王立起源292年の夏休み




      
   1
 
 夏の、気が遠くなりそうな青空が、湖の上に広がっていた。
 ヴェルナーは、腕を頭の上で組むと、草の上に寝転がった。リリーは、くすっ、と笑って空
を見上げた。
「いい、天気よね……」
 ヴェルナーは、目を細めた。
「ああ……」
 空に一つだけ浮かんだ小降りの雲が、二人の頭の上を、ゆっくりと通過していった。リリー
はヴェルナーの顔をのぞき込んだ。
「眠い?」
「眠くないぜ」
「うそ。眠そうよ。今、あくびしたもの」
「してねぇよ」
 リリーは、小さく吹き出すと、前を向いた。

*


 王立歴310年、8月某日。 恐ろしいほどの、晴天。

「まったく、何であたしが、こんなこと、しなくっちゃ、ならないのよっ……!」
 見事な金色の長い髪をなびかせた、碧眼の少女は、その可憐な容姿に似合わず、乱雑な手つ
きでアカデミーの図書館の床を竹ボウキで掃きながら、ぶつぶつ文句を言った。
「……それは、こちらの台詞ですよ、マルローネさん。ああ! もう、そんなやり方では……、
部屋の隅のほうに、埃の塊が残っているじゃありませんか……! これだから、アカデミー創
立以来の問題児の方は、何をやらせてもガサツで、見ていられませんね……」
 白いローブの上から青いマントを羽織り、眼鏡をかけた、いかにも賢そうな少年は、丁寧な
手つきで本棚にハタキをかけながら、少女に文句を言った。マルローネ、と呼ばれた少女は、
ホウキを持つ手を止めて、少年を、きっ、とにらんだ。
「うっるさいわねえ、クライス! だいたい、あんたが止めなけりゃ、イングリド先生にも見
つからなかったし、こんなくそ暑い中、罰掃除なんか、させられなくても済んだのにいっ!」
 クライス、と呼ばれた少年は、やれやれ、といった風に、ため息をついた。
「……お止めするのは、当然です。……研究棟の、特別資料室に忍び込もうなんて……、貴重
な古代文書が、あなたに破壊しつくされたら、どうするんです? ……アカデミー首席の者の
責任として、断じて見逃すわけには、行きません。それに……、あなたが特別試験に無事合格
して、卒業できれば、私は晴れて飛び級が認められるのです。それまでは、あなたを見張るの
が私の勤め。……問題を起こされては、困るのです」
 マルローネは、ホウキを傍らに放り投げると、その場に座り込んだ。
「……やってられないわ! だいたいねぇ、あなた、いくらあたしを見張らなくちゃならない
からって、自分も共犯だなんて言って、一緒に罰掃除することないでしょう? そんっなに、
あたしに嫌味を言い続けたいわけ!?」
 クライスは、口端に面白いものを見るかのような笑みを浮かべると、右手にハタキを持った
まま、空いていた左手の中指で軽く眼鏡を直し、言った。
「この神聖な図書館をあなた一人で掃除させるなど……、猛獣を羊の群れの中に放り込むよう
なもの、いや、それ以上ですね……」
 マルローネは、その形の良い唇をひん曲げた。
「しっつれいねえっ! いくら何でも、掃除くらい! 一人で出来るわよっ!」
 クライスは言った。
「……私がお止めしなければ、例の生きたホウキを使って、図書館内をめちゃくちゃにしたの
では、ありませんか?」
 マルローネは、ぷい、と横を向いた。
「その、むちゃくちゃに、ってのは、ご挨拶ねえ……?」
 クライスは、淡々と言った。
「めちゃくちゃに、です」
 マルローネは、堪忍袋の緒が切れた、といった顔で、再びクライスの顔をにらみつけた。
「……どっちでも、同じでしょう! あんた、そんなに、あたしの調合したアイテムに文句を
つけたいわけ?」
 クライスは、ふっ、と笑って言った。
「ええ。……あのホウキの破壊力は、……実証済み、ですから」
 マルローネは、怒り心頭に達して、どん、と思い切りよくホウキの柄を、図書館の床に叩き
つけて立ち上がろうとした。
「……もう、あったまに来た! クライス! あんた、掃除するか嫌味を言うのか、どっちか
にし……きゃあああああっ!」
 そのとき、マルローネがいた辺りの床が、ミシミシと嫌な音を立てたかと思うと、一挙に下
に崩れ落ちた。叫び声を上げて、マルローネは竹ボウキを握りしめたまま、下に落ちていっ
た。
「マ、マルローネさん! 大丈夫ですか!」
 クライスは慌てて床に空いた穴のところまで駆け寄り、下をのぞき込んだが、底のほうは思
いの外深く、マルローネの姿は見えない。
「……大変だ。ロープか何か……、急いで持ってこなくては!」
 クライスは、図書館の外に走り出ていった。

