体珠

第四話


「ハッ」
 慌てて目を覚ました独田は思わず大きな声を出してしまった事に気づき、軽く咳払いをしてごまかす。
 独田が居眠りはするのは割とよくあることなのだが、夢を見たのは初めてだった。それも、あんなにリアルな夢は普通の睡眠時にも見た記憶がない。ただ、忘れてしまっているだけのなかもしれないが。
 夢の中ではあっという間の出来事であったが、腕時計を見ると5分ほども寝ていたようだった。
 そろそろ会議に戻らなくてはと思い、夢の中の自分がやったように会議室の扉へと手を伸ばす。が、先ほどの夢がみるみる蘇ってきて、嫌な汗が彼の頬を伝う。あの夢はもともと泳ぎが得意ではない独田に変な恐怖感を植えつけた。もし、また夢のように水が襲ってきたら……思わず身震いする。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。とここで、彼は何か違和感を感じた。何かがおかしい気がする。答えは程なくして見つかった。会議室にいるはずのない面々が顔を揃えているのだ。まるでここで会議が行われているかのように。
 ともかく、ここを出よう。彼は意を決し、勢いよくドアを開けた。水は当然のことだが流れてはこない。ホッと胸をなでおろす独田を他の面々は無言で見つめている。その不自然な光景を尻目に独田はゆっくりと会議室から出て行こうとした。
「コラッ!お前どこに行くんだ!」
 突然怒鳴ってきたのは、あの口やかましい部長だ。一体いつの間に来たのだろう。しかし、よくよく見まわすと、先ほどまで会議をしていた連中全ての姿があった。本当にここで会議をしているかのようだ。
「何をボーっとしておる。どこに行くつもりかと聞いているのだ!」
 部長はなおもキツイ口調で詰め寄ってくる。
「あ、あ、いや。トイレに戻ろうかと…」
「またトイレかよぉ。お前一回病院でも行った方がいいんじゃないか?」
 いつのまにか独田の隣にいる屈山が顔に嫌らしい笑みを浮かべながら言う。
 何だ、この感覚は。まるで、前にもこんなことがあったような感覚。
 独田は何だか気味が悪くなり、背中に突き刺さるたくさんの視線と共にすべてを振り切ってトイレへと走った。

 トイレはもぬけの殻だった。そりゃそうだ。会議に参加している人間は今全て会議室にいるのだから。ちょうど休憩でも取ったのかもしれない。ただでさえ、この会社の会議は無駄に長い。休憩でも取らなきゃとてもやってられないのは独田に限ったことではない。他の皆ももう少し待っていれば戻ってくるはずだ……った。あれから15分は過ぎたというのに誰も戻ってこない。もしかしたら会議は既に終わったのだろうか。いや、確か予定ではまだ2時間以上は時間が残っているはずだ。そんな急に取りやめになるなんてことは考えられない。独田はもう少し待ってみることにした。
 おかしい。いくらなんでもこれはおかしい。独田は一向に誰も戻ってくる気配のないトイレの天井を見上げながら、首をかしげる。もうあれから30分以上たっている。やはり何か特別なことが起きて会議は中止になったのだろうか。独田はついに痺れを切らし、仕方なく自分のオフィスへと戻ろうとトイレを出た。席を立った。彼の机があるオフィスはトイレのあるフロアの一つ下だ。が、彼はたった1フロアの移動でもついエレベーターを使ってしまう。下向きに取り付けられた三角のボタンを押し、エレベーターがこのフロアに向かってくるのをランプで確認する。とそこへ、さっきの同僚、屈山がやってきた。
「お前、何やってんだよ」
「何って、オフィスに戻ろうかと…。そうだ!会議はどうしたの?」
「はぁ?お前何言ってんの?今もやってるよ。途中で勝手に出ていっといて、訳わかんねぇやつだな。ともかく、課長が新しいやつの紹介するから早く戻ってこいよ」
「戻って来いって、どこに?もう皆集まってるの?」
「お前やっぱり病院行った方がいいんじゃないのか?さっきから全員揃ってるだろうが。お前を除いて」
「でも、さっきまで誰もいなかったよ」
「そりゃ、トイレにいるわけねえだろうが!どこの世界にトイレで会議するやつがいるんだよ!ああ、埒があかねぇ。とっとと来い!お前のせいで俺まで説教食らうのはゴメンだからな!」
 そう言うと屈山は独田の腕を取り、無理やり引っ張っていく。
 誰もいなくなったエレベーターフロアにエレベーターの到着ベルが寂しく響いた。

