体珠

第拾九話


 フラッシュの嵐。
 そして、暗転。

 エレベーターを降りた俺は見覚えのある廊下を軽い足取りで歩いている。
 数えて3つ目のドアで立ち止まると、軽く2回ノックする。
 中からの返事が聞こえる前に素早くドアを開けると、頭だけ室内に突っ込む。
 8畳ほどのスペースに大きな机が置かれており、そこには見慣れた女性の顔がある。
 俺がいきなり顔を出したため、少々驚いた表情をしていたが、俺の顔を確認するとまるで子供を見るような優しい笑顔になる。
「今日はえらくご機嫌ね」
「まあね」
 廊下に出したままの体を室内へと滑り込ませ、俺はウィンクをして答える。
「いる?」
「いることはいるけど、別のお客様のお相手をしているわ」
「別のお客様?」
「割とここには顔を出す方なんだけどね」
「入っちゃまずいかな?」
「待って、聞いてみるわ」
 受付の女性は電話の受話器をあげると、静かに丁寧な口調で話をし始める。
 こういう姿を見るとさすがに秘書なんだなと改めて感じる。
 彼女が電話をしている間、俺は軽く部屋を見回す。
 部屋のほぼ中央に小さな応接セットが置かれているが、俺はそこに誰かが座っているのを見たことは一度もない。多分、秘書の机1つではあまりに味気ないから置かれているだけなのだろう。
「入ってもいいみたいよ」
「ありがと」
 俺はそれだけ言うと、そのままドアのほうへと向かい、ノックもせずにドアを開けた。といっても、俺がこのドアをノックしたことは一度もない。
「こんちは」
 少しだけ開けたドアの隙間から顔だけのぞかせる。
 真正面にある大きな机、その後ろにはさらに大きな窓があり、その窓際に痣向は立っていた。背中でやや隠れていたが、右手にはコーヒーカップを持っているようだ。
 部屋の向かって左奥には、黒い革張りのソファーがいくつか置かれており、そこに見知らぬ男の顔があった。俺は男と目線が合わないようにチラチラと様子をうかがう。
「かなりご機嫌なようですね」
 痣向はゆっくりとこっちを振り向くと、唇の片方だけを吊り上げる。俺はいちいち演技臭い痣向の態度が好きになれなかったが、最近は昔ほど腹が立たなくなっていた。人というものはこんな些細なものでも慣れてしまえるものだ。まあ、俺がこちらの世界の生活に慣れるよりは、かなり楽だったのも事実だが。
「当たり前じゃないか。先生はオリンピックを見てないのか?」
 一応、俺は痣向のことを先生と呼んでいる。しかし、ただ回りの連中がそう言っているから合わせているだけであって、俺自身が痣向のことを先生だと思っているわけではない。まあ、俺に裕福な生活を与えてくれるという意味では、大先生と呼んでもいいぐらいの相手なのだろうが。
「新聞では拝見してますよ。さすがにテレビまでは無理ですが」
「そりゃ、もったいない話だよ。ここまで日本人選手が活躍しているオリンピックなんてないぜ。まあ、仕事で忙しいんだろうけど、たまにはそういう感動的な場面を見て、休むのも大事だと思うけどね」
 ソファに座っている男は、俺たちの話に興味がないのか、黙ってコーヒーを飲んでいる。サングラスをかけていたので顔色はうかがえないが、何となく日本人ではないようだ。中国人か、それとも……。
「ところで、いつまでそんな状態でいるつもりですか?私はともかく、真田君はいい気分ではないと思いますよ」
 確かに言われてみればそうだ。痣向には顔を見せていても、真田さんには、ようはさっきの秘書のことだが、尻を突き出した状態でいるのだから。
 そんな俺の心を読んだのか、背中からクスクスと小さな声が聞こえた。
 俺は恥ずかしさを極力表に出さないように注意しながら、外に出たままの体を部屋の中へと滑り込ませる。
 サングラスの男は相変わらずこちらを向くことすらしない。
「そうそう、ちょうど葉貝君に紹介したい人がいらっしゃるんですよ。本当ならこちらから連絡するつもりだったのですが、ちょうどよかった」
 痣向は確かナルシストではなかったと思ったが、今のは明らかに自分の台詞に酔っている。まるでここが帝国劇場か何かの大舞台だとでも思っているのだろうか。
「あの人?」
 俺はソファの男を顎で指しながら聞く。誰が見ても、俺の顔には疑念の表情が浮かんでいただろう。
 痣向はゆっくりとうなずくと、ソファのほうへと歩き始めた。
 歩きながらも俺を見つめる痣向の瞳からは「あなたも来なさい」という念が飛んでくる。「目は口ほどにものを言う」とはよく言ったものだ。
 一方、俺に顎で差された張本人は、俺たちの言葉がわからないのか、相変わらず静かにコーヒーを味わっていた。

