体珠 第拾七話 |
部屋は雲富のものらしく、大きな机と壁に並ぶ巨大な本棚が印象的であった。机の上には大量の書類が積み上げられているが、さほど煩雑さは感じられない。本棚に並ぶ書物の量も尋常ではないのだが、一目見ただけでそれがジャンル別に綺麗に整頓されているのがわかる。 「えっと、コーヒーでいいかな」 「あ、はい」 キョロキョロと室内を見まわす独田を笑顔で見つめながら雲富は机の上においてあったコーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ。 「ここにはコーヒーカップなんていうしゃれたものはないから、紙コップで失礼」 「いえ、どうも」 と、独田は立ったまま差し出された紙コップを受け取る。 「立ったまま飲むのかい?」 笑いながら言う雲富の声に慌てて独田はすぐそばにあるソファへと腰掛ける。そして、コーヒーを一口運ぶが、あまりの熱さにカップを落としそうになった。 「アチッ!」 「ハハハ、何を慌ててるのかね。それにしても、15年か。長いようで短かった。まあ、それなりに私にとってはキツイ15年だったがな」 雲富はちょっとくぐもった笑い声をあげた後、軽い咳払いをして、少し緩んだ表情を引き締めた。 「しかし、私にも君にも実はあまり時間がない。本当ならこうやって思い出話を色々としたいところなのだが、そうもいかない。君にはこれから色々と私の手伝いをしてもらわねばならない。早速で恐縮だが、まずは」 「ちょ、ちょっと待ってください!」 独田は次々と話を進めようとする雲富の話を慌ててさえぎると、ずっと手に持っていたコーヒーの入った紙コップをテーブルへと置き、雲富に負けないぐらいの早口で捲くし立てた。 「確かに僕はここへきて雲富教授に会えと向こうの世界の僕に言われましたけど、何が一体どうなっているのかも、僕がなぜこの世界にいるのかも、だいたい何で僕の頭に向こうの僕の声が響いたのかも、全く何もわからないんですよ!」 独田にさえぎられた言葉を発する格好のまま口をあけた雲富は独田の言葉を聞いて口と共に目まで大きく開く。 「何だって!何も知らないのかね?」 雲富は腕を組みながら「むぅ」と唸ると、鼻から大きく息を出す。 「まあ、時間がないのは今に始まったことではない。ともかく、今回の事件をきちんと説明するか」 雲富は紙コップの中のコーヒーを一気に飲み干すと、コーヒーメーカーへと歩き、2杯目を注ぎながらゆっくりと話しはじめた。 「そもそもの事件の始まりは葉貝君が単なる事件のような偶然か、はたまた神のいたずらによる必然かは分からないが、こっちとあっち、つまり体珠のある世界とない世界の次元の歪を越えてしまったことだ。まあ、それだけならば街の小さな事件の一つとして闇に消え去っていたことだろう。だいたい、そんな話を信じてくれるようなところはないからな。しかし、それだけで済まなかったのは、葉貝君が体珠というこっちの世界には存在しない特殊な物体も一緒にこっちの世界へと持ってきたからだ。そして、もう一つ。今回の悪の根源とも言える痣向と出会ってしまったことも発端の一つといえるだろう。ここまでの話はわかるかね?」 「ええ、何となく。その葉貝さん、ですか?その人が体珠をこの世界に持ちこんだ人なんですね」 「そうだ。話を続けるぞ。当時、私はこの大学の教授になったばかりだった。その私と葉貝君を会わせるきっかけを作ったのも痣向だった。恥ずかしい話なのだが、痣向と私は学生時代の同級生でな、卒業後は私は教授に、痣向は弁護士になり、何かあるとお互いに色々と相談する仲だったんだ。まあ、親友と呼んでもよかっただろう。奴の悪事に気づくまではな」 立ったまま話を続けていた雲富はそこで一旦言葉を止めると静かに椅子に腰掛けた。 「だから最初、奴が私の元へ体珠を持ってきたときは実に面白いものを持ってきてくれたという感謝の気持ちが強かった。それほど体珠という物体は興味をひかれるものだったんだ。しかし、全く未知の物体の正体を探り出すことは想像以上に難しいものだった。しかし、私はある偶然からそんな体珠にすごい力があることを知ってしまった。それは私の趣向というか癖のようなものがきっかけだ」 雲富は一息入れるようにゆっくりと紙コップの中のコーヒーをすする。 「このように私は本当にこのコーヒーという飲み物が大好きなんだ。私がコーヒーを手放すのは、風呂に入るときと、トイレに行くときと、寝るときぐらいだ。大袈裟に聞こえるだろうが、本当に好きなんだよ。だからその日も色々な実験を重ねて体珠の正体を探っていた私は、いつものようにテーブルに置いていた紙コップを手に取りコーヒーを飲んでいた。