい街並で、あるいはフリーウェイを逆走して、おそらくは「L.A.大捜査線 狼たちの街」以来のすさまじい本格的カー・チェイスが展開する。 ● 友情…などというセンチメンタルなものではなく、〈プロフェッショナルの矜恃と職業的連帯感〉を浮かび上がらせるダイアローグがじつに巧いと思ったら、なんと脚本のリチャード・ウェイズというのはデビッド・マメットの変名だそうだ。なるほど道理で。いまさら言うまでもないが、アクション映画はアクションだけでは成立しないのだ。危険に身を投じることになる男たちの“心意気”がアクションを際だたせるのである。 ● 音楽のエリア・クミラルは初めて聞く名前だが、哀愁ただよう旋律がヨーロッパの風景にピタリとハマった。 ● なおタイトルのRONIN(ローニン)とはもちろん浪人のこと。劇中で「仕えるべき主を失ってなお誇りのために生き、死んでいった男たち」としてニッポンの〈47 Ronin〉のエピソードが語られる。働き場所を失ったスパイたちの存り方を象徴しているわけだ。それにしてもハリウッド映画に「忠臣藏」が登場するとは!

★ ★
ヴァイラス(ジョン・ブルーノ)

「レリック」「ザ・グリード」と、このところ東宝東和が毎年1本ずつ公開しているクリーチャー・ムービー・シリーズ(シリーズなのか?)の最新作。 ● 宇宙から来た電磁波生命体がコンピュータにとり憑いて、半機械・半人間のバイオ・メカノイドを作り人類に襲いかかるという設定。もっとも舞台は南洋で孤立した科学船だし、“人類”といってもジェイミー・リー・カーティスほか数名の乗組員なのでようするに「ザ・グリード」とまったく同じストーリー。「ザ・グリード」はB級映画の滋味あふれる傑作だったが(ちなみに監督のスティーブン・ソマーズの最新作が「ハムナプトラ/失われた砂漠の都」)、「ヴァイラス」の方はジェームズ・キャメロン作品のSFX監督をずっとやってきたジョン・ブルーノの初監督作品だけあって、SFXはなかなか頑張っているもののドラマがまるっきりなってない。演出にメリハリがなく、この作品のエグゼクティブ・プロデューサーでもある原作コミックスの作者、チャック・ファーラー自らの筆になる脚本にあったはずのグロテスクなユーモアがまったく活かされてない。プロデューサーがゲイル・アン・ハードなんだが「アルマゲドン」といい、この作品といい、“らしさ”が全然、出ていなくて悲しいかぎり。「ザ・グリード」のジェリー・ゴールドスミスに比べると(比べちゃ可哀想だが)音楽のジョエル・マクニーリーもいかにも弱い。よって★は2つ・・・ただしSFXを楽しむのが目的なら充分に ★ ★ ★ だろう。この映画は今どき珍しくCGIをほとんど使っていない(ゆいいつ電磁波ビリビリッってのを後から描き加えている。ま、さすがに合成はオプチカルじゃなくデジタル合成だと思うが…)。すべてがモデル&ミニチュアSFXなのである。とくれば…そう、フィル・ティペットの出番だ。このところ「スターシップ・トゥルーパーズ」などCGI監修的な仕事の続いたティペットだが、本作でのクレジットは堂々の巨大ロボット操演である。手作りのガジェット感あふれる巨大メカノイドを喜々としてアニメートする姿が目に浮かぶようだ。久々に本領発揮の名人芸を見るためだけでも劇場に足を運ぶ価値はあるかも。 ● エイリアンの本体(?)であるメイン・コンピュータのデザインが、産廃置場のディスプレイの山みたいな代物で、「アンドロメディア」と瓜二つなのはなんとかしてほしいぞ。

★ ★ ★
イフ・オンリー(マリア・リポル)

原作・脚本・監督・製作者、そしてヒロインの片方がスペイン人といういっぷう変わったイギリス映画。リプレイSFものである。女に捨てられた男がうじうじ悩んで酔いつぶれていると、早朝、ゴミ収集トラックの助手に扮したドン・キホーテが現れて、別れのきっかけとなった浮気告白の直前に時間を巻戻してくれる。男は喜んでもう一度、今度は失敗しないように、彼女を手放すことがないように日々をやり直すのだが…、という話で、ドン・キホーテが出てくる辺りのファンタスティックな色合いがスペイン色か。いかようにも深刻に作れる話だが、全体のトーンも「まあ人生なかなか思惑どおりにはいかないやね」というファンタジーとしてまとめている。 ● もう1人のヒロインに扮するのが「ハモンハモン」「ベルエポック」「オープン・ユア・アイズ」の“世界で最もエロティックな上唇を持つ女優”ペネロペ・クルズで、おれなら絶対に、端から、一目で、彼女を選ぶけどね。

★ ★
ハイ・アート(リサ・チョロデンコ)

まあそれがキングコングでもマイティ・ジョーでも天使でも人魚でも、あるいはETでもいいんだが「ひっそりと生きてきた人並はずれた存在を、“善意”の第三者が“発見”して衆目にさらしたが故に起こる悲劇」というのは物語のひとつの原型として繰りかえし語られてきた。この映画においてはキングコングが「1960年代に一世を風靡したものの、その後ぷっつりと消息を絶って、いまでは小劇場のアングラ女優と同潤会アパートで同棲して、日がな大麻煙草を吸っているヒッピーくずれの女流フォトグラファー」で、探検隊が「山形県出身で早稲田大学の哲学科を優秀な成績で卒業、エスクワイア日本版編集部に入社して張り切っている頭でっかちの新米女性編集者」という設定である(一部脚色あり) ● およそ予想通りのストーリーが予想通りに展開するわけで、恋愛関係になる主人公が両方とも女性というのが唯一、目新しい点か。監督・脚本のリサ・チョロデンコも、もちろん女性で、女性観客の目には“繊細な演出”というふうに写るのかもしらんが、おれには退屈な映画であった。フォトグラファーに扮した(お久しぶり)アリ・シーディは各種映画祭で女優賞に輝いているそうだが、鎖骨と肩甲骨ばかりが異様に目立つ肢体はとうてい魅力的ではない(いかにもレズのタチ役…というのはもちろん おれの偏見だが)

★ ★
ブレイド(スティーブン・ノリントン)

おれがアナログな人間だってだけの事かもしれないが、「クロウ 飛翔伝説」も「モータル・コンバット」も「スポーン」も期待して観に行って、ことごとく落胆して帰ってきた。この「ブレイド」もだ。こういう、CGを多用したコミック/ゲーム系の映画って、なぜストーリーがないのか。これってイマドキの(この映画でもガンガンにかかっている)テクノだかハウスだかアシッドだか(よくわからん)のクラブ系音楽にメロディーがないと感じてしまうのと同じ感性なのか。もしかしたらイマドキの若者のデジタルな感性(っておれは週刊新潮か)には、そーゆー事は気にならないのだろうか。てゆーか、そーゆー映画や音楽の方がフィットしてるのだろうか。 ● この映画で言えば、人間とヴァンパイアの合の子である黒人がヴァンパイア・ハンターとして自分のアイデンティティを見いだす、というのは“設定”であって、そこから先のストーリーがないのだ。こーゆー映画に比べたら、ラッセル・マルケイの映画の方がまだちゃんとしてるという気がする(←スゲー比較だ) ● ひとつ褒めるとすれば、日本刀を振り回すウェズリー・スナイプスがへっぴり腰ではなく、いちおう日本のチャンバラ映画を予習しているらしい点で、これはルーク・スカイウォーカーよりも数段キマッていた(「ファントム・メナス」では上達してるかな、チャンバラ?) ● ま、同じチャンバラを観るなら、タイトルも同じツイ・ハークの「ブレイド 刀」をお勧めする。こちらも画面がキメキメでストーリーはよく分からん(火暴)が、アナログなゴツゴツした迫力が伝わってくる傑作なのだ。

★ ★ ★
君を見つけた25時(ジェームズ・ユン)

ひさびさに1980年代の黄金期の香港映画を観ているような気にさせてくれたバリー・ウォン謹製のお気楽恋愛セックスコメディ。だが、じっさいのところは(皮肉なことに)香港で大ブームの日本製テレビドラマの影響下に作られた映画である(主人公の過去の女の名前が“紀香”だとゆーギャグからも明らか) ● 主演はハリソン・フォード、ヒュー・グラントと並ぶ困った顔役者の東の横綱トニー・レオン。とっかえひっかえ可愛い女の娘と恋に落ちては振られる有名CMディレクターの役で、かれが「屋台の売り子をしているところを発掘して売れっ子スターに育てあげ、やがて日本で大成功するヴィヴィアン・スー(本人自演!)と、アメリカの本社から送りこまれたやり手の女ボスの間で恋の板ばさみになる」というのがメインストーリー。レズ疑惑のある勝気な女ボスにふんするエイダ・チャイ(蔡少芬)がじつにチャーミング。トニー・レオンと逢った最初から前戯のような口ゲンカを続けるのはスクリューボールコメディの王道パターン(勝気な女が恋に身をゆだねる瞬間のエクスタシーもきちんと押さえている) この手のものの もうひとつの王道パターンが「女を手玉に取ってると思ってたら手玉に取られてるのは自分の方だった」というやつだが、こちらを担当するのはトニーの同僚のアレックス・フォン(方中信)。こいつが振られるところで おれはちょっと泣いた。お相手のスーキ・クァン(関秀媚)がまたいい女なのだ。一見おとなしそうだけど、しっかり自分を持っていてじつはナイスバディ。うーん、おれはエイダ・チャイとどちらを取るか悩んだよ(←意味のない行為) ● 監督・脚本はジェームズ・ユン(阮世生)。「君さえいれば 金枝玉葉」などのべテラン脚本家で、ライトなコメディに本領を発揮する人のようだ。本作にも新しいところはひとつもないが綺麗なネエちゃんが3人も出てきてでれでれしてくれるのだ。それ以上なにを望む?

★ ★ ★
カラー・オブ・ハート(ゲイリー・ロス)

ジュブナイルSFのテイストあふれる佳作。 ● 病んだ現代社会に嫌気がさした内気な男子高校生が、テレビの再放送白黒ファミリー・ドラマの世界にタイムスリップしてしまうというお話。本作のツイストは、ジャック・フィニィならば無条件で礼讃するであろう古き佳き時代が、じつは単一の価値観に支配された、個人に自由のない窮屈な時代だったのでは、という視点が導入される点にある。自由を望むなら、暴力や差別、渾沌もまた受け入れなければならない、と作者は静かに主張する。この認識はもちろん正しいし、そりゃ今さら おれたちはシンプルで楽天的だった時代には戻れないさ。だがこの手のファンタジーの結末として本作のような苦みの混じったものでなく、フランク・キャプラのスッキリしたハッピーエンドを望むのは無いものねだりかね? ● この映画では御存知のようにモノクロ画面が段々とカラー化していくというギミックを使用している。そのために全篇をカラーで撮影して、コダックの運営するシネサイト社ですべてのコマをデジタルデータに取りこみ、脱色&彩色加工した。つまり本作は(特撮場面だけでなく)全篇がデジタルデータとして存在する史上初めての実写映画ということになる。 ● なお、昨年 急死した名悪役J・T・ウォルシュの雄姿がみられるのは残すところ本作と「交渉人」だけなので、J・T・ウォルシュ ファンはすべからく劇場に駆けつけるべし。

★ ★ ★
レッド・バイオリン(フランソワ・ジラール)

血ぬられたバイオリンのたどる400年にもわたる数奇な運命。〈呪われた誕生篇〉〈魅いられた少年篇〉〈グレタ・スカッキの変態SEX篇〉〈シルビア・チャンの恐怖の文化大革命篇〉〈サミュエル・L・ジャクソンの欲望のオークション篇〉の5篇からなる、わりと正統的なオムニバス映画。脚本・演出は手堅くまとめてはいるが、ひとつひとつのエピソードでの凄みや激しさ・哀しさが軽いので、なんとなく観てしまうところがいささか不満。うーん、この主題&ストーリーのままでも、ちょっと脚本をイジって、演出を工夫して、全エピソードで1人ずつ殺せば「トライライト・ゾーン」になるのに惜しい…(←筋違いな期待)

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フェニックス(ダニー・キャノン)

