体珠

第六話


 一方、体珠のない世界から体珠のある世界にやってきた独田は、本屋で買ってきた本を自宅でもう一度読み返していた。


 第一章 体珠とは?

 体珠は皆さんも知っているとおり、私たちの体内で精製されます。
 一つの体珠が出来るまでに、個人差はありますが約一ヶ月かかります。
 体珠はその一ヶ月の間に摂取した食事の種類や摂取した時間帯はもとより、一ヶ月内の運動量、またその種類、ストレスの有無、睡眠時間、まわりの環境などにより、色や形が変わるため、全く同じ体珠が存在する割合は約2億分の1とも言われています。
 中でも、立方体などのきれいな形を精製するのは、心身共にリラックスした状態でないと難しいと言われています。また、色の付いたものは主に食事の種類によって左右されますが、これも精神状態が大きく作用するので、なかなかお目にかかることが出来ないものです。つまり、体珠の形や色はそのままあなたの精神状態を表しているのです。
 本書では、精神のリラックス方法を中心として、簡単に立方体などのきれいな体珠を作成する方法を明記してあります。きれいな体珠は、高く買い取ってもらえるだけではなく、あなたの日常生活もきれいなものへと変えてくれることでしょう。


 この文章で、今までの謎の一部が解けた。
 会社で会議をトイレで行っていたのは頭岳課長が作り出した食品から、ピンク色の体珠を作り出すことが出来るということを発表するためだ。
 立方体の体珠を作り出す方法は実にシンプルながら、面倒くさいものだった。何せ心をリラックス状態に置くことが一番の方法だという。そもそも、人間は日常でどれだけリラックスした状態でいられるだろう。少なくとも、独田は寝ているときしか、リラックスできていないのではないかと思う。だいたい仕事場でリラックスできる人間など存在するのだろうか。もし、存在しているとするならば、きっとその人間は仕事がまるで出来ないか、常人では考えられないほど仕事の出来る人間かのどちらかだ。さらにそれに色を付けるとなると、さらに面倒な話らしい。体珠の買い取り屋の店長がぼやいていたのも頷ける話だ。
 しかし、課長は見事に作り上げていた。企画課の人間として、プレッシャーがあったにもかかわらずだ。それは賞賛されこそすれ、バカにされるようなものではなかったのだ。独田は自分の失言を改めて悔いていた。ここは独田が住んでいた世界とは違うが、少なくとも存在する人々は独田の知っている人間と何ら変わりはないのだから。体珠を作ることが出来るのを除いて。
 しかし、その一点は、独田とこの世界の住人を線引きするにはとてつもなく高い壁であり、とてつもなく深い崖なのである。独田が買った本に、体珠の出来る体内での流れは記されてはいなかったが、体内は独田のものとは違うであろうということは容易に想像できた。まあ、幸いにもこの世界で体珠が作れない体だからと言って、生活が出来ないということはない。一般に世間に流通しているものは、今までいた世界と同じ貨幣だ。あくまで、体珠は人類から産み出される副産物であり、それ以上でもそれ以下でもないようであるから。
 にしても、独田にはどうしても理解できないことがあった。それは、なぜ体珠を換金することができるのか、ということだ。今日会った店長の話では、他人の体珠を買うという行為は違法なのかどうかは分からないが、決して誉められた行動ではないらしい。となると、体珠はこの社会を流通しているようではない。一体誰が、どんな目的で体珠を集めているのか。
 しかしそれ以前に、独田はこの世界から元の世界へと戻らなければいけないのだ。その方法もまだ分からない。多分、向こうの世界のトイレで見た夢が元の世界へと帰るカギになるのだろうが…
 独田は空腹も睡眠も忘れて、謎を解く鍵はないかと考えた。しかし、体は都合良く欲求を忘れてくれるものではなく、独田はいつの間にやら眠りこけてしまった。

