体珠

第五話


 居酒屋「呑兵衛」は会社から歩いて15分ほどの距離にある。駅が近いことと値段の安さもあって、オフィス街に勤めるサラリーマンがよく利用している。店内は15人ほどが座れるカウンター席と8人ほど座れる座敷が2つ、あとは4人がけのテーブルが8つあるので、結構な人数が入れるのだが、いつも店内は混雑している。しかし、今はまだ仕事が終わって間もないせいか、さほど客の姿は見えない。一足先に店に着いた屈山はカウンターの中で焼き鳥をせっせと焼いている男の目の前へと座った。
「お!今日は一人?」
 屈山に気づいた居酒屋の店主である酒田は(通称サケさん)カウンター越しに話しかける。
「いや、独田がもうすぐ来るよ」
「そうかい。じゃあ、ビールはどうする?」
「あいつが来てからでいいよ」
「あいよ」
 そこに、おしぼりを手に一人の女性がやってきた。この店の看板娘、純子だ。紺色のハッピに身を包み、茶髪がかった淡い色のショートヘアーがよく似合っている。背はお世辞にも高くないのでかわいらしいといった印象がピッタリだ。
「いらっしゃーい」
「お、ジュンちゃん、今日も可愛いね」
 屈山はおしぼりを受取りながら言う。今日の天気を気遣ってか、おしぼりはキンキンに冷やされている。
「誉めてくれるのはうれしいんだけど、たまには違う台詞も言ってほしいもんだわ」
「そう?可愛いから可愛いって言ってるんだけどな。ウホー!」
 屈山は答えながらおしぼりで顔を拭いたが、そのあまりの冷たさに声を上げた。
 ガラガラッ
「あ、独田さん、いらっしゃーい」
「はぁはぁ、あ、ジュンちゃん、今日も可愛いね」
 独田は片手をあげて答える。
「もう、独田さんまで同じ台詞なのぉ?」
「いつものことじゃんか」
 屈山がおしぼりを畳みながら笑う。
「まあいいわ、ビールでいいのよね」
 すかさず独田が言う。
「ガンガンに冷えたやつね」
「はいよー」
 独田は鞄と背広をカウンターの上にドサリと乗せると屈山の隣の席へと腰を下ろした。
「お前、何息切らしてるんだよ。そんなに急ぐこともなかったのに」
「はぁ、いや、はぁ、そういうわけじゃ、ないんだけど」
 独田はこの店まで走ってやろうと思っていた。しかし、日頃の運動不足がたたり、途中で見事にばててしまったのだった。
「はい、ビール!」
 純子が中ジョッキになみなみと注がれたビールを運んできた。独田は我先にとばかりにジョッキを受け取ると、口から迎えに行ってビールを飲み始めた。
「何だよ、乾杯もなしかよ」
 屈山は苦笑しながら、もう一つのジョッキを受け取る。
「ジュンちゃん、ありがとう。で、サケさん、今日は何かうまいのある?」
「いい魚が入ってるから、刺身にでもしようか?」
「じゃあ、それ頼むよ」
 とここまで話しただけで、既に独田のジョッキは空になっていた。
「ジュンちゃん、おかわり!」
 純子にジョッキを渡すと、ようやく独田は一息ついた気分になった。
「で、どうした?」
 屈山がジョッキの中程まで飲み干し、カーッと一声あげてから、独田に聞く。
「いや、それがさ…」
 独田は銀行での恥ずかしい出来事を屈山へと話した。
 屈山はカウンター越しに運ばれた刺身を受け取りながら、独田の話に耳を傾けている。
 屈山は一見、軽そうな印象を与える男だ。仕事は良くできるが、職場では長い物には巻かれろといったような態度を取ることも多い。だから、社内では仕事こそできるが、軽薄な男として名が知れているようだ。しかし、これは大きな間違いだ。独田と屈山は同じ大学のテニスサークルの仲間だった。独田は女の子と知り合えるかもしれないぐらいの軽い気持ちで入ったのだが、屈山は中学、高校とテニスを続けており、高校時代にはインターハイにも出場した実力を持っている。他にも男はたくさんいたのだが、不思議と独田は屈山と気が合った。