ある男が魂を売った代償に井戸を掘り当て、そこに町を造った。アリゾナ州フェニックス。荒涼たる砂漠に囲まれた灼熱の町。フェニックス警察の刑事ハリーは、博打好きなのが欠点でノミ屋に多額の借金を抱えている。副業に高利貸しの取立てをやってる同僚の汚職刑事に、ノミ屋を脅して借金を帳消しにしてやろうかと言われても、テメエの借金はテメエで返すと頑として言いはる。汚濁に腰までどっぷり浸かっちゃいるが、まだ芯までは腐ってない、そんな男である。だがこの律儀さがアダとなる。ハリーは借金返済のために同僚の刑事たちを誘って高利貸しの事務所にタタキに入る計画を立てるのだが…。 ● ジム・トンプソンにオマージュを捧げたという新進脚本家(エディ・リッチー)が書いただけあって、クライム・ノベルの匂いが濃厚に立ちこめる。監督は「ジャッジ・ドレッド」で評判を落として以来のダニー・キャノン。デビュー作の「プレイ・デッド」を彷彿とさせるハードボイルドな演出で汚名を挽回。無理して「ラストサマー2」とか引き受けないで、この手のものだけ撮ってりゃいいものを…。 ● そして、なによりも素晴らしいのが野郎どもの面構え。プロデューサーを兼ねる主役のレイ・リオッタをはじめ、同僚刑事に扮するダニエル・ボールドウィン、アンソニー・ラパグリア、ジェレミー・ピブン、ノミ屋にトム・ヌーナン、高利貸しにジャンカルロ・エスポジートという、名前は知らなくても顔見りゃ判る強烈に男臭い面々。女優陣もバーの女主人アンジェリカ・ヒューストンが素顔の演技でいい味だし、同僚刑事の尻軽妻に扮した「痩せゆく男」「シェイド」のカリ・ウーラーは相変わらず色気爆発、早熟娘の役のブリタニー・マーフィーも先物買いで要チェックだ!(って秋本鉄次か>おれ)

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日本黒社会 LEY LINES(三池崇史)

サブタイトルの“レイライン”とは地脈のこと。イギリスでストーンヘンジとか昔からの教会なんかが何故か規則正しく並んでたりする目に見えない聖なる流れ・・・とは、何の関係もなくて、ここで作者が意図しているのは、田舎町の村社会で差別されて育ってきた朝鮮2世が、新宿・歌舞伎町の裏社会へ、そして海外へと自由な新天地を求めて旅立っていく、そのエネルギーの道筋を描くことにある。朝鮮2世、トルエン密売、中国人娼婦、上海人マフィアといった、まがまがしい衣裳を脱がせてみると、そこにあるのは正統的な青春映画の骨格である。 ● 現状に不満を感じて、明日へ、明日へと生き急ぐ残留孤児2世。何をやっても失敗ばかりの意気地なしのやはり2世の弟分。物事に積極的に関わることをしない主人公の血縁の弟。そしてこの3人の共通のヒロインとしてグループに加わる中国人娼婦。こうした物語の常として彼らの前にあるのは破滅への一本道である。 ● 主人公の朝鮮2世には、マイナーなアクション映画で好演を見せてきた北村一輝。満を持しての初主演であるが残念ながらミスキャスト。巧い役者であることに異論はないが、この俳優が輝きを見せるのは、バイオレントなキチガイか、臆病者のキチガイに扮したときである。つまり本作で臆病者の弟分を熱演した田口トモロヲと、もろにキャラがかぶるのだ。あまりに個性が強すぎる俳優は1枚目の立ち役には不向きなのである。李丹は、片岡修二の“裏「ラブ・レター」”である昨年の傑作「酔夢夜景(よいゆめやけい)」に続いて娼婦役を好演。竹中直人が上海人マフィアのボスに扮しているが、ちっとも恐くないし、中国人に見えない。娯楽映画なんだから小沢昭一みたいなニセ中国語訛りでも喋りゃいいのに。監督は「アンドロメディア」以後も軽やかにメイジャー←→マイナーを行き来する三池崇史。おれのイチオシ銘柄なのだが、今回はノレなかった。主人公の怒りがきちんと描かれておらず、スタイリッシュな作劇が独り善がりで終わっている。次回作に期待。

★ ★ ★
シューティング・スター(グラハム・ギット)

おお、タランティーノだね、こりゃ。 ● 女をタラしこむしか能のない負け犬のチンピラと、刺激に飢えているヤクザの情婦が、ボスをだまし大金をせしめて逃避行…という、まんま「トゥルー・ロマンス」なストーリー。本筋を進めるよりも無駄話に終始するダイアローグや、時制で遊んだりする模倣ぶりも微笑ましい。ボス役のジャン=フィリップ・エコフェなんて、もろクリストファー・ウォーケンだしな。ただしタランティーノのようにバイオレントではなくて、もっとのんびりとロマンチックなのは、主演のロマーヌ・ボーランジェとメルヴィル・プポーが実生活でも恋人同士だった(過去形?)からか。

★ ★ ★
ペイバック(ブライアン・ヘルゲランド)

“「L.A.コンフィデンシャル」の脚本家ブライアン・ヘルゲランドの初監督作品”とヘラルドは宣伝している。たしかに「L.A.〜」も書いたかもしらんが、「ポストマン」「陰謀のセオリー」「暗殺者」「スペシャリスト」の脚本家でもあるからなあ…、と期待半分、不安半分で観に行ったのだが、まあ及第点か。但し、この映画を面白いと思えるのは1970年代アクションの洗礼を浴びている者だけだろう。キャパ1,000人の大劇場よりはアクション映画専門の2番館(今はなき新宿ローヤルとか、ガード下の新橋文化とか、場外馬券横の浅草中映とか)で見た方がしっくりくるタイプの映画だ。 ● 字幕は出ないが多分、設定も1970年代だろう。エリ巾の広いスーツ。デカい車。すすけた街並み。街を行くヒーローはリチャード・スターク(=ドナルド・E・ウェストレイク)描くところの悪党パーカーだ(映画ではポーターという名になっている) ジャック・パランスをイメージして書いたと言われるほどの煮ても焼いても喰えない男=冷酷非情な一匹狼の泥棒をメル・ギブソンが喜々として演じている。脇を固めるジェームズ・コバーン、クリス・クリストファーソンといった面々がまた1970年代感を盛りあげる。 ● ただ、この映画、ほんとはもっとユーモアというか、原作よりかなり“エルモア・レナード寄り”の脚本のようなんだが演出が一向に弾まないのだ。オフビートなイカれた奴らばかりの中で、ひとりパーカーだけがまったく周りの状況を意に介さず黙々と鈍重に突き進むところに、オカしさが生まれるはずなんだが…。 ● あと、メル・ギブソンとからむ女が2人出てくるんだが、2人とも似たようなタイプの金髪ってのはキャスティング・ミスじゃねえのか?(てゆーか、どっちも大してイイ女に見えないんだけど…)

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プラクティカル・マジック(グリフィン・ダン)

グリフィン・ダンてのは妙な奴である。この役者を見識ったのは「アフター・アワーズ」や「フーズ・ザット・ガール」でだった(「アフター・アワーズ」のプロデューサーでもある)人の良さそうな顔をして、どんどんヒサンな状況に巻き込まれておろおろするばかり、というキャラクターが実にハマっていた。その後、俳優としてはあまり活躍の場がないと思ったら、突如として、メグ・ライアンを女ストーカーに仕立てた怪作「恋におぼれて」を監督。ロマンティック・コメディのはずなのにちっともロマンティックじゃない不思議な映画だった。 ● 事情は本作でも同様で、パッケージとしてはサンドラ・ブロック&ニコール・キッドマン2大女優共演のロマンティック・コメディのはずなんだが、中身は100%の魔女映画。そしてなにより姉妹愛の映画である。目立つのは女たちばかりで、男たちはといえば、魔法にかかったようにふらふらと彼女たちに惹き寄せられては手玉にとられ、早死にしたり、殺されたりと、すっかり刺身のツマ状態である。つまり「アフター・アワーズ」や「フーズ・ザット・ガール」をヒロイン(加害者)の側から描いた映画なのだ。これってやっぱり監督の、奔放な女にめろめろに弄ばれたいという願望の現れなんだろうか(それを楽しんで観てる おれって…) ● サンドラ・ブロックとニコール・キッドマンは、ジミな姉とハデな妹というそのまんまやないけ!なキャラ。2人の叔母(もちろん魔女)に扮するのが、ストッカード・チャニングとダイアン・ウィーストってのもハマりすぎ。サンドラ・ブロックの長女に扮した「ウィズ・ユー」のエヴァン・レイチェル・ウッズも相変わらず可愛いくて◎。

★ ★
ダンス・ウィズ・ミー(ランダ・ヘインズ)

「ランバダ」みたいなキワモノだろうと思って出掛けたら、なんと「Shall we ダンス?」のリメイクだった。もちろん非公式の。しかも場内は「Shall we ダンス?」同様、おばさん族でいっぱい。「ダンスマガジン」あたりで紹介されたのだろう。言っとくが、婆あがこんな映画を観たって何の参考にもならんぞ。 ● 舞台はテキサスの田舎町のダンス教室。かつては世界選手権の常連だったが、パートナーに捨てられて傷心のダンス教師(こぶ付き)に“痛くなったらすぐセデス”のヴァネッサ・L・ウィリアムズ。ワケありのオーナー(クリス・クリストファーソン)を頼ってキューバから上京してきた山出しの兄(あん)ちゃんに、南米ラテン世界の人気歌手チャヤン。ダンス教室の生徒の、気の良いおばあちゃんの役でジョーン・プロウライトも出ている(渡辺えり子の役回りだな) ● テクニックとかステップの正確さにとらわれているヴァネッサに、チャヤンが本場のサルサの熱さ・楽しさを教えて、さあ舞台はラスベガスの世界選手権へ…というお話なのだが、監督のランダ・ヘインズは中年になってからダンスの楽しさに目覚めた一介の白人女なので、いかんせんサルサ(ダンス)のシーンに、思わず身体が動いてしまうほどの熱気が感じられない。もっとも白人にだって、昔のミュージカル映画からアラン・パーカーの「フェーム」にいたるまで、熱いダンス・シーンを撮れる人はいるわけだから、「ダンス・ウィズ・ミー」のつまらなさは監督はじめ撮影・編集のスタッフにリズム感覚が決定的に欠けていたという事なのだろう。

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ビッグ・ショー! ハワイに唄えば(井筒和幸)

なるほどそうか。シネカノンの李鳳宇(プロデューサー)と井筒和幸のコンビが目指していたのは東宝映画であったか。つまり、土曜の夜に浅草東宝のオールナイトで「駅前旅館」「社長外遊記」「ドリフターズですよ!前進前進また前進」と一緒に上映されて何の違和感もないような類の映画という意味だが。そのもくろみは成功している。尾藤イサオや加藤茶、原田芳雄らの芸達者がかもしだす独特の臭み。都はるみのステージが生み出す大衆演劇の空気。いまやスクリーンからは絶えて久しい懐かしい光景だ。この映画は多分、批評家筋の受けは良くないだろう。曰く、古臭い、テンポがルーズ、ストーリーが弱い、云々…。でもいいんだよ、それで。東宝映画とはそういうものなのだから。おれは充分に楽しんだし気持ちよく泣けた。 ● でも、いまどきこういうものを誰に見せようと思って作ったのかね? 1999年の企画として成立するのは映画ではなく東芝日曜劇場だよな。案の定、劇場は初日からガラガラであったぞ。

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ダンジェ(福岡芳穂)

監督の福岡芳穂はピンク映画出身の20年選手なのだが、この映画は言われなきゃ絶対に映画学校出のフランス映画かぶれの新人監督の作品だと思っただろう。それぐらいに若々しいというか演出がハシャいでいるのである。脚本(荻田芳久)もそーとーぶっトんでいる。政治家の愛人だった母親が自殺して、その政治家が刑務所から出てくる日を、母親の肩身の拳銃を手に待ちつづけている若い女と、それを助けるバイク便の兄(あん)ちゃん(金子賢)の話・・・と書くといかにもよくある復讐ものVシネマのようだが、ところがどっこいストーリーが全然まっすぐ進まないのだ。縁日に行った子供のように、あっちにふらふら、こっちにふらふら、急に駆け出したかと思ったら、立ち止まって辺りをきょろきょろ…といった具合。むしろこの映画はその寄り道ぶり停滞ぶりを楽しむべきなのだろう。おれも縁日はキライじゃないが、そんなものに2時間は長すぎるって。飽きるぜ。吉川ひなの的キャラの少女に扮したのが「バウンスkoGALS」の岡元夕紀子ちゃんだったから、なんとか最後まで見ていたが、普通なら1時間で出てるな。

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スター・トレック 叛乱(ジョナサン・フレイクス)

