体珠 第壱話 |
「コラッ!独田、大事な会議中にどこへ行くんだ!」 退屈な営業報告の途中で部長の罵声が飛ぶ。 「あ、あのト、トイレへ…」 「またトイレかよぉ。お前一回病院でも行った方がいいんじゃないか?」 独田の隣に座る同僚の屈山が顔に嫌らしい笑みを浮かべながら言う。 背中に突き刺さるたくさんの視線を振り切って独田はトイレへと走った。 独田がこの田部流名食品株式会社に勤務してもうすぐ3年になる。営業職を任されているが、お世辞にも成績はよくない。同期入社の中でもおちこぼれの部類に入るほうだ。もしかしたら全社的に見てもおちこぼれなのかもしれない。 そもそも、彼は人と面と向かって話をするのが苦手であった。中学校時代にクラスメートの冷やかしで生徒会長に立候補させられたときの演説はいまだにトラウマとして心の奥底で彼に人の目線を恐怖の対象へと変えさせている。だから彼はいつも一人になると、こんな僕が営業でうまくいくわけがないじゃないか、と愚痴る事が多かった。また会議のように、大勢が顔を突き合わせているような場所も苦手としていた。少々自意識過剰気味ではあるが、まるで全員が彼を見ているかのような強迫観念に襲われるのだ。 そんな彼にとってトイレの個室は会社の中で唯一落ち着けるオアシスのような場所だった。 洋式便器が置かれている個室に入るとズボンを履いたまま便座に座る。別に用をたしに来たわけじゃない彼には至って普通の行動だ。 独田は大きく深呼吸をすると、ひざの上にひじを立てた状態の手のひらで顔を覆う。ここはいつも騒々しいオフィスや会議室と違って静かだ。こうやって暗闇の世界を見つめながら、頭の中を空っぽにするのはとても気持ちがよかった。そして、そのまま彼は不覚にも、といってもいつものことなのだが、居眠りをしてしまった。 夢の中の独田も現実の彼のように洋式便器にズボンを履いたまま座っていた。そろそろ仕事に戻ろうか思ったらしく、座ったまま水を流そうとレバーに手を伸ばす。そしてレバーを引いた瞬間、ドアの隙間から天井から床の隙間からありとあらゆる場所からものすごい量の水が流れ出してきた。彼はあっという間に水に飲み込まれ、何が何だかわからないまま便座の中へと流されていった。 「ハッ」 慌てて目を覚ました独田は思わず大きな声を出してしまった事に気づき、軽く咳払いをしてごまかす。 独田が居眠りはするのは割とよくあることなのだが、夢を見たのは初めてだった。それも、あんなにリアルな夢は普通の睡眠時にも見た記憶がない。ただ、忘れてしまっているだけのなかもしれないが。 夢の中ではあっという間の出来事であったが、腕時計を見ると5分ほども寝ていたようだった。 そろそろ会議に戻らなくてはと思い、夢の中の自分がやったように水を流すレバーへと手を伸ばす。が、先ほどの夢がみるみる蘇ってきて、嫌な汗が彼の頬を伝う。あの夢はもともと泳ぎが得意ではない独田に変な恐怖感を植えつけた。もし、また夢のように水が襲ってきたら……思わず身震いする。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。とここで、彼は何か違和感を感じた。何かがおかしい気がする。答えは程なくして見つかった。個室の外が妙に騒々しいのだ。まだ昼前だというのに、個室の外では色々な会話が飛び交っている。まるでここで会議が行われているかのようだ。 ともかく、ここを出よう。彼は意を決し、勢いよく水を流した。水は当然のことだが流れてはこない。ホッと胸をなでおろし個室のドアを開ける。するとそこには大勢の人がいた。上司に同僚、後輩もいる。その不自然な光景を尻目に独田はゆっくりとトイレから出て行こうとした。 「コラッ!お前どこに行くんだ!」 突然怒鳴ってきたのは、あの口やかましい部長だ。一体いつの間に来たのだろう。しかし、よくよく見まわすと、先ほどまで会議をしていた連中全ての姿があった。本当にここで会議をしているかのように。 「何をボーっとしておる。