体珠

第拾八話


 鷹居山の山頂手前にある喫茶室はわずかに聞こえるテレビの音を含めても、静寂な雰囲気で包まれていた。
 葉貝は既にここにはいない。
 葉貝は去りぎわに力強く独田の手を握り「もう1人の僕の無念を晴らしてくれ」とだけ言うと、足早に店を出ていった。彼は仕事を抜け出して来ていたようだ。ではなぜ、独田が今日ここにくることを知っていたのだろうか。まさか、毎日ここに来てたわけでもないだろうし。
 それはともかく。独田はテーブルの上に残されたトランシーバーと新聞紙をじっと見つめながら、コーヒーカップにわずかに残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「すいません、コーヒーをもう一杯」
 カウンターの奥でテレビを見ていた店員は何も言わず、空になったコーヒーカップにそのままポットに入ったコーヒーを注ぎ入れた。
 徐々に黒い液体で満たされていくカップを見つめながら、独田は胸の奥に湧き上がる不快感を感じ始めていた。それは違和感といってもいいだろう。既に御伽噺のような展開で話は進んでいる。しかし、それ以上に感じる疑問。
 店員がテーブルを去った後も、独田はカップを見つめ続けている。
 葉貝の話に不審に思う点はなかった。何より、自分よりも先に御伽噺の世界に迷い込み、十数年過ごしてきたことに    という念を抱かずにはいられない。
 だから、彼にとやかく問うても仕方がないのは分かっていた。だから、彼の「無念を晴らしてくれ」という言葉に何も返すことは出来なかった。そもそも、こっちの世界にやってきた自分の意思ではどうにもできないではないか。事件が起きているのは向こうの世界の話だ。そこが独田の心の中に大きな疑問を抱かせたきっかけだった。
 葉貝の話を聞きながら、独田はその疑問が確実に形となって胸の奥で大きくなっているのを感じていた。
 そうなのだ。事件が起きているのは向こうの世界での話なのだ。こっちでは体珠にまつわる事件など全く起きていない平和な世の中である。
 こっちの自分にできることなど本当に限られている。正直、手元に残されたこのトランシーバーだけでは向こうの世界に行ったもう1人の自分の意識を手助けできるかどうかも疑わしい。
 しかし、それよりも大きな疑問は、なぜ自分の意識がこっちの世界の自分と入れ返られたのかということだ。よく考えてみれば、向こうの世界で葉貝に体珠を手渡されたのはこの自分だ。ならば、葉貝の思いを伝えられたのも自分ということではないか。それなのに、自分は何もできない場所にいる。普通ならそのことに対して歯がゆさというか、悔しさのようなものを感じるのかもしれない。しかし、自分の心にあるのは明らかな不快感だ。
 なぜか?
 それは、今まで考えもしなかったこと。
 しかし、今の自分にその考えが正しいかどうか答えを出すことはできない。
 ただ、向こうの世界からの連絡を待つだけ。
 今ごろ、向こうに行った自分は雲富とかいう男から色々なことを聞いているのだろうか。
 独田はカップに満たされたコーヒーに手をつけず、ゆっくりと席から立ち上がると、テーブルの上にコーヒー代を残し、店から出て行く。
 外に出ると、太陽は既に西の方角へと傾いていた。
 ここに来る当初は、山頂まで行こうと考えていたが、今はそんな気持ちにはなれなかった。
 かと言って、自分の足で下山する気もなかった。
 山を下るケーブルカーが到着するまでは少し時間があった。
 独田は近くにあったベンチに腰掛けると両手で顔を覆った。
 そんなことをしている内に、独田の中ではさっきまで考えていたことが確信に近づいていく。
 間違いない。
 自分は意図的に向こうの世界から離れさせられたのだ。
 でも、一体なぜ?
 しかし、当然答えはやってこない。
 やってくるのは独田を乗せるためのケーブルカーだけだった。


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