王立起源292年の夏休み



      
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 昼前に常春の湖に辿り着いたアイオロスは、早速、リリーとヴェルナーの絵を描き始めた。
「二人とも、モデルだってことは、意識しなくていいからね。適当に、その辺をぶらぶらして
いてくれていいよ」
 そう言って、アイオロスは、微笑み、画材を広げた。湖の周辺は暖かい日射しに覆われ、水
面は穏やかに、とうとうと青空の色を映していた。
「ねぇ、ヴェルナー、せっかく絵に描かれているんだから、そんなに不機嫌な顔、しているこ
と、ないんじゃないの?」
 リリーはヴェルナーの傍らに座って、唇を軽く尖らせた。
「……うるせぇな。落ちつかねぇんだよ、こういうのは」
 そう言って、ヴェルナーは、腕を頭の上で組むと、草の上に寝転がった。リリーは、くすっ、
と笑って空を見上げた。
「いい、天気よね……」
 ヴェルナーは、目を細めた。
「ああ……」
 空に一つだけ浮かんだ小降りの雲が、二人の頭の上を、ゆっくりと通過していった。リリー
はヴェルナーの顔をのぞき込んだ。
「眠い?」
「眠くないぜ」
「うそ。眠そうよ。今、あくびしたもの」
「してねぇよ」
 リリーは、小さく吹き出すと、前を向き、静かに言った。
「夏休み、みたいね。この、スケッチ旅行」
 ヴェルナーは、目を閉じると、言った。
「何だ、そりゃ?」
 リリーは言った。
「ケントニスのアカデミーの、夏学期と、冬学期の間のお休み。……だいたいね、八月いっぱ
いが、そう。もっとも、あたしの家はあんまり裕福じゃなかったから、アカデミーの正規の講
座って、ほとんど受けられなかったんだけど、ね。あたしの錬金術の知識は、ほとんど独学だ
し」
 ヴェルナーは、ふ〜ん、と言って、目を開けた。
「一度、行って、みてぇな……」
 リリーは、えっ? と言って、再びヴェルナーの顔を見た。ヴェルナーは言葉を続けた。
「その、……おまえの、故郷に」
 風が、柔らかく二人の頬をなでていった。リリーは、微笑みながら言った。
「……奇怪なものが、たくさん手に入りそう、だから?」
 ヴェルナーは、空を見たまま、言った。
「……まあな……」

*


 二人の絵を一心不乱に描いているアイオロスの横で、マリーは所在なげに座っていた。
 
 ……すっごい真剣な顔で描いているわね?……。はあ〜……、しかも上手いわ……。あたし、
絵ってよく分からないんだけど……、この人の絵筆の勢いとか、線の引き方とか……、すごい
かも。でも、あんまり売れてなさそうよね……。身なりはみすぼらしいし、顔色もよくないし
……。

