1
ぽつん、と一声、猫の声が闇の中に落ちてきた。それは水面に落ちた一粒の水滴のように、夜
の闇に波形を形づくり、ゆらゆらといつまでも余韻を残し、やがて、消えた。俺はいつまでもそ
れに聞き入っていた。その声が、日が暮れてこの山間の村の宿に身を横たえてから初めて聞く音
だった。ランプの火までもが、それに呼応して、低い振動の音をたてた。後は他に何の気配もし
ない。静か、というよりも、なんだか俺以外の人間がすべて消え去ってしまったかのようだった。
俺の生まれ育ったザールブルグには、こんな夜はなかった。酒場からは喧噪や陽気な音楽がいつ
も遅くまで聞こえてきたし、たとえ町中が寝静まった真夜中でも、人々の息づかいが、静かに町
の空気にざわめきを与えていた。
眠れなかった。
静かすぎるのも落ち着かなかったし、久しぶりに身を横たえる柔らかい寝床も、なんだか今で
はかえって落ち着かなかった。ザールブルグから馬車を三週間以上乗り継ぎ、俺は今朝早く、近
くの町に着いた。さらにそこから半日歩いてやって来たこの村は、この辺の他の村や町に比べて、
少しばかりましとはいえ、やはりこの間の戦争の傷跡を色濃く感じさせた。
「四年間、か」
俺は思わず口に出していた。歴史は動き、俺たちの人生は別れた。それだけじゃないか。今更
来るべきじゃ、なかった。そんなことに何の意味もない。そう。人間はたった一年でほぼ別人に
なってしまうことだって可能なのだ。この時間は……、一人の人間を変えてしまうのには十分す
ぎるだろう。
あいつがザールブルグを出ていってから、しばらくの間は頻繁に手紙が来た。その手紙はまる
で距離を感じさせないかのように、いつも生き生きと俺に語りかけてきた。ドムハイト王国領の
町に落ち着いて、アカデミーを建設しはじめたのが、ザールブルグを出た翌年。さらに次の年に
は無事に建設し終え、こっちでも本格的に錬金術を広めると、とても張り切っていた。仕事の量
が増えているのだろう。だんだん、手紙の間隔が空いてきた。そして……。リリーから来た、最
後の手紙。
「もう少しだけ時間をちょうだい、ヴェルナー。こちらのアカデミーが軌道に乗って、ここのス
タッフに教えることがなくなったら、必ず帰ります。指輪、ずっと身につけているわ。毎日、あ
なたといるような気がするの。大丈夫。なくしたり、壊したり、していないわ。『大切な商売道
具』だものね。あなたにもう一度会う日まで大切に預かっておくから、心配しないで。生きて、
帰る約束だものね。アカデミーが建って、安心してから、よくあなたの夢を見ます。相変わらず、
無愛想で、不機嫌そうで、あたしをからかってばかりで。なんで夢の中でまでっていつも思うの。
でも、大好きよ、ヴェルナー」
その直後、シグザール王国と、ドムハイト王国との間で、戦争が勃発した。両国間の交易や
通信の手段は一時期ほぼ完全に途絶え、俺は、あいつがどうしているのかと心配で気が狂いそう
だったが、国境を越えて長距離を移動できる手段はほぼ完全に途絶えてしまっていた。実際、何
度シグザール王国領を抜けて会いに行こうと思ったか分からない。しかし、客観的な条件を考え
ればそれは得策ではなかった。せめて機会を得たらいつでも出発できるように、俺は情報を集め
始めた。
戦況は一進一退を繰り返し、じりじりとした時間だけが過ぎていった。俺は戦火をかいくぐっ
てやって来る異国の行商人たちから情報を収集しつづけたが、状況が好転する兆候は一つもなか
った。ザールブルグにも、否応なしに、きな臭い匂いが充満して来た。製鉄工房では昼夜を問わ
ず、武器を鍛える音が鳴り響き、腕に覚えのある冒険者たちが、ぞくぞくと近隣の村から集まっ
てきた。
俺はといえば、相変わらずだった。戦争がはじまっても、俺の店に訪れる物好きな客の顔ぶれ
は変わらなかったし、そういった連中は、戦争でもとくに生活が変わるということはなかった。
ただ、雇っていたメイドは辞めていった。王室騎士隊の聖騎士の恋人が、戦死したのだ。彼女は
失意と悲しみのあまり身体を壊し、故郷の村に帰って行った。
錬金術アカデミーも、王宮から戦争協力を要請されていた。しかし、ドルニエ校長以下、錬金
術ギルドの連中は、頑としてそれを受け入れなかった。最初は王の援助で開校されたアカデミ
ーではあったが、この確執のため、完全に援助を絶たれてしまった。彼らはさらに、戦争で負傷
した人々にほとんどただ同然で錬金術の薬を分け与え、このため、経営はひどく悪化しているよ
