体珠 第弐拾壱話 |
行きにあれだけ時間のかかった山道をあっという間に下りてきた独田は、駅への道を煙草をくゆらせながらゆっくりと歩いていた。 自分はこれから何をすればいいのか。ただそれだけを考えながら。 夕闇に赤く染まる駅のホームに人影はほとんどない。 フィルターだけになっていた煙草をホームの吸殻入れに捨てると、左手に握られているトランシーバーのようなものに目を向ける。 そして、さっき喫茶店で向こうの世界の自分に向けて言った言葉を思い出す。 やがてホームに滑り込んできた電車に乗り込むため、ゆっくりとベンチから立ち上がった独田は、明日の予定を決めてから、電車に乗り込んだ。 昨日の晴れ渡った空から一転、今日は冷たい雨が町を濡らしていた。 黒い傘を右手に持った独田は、その大きな門構えをしばらく見つめていた。 その横には大きく「余脇大学」と書かれたプレートがはめこんである。 今日は土曜日ということもあって、学生の姿もまばらだ。 独田は軽く深呼吸をしてから、その敷地に足を踏み入れた。 大学のキャンパスに足を踏み入れるのも久しぶりだ。もう少し賑わいがあれば、忘れていた学生時代の思い出も思い出せたかもしれない。あと、この大学を訪れた理由もなければ。 昨日鷹居山から戻ってきた独田は、その足で自宅から2駅離れたところにある大型書店へと向い、雲富教授に関することを調べた。 余脇大学教授の雲富史継は今年55歳。体珠研究の第一人者であり、最近は体珠が人間の精神に与える影響を中心に研究を進めている。また、その研究結果の一つで4年前にノーベル生理学賞を受賞している。その温厚な人柄から人気も高く、テレビ出演や講演などで大忙しの日々を送っていたが、最近はメディアへの露出を控えて、新たな研究に没頭しているらしい。 普段からニュースとあまり接していない独田は、雲富教授がノーベル賞受賞者だということを知って正直驚いていた。そして、そんな大それた人が自分の話を信じてもらえるのか、それ以前に聞いてもらえるのか不安になった。しかし、緊張しながらかけた電話に出た雲富教授は、喜んで時間を取ると話してくれた。その温和な声に緊張も多少和らいだのだが、こうして改めてその場に向かっていることを思うと再び緊張感がよみがえってくる。 目当ての研究室は程なくして見つかった。人影のほとんどない建物内には静寂だけがたたずみ、中には教授がいるはずの研究室からも人の気配は感じられなかった。 「失礼します」 独田は研究室のドアをゆっくりと開ける。自分ではそこそこの声を出したつもりだったが、実際に喉の奥からは出た言葉は声になっていなかった。 何台ものパソコンが並べられた室内に人影はない。ゆっくりと室内に踏み入れると床のきしむ音が静かに響く。 「すいません……」 今度は自分の耳にも聞こえる程度の声が出せた。しかし、返事はない。結構な広さのある室内を見回すと、奥に別のドアが見えた。ドアについた擦りガラスには、わずかだが電灯がもれているようだ。 独田はなぜか忍び足でそのドアへと向かう。ドアの前に立つと、擦りガラスから中を覗き込むように目線を動かす。その瞬間、思い切りよくドアが手前に開かれ、目標をなくした目線は、頭もろとも室内へと転がり込んだ。 「何をこそこそしているのかな?」 ドアを開けた男は床に座り込んだ格好になった独田を見下ろしながら言う。その口調は穏やかであったが、一本筋の通った凄みも感じられた。 「あ、あ、あの、き、昨日、電話した、ど、独田ですが……」 男を見上げた格好のまま、独田は冷や汗を背中に感じながら、しどろもどろで自己紹介をする。その言葉に、男の顔には笑顔が浮かんだ。 「君がそうか。いや、待っていたよ。アポを取っているんだから、もっと堂々と来て貰わなきゃ。悪者だと疑われても、文句は言えないよ」 「あ、はぁ。スイマセン」 「ともかく、そんなところにいつまでも座りこんでないで」 独田は差し伸べられた手を握り、ゆっくりと立ち上がる。 「しかし久しぶりだよ。君のような人に会うのも」 一通り独田の話を聞いた雲富は紙コップのコーヒーを飲みながら答える。つまり、雲富は以前にも同じことを経験した人間に出会ったことがあるということだ。これは独田にとって衝撃的なことであった。 「いやね、私が体珠と人間の精神の研究を始めたきっかけも、君みたいな人に出会ったことからだったんだよ。そして、研究の結果分かったんだが、体珠には次元を超えて持ち主の思念を送る力があるんだ。このことはご存知かな?」 独田は大きく首を振る。体珠にそんな力があるなんて想いもよらなかったことだ。ここで、独田はあることに気づき、急いで持ってきた鞄の中身を探る。そして、鞄から取り出したもの、それはあのトランシーバーのような物体であった。 「何かな、それは」 雲富は独田の手に握られた物体に興味を持ったようだ。独田が事情を説明すると、雲富はそれを貸してくれるよう頼んできた。雲富は大事そうにその物体を受け取ると、部屋の奥に鎮座する大きな机のほうへと歩き出した。机の上には大量の本や書類が積み上げられ、机の裏に回った雲富は簡単にその山に隠れてしまった。 再び独田の前に現れた雲富の手には物体と共に1本のプラスドライバーが握られていた。 