 失礼なことを考えているマリーの横で、アイオロスは微笑みながらつぶやいた。
「やっぱり僕は……、こうして、絵を描いているときが、一番幸せだね」
 マリーは、思わず言った。
「そうね。あなた、すごく幸せそうな顔して、描いてるものね!」
 アイオロスはうなずいた。
「僕はね、本当は、人物画が描きたいんだよ。でも、なかなかモデルになってくれる人がいな
くってね……。以前、リリーにモデルを頼んだことがあって……、とても納得のいくものが、
描けたんだ。で、また、お願いしたくなって……。今度は、二人、一緒のところを」
 アイオロスは、生き生きと目を輝かせながら絵筆を走らせていた。マリーは聞いた。
「一度描いたのに……、また、描きたくなったの?」
 アイオロスは、うん、と言って、うなずいた。
「人物画はね……、その人が一人でいるときを描くのと、複数の人たちと一緒にいるところを
描くのでは……、そこに生まれてくる空気感のようなものが、まったく、違うんだ。それぞれ、
別々に描いて組み合わせたのでは、決して生まれてこない、その人たち同士の間でしか生じな
い、雰囲気のようなものをとらえたい、僕は、そう思っている」
 アイオロスは、少しだけ絵筆を走らせる手を止め、マリーの顔を見た。
「君も、好きな人と一緒にいると、とても幸福な気持ちになるだろう? そういうときに、現
れてくる、空気感を、僕は、描きたいんだ。僕は……、ものの形を、ただ正確に映すことには、
それほど興味はない。大切なのは、僕が美しいと思うものを、美しいと感じるままに、その空
気ごと、絵の中に凝縮させて表現すること、それなんだ。これは……、昔、僕に絵を教えてく
れた先生の、絵に対する姿勢から学んだんだけどね」
 アイオロスは、ふっ、と笑うと、また、絵筆をキャンバスに走らせ始めた。マリーは言っ
た。
「何だか……、難しいのね」
 アイオロスは、微笑みながら言った。
「難しくないさ。世界の成り立ちと、絵の成り立ちは、同じだからね……。僕の先生は、言っ
ていた。世界は……、四つのものから出来ている、と。それは‘天’と‘地’と、それから
‘死すべきもの’と‘永遠なるもの’だってね。あらゆる優れた芸術作品には、必ずこの四つ
の要素が入っている、と」
 そう言って、アイオロスは、軽く上空を見上げた。
「特に、人物画にはね、この四つの要素が、色濃く反映される、と僕は思うんだ。……僕たち
は、こうして大地に根ざしながら、天を仰ぎ見る。死すべき有限な者でありながら、永遠なる
深淵を見る。……見てしまう。僕にとって人物画とは、つまり、世界そのものなんだよ」
 アイオロスは、つ、と顔をマリーのほうに向けると、言った。
「ところで……、君もなかなか面白い雰囲気をした人だね。どうだろう、良かったら……、今
度モデルをやってみる気は、ないかな?」
 マリーは、たじろいで、心なしか顔を赤くした。
「え、あ、あたし? ……いやあ、あたしは、そんなガラじゃないわよ……。あ、そうだ! 
無事に絵が描き上がるまで、怪物が出ないかどうか、見張らなくっちゃ!」
 そう言って、勢いよく立ち上がると、マリーはアイオロスの横を離れ、画家とモデルの邪魔
をしないように、うろうろと湖の周りを歩き回りはじめた。

 ひゃあ……、い〜い天気よねえ〜……。それにしてもこの夢……、どこまで続くのかしら?
……元はといえば、クライスが悪いのよね。そうよ! クライスが、あたしを引き留めて、ぐ
ちゃぐちゃ言ってこなければ、イングリド先生にとっつかまって、このくそ暑い中、罰掃除な
んてさせられなかったのよ……。しかも、毎度毎度、本っ当に、頭に来るったら。……思い出
したら、無性にムカムカしてきたわ! ふん! ……クライス、の、バカ、と……。これで、
よし。

 マリーは、杖の先で、目の前にあった木に子供じみた落書きをして、一人悦に入った。

 どうせ夢なんだから、別に、これくらい、いいわよね。ついでに、嫌味メガネって、書いて
おこうかしら……? あ、あれ、何? なんだか湖の奥の方から、巨大なキラキラ光る物が、
近づいて来たわ……!