どこに行くつもりかと聞いているのだ!」 部長はなおもキツイ口調で詰め寄ってくる。 「あ、あ、いや。会議室に戻ろうかと…」 「また会議室かよぉ。お前一回病院でも行った方がいいんじゃないか?」 いつのまにか独田の隣にいる屈山が顔に嫌らしい笑みを浮かべながら言う。 何だ、この感覚は。まるで、前にもこんなことがあったような感覚。 独田は何だか気味が悪くなり、背中に突き刺さるたくさんの視線と共にすべてを振り切って会議室へと走った。 会議室はもぬけの殻だった。そりゃそうだ。会議に参加している人間は今全てトイレにいるのだから。ちょうどトイレ休憩でも取ったのかもしれない。ただでさえ、この会社の会議は無駄に長い。休憩でも取らなきゃとてもやってられないのは独田に限ったことではない。他の皆ももう少し待っていれば戻ってくるはずだ……った。あれから15分は過ぎたというのに誰も戻ってこない。もしかしたら会議は既に終わったのだろうか。いや、確か予定ではまだ2時間以上は時間が残っているはずだ。そんな急に取りやめになるなんてことは考えられない。独田はもう少し待ってみることにした。 おかしい。いくらなんでもこれはおかしい。独田は一向に戻ってくる気配のない会議室の天井を見上げながら、首をかしげる。もうあれから30分以上たっている。やはり何か特別なことが起きて会議は中止になったのだろうか。独田はついに痺れを切らし、仕方なく自分のオフィスへと戻ろうと席を立った。彼の机があるオフィスは会議室のあるフロアの一つ下だ。が、彼はたった1フロアの移動でもついエレベーターを使ってしまう。下向きに取り付けられた三角のボタンを押し、エレベーターがこのフロアに向かってくるのをランプで確認する。とそこへ、さっきの同僚、屈山がやってきた。 「お前、何やってんだよ」 「何って、オフィスに戻ろうかと…。そうだ!会議はどうしたの?」 「はぁ?お前何言ってんの?今もやってるよ。途中で勝手に出ていっといて、訳わかんねぇやつだな。ともかく、課長が新しいやつの紹介するから早く戻ってこいよ」 「戻って来いって、どこに?会議室にもう皆集まってるの?」 「お前やっぱり病院行った方がいいんじゃないのか?さっきから全員揃ってるだろうが。お前を除いて」 「でも、さっきまで誰もいなかったよ」 「そりゃ、会議室にいるわけねえだろうが!どこの世界に会議室で会議するやつがいるんだよ!ああ、埒があかねぇ。とっとと来い!お前のせいで俺まで説教食らうのはゴメンだからな!」 そう言うと屈山は独田の腕を取り、無理やり引っ張っていく。 誰もいなくなったエレベーターフロアにエレベーターの到着ベルが寂しく響いた。 屈山が連れてきた場所はトイレだった。さっき独田が居眠りをしていたあのトイレだ。 ドアを開けると狭いトイレの中に20人ほどの人間がいる。全員の視線が独田に集まり、まるで全員に針で突かれているかのように顔が痛かった。 「部長、独田をつれてきました」 独田の姿を見た部長の表情は怒りを通り越してあきれているといったものだ。 「ともかく、独田。頭岳課長が新しい製品を完成させたから見てみろ」 独田は最初は冗談かと思った。しかし、部長をはじめとする全員の顔は至って真面目だ。彼は困惑の表情を強めて部長にたずねる。 「見てみろと言われましても、こんなところで何を見ろと…」 「ええい!グダグダ言わないで、とっとと見ろよ!」 さっきからイライラしっぱなしの屈山は、独田の首根っこを捕まえると一番手前の個室へと引っ張っていく。 「な、何をするんだよ。個室に連れ込んで何をするつもりなんだ」 独田は精一杯の抵抗を試みる。というのも、訳も分からずトイレに連れ込まれるなんて冗談じゃないというのはもちろんだが、それ以上に小学校のときによくいじめられた場所というイメージが強いため、一人ならともかく、二人以上で入ると嫌な想い出が蘇るような錯覚に陥るのだ。 「もう、うるさいな!いいから見ろよ」 そう言うと独田は僕の首から手を離し、便器を指差す。 