体珠 第弐話 |
それはピンク色をした立方体。一辺の長さは5センチと言ったところだろう。だいたいサイコロキャラメルと同じくらいだと言えば、大体の大きさは伝わるだろうか。 それにしても、なぜこんなところにこんなものが入っているのであろう。何か意図でもあるのだろうか。周りの社員は真面目な表情で黙って僕の様子をうかがっている。が、ただ一人。頭岳課長だけは違った。明らかに笑みを浮かべて独田の様子を眺めていた。 この時独山は悟った。やはり自分はだまされている。普段、パッとしない自分を会議に参加していた全員でだましてからかっているのだ。きっと課長以外の面子も心の中では大笑いしているに違いない。ここまで考えて独田の胸には沸沸と悔しさと怒りががこみ上げてくる。いくら、仕事が出来ないからといって、たまにトイレでサボっているからと言って、いやこれはまずいのだが、ともかく、人をハメようとするなんて酷いやつらだ。普段は大人しい彼もさすがにこれにはキレてしまった。キレた後どうなるとか、そんなことは一切考えられなかった。大体、生まれて初めてキレたのだから。 「どういうことですか!」 明らかに怒りを孕んだ僕の言葉に全員が息を飲む。 「どういうことなんですか!」 突然怒り出した独田に屈山が驚きの声をあげた。 「おいおい。独田、何怒ってるんだよ。今はそんな場じゃないのは分かってるんだろうが」 屈山はこの期に及んで、まだ白を切るつもりらしい。他の社員が何も言ってこない辺りを見ると、全員が同じ考えのようだ。独田の怒りはますますヒートアップしていく。 「だから、何でこんなものをこんなところで見せられなきゃいけないんだよ!人をバカにするのもいい加減にしてくれ!」 その言葉に誰よりも早く反応したのは他ならぬ課長だった。 さっきまで浮かべていた笑みはどこへいってしまったのか、鬼気迫る表情で独山に近づいてくる。 「こんなものとはどういうことだ」 頭岳課長は怒りを押さえ、あくまで冷静に、しかし語尾は強く、一語一語を静かに話す。 「課長、落ちついてください。ほら、こいつはちょっと今日おかしいんですよ。こんなにも素晴らしいのに…」 屈山は必死の様相で課長をなだめている。予想していない展開に、怒りを抱えたまま独田の頭が混乱し始める。 「うるさい!私は独田に言っているんだ」 独田の方を見つめたまま屈山を一括する。そして、軽く息を吸いこむと、もう一度静かに、しかし先ほどよりも語尾はキツく話し出す。 「改めて聞く。こんなものとはどういうことだ」 「ど、どういうことだと言われましても…」 課長の真剣なまなざしに先ほどまでの怒りの感情が吹き飛んでしまった。課長をよく見ると、瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるようにも見えた。独田の頭はパニックで大混乱で大騒ぎだ。 「私がこの作品を作り上げるまでに一体どれだけの時間と労力がかかったと思っているのだ!こんな屈辱は初めてだ!失礼する」 課長はそれだけ言うと足早にトイレを立ち去った。最後の辺りは涙のせいか言葉になっていなかったように聞こえた。 課長が出て行くのを見送った部長は軽く咳払いをした。それがきっかけとなり、他の社員も静かにトイレから出て行き始める。 後に残されたのは独田と便器に浮かぶピンク色の物体だけだった。 全員が出て行き、誰もいなくなったトイレで独田は便器に浮かぶ立方体を眺めていた。 ピンク色の蛍光色で彩られたそれは、サイコロのように数字を出すわけでもなく、ただゆらゆらと水面で踊っている。 頭岳課長はとても仕事熱心な人だ。独田は噂で聞いただけだが、一昔前は企画課に頭岳ありと社外にも有名であったと言われる。 独田は過去に一度だけ頭岳と仕事の後に飲みに行ったことがあった。そのときに受けた印象は、ただひたすらに真面目で、仕事に対する情熱にあふれている人であった。管理職となった今もバリバリに開発を続けている彼の作品を、社内では時代遅れだと悪く言うものも少なくなかったが、独田はその仕事振りも作品も尊敬していた人間の一人である。 そんな課長が、悪ふざけをしているだなんてよくよく考えればありえない話なのだ。 