体珠

第拾六話


 痣向の事務所のあるビルが視界から見えなくなり独田は人っ子1人いない公園へとたどり着いていた。
 ここまで来てようやく落ち着いた独田はふらついた足取りでベンチへと倒れこんだ。
 何せ相手は暴力団の力を使ってまで自分の身柄を確保しようとした男だ。こうもすんなりと事務所の外へと出されたことが今考えると不思議なくらいだ。誰かにつけられている可能性も考えたが、この公園に来るまでにはそんな感じも受けなかった。だからといって完全に身の安全を確保したわけではない。何せ相手は弁護士だ。こっちの素性は完璧に把握されていると考えた方がいいだろう。どこか遠くにでも逃げない限り、期限の日には素直に痣向の前に出た方が無難だろう。妙に乾く喉から荒い息を吐きながら独田は改めて痣向の恐ろしさを感じ始めていた。
 そんな時、突然独田の頭に別の人物の声が響き渡った。
『あーあー。聞こえるかな。といっても確認のしようはないんですよね』
 普通なら「驚愕」や「恐怖」などといった感情に襲われるべき状況。なぜか不思議とそういったものには襲われなかった。ただ、さっきまでのあまりの緊張に一瞬頭がおかしくなったのかとは感じたが。
『信じられないかもしれないけど、僕は君だ。ああ!そんなこと言ったら訳わからないか。えーと、つまり、元々そっちの世界に住んでいた僕なんだけど、分かってもらえるかな?』
 もう1人の自分(?)の慌てふためく声におかしさがこみ上げてくる。余程パニックに陥っているのかもしれない。本当ならこっちがそういう態度を取るはずなのに、なんて考えるとおかしさは更に増してくる。
『なんかよくわかんないんだけど、僕たちがこういう目に遭ったのには訳があるらしいんだ。その謎を追求するためにとある人物を探して会って欲しいんだ。彼なら全ての謎を解き明かしてくれるそうなんだ。あと、そっちの僕にはものすごく重要な任務があるみたいなんだ。痣向とかいう弁護士が悪巧みを働いているらしいから、それを防ぐのが任務らしい。ともかく、そのある人物さえ見つけることが出来れば今回のことも含めて全部分かると思うから、何とか彼を探してみてよ』
 今回の謎の全てが解き明かされる……しかし、そのある人物って、一体……?
 独田はゆっくりとベンチを立ち上がるとあてもなく歩き始めた。
『あ、忘れてたけど、その人物って余脇大学の雲富(くもとみ)教授だから』
 独田はそのまま回れ右をすると、余脇大学へと向かい歩き始めた。

 余脇大学は今や日本でも指折りの人気大学である。その人気を支えているのが独田が会おうとしている雲富教授その人だ。12、3年ほど前から色々な発明や新たな理論の発見などを立て続けに発表し、ついにはノーベル物理学賞まで受賞した、大学どころか日本を代表する教授様なのである。しかし、本人はそんな名誉を受けてもけっして鼻にかけるようなことはせず、その温厚な人柄は人望も厚い。
 なんて事を独田が知ったのはこっちの世界に来てからの話だ。少なくとも向こうの世界ではそこまで名の売れている教授なんていなかったはず。基本的には向こうの世界とあまり大差がないと感じたこの世界でここまで違う人物がいるということはやはり体珠が関係しているということなのだろうか。
 門をくぐり目の前に広がるキャンパスにはたくさんの学生たちが歩き、走り、談笑している。この年になるとさすがに場違いな気分がしてくるが、ほんの数年前には自分もこんな感じで毎日を過ごしていたのかななんて考えると妙に恥ずかしい。
 さて、目当ての教授だが独田もさすがに素直に会えるとは考えていなかった。よほどの人気教授だというのは既に周知の事実。何とか痣向にあう3日後までにアポイントが取れればいいといったところが本音だ。ひとまず事務所へと向かい、教授の事をたずねることにした。
「あのー、すいません」
「はい、何でしょう」
 眼鏡をかけた30代らしき女性が応対へとやってくるが、セールスマンか何かと感じたのか少々怪訝な表情を浮かべているような気がする。
「えっと、く、雲富教授と会いたいのですが…」
 その声に女性の顔はまたかといったような雰囲気を漂わせる。よほど、会いたい人が多いのだろう。
「お約束の方は?」
「それが、してないんです。ですから、明日かあさってにでも会えないか聞いて頂けないでしょうか?」
「まあ、今でしたら研究室にいらっしゃるようですし、直接お聞きになればいかがですか?」
「え?そ、そんなの大丈夫なんですか」
「はい?大丈夫ですよ。2つ先の棟の3階にありますから、どうぞ」
「はぁ、ありがとうございます」
 案内された場所までは意外と距離があった。そもそも棟と棟の間がやたらと離れているのだ。その道中こんなに簡単に会えてしまっていいものかと少し考えた。何せあれほどの売れっ子だ、てっきりマネージャーか何かがついていて、そう簡単には会えない人だと思っていた。ノーベル賞まで受賞しているということは、言い返れば国の宝とも言える筈だ。そんな人がそんなことでいいのか!独田はおかげですんなり会えるにもかかわらず、変な怒りを感じていた。
 息切れがするほどの距離を歩き、ようやく目当ての研究室へと着いた独田は一度大きく深呼吸をすると、緊張した面持ちでドアをゆっくりと2度ノックした。
「どうぞぉ」
 変に間延びした返事が室内から聞こえてくる。
 独田は静かにドアを開けた。
 たくさんのコンピューターが設置された室内には数人の白衣に身を包んだ男がいた。男たちはそれぞれコンピューターのディスプレイを見つめたままキーボードを叩き続けている。独田が入ってきたことに全く気づいていないかのように。その中で一番の最高齢であろう人物が独田を笑顔で見つめていた。
「えっと、何か用かな?」
「あ、あの、わたくし独田と言うのですが…」
 独田の名を聞いた途端、男の顔は驚きに変わっていく。
「き、君が独田君か……」
「あのぉ、あなたが雲富教授でいらっしゃいますか?」
「あ、自己紹介が遅れたね。いかにも私が雲富だ。そうかぁ、あれから15年も経つのか。いや、本当に待ってたよ。ここじゃなんだからちょっといいかな」
 早口で雲富は話すと、独田に手招きをして研究室の奥へと消えていった。独田は依然コンピューターから目を離さない男たちを不気味に思いながら、早足で雲富の消えた部屋へと入った。


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