うだった。そしてある日、ひどく面やつれした少女が、俺の店にやって来た。
「……お久しぶりです、ヴェルナーさん」
「ああ……、たしか、リリーの弟子の……?」
少女はボロボロになったマントを、ふわり、と脱ぐと、俺に会釈した。
「イングリドです。今日は折り入って……、お聞きしたいことがあって来ました」
久しぶり、大きくなったな、などと普通は声をかけるところなんだろうが、イングリドの険し
い表情は、そんなありきたりのご挨拶をしている暇を与えなかった。
「ヴェルナーさん、あなたなら……、もしかしたら先生と今でも連絡を取り合っているのではな
いか、と思いまして……」
イングリドの頬はこけ、手はガサガサに荒れていたが、それでも左右色の違う目は強い光を
放っていて、この年頃の少女には似合わず、見る者を圧倒する気品を漂わせていた。俺は言った。
「去年、向こうでアカデミーをようやく建設したって手紙をもらったきりだ。それ以来……、何
も来ちゃいねぇ」
イングリドはため息をついた。
「ああ、やっぱり……、あたしたちと同じなんですね」
ひどく気落ちした様子のイングリドを見て、俺は尋ねた。
「何か……、あったのか?」
イングリドは俺に聞かれて、一瞬少しためらうかのように目をそらしたが、やがておずおずと
説明を始めた。戦況は一進一退で、王宮側は、一刻も早くアカデミーに強力な兵器を作るように
要請しているということ、ずっと断り続けていたが、今日はついに王室騎士隊長に正式に就任し
たウルリッヒが、わざわざアカデミーにやって来て、こう言ったという。
「すまぬ。貴公たちの気持ちはよく分かる。自分たちが作った兵器で、リリーのいるドムハイト
王国に攻撃をしかければ、彼女もどうなるか分かったものではない。私も彼女に刃を向けたくは
ない。しかし、戦況は一刻を争う状況なのだ。王宮は、御前会議により、本日付けで、戦争協力
を惜しめば、アカデミーに対し、実力行使に出ることを決定した。明日正式な詔勅が下るであろ
う。それでも貴公たちがあくまで拒絶する構えであれば……、私は、貴公たちを捕らえねばなら
ない。私がここに今日来たのは……、あくまでも友人としての私事だ。明日は公務で来なければ
ならない。明日の協力要請には決して逆らわないで欲しい。貴公たちが簡単に考えを変えてくれ
るとは思えぬが……、頼む。この通りだ」
そう言って、あの長身をかがめ、頭を下げてイングリドたちに協力を要請したのだそうであ
る。
「あの、ドルニエとかいう校長は、なんて言っているんだ?」
俺が聞くと、イングリドは言った。
「それでも、断固として戦争に協力はしたくないそうです。先生は、強力な兵器を使用すれば、
国の規模や技術水準としてはシグザール王国と同程度のドムハイト王国でも、同じく強力な兵器
を使用して来て、戦争による被害がひどくなるだけだとお考えです。それにケントニスの元老院
は……、錬金術を人殺しの道具に用いることを禁止しています。もし破れば、ドルニエ先生も、
私たちも破門は免れません」
「ああ、そうらしいな。何でも、他国との軍事的折衝には原則として関わらないことを前提とし
て錬金術を広めよう、っていうのがケントニスの元老院の基本方針だそうだな」
イングリドは少し驚いた顔をした。
「よくご存知ですね」
「何……、まあ、おまえたちが来て以来、エル・バドールの文物だって、けっこうここに入って
きているんだぜ。そんなことより、イングリド、おまえはどうするつもりなんだ?」
俺が聞くと、一瞬イングリドは口を真横に結び、それから厳しい口調で話し始めた。
「あたしも錬金術が人を殺すことに使われるのは嫌ですし、リリー先生のいる場所にそれが使わ
れたらと思うと、絶対に認められません。ですが……、この協力要請を拒めば、リリー先生が心
血を注いで作ったアカデミーが、取りつぶされてしまうかもしれない……。ずっと一緒にここで
学んできたヘルミーナとも話し合って、もし涙をのんで協力要請を受けるのであれば、せめてリ
リー先生には、安全な場所に避難しておいてほしいと考えたんです。それで、何か先生に関する
情報はないかと思いまして……」
俺は言った。
「もし俺がリリーと連絡をとる手段をもっていて、彼女に避難を勧められたら……、兵器を作る
つもりだったのか?」
イングリドは言った。
「……その可能性は……、ないわけでは、ありません」
俺はイングリドの目をのぞき込むと、尋ねた。