*


 マルローネは、暗闇の中、身を起こした。
「う……、痛たたた……、何よ、ここ……! 真っ暗で、何も見えないわ……、わっ、とっと
っととと……、きゃあっ!」
 マルローネの足下で、何かが、がらがらと音をたてて崩れて行った。
「……………………………………………………! 足! 足の小指! 思いっきりぶったわ〜
……! ううううう〜……! 何よ、ここに積んであったもの……? へ? ……材木、かし
ら? 何で、こんなところに!?」
 足の小指をさすりながら、目に涙を浮かべていたマルローネに、背後から声がかけられた。
「だ、大丈夫、あなた? ……様子を見に来たら、なんだか大きな音がするんで、びっくりし
たわよ!」
 驚いて振り返ったマルローネの後ろにいたのは、青い長い上着の裾をはためかせ、美しい榛
色の髪を古風なフードで覆った少女。睫毛のびっしり生えた琥珀色の両目が、マルローネを、
びっくりしたように見つめている。
「あ……、あははは、すいません、お騒がせしました。……うっ、痛っ!」
 立ち上がろうとしたマルローネは、苦痛に顔を歪めた。青い服の少女は、心配そうに言った。
「どうしたの? 怪我しちゃった? お薬、調合してあげましょうか?」
 マルローネは、ばつが悪そうに言った。
「な、何でもないのよ、何でも! ……ちょっと、足の小指をぶつけただけで」
 青い服の少女は、吹き出した。笑うと、顔の横に垂らした直毛の髪を結んでいる素朴な色合
いのリボンが、陽気に揺れた。
「あらっ、あなたもなの? あたしも、よくやるのよ……。痛いのよねえ、それ。ここ、材木
やら何やら、建築資材がごろごろしているから、気をつけたほうがいいわよ。それにしても、
こんな、建設現場なんかで、何をやっているの? 危ないわよ……」
 マルローネは、慌てて言った
「え?……ここ、アカデミーの中じゃ、なかった……の?」
 青い服の少女は、その大きな目を、さらに大きくした。
「まあ! あなた、よくここが錬金術アカデミーの建設現場だって、知っているわねぇ!」
 そう言って、にんまりと笑うと、彼女はさらに言った。
「やっぱり、それだけ、あたしたちのやっていることが、認められてきたってことなのよね! 
うふふふふ……」
 マルローネは、軽い目眩を覚えた。

 ……何? この状況は? ……えっと、話を整理するわよ。ここはとにかく、アカデミーだ
けど、アカデミーじゃなくて、アカデミーの建築現場なわけなのよね。……って、何よ。じゃ
あ、あたし、……頭を強く打って、おかしくなっちゃったのかしら? あ! 分かった! こ
れは夢よね、夢夢! 今日は暑いし、ムカつくクライスなんかと一緒に掃除をさせられて、ぶ
ったおれちゃったのよね、きっと。……こうして、思いっきりほっぺたをつねったら……、痛
っ! 痛いわよ、これ……!

 青い服の少女は、心配そうにマルローネを見た。
「……何やってるの、あなた? 転んだときに、どこか、強く打った?」
 マルローネは、絶望的な表情を浮かべ、首を大きく左右に振った。青い服の少女は、ほっとし
たように微笑んだ。
「そう。……なら、いいんだけど。立てる?」
 マルローネは、今度は首を縦に大きく振って、勢いよく立ち上がった。青い服の少女は、マル
ローネの服装をしげしげと眺めると、言った。
「……あなた、何だか、すごく変わった服、着ているのねえ? ザールブルグの人?」
 マルローネは、鮮やかな緑色のローブについた埃を払いながら言った。
「ええ、まあ。出身は、グランビル村だけど……」
 青い服の少女は、にっこり笑って言った。
「あら、そう! グランビル村! ずいぶん遠いところから来たのねえ……。ああ、自己紹介、
してなかったわね。あたし、リリーっていうの。錬金術師よ」
 「錬金術、師……?」

 えっ? アカデミーに、こんな人、いたかしら? 卒業生?

