眠たい森2




   4

「さあ、今度のは......、これ以上ないほど、効力の強いやつよ!」
 黒光りする強力そうなガッシュの木炭を手にしたイングリドは、リリーの寝室で
にんまり笑った。
「あんたにしては......、上出来そうじゃない?」
 ベッドの横に立って、リリーの顔を蒸しタオルで拭いていたヘルミーナが言うと、
イングリドは口を尖らせて言った。
「あたしにしてはってのは、何よ! あんたの言い方って、何でそう、いっちいち
嫌味くさいのよ!」
 そう言うが早いか、イングリドの右手がヘルミーナの頬を……、打つ前に、ヘル
ミーナは素早くその手をかわし、ふふん、と笑った。
「あんたの手癖なんて、お見通しなのよ、この暴力女!」
 イングリドは、ヘルミーナのその顔を見て、怒りの表情で全身に青白い静電気を
走らせた。ヘルミーナはあきれた顔で言った。
「……よしなさいよ、部屋の中で、しかもリリー先生が寝てる前で、魔法を
使うのは!」
「うるっさいわねえ! この嫌味女!」
 イングリドは逆上して、思わず手にしていた鉢一杯のガッシュの木炭をその場に
ぶちまけた。その振動で、窓辺の花瓶に生けてあったドンケルハイトの花
びらが数枚、はらはらと舞った。
「何するのよ、イングリド! こんなにいっぺんにぶちまけて! リリー先生が怪
我したらどうするのよ!」
 ヘルミーナは怒りながら、リリーの身体の上に山盛りになったガッシュの木炭を
取りのけた。そのとき、突如として、リリーの両目がぱっちりと開いた。
「へ、ヘルミーナ! やったわ! 先生、目を開けたわ!」
 イングリドが歓喜の声をあげた。ヘルミーナも歓声を上げた。
「本当! たまにはあんたの単細胞ぶりも役に立つものね! リリー先生、ご気分
は、いかがですか?」
 ヘルミーナは笑いかけたが、リリーは無言のままだった。
「ちょ、ちょっと、イングリド……」
 リリーの目の前で手をひらひらさせながら、ヘルミーナは言った。イングリ
ドは、うん、とうなずくと、言った。
「リリー先生……、目を開けたまま、まだ、寝てる……?」
 そのとき、ヘルミーナが叫び声をあげて上方を指さした。
「きゃあ! イングリド、何、あれ……?」
 イングリドが見ると、部屋の天井から、突然、ポストカード大の白い厚紙が一枚、
ひらひらと降って来た。
「……な、何かしら? いったい、どこから降ってきたの……?」
 イングリドは、首をかしげた。