シリーズ通算9作目(TNG版は3作目)。前作の「ファースト・コンタクト」がハードなバトルSFだったので、本作では、がらりと趣向を変えてほのぼのコメディ路線である(え、違う?) 「故郷への長い道 スター・トレック4」と雰囲気が近いかも。 ● おれはトレッキーではないのでTV版もちゃんと観たことはなく、映画版すらシリーズの半分ぐらいしか観ていないのだが、それぞれのキャラがちゃんと“立って”いるので取り残されることなく楽しめた。もっとも、盲の黒人エンジニア(名前 知らない)はいつからアイスラッガーをしなくなったのか とか、あのアンドロイドはいつからあんな喜怒哀楽全開になったのか とか、不明な点はいくつかあるのだが。アンドロイドのくせに明らかに皺が増えてて、しかも中年太りしちまってるのも“設定”なんだろうか(…な、わきゃねえか) もはや白塗りという“お約束”がなかったら到底アンドロイドに見えないぞ。 ● 監督は前作に続いて、副官役のジョナサン・フレイクスが兼任。…というか兼任などと言っては失礼なくらい達者な演出ぶりである。ハゲ頭の艦長パトリック・スチュワートもプロデューサーとして名を連ねている。前作に引き続いての登板となるジェリー・ゴールドスミスも絶好調。このシリーズの強味はこういう「スター・トレック」を愛してる人たちの手によって作られている点にある。「ゴジラ」の不幸はそこに…ってそれはまた別の話。 ● 本作から全面的にデジタルSFXに移行した(ミニチュア撮影を一切おこなわず、宇宙も宇宙船も惑星の景色もすべてCG)とのことで、観る前は若干の不安があったのだが杞憂であった。こういう無生物で無重力で重厚感が必要ない画に関しては充分CGでイケるってことか。

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ラウンダーズ(ジョン・ダール)

「甘い毒」「アンフォゲタブル」のジョン・ダールが監督だが、今回はノワール色が薄く、軽快なギャンブル映画にしあげている。ジョン・マルコヴィッチ、ジョン・タトゥーロ、マーチン・ランドーといった芸達者な共演陣や、愛しのファムケ・ヤンセン様を眺めているだけでぜんぜん退屈しない。 ● でも、エドワード・ノートンがなあ…。ポーカーから一度は足を洗ったはずの主人公を再びギャンブルの泥沼へ引きずりこむ悪友の役なんだが、明らかな演技設計ミス(あるいはミスキャスト)だと思う。つまり主人公はこいつを助けようとして、とんでもない苦境に陥るのだから、“どうしようもないクズだが憎めない”というキャラにするか、そうせざるを得ない状況を設定してくれないと、主人公に感情移入が出来ず、「放っときゃいいじゃん、そんなバカ」と思ってしまうのだ。それにエドワード・ノートンの演技の質はこういう気楽な娯楽映画には重すぎるのでは? ● マット・デイモンは良くやってるが、ギャンブルの危険な匂いに魅せられた男には見えん。いかにも優等生タイプの彼に「止めてくれるなおっ母さん、おれの身体に流れてるヤクザな血ィが、おれを賭場へと誘うのよ」とか言われても(言わないけど)いまひとつ“ガラじゃない”って感じなのである。

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ヴァネッサ・パラディの 奥サマは魔女(ルネ・マンゾール)

エマニュエル・ベアールの「天使とデート」が好きだった人なら(>おれ)この映画も気に入るはず。つまり脚本も演出もユルユルのアマアマだがチャーミングな映画ということ。ヒロインの魔女にスキっ歯のヴァネッサ・パラディ。彼女の祖母(魔女)に相変わらずお美しいジャンヌ・モロー。悪に転んだ従兄の魔男(?)にジャン・レノ。で、善悪の魔女のあいだで、跡取りとなるべきヴァネッサ・パラディの赤ちゃん(だけど魔女だからタバサちゃんのように魔法が使える。可愛い!)を奪いあうというお話・・・な、はずなのに途中から、魔女の花婿に選ばれた冴えないコンピュータおたくとジャン・レノの戦いにシフトして、パラディが後景に退いてしまうので、ちょっとガッカリ。

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ロリータ(エイドリアン・ライン)

「フェアリーテイル」「ウィズ・ユー」「キャメロット・ガーデンの少女」と、にわかに少女もの映画ブームの様相を呈しているが(ぜんぶ見てる…)今度はそのものずばり「ロリータ」である。 ● スタンリー・キューブリックの1962年版では(時代的な制約もあって)年端のいかない少女と中年の大学教授とのセックスは、かなりボカされていた。メフィスト的な役回りのピーター・セラーズの怪演ばかりが目立っていた印象がある。 ● では、この1998年版は禁断のセックスをちゃんと描いているか。答えはイエスでありノーである。セックス・シーンはしっかりと描かれているが、撮影当時15才だったというヒロイン、ドミニク・スウェインのヌードはない。というか、それよりなにより、援助交際などという名目で未成年売春が容認されている1999年の日本では、すでにこの映画はスキャンダルではありえないのだ。 ● スキャンダルでなければ何だ? もちろん文芸メロドラマである。おれは読んだことないが、ナボコフの原作が元々そういうものなのだろう。それは1940年代という時代設定がそう感じさせるのだろうし、主演がジェレミー・アイアンズだというのも大きいだろう。これが現代のニューヨークを舞台に主演がマイケル・ダグラスだったりしたら、もっと脂ぎった不道徳な匂いのするものになっただろうが(なにしろ監督は「ナインハーフ」の人だから、そーゆー手がなかったわけではないはずだ)、この手の役をやらせたら天下一品のジェレミー・アイアンズに、歳の離れた少女への恋慕に身悶えされては、どうしたって“哀しいラブ・ストーリー”にならざるを得ない。しかもBGMはエンニオ・モリコーネである! ● というわけで今回の「ロリータ」は、小悪魔のような少女が中年男を翻弄する話、ではなくロリコンの中年男が魅力的な少女に振り回され、いたぶられてマゾヒスティックな快感にむせぶ話であった(つまり「ナオミ」か)。う〜ん、身につまされる(火暴) ● こむずかしい理屈はヌキにしても、この映画はハダカこそないものの、スケベおやじ(>おれ)のツボをくすぐるシーン満載なのでの男性諸氏にもオススメ。

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恋におちたシェイクスピア(ジョン・マッデン)

ヒネクレ者のおれにも文句のつけようがない出来。脚本のお手本のような見事な脚本に、弱いところのないアンサンブル・キャスト。演出も撮影も音楽も完璧。万人を幸せにするロマンティック・コメディであり、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」や「十二夜」のあらすじを知っているなら百倍楽しめるバックステージもの。〈歴史のお勉強のようなコスチューム・プレイ〉などと誤解するなかれ。この映画に登場するキャラクターは16世紀の衣裳に身を包んでいるもののスピリッツは完全に現代人である。この映画のなかでは、シェイクスピアは新作が書けずに精神分析医にかかっているし、商人の娘にすぎないヒロインがエリザベス女王に口答えしたりするのである(!) ● ま、無理に文句をつけるとすれば、グウィネス・パルトロウの微かなおっぱいが、とてもシェイクスピアが劇中で絶賛するような〈黄金の2つの林檎〉には見えないことぐらいか(火暴)


8mm(ジョエル・シュマッカー)

観るんじゃなかった…。脚本が「セブン」のアンドリュー・ケビン・ウォーカーだし、チャイルド・スナッフ・ポルノの話だっていうから、思いっきり後味の悪そうな予感はしていたのだが、見事に的中してしまった。 ● まあ8mmに写ってたのが幼い子供ではなく16才の娘だったのでホッとしたが(しちゃいけない)、あまりにも娯楽映画の掟やぶりなストーリーに、劇中で8mmを観るニコラス・ケイジのごとく、おぞましい思いを禁じ得なかった。どこがルール違反なのかはネタをバラさないと説明できないので別ファイルにしておく。 ● だいたい話の骨格が、ファミリー・マンの私立探偵が闇の世界に触れてだんだんと染まっていってしまう…という「クルージング」な話のはずなのに、不吉な音楽をバックにニコラス・ケイジに始めっから深刻な顔で登場されちゃあ台無しでしょ。ほんとはトム・クルーズとかマシュー・モディーンとかの健康的なイメージの役者がやった方が効果的なはず。それにしてもジョエル・シュマッカー、こんなダークな映画が撮れるなら、なぜその才能を「バットマン」で発揮しないかなあ…。 ● あ、ポルノ・ショップのパンクな(死語?)店員で、途中から捜査助手になるホアキン・フェニックスは良かったぞ。

「8mm」にまつわる三題噺

おれにとっては“8mm”と言えば当然、8mm映画を指すわけだが、もしかして今やそういう人はすごく少なかったりして…。8mm映画なんて観たことも触ったこともないって人が映画の主要観客層の大半を占めてたりして…。映画を観終わってカレシに“ねえ、結局「8mm」ってどーゆー意味?”とか聞いてる女とか居そうだ…。 ● 全国一律にそうなのかは知らないが「8mm」本篇冒頭に3分ほどのコロムビア映画75周年の名場面集が付いている。その試み自体は大変よろしいと思うが、これ、どうやらビデオ用の素材をそのままキネコ起こししたらしく、本篇がシネスコ・サイズなのに、名場面集はスタンダードというチグハグ。“どのスタジオよりも多くのオスカーを獲得した”名作の数々もビデオ画質の汚い画面では台無し。それも、よりによってコロムビア映画のイメージとは正反対の品性下劣映画の頭に付けなくても良さそうなもんじゃないか。ソニー・ピクチャーズの担当者がコロムビア映画に一片の愛情、いくばくかの敬意でも感じているならば、到底こんな無神経な真似は出来ないはずだと思うが? ● これ、日比谷映画で観たんだが、いつのまにかスクリーン直下の座席4列分が撤去されて、従来の5列目が最前列になっていた。おれの(日比谷映画での)定位置は丁度5列目あたりだったので、今回はなんと最前列で観るはめに…。別にオーケストラ・ボックスが出来たとかではないのでスクリーンとの間が妙に淋しくガランと空いていて、しかもジュータンが敷いてなくてピカピカの床が剥き出しなもんだから、スクリーンが床に反射して眩しいという珍しい体験をさせてもらった。この処置はたぶん最前列左右両端あたりに座った客からのクレームを避けるため(どーせ満員になんか滅多になりゃしないんだし)だと思われるが、世の中には最前列中央でスクリーンを真上に見上げて映画を観るのが好きな奴だって少なからず居るんだが。それに日比谷映画やみゆき座は、ちゃんと奥行きのあるステージがあるので、最前列といってもそんなに観にくいわけではないのだ。それより先に日劇プラザの観にくさをなんとかしろよな>東宝 (この項5月25日 記) ● [6月13日追記]座席が外されたのは東宝株式会社の株主総会のためだったそうだ。今は復活してるのかな?(情報提供ありがとう>ミワさん)

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スパニッシュ・プリズナー(デビッド・マメット)

「ユージュアル・サスペクツ」と同ジャンルの映画であるので、詳しい内容は一切書かないが、監督・脚本のデビッド・マメットは観客を傍観者としてではなく、騙される当事者となるべく意図しているように思える。つまり、映画が始まってもしばらくの間、観客には何が起こっているのかわからない。少しづつ、少しづつ事態が見えてきて、しかも見えているものすべてが真実とは限らない・・・となるはずなのだが、実際は話が見えなくてただ退屈なだけだった。 ● 舞台劇の「摩天楼を夢みて(グレンガリー・グレン・ロス)」「アメリカン・バッファロー」や、映画オリジナルの「ザ・ワイルド」「ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ」など、脚本にはハズレがない人なので、この映画も監督次第ではスリリングなサスペンスになっていたやも知れず、残念。


39 刑法 第三十九条(森田芳光)