 マリーの背後で、リリーが叫び声を上げた。
「きゃあっ! 巨大ぷにぷに……! まだ、いたの……?」
 ヴェルナーも、ナイフを構えながら言った。
「ちっ……、しかし、この間俺たちが倒したやつより、ずいぶん小さいぞ……? しかも、色
が違う……」
 マリーは目を輝かせた。
「あ、あれは……黄金のぷにぷに! しかもでっかいわ〜! あれを倒したら、きっと、銀貨
がざっくざくねえっ! よーし、行っけえ〜!」
 シグザール城ほどの大きさのある、黄金のぷにぷにが、例のニコニコした表情を浮かべなが
ら、湖から上がってこちらに向かって来ていた。巨大な黄金のぷにぷには、マリーの投げたメ
ガフラムを食らってその顔を歪めたが、またすぐに気を取り直したように、じわじわと近づい
てきた。リリーはマリーに向かって言った。
「マリー! そんなに近づいちゃ、危ないわよ!」
 マリーは振り返ると、リリーたちに向かって微笑んだ。
「平気、平気、いっくら大きいって言ったって、こいつ、ぷにぷにでしょう? え〜い!」
 また、マリーが次々と投げつけたメガフラムが、連続的に巨大な黄金のぷにぷにの上で炸裂
した。ぷにぷには、その大きな目をせつなそうに閉じたが、また満面の笑顔で向かってきた。
マリーは、さすがに青ざめた。
「げげっ! まだ動けるの? おっかしいわねえ……。そうだ、身体がでかいから、広い範囲
を攻撃できるやつ……、よおっし! フォートフラムでどうっ?」
 巨大な黄金のぷにぷにの身体の上で、広範囲な火柱が上がった。同時に、怪物が発する、か
わいらしくも恐ろしげな叫び声が上がった。その瞬間……、
「きゃあっ、何これ! 巨大な黄金のぷにぷにが、……ちっちゃな大量の黄金のぷにぷににな
って、降ってきたわ?……、やだ! ひっつかないでよ〜! 気持ち悪〜い……」
 巨大な黄金のぷにぷには、たくさんの小さな黄金のぷにぷにに分裂して、マリーたちの上に
ばらばらと降ってきた。マリーは半泣きになりながらそれを避けようとしたが、それはどしゃ
ぶりの雨のように後から後から降ってきた。やがて、比較的大きな、雌牛ほどの大きさのある
黄金のぷにぷにが降ってきて、マリーの頭を直撃し、鈍い嫌な音をたてた。
「うっ……」
 マリーが意識をなくすと、世界は完全な闇に変わった。

*


 マリーは、暗闇の中、身を起こした。
「う……、痛たたた……、何よ、ここ……! 真っ暗で、何も見えないわ……、わっ、とっと
っととと……、きゃあっ!」
 マルローネの足下で、何かが、がらがらと音をたてて崩れて行った。
「……………………………………………………! 足! 足の小指! 思いっきりぶったわ〜
……! ううううう〜……! 何よ、ここに積んであったもの……? へ? ……材木、かし
ら? 何で、こんなところに!?」
 足の小指をさすりながら、目に涙を浮かべていたマルローネに、背後から声がかけられた。
「だ、大丈夫、あなた? ……様子を見に来たら、なんだか大きな音がするんで、びっくりし
たわよ!」
 驚いて振り返ったマリーの後ろにいたのは、青い長い上着の裾をはためかせ、美しい榛色の
髪を古風なフードで覆った少女。睫毛のびっしり生えた琥珀色の両目が、マリーをびっくりし
たように見つめている。マリーは、驚いて言った。
「リ、リリー……!?」
 リリーは、驚いた顔をした。
「……どうしてあなた、あたしの名前を、知っているの?」
 その瞬間、表の方から不機嫌そうな男の声が聞こえてきた。
「おい、リリー! おまえ、いつまでもそんなところで、何やってるんだ?」
 リリーは振り返って声のする方角に言った。
「あ、ヴェルナー! ごめんなさい、物音がすると思ったら、女の子が怪我してたのよ! 今、
行くわ〜!」
 
 リリーの後について、マリーが表に出ると、やはり、恐ろしいほどの晴天が、広がっていた。
「どういう夢、なの……?」
 マリーは、一人、つぶやいた。
「また、繰り返すの……?」

*


 昼前に常春の湖に辿り着いたアイオロスは、早速、リリーとヴェルナーの絵を描き始めた。
マリーは、うんざりしたような顔で、それを見た。
「二人とも、モデルだってことは、意識しなくていいからね。適当に、その辺をぶらぶらして
いてくれていいよ」
 そう言って、アイオロスは、微笑み、画材を広げた。湖の周辺は暖かい日射しに覆われ、水
面は穏やかに、とうとうと青空の色を映していた。マリーは、ため息をついて、それを見た。