「いいのか、それで?」
イングリドはうなだれて、こぶしを強く握りしめながらこう言った。
「……分かりません。あたし、本当はドルニエ先生も、リリー先生も、あたしたちのアカデミー
も、アカデミーの生徒も、それから錬金術の理想もみんな守りたい! でも、どれかを捨てなけ
ればならないなら、それなら、どれかを選ぼうって、ヘルミーナとも話し合ったんです!」
俺は腕組みをしてしばらく中空を見つめてしまった。戦争は……、無駄だ。人間の命も、金
も、物資も、無駄に使う。まったくの無駄だ。俺の店の品物は、一般的な意味で役には立たない
かもしれないが、でも、それを欲しいと思う連中の心を楽しませることはできる。戦争は……、
たとえそれで一握りの儲けるやつらがいたにしても、何も生まない。敵同士の間で限りなく憎し
みが増殖して行くだけだ。
怒りが湧いてきた。
「逃げろ」
俺が言うと、イングリドは、一瞬、えっ?というような顔をした。
「逃げちまえよ。リリーなら、きっとそうするぜ。せっかく事前に『私事』で、あのお堅い騎士
隊長さんが知らせてくれたんだ。遠慮なく逃げろ。明日王室騎士隊が来る前にな」
「でも、アカデミーが……」
「そんなもの、また建てりゃいいさ。そりゃ、おまえたちがこの国に最初に来たとき、錬金術は
まったく知られちゃいなかったし、リリーの腕前だって素人に毛の生えたようなもんだったから、
あれだけ大変だったんだろう? でももう、今じゃこの国に錬金術はなくてはならない技術だし、
学問だ。資金を集めるのだって、以前ほどは大変じゃねえだろ? ま、どっかに身を隠して、ほ
とぼりが冷めたら、戻って来いよ」
俺が言うと、イングリドは両目に涙を浮かべて微笑み、こう言った。
「……はい、分かりました。どうも……、ありがとうございます、ヴェルナーさん!」
少女が階段を駆け下りていく音がしばらく店の中に響き渡っていった。それはなんだか、あの
懐かしい足音を彷彿とさせた。音の記憶、味覚や嗅覚や触覚といった記憶は……、駄目だ。こう
いうのは、容赦がない。不意打ちのように思い出してしまったのは、ちょうど必要なものが手に
入って喜んで帰って行く足音、俺にからかわれて怒って帰って行く足音、それから、名残惜しそ
うにこっちを振り返って、微笑みながら、そっと帰って行く足音……。
「リリー……」
つぶやいて、いた。
2
不安と、心配と、焦りと、退屈と。こいつらをなだめるため、俺は毎日大量に本を読み漁るよ
うになって行った。最初は、リリーのいる地域の情報を収集する目的で始められたが、読書量は
次第に増えていった。内容は手当たり次第。世界の成り立ちについて。この王国の創立にまつわ
るいにしえの話から、隣国ドムハイトはもちろん、遠いエル・バドール大陸の政治形態、文化、
技術、……。
「ケントニスには、神様がいないのよ」
いつだったか、リリーが言っていた。
「そいつはいい。何事につけ説法をたれる神父様がいないと、さぞかし風通しがいいだろう」
俺が言うと、リリーは吹き出した。
「神父様全員が、クルトさんみたいに堅いわけじゃないでしょう?」
錬金術についてもずいぶん調べた。なるほど、根気がいる学問だ。俺みたいな飽きっぽい人間
には、極めるのは無理だな。でも、錬金術のしくみについての本を読むのは楽しく、いつのまに
か、俺は錬金術について、知識だけはかなり豊富になっていた。
「神を越えようとする学問、か……」
面白い。
神様は、信じる者には安らぎを与えるかもしれないが、そうではない人間には鉄の鎖だ。俺は
そんなものに絡め取られたくはない。価値観は……、それを信じる者にしか、恩恵を与えない。
その意味で、宗教と俺の店の品物に、どれほどの差があるのだろう? 信じる人間の絶対数だけ
じゃねぇのか?
最初、俺は錬金術について、単なる学問の一種と思っていた。しかし、それはとんだ間違いで
あったようだ。少なくとも、ケントニスにおいては、錬金術は一つの信仰のようなものであり、
同時に政治技術でもあるようだった。
ケントニスでは、元老院という組織が重要な政治的決定権をもっている、と何かの本に書いて
あった。元老院とは、学術機構であると同時に政府機構である、と。学術が政治と密接な連携を
保っている学際都市ケントニスでは、錬金術の技術の向上に努めること立法や行政を執り行うこ
とが同程度の重要性をもっているという。
さて、それでは錬金術とは何であるのか?