涙で声を詰まらせた課長の最後の言葉を思い出しながら、ひどい事をしたと独田は後悔するのであった。 しかし、ここまでの思いをもって作り上げられたこの物体は一体何なのであろう。ある場所がある場所だけに、それを手にとることには抵抗があったが、キラキラと水に反射する物体を独田は素直にきれいだと思った。 とにかく訳が分からなかった独田は会社を早退した。 屈山は一応体の心配をしてくれたが、独田からすると何か腫れ物に触るかのような印象を受け、あまり気分のいいものではなかった。 外は春とは思えない熱気で包まれていた。 時間は3時。まだ、涼しくなるまでには時間がかかりそうだ。 視線を1メートル前方の地面へと置き、トボトボ歩く男。時期が時期だけに、まるで会社にリストラされたかのようだ。背中から漂わせている哀愁もとても20代のそれではなかった。想像以上に課長の涙は彼に強い衝撃を与えていたのだ。 独田はとりあえず自宅へ帰ることにした。 どこかで時間をつぶしたり、何かをしにいこうという気分にはなれなかった。 家に帰り、布団に横になって、テレビでもボーっと見る。そうすれば、このおかしな気分も何とかなるだろう。 こうなった理由を考えるのも彼には今は苦痛以外の何者でもなかった。 焦点のはっきりと定まらない視線では、今までと街並みの様子が違うことに気づくことはなかった。 5分ほど歩いたところにある駅から自宅までは1本の電車でたどり着くことができる。 約30分の電車の旅だが、乗換えがないことと、始発駅なので早く行けば座席の確保も可能なため、通勤自体はそれほど苦ではない。逆に同僚からうらやましがられるぐらいだから、余程ほかの人間は苦労しているのだなぁと漠然と考えるぐらいだ。 定期券を使い、慣れた手つきで自動改札を通り抜ける。 さすがに平日の昼間ともなれば、朝夕のような人の数を見ることはない。 いつもは人の流れに流されるまま上り下りをする階段を一歩一歩上る。いつもは気にならなかったが、想像よりも急な階段であったことに気づく。 次の電車が2分後にくるというホームでは、駅構内で見た以上には人が待っている。ただ、ラッシュ時のような理路整然さはなく、思い思いの場所で、思い思いの方法で電車の到着を待っていた。 独田はいつも乗り降りする前方から三両目の一番前のドアが停車する場所へとゆっくりと歩いていく。 別に今日は急ぐあてもないのだから、帰りの駅の階段のことなど考える必要もないのだが、ついつい日々行っていることは無意識に出てしまうものだ。 ちょうどそこには3人組の女子高生が大声で会話をしていた。 いつもの独田ならば、カバンから文庫本を取り出して読むところであったが、今はそんな気分にもなれない。ただ何も考えず、ボーっとしていたいのだが、女子高生のうるさい会話は嫌でも耳に飛び込んでくる。 「なんか、最近便秘気味でぇ、金なくてチョー大変だよ」 話の筋がまったく見えない。まあ、最近の女子高生の会話なんてこんなものだ。これでも独田と彼女たちでは10歳も年が離れているわけではない。しかし、今の時代、3歳も年が違えば十分ジェネレーションギャップを感じることができる。寂しい世の中になったものだと独田は思う。別に女子高生と仲良くなりたいわけじゃないが、自分よりも若い世代との間にどんどん溝や壁が生まれていくのを黙って見過ごしていると、想像以上の速さで老けていくようで、やはり気分のいいものではない。 「そうそう、これ見てよ」 そう言って別の女子高生がポケットから取り出したのは黄色い水晶のような物だった。大きさは今日トイレで見たピンク色の物体よりはかなり小さく、高さは2センチもないだろう。また、形は立方体ではなく三角錐だった。小さいくせに太陽光に反射した光はまぶしかった。 「わあ、何?今日の?」 ほかの2人の方が目を輝かせて覗き込む。 「うん。先週ナンパしてきたヤツがいてぇ、そいつに教えてもらったんだぁ。」 「え、どうやんの?どうやんの?」 「沙織たちじゃダメだよぉ。あたしだからできたんだもん」 「うわっ、ムカツク言い方ぁ」 「でも、これなら高く売れるんじゃない?」 「でしょ?私も期待してるんだぁ。