「ねぇ、ヴェルナー、せっかく絵に描かれているんだから、そんなに不機嫌な顔、しているこ
と、ないんじゃないの?」
 リリーはヴェルナーの傍らに座って、唇を軽く尖らせた。
「……うるせぇな。落ちつかねぇんだよ、こういうのは」
 そう言って、ヴェルナーは、腕を頭の上で組むと、草の上に寝転がった。リリーは、くすっ、
と笑って空を見上げた。
「いい、天気よね……」
 ヴェルナーは、目を細めた。
「ああ……」
 空に一つだけ浮かんだ小降りの雲が、二人の頭の上を、ゆっくりと通過していった。リリー
はヴェルナーの顔をのぞき込んだ。
「眠い?」
「眠くないぜ」
「うそ。眠そうよ。今、あくびしたもの」
「してねぇよ」

 リリーは、小さく吹き出すと、前を向き、静かに言った。
「夏休み、みたいね。この、スケッチ旅行」
 ヴェルナーは、目を閉じると、言った。
「何だ、そりゃ?」
 リリーは言った。
「ケントニスのアカデミーの、夏学期と、冬学期の間のお休み。……だいたいね、八月いっぱ
いが、そう。もっとも、あたしの家はあんまり裕福じゃなかったから、アカデミーの正規の講
座って、ほとんど受けられなかったんだけど、ね。あたしの錬金術の知識は、ほとんど独学だ
し」
 ヴェルナーは、ふうん、と言って、目を開けた。
「一度、行って、みてぇな……」
 リリーは、えっ? と言って、再びヴェルナーの顔を見た。ヴェルナーは言葉を続けた。
「その、……おまえの、故郷に」
 風が、柔らかく二人の頬をなでていった。リリーは、微笑みながら言った。
「……奇怪なものが、たくさん手に入りそう、だから?」
 ヴェルナーは、空を見たまま、言った。
「……まあな……」
 夏の青空の色が、辺りの空気を清浄に満たしていった。
 
 どれくらい、時間が経っただろうか。  
 
「ねぇ、ヴェルナー……」
 ふいに、リリーが言った。
「……なんだよ?」
 ヴェルナーは、寝ころんだまま、首をひねってリリーの顔を見た。リリーはヴェルナーの目
を見つめて微笑んだ。
「このまま、時間が、止まっちゃえば、いいわね」
 ヴェルナーは、ゆるく息を吐き出した。
「……そうだな」

*


 マリーは、所在なさげに湖の周りをうろうろしていた。

 ひゃあ……、またしても、い〜い天気よねえ?……。それにしてもこの夢……、どこまで続
くのかしら? もう何回、この場面を見ているのよ! 何が何だか、分かんなくなってきちゃ
ったわ! ……元はといえば、クライスが悪いのよね。そうよ! クライスが、あたしを引き
留めて、ぐちゃぐちゃ言ってこなければ、イングリド先生にとっつかまって、このくそ暑い中、
罰掃除なんてさせられなかったのよ……。しかも、毎度毎度、本っ当に、頭に来るったら。…
…思い出したら、無性にムカムカしてきたわ! ふん! ……クライス、の、バカ、と……。
これで、よし。

 そのとき、マリーの頭の中に、嫌な声が響いてきた。

 ……寝言でまでも悪口、とは……、人の気も知らないで、いい気なものですね、マルローネ
さん……。

 同時に、マリーの額に、何かひんやりとしたものが当てられたような感触が生じた。
「クライス、クライスなの……? もう、夢にまで出てくるなんて、だいたいねえ、あんたの
せいで、鬼のイングリド先生に……」
 ぶつぶつ言い始めたマリーの耳に、クライスよりもさらに苦手な声が響いてきた。

「マ・ル・ロ〜ネ!」

 ひえええええ〜、イングリド先生……! ごめんなさ〜い!!! 