 マルローネがそう思いながら聞き返すと、リリーは、小さく息をついた。
「……やっぱり、あまり知られていないのね……。私たち、隣のエル・バドール大陸のケント
ニスから、こシグザール王国に錬金術を広めにやって来たのよ。実は錬金術師っていっても、
……私はまだ半人前で、修行中なのよ。……修行しながら、この錬金術アカデミーを建設するた
めに、資金を貯めなくっちゃいけなくて、大変なんだけどね。えっと、あなた、お名前は……?」
 マルローネは、リリーの話にあっけにとられていたが、名前を聞かれて慌てて答えた。
「わ、私は、マルローネ。……マリーで、いいわ」
 それを聞いて、リリーは微笑んだ。
「そう。……よろしくね、マリー」
 その瞬間、表の方から不機嫌そうな男の声が聞こえてきた。
「おい、リリー! おまえ、いつまでもそんなところで、何やってるんだ?」
 リリーは振り返って声のする方角に言った。
「あ、ヴェルナー! ごめんなさい、物音がすると思ったら、女の子が怪我してたのよ! 今、
行くわ〜!」
 
 リリーの後について、マリーが表に出ると、やはり、恐ろしいほどの晴天が広がっていた。



   2


 ザールブルグの街を歩く道すがら、ヴェルナー、と呼ばれた赤茶色の髪の目つきの悪い男は、
ずっと文句を言い続けていた。
「……まったく、護衛の仕事だと思ったら、何でこんなことに、俺がつき合わされなくちゃ、
ならねぇんだ? だいたい、おまえが無責任に引き受けるからいけないんだぜ?」
 リリーは、その美しい白い頬を心なしか膨らませて言った。
「だって、ヴェルナー。あたしが常春の湖までつき合ってって頼んだら、承諾してくれたじゃな
い……?」
 ヴェルナーは、ただでさえきつい目つきを、さらに悪くして言った。
「……護衛の仕事だと思ったからだ。それに、他の冒険者の護衛はいないっていうから、……し
ょうがねぇと思って……」
 二人の後ろを歩いていたマリーは、思った。

 ……うっわあ〜、口悪くて目つきも悪くて、ひねくれてそうで、その上うさんくさそうな男の
人ねえ〜……。冒険者、かしら? 

 そのとき、マリーのさらに斜め後ろを歩いていた、画材をかついだ金髪の温厚そうな男が言っ
た。
「いやあ、ごめんごめん、ヴェルナー。どうしても、あそこで、君たち二人を描きたいって、
無理を言ってリリーにお願いしたのは、僕なんだし。……そんなに、怒らないでもらえるかな?」
 振り返って、済まなそうな顔の金髪の男を見たヴェルナーは、少し決まりが悪そうに口ごもり
ながら、ああ、まあ、いいけどな、と言った。マリーは少しおかしくなった。ふと見ると、リリ
ーも同じく笑いをかみ殺している。目が合ったリリーとマリーは、同時に吹き出した。
「……何が、おかしいんだ?」
 ヴェルナーは、さらに不機嫌そうに、二人の少女に言った。

*


 極上の夏の青空を見上げながら、マリーは考えた。

 ……何だか妙にリアリティがある夢よねえ〜。この街の空気感といい、この人たちといい……。
ま、いいわ。どうせ目が覚めたって、あの埃っぽい図書館掃除と、嫌味のクライスが待ってるだ
けなんだし……。あれ? 何か向こうから、やったらめったらキラキラしたオーラしょった人が、
歩いてきたわ……?

