1
日食の、森。
真昼の暗い空に浮かんだ、見えるはずのない月から一滴、雫が落ちてきた。それはリリー
の身体を直撃すると、冷たい感触とともに、金緑色の光の輪を描いて、すぐさま消えた。
リリーは驚いて身震いすると上空を見上げたが、そこにはただ、無限の闇が広がっている
だけだった。
何、今、見えたのは?
睫毛のびっしりと生えた大きな目を、何度もぱちぱちとまばたかせて彼女が上を見ている
と、背後から不機嫌そうな声が飛んできた。
「おい。何、ぼーっとしているんだ?」
リリーは慌てて振り返ると言った。
「えっと、ちょっと、ね。あ、雨が、降って来たのかなあ、なんて、思って……」
声の主は、うんざりしたような調子で言った。
「降ってねぇよ。いい天気だぜ。真っ暗だけどよ」
リリーは急に口をとがらせた。
「あっ、ダメよ、ヴェルナー、帽子を取っちゃ! それも含めて黒妖精の服なんだから。
脱いだら効果が半減しちゃうわ!」
ヴェルナーはそれを聞いて、しぶしぶ右手に持っていた帽子を無言で被り直すと、ただ
でさえ人相の悪い顔を一層強ばらせ、吐き捨てるように言った。
「ちくしょう……、何で俺がこんなふざけた格好をしなけりゃ、ならないんだ?」
リリーは事も無げに言った。
「レアな材料の採集率が上がる装備品なのよ! 効能を考えたら、格好なんて構っていら
れないわ。いいじゃない、今日は真っ暗で、誰にも見られないんだし。それに……、喜ん
で着てくれている人もあそこにいるじゃない、ほら!」
そのとき、リリーが笑顔で指さした方角から、元気の良い声が響いてきた。
「姉さ〜ん、この服の威力、すごいや! ほら、うにゅうがこんなに!」
大声をあげながらリリーの元に走って来ようとしたテオの行く手を遮って、ヴェルナー
はいきなり、テオの目の前に、採集かごを、どさっ、と置いた。
「ご苦労だったな。これに入れとけ」
テオは憮然としてヴェルナーの顔を見たが、ヴェルナーは涼しい顔で採集をつづけた。
テオは軽く舌打ちすると、また素材を探しに駆けて行った。ヴェルナーはため息をついて
リリーの方を振り返った。そこには、明らかにサイズの小さい妖精さんの服を着込んだリ
リーが、普段は決して見せることのない白い脚を惜しげもなくさらして、せっせと素材を
採取してしていた。
「まったく……、あいつに見せて、たまるかよ……」
ヴェルナーは、ぼそりとつぶやいた。
*
一年に一度、ザールブルグが一日中暗闇に包まれるその日、ヴェルナー雑貨屋を訪れた
リリーの格好を見て、ヴェルナーは唖然とした。
「な、何だ、その……、間抜けな服は……?」
リリーは少し決まりが悪そうに言った。
「し、失礼ね……。たしかにちょっと、見かけは変かもしれないけど、アイテムの採集量
が上がる、すごい装備品なのよ!」
ヴェルナーは、額に汗を浮かべながら言った。
「……に、したって、ちょっと……、小さすぎやしねえか?」
リリーは顔を赤らめながら言った。
「しょ、しょうがなかったのよ。本に載っていたのは、妖精さんのサイズだったんだから
……。まあ、着られないことはないから、問題ないわよ!」
ヴェルナーは、頭痛を覚えながら額の汗をぬぐった。
「いや、そういう問題じゃ……、ねえだろ。おまえ……、いくら真っ暗だからって、その
格好で、職人通りを歩いて来たのか……?」
リリーは、こくりとうなずいて言った。
「そうよ。あ、でも、ね。この反省を生かして、こっちは、ラフ調合するときに、ちゃん
とサイズを考えて作ったから、大丈夫。ヴェルナーにぴったりのはずよ、はい!」