*


 がくん、とリリーの身体が机の上に突っ伏した。ヴェルナー先生は、慌ててリリー
の肩を揺さぶった。
「おい、どうした、リリー?」
 ふらふらと頭を起こしながら、リリーは言った。
「何でもないわ……。ただ、急に、眠くなった、だけ……」
 ヴェルナー先生は、あきれたようにため息をついた。
「まったく、おまえ最近……、居眠りばっかりしているな。まあ、あの奨学金試験に
受かるのは大変だからな。珍しく頭を使ったんで……、疲れてるんじゃ、ねえか?」
 リリーは、ゆっくりと首を横に振りながら、言った。
「……違うのよ。そういう種類の眠気じゃ、ないの。ねえ、ヴェルナー、一つ、聞い
てもいい?」
 ヴェルナー先生は怪訝そうに言った。
「何だよ?」
 リリーは机の上に両手を組むと、ヴェルナーの顔をまっすぐに見て、尋ねた。
「ルーシッド・ドリームって、見る?」
 ヴェルナー先生は答えた。
「明晰夢、か。自分が夢を見ていることを自覚しながら見る夢、だな。……あんまり
見たことはないな。もっとも、俺は夢自体、あんまり見ねえからな」
 リリーは真剣な眼差しで言った。
「私は最近、毎日見るの。中世ヨーロッパ調の街に住んでいて、錬金術師になってい
る、夢。ヴェルナーもいるわ。ヴェルナーは、私の住んでいる錬金術工房の近所で、
雑貨屋をやっているの」
 ヴェルナー先生は、頭を掻き、あきれたような口調で言った。
「……おい。錬金術ってのは、近代化学が成立する以前の原始的な化学の知識体系の
ことだろ。ま、結局は卑金属を貴金属に変えたりなんてことは、成功しなかったみた
いだけどな。……でも、まったく馬鹿にしたもんでもないぜ。錬金術師たちが化合物
やら素材物質の分析を膨大に行ったおかげで、今日の化学がある、といえなくもない
からな。問題は……、錬金術は化学反応を、物質それ自体が有している神秘的な力、
と考えていたことだな。近代化とは、呪術からの解放と、合理化の過程に等しい。つ
まり、錬金術と近代化学の大きな違いは……」
 リリーはうんざりしたように言った。
「ちょっと、待って! そんな、化学史の講義なんて、今は聞きたくないのよ」
 ヴェルナー先生はリリーの顔を見直して、急に、心配そうに言った。
「……とにかく、早い話が、錬金術師なんて今はいないし、そんなものになっている
夢を毎日見るなんて、現実逃避も甚だしいな、おまえ。それに俺が雑貨屋だってのは
……、やっぱり、あれか? 無意識のうちに、教師とつき合っているってのが、心の
負担になってるのかもしれないな……。ちょっと、精神的にやばいんじゃないか?」
「違うの」
 リリーは、ぽつん、と言った。
「何が、違うんだ?」
 ヴェルナー先生は、リリーの顔をのぞき込むようにして、言った。リリーはヴェル
ナー先生の目をまっすぐに見つめて、言った。
「本当は、私、今、まさに、そのルーシッド・ドリームを見ているの。そんな気がし
て仕方がないのよ。つまりね、ヴェルナー。錬金術師の私が本物で、この、高校生の
私が、偽物。これは、もう、確信していることなのよ」
 ヴェルナー先生はため息をついた。
「……もう、いい。保健室に行って、スクール・カウンセラーの先生にでも話を聞い
てもらってこいよ」
 ヴェルナー先生の背後で、教壇の上の花瓶に生けてある赤い花の花びらが、一枚、
また一枚と机の上に散っていった。それを目にしたリリーは、叫び声をあげた。
「あっ! あの花は……、ドンケルハイト! ……やっぱりそうよ。私、あれを摘み
に森に行って……」
 リリーがそう口にした瞬間、二人の間の机の上に、空中からひらひらと、白い厚紙
が舞い降りてきた。ヴェルナー先生は、それをつかんで言った。
「何だ、これは……?」
 ポストカードくらいの大きさのその紙には、表面に金色の絵の具で、長方形が大き
く描かれていた。ヴェルナー先生は、紙をひっくり返して裏面を見た。そこには小さ
な文字で、こう書かれてあった。

 七番目の門はプロイティダイの名を負い夢をみる
 幸福な四角形は、不幸な三角形を、嘲笑うのだろうか?

「どういう、意味だ?」
 ヴェルナー先生は、リリーにその紙を手渡した。リリーはその文を読み、がたん、
と音を立てて椅子から立ち上がった。
「やっぱり、夢だわ……」
 ふいに、校舎の外が真っ暗な闇に包まれた。
「え……?」
 リリーは、窓辺に駆け寄ると、からり、と勢いよく窓を開けた。そこにあったもの
は……。

 無。
 
 校舎の外には、延々と、透明な真空が広がっていた。リリーは、ヴェルナー
先生の方を振り返って、叫んだ。

「うそ! 何、これ……。外に、何もないわ! ヴェルナー、外は、……外の世界は、
どうなっちゃったの?」
 ヴェルナー先生は、ゆっくりと、微笑んだ。
「世界……? 世界って、……何だ?」