 翌日、いつものように出勤した独田は真っ先に企画課のドアを叩いた。企画課のオフィスには営業課のような騒々しさはないが、ピンと糸を張ったような緊張感が張りつめている。この時間には珍しい他部署の客に真っ先に気づいたのは、独田の目的の人、頭岳だった。
「どうしたんだ、こんな朝早くから」
 頭岳は昨日のことなど何もなかったかのように笑顔で独田を迎えた。その意外なリアクションに独田の方が戸惑ってしまう。しかし、昨日寝る直前まで考え決めていたことを実行しなくてはならない。独田はゆっくりと頭岳のデスクの前まで近づくと、勢いよく頭を下げた。
「昨日はすいませんでした!」
 その声の大きさに、オフィス中全員の視線が一点に集まる。独田が一番嫌悪すべき瞬間であったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「おいおい、何だよいきなり」
 頭岳は困ったような口調でつぶやくと頭をかく。
「昨日の私はちょっとどうかしてまして、あのようなすばらしい作品をバカにするようなことを言ってしまい……」
「その通りだよ!お前、どの面下げてここに来てるんだ!」
 昨日の会議に参加していたのだろう、別の社員が怒りを露わにして独田の背中から声を遮る。それをきっかけにオフィス内がざわめき始めた。しかし、頭岳の「朽木!お前は黙ってろ!」の一喝にオフィスの中は再び静寂に戻る。独田も含めて。
 軽く咳払いをすると、頭岳は穏やかな口調で独田に話し始めた。
「いや、昨日は私も大人げなかったと反省しているんだよ。企画の仕事というものは、製品が完成した時点で我々の手から離れるものなんだ。なのに、ついついできあがった製品に固執してしまって、恥ずかしい話だ」
「あ、いや、いえ、そんな…」
「昨日の独田君の言葉で少々頭に来てしまったが、よくよく考えてみれば実にもっともな意見なんだよ、君の言葉は。ついつい賞賛の言葉ばかりを浴びて、私もいい気になっていたようだ。ありがとう、おかげで次の製品に取り組む意欲が沸いたよ。そして、次こそ君を驚かせるものを作り上げてみたいものだ」
 そして、頭岳は静まりかえるオフィスの中で豪快に笑った。
 独田は改めてこの人物の器の大きさを知り、自分の器の小ささを感じた。いつか自分のもこの人のようになりたいものだとも。
 独田は改めて、礼を述べ、企画課を後にした。
 後は、元の世界に戻る方法を探すだけだ。
 しかし、手がかりは今のところあのトイレしかない。独田は仕事の合間を見つけてはトイレへ向かい、あの夢を見た個室へと入るようにした。しかし、元の世界に帰りたいという思いが強すぎるせいか、なかなか眠りにつくことは出来ず、その日は暮れていった。
 慌てることはない、そう自分に言い聞かせながら帰宅準備をしていると、屈山がニヤニヤしながら近寄ってきた。
「なぁ、久しぶりに酒でも飲みに行かないか?お前の奢りで」
「何で、俺が奢らなきゃいけないんだよ」
「うわっ、ひでぇ。昨日昼飯奢ってやったのにその言い草はないんじゃないか」
「昼飯?俺が?」
「そうやって、忘れたふりをするわけか。決定!絶対、今日はお前の奢り」
「おいおい、俺はまだ行くだなんて言ってないじゃないか」
「何だよ、行かないのかよ」
「あ、そうだ、今日はちょっと用事があるんだよ。悪いけど明日にしてくれよ、な?」
「明日?まあいいけど、絶対お前の奢りだからな」
「分かった分かった」
 いつもなら喜んで誘いに乗っているところだが、さすがにまだそんな気分には慣れなかった。納得のいかない表情を浮かべたままの屈山を適当にあしらって独田はオフィスを出た。
 独田は1階へと向かうエレベーターの中で、ふと元々こっちの世界にいた自分のことを考えた。
 そういえば、こっちの世界に元々いた自分はどこへ行ったのだろう?あの屈山の話しぶりじゃ、昨日の昼までは間違いなくこちらの世界にいたはずだ。しかし、自宅で鉢合わせになることもなかったし、会社にも出社してはいない。もしかしたら、新たな自分がやってきてしまったために、この世界から追い出されてしまったのだろうか?
 独田は色々と考えを張り巡らそうとしたが、悪い考えに陥りそうになり、慌てて考えるのをやめた。世界こそ違えど、自分の哀れな末路など想像したくはなかったからだ。
 自動ドアを抜けると、ビルの間を強烈な寒風が吹き荒れていた。世界は灰色に染まる空のせいか薄暗く、昨日とはうって変わって肌寒い。確か天気予報では、夜には雨が降り出すと言っていた。それでも、明日にはまた天気は回復し、暑い陽気になるという。天気はいい。不快な天気でも、きっといつかは晴れ間がやってくるし、それを予測することも出来る。ただ、自分の心ではそうはいかない。今の独田に出来るのは、心の中に広がる黒い靄が早く晴れることを祈ることだけだった。
 駅のホームにたどり着いた独田はホームに貼られたポスターを何気なく見た。『悩んでいるなら山へ行こう』と大きな文字がポスターの中央に並んでいる。
「山か…しばらく行ってないな…」
 しばらくそのポスターを見つめていた独田は、何を思い立ったか携帯電話を取りだした。電話に出たのはちょうど残業中の臼井課長だった。
 営業課の課長である臼井は実に勤勉な男だ。ほぼ毎日のように残業をしているため、まわりの社員も気を遣って残業をするという風景がよく見られた。しかし、やがて残業が臼井にとっての趣味のようなものだと噂で流れ始めた頃には残業をする人数もめっきり減ってしまった。そんなまわりの様子に気づいているのかいないのか、臼井は今日も黙々と残業をこなしている。臼井は優しい人間である。何よりも人を注意することが苦手であり、いつも人間関係に気を配っている。だからこそ、部下には慕われているが、その反面あまり威厳はないと言える。既に40歳を越え、妻子もいるが、人間関係に気をつかうのは、自宅でも同じようで、だからこそ残業を口実にしてなかなか家に帰ろうとはしないのだなどという噂もまことしやかに流れている。まあ、本人に聞いたところでそんなことはないとやんわりと否定するのだが。
 独田は簡単に明日会社を休むと言うことを伝えた。一応、臼井は理由を尋ねてくるが、そんなのは社交辞令のようなもので、臼井に話をした時点でほぼ100%休みは取れたも同然。独田は病院に行くなどと適当な理由を作り、明日の休みを手に入れたのだった。その時、明日の見に行く約束をした屈山の顔が浮かんだが、気にすることもないかと用事を忘れたことにした。


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