これは、錬金術師が真の意味で錬金術師となるために、問われなければならない命題である、
と何かの本に書いてあった。命題には、数学などの定理と違って、正答はない。ただ、あえて言
えば、これを個々の錬金術師が問い続け、歩んだ人生の軌跡の一つ一つが、この命題への返答で
ある、と。
「世界にただ埋もれてある者ではなく、世界を改変でき得る者であるということ。錬金術師は
このことをつねに意識しなければならない。世界は、人の手によって変えられ得るものである。
しかし、一つのものを調合するときに、それを作るための素材は破壊されるのだ。その意味で、
錬金術師は破壊と生成を司る神である。神の摂理を越え、神であることを選ぶ者は、つねにそ
のことを自覚せねばならない」
あいつが俺を置いて出ていってしまったとき、正直言って、納得できなかった。見捨てられた
ような気がした。でも……、今なら分かるような気がする。錬金術師にとっては、とくに、元老
院の勅命を受けた錬金術師にとっては、錬金術の普及は宗教家の伝導に通ずるものがある。あい
つは……、何も言わずに出ていこうとした。俺とあいつとの圧倒的な世界観の違いを自覚した上
でのことだったのだろう。無理もない。俺は……、あいつに、少しでも近づきたい。少なくとも、
この次に会ったら、理解し得たことを少しでも話してやりたい。でも、どうやって話せばいいの
だろう?
いつの日か、俺はそんなこんなの考えを、書き記すようになって行った。時間は腐るほどあっ
た。あいつがいなくなってから、俺は店番をしながら読んだり書いたりを繰り返した。飽きっぽ
い俺だが、日々状況が変化することがらについて調べるのは楽しかった。そして……、今、この
世界で刻々と変わり行く政治や経済や文化の状況を分析し、書き上げた記事を王室の広報に送っ
てみた。これは随時募集されているもので、王室が、交易商や流れ者の冒険者から情報を集める
ために行っている。この世界の情勢を客観的に知らしめることによって、馬鹿げた戦争にはやく
終止符を打って欲しい。そんな気持ちもあった。俺が王室のやり方に対してできる、精一杯の抵
抗だった。
しかし。
これが、意外に評判になった。
「読んだわよー、ヴェルナーさん」
あいかわらずこの店に頻繁に顔を見せるその少女は、やけににやにや笑いながら、こう言った。
「なんだ、エルザ。おまえ、王室の発行している新聞なんて、読むのか?」
俺が言うと、エルザは少しむっとした顔をした。
「読むわよ、それぐらい! ちゃんと読まないとセヴァスチャンに叱られ……って、えっ、え
っと、うん! 新聞が大好きなのよ! うふふ……」
「……その、気持ち悪い笑いはやめろ」
「でもねえ、政治の記事よりも、あたし、連載してる小説の方が、好き。あの小説の主役の錬金
術師の女の子って、絶対にモデルはリリーよね? ねっねっ!?」
「……おまえ、あっちも読んでるのか……?」
俺は、いつの間にか、いろんなものを書くようになっていた。小説を書いたのは……は雑記と
違って自分の考えを虚構の皮膜で包み、上手く誤魔化して表現することができるからだ。王室は、
自らの方針に沿わない記事や評論を好まない。いや、あからさまな批判を行えば、下手をすれば
不敬罪に問われてしまう。事実を事実として書くことが難しいことがら……たとえば、馬鹿げた
王室の「名誉」と「欺瞞」、合理的とは言いかねる教会の「迷信」、そういったものを風刺する
ための手段として、俺は小説を書き始めた。
最初は退屈しのぎだったが、自分にこれほど打ち込めるものが見つかるとは……、正直に言っ
て思ってもみなかった。作品を書き上げ、満足がいったとき、なんだかリリーに一歩近づけたよ
うな気がした。それが嬉しくて、また、書き続けた。
「も〜、社交界、じゃないや、えっと、パン屋の職人さんたちにも大人気よ、あの小説! ねぇ、
今度単行本で出版されるんだって?」
「……まあな」
「でっでっ、しかも! 表紙の絵は、アイオロスさんが描くんでしょう? もう、楽しみで、楽
しみで! でね、出たら買うから、絶対サイン書いてね〜! アイオロスさんは、署名を入れて
くれるって約束してくれたのよ! うふふふふ……」
言いたいことだけ言うと、エルザは小走りに去っていった。俺はため息をついて、また書きか
けの原稿用紙に向かった。
3
あの大がかりな戦争は、結局二年間も続いた。戦争が終わっても、リリーからの連絡は、一向