   5


 窓のない雑貨屋では、店主と二人の少女が、顔をつきあわせて考え込んでいた。彼
らの真ん中には、突如としてリリーの上に舞い降りてきた、白い紙。
「とにかく! これが、リリー先生が眠り続けている謎を解くための、ヒントに違い
ないんです!」
 ヘルミーナは、丁寧に切り揃えられた髪の毛を揺らしながら、ヴェルナーに言った。
イングリドも、胸の前で両手の拳をにぎりしめ、真剣な顔をして言った。
「ヴェルナーさん! 今こそ、その普段何の役にも立たないような、無駄に幅広い知
識を、生かすべきときなんですよ!」
「師が師なら、弟子も弟子だな……」
 ヴェルナーは、ぼそりと言って、カウンターの上に置いてあった紙をつまみ上げた。
「何か、おっしゃいましたか?」
 イングリドが聞くと、ヴェルナーは、いや、と言って軽く首を横に振ると、紙に書
かれた文面を読み直した。
「……さっぱり、分からねえな」
 二人の少女は、揃って首をうなだれた。イングリドが、力無く言った。
「やっぱり、分かりませんよね……」
 ヘルミーナも、気落ちした様子で言った。
「ドルニエ先生も、クルトさんも分からなかったし、ウルリッヒ様も、すまぬ、とか
言ってたし」
 イングリドは、ため息をつくと、ヘルミーナに言った。
「後、他に、比較的ものを知ってそうな大人って、いる?」
 ヘルミーナは、イングリドに言った。
「知らないわ。……だいたい、この街、冒険者か職人か店の亭主くらいしかいないじ
ゃない。あと、いても聖職者と聖騎士くらいだし。知的レベルに問題あるのよね」
 ヴェルナーは、深いため息をつくと口を開いた。
「……おい、さっきから聞いてれば、勝手なことばっかり言いやがって……」
 そのとき、ぎいっ、と、音がして、ヴェルナー雑貨屋の扉が開いた。こつこつと丁
寧な足音が、雑貨屋の階段を上がって来た。そして、
「こんにちは。また、何か、画材になるものはないかと思ってね」
 金髪の柔らかな髪を無造作に伸ばしたその男は、決して良いとは言えない身なりに
は似合わず、品の良い笑顔を浮かべながら、ヴェルナーたちに挨拶した。

*


「懐かしいなあ、これは、黄金分割の四角形だね」
 アイオロスは、にこにこ笑いながら、紙に描かれた四角形を見て言った。
「何ですか、その、黄金分割って?」
 ヘルミーナは、アイオロスの顔を見上げながら言った。アイオロスは、ヘルミーナ
の顔の高さまで身をかがめて目線を合わせると、説明した。
「黄金分割の四角形っていうのは、ね。長短両辺の比が、1対0.618の長方形の
ことさ。この分割比をもつ形状を、人間が一番心地よいと感じるとも言われている。
昔、絵画の技法を学んだときにね、少し、勉強したんだよ。ヴェルナー、紙とペンを
貸してくれないかな? ……ありがとう」
 ヴェルナーから受け取った紙に、アイオロスはさらさらと四角形の図を描いた。
「つまり……、こう描くと、ここの長さと、ここの長さが、ね。ちょうど、この金色
の四角形と同じ割合になるはずだ。この黄金分割の比というのは、自然界にも見るこ
とができる。たとえば、渦巻貝の形状だ。渦巻き貝は、この黄金分割の比を連続させ
て成長していく」
 アイオロスは、四角形の下に、数字を書き連ねた。

