体珠 第八話 |
天気予報が見事に当たった翌日、独田は鷹居山の麓にある駅で電車を降りた。 鷹居山はK県の内陸部にある標高700mほどの山だ。山の中腹ほど迄はケーブルカーが走っており、頂上までのハイキングコースもきちんと整備されていることから、親子連れやカップル、老夫婦などで休日には賑わう。しかし、今日は金曜日ということもあってか、ケーブルカーの発着場も人はまばらだ。 独田はブルーのポロシャツにジーンズ、スニーカーというラフな格好をしている。一応背中には小さいながらもリュックも背負っている。中には行きにコンビニで買ったおにぎりやお茶などが入っていた。 最初はケーブルカーなど使わずに上まで登ろうかとも考えていたが、せっかく会社に休みまで取ってやってきたのだから、多少は観光気分を味わうのもいいだろうと考えを変えていた。 独田が鷹居山に登るのは実は初めてではない。大学時代にテニスサークル内の数人でハイキングに出かける機会があり、その時以来だ。しかし、友人と来るのと一人で来るのではかなり心境が違う。友人と行くときは登山に対しての面倒くささを感じながらも、ちょっとした高揚感を感じたものだ。変わって今回は自主的に来たこともあり、登山に対する嫌な思いはない。しかし、これからまるで自殺でもしに行くかのような殺伐とした感傷も感じ得ずにはいられない。 斜面に停車しているケーブルカーの車内は階段状に座席が設置されている。その最後部に独田が座ると、あとから2組の年輩の夫婦らしき人が乗り込んできて、前方の座席に左右に分かれるように座った。やがて、ケーブルカーはガタンゴトンと派手な音を立てながらゆっくりと動き始める。 最後部の窓から下を眺めると、ついさっきまでいた発着場の建物がみるみる小さくなっていき、まるで自分が空へと吸い上げられていくかのような錯覚を覚えた。 車内では鷹居山の歴史がテープで流れているが、かなり使い込んでいるのだろう、途中で雑音が入ったりして聞き取りにくいものだった。 それにしても、なぜ自分は山へ登ろうと思ったのだろう。山へ行くことで、今の問題が解決するわけではないのに。もしかしたら、自分はこの世界を客観的に眺めてみたいのかもしれない。山という高台から。そしてそのまま、自分も客観的に見つめ直すことが出来れば……独田は窓を流れる緑色の波をただぼんやりと眺めていた。 ケーブルカーは10分ほど登ったところで山の中腹へと到着した。そのまま山頂に向かうのであろう2組の老夫婦を横目に独田はケーブルカーを降りた。やがて、再びケーブルカーは動きだし、山頂へと登っていった。ケーブルカーを見送った独田は軽く伸びをすると、深呼吸をした。 「ああ、やっぱり山の空気はおいしい」 ここでもし誰か知り合いがいたら、そんな台詞を言うのだろうな、などと考えたら妙におかしかった。 発着場の目の前はちょっと開けた広場のようになっていて、数軒のみやげ物屋が営業をしている。太陽の日差しが容赦なく照りつけてきていることもあってか、アイスやラムネを口にしている人が見受けられた。 ここから山頂までは3通りのハイキングコースを使って行くことが出来る。それぞれ「ハイキングコース」、「アスレチックコース」、「フォレストコース」と名づけられている。 「ハイキングコース」はその名の通り、最もハイキングに適した緩やかな道となっている。途中に何カ所か休憩できるポイントや景色を楽しめるポイントもあり、一番人気のあるコースだ。 「アスレチックコース」はハイキングコースに比べて登りの斜度が急になっている。そして、名前の通り途中には丸太やロープで作られたアスレチックが用意されている。ここは子供が一番喜ぶコースなので、休日は結構賑やかだ。 最後の「フォレストコース」は、これまた名前通り森の中を歩くコースになっている。鷹居山は大変自然に恵まれており、四季折々の花や草木、鳥などを見かけることが出来る。それを一番楽しめるように作られたこのコースは、他の二つに比べて非常に道幅が狭く、ほとんど道も整備されてはいない。道の傾斜なども自然のままだ。そのせいもあってか、3本の中では一番人気のないコースである。裏を返せばそれだけ人の入りも少ないので、自然をそのままの状態で維持でき、一番素晴らしいコースとも言えるのだが。 独田はルートマップが書かれている大きな看板の前でしばらく考えていたが、やがて1本のコースを選び歩き始めた。足元の舗装がアスファルトから土へと変わるところに小さな看板が立っている。そこには 『フォレストコース →』 とだけ書かれていた。 フォレストコースを歩き始めてまもなく2時間が経とうとしていた。 看板では山頂まで約2時間の道のりだと書いてあったから、普通ならもうラストスパートの位置にいるのだろう。しかし、独田は最近の運動不足がたたって、最初の15分こそ軽快な足取りで歩みながら、まわりの自然を楽しむ余裕もあったが、やがて息が切れ始め、足があがらないようになっていった。途中でちょうどいい切り株などを見つけてはしゃがみ込んで、コンビニで買ってきたお茶を飲む。そんなことの繰り返しだ。それでも本人は全体の8割ぐらいは進んだだろうと考えていた。実はようやく半分を超えたといったところなのに。 本当なら山頂で取ろうと思っていた昼食だったが、無性にお腹がすいた独田は耐えられず途中で昼食を食べることにした。獣道のような、山頂へのルートをちょっと離れ、ちょうどいい大きさの岩に腰掛けると、背中のリュックから買ったままの状態で入れてあったコンビニの袋を取りだした。時計は1時を指していた。 あれほど強い日差しもこの森の中ではさほど届かない。空を見上げると、見えるのは青い空ではなく深緑の葉っぱで覆われた空だ。それでも葉と葉の僅かな隙間から差し込む日差しは、まぶしく、暗い森の中を穏やかな光で包んでくれる。どこからかいつも小鳥のさえずりが響き、気の早い蝉の声も遠くに聞こえた。 独田はおにぎりを頬張りながら、どこというわけでもなく遠くに目をやる。木の幹と幹の間を視線ですり抜け、広く開けた山頂へと思いをはせた。いつもは目まぐるしく流れている時間も、ここではゆっくりと流れているかのように感じる。毎日仕事に追われる日々が馬鹿らしく感じる瞬間だ。 おにぎり2個と唐揚げという簡単な食事を終えた独田は念のためにと持ってきたビニールシートを取り出すと、岩の前のちょっとしたスペースに敷いた。全身を伸ばせるだけの幅はなかったが、膝を曲げれば十分横になれる。独田はそのままシートの上に横になると、陽光によってまぶしく輝く緑色の空を見上げながら昼寝を始めた。 |