に来なかった。グランビル村に隠れていた錬金術ギルドの連中もみんな帰ってきて、ザールブル
グの街は、また平穏な姿に戻って来た。錬金術アカデミーは、結局、「疎開」していただけだと
いう主張が認められ、何のおとがめも受けなかった。イングリドとヘルミーナは、二人そろって
俺の店に挨拶に来た。
「やっぱり、ヴェルナーさんの言うとおり、逃げておいてよかったです!」
そう言って笑顔で話すイングリドに、俺は言った。
「……まったく、裏ぐらい読めよな。あの騎士隊長さんが、わざわざ内部情報を知らせてくれた
んだ。もしその話が受けられないんじゃあ、公的な詔勅が下る前に、逃げとけって言ってるよう
なもんじゃねえか。いいか、人間にはそれぞれ立場がある。俺みたいな身軽なやつはそうでもな
いが、ああいうやつは、本音だけじゃ生きられねえ。まあ、その話を聞いて、ウルリッヒを少し
見直したがな」
俺が言うと、今度はヘルミーナが口を開いた。
「あの……、話は変わりますが、戦争が終わったのに、まだ、あたしたちのところには、リリー
先生からの連絡が届かないんです。ヴェルナーさん、何か、知りませんか?」
俺はまくっていたシャツの袖を直しながらため息をついた。そんなもの、俺が知りたい。知り
たくて、仕方ねえ。
「あいにく、だな」
俺が言うと、二人の少女はひどくがっかりした顔をした。
「先生の建てたアカデミーは、戦火で燃えちゃったみたいだし」
と、イングリドが言うと、
「先生は、生徒たちを引き連れてよそに行っちゃったみたいだし」
と、ヘルミーナが言った。
「おい! その情報! いったいどこで仕入れやがった?」
俺の剣幕に気圧されて、二人の少女はたじろいだ。
「いえ、その……、今日交易にやって来たキャラバンの人たちから……、聞きました。今、中
央広場に、いるはずです」
ヘルミーナが言い終えたときには、俺は、リストバンドの紐を締め直して、外に飛び出して
いた。
*
中央広場のキャラバンの馬車の前には、長い列ができていた。俺はそれを掻き分けて中に入
った。行列しているやつらが口々に文句を言ったようだったが、そのときの俺には耳に入らな
かった。
行列の先には、見知った顔。
「イルマー!」
大声で俺が呼ぶと、イルマは占いの手を止めてこっちを向いた。
「あら、ヴェルナーさんじゃない! 久しぶりねえ」
そう言って、嬉しそうに笑った。
「おまえ、リリーについて、なんか知ってるのか!」
俺が怒鳴ると、イルマは驚いた顔をした。接客中だったんだよな。怒鳴ってしまってから、俺
がこの事態について少々罰の悪い思いをしていると、イルマは何もかもお見通しのように微笑
んだ。それから、たった今占いをしようとしている客に、ごめんなさい、五分だけ待ってくれ
ますか、と言って俺の方を向いた。
「私たち、今朝、ザールブルグに戻って来たの。あなたのところには、今晩行って話すつもり
だったわ」
そう言って、イルマはにっこり笑った。
時間がないから手短に話すわね、と断ってイルマは話し始めた。戦争中、各地を転々として
いたこと。その中で別のキャラバンから、ドムハイト王国にも錬金術アカデミーができたこと
を聞いたこと。そのアカデミーの創設者は、
「リリーに間違いないって、分かったわ」
とイルマは言って口元を引き締めた。彼女は説明した。ドムハイト王国でも、錬金術アカデ
ミーは強力な兵器を作ることを要請され、リリーは断固として拒否したらしいということ。戦
争で負傷した人たちのために、アカデミーの建物を一部開放して、看護にあたっていたらしい
ということ。しかし、戦火は一時苛烈を極め、リリーのいた町も市街戦にさらされるようにな
って行ったということ。リリーは、アカデミーの生徒や病人たちを誘導して、比較的安全な、
山間部の村に避難して行ったということ……。
「その村のだいたいの位置は、この地図に描いてあるわ。申し訳ないんだけど、どの村とまで
特定できてはいないのよ。これはあなたにあげる。向こうに着いてから情報を集めてね」
「おい、俺はまだ探しに行くとは……、言ってねぇぞ」
俺が言うと、イルマはおかしそうに口の両端を引き上げた。そして、
「幸運を……、祈っているわ」
そう言って、俺の目をまっすぐに見つめると、満面の笑みを浮かべた。
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