 1,2,3,5,8,13,21,34……

「こういう風にね、第三番目以降の数が、その前の二つの数を足した数となる数列を、
フィボナッチ級数という。さらに、ね」
 アイオロスは、四角形の上に螺旋を描いていった。
「この級数の半径をもつ四分の一円をつないでいくと、こういう風に、渦巻きができ
る。黄金分割の比は、どこまでもどこまでも、美しいまま、延々と続いていく。これ
を、永久不変の真理の美、といった思索者もいる。また、この黄金分割の四角形を、
別名、こう呼んだ画家もいた。‘幸福な四角形’とね」
 ヴェルナーは言った。
「おい、それって、この文章の……、じゃあ、プロイティダイの名を負うってのは…
…、何だか分かるか?」
 アイオロスは、うん、とうなずいて、言った。
「それは多分、月の満ち欠けの象徴、プロイティダイの門のことじゃないかな。僕が
以前いた国では、かならず女神アルテナの神殿の前には、女神に仕える三人姉妹の象
徴として、プロイティダイの門が築かれていたんだ。ジグザール王国領内では、アル
テナ信仰だけが独自に発展してしまって、この門を作ることはないみたいだけど、ね」
 イングリドは言った。
「この街でアルテナ様を信仰しているといえば、フローベル教会! じゃあ、もしか
して、フローベル教会を中心にして!」
 ヴェルナーは、ザールブルグの地図を出してカウンターの上に広げ、定規を
その上に置いた。
「アイオロス、この上に、ちょっと、その黄金分割を使って、螺旋を描いてみてくれ
ないか? フローベル教会を基軸に」
 アイオロスは言った。
「いいとも。ただ、基数を何にするかが……、よく、分からないな。とりあえず、教
会の敷地を基にしてみるか……」

*


 アイオロスは、定規を横に置くと、ため息をついた。
「ああ……、ダメだ。これも違うみたいだね。七本の線が、ザールブルグ全体にかか
るように線が引ければ、何かが分かるかと思ったんだけど、螺旋を描くにも、何を基
にすればいいのか……、あれ、ちょっと待ってくれ、ヴェルナ
ー」
 アイオロスは、急に目を輝かせると定規を手にした。
「そうか……、見落としていたよ。この、フローベル教会の本館の礼拝堂それ自体が、
上から見れば黄金分割の長方形だったんだ! じゃあ、これを、こう、基にして……」
 アイオロスは、慣れた手つきで、地図上にさらさらと黄金分割の螺旋を描い
ていった。ヴェルナーは、それをのぞき込んで、言った。
「教会を中心にした螺旋の、七番目の線上に来る建物は……、どれだ?」
 ヘルミーナが言った。
「ダメだわ……、町はずれで、建物があんまりないもの……」
 イングリドが、ふいに、ヘルミーナの服の袖を引っ張った。
「あ、ここ! ぴったり真上だわ!」
 アイオロスは微笑みながらうなずいた。
「念のため、アルテナ神殿に対するプロイティダイの門の方角の線を、まっすぐに引
いてみよう。……門は通常、神殿の南東に位置している。時間を司る三姉妹は、この
方角から訪れると信じられているからね」
 アイオロスは、そう言って、地図上にフローベル教会を基点として、直線を
するすると引いた。
「うん。……二つの線は、やはり、この建物の上で一致するようだね」
 イングリドは、目を輝かせて言った。
「……これって!」
 ヘルミーナは大きくうなずいた。
「私たちのアカデミーの、建設予定地じゃない!」


            
 
  6


 完成目前のアカデミーの建物は、静かに威厳ある構えを示していた。到着したヴェ
ルナーと二人の少女が見上げると、最上階の窓が、小さくきらりと光った。
「ヴェルナーさん、あそこ! 何か! 光ってます!」
 イングリドは指さした。三人はうなずき合って、建物の中に入ると、階段を昇って
いった。