決して、好みや趣味などが似ているわけでも、性格なんかもまるで違う。ただ、そりがあったといった感じだ。そんなつきあいだったから、独田は屈山のことをよく知っている。仕事場で上司の機嫌を取るのは、ただ単に面倒を起こしたくないだけのことだし、軽そうな印象を与えるのもその人辺りのいい性格のせいだ。その反面、自分がこうだと決めた信念は絶対に曲げない男なので、もし上司と意見が食い違うようなことがあれば、その時はきっちりと意見は言うだろうし、もしかしたら論争になるかも知れない。ただ、今までそのような機会がなかっただけのことなのだ。だから、今日の会議でのようにバカにされた口調で話されても、その場の空気を損なわないように気を遣った結果なのだから、独田は別に腹を立てるようなこともなかった。逆に、大事なときに叱ってくれる彼を独田はとても大事な親友だと思っていた。
 屈山は口を挟まずに独田の話を一通り聞くと怪訝そうな表情で尋ねた。
「お前さぁ、やっぱ今日おかしいぞ」
「何がだよ」
 独田は口元に運んでいたジョッキを止めて、屈山の意外な返答に戸惑った。
「そもそも、さっきから言ってる『換金』って何を換金しようとしたんだよ。今までそんな話したこともないじゃないか。いつのまにか、株だとか金だとかでも始めたって言うのか?あと、よくよく思い返してみたんだけど、やっぱり俺はお前に昼飯なんか奢ってないぞ。お前、会議中に居眠りでもして夢でも見てたんじゃないか?」
「何で知ってんだよ」
「マジか?お前、会議中に寝てたのか?」
「あ、いや、そうじゃなくて。それはまあいいじゃないか。で、お前も今日はちょっとおかしいんじゃないのか。だいたい、何で今日に限って会議室で会議をしてるんだよ。明らかにおかしいじゃないか。それなのに、お前はそれが正しいかのように振る舞ってさ。それじゃ、上司のご機嫌取りをしていると思われてもしょうがないぞ!」
「だから、ちょっと待てって。会議は会議室でやるもんだろうが。だからこそ、会議室って名前がついてるんじゃないか。んじゃ、何か?今日のお前の行動を見ている限り、お前はトイレで会議室をするって言うのか?」
「当たり前じゃないか」
「やっぱり、お前どっかおかしいな。どうした、何か頭にでもぶつけたのか?」
「茶化すなよ!」
「茶化してるのはお前だろう!」
 遂に2人は口論を始めてしまった。いつもは楽しく酒を飲む2人を知っている酒田と純子は何事かと2人の様子をうかがっている。そんな周りを尻目に、2人の口論は激しくなっていく一方だ。さすがに、まずいと感じた純子は慌てて2人の間に割って入った。
「ハイハイハイハイ、落ち着きましょうねぇ、2人とも」
 その声に2人の声がピタリと止まる。突然、論争にストップをかけられた2人は気まずそうに純子の顔をチラリと見た後、それぞれビールを飲んだり、刺身に箸を伸ばし始めた。
 純子はカウンター越しに酒田に軽く頷くと、ちょっと落ち込み気味の2人に話しかけた。
「それにしても、2人が喧嘩するなんて珍しいわね。一体どうしたのよ」
 話しかけれても、2人とも口をもごもごするだけで話し出そうとはしない。どうやら、お互いに何をどう話し始めればいいのか、考えあぐねているようだ。
「じゃあ、独田さんが話してよ。何が原因なの?」
 純子に促された独田は箸を置くと、ゆっくりと話し始めた。
「いや、店の中で騒いでごめん。原因は大したことじゃないんだけど……そうだ、ジュンちゃんは体珠って分かるよねぇ?」
 これほど世の中に普及している体珠を屈山は知らないなどと言っていた。もしかしたら、今日の自分はおかしなことを言っていたかもしれないが、だからといって自分の言うことを全て否定することはないではないか。