 マリーが顔面蒼白になってその場に固まった、その瞬間、湖畔の風景が急に無彩色になり、時
間の流れが停止した。リリーも、ヴェルナーも、それからアイオロスも、絵の中の人物のように、
静止したまま動かなくなった。同時に風も止み、日射しも揺らめくのをやめ、世界が、マリーの
足下から、ゆっくりと瓦解していった。

 次の瞬間、がごん、という鈍い音が響き、マリーは額に軽い痛みを覚えた。横を見ると、床に
は氷嚢が転がり、そして、クライスが、鼻を押さえてうずくまっていた。
「……マルローネさん、起きあがるときは、……もっと、周りの状況を、確認したほうが、よい
のでは……?」
 涙を滲ませながら、クライスは言った。
「まったく、人が、せっかく、氷嚢で頭を冷やそうとして……」
 マリーは言った。
「ご、ごめんごめん。……ところで、ここは、どこ……?」
 マリーが周囲を見回したとき、上から恐怖の声色が響いてきた。
「そこにいるんでしょう? マルローネ! クライス! はやく上がっていらっしゃい!」
 マリーとクライスは、その場で硬直した。


                 
   5


 図書館の床に開いた穴を、鬼のような形相で見ているイングリド先生に、クライスは機先を制
して、必死で説明していた。
「ですから、図書館の床が抜けたのは、われわれとしても、不可抗力、だったのです……」
 上に登ってきた二人を、アカデミー内最強を誇る鬼教師イングリドは、全身から青白い静電気
をバチバチいわせながらにらんでいた。さすがのクライスも、この形相には平身低頭の有り様で
あった。マリーも慌てて言った。
「……本当です、先生! わざとじゃないんです。その、ごくほんのちょっぴり、もう、ほん
っとうに、軽〜く、この竹ボウキの柄でつついたら、床がどーん! と、落ちてきて……」
 イングリドは、氷点下数十度の声で言った。
「マルローネ、私は、あなたに、何を命じたかしら……?」
 マリーは、生唾をごくりと飲み込んだ。
「……図書館の、掃除、です、イングリド先生……」
 イングリドは小さくうなずくと、ツンドラ気候の森に吹き荒れるブリザードのような声で言っ
た。
「マルローネ、掃除とは、ホウキの、どこで床を掃くものかしら?」
 マリーは、蛇に身体を半分飲み込まれかけた野ネズミのような目で答えた。
「……えっと、この、こっちの、わさわさあっ、と、した、穂の部分、です……」
 イングリドは、ため息をつくと、心臓を射抜くような視線で、マリーを見た。
「そうね。では、聞くわ、マルローネ。なぜ、掃除をしていて、床を、ホウキの柄で、ごく軽く
どーん、と、叩いたのかしら……?」
 マリーは一瞬、ちらりとクライスを横目で見たが、やがて小さく息をつくと、言った。
「……ごめんなさい、先生。掃除が嫌になって、ちょっと、乱暴なことをしました……」
 クライスは、慌てて横から口を出した。
「あの、イングリド先生、マルローネさんが床を叩いたのは、その……」
 イングリドは、そう言いかけたクライスの手にしていた物に気がつき、慌てて言った。
「ちょっと待って、クライス! あなた、その手に持っている絵、それ、よく、見せてちょうだ
い……?」
 クライスは、怪訝そうに、そろそろと絵を差し出した。イングリドは、それを受け取ると穴が
開きそうなほどに見つめていたが、やがて、その左右違う色の目に、涙が光り始めた。
「クライス、この絵は……床下の、昔の倉庫跡にあったのかしら?」
 イングリドに聞かれて、クライスは呆気にとられたようにうなずいた。イングリドは、身にま
とったドレスと同じ薄紫色のハンカチを優雅な手つきで取り出すと、そっと涙を拭った。

 ……げげっ。お、鬼の目にも涙……!?