 リリーは嬉しそうに、その青い鎧を身にまとった人物に声をかけた。
「ウルリッヒ様! こんなところでお会いするなんて、珍しいですね」
 ウルリッヒ、と呼ばれた見事な金色の髪の聖騎士は、リリーに話しかけられてほんの少しだけ
頬を緩めると、涼やかな声でリリーに言った。
「リリーか。……ちょうどいい。錬金術工房に行く途中だったのだ。おまえは良く外へ出かけ
るようだが、今月は怪物の数が非常に多い。外出は控えるように伝えに行こうと思っていたの
だ」
 ウルリッヒは、驚いてたようなリリーの顔を見て、少し声の調子を落とし、さらに言った。
「だが、来月は騎士隊による怪物討伐が行われる。来月であれば、比較的安全だ。」
 リリーは、緊張のためか、少し上擦った声で言った。
「あ、ありがとうございます。……でも、どうして直接私に……?」
 ウルリッヒは、リリーに尋ねられ、そのいかにも聖騎士らしい冷徹な面差しを、傍目にも分
かるほど、柔らかなものに変え、言った。
「うむ、よく外に出るとこいうこともあるが純粋に……、心配だったということもあるな。お
まえはかなり無茶をするからな……」
 リリーは、頬を上気させ、わずかにうつむくと、言った。
「……わざわざそんなことをおっしゃってくださるために、工房まで……。ありがとうござい
ます!」
 ウルリッヒは、再び居住まいを正すと言った。
「何、他の職務のついでに寄ったまでのこと。それに……この町の住民の安寧を守ることこそ
が、わが王国騎士隊の勤め。気にするな。ところで……、もしや、その身支度は……?」
 リリーは、慌てて顔を上げた。
「え、ええ……! あの、ウルリッヒ様? せっかくのご忠告、申し訳ないのですが、あたした
ち、今、まさに、城壁の外に行くところなんです! その、アイオロスさんの、スケッチ旅行に
同行するために……」
 ウルリッヒは、その澄んだ双眸を曇らせて、画家のアイオロスのほうを見た。
「……何と……! いや、おまえのことだ。……止めることは、……かなうまい。十分に護衛を
連れているのか? 見たところ、冒険者は一人しかいないようだが……?」
 アイオロスが口を開いた。
「お気遣い、ありがとうございます。実は、今回の外出は、僕がリリーとヴェルナーに頼んで、
ついて来てもらうことになったんです。……二人に、絵のモデルになってもらおうと思って」
 ウルリッヒは、ふむ、と言ってその形の良い眉をほんの少しひそめると、アイオロスに言った。
「それで、行き先は、どこだ?」
 アイオロスは言った。
「常春の湖です。……以前、ザールブルグに来る前に通りかかったときに見て、水と光の加減が
とても気に入ったので」
 ウルリッヒは小さくため息をついた。
「常春の湖か……。行き帰りの所要時間は、約八日か。私も同行してやりたいところだが……公
務につき、時間がとれない。せめて、もう一人、護衛をつけるべきではないのか?」
 リリーの後ろで、ずっと、苦虫を潰したような顔をしていたヴェルナーが、やおら口を開いた。
「心配することはないと思うぜ。この間は、巨大ぷにぷにまで倒しちまったリリーだ。はっきり
言って、並の冒険者より強いのは、誰もが認めるところだろ? ……護衛は、俺一人で十分だ」
「しかし……」
 なおも反対しようとするウルリッヒの言葉を遮って、マリーは言った。
「じゃあ、あたしも行くわ! 護衛をすれば、いいんでしょ?」
 ウルリッヒは、マリーの顔をまじまじと見ると、言った。
「……見かけぬ冒険者だな。名は、なんという?」
 マリーは笑顔で言った。
「マルローネっていいます。あ、ご心配なら、この装備、見ますか? ……えっと、こっちがメ
ガクラフトで、これがフォートフラム。精霊の光球に、神々のいかづち、と、じゃーん! メガ
フラムも!」
 リリーは、目を丸くして、嬉しげに言った。
「……すごいわ、どこで手に入れたの、こんなにたくさんの、強力なアイテム!」
 しかし、ウルリッヒは、ぎょっとしたような顔で言った。
「たしかに……、うむ、分かった。しかし、街中では、くれぐれも扱いに気をつけたほうがいい。
もう、しまいたまえ……!」
 ヴェルナーも、声を上擦らせながら言った。
「おい、……そんな危険物、無造作にいっしょくたに放り込んどいて、大丈夫なのか……? い
っぺんに爆発したら……、ザールブルグが確実に全焼する量じゃねえのか?」
 マリーは元気よく言った。
「大丈夫、大丈夫! これでも爆弾の扱いには慣れてるのよ! おかげで私のこと、‘火の玉マ
リー’なんて呼ぶ人もいるくらいだけどね!」
 リリーは嬉しそうに言った。
「あら、素敵ね! ……あたしなんて、‘ぷにぷにスレイヤーリリー’よ。何だか、恥ずかしい
わ……」
 マリーとリリーは、顔を見合わせて微笑んだ。その様子を見ながらアイオロスは、一人、つぶ
やいた。
「最近の女性は……、勇ましいものだな……」