*


「おっかしいわねえ。たしか、この辺だったのに……」
 イングリドが最上階の部屋の中を見回して言うと、ヘルミーナが言った。
「まったく……、あんたのいうことなんて、信用するんじゃなかったわ」
 イングリドが、ぶつぶつ言いながら、大股で部屋の中を歩きまわっていると、
ふいに、足下で何か、ぐにゃりとした感触がした。
「痛い!」
 甲高い声が、暗い部屋に響いた。
「きゃあ! 何……?」
イングリドが慌てて下を見ると、そこには……、
「何よ、こんなところに黒妖精さんがいるなんて?」
 イングリドが言うと、ヘルミーナは、黒妖精さんを助け起こすと、服の埃をぱんぱ
んはたいてあげながら言った。
「痛かったでしょ? あの女は重いものね?」
 ヘルミーナがそう言って黒妖精さんに、にっこり微笑みかけると、イングリドは憮
然として言った。
「重くなんてないわよ! もう、あんたってば、なんでいちいちムカつくことばっか
り言って……」
 突然、黒妖精さんは、ヘルミーナの手を払いのけて、ふんぞり返った。
「うるさいやい! おまえたち、ボクをなめるなよ!」
 唖然としている二人の少女に、黒妖精さんは言った。
「フフフ……、ここまで来れたということは、おまえたちは、ラビリントスの中でア
リアドネを、導きの糸を、見つけ出したようだな……、あれを見ろ!」
 黒妖精は、不敵に笑うと、上を指さした。その先にあったものは、明かり取り用に、
天井ぎりぎりの場所につけられた、三角形の天窓。そこには、ちょこん、と小さなガ
ラスの玉が置いてあった。ガラス玉の中には青銀色の火が、ちらちらと燃えながら蠢
いていた。
「もうじき完成だよ。あのガラス玉の中に、君たちの探しているお姉さんの魂を閉じ
こめたんだ。あともう少しで、あのお姉さんは、夢魔に完全に魂を喰
われてしまう。そうしたら、永久に、目覚めることはな……うっ!」
 黒妖精さんがそう言っている間に、イングリドは問答無用でシュタイフブリーゼを
唱えた。黒妖精さんは、服の埃を払いながら怒鳴った。
「……人が、しかもラスボスが! ストーリー展開上最も重要な最終説明をしている
のに、何をするんだ!」
 イングリドは言った。
「……おかしいわねぇ、これ食らったのに、ノーダメージ?」
 ヘルミーナは、ふん、と鼻で笑って言った。
「あなたとの差を見せつけてあげるわ! ネーベルディック!」
 ヘルミーナの放った魔術は、しかし、黒妖精の身体に当たって周囲に跳ね返った。
「……何? こいつ、……ただの黒妖精さんじゃない……?」
 ヘルミーナが驚いていると、黒妖精さんの全身から、銀色の光が発せられた。目を
金緑色に爛々と光らせた魔性の黒妖精さんは、ふっと空中に浮くと、イングリドたち
の目の高さまで舞い上がり、静止した。
「ククククク……、無駄だよ……。僕に魔法は効かない。この、黒妖精の服はね、特
殊な呪法を織り込んであるんだ……」
 イングリドは、ヘルミーナの目を見た。ヘルミーナはうなずいて、言った。
「こうなったら、……一緒に、やるしかないわね!」
 魔性の黒妖精さんは、笑いながら言った。
「クックックッ、次は何だい、お姉さんたち? 君たちの協力魔法の‘光と闇のコン
ツェルト’なら、僕には一切効かな……、へげぇっ!」
 その瞬間、魔性の黒妖精さんの顔にイングリドの右ストレートが、ボディにヘルミ
ーナのひじ鉄が、同時に決まった。魔性の黒妖精さんは、地面にたたきつけられて、
口から泡を吹いた。
「ふん、魔法には強いかもしれないけど、しょせんは黒妖精さんじゃない」
 イングリドが言うと、ヘルミーナも言った。
「そうね。たまにはあんたのタイタス・ビースト並の馬鹿力も、役に立つじゃない!」
 イングリドは、ヘルミーナの方を向くと、目をつり上げた。
「な、なんですってえ?」
 ヘルミーナは、軽く髪を掻き上げると、鼻先で笑いながら言った。
「本当のことじゃない。ま、腕力ぐらいしか、私には勝てないガサツ女にしちゃ、よ
くやったわね?」
 イングリドは真っ赤になって怒り出した。
「う、うるさいわよ、陰険女!」
 二人の少女が取っ組み合いのケンカを始める中、そろそろと起きあがった魔性の黒
妖精さんは、つぶやいた。
「……今のうちに……、に、逃げろ!」
「待て」
 魔性の黒妖精さんは、ふいに後ろから襟首をつかまえられて宙に浮き、足を
ばたつかせた。
「逃げるんじゃねぇ……。これ、どうやったらいいんだ?」
 そう言われて、魔性の黒妖精さんが、宙づりになったまま、全身に冷や汗をかきな
がら振り返ると、鬼のような形相のヴェルナーの顔が目に入った。ヴェルナーは、左
手にガラス玉をもったまま、右手で黒妖精さんを持ち上げ、低い声で言った。
「はやくリリーを元に戻せ。戻さなかったら……、ただじゃおかねえぞ……?」
 魔性の黒妖精さんは、ヴェルナーの顔を見て、観念したように暴れるのを止
めると、こくこくとうなずいた。