 独田は純子が携帯のストラップにイエローの体珠をつけているのを知っている。だから、屈山を攻撃する意味も込めて、純子に尋ねる。しかし、答えは独田の想像もしない物だった。
「何それ?」
 その返事に独田は口をポッカリと開けた。まるでアメリカンアニメのようにそのまま顎が床にまで落ちそうな勢いだ。
「え?ほら、だって、携帯に、つけてるじゃない?」
 かろうじて、言葉を返す。
「携帯?今携帯につけてるのはケティちゃんだよ。知ってるでしょ、私がケティーちゃん好きなのは」
 いつの間にか頼んでいた煮込みをパクつきながら、隣で屈山が頷く。
 独田はがくりとうなだれるとそのままカウンターへと崩れ落ちた。おでこがカウンターにぶつかり、ゴンと鈍い音がした。
「な?体珠なんてのは聞いたこともないって言ったろ。ねぇ、ジュンちゃん、何かこいつ、今日変なんだよ」
「確かに変ねぇ。ねぇねぇ、独田さん。そのタイジュって何なの?」
 独田はおでこをカウンターにつけながら、こいつらは自分をバカにして楽しんでいるんだという結論に達していた。ふざけるな!と、大声で怒鳴りたくなる衝動を抑えて、ゆっくりと頭を上げると、背広の内ポケットから巾着袋を取りだした。そして、その口を開けるとカウンターの上で逆さにした。カタンコトン、と乾いた音を立てながら3つの体珠がカウンターに転がる。透明なそれは店内の灯りを浴びて、キラキラと輝いていた。
 それを見た純子がまるで少女のように声を上げる。
「わぁ〜、きれいねぇ。ねぇ、これがタイジュなの?」
 純子はそう尋ねながら3つの内の1個を手に取り、額の上へとかざしてみる。水晶のようなそれは形がきちんと整っているわけではないので、蛍光灯の光を乱反射してまぶしかった。
 それを見ていた屈山も珍しそうな視線で、1つを手に取っていた。
「こんなの、いつの間に手に入れたんだ?水晶のようにも見えるし、プラスティックにも見えるなぁ。でも、結構な重さがあるから、プラスティックってことはないか」
 あくまで2人は体珠を知らないという演技をしているんだと考えている独田は2人のあまりの演技のうまさに驚いた。まるで本当に知らないかのように、2人はしげしげと体珠を見つめている。
「ねぇねぇ、サケさん、これ知ってる?」
 屈山が体珠の一つを酒田の前へと差し出して見せた。
「何だいこりゃ?宝石か何かかい?わたしゃ、こういうのはさっぱり分からないからねぇ」
 そう言って、酒田は笑う。
 その様子を見て、独田に衝撃が走った。
 酒田は人をだますようなことは決してしない。純子や屈山にからかわれることがあっても、酒田だけは人をバカにするようなことは絶対に口に出さない。それだけ人が出来ているのだ。その酒田でさえ、体珠を知らないという。
 ということは、2人の行動も演技ではないということなのか。どういうことだ。やはり、自分は長い夢を未だに見続けているのだろうか。
 独田の頬をやたら冷たい汗が一筋流れ落ちた。
「どうした?顔色が悪いぞ」
 屈山が心配そうに独田の顔を覗き込んだ。
「本当に、体珠を知らないのか?」
「だから、何度も言わせるなって。そんな言葉を聞いたのは今日がはじめてだし、これが実物だとしたら、見るのも初めてだよ」
 屈山の答えに、独田は虚空を見上げ、誰かに向かって言うわけでもなくつぶやく。
「だとしたら、ここはどこなんだ?」
「はぁ?」
「ここは一体どこなんだぁ!」
 独田は大声で叫んでいた。
 その声に、ざわついていた店内が水を張ったように静かになった。
 しかし、体珠に気を取られていた純子はそんな気配に気づかない。
「ねぇねぇ、独田さん、よかったらコレ一つちょうだいよ。私これ気にいっちゃった」
 店内を覆い始めていたシリアスなムードはその一言で簡単にぶち壊れた。


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