 そう考えながら、マリーもその絵をのぞき込み、大声をあげた。
「こ、これって、リリーとヴェルナーじゃない!? ……どうして……?」
 イングリドは、驚きの声をあげた。
「マルローネ、あなた……、どうして、リリー先生とヴェルナーさんのこと、知っているの?」
 マリーは、イングリドのその様子に気圧されながら答えた。
「……えっと、さっき……、会いました」
 イングリドは、狐につままれたような顔をした。

*


 マリーとクライスが表に出ると、気が遠くなるほどの青空が広がっていた。まぶしさに顔をし
かめたマリーに、クライスは、言った。
「……で、どこなんですか? その……、あなたが行った湖、というのは?」
 マリーは驚いてその大きな目をいっそう大きくした。
「あんた、あんな話、……信じるの?」
 クライスは、ふっ、と笑って言った。
「あなたは……、成績は最悪ですが、嘘をつくような人ではありませんから」
 マリーはむっとした表情で杖を強く握りしめた。
「あんた、また、ケンカ売る気?」
 クライスは、首をゆっくり横に振ると、ふいに真顔で言った。
「……行って、みますか……?」
 マリーは、クライスのその顔に少し拍子抜けして聞き返した。
「え? どこに……?」
 クライスは、微笑んだ。
「その、湖に、です。場所は……、覚えているのでしょう?」
 マリーはうなずいた。
「珍しいわね、あんたから、採取に誘うなんて……?」
 クライスは、右手の中指で軽く眼鏡を直すと、言った。
「……いえ、興味深いと、思いまして……」
 マリーは小さく笑うと言った。
「ま、いいわ。行ってみましょう! ところで、クライス。……あんた、いい加減に鼻血を拭
いたほうがいいんじゃないかしら?」

*


 イングリドは、自分の研究室の壁に掛けたリリーとヴェルナーの絵を眺めながら、右手にミス
ティカティを入れた白いティーカップを持ち、物思いにふけっていた。

 ……どうして、あんなところにあったのかしら……?

 イングリドは、ため息をつきながら首を左右に振った。

 ……分からないわ。たしか、大切にしまって置いたはずなのに……。

 イングリドは、普段の鬼教師の顔から一転し、少女のような眼差しで絵をみつめた。

 懐かしいわ……。お元気かしら、リリー先生と、ヴェルナーさん。

 そう思いながら、ミスティカティを一口含み、絵をしげしげと眺めたイングリドは、突如とし
て、むせて咳き込んだ。

 ……こ、この絵の隅に描かれているのは、まさか……!?

 よく見ると、湖畔でくつろぐヴェルナーとリリーの遙か後ろのほうに、湖の際に生えた一本の
木に、杖でなにやら書きつけている金髪の娘が、ごく小さく描かれていた。

*


 マリーとクライスは、午後の光のきらめく常春の湖に到着した。
 水面は、穏やかに、ゆるやかな風になびく旗のように、翻っている。マリーは、得意げに言っ
た。
「本当に、あったでしょ!」
 クライスは淡々と言った。
「別に……疑っては、いません」
 マリーは言った。
「珍しいわね……。あんたが、あたしの言うことの揚げ足取らないなんて……?」
 しかし、クライスは、腕組みをしたまま湖面を見つめてつぶやいた。
「……なるほど」
 マリーは怪訝そうな顔で尋ねた。
「……何を、納得しているのよ……?」
 クライスは、眼鏡を軽く直すと、マリーに言った。
「いえ、……この場所です。昔は、おそらく、長い時間を生きた地霊の類がいたのでしょう……。
そのため、いまだに、特別な力が働いているようです」
 そう言って、クライスは、湖に目をやると、ゆっくりと草の上に腰掛けた。マリーもつられて
腰を下ろした。クライスは、心なしか、微笑みを浮かべながら言った。
「……芸術作品というものは……、特に、優れた芸術作品というものは、ある種の魔力のような
ものを持つ、といわれています。見る者を魅了する力、手に触れられるわけでも、目に見えるわ
けではないものを、……現実には目の前にないものを、あたかも存在するかのように示す力、そ
れは、一つの呪力といってもいいでしょう。ましてや、この場所です。さらにあの絵には……、
何か、描かれている人物の、強い思念のようなものを感じました。あなたは、そうした諸々の力
に呼応したのでしょう」
 そう言って、クライスは、マリーの顔を見ると、微笑んだ。ふいに、マリーが言った。
「クライス、あれ、見て!」
 マリーは湖面を指さした。時間が、一瞬、止まった。