「ちょっと分解させてもらうよ」 雲富は独田の回答を待たずに、物体の四隅についている螺子を外し始めた。 独田はそのすばやい行動に、なぜ自分は分解しようと考えなかったのか疑問に思った。普通に考えれば原理を知りたくなるものであるはずなのに、この物体に関してはなぜかそういう気分にならなかったからだ。しかし、その疑問の答えが出る前に、物体の正体は判明した。 「やっぱりそうか」 雲富は既にこの物体の正体に気づいていたようだ。独田は差し出された物体の中身をおそるおそる覗き込んだ。中にはたったの2つのものしか入っていなかった。1つは大きな鉛の塊。そしてもう1つは蛍光灯の光に反射する体珠であった。 「原理は至って簡単なんだ。先ほども言ったことだけど、体珠には次元を超えて、自分の思念を相手に送る力がある。受け取ることができるのはほとんどの場合、異次元に住む自分自身であるようだ。まあ、こればっかりはサンプルが少ないから、はっきりとしたことは言えないんだけどね」 「ということは、既に実験済みなんですか」 「まあね。言っただろ? 君みたいな人に会ったことがあるって。その人たちに協力してもらったんだ」 「さっきから言ってる、僕みたいな人って、もしかして次元を超えて心が入れ替わった人たちのことなんですか」 「そういう人もいたし、体ごと入れ替わった人もいたな」 「もしかして、その中に葉貝さんって人はいましたか?」 「葉貝? えーっと、どうだったかなぁ。ちょっと待ってよ、資料調べてみるから」 雲富は大量にあるファイルの中から、迷うことなく1冊の青いファイルを取り出し、パラパラとページをめくっている。どうやら、この教授の頭にはこの膨大な量のファイルの場所がすべて入っているようだ。ノーベル賞を取るほどの人物ともなると、さすが違うなと妙なところで独田は感心していた。 「いや、葉貝という人には会ったことがないねぇ」 これは予想外の答えだった。 「え? 本当ですか?」 「ああ、この資料に抜けは絶対にないから、間違いないね。その葉貝っていう人も君と同じように、心が入れ替わってしまった人なのかい?」 「いえ、葉貝さんは体ごと入れ替わってしまった人です」 「本当かい? いやぁ、それはぜひ会いたいなぁ。いやね、体まで入れ替わってしまった人と会ったことは1回しかなくてね。正直、資料が不足しているんだ。連絡とかつかないかな」 ここで初めて独田は自分が葉貝との連絡方法を知らないことに気づいた。そのことを話すと雲富は残念そうな表情を浮かべたが、「でも、こちらの世界で生活ができるのであれば、余計な心配かもしれないね」と頷きながら言った。まるで自分に言い聞かせるように。 「生活ができる?」 独田は雲富にその一言に気がついた。じゃあ、生活ができなければどうなるというのだろう。 雲富の答えはいたって簡単なものだった。 「元の世界に戻ればいいんだ」 「戻れるんですかぁ!!」 いきなり立ち上がって叫ぶ。 「あ、ああ。戻れるよ」 独田のいきなりの行動に驚いたのか、雲富はちょっと口篭もりながら答える。 「こういった現象が起きる理由はほぼ解明されているんだ。その理由さえ分かれば元の世界に戻すことはたやすいよ。なに、同じ現象をもう一度起こせばいいだけなんだから」 雲富は3杯目のコーヒーを紙コップに注ぎながら解説をしてくれた。 このような現象は本来ならありえないことらしい。それはそうであろう、あまりに非現実的な話だ。しかしそんな非現実的なことを引き起こす引き金こそ、非現実的な存在である体珠であった。体珠は持っている人間の思念を次元を越えて運んでいく。普段であればそれを受け取った人間は単なる自分の思いつきの1つとして片付けていることだろう。しかし、もし受け取った側も同じタイミングで体珠を使って思念を飛ばしていたとしたら? 思念と思念が次元の狭間で衝突したとき、そこに歪が生まれる。そしてその歪が引き起こす力に思念もろとも意識が吸い込まれていくのだという。これが次元を越えて意識が入れ替わってしまうという現象の原因なのだそうだ。これに加えて体まで入れ替わってしまうのは、その時の力が強大であったからであろうと想像されているということだ。 つまり、今回独田が巻き込まれたこの事件の元凶は幼稚園時代に受け取った3個の体珠だったというわけだ。 と、解説を終えた雲富の表情が一瞬曇った。そしてポツリとつぶやいた。 「まずいなぁ……」 その表情を黙って見ていた独田の頭にもある思いが飛び込んできた。しかしそれは雲富のとは違って悪いものではないように感じた。何せ、向こうの世界の自分も雲富教授の仲間になっていたのだから。 曇った表情のまましばらく考えていた雲富は、意を決したかのように独田に向かってこう言った。 「今すぐ、元の世界に戻るんだ」 「なぜ、すぐ戻るなんて言うんですか?まだ僕には…」 「君の言いたいことは分かっている。だからこそ早く元の世界に戻るべきなんだ」 「でも……」 雲富はしばらく無言で独田を見つめていたが、やがてため息にも似た空気を吐き出し、あきらめるかのような口調で言った。 「もういいだろう。今回の黒幕は私なんだ」 衝撃的な告白に偶然か故意か室内は静寂に包まれた。 |