そう言って、彼女が取り出したのは……、黒い、裾の長い、ゆったりしたローブに、黒
いとんがり帽子。
「な、何だあ、この、イカれた服は……?」
あきれ顔のヴェルナーに、リリーは笑顔で言った。
「黒妖精さんの服よ! これを装備すれば、レアな素材の採集率が上がるの。ねえ、ヴェ
ルナー、お願い! これを着て採集につきあってくれないかしら……?」
ヴェルナーは、眉間に皺を寄せた。
「……やなこった。おまえ、人を馬鹿にするのも、いい加減にしろよ!」
リリーはその美しい瞳を曇らせた。
「やっぱり、嫌?」
ヴェルナーは帳簿を開くと、相手にしてられるか、といった風情で何やら忙しそうに書
き付け始めた。
「当たり前だろ。それに、今、店はちょっと取り込み中で、俺は忙しいんだ」
リリーはため息をついた。
「そうかあ……。じゃあ、仕方がないわね」
落胆した顔で、リリーが小首をかしげた瞬間、階段の下にある雑貨屋の入り口の扉が、
ぎっ、と音をたてて開いた。そこから、ひょこっと顔をのぞかせたのは……。
「姉さん、護衛の仕事の交渉は、終わったのか?」
黒い帽子に黒い服の裾を引きずった少年冒険者は、そう言うと、薄暗い店内でもよく分
かる、健康そうな白い歯をのぞかせてリリーに微笑みかけた。リリーは階下に向かって言
った。
「あ、待たせてごめん、テオ。……やっぱり、ダメみたい。どうしよう? カリンは今、
急ぎの仕事が入ってるっていうし、シスカさんも、ゲルハルトも、他の人と先約があるっ
て言ってたし、イルマは今、おばあさまが倒れていてそれどころじゃないみたいだし、ク
ルトさんも、ウルリッヒ様も、お仕事が忙しいみたいだし、エルザは見あたらないし……。
今日は人手が欲しかったのになあ。……ヴェルナーなら、確実に、暇だと思ったんだけど」
テオは朗らかに言った。
「いいって、いいって! どうせ、近くの森だろ? たいした敵も出ないし、姉さんの護
衛は、俺一人で十分さ!」
ヴェルナーの片頬が、ぴくり、と引きつった。
「……って、おい! おまえ、あいつと二人っきりで、採集に行くのか?」
そんな格好で、と言いかけたヴェルナーに、リリーはあっさり言った。
「そうよ。今日はどうしても、近くの森に行かなくちゃいけないのよ。ドンケルハイトの
花は、今日しか採取できないんだもの」
階段の下からは、また、テオの声が響いてきた。
「おーい、姉さん、それじゃ、早く行こうぜ! 時間がもったいないからさ!」
テオの声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。ヴェルナーは、深いため息をついた。
2
やっぱり、この装備の威力、すごいわ
リリーは、そう考えながら、満足そうに微笑んだ。
ちょっと、この格好は間抜けかもしれないけど、でも、この効力! 作ってよかったわ
〜。これなら、採集時間も短時間で済むし、アカデミー建設に向けて、また、距離が縮ま
ったみたい。うふふ……。
微笑むリリーの耳に、かすかな、人のざわめきのような音が聞こえてきた。その音は、
さざ波が細かな砂にひたひたと打ちつけるように、あるいは若い女たちが大勢、声を抑え
てくすくすと笑い合っているようにも聞こえた。
それは水が沸騰していくように、しだいに大きく沸き上がり、やがて、……一定のリズ
ムを刻んで、軽やかに流れ始めた。
……何?
風の音かしら、と一瞬リリーは考えたが、森の中は無風だった。
……懐かしい、感じ。……あっちの方角、から、聞こえて……?