 屈山が連れてきた場所は会議室だった。さっき独田が居眠りをしていたあの会議室だ。
 ドアを開けると広い会議室の中に20人ほどの人間がいる。全員の視線が独田に集まり、まるで全員に針で突かれているかのように顔が痛かった。
「部長、独田をつれてきました」
 独田の姿を見た部長の表情は怒りを通り越してあきれているといったものだ。
「独田、お前の勤勉さはよく分かったから会議ぐらいしっかり参加しろ」
 独田は最初は冗談かと思った。しかし、部長をはじめとする全員の顔は至って真面目だ。彼は困惑の表情を強めて部長にたずねる。
「参加しろと言われましても、こんなところで何を話しているのでしょう?」
「ええい!グダグダ言わないで、そこでおとなしくしてろよ!」
 さっきからイライラしっぱなしの屈山は、独田の首根っこを捕まえると椅子に無理矢理着席させた。
 その後会議は今までの遅れを取りもどすようなこともなく、ダラダラと3時間かけて終了した。その間、独田の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんだままだった。

「いつのまに会議の内容が変わったんだろう?」
 自分の机に戻ってきても、独田の疑問は尽きない。
 屈山をはじめとした同僚たちは特別おかしな様子もなかった。部長らや上司も真面目な表情で新しい食品に関してディスカッションをしていた。ただ、旨さと安さを売りにしただけの食品を。
 元々、自分の勤めている会社は特殊体珠を作り上げる食品で名をあげた会社のはずだ。それなのに、今回の会議では体珠の「た」の字もでてきやしない。そもそも、会議室でいつから会議をするようになったのだ。もしかして、自分が5分しか寝ていないというのは嘘で、もっと長い間眠り続けていたのか?いや、それよりも今見ているこの風景が夢だと考えた方が理解しやすい。
 そこで、独田は軽く頬をつねってみた。当然のように、頬には痛みが走る。
「独田さん、何してるんですかぁ?」
 我が営業部の新人で早くもアイドルとなりつつある間(はざま)さん、本人は名前が明戸(あきこ)なので人魚ちゃんと呼べと言っている(間明戸(マーメイド))、つまりそんなキャラクターの子、が横から顔を出す。
「あ、いや、なんでもないよ」
 独田は頬をつねったまま答える。どう見ても変なやつだ。
「なら、いいんですけどぉ」
 と、彼女は明らかにおかしい独田を気にもせず、自分の机と歩いていく。そんな子なのだ。
 頬にくっついていた手を離すと、独田は軽く伸びをしてから立ち上がった。いくら頭の中が混乱していても仕事は決してなくならない。壁に掛かっている時計の針は4時半を回っている。独田はこれ以上オフィスにいてもボーっと過ごしてしまいそうだったので、営業に出かけてそのまま直帰する旨をホワイトボードに書き、鞄と背広を片手にオフィスを出た。
 太陽が空よりも地に近づいているこの時間にしては外は暑かった。普段ならすぐに袖を通す背広を鞄と一緒に片手に持ったまま、独田はどこへ行こうかと頭を巡らせていた。
 独田は営業をするときに、目的地を特に決めない。漠然とこの辺りがいいかなという勘だけで営業を行う。計画性とは実に縁遠いところにいる男、それが独田だった。彼の営業成績が悪い理由も自ずと分かるというものだ。
 ここで独田は銀行へ行くことを思いだした。というのも実は今日、独田は財布を家に忘れてきていた。まあ、財布はなくとも通勤は定期で、昼食は屈山のおごりで、決して屈山はおごりだと言ってはいなかったが、何とかなっていた。しかし、これから自宅に帰るまでにお金が必要になる可能性は十分にある。何せこのままでは自動販売機で缶コーヒーすら買えないのだから。
 どうせあてのない営業まわり。多少の寄り道は日常茶飯事のことだ。しかし、さすがに会社に一番近い夕陽銀行に入るのは同じ会社の人間の目があるかもしれないので気が引ける。そこでいつも行く交差点を2つばかり過ぎたところにある日座銀行を目指す。営業時間はとっくに過ぎているが、キャッシュディスペンサーは9時頃まで開いているから、問題ない。
 独田の勤めている田部流名食品株式会社はいわゆるオフィス街にある。周りを見渡しても似たようなビルばかり建ち並び、スーツを着込んだサラリーマンか制服に身を包んだOLぐらいしか出会わない。それはまるで簡単に作られた模型の中を歩いているかのようだ。
 そんなジオラマの街も会社の終業時刻に近づいた今頃は徐々に人の数が増え始める。営業から帰社する者、独田のように直帰名目で逆に出社する者、明らかにアフター5を意識した身なりに着替えるOLたち。そんな人たちを横目に独田はゆっくりとした歩みで通りを歩いていく。
 毎日変わらない景色と人々に囲まれた日常に飽き飽きしながらも、同じ日常というぬるま湯に浸かっていられる安心感。心の中では映画の様なサスペンスに満ちあふれた時を過ごしてみたいと願っていながらも、映画の中の役者のようには立ち振る舞えない自分を知っている絶望感。そんな葛藤だけが日々を過ごしていく糧のように感じる錯覚。かといって何かを糧にして生きているのかどうかは分からない怠惰な想い。きっと誰もが感じているそんな想いを独田も持っていた。それは昨日も今日も、きっと明日だって変わらない、そう感じていた。平凡な日常ほど幸せな生活はないのだとも。しかし、非凡な世界はすぐ目の前に広がっている。