この映画が単館興行であらかじめ限定した観客を想定しているものならば、ただの出来の良くない映画として看過しただろう。だが、松竹邦画番線のトリを飾って全国の老若男女のための娯楽映画として公開されてしまうのは許し難い。何故なら、この映画は幼い少女の血まみれの暴行死体を直接描写しているのである。虚空を見つめる死顔まで撮っている。いやもちろん造り物か特殊メイクだろうさ、だが、エンタテインメントとして守らなきゃならんルールってもんがあるだろ? いやあれは登場人物の哀しみや憎しみの深さを表すためにどうしても必要な描写だった、などと作者は世迷い言をいうかもしれないが、しょせんは手前の演出力の無さを棚にあげた品性下劣な露悪趣味でしかない。最近の松竹映画は巻頭の社名ロゴで恥ずかしげもなく“HUMAN DREAM”などと宣言してるが、ありゃ嘘か? ゆえに内容以前の問題として★は1つ。誰にもお勧めしない。 ● さて、この映画を一言で表すなら悪達者である。森田芳光が才気煥発な監督であるという世評に異論はないが、どうもこの人の映画には技術だけで心が欠けているような気がしてならない(「の・ようなもの」とかは好きだったけど…) この作品でも、手間と金をかけて映画をさらに陰気にしているだけの“銀残し”現像とか、常に揺れ動いている不安定なカメラアイとか、ブツ切りにされた画面/音響編集などに凝るあまり、本来ミステリーに必要とされる論理的明晰さは、ないがしろにされ、結果として作者のひとりよがりな情緒めんめんたる心象風景の羅列を2時間以上も見せられる羽目になる。加えて(これも演出家の意図的なものだろうが)出演者全員が神経症的な演技を繰りひろげてくれるので、観ていてじつに不快である。その人選も江守徹、杉浦直樹、岸辺一徳、樹木希林、吉田日出子といった、まさに悪達者な面々が揃っているから質が悪い。主役の鈴木京香と堤真一は悪達者というよりただの大根なので、ある意味では微笑ましい健闘ぶりなのだが、特に鈴木京香の演技設計(というか森田芳光の演技指導)は明らかに間違っている。全般的に「羊たちの沈黙」をあからさまに意識しつつ、かの作品にあったエンタテインメント性を見誤り辛気臭いだけの映画を作ってしまった、というところか。

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キャメロット・ガーデンの少女(ジョン・ダイガン)

10才のデヴォンは郊外の新興住宅地、日本でいえば東急文化村住宅のような“キャメロット・ガーデンズ”に引っ越してきた。無菌状態のような殺風景な町と、娘にむりやりガールスカウトの服を着せてチャリティ・クッキー売りに近所まわりをさせる優等生タイプの父母に、いまひとつ馴染めない少女は、いつも汚い格好をして芝刈りのバイトをしている青年に親近感をいだく。そして青年の住む、町外れの森の中にあるトレーラー・ハウスにたびたび遊びに行くようになるが、そんな少女の心の内を周囲の大人たちが判ろうはずもなく・・・と、一見、下のほう↓にある「ウィズ・ユー」とそっくりなお話であるが、こちらは昨年のファンタスティック映画祭に出品されただけあって、まさにファンタスティックとしか言いようがない感動的な結末が待っている。そのカタルシスの分だけ娯楽映画として優れた作品となった。 ● 少女役のミーシャ・バートンはカルバン・クラインのキッズ・モデル出身、将来はそばかすとジーンズの似合うかわいい女の子に成長しそうで期待大(<なにが?) しかしジョン・ダイガンという監督は、奥手の人妻タラ・フィッツジェラルドが性に目覚める話(というかエル・マクファーソンの巨乳ヌードとともに記憶される)「泉のセイレーン」とか、ジョン・ボン・ジョヴィの(というよりアンナ・ガリエラの人妻が色っぽかった)「妻の恋人、夫の愛人」など、妙にセクシャルな映画ばかり撮るなあ。


エバー・アフター(アンディ・テナント)

見るべき点は、老いてなおドリュー・バリモアよりもよっぽど美しく気品あるジャンヌ・モローが特別出演している開巻5分のみ。 ● 周知のように、この映画は「シンデレラ」の語りなおしだが、古典に“現代的な視点”を持ち込み小手先のメイクアップを施すことによって、原作が備えていたシンプルな美しさやプリミティブな力強さを台無しにしてしまうという、この手の映画が陥りがちな罠に見事にはまっている。おそらくはディカプリオ&クレア・デーンズの「ロミオ+ジュリエット」の直接の影響下に作られた作品だと思うが、確固たるビジョンもないままの中途半端な現代化は、古典への、そして現代の観客への冒涜でしかない。 ● ドリュー・バリモアのファン(>おれ)には辛いところだが、やはり彼女はミスキャスト。だいたいさあ、幸せになれると信じて勇気を振りしぼって訪れた仮面舞踏会で「財産目当ての嘘つきの下働き女と一国の王子が結婚などできるか!」などと、衆人環視の中で罵倒されて、そりゃ継母の陰謀かもしれんが、でも昨日は愛を告白した女に平気でそんな言葉が吐けるようなサイテー男を、その舌の根も乾かぬうちに、どうしてそう簡単に許すかなあ>シンデレラ。“自己を確立した現代的なヒロイン”どころか、結局は白馬の王子様と結ばれるのを夢見る、まさにシンデレラ(待つ女)でしかないじゃんか、それじゃあ。 ● しかも、大半の役者が英語を母国語とせぬ極東のサルにもはっきりと感じられるほどの棒読み演技を競い、アンジェリカ・ヒューストンにいたっては「101」とまったく同質の演技を披露してくれる。よく書けるよなというぐらい陳腐な台詞の羅列の裏には、脚色者の客を小馬鹿にした視線が透けている。不快だ。

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プッシャー(ニコラス・ウィンディング=レフン)

1人のドラッグ・ディーラー(=プッシャー)が羽振りよくブイブイいわせてる月曜日から、取引でドジを踏み、だんだんとシャレにならない状況に追い込まれて自滅する日曜日までを、トム・サイズモアによく似た主人公の売人に、ろくに照明も当てない2人称カメラでずうっと寄りそって“観察”したドキュメンタリー・タッチの、珍しやデンマーク製サスペンス。ハリウッド製エンタテインメント・ギャングスタ映画よりは、マチュー・カソヴィッツの「憎しみ」とかに近い映画。おれは観ていて後半(つまらないって意味じゃないが)ちょっと辛かったので★2つにしたが、惚れ込む奴もいるだろうある意味、傑作か。

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逮捕しちゃうぞ the MOVIE(西村純二)

おれはその方面の人間じゃないので、この「逮捕しちゃうぞ」というコミックスを今まで目にしたことはなく、なんかミニパトの婦警さんが活躍する「踊る大捜査線」みたいな話、というだけで観に行った。で、大変に面白かった。 ● 主人公は墨東署の交通課の婦警さんたち。墨東というのは墨田区の東側…ではなく隅田川の東側ってことね。いわゆる川向こう、両国とか錦糸町とかの辺り。で、隅田川にかかる橋のどれかに爆弾を仕掛けたという予告電話とともに、見せしめとして桜橋が爆破され、墨東署は大騒ぎ。隅田川にかかるすべての橋は封鎖され首都機能は麻痺、はたして犯人側の本当の狙いは? という大変にスケールの大きなお話を脚本の十川誠志と監督の西村純二はよくさばいている。 ● 東京の町に丁寧にロケハンして“川からの視点”を上手く活かしているところなど、劇場版「機動警察パトレイバー」の1本目に酷似している。交通課の課長と犯人との間に過去の因縁がある辺りは2本目の方か。というか原作の設定自体がもともと「パトレイバー」の影響下にあるのだろう。そうそう音楽も押井守作品でおなじみの川井憲次だ。絵風も映像版「パトレイバー」「攻殻機動隊」の押井守や、川尻善昭の系統。おれは全くの初見だったのでちょっとキャラの区別が付きにくかったが、絵としては巧い方だと思う。枚数もそんなに使ってないが、スチール構成などの演出としてみせているので、まあ気にならない。というわけで、アニメ・ファン向けの閉じた映画ではなく、広く一般にお勧めできる傑作。

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ライフ・イズ・ビューティフル(ロベルト・ベニーニ)

イタリアじゃ大スターらしいが、日本では数年前に「ジョニーの事情」が公開されて以来、とんと御無沙汰のロベルト・ベニーニ監督・脚本・主演映画。映画の質としては「ジョニーの事情」とまったく変わらず(女房をヒロインに据えてるのも一緒)、コメディ映画としては、むしろ本作の方が下なのだが、子供で泣かせる映画は強い。ベニーニが偉いのは、周りがどんなに悲惨な状況になっても、ヒロインがどれほど目をウルウルさせようと、本人は最後の最後まで不真面目を通すことで、かれは決して日本映画のようにクライマックスで真情を吐露して泣き叫んだりはしない。見事なコメディアンの矜恃である。

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エネミー・オブ・アメリカ(トニー・スコット)

泣く子も黙るハリウッドのバカ映画総元締め「アルマゲドン」のジェリー・ブラッカイマー最新プロデュース作品。そして監督は、ジェリー&物故したドン・シンプソンとかつて三バカ大将とならび称されたトニー・スコットという強力布陣。さぁて今度はどんなバカ映画を見せてくれるのかと期待に胸を高鳴らせていると、なんかいつもと様子が違って今回は硬派。トニー・スコット独特の凝った(見にくい、とも言う)画作り&編集はいつも通りだが。 ● 映画はあくまでもシリアスに、日本でも問題になっている盗聴&プライバシー法案の成立をめぐる国家安全保障局の暗躍を描く。ひょんなことから国家機密を入手してしまって逃げまわるネズミがウィル・スミス。ハイテクを駆使して追いかける悪い猫がジョン・ヴォイト。そんな彼の前にあらわれた助っ人に某有名俳優。ウィル・スミスはこの助っ人の力を借りて、窮鼠猫を噛む、ハイテクにはハイテクを、ついに反撃を開始する!・・・と、おっ今回はコン・ゲームで勝負か、と思わせておいて・・・出たぁ! それまでの伏線をすべて吹っ飛ばすあまりにもジェリー・ブラッカイマー的な解決だぁぁ! やられました。完敗です。サンキュー、ジェリー! 2時間12分、愉しませてもらったぜ。 ● 誤解なきよう書き添えておくが、おれはジェリー・ブラッカイマーのファンである。日本最大級のスクリーンでバカ映画に浸る愉しみはなにものにも代えがたいものがある。

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トゥエンティフォー・セブン(シェーン・メドウズ)

ケン・ローチとマーティン・スコセッシを尊敬しているという25才の新鋭監督(脚本も)のデビュー作(あれ?“新鋭”監督の“デビュー作”って日本語おかしいか?)全篇に漂うみすぼらしさが素晴らしい。 ● 町のはみ出し者の中年男が、不良少年を集めてボクシング・ジムを開く、という「あしたのジョー」の映画化(うそ)。但し、ジョーではなく丹下段平が主役だ。ちばてつやが独自に描いたドヤ街の描写が「あしたのジョー」の魅力を倍増していたように、モノクロ撮影で捉えられたイギリスはノッティンガムの田舎町の風景が素晴らしい。侘びしさが透間風となって吹き抜けていくかのようだ。 ● 50過ぎていまだ独身の侘び住まい。今までの人生できっといい事なんて一つもなかったに違いない、そんな負け犬の匂いが染みついている男を演じるボブ・ホスキンスが絶妙。全篇にヴァン・モリスンやポール・ウェラーなどのR&B系ブリティッシュ・ロックがかかるが、間違っても“オシャレ”な映画ではない。どこをどう見ても熱血とかスポ根とは無縁の映画で、演出も淡々とスケッチを重ねていくスタイル。にもかかわらず、観た後に感動がじわりと染みこんでくるのは、作者が、この映画のぶざまな登場人物たちを心から愛してることがわかるから・・・スタイルではなくドラマを撮ろうとする意志が伝わってくるからだ。

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ヤジャマン 踊るマハラジャ2(R・V・ウダヤクマール)

「ムトゥ 踊るマハラジャ」のスーパースター ラジニカーントとミーナが初共演した1993年の旧作。これでも笑えて泣けてニコニコできて、入場料分はじゅうぶん楽しめるのだが、ストーリーの驚天動地度、ミュージカル・シーンのきらびやかさ、ミーナのお色気むんむん度、どれをとっても後年の「ムトゥ」の方が濃く、なるほど江戸木純が力説するとおり「ムトゥ」は印度娯楽映画のなかでも飛び抜けた傑作だったのだなぁということが確認できる。 ● ちなみに、この「ヤジャマン 踊るマハラジャ2」(ジェイシーエー配給)と、すでに日本スカイウェイからビデオ発売中の「ヤジャマン 踊るパラダイス」は同一作品である。この両社は日本の配給権をめぐって互いに訴訟合戦中とのこと。別言語による吹替版の数だけ権利が存在するという印度映画の契約の複雑怪奇さがこういう結果をまねいたらしい(「噂の真相」より)

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隣人は静かに笑う(マーク・ペリントン)