それこそ、後で分かったことだが、この紙コップに何かの拍子で体珠が入っていたようなんだ。かなり小さいやつだったんだろう。私は全く気づかずに飲み干してしまった。じゃあ、なぜ体珠が入っていたことに気づくことが出来たかということだ。それから2、3日が経って突然、頭の中に様々な思いというか、何と言えばいいかな、要するに他人の思考が頭に飛び込んできたような感じといえば伝わるかな。まあ、こればかりは実際に飲んでもらった方が早いんだが、ともかく頭の中に今まで考えたこともないようなアイディアが次々と浮かんでいったんだ。突然冴え始めた頭脳に最初こそ戸惑いを覚えたが、そんなのはほんの数分のことだった。後は次々と湧き上がるアイディアに興奮したよ。その時に分かったんだよ。この効能は体珠によるものだってね。どうしてそういう結論に至るのかはうまく説明できないが、私はその結論に確信を抱かずにはいられなかった。ともかくそれが分かれば後の研究は早かった。それから数週間後には体珠のほぼ全ての謎が解明でき、痣向に自信満々の表情で成果を伝えたよ。しかし、それが間違いだったんだな。まさか奴があそこまで悪事に手を染めているとは知らなかった。とはいえ、奴の悪い噂を聞いたことがなかったわけじゃないんだ。そういう噂なんかは一緒に過ごした日々の記憶が簡単に吹き飛ばしてしまうものだったんだよ」 雲富は昔を懐かしむように視線を少し上げると、ハンカチをポケットから取り出し額を拭いた。汗を拭いているようだったが、独田には目に光るものが見えた気がした。 「ところで、独田君は痣向にはもう会ったかい?」 「はい。偶然、僕が体珠を持っているのが分かったらしく、チンピラを使って事務所まで連れて行かれました」 「奴らしいやり方だな。じゃあ、既に奴がどこと手を組んでいるかは薄々感づいているだろう。奴はこの日本国内でも有数の暴力団、渥見組の顧問弁護士をしている。どういう流れからそうなったかまでは知らないが、奴の素振りを見る限り、満更でもないのは事実だ。現に独田君を捕まえるのに暴力団の力を借りているわけだし」 「痣向って弁護士は体珠を使って一体、何をしようとしているんですか?」 「殺戮兵士を売るんだよ」 「え?」 「体珠の力で殺人の能力を極限まで高めた人間を作りだし、それを全世界に売るんだよ」 「ど、どういうことですか?」 「まだ分からないかい?実は渥見組は香港マフィアと繋がっている。香港から全世界へと物を動かすのは容易なことだ。痣向はそのルートを使って人間を売りさばこうとしているんだ。そして、奴のことだ、ゆくゆくは裏社会のトップも狙っていることだろう」 「そ、そんな非現実的な……」 「その考えは甘いよ、独田君。確かに今の日本は平和だが、国というものが生まれて数千年、戦争のなかった時代はないんだよ。現に今でも中東や南米など至るところで戦争は起きている。超人的な兵士を欲しがるところはそれこそいくらでもあるということだ。まあしかし、私も最初は葉貝君が教えてくれたこの計画を信じられなかった。やはり友人が悪の道を進んでいるということを信じたくなかったんだ。しかし、葉貝君に押し切られるような形で行った盗聴で真実を知ると、さすがの私も信じないわけにはいかなかったよ」 独田は雲富の話に言葉を失いうつむく。 「いいかい、独田君。私たちはどんなことがあっても、今回の陰謀を防がねばならない。君はそのために選ばれた勇者なんだよ。君がその手でこの陰謀を打ち砕くんだ!」 雲富は右手に握り拳を作り、強い語気で独田に向かって言葉を吐く。当然独田もそれに答えてくれることだろうと思いながら。 しかし、独田の口から飛び出したのは雲富の想像していたのとは全く逆の言葉だった。 「冗談じゃねぇ!なんで俺なんだよ!俺に何が出来るっていうんだ!いきなりそんなふざけた話聞かされて、はいそうですか、なんて簡単に納得できるわけないだろうが!俺はゲームに出てくるようなプログラムされたキャラクターじゃないんだよ!!」 雲富の顔に一瞬、驚きの表情が浮かぶが、どうやらこの独田の言動も予想済みだったらしく、顔には軽い笑みさえ浮かんでいる。 「まあまあ落ち着きたまえ。君の言い分はもっともだし、気持ちはよく分かる。しかし、私たちも適当に君を選んだわけではないんだ。ところで、独田君。なんか体調とか変わりはないかい?」 「え?」 まだ少し紅潮している頬に汗を流しながら、独田は明らかに口調の変えられた雲富の最後の言葉に戸惑う。 「そろそろ効きはじめる時間だと思うのだが……」 独田はその言葉を聞き終える前に静かに横に倒れていった。 「さて。これからが忙しいぞ」 雲富はソファで静かな寝息をたてている独田を見つめながら、これからのことを考え始めていた。 |