 今日は運悪く二つとも赤信号に引っかかった。今までの経験からこんな日は良くないことが起きるような気がする。いわゆるジンクスのようなものだ。かといって、今日は既に3分の2が終わっている。変なことでくよくよしても仕方がない。独田は軽く息を吐き出すと、日座銀行の中へと入っていった。
 3台並ぶキャッシュディスペンサーには先客が一人いるだけだ。その人は左端の機械を操作していたので、独田は右端の機械へと足を進める。機械の前に立つと真っ黒だった液晶表示がポンという音と共に銀行業務のメニューに変わる。鞄をそのまま床へと置き、背広の内ポケットを探る。目当ての物は黄色い巾着袋。片手に乗るほどの小さいものだ。そして背広を鞄の上にそっと置くと、巾着袋を開ける。中には透明な水晶のような物体が3つ入っている。どれも親指の頭ほどの大きさだが、形はまちまちだ。
「もう、3個しか残ってなかったか。まだ日もあるし、大事に使わないとな」
 独田はそのうちの1個を取り出し、改めてキャッシュディスペンサーの液晶画面に目を移す。しかし、そこに目当ての項目は存在しなかった。
「あれ?」
 独田は首を傾げたままその場に固まる。
 先ほどまでいた先客により、自動ドアが閉まり、銀行内には一気に静寂が訪れた。
 そのほんの数秒後に静寂を打ち消したのは、独田の鞄の中にあった携帯電話の着信音だった。
 2コールほどしてようやく音に気づいた独田は慌てて鞄の中からメタリックシルバーの携帯電話を取りだした。携帯電話の液晶ディスプレイには「屈山」と表示されている。それを確認してから、独田は着信ボタンを押し、電話を耳に当てた。
「もしもし」
『おう、独田か』
「何かあった?」
『いや、そういうわけじゃないんだが、お前今どこだ?』
「会社の近くの日座銀行だけど」
『じゃあ、まだ会社出たばっかりだったんだな』
「まあね」
『もう仕事も終わるし、飲みにでも行かないか?いつものところでさ』
「それは全然かまわないんだけど…」
『どうした?』
「俺、今日財布忘れてるのお前知ってるだろ?」
『え?マジか!?』
「何驚いてるんだよ。だから今日お前に昼飯おごってもらったじゃないか」
『え?そうだったっけ?』
「そうだよ。たかだか数時間前のことを忘れるなよな」
『仮にそうだとして、お前おごってもらった人間に大して偉そうな口振りだな』
「まあ、それはそれだよ」
『あ、でもお前銀行にいるんだろ?なら、金の都合はつくと言うことだよな』
「それなんだけどさ、日座銀行っていつから体珠の換金しなくなったんだ?」
『は?何だって?よく聞こえないよ』
「だから、日座銀行じゃ換金してないのか?」
『換金?いや、俺は日座銀行使わないから、よくわかんねぇけど』
「そうかぁ、いやまいったなぁ」
『何だよ。金の工面がつかないのか?』
「いや、他の銀行に行けば何とかなるとは思うけど…」
『じゃあ、最悪俺が貸してやるから。えっと、そうだな、5時半にあの店で会おう』
 独田も時計を確認すると、ちょうど5時になったところだ。
「分かった。5時半だな。とりあえず、金は何とかしてみるよ」
『OK。じゃ、あとでな』
 話を終え、携帯を再び鞄に戻そうと腰を下ろす。と、目線に誰かの足が入った。そろそろと見上げると見知らぬ男が独田の方を眉をつり上げながら見ている。
「あの、何か?」
 おそるおそる独田が訪ねると、その男は無言で右手を親指だけ立てて握り、ゆっくりと肩口から後ろを指さした。独田はそろそろと立ち上がり、男の肩越しに後ろを見るとそこにはおよそ20人ほどの行列ができあがっている。どうやら、独田が電話をしている内に訪れたらしい。それもそうだ、仕事が終わったばかりのこの時間はキャッシュディスぺンサーが昼時に次いで混む時間だ。独田は慌てて右手で機械の上に置いていた体珠を、左手で背広と鞄を掴むと、一目散に銀行を飛び出した。
 独田は銀行を出た後もしばらく走り続けていた。会議の件といい、銀行で換金できなかった件といい、最後にはあんな恥までかいて、やはり今日はついてない。せっかく屈山が誘ってくれたことだし、今日は思う存分飲んでやろう。そうでもしなければやってられない気分だ。結局、独田は別の銀行に寄ることもせず、そのまま屈山の待つ居酒屋へと走っていた。


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