何を書いてもネタバラシになるので、ダークなサスペンスの傑作とだけ言っておく。 ● カイル・クーパーの不吉な(しかし一応、字は読める)オープニング・タイトルと、アンジェロ・バダラメンティのダークな旋律でツカミはOK。このあとはジェフ・ブリッジス扮する大学教授が、ひたすら“とんでもない秘密を発見したのに言えば言うほど周囲から気狂い扱いされる”泥沼にはまりこんでいく。そして・・・な結末を覚悟して観に行くこと。

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クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦(原恵一)
[同時上映]クレしんパラダイス! メイド・イン・埼玉(水島努)

これが7作目となる映画版オリジナル長篇。テレビ版が「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」を踏襲して日常生活を中心に描いてるのに対し、映画版ではぐっとスケールの大きなSFホラ話が展開する。なんだ「ドラえもん」と一緒じゃん などと思うなかれ。「クレヨンしんちゃん」は、親が安心して子供に見せたいと思わせる「ドラえもん」につきまとう教育臭や、誰はばかることなく“地球大好き”と宣言してはばからない偽善性とは無縁である。同じSFでも「クレヨンしんちゃん」に登場するのは、世界温泉化計画だの悪の秘密組織YUZAMEだのドクター・アカマミレだの温泉の平和を守る温泉Gメンだの金の魂の湯、略してキンタマ湯だのタンバテツローなのである。こんなもの子供が見たら、言葉遣いが悪くなる、すぐにちんちんやケツを出したがる、胸がデカくてキレイなねえちゃんが好きになる、オカマをサベツするなどの効果バツグン。いまさら言うまでもないが映画はおもしろきゃいいのだ。家族・親戚・知り合いの子供にどんどん観せよう。 ● このシリーズは大人が観てもじゅうぶん面白い。それはもちろん脚本がエンタテインメントとしてきっちり練られているからでもあるが、それ以前に、秘密組織YUSAMEのロゴがYAZAWAだったり、何の説明もなくシェーとかマジンガーZとかやってもコドモにゃ判らんだろう。 ● 併映の11分の短篇は「ゲバゲバ90分」スタイルのパロディ集。こっちこそ元ネタの判る大人が観た方がゼッタイにおもしろい。 ● 最後に、いちおう本作のテーマを記しておこう。表のテーマはGWは家族で温泉に行こうで、裏テーマが長嶋茂雄おそるべし、である。はあ、ばばんばばんばんばん。

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シン・レッド・ライン(テレンス・マリック)

自慢じゃないが、おれは「バッドランズ」も「天国の日々」も観ていない。本作がテレンス・マリック初体験である。 ● 砲弾が炸裂するようなシーンもあるにはあるが、全体としては戦争映画とは思えぬ静けさが支配する。死の前後は映像化されるが、死そのものが描かれることはない。まあ、監督の意図はわからないでもない(ような気がする) カメラは神の視線で、あるいは風の耳となって戦場をみつめ、兵士たちのつぶやき・祈り・困惑・ぼやきetc.を拾っていく。“哲学的な戦争映画”とは聞いていたが、それは間違いだ。たしかに哲学的な映画かもしれないが、これは断じて戦争映画じゃない。なにしろ映画が始まって1時間近くは何も起こらないのである。戦争映画っていったらコッチも当然ドンパチ(=サービス)を期待していくわけだ(おれは間違ってるか?) 「地獄の黙示録」にだって哲学的な終盤を迎えるまでにはちゃんとドンパチがあったぞ。ところが、この映画でえんえんと見せられるのは“美しい大自然”と“兵士たちのブツクサ言うつぶやき”だけだ。おれには向いてない映画だった。1時間半で途中退出。 

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共犯者(きうちかずひろ)

企画:黒沢満 撮影:仙元誠三 照明:渡辺三雄 美術:今村力とくれば、これはまごうことなき東映セントラル・アーツの最強チームである。松田優作の「遊戯」シリーズをはじめとする傑作アクションを生み出してきた猛者たちを従えての監督・脚本は、いまや「ビー・バップ・ハイスクール」の漫画家というより、ハードボイルド映画の傑作「鉄と鉛」の監督、きうちかずひろ。今までわりとゴツゴツした剥き出しのバイオレンスを撮ってきた人だが、本作では仙元誠三&渡辺三雄のブルートーンと、今村力の虚構性を強調するモダンなセットに助けられて、ヤクザ映画やチンピラものVシネマとは別種の都会派アクションを見事に成立させた。下手すれば荒唐無稽になってしまう世界をスタイリッシュに描く・・・「最も危険な遊戯」で松田優作が走って車を追いかけるシーンに感動した人間なら必見。 ● この映画のテーマは、最後の決戦にいどむ際の主人公とヒロインの会話に明示される。「死にたいんか」「死にたいんじゃないわ・・・戦うの!」「・・・だれにでも最後まで戦う権利はある」だからこそのタイトル「共犯者」であり、“共犯者”とはすなわち“共闘者”のことだ。 ● おれは演技者としての竹中直人と内田裕也をまったく評価しない人間だが、この作品では“ブラジル移民のヤクザ”と“国籍不明の殺し屋”というそれぞれのキャラクターにうまく合った。小泉今日子は家庭内暴力に息をひそめてきた人妻が、初めて自分の意志を持って戦う(生きる)ことを選択したときにみせる輝きがすばらしい。ほかにも成瀬正孝・山西道広・岩男正隆・北村一輝・諏訪太朗といった個性的な面子がズラリと脇をかためる。 ● 黒沢満はきちんとした“映画の企画”をたてる事のできる数少ない まっとうなプロデューサーだが、次回作には ぜひ石井隆の起用をお願いしたい。セントラル・アーツでなら「GONIN」以来、石井隆が果敢に挑みつづけている試みが結実できる気がするのだ。

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ヴァージン・フライト(ポール・グリーングラス)

難病ものや身障者映画が苦手である。全編が善意で塗りかためられたような世界にはついていけない。 ● そこで「ヴァージン・フライト」。男とヤりたい身障者の娘さんの話である。18才のときに(たぶんホーキンス博士と同系統の)難病にかかって以来、車椅子生活だから25才になった今でもヴァージンで、彼女としてはセックスの味を知らなきゃ死んでも死にきれないわ、というわけ。で、裁判所命令の社会奉仕活動として無理やり彼女のコンパニオンをさせられるのが、人生のプレッシャーに押し潰されて銀行の屋上から飛び降りたアーティスト。つまりひねくれ者のカタワと社会不適応のキチガイのラブストーリーである。いいじゃないか、人間臭くて正直で。 ● もっとも中身はそんなにひねくれてなくて、もっと2人のいがみ合いが続くかと思いきや、意外とあっさり仲良くなっちゃって、後はわりとすなおなラブコメとして進行する。男の子が親友の女の子に素敵なボーイフレンドを見つけてあげようと奮闘するが、女の子が好きなのはじつは…ってパターンね。ここでは、女の子がカタワだってのが味つけになってるわけ。 ● カタワ女(しかも25才)をしゃあしゃあと演じてるのがヘレナ・ボナム・カーター。巧すぎて何も言うことありません。イギリスの大竹しのぶだな。男はケネス・ブラナー。シェイクスピアのときのような臭みもなくあっさりと演じていて好感が持てる。この2人(撮影時点では)実生活でもラブラブだったらしく、いい気なもんだという話もあるが、カタワとキチガイに扮するあたりが、やはりイギリス魂ですな。 ● それと、チラシに監督・脚本家の名前ぐらい入れろよな>K2エンタテインメント


毒婦マチルダ(松梨智子)[ビデオ上映]

「流れ者図鑑」で平野勝之の自転車旅行の相手をした自意識過剰のバカ女(つっても誰も知らんか)の自作自演による70分の自主制作ビデオ。・・・だってことを、こっちも十分承知した上で観に行ったのだが、まあクダらん、クダらないことが芸になってすらいない、映画以前の代物だった。とりあえず作者が「レオン」と「ブリキの太鼓」を観ているという事実だけは確認できる。学園祭とかで上映する分には場内大爆笑の大評判になること請け合いだが、そんなもの1200円も取って映画館で上映しちゃいかんよな>中野武蔵野ホール(って、それを承知で金を払ったおれの自業自得なんだが) ● 映画以前の出来なので★ゼロの“評価外”とする。

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ミラ・ソルヴィーノ フリーマネー(イヴ・シモノー)

ミラ・ソルヴィーノが「リプレイスメント・キラー」に続いて放つハード・アクション!・・・という配給元ギャガのウリは真っ赤なウソ。じっさいはオフビートなクライム・コメディである。エルモア・レナードの小悪党ものをさらに情けなくした感じか。主演もほんとはマーロン・ブランド&チャーリー・シーンで、ミラ・ソルヴィーノは5番目か6番目の助演あつかい。ほかにもドナルド・サザーランドやらマーティン・シーンやらが出てる。サスペンスの高まるべきツボを外しまくった脚本がなかなかお見事(←褒め言葉)>>>あらすじを読む

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リトルシティ(ロベルト・ベナビブ)

1)男2人、女3人の主要登場人物が順列組み合わせでくっついたり離れたりする。2)話の継ぎ目として登場人物のモノローグが使われる・・・という、アメリカの人気TVシリーズのスタイルを模倣したセックス・コメディ。とりたてて不可もなく最後まで面白く観ていられるが、逆にいえば突出したところもない。いや、あえて難クセをつけるなら、2人の男性から言い寄られるのがアナベラ・シオラという点か。こんなサル顔のブス女が、なんで次々とラブストーリーの主演をはれるのかね?

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大阪物語(市川準)

チラシの宣伝コピーがバツグンに上手いので引いておく−−、元気でも、泣く。 14才。 ごっつしんどい夏でした。 ● 売れない夫婦(めおと)漫才師を親にもつ少女の、ひと夏の出来事と冒険、そして成長。少女もの、というより「トム・ソーヤーの冒険」のような少年小説の匂いがする。市川準の映画はいつも街のスケッチが素晴らしいのだが、ドラマが(おれには)薄味すぎた。だが、本作では犬童一心(「二人が喋ってる。」を撮った自主映画作家。世田谷出身なのになぜか関西演芸オタクだそうである)を脚本に起用したのが成功して、夏の陽射しと汗の臭いがすがすがしい佳作となった(大阪弁、というのも大きいかも) ● “鷲尾いさ子の小さい頃”みたいな顔の池脇千鶴は撮影時15才、地元・大阪での撮影のためか自然な演技が素晴らしい。この娘だけでも、この映画を観る価値がある。沢田研二と田中裕子は役者としては巧いのだが、吉本の本物の芸人たちと並ぶと、まったく芸人臭さがないのが致命的ではないか。

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コキーユ 貝殻(中原俊)

同窓会で30年ぶりに再会したかつての同級生から恋を告白される。まじめ一筋の妻子持ちと、子連れのバツイチ女のあいだに恋がめばえる。・・・甘っちょろい話である。キレイゴトである。だが、作者はそれを百も承知で、違うんだ、つらい日常だからこそ、キレイゴトが必要なんだと言っている。それにじつを言えば、この甘っちょろい話には、にがい結末が待っている。大人の、せつない、話なのだ。 ● なによりも風吹ジュンがすばらしい。48才にしてこの美しさ!(>生尻も拝める^^) 小林薫は、ともすれば優柔不断なだけの男なのだが、我慢の演技がラストで活きた。中原俊(脚本・山田耕大)というロマンポルノの俊才がつくった大人のラブストーリーの佳作。

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平成金融道 裁き人(和泉聖治)

和泉聖治監督によるいつものプログラムピクチャー(悪く言えばVシネマ)の一篇。夏樹陽子演じる“裁き人”とは会社の清算処理を担当する経営コンサルタントのことで、(シャブをやめて恰幅のよくなった)清水健太郎が、彼女を陰から助けるやくざの幹部を演じている。 ● まあ、とりたててどうと言うこともない古い価値観に基づく古い感覚の映画なんだが、和泉聖治には新しいものを作ろうなんて気がハナっからないのだから、それを責めてもしようがあるまい。そういうものだと思って観るしかないのだ。ま、ひとつ褒めるなら、和泉聖治はよくも的確な主演女優を見つけてきたということか。

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フェアリーテイル(チャールズ・スターリッジ)