でも、これで安かったら先週の男見つけて、ぶっ殺しとかないと」 最後の一言で、3人は高らかに声をあげて笑い出す。ぶっ殺すだなんて物騒な台詞で笑える神経が独田には理解できなかった。 それはともかく、どうやらあの水晶のようなものは高校生の1人が作ったものらしい。それにしても、あんなものどうやって作るのだろう。そういえば、課長が作ったというあのピンク色の物体だってどうやって作り出したのだろうか。それ以前にあれをどうするのだろう。まさか、さっきの女子高生みたいに売ってお金にするわけではないはずだ。何せ、独田が勤めている会社は食品会社なのだ。課長だって食べ物を開発していたはずなのに、なぜあれを開発する必要があったのだ。疑問は一向につきないが、女子高生の能天気な会話のせいか、多少は気分が落ち着いた独田はやがてやって来た電車に乗り込みながら、改めて色々と考えをめぐらせることにした。 その後、その謎の物体はいろいろなアクセサリー、例えばキーホルダー、ピアス、指輪、ネックレス、携帯ストラップ、といったものにつけている人がたくさんいることが分かった。何せ、ざっと電車の車内を見回すだけで簡単に見つけることができるのだから。 ただ、色のついているものはほとんどなく、形は様々、その割に二つとして同じものはなかった。わずかに見受けられた色のついているものの色はすべて蛍光色であり、原色のような鮮やかな色をもつものはなかった。だからこそ、それが宝石とは違うのは一目瞭然だった。どちらかといえばプラスチックでできたおもちゃの宝石といった印象が強いものなのだが、なぜか心を惹かれるものをその物体は持っていた。それに魅せられたのか、独田もその謎の物体を欲しいと感じ始めていた。 ちょうど次の駅は若者に人気のあるショップが建ち並ぶスポットに近い。そこで、独田は途中で電車を降りることにした。 ただ問題はどこに行けば手に入るのかということだ。 ホームの女子高生は自分で作ったと言っていた。となると実物ではなく、材料が売っているということだろうか。とりあえず、いくら必要になるかも分からない独田は真っ先に駅前にある銀行へと入った。キャッシュディスペンサーに銀行のキャッシュカードを差し込み、タッチパネルを操作する。 独田は趣味の少ない男だった。これでも学生時代はテニスなんかをしていたりはしたのだが、最近はめっきり運動することもなくなった。普段の休みの日は一日中ゴロゴロとテレビを見ているか、外出するといってもせいぜいパチンコ止まり。そのパチンコもいくらでも金をつぎ込むようなことはしない。彼にとってはあくまで暇つぶしであって三千円以上使うことは滅多にない。タバコは吸わないし、衝動買いもしない。酒は屈山などに誘われてよく飲みに行ったりするが、自宅でまで飲むようなことはしない。結果、必然的に彼には同年代の人間に比べれば明らかに蓄えが多くあった。 独田はひとまず十万円を口座から下ろすよう機械を操作する。やがて出てきた金を受け取ろうとすると、見慣れぬ投入口が付いているのに気づいた。そこには「体珠」と書かれていた。 「たいじゅ…?」 ひとまず現金を財布の中へとしまうと、CD機のスタート画面に目を凝らし、メニューに並ぶ項目を目で追う。 「お預入れ」「お引出し」「お振込み」 「通帳記帳」「ご 融 資」「体珠換金」 そこに並ぶ見たことのない「体珠換金」の項目。 「そうか。ここでさっきの物体、体珠を換金することができるのか」 そうであるなら銀行で手に入れることができるかもしれない。と独田は声には出さずつぶやく。そして、「体珠」がここまで社会に浸透しているものだとは知らず、テレビを見ている割には流行に疎い自分を恥ずかしく思った。 ひとまず、独田は銀行を出た。 手に入れられるものならばここで手に入れたかったが、あいにく営業時間は過ぎている。 銀行で扱うほどのものであるから、どこでも手に入るとは言い難いだろうが、幸いにも物体の名前もわかったことだ。どこかに専門店は必ずあるはずだ。独田はスーツに鞄のビジネスマンの格好のまま若者が多くたむろしてる広場へと歩き始めた。 |
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