*


 リリーの寝室では、泣きべそをかきながら、魔性の黒妖精さんが魔法陣を描いてい
た。
「へったくそねえ、線は曲がってるし、全体的に歪んでるし」
 ヘルミーナがその魔法陣を見て、あきれたように言うと、イングリドも言った。
「しかも、たったこれぐらいの還元魔法使うのに、何でこんなに時間がかかるのよ!」
 魔性の黒妖精さんは、鼻水を床まで垂らして泣きながら言った。
「う、うるさぁい! おまえたちに、おまえたちなんかに、何百年も万年黒妖精のボ
クの気持ちなんて、分かるかぁっ!」
 そう言って、魔性の黒妖精さんは、床に、ぺたん、と座ると顔をぐしゃぐしゃにし
ながら泣きじゃくり始めた。
「ボ、ボクは、自己アピールがあんまり上手じゃなかったから、今までどんな職人さ
んや錬金術師さんたちが来ても、ずっと雇われなかったんだよ! 他のお友だちは、
みんな、どんどんレベルアップして行くのに! もうずうっとこんなで、あんまり悔
しかったから、夢魔と契約を結んで、黒妖精以外の妖精を、片っ端から夢魔の餌にし
てやってたんだよ〜! 他の妖精さんは、日食の日には笛を吹けないけど、ボクは、
夢魔の力を借りて、日食の日にだけ、魔法の笛を吹けるようにしてもらってたのに…
…、痛っ!」
 ばこん、とイングリドに後頭部を叩かれた魔性の黒妖精さんは、頭を押さえた。
「うっ、うええっ、ひっく……、何するんだよ〜!」
 イングリドは、魔性の黒妖精さんを見下ろしながら静かに言った。
「ほら、魔法陣描き終わったら、さっさと呪文を詠唱する!」
「わ、分かったよ〜……」
 そう言って、魔性の黒妖精さんは、たどたどしく呪文を唱え始めた。
 
 ガラス玉の中の青銀色の光は、徐々に小さくなり、同時にリリーの身体がぽうっと
光っていった。リリーの身体を包む光は徐々に強くなり、やがて、ふっ、と消えた。
その瞬間、リリーが目を開けた。目を開けながら、大粒の涙をこぼした。
「リリー先生!」
「良かったあ!」
 イングリドとヘルミーナが手を取り合って喜んでいると、リリーが弱々しく言った。
「……ヴェ、ヴェルナー……」
 ヴェルナーはベッドの横に近づいて言った。
「何だ、リリー、俺は……、ここにいるぞ!」
 リリーはヴェルナーの顔を見ながら、ぼんやりと言った。
「ヴェルナー……、もう、追試は、嫌ぁ……」