第1次大戦下のイギリスで12才と8才の少女が妖精の写真を撮ったとして大騒ぎになった“コティングリーの妖精事件”の映画化。この作品を魅力的なものにしているのは、なんといっても2人の実在の有名人の事件への介在である。1人は「名探偵シャーロック・ホームズ」の作者にして、この映画のころには降霊会などの神秘主義に傾倒していたアーサー・コナン・ドイル卿。じっさい妖精写真を大々的にとりあげて全国誌に紹介したのはコナン・ドイルその人である(後に失笑を買うことになるのだが)。ドイルの分身ホームズは演繹的論理の説明として、よく作中でこのように言う“たとえそれがどんなに突飛な結論であっても、すべての不可能を消去して最後に残ったものが真実なのだよ” 登場するもう1人の有名人はコナン・ドイルのよき友人にして、世紀の魔術師ハリー・フーディーニ。大観衆の目の前で不可能を可能にしてみせた不世出の天才マジシャン。その独創的なトリックの秘密を決して誰にも洩らさず、真実を墓場までもっていった男。かれは言う“見たものすべてを信じるのかね?”・・・もうお判りだろう。この映画の“あなたは妖精の存在を信じるか?”という問いかけは、我々に向けられている。妖精は、映画というもの、すべてのファンタジーの暗喩なのだ。 ● コナン・ドイル役のピーター・オトゥールと、フーディーニに扮したハーベイ・カイテルの存在感は圧倒的。ご両人とも喜々として演じておられる。少女2人もたいへんよろしい。年下の少女フランシスを演じたエリザベス・アールは特によろしい(このあと「エバー・アフター」にも出演しているそうだ) ● (このあとややネタバレ)ちなみに、この映画の原題には A TRUE STORY という副題がつく。そう、実話と銘打っているのである。にもかかわらず、この映画にはSFXを駆使して本物の妖精がしっかりと登場するのだ。これはまるで「ゾンビ」の冒頭に“これは実話である”というテロップが出るようなもんだ(違うか) 堂々と ほんとの話だよ と宣言する制作者たちの心意気が嬉しいぢゃないか。

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シックス・ストリング・サムライ(ランス・マンギア)

また1本、香港映画の影響を強く受けたアメリカ映画が誕生した。しかもジョン・ウーじゃなくカンフー映画、それもブルース・リーじゃなくリー・リンチェイってんだから変わってる。監督のランス・マンギアは、かなり濃い香港映画オタクと見た。脚本&主演&アクション監督のジェフリー・ファルコンはある程度、本当にカンフーをこなしている。“15本以上の香港映画に出演、カンフー大会のアメリカ代表で金メダル獲得”だそうだが、これはちょっと眉唾でしょ。 ● 舞台は核戦争後の荒廃した世界(=「マッド・マックス」)。世界はソ連の支配下に置かれ、最後の自由都市“ロスト・ベガス”にはエルビスがキングとして君臨していた。だがエルビスが逝去、空位となったキングの座を目指して全国からロックンローラーたちがベガスを目指す…。 ● ガンマンじゃなく“ロックンローラー”ってとこがミソで、猛者どもはなぜか(座頭市の仕込み杖ならぬ)仕込みギターを肩から掛けている。よれよれのブラック・スーツに黒縁メガネの主人公バディは、テーマ曲もロカビリーだから、バディ・ホリーのつもりなんだろうけど、どう見てもエルビス・コステロだな、ありゃ。でもって敵役はデスメタルだったりする。 ● まあC級すれすれのB級映画なんだが、決してトロマ映画のようなバカ映画(“おれたちゃクダらねえって知っててクダらねえ映画を作ってんだ。シャレだよシャレ”)ではなく、作り手たちはかなり本気(“たしかに金はねえけど、志の高さだけは誰にも負けねえぜ!”)である。また、金がないなりにガジェットにも様々な工夫を凝らしていて楽しい楽しい。オール砂漠地帯ロケのノーSFX映画だが、最後に1枚だけマット画合成があるのがご愛敬。 ● 本作の元ネタは香港映画の武侠片(“中国大地にさまざまな武術集団が群雄割拠して覇を競う”ってやつね)。それも、おそらくバリー・ウォンの「カンフー・カルト・マスター(倚天屠龍 之 魔教教主)」あたり。演出もバリー・ウォンなみにスピーディ(=いいかげん)だ。ジェフリー・ファルコンの型がリー・リンチェイとそっくりなのは前述の通りだが、同じリー・リンチェイでも「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ(黄飛鴻)」シリーズのそれではなく、前出の「カンフー・カルト・マスター」(武術指導はサモ・ハン・キンポー)や、ユン・ケイ監督・武術指導の「レジェンド・オブ・フラッシュ・ファイター(方世玉)」2作の系統。

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ウィズ・ユー(ティモシー・ハットン)

10才のハリエットは、別れた夫から手切れ金がわりにもらった街道ぞいのさびれたモーテル(しかもインディアンのテント型)を経営するアル中のキャシー・モリアーティ母ちゃんと、若い男とみれば手当たり次第に股をひらく はすっぱなメアリー・スチュアート・マスターソン姉ちゃんとの3人暮らし。こんな片田舎の退屈な日常から抜け出したくて、地球の反対側の中国を目指して地面に穴を掘り続けてる( Digging to China =原題) そんなある日、母親に“ホーム”へ送られる途中のケビン・ベーコンが、車の故障でモーテルに滞在するようになる。智恵遅れの青年は、体は大人だが心は子供のまま。すぐに仲良くなったハリエットは、初めて判りあえる相手をみつけた気がしたが・・・ ● 「普通の人々」や「ビューティフル・ガールズ」の俳優ティモシー・ハットンの監督デビュー作。まさにティモシー・ハットンそのもののような映画だ。すなわち、派手さはないが誠実な作品ということ。男のほうがいわゆるおとなではないので、「シベールの日曜日」とゆーよりは「小さな恋のメロディ」のバリエーションですね。ケビン・ベーコンは智恵おくれにしては最初から知性が見えすぎ。これではラストの哀しみが活きない。まあ、でも女の子が可愛いから★4つ(ばく) ● ハリエットを演じたエヴァン・レイチェル・ウッドは正統的美少女タイプ。このあと「プラクティカル・マジック」にも出演しているとのこと

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パーフェクト・カップル(マイク・ニコルズ)

周知のようにこの映画でのジョン・トラヴォルタとエマ・トンプソンはクリントン夫妻である。だが作者たちはジョン・クリントンをからかってはいても、決して批判や非難を意図してはいない。マイク・ニコルズと、名コンビの脚本エレイン・メイが徹底した批判の目を向けるのは、政治家の、政策ではなくスキャンダルばかりを追いかけるマスコミであり、現行の選挙システムである。そして、それより何よりこの映画は選挙戦を描いてはいても“ポリティカル”・ドラマではない。これは尋常ではないシチュエーションに身をおくことになった一組の夫婦のドラマだ。それぞれに弱いところを持ち過ちをおかす決して完全ではないニンゲンたちへの讃歌だ。「候補者ビル・マッケイ」や「ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ」よりは「恋愛小説家」に近い映画なのである。出演者ではピタリの役どころのキャシー・ベイツが出色。この人はワキにまわると活きる。

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エブリバディ・ラブズ・サンシャイン(アンドリュー・ゴス)

ゴミ溜めの町で、暴力だけをたよりに、兄弟のようにして育ってきた従兄弟の物語。有色系ギャングと中国系ギャングの抗争を背景に描く英国リバプールのハードな現実。足を洗って堅気になろうとする兄貴分のレイ。そうはさせまいと嫉妬にも似た狂おしい感情でレイを暴力の世界へ…自分のもとへと引き戻そうとする弟分のテリー。いちおう娯楽映画の体裁をとっているが、まったく救いのない話であり、ずっしりと重い結末が待っている。観たあと数時間は暗い気持ちになるので、そういうのが駄目な人にはおすすめしない。 ● 監督・脚本のアンドリュー・ゴスがレイ役を自演。気狂いテリーをド迫力の演技でこなすのはドラムンベース界の大物ミュージシャン、ゴールディ(ひょっとしてモノホンの筋者?)。全篇に渡って北関東の暴走族が好むような重低音リズムが鳴り響く。組織の古株で唯一人の白人幹部にデビッド・ボウイが扮している。 ● タイトルは「そりゃ誰だって お天道さんの下で暮らしたい(だが、日蔭暮らしの染みついた おいらにゃ夢か)」というようなニュアンスかな。

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バグズ・ライフ(ジョン・ラセター)

白状しよう。おれはこいつらをナメていた。だってピクサー・アニメーション・スタジオって言やあ、学生あがりのコンピュータおたくの集りだぜ。しょせんはRenderManってCGソフトウェアの開発で財をなしたような部外者だぜ。「トイ・ストーリー」をブラックにしすぎてディズニーから書き直しを命じられた連中だぜ。たとえば、この「バグズ・ライフ」ってタイトルだが、コンピータソフトウェアで“バグ”と言えばとーぜん忌み嫌われる“不良箇所”のこと。こーゆーセンスからも奴らのお里が知れるってもんじゃないか。 ● ところが、である。・・・良いのだ、これが。まず“本業”であるCGのレベルが格段の進歩をとげている。「トイ・ストーリー」の時は“あんまり背景は見ないでね”てなレベルだったが、今回は、自然の風景だけを描いた場面など、もう実写と区別がつかないほど。さすがに虫たちが出てくるとCGアニメだということは一目瞭然なわけだが、それでもいかにもCGのヌメリとした質感にすることを避け、あえてクレイメーション(粘土アニメ)の質感をCGでシミュレートしてるのだ。(クレイメーションを目指してることはキャラクター・デザインからも明らか)あと残された課題はキャラの動きに“重力”が感じられない点か。(虫たちに“体重”が感じられず、まるで火星かなにかの出来事のように見える) ● ストーリーも子供アリをうまく使って観客の子供たちが感情移入しやすく作ってるし、大人のマニアな観客(>おれ)にも楽しめる小ワザも随所にばらまかれてるし、健全な娯楽映画としてはほぼ満点と言っていいのじゃないか。


バンディッツ(カーチャ・フォン・ガルニエ)

この不快さはなんだろう? チラシ裏に元バービーボーイズの杏子が「極上のミュージック・プロモーション・ビデオの嵐のようでした」とコメントを寄せているが、まさにそれ以外の何物でもない。おれはリチャード・レスターのビートルズ映画もスパイス・ガールズの映画も大好きだが、この手のものはコメディだから活きるのだ。ところがこの「バンディッツ」は、女刑務所の囚人バンドが脱走して逃亡中にTV出演やらCD発売で人気者になっていく…というストーリーをコメディとしてではなく、囚人1人1人の重い過去なんぞを絡めてシリアスに描く。だがその“シリアス”も本物のドラマではなく、ミュージック・ビデオにあるような“記号としての”涙であり、“格好だけの”悩みでしかない。そして次のシーンではおちゃらけたMTVが始まる。なんなんだこれ? 少なくとも映画ではないな。ドイツで大ヒットしたそうだが、おれは終始ムカムカしてた(続けてレイトショーを観るつもりだったから出られなかったのだ)

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ガメラ3 邪神 イリス覚醒(金子修介)

脚本:伊藤和典 特技監督:樋口真嗣 怪獣造型:原口智生 音楽:大谷幸
中山忍 | 前田愛 藤谷文子 | 安藤希 前田亜季 | 山咲千里
怪獣映画魂を燃やしつくした屈指の傑作。はやくも本年度の日本映画ベストワン当確か。 ● で、余談だが、このシリーズがいわゆるマニアの皆様(ふくむ>おれ)に支持されるのは、世界を構成しているのが“おたく”と“美少女”と“怪獣”と“自衛隊”だけというじつに巧妙な、でもよく考えると実にいびつな作劇によるところも大きいと思うぞ、絶対。たとえば、この映画に安藤希の役は物語上まったく必要ないのだが、可愛い女の子が出てくるとそれだけで喜ぶ奴(>おれ)がいるので、存在意義はちゃんとあるのである。中山忍が意味もなく膝小僧を見せたりとか、そーゆーところが確信犯なのである。

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ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ
ウルトラマンガイア 超時空の大決戦(小中和哉)

大人もじゅうぶん楽しめるジュブナイル映画の佳作。テレビシリーズは土曜日の夕方6時という時間帯とは思えぬハードな終末SF展開となっているが、こちらはテレビ版とはパラレルワールドで起きたお話、という設定の番外篇。悲愴な終末感にいろどられた「ガメラ3」とは対称的に「ガイア」は終末感の中にも明日を信じる。それはテレビシリーズの基本コンセプトであり、小中和哉のキャラクターでもある。美少女学園SFものでは“いい歳して”という気恥ずかしさが先に立つ小中和哉だが、こういった初めから子どもを観客に想定している作品では、その資質がピタリとハマるようだ。 ●[追記]テレビシリーズは4月から“普通の”変身ヒーローものになったようだ。

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富江(及川中)

