体珠 第拾参話 |
痣向は話を続ける。 「人間には限界というものが存在します。それは脳の限界といってもいいでしょう。しかし、現実に生きている我々はその限界どころか、ほんの一部の能力しか発揮させることができません。まあ、こればかりはどうしようもないことなのです。しかし、H、いや体珠を服用することに得られる第2のDNAはほんの一部しか発揮することのできない能力を更に引き出すことができるのです。箱の中にある飴を取り出すには片手よりも両手の方がたくさん取り出せる。それだけのことです」 「そんなことが言えるのは、誰かが実際に試したってことなのか?」 「当たり前ではないですか。憶測で物事を言っているようでは弁護士なんか出来るわけありませんからね。あ、ちょっと失礼」 痣向はテーブルの上に置かれていたシガレットケースから1本煙草を取り出し、慣れた手つきで煙草の先に火をつける。その流れが実に自然で独田はそれに目を奪われてしまった。 「おや、独田さんもお一つどうです?」 「いや、俺は煙草は吸わないから」 「そうですか。ですが、健康のためにはその方がいいですよ。私も何度か禁煙を試みてみたのですが、こればかりはなかなかねぇ」 親指と人差し指ではさんだ煙草を見つめながら、痣向はピエロのような笑顔を作る。そう、ピエロのように作られた笑顔を。 「おっと、話が途中でしたね。誰かが、体珠を飲んだのかということですが、独田さんもよくご存知の方々なんですよ。ええっと、確かファイルがここにあったはずです」 痣向はゆっくりと立ち上がると、机の引出しを探り出した。やがて1冊のファイルを取り出し、再びソファーへと腰掛けた。 「このファイルに体珠を服用した方々の記事をスクラップしているんですよ。さすがに最近は薬が残り少ないので新しい人材へと薬が流れることはありませんが、十分現役で活躍している方ばかりのはずです」 そう言って手渡されたファイルを開いた独田はそこに錚々たる顔ぶれが並んでいることに驚いた。 史上初で全タイトルを制覇した棋士。アメリカメジャーリーグへ進出した野球選手。世界ランキング上位に名を連ねたテニスプレイヤー。イタリアで活躍するサッカープレイヤー。世界を中心に活躍する作曲家、等々…… 「こ、ここに載っている人たちは全員、体珠を飲んだっていうのか!?」 「ええ、そうですよ。俄かには信じられないかもしれませんが、体珠に素晴らしい力があるのだとすれば納得できる人選ではないかと思うのですが」 痣向は口元を嫌らしく吊り上げながら、ファイルを食い入るように見つめている独田を眺めている。 「体珠は定期的に飲み続けないと効果が薄れていくものでね。現に昔ほどの力が出せなくなったも者も多くいます。そのファイルに載っている者で今でも薬を飲んでいるのは本当に数少ない。それもいつまで飲み続けることができるか…」 痣向は2本目の煙草に火をつけると、いよいよ本題だとばかりに真剣な表情へと変える。 「もう皆まで言わずともお分かりでしょう。この日本中に体珠を必要としているものは五万といるのです」 「言いたいことは分かる。ところで、最初にあんた、いや痣向さんに体珠を渡した男っていうのはどうなったんだ」 「ああ、彼ですね。本当に彼はついていなかった。体珠のおかげで巨万の富を手に入れたというのに、くだらない交通事故でその一生を終えてしまいました。しかし、そのせいで体珠の供給も止まってしまった。今考えても悔やまれる事故ですよ」 痣向の妙に芝居がかった話し方を聞いていると何もかもが嘘臭く聞こえてくる。一体どこまでが本当なのか。 「しかしもう2度と手に入らないと思っていた体珠を再び独田さんが用意してくれた。私はこの素晴らしい巡り合わせに神に感謝したい気分ですよ」 独田は両手を顔の前で組み、何かを必死に考えているようだ。その姿を見た痣向の右眉が軽く上がる。 「何をお悩みなのですかな。金銭的なことなら何も心配することはありませんよ。今の会社などやめても一生遊んで暮らせるだけの金を手に入れることも可能です。ついでにあの野蛮な奴らのことも気にすることはありません。奴らは所詮私の手駒に過ぎません。私の大事なビジネスパートナーである独田さんに手を出させるわけがないではないですか」 「勝手に話を進めないでくれ!俺は何も言ってないし、何も答えてない!」 大声を張り上げ立ち上がる独田に対して、決して驚いた素振りも見せずに痣向は冷たく言い放つ。 「私に協力できないと言うのですか?」 先ほどまでの穏やかな口調から変わったあまりに冷たい刃のような声は独田の体を凍りつかせる。なんとも言えない恐怖と共に。 「いいですか、独田さん。私はあなたのためでも私自身のために協力を求めているわけではありません。体珠はこの日本から素晴らしい人材を産み出すため、つまりこの日本にもっと活気を与えるために必要なのです。それをあなたは持っている。そして私はそれを世間に送り出すためのパイプを持っている。これができるのは我々だけなのですよ」 再び穏やかな口調に戻した痣向は静かに独田に諭すように言葉をつないでいく。 直立不動のままそれを聞いていた独田は、ゆっくりと痣向の方へと振り向くと搾り出すように一言だけ答えた。 「少し時間をくれないか」 痣向はわずかに鼻で笑うと静かに答えた。 「いいでしょう。3日後、私の方から迎えを出します。それまでに考えておいてください。いい返事を期待していますよ」 しかしその言葉に「いいえ」の答えはないのだよ、と痣向は声には出さずにつぶやくのだった。 |