*


 リリーの寝室の扉の向こうからは、泣き叫ぶ元魔性の黒妖精さんの声と、イングリ
ドとヘルミーナの怒声がいつまでも聞こえてきた。
「ほら、材料はもっと丁寧にすり潰す!」
 ヘルミーナが言うと、イングリドも言った。
「作業は手早く、タイミングを見計らって! もたもたしてたら夜が明けちゃうわ! 
あ、また順番を間違えた!」
「ご、ごめんなさあ〜い……! もう間違えません〜!」
 元魔性の黒妖精さんは、鼻をすすりながら言った。イングリドが言った。
「ま、あんたのその腐った根性をたたき直すためにも、基礎四大元素の性質、初歩的
調合理論、それから材質の形状と扱いの区分、とりあえず、これを全部覚えるまでは、
無賃労働よ!」
 元魔性の黒妖精さんは、泣きながら言った。
「そ、そんな〜!」
 ヘルミーナが、面白そうに言った。
「あら、そんなんじゃ、甘いわ。もっとレベルアップして、高度還元魔法の呪法を完
全にマスターして、今までこの子が夢魔の世界に閉じこめた妖精さんたちを全員元に
戻すまでは、銀貨なしの、ただ働きってのは、どう?」
 イングリドが言った。
「あ、それいい考え! ……それまでは、みっちりしごいてあげなくっちゃね?」
 ヘルミーナは、口元に笑みを浮かべた。
「それにしても、この子、鍛え甲斐があるわ〜! フフフフフフ……」
 元魔性の黒妖精さんが、怯えた声で言った。
「お、お姉さんたち……?」
「ほら、作業の手を止めない!」
 再び、イングリドの怒声がとんだ。
「ひゃ、ひゃい……」
 元魔性の黒妖精さんの、返事とも泣き声ともつかない声が、弱々しく響いた。

*


「ヴェルナー、どうも……、ありがとう」
 リリーが言うと、ヴェルナーは少し照れたように微笑むと、椅子から立ち上がった。
「……もう、意識もちゃんと、回復したみたいだな……。俺はそろそろ、帰るぜ。…
…じゃあな」
 そう言って、ヴェルナーは、歩きかけた。
「あ、ちょっと待って、ヴェルナー!」
 リリーが呼び止めると、ヴェルナーは、何だ? と言って振り返った。その顔を見
て、一瞬、リリーはためらうように目を伏せたが、やがて、おずおずと口を開いた。
「あの、ね、あの……。私、ずっと、ヴェルナーに言いたいことがあったの。……ア
カデミーが完成したら、私……」
 リリーは、ゆっくり、微笑みながら、言葉を続けた。

 
 月明かりが、窓辺に生けられたドンケルハイトの花を、優しく、照らし出した。

                                 〜fin〜

 
 後書き

 某同盟サイト様での人気投票第一位を獲得した、「教師ヴェルナーと生徒リリー」が、
書きたかったんです。それだけだったのに、仕掛けが大仰になってしまいました……。
 コンセプトは、「思いっきパロディしよう!」です(笑)。個人的には、魔性の黒妖
精さんが気に入っています。私はどうも、かわいらしくて邪悪なものが好きなようです。
 それから。
 アイオロスさん、好きなんですよ〜。ヴェルナーの次に(笑)。いや「ヴェルナーの
次」というのは、大勢いるんですが。リリアトには、前二作と違って、「秀才キャラ」
って出てこないんで、こういう「事件解決役」を誰に割り振るかっていうのが、結構難
しいんですよね……。で、画伯にご登場を願い、こうなりました(笑)。
 心残りは、倫理学を教えるクルト先生と、英語を教える(おそらくは帰国子女の)シ
スカ先生の授業風景が書けなかったことですね。それから、当初の構想では、柔道部主
将のゲルハルトと、フェンシング部顧問(科目は未定)のウルリッヒ先生と、なぜか保
健室勤めのカリン(笑)を出す予定でした。
 え〜(汗)、バカ長くなりそうだったので、全面的に却下となりましたが……(20
02年8月)。
 


←BACK             TOP