観てるあいだずっと“このヘタクソ”とつぶやいていた。監督の及川中が脚本も書いているのだが、こいつにはホラーの才能が皆無である。独りよがりの意味なしシーンが多すぎるし、見せるべきところを見せていない。ヒロインの中村麻美は魅力なし(もしくは魅力をまったく捉えられていない) ● ゆいいつの救いが“富江”役の菅野美穂で、設定上、最後の最後まで顔を見せないのだが、おおっと思うほど見事なお化け女優っぷりであった。

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極道の妻たち 赤い殺意(関本郁夫)

関本郁夫は「極道の妻たち 赤い絆」に続いての登板。今回、脚本を担当している中島貞夫は、このシリーズ最多登板監督でもある。というわけで「残侠」で無残な姿をさらした関本が手慣れた素材で汚名挽回の一作となった。 ● 高島礼子は“阪神大震災で天涯孤独となった堅気のOLが、極道の跡取り息子に惚れて極妻ワールドの住人となる”という設定で、まずは自然な御披露目興行となった。かなり背伸びをしている感のあった「陽炎」と比べると、まさに“等身大”のハマリ役。地元・横浜じゃ後輩からねえさんと呼ばれてるらしいし、亭主にした男はもろホスト。「極妻」シリーズも大ファンだったというから、きっと本来そっち系の人なんでしょう。 ● かたせ梨乃は老けが見えてきてちょっと辛い。無理してギャラの高い かたせ を出す必要はないと思うが。 ● これ、製作が東映ビデオなので歌舞伎町と千葉だけの公開だったが、なんとも勿体ない。春のアニメ番組にレイトショーで1回 載っければそこそこ入っただろうに…。

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スネーク・アイズ(ブライアン・デ・パルマ)

それほど効果的ではない凝りに凝った映像と、ミステリーのわりには単純なストーリー。バカOLがなにを思って観にきているのかは知らんが、ブライアン・デ・パルマのファン(>おれ)には十分に楽しめる出来ではある。欲を言えば、監視カメラのモニターが何十台もならぶコントロールルームをもっと活かして16分割マルチスクリーンとかやったら凄かったのに…。音楽の坂本龍一はあまり目立たず。ピノ・ドナジオにすべきだった。

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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ&アメリカ
天地風雲(サモ・ハン・キンポー)

ツイ・ハークとケンカ別れしていたリー・リンチェイが3作目以来の主役復帰(今回、ツイ・ハークはプロデュースのみ)やはり黄飛鴻はリー・リンチェイ生涯の“当たり役”である。いまどきこれだけ弁髪の似合うスターがどこにいる!? ● しかし残念ながら映画の出来は演出もアクションもいまひとつ。劉家栄まで連れて行ったわりには体技をきちんと見せてくれないのだ。

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疑惑の幻影(ランダル・クレイザー)

おれはメラニー・グリフィスが一貫して演じてきた頭からっぽのセックス大好き金髪女像を断固支持する立場の人間であるが、この映画の彼女はヒドい。バンデラスにぐっちゃぐっちゃに突っ込まれて子供まで産んだせいか知らんが、この映画のメラニー・グリフィスはたんなるデブのババアなんである。いやそれは誰がどう考えたってやり手の女弁護士という役からはいちばん遠い女優だろとかそーゆー問題より以前に主役がババアではこーゆー映画は成立しないのだ(ちなみにギョーカイではこれをナンシー・アレン症候群と呼んでいる)

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ウェディング・シンガー(フランク・コラーチ)

1980年代のミュージック・シーンを体験してきた者にとってはたまらない映画。モテない男(>おれ)や金のない男(>おれ)は泣かずにはおれんでしょうな。しっかしドリュー・バリモアはワイルドなティーン時代(と主演したB級映画)を経てしゃあしゃあとカワイコちゃん(死語?)路線にもどるとは…(でも可愛いから許す)

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沈黙の陰謀(ディーン・セムラー)

まあ、こっちもセガールの映画と知って観に行ってるわけだから、誰を責めるってわけじゃないんだが、1999年のトンデモ映画ベストテンを決めるなら上位入賞まちがいなしの怪作。 ● 話はまんま「アウトブレイク」だが、セガールがウィルスを開発した科学者だっていう設定がまず笑えるし、おまけにこいつは、元はと言えばテメエのせいで町が全滅寸前なのに平然と、生物兵器を悪用する政府のやりかたは許せない!などと責任転嫁の自分勝手な正義感いっぱい。おまけに科学者なのに何の説明もなくムチャクチャ強いし、(以下ネタバレだが)けっきょくウィルスの抗体はインディアンが煎じて飲んでる野性の花に含まれてましたっていう、不自然かつ安易なだけじゃなく政治的主張が露骨な解決もあまりと言えばあまりだが、何よりアゼンとするのはセガールは感染した町へ、その花びらをヘリから散布するのだ。煎じて飲むんじゃねーのかよ? 花びら撒いてどーすんだよ!(そんな映画に★3つも? そこが娯楽映画の奥深いところよ)

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自由な女神たち(テレサ・コネリー)

赤毛の岩下志麻こと、レナ・オリン姐御主演の“ヘンテコ家族”もの(←どんなジャンルだ!) ● 仕事一筋の父ちゃんにガブリエル・バーン、すぐ股をひらいちゃう不良娘にクレア・デーンズ。まるで1950年代かと見まごうようなデトロイトのポーランド系住民たちの貧しい生活。セクシー母ちゃんの浮気がバレたり、不良娘の妊娠が発覚したりと、いろいろ事件はあるけれどそれでもなんだかんだと人生は続いて、ラストには少し幸せな気分になれるという寸法。 ● 監督・脚本のテレサ・コネリーはなかなかキレイなネエちゃんで、自身もデトロイトの貧しいポーランド系家族の出だそうな。

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おかしな二人2(ハワード・ドゥイッチ)

まるで1970年代の映画を見ているようだ。脚本はもちろんニール・サイモン。さすがにウォルター・マッソー&ジャック・レモンの活かしかたを知っていて「ラブリー・オールドメン」の100倍はおもしろい。しかし、いつのまにかこういうタイプの映画は息たえてたのだなあ。映画観客の主流であるバカOL&バカップルのまったくいない不思議な客層であった。


新・唐獅子株式会社(前田陽一ほか)

こんなヒドい代物が“遺作”では撮影中に逝った前田陽一も浮かばれまいて。もっともヒドさの半分以上は脚本の責任なので、自業自得か。感覚がズレてる。演技がヒドい。画面全体から貧しさが漂っている。大人の女になった つみきみほ は魅力的だが、演出はそれを殺す方向に作用している。どゆこっちゃ、まったく。

★ ★
ランナウェイ(ブレット・ラトナー)

「ラッシュアワー」のブレット・ラトナー監督&クリス・タッカー主演コンビの前作。「ラッシュアワー」よりこっちの方が出来がよいなどとタワけたことをヌカす者もいるようだが、そりゃB級映画を見慣れてないだけだ。クリス・タッカーは、全盛期のエディ・マーフィーと比べたら月とスッポン。やかましくて不快なだけじゃないか、こいつは。

★ ★
残侠(関本郁夫)

仁侠映画の本家本元のプロデューサーが25年ぶりに製作した“本格的な”仁侠映画。ただし当時の役者が払底してしまっているため、所作も台詞まわしもガタガタでまったく画面に説得力がなく、安物のVシネマにしか見えない。黒澤明や木下恵介の映画は才能ある監督&脚本家が出現すればこれからも作れるが、高倉健や勝新太郎や石原裕次郎の映画は(日本では)2度と作ることができないのである。

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ユー・ガット・メール(ノーラ・エフロン)

肩の力を抜いて気楽に楽しめるB級ロマンチック・コメディ。メグ・ライアンもトム・ハンクスも、ここではかなりベタなコメディ演技をみせてくれる。普通に考えれば、いがみ合ってる実生活と“見ず知らず”のEメール恋愛のバレたときがクライマックスだと思うが、この映画ではそこを意外とアッサリ処理している。もっとも大仰じゃないところが、かえっていまのOLには受けないのか興行的には苦戦の様子だが・・・

★ ★ ★
必殺! 三味線屋勇次(石原興)

テレビとどう違うのかといわれると返答にこまるが、娯楽時代劇としてはまあ水準の出来。カメラマンが監督してるだけあって女優をキレイに撮る。天海祐希を初めて良いと思った。脚本は御大・野上龍男だが、クールなプロフェッショナルであるはずの勇次を情にながされる男として描いてしまっている。これは致命的な欠陥だろう。

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レ・ミゼラブル(ビレ・アウグスト)

キリスト教的な愛なるものの最良の部分を映像化した前半はすばらしい出来。ビレ・アウグストの本領発揮。リーアム・ニーソンはジェラール・ドパルデューのよう。ところが後半でクレア・デーンズのバカ娘(としか見えん)がすべてをブチ壊しにしてしまう。相殺して★は三つ。

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鮫肌男と桃尻女(石井克人)

この監督はみずから「実写版のモンキー・パンチのつもりで作った」と公言し、タランティーノやコーエン兄弟、デビッド・リンチへの傾倒を語っている。見た目はたしかにそうかもしらんが、精神はクールでもシックでもない、ただポップなだけの映画だった。いや、病んでないからダメとは言わんよ。それはそれで結構おもしろく観たし。 ● 話としては「アキラ」とかに行く前の大友克洋か。逃亡サスペンスではなく、あくまで いい歳した大人たちの鬼ごっこに終始する。ストーリーよりも個々のキャラクターの奇抜さを見せるのが主眼で、そりゃ浅野忠信・岸部一徳・鶴見辰吾クラスなら成立するが、若人あきらにそれを求めちゃいかんだろ。

★ ★
ワイルド・シングス(ジョン・マクノートン)

まさにドンデン返しに次ぐドンデン返しの連続で、これでは本来の効果がまったくない。全篇に流れるHな雰囲気はなかなかよろしいが、ケビン・ベーコンの陰茎をおがませてもらってもなあ…。

★ ★
ブラック・マスク 黒侠(ダニエル・リー)

武侠片以外では違和感の出るリー・リンチェイをどう現代アクションで活かすか? 「グリーン・ホーネット」を持って来たのは企画としては正解だと思うが、いかんせん演出&脚本が雑すぎる。香港映画の悪い面が出てしまった。ジャッキー・チェンの「レッド・ブロンクス」でデビューしたフランソワーズ・イップのヒロインは一見の価値あり。

★ ★ ★ ★ ★
メリーに首ったけ(ボビー・ファレリー&ピーター・ファレリー)

監督が「Mr.ダマー」や「キングピン/ストライクへの道」のファレリー兄弟だから当然のように徹底的に下品でおバカなんだが、それでいてちゃんとラブコメとして成立してるところがすばらしい。要領のわるいモテない男(>おれ)は泣かずにはおれんでしょうな。キャメロン・ディアズはメグ・ライアンになるね、確実に。

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ヴァンパイア 最期の聖戦(ジョン・カーペンター)

まるで「ニューヨーク1997」の頃のようなタイトなSFアクションの傑作。ジョン・カーペンター、なんでこんなに演出が若々しいんだ!? ヴァンパイアものというよりサム・ペキンパーの西部劇。監督本人による(いつもながらの)BGMもハマってるし、ラストまでハイ・テンションで突っ走るジェームズ・ウッズがすばらしい。

★ ★ ★
ボクらはいつも恋してる! 金枝玉葉2(ピーター・チャン)

前作の成功に100%オンブに抱っこした、たいして出来が良いわけでもない続篇だが、映画の人柄(?)が良いのでなんとなく憎めない。まあ柳の下のどじょうも、1匹ぐらいはいいか、という気になる。アニタ・ムイの男装の麗人役はあきらかにプリジット・リンがやるべき役。陳小春クンと珍妙なカップルを演じるテレサ・リー(全篇水着!)が可愛い。

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ノストラダムス(ロジャー・クリスチャン)

東宝東和配給で「ノストラダムス」とくればどうしたってゲテものを想像するが、意外にもちゃんとした伝記ものだった。キャストも豪華。ノストラダムスが未来を幻視してしまうところはちょっとゾクッとくる。でもまあ全般としては、つまらない映画である。

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キラーコンドーム(マルティン・ヴァルツ)