「で、この人は誰なの?」
 真田さんが運んできたコーヒーをふうふうと冷ましながら、俺は尋ねる。
 痣向は煙草に火をつけ、一度大きく煙を吐き出してから話をはじめた。
「この人は陳さんといって、私の大切なビジネスパートナーです」
 陳と紹介された男は日本語が分かるのか、わずかにだが頭を下げた。しかし、もしかしたら居眠りをしているだけなのかもしれない。
「そこで相談なのですが、この陳さんに体珠をいくらか都合してはいただけないでしょうか?」
「え?この人に?」
 陳に動きは依然ない。
「今まで日本国内だけで体珠を売り出していましたけれど、これだけのものですから海外からの申し込みもものすごいのです。しかし、私は海外へと送り出す流通経路を持っていないので、陳さんの力を借りることになったんです。しかも、陳さんはその際に3倍もの値段をつけてくださると約束してくれました。いい話でしょう?」
「別に構わないけど、そんなにたくさんの量は残ってないぜ」
 俺の言葉に痣向の片方の眉がかすかに上がる。
「そうなのですか」
「まあな」
 俺の言っていることは、もったいぶった気持ちもある分、多少誇張してはいたが、底が見え始めていたのは事実だ。でも、俺が一生遊んで暮らす金を作るのには十分事足りる量でもある。
「50は無理ですか?」
「いや、たくさん残ってないっていうだけだから、それぐらいは問題ない」
 痣向は囁くような声で隣に座る陳へ話し掛ける。何を言っているか、はっきりと聞き取ることは出来ないが、言葉の感じから中国人なのだろう。まあ、名前から薄々感づいてはいたが。
 やがて陳は、ほんの少しだけうなづいた。
「では、とりあえず50だけ準備してもらえませんか」
「ああ、分かったよ」
 俺はそれだけ答えると、用事があると適当な理由をつけ部屋を出た。
 真田さんは電話をしていたので、手を軽く振って廊下へと出た。
 エレベーターへと向かう足取りは、あの陳という男の出す不気味な影にまとわりつかれたかのように重かった。

 暗転。

「体珠を作ることになったってどういうことだよ!」
 俺は教授の胸座を両手で思いっきりつかんで叫ぶ。
 教授は抵抗をするでもなく、ただ悲しそうな光を瞳にたたえて俺を見つめている。
「くそっ!」
 俺は乱暴に教授から手を離すと、近くに置いてあった机を蹴飛ばした。
 あの陳とかいう男の差し金に違いない。
 あの男に出会ってから、明らかに痣向の様子が変わった。
 今まで要求したことのない量の体珠を欲しがったり……前以上に金の亡者になったようだ。
 教授の力を持ってすれば、体珠を作ることは可能かもしれない。
 もし、そうなってしまったら……

 暗転。

 恐れていたことがついに起こってしまった。
 体珠がついに底をついてしまったのだ。
 幸いにも教授の研究は完成していないようだが、体珠の謎を知っている俺は奴らにとって邪魔者でしかない。
 俺は今までに手に入れた金を使って世界中へ逃げた。
 しかし、奴はありとあらゆる手段を使って俺の居場所を突き止めてきた。
 逃げ場を完全に失った俺は日本へと戻っていた。
 もう俺もここまでだ。
 しかし、このまま犬死するつもりはない。
 俺は追っ手を振り切って、鷹井山へと登ると、そこにいた一人の子供にポケットに残っていた最後の体珠を託すことにした。
 これが何の役に立つのかは分からない。
 しかし、教授ならきっと何かしてくれるに違いない。
 クソッ。
 ついにここまで追っ手が来たか。
 畜生!こんな目に会うんだったら……

 激しい光の渦。
 そして……暗転。


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