「便器なんか見てどうすんだよ」 「便器だけ見ても仕方ないだろ!中だよ、中!便器の中!」 「べ、便器の中!?ふ、ふざけるなよ!」 便器の中にあるものといったアレしかないではないか。屈山は一体何を考えているんだ。そもそも僕にそんな趣味はないし、興味も全くない。僕の趣向はいたってノーマルなのだ。もう、独田の頭の中は大パニックだ。 「ふざけてるのはお前だろ!いい加減にしろよ。じゃないとさすがの俺もキレるぞ」 明らかにキレた口調で屈山は独田を睨む。彼がここまで感情を露にするのは非常に珍しい。かと言って、ハイそうですか、なんて簡単に見ることなんてできるわけがない。トイレの個室での戦いは膠着状態に陥った。 「お前ら、誰が漫才をしろと言った。大事な仕事をお前らはなめてるのか?」 そこへ横から怒声を飛ばしてきたのは愚汁係長だ。この人は非常に短気だ。オマケに嫌な性格をしている。人の弱みをネチネチと痛めるのが好きなのだ。おかげでどうも人間関係を築いていくのが得意ではないらしく、40が見えてきていると言うのにまだ係長に甘んじている。とても不惑とは言えない人だ。 独田は具汁係長を苦手としていた。何せこの人は嫌な性格に加えて、油断すると簡単に手が出てくるという危ない一面も持っている。社会人になってまでそんな目にあうとは想像していなかった独田は、いきなり頬を叩かれたときには痛み以上のショックがあったのを覚えている。確か、入社して間もない頃だ。当時、係長に昇進したばかりの愚汁は、ここぞとばかりに平社員をいじめていた。簡単な書類のミスから、お茶汲みのお茶の入れ方に至るまでほんの些細なことをさも大失態を犯したかのように誇張して説教をする。独田が頬を叩かれたのはつい叱られた事に対し口答えをしたためだった。だいたい、何で書類にはんこをもらいに行っただけなのに、そのもらい方がおかしいと説教を受けねばいけないんだ。いくらおちこぼれとは言え、こっちにだって仕事がある。毎回はんこをもらうたびに説教を受けていてはさすがの彼もたまらなかった。そこでつい「仕事があるんですが」などと言ってしまったのだ。それは頭で考えるよりも先に出た言葉だった。愚汁はその声を聞いた途端、みるみる顔を赤らめ、椅子から思い切り立ち上がったと思ったら、そのまま平手打ちを食らわしたのだ。それまで、色々な会話が飛び交い騒然としていたオフィスがその乾いた音に一気に静まり返った。他の皆も愚汁の短気振りはよく知っていたし、酒の場などでは部下に暴力を振るうこともよくあった。しかし、さすがに社内で手が出るとは夢にも思っていなかったのだろう。オフィス全員の目が二人の方へと一斉に向けられたまま、時間が止まった。その視線の痛さに、まるで独田が非難を浴びているように思えて、頬の痛みが増していく。「何、ボーっとしている!仕事をしろ!」という、普段の倍に近い音量で愚汁が怒鳴ったことで、オフィスは再び何事もなかったかのようにいつもの喧騒に戻った。そう、この愚汁という男は自分が失態をしたなどとは露にも思ってはいない。再び怒りの形相を独田に向けた後、具汁は更に1時間にも渡り説教を続けるという伝説を残した。その事件以来、社内で具汁に頬を叩かれた人間は現れていないが、「触らぬバカに祟りなし」という格言が社内に広まったためだ。それは独田も同じこと。それ以来、彼は愚汁に決して文句を言わないことを決めた。下手に文句を言ってまた叩かれてはたまらない。でも、それ以前にこんな暴力係長を雇い続けている会社に疑問があったが、そう簡単にリストラを出来ない事情もあったようだ。難しいことはよく分からないのだが。 そんなわけで、愚汁の罵声に後押しをされるかのように独田は渋々便器の中を覗いて見る事にした。それは恐る恐ると言うよりも明らかに嫌々という動きだった。こうやって自分の感情を隠せないのも、営業にむいてない理由の一つのようである。 しかし、その便器の中に僕の想像するものはなかった。 代わりに、と言っては何だが、何とも便器とミスマッチな可愛らしい物体が水に浮いていた。 |