 
  3


 乾いた砂埃が、旅人たちの街道に巻き上がっていた。はしゃぎながら前を歩いていくマリーと
リリーの後ろ姿を見ながら、ヴェルナーは言った。
「天気がいいのは結構だが……、こう雨が降らないと、埃っぽくていけないな……」
 アイオロスは、微笑みながら言った。
「いや……、もうすぐ、一雨来ると思うよ。目的地に着くまでには、必ず。……水の、気配がす
る」
 ヴェルナーは言った。
「降るのか……? 雲なんか、一つもねえぞ?」
 アイオロスはうなずいた。
「うん。……だけどね、空気が、ひんやりしてきたから……。少し、急いだ方がいいね」
 そのとき、一行の前に、数名の盗賊が立ちはだかった。
「……姉さんたち、おとなしく金目のものを置いていってもらおうか!」
 そう言って、先頭の眼帯の男は、凄みを効かせて剣をかざした。瞬時にして臨戦態勢をとった
ヴェルナーがナイフを構えた、その瞬間、
「え〜い!」
 かけ声とともに、辺り一面が火の海になった。
 盗賊たちは声もなく秒殺され、マリーは笑顔でヴェルナーとアイオロスを振り返った。
「ちょろい、ちょろい!」
 そう言って、右手の人差し指で小鼻の下を得意げにこすり、元気のいい笑顔を見せるマリーの
横で、リリーは無心に盗賊たちの落とし物を漁り始めた。
「きゃあっ! シグザール金貨が、こんなにたくさん! うふふふふふ……」
 その二人の少女の姿を見て、ヴェルナーはつぶやいた。
「……どっちが盗賊だか、分からねぇな……」

*


 一行がルーイッヒ平原を抜けて、南ルーイッヒ川の畔にさしかかったときだった。
 さんさんと太陽が照り輝く中、雨の雫が一滴、ヴェルナーの鼻の頭に落ちて、跳ね返った。
「ん……?」
 そう言ってヴェルナーが上を向いたときには、すでに、ぽつぽつと大粒の水滴が、乾いた地面
に跡をつけ始めていた。アイオロスは、言った。
「ああ……、やっぱり、降って来たね」
 ヴェルナーは、前を歩いていたリリーに怒鳴った。
「おい、リリー! そこの大きな木の下まで、走るぞ!」
 わあわあと言う音が、そこかしこに響きだした。
 乾燥した大地は、貪欲に水を吸収しだした。
「……ふ〜、しばらく、雨宿りしたほうがいいわね?」
 そう言って、リリーは、髪を覆っていたフードを取ると、ため息をついた。一行は、川の畔
の小高い丘の上に生えていた、背の高い広葉樹の下に、思い思いに座り込んでいた。リリーは、
髪についた水滴を払いながら、川の水面に勢いよく穴を穿っていく雨粒を見た。ヴェルナーは、
荷物からタオルを取り出すと、ばさっとリリーの頭に被せた。きゃっ、という、短い悲鳴が布
の下から聞こえてくるのと同時に、ヴェルナーは言った。
「ちゃんと拭いとけよ」
 リリーは、タオルから、様子をうかがう亀のように頭をそろそろと出すと、うん、と言った。
水しぶきが、雨宿りの木の周りで、踊るように跳ねていた。アイオロスは、それを見ながら静
かに言った。
「この雨は……、すぐに止むね。でも、もう夕方だから、今日はこの辺に野営しようか?」

*


「マルローネさん、マルローネさん! ……頭を打ったんだろうか? まったく意識が戻らな
い……」
 図書館の地下では、必死でロープを伝って降りてきたクライスが、心配そうにマルローネの
頬をぴたぴたと叩いていた。
「呼吸は正常だし……、むやみと動かさないほうがいいかもしれないな。何か、冷やすものを
持ってこよう……。ん? これは、何だ? ……絵、か?」
 クライスは、マリーの傍らに転がっていたものに気がつき、手にしたランプをかざした。
「湖の、風景画……? いや、人物画、みたいだ。これは、この署名は……、高名なアイオロ
ス画伯の絵! 何でこんなところに……。うん? 裏に何か描いてある……。何々、……‘王
立起源292年、夏、湖畔の恋人たち’……」
 そのとき、マルローネが、弱々しく口を開いた。
「う……ん、ク、ラ、イス……」
 クライスは、はっとして振り返った。
「マルローネさん! 気がついたんですか!」
 クライスがかがみ込んで傍らにランプを置き、マリーの顔をのぞき込んだ。マリーは目を閉
じたまま、さらに言葉を続けた。
「……の、バカ、と……」
 そう言って、うっすらと満足の笑みを浮かべると、マリーは、首を少し横に傾けた。
「これ……、で、よ……し……」
 暗闇の中、クライスは、右手の中指で眼鏡の位置を直すと、つぶやいた。
「……どんな、夢を……見ているんですか、マルローネさん……?」
 
 


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