 時々……。
 光が昼から夕方へと転調する、その、刹那。
 「永遠」は、水に落ち、溶けていく。

 二人は、息を飲んだ。

*


 研究室で、リリーとヴェルナーの絵を眺めて、驚きの表情を浮かべていたイングリドは、やが
て大きく吹き出した。
「まったく、何をしでかすか、本当に分からない子ね、マルローネ……」
 そう言って、笑いながら、イングリドは、そっと、絵に話しかけた。
「お会いになったんですか、リリー先生……? あれが、私の弟子です……。先生がお作りにな
ったこのアカデミー創立以来の、問題児の……。うふふふふ……」

*


 あの日。
 いろいろと多難であったリリーとヴェルナーが、数年を経て再会し、無事にフローベル教会で
挙式を済ませ、二人で一緒にザールブルグを旅立つことになった、その、前日。ヴェルナーは、
この絵を持って、イングリドたちを訪ねてきた。
「これはもう、俺には必要ない……。だから、おまえたちが、もらっておいてくれ」
 そう言って、この絵を差し出したヴェルナーに、イングリドとヘルミーナは、驚きの声をあげ
た。
「……いいんですか、こんな大切なもの……?」
 ヘルミーナが聞くと、ヴェルナーは、微笑んだ。
「ああ。……ま、肖像画なんてものは、普段会えないやつが持っているのが、一番だからな。俺
は……、これから、どうやらずっと、本人と一緒にいることになるらしい。だから、もう、いら
ないんだ。おまえたちで持っていてくれ。それが一番いいだろう」
 イングリドは涙ぐみながら言った。
「……ヴェルナーさん、手紙を……、書きますからね! それから……、先生を、リリー先生を、
よろしくお願いしますね……!」
 ヴェルナーは、言った。
「……ああ。……分かってるさ……」

*


 そう言ったときの、ヴェルナーの眼差しを思い出しながら、イングリドは微笑んだ。
 
 目の前には、永遠に、幸福な夏の日を封じ込めた、一枚の絵。
 絵は、静かにイングリドを見つめ返していた。

                                                                           〜fin〜
 


 後書き

 夏っぽい小説が書きたかったんです。
 私はいつも小説を書くときには、「この作品はこの曲!」というのを必ず決めて、何度も何度
もぐるぐるぐるぐるリピートさせながら書くんですが、この作品はモーマスの「1999年の夏
休み」をさんざんかけながら書きました(モーマスのファンの皆様、ゴメンナサイ)。ついでに
タイトルまでもじっちゃいまして……。え〜(汗)、重ね重ね、スイマセン。
 なお、この話は一応、ゼロED後を捏造した(笑)、拙作「庭園の王国」の設定と地続きです。
 それにしても。
 こうして書いてみると、つくづくマリーって破天荒なキャラですね。
 何だか、エリーやリリーが常識人に見えてまいります。
 それからクライスは……歴代のヒロインの相手役(?)の中では、やはり悲惨さナンバーワン
のような気がして来ました……(マリアト本編はおろか、エリアトでも、WSC版でも、報われてな
いですね〜)。
 個人的には、好きなんですけどね、クラマリ(笑)(2002年8月)。


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