NYインディーズ派のC級映画だと思って観に行ったら、C級はC級でも、なんとドイツ映画だった。申し訳程度のNYロケがあるが、95%はドイツで撮影されたとおぼしき、全篇ドイツ語の映画である。しかもタイトル通りのクダらん話なのに、なぜかシミジミとか恋する切なさとかをギャグとしてではなくマジで扱ってるフシがある。特撮とも呼べないようなクリーチャーの活躍するパートと、主人公のシチリア人刑事の恋愛話がまったく噛み合っていない不思議な映画。まるで、“幻の大鼬(オオイタチ)発見!”というのぼりが立ってる見せ物小屋に、どうせデッカイ板に血が付いてるやつが置いてあるだけだろうと思って入ったら、本物の鼬の剥製が飾ってあって、なぜか騙された気がする、そんな感じか>どんな感じや。

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完全なる飼育(和田勉)

冴えない中年男に拉致監禁された女子高生。しかし、やがて2人は愛し合うようになる。・・・ありえない話である。だがこの手の話は日活ロマンポルノや、ピンク映画にいくらもあった。先人たちは男の妄想でしかないような話に、どうリアリティを持たせるかに智恵をしぼってきた。では、この映画の脚本家である大ベテラン、新藤兼人はいかにしてこのハードルをクリアしたか? 驚くなかれ、このボケ老人のとった手法はハードルを無視するというものであった。加害者の男と被害者の女が心を通じあわせるまでの“きっかけ”も“過程”もいっさい描かず、ただ“一つ部屋にいたのでいつのまにか仲良くなりました”とやるのである。おいおい、監禁されてんだぞ! 手錠してんだぞ! こんなもんで映画ができるんなら脚本家はいらない(ま、実際そういう映画が多いが) ● 和田勉の演出は意外なことに「ハリマオ」のときほどヒドさが目立たないが、いかんせん演出(リアクションの付け方とか)が20年ふるい。というか、拉致監禁の舞台となる、あんな木造アパートは今どきないだろうし、邪魔なだけのアパートの住人たちの点描も含めて、まるで1970年代の映画のようである。 ● 犯人役に竹中直人のような見るからに性格異常な役者はミスキャスト。役所広司とか大杉漣のような、一見地味で普通の男がやるからこそ活きるのだ(漣さんは実際こういう役をピンク映画でやってた気もする) ● 小島聖は実年齢22才ぐらいだと思うが、18才の女子高生に見えないのがイタい。けれども巨乳だし、前半ジラしたぶん後半バンバン脱ぎまくるので、そういう意味では(ハダカ見たさに)最後まで飽きずに観てられる。彼女のヌードだけが目当てならば ★ ★ ★ の商品価値は十分あるだろう。

★ ★ ★ ★
流星リュウセイ(山仲浩充)

いつも素人まがいの役者が出てくる映画ばかり観せられていると、緒形拳のような“映画俳優”が画面に登場しただけでホッとしてしまう。なんともヒドいことになったものである。 ● 金も身寄りもないしみったれの年寄り、いつも外れ馬券ばかりつかまされる負け犬のチンピラ、そして、整形手術の金ほしさに援助交際をはじめたアサハカな中学生。そんな3人がひょんなことからG1を狙う地方競馬のエース馬を“拾って”しまい、馬主に身代金を請求するが、予想外の事態が次々おこって取引場所にたどり着けず3人はサラブレットを連れたまま山形の雄大な自然の中をうろうろするはめに…。 ● 緒形拳ということで「大誘拐」を連想するが、今度は緒形拳が北林谷栄の役どころ。この映画にも本当の悪人は一人も登場しないし、だからそういう意味ではファンタジーである。馬への、年寄りへの、コドモへの、はみ出し者への、熱い想いがいっぱいつまったファンタジーだ。監督は「どついたるねん」の助監督出身だそうで、なるほど阪本順治と相通じる資質があるかも。緒形拳にはそれだけで映画を成立させる力がある。チンピラ役の江口洋介は健闘してると思う。そして中学生役の清水真実(「がんばっていきまっしょい」のヒメ!)のカワイサときたら…^^)

★ ★
ドッグス(長崎俊一)[ビデオ上映]

長崎俊一はどこに行きたいのだろう? いったい何をしたいのだろう? 初期16ミリをほうふつとさせる(というかそのまんま)のビデオ撮影による新作。

★ ★ ★
ラッシュアワー(ブレット・ラトナー)

とてもバランスのよい娯楽アクション・コメディ。ジャッキー映画としてはスペクタクルに欠けるが、この場合はこれで良いのだ。ビリングのトップに“クリス・タッカー”ではなく“ジャッキー・チェン”と出たときは泣きそうになった。音楽も「燃えよドラゴン」のラロ・シフリンだし、ハリウッドの作り手たちのジャッキーに対する敬意が伝わってうれしかった。

★ ★ ★ ★
ビッグ・ヒット(カーク・ウォン)

香港ではリアルなハード・アクション専門だったカーク・ウォンがハリウッドに渡ったら、あらら別人のような吹っ切れかたで、オフ・ビート・アクションの傑作をつくった。もちろん冒頭のワイヤー・アクションなどはハリウッド映画にはないセンス。タランティーノ脚本かいなと思うほどオタク風味満載のディテイル勝負。主人公が人に嫌われることを極度に恐れているヒットマンという設定からして人を喰ってる。誘拐犯のヒットマンと、拉致されたヒロインが、料理の生地をこねながら恋愛感情が昂ぶって、それにあわせて甘いミュージックが高鳴るところなど、腹をかかえた。

★ ★
ニンゲン合格(黒沢清)

黒沢清の映画はだれにも似ていない。劇的なストーリーを“なにも起こっていない”ように描く独特の無愛想な演出。それが「CURE」や「復讐/運命の訪問者」のようにハマれば傑作になるが、ハズした場合は退屈な時間がえんえんとつづく堪えがたい映画になってしまう。

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リング2(中田秀夫)

前半はまともな怪談映画だが、後半になるにしたがって脚本が暴走をはじめ、ついには「丹波哲郎の大霊界」のようなトンデモ映画になってしまう。だがそれでもコワいという点にかんしては、最後まで徹底してコワいというところがエラい。「死国」と比べたら音楽の使いかたはこっちのほうが100倍うまい。

★ ★ ★
死国(長崎俊一)

幽霊(というか死者)の恋をテーマにした怪談映画。ヒロインである死者の、[前半で不気味に出現する幽霊としての正体不明のコワさ]と[後半の好きだった男への想いを断ち切れない生身(じゃないが)の女としての哀しさ]がうまくつながらず映画が分断されてしまっている。撮影班&美術班はがんばってはいるが、ラストの沼がセットだとバレバレなので興ざめ。あと恐怖映画のだいじな要素である音楽の使いかたが決定的に下手。

★ ★ ★
ワン・ナイト・スタンド(マイク・フィッギス)

行きずりの女と一夜を共にして、その女が忘れられなくなって、女房も子供も捨ててその女とくっついちまう・・・男の身勝手なファンタジーである。思えばマイク・フィッギスの前作、アルコールに溺れ、天使のような娼婦に看取られて死んでいくという「リービング・ラスベガス」も男の究極のファンタジーであった。そういう、ご都合主義の妄想に酔えるかどうかで賛否が極端に別れる映画である。おれは「リービング・ラスベガス」には、その年のベストワンに選ぶほど気持ちよく酔ったが、この「ワン・ナイト・スタンド」には醒めてしまった。ストレートに男と女の話に絞りゃあいいものを、エイズで死んでいく男の親友(ロバート・ダウニーJr.)なんぞを出して、気の効いたセリフのひとつも喋らせたりするもんだから、なんか人生とか愛とかいう言葉がチラつくシリアスな映画かと勘違いをしてしまうのだ。これ、そんな大層な話じゃないよ。一発ヤッたら躯の相性がピッタリで、ああセックスってこんなに良かったのかと気づく男と女の話だ(…多分) ロマンポルノなら艶笑コメディになるところ。 ● ナスターシャ・キンスキーは相変わらず魅力的。この人、もっとメジャーな映画に起用されてしかるべきだと思うんだけど、なんかヌードOKの便利女優的な使われ方をしてるみたいで口惜しいぞ、おれは。

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新宿やくざ狂犬伝 一匹灯(和泉聖治)

那須博之が「あきらめない人」ならば、和泉聖治は「あきらめてしまった人」である。自らムービー・ブラザースという製作会社を主宰して、哀川翔や的場浩司 主演の実録ヤクザ映画を製作、都内単館でちょろっと封切ってはビデオでコストを回収するシステムを確立してしまった。おそらくは、そのシステムを回転させていくために定期的に新作を撮ることが必須なのだろう。ある時点で和泉聖治は映画作家ではなく経営者として生きることを選択した。そして、ビデオ・マーケットが求める“ジャンル”の映画であればOKと割りきって、何人もの“那須博之”が新作が撮れず苦しむ横で「こんなもんで良かんべ」とばかりに生ぬるい映画を垂れ流している。もちろん、それもまた1つの生き方だろう。腐った生き方だが。 ● 本作も例によっての的場浩司 主演による現代ヤクザもの。何ひとつ新しいところのないルーティン・ワーク。すべてが過去の作品の焼き直し。和泉聖治の気のない演出も相変わらず。画面のピントまで甘いように見える。せめてヒロイン(佐藤友紀)ぐらい脱がすのが、客への礼儀ってもんじゃないのか? ● タイトルは「いっぴきとう」と読むらしいが、劇中には由来の説明なし。

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おもちゃ(深作欣二)

藤純子(とあえて表記するが)が娯楽映画できたえた演技の凄みを十二分に魅せつける。そう、これは彼女の25年ぶりの東映“復帰”主演作品なのである。宝塚OGのヒロインをはじめ他の女優はすっかりかすんでしまっている。新藤兼人の旧作だけあって、さすがに構成のしっかりした脚本なのだが藤純子にヒロインが真情を吐露するシーンが感情的なクライマックスになってしまい、その後につづく水揚げのシークエンスが付け足しにしか見えない。それにどうみたってここはソフトフォーカス掛けすぎだし。何を考えているのか>木村大作。

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アイ ウォント ユー(マイケル・ウィンターボトム)

カタカナ・タイトルに中黒を使用せず(↑)スペースで繋ぐ表記法をする映画がときどきあるが、なんか鼻持ちならない感じがして嫌いだね、おれは。 ● 舞台はイギリスのさびれた港町。訳ありの女のもとへ9年ぶりに訳ありの男が帰ってくる。そしてもう1人、14才の盗聴少年。「現在時制で焼けぼっくいに火がつくさまを描きつつ、女が14才の時に起こった忌まわしい事件が徐々に明らかになる」という構成で、本来ならばフィルム・ノワールとして撮られるべき物語。だが、この〈忌まわしい事件〉ってやつがぜんぜん大した事ないので〈呪われたファム・ファタル〉たるべきレイチェル・ワイズのヒロインに、男をとり殺すほどの魅力/凄みが与えられないのだ。それにこの構成ならば、当然、ヒロインに憧れる少年が過去の悲劇をなぞって幕を閉じるべきだろう。 ● レイチェル・ワイズの濡れ場&ヘアヌードあり。

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のど自慢(井筒和幸)

よくできたプログラムピクチャー。世評ほどの“大傑作”とかではない。大友康平があきらかにミスキャストで、この人のパートになると映画が沈滞する。この映画が人を感動させるとしたら、その原因の多くは使われている歌の力そのものにある。脚本や演出が巧いのではなく「上を向いて歩こう」という“歌”にジ〜ンとしているのだ。

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ファイヤーワークス(マイケル・オブロウィッツ)

ジム・トンプソン原作によるフィルム・ノワールもの。ダマしたはずの男がもてあそばれて、か弱く見えた女がしたたかだったといういつものお話。とりたてて傑出した才能はここにはないが、この手のモノが好きならば楽しめるはず。ジーナ・ガーション&シェリル・リーのダブル・ヒロインがすばらしい出来。自分で製作費まで出した主演のビリー・ゼーンはちょっと気張りすぎ。

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ロンゲストナイト 暗花(パトリック・ヤウ)

ながらくマカオの裏社会の覇権を争ってきた2大組織が、ついに歴史的な和解をするという、その日を前にして何者かが組長の首に賞金をかけたという噂が流れる。街にただよう不穏な気配。黒社会子飼いの悪徳刑事は、街の不審なチンピラ狩りに精を出している、そんな時・・・異様に太い眉毛をした謎の男がマカオの港に降り立った…。 ● もちろん悪徳刑事がトニー・レオンで眉毛がラウ・チンワン。よくある“2大スター競演のスタイリッシュな香港ノワール”だと思って観にいったら、なんとハメットであった(!) 先の予測がつかない導入部が、二転三転する展開をみせて、あっと驚くラストに繋がるハードボイルド・ミステリーの傑作。目をそむけるようなバイオレンス描写も随所に見られる。もちろん香港映画だからゲロも吐く。必見。

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