リリーはふらふらと立ち上がると、何かに操られたように、音のする方向に向けて、歩
き出していた。
*
「ドンケルハイト、か……。久しぶりに見たな」
ヴェルナーは一人、つぶやいた。
暗い森の中、その赤い花は一つ、また一つとゆっくり咲いていった。花が開くときには
ごく小さく、人がため息をつくように、ほろ、ほろ、とやさしい音が鳴った。開いた花は、
自らの色を周りに染み出させるようにして、静かに光を放っていた。
「光が射さないってのに、自分から光ってやがる。……不思議な花だな」
ふと、手にした一輪の花を見つめ、ヴェルナーは考えた。
「どういう原理なんだ?」
手折るとその花は、手の中にじんわりと暖かさをにじみ出させた。この花は……。
「賢者の石を作るのに、必要不可欠なの」
と、リリーは言った。
「一年に一回しか、咲かないのよ。今日しか、日食の日にしか、採れないの」
目が、真剣だった。
普通、花見ると、きれいとか何とか言って、喜んでるもんなのにな、女ってやつは……。
ヴェルナーは考えた。
「材料」だもんな。ま、あいつらしいっちゃ、あいつらしいけどな。
ヴェルナーは思わず口の端に軽い笑みを浮かべながら、花をいくつか持ってかごの方を
向いた。
あれ? リリーのやつ、どこに行ったんだ?
ふいにリリーの姿が見えなくなったことに気がついて、ヴェルナーは慌てて辺りを見回
した。
*
さっきまでは無風であったのに、急に、なま暖かい風が吹いてきた。リリーは、気がつ
くと、開けた草原にいた。周りを黒い木々が取り囲んでいる。草は膝くらいの高さで静か
に風に揺れ、じっと、呼吸しているかのように見えた。
どこ、ここは……?
ふと見上げると、空には……、冷たく凍ったように空に突き刺さった、三日月。
月は、金緑色に輝いている。
きれい……。
リリーは、魅入られたように、空を見上げた。星は出ていなかった。人の体温のような
生暖かい風が、リリーの頬をなでて行った。リリーは思わず目を閉じた。その瞬間、金緑
色の月から一滴、まばゆい光の塊が落ちてきた。小さく、じゅっ、という音をたて、それ
はリリーを直撃した。リリーは……、音もなく草の上に倒れた。
何、これ……?
……ね、む……、い……。
リリーは、そのまま、深い沼の底に落ちていくように、眠りについた。
ふいに、小さな人影が、その場に現れた。
「……ん? 今日は、面白い妖精が、かかったなあ……」
小さな影は、肩をわずかに揺らし、くすりと笑った。
3
「なあ、姉さんは、まだ目覚めないのか?」
心配そうな顔で、テオはイングリドに尋ねた。
「はい。リリー先生は、日食の日に採集中に倒れたきり、ずっとあのままです。ドルニエ
先生は今、お仕事でザールブルグを離れていて相談できないし……。仕方ないので、あた
したち、色々考えて、試したんですよ。ガッシュの木炭を何度も使って……。今、作って
るのは、さっき試したのより、もっと強力なやつです。これで、目が覚めてくれたらいい
んですけど……」
調合の手を止め、イングリドは深いため息をついた。
「今、ヘルミーナがついてます。私たち、交代で、看病しているんです」
錬金術工房に運び込まれたリリーは、こんこんと眠り続けていた。
「それにしても、あのときのヴェルナーさんの様子、すごかったですね……。こう、目を
三角にしながら、リリー先生を抱きかかえて来て……」
テオはため息をついてうなずいた。
「あのとき、俺が採取を手伝っていたら、いきなり姉さんを抱えて現れて、有無を言わせ
ず俺にかごを持たせて、すごい形相で‘帰るぞ!’なんて言うから、驚いたよな……」
あの日食の日、ヴェルナーは森の奥で倒れているリリーを見つけた。
「リリー! ……どうしたんだ?」
ヴェルナーは慌ててリリーの脈をとり、顔に手をかざして呼吸を確認した。
「息はある、みたいだな。怪我をした様子もないし……、眠ってる……?」
しかし、その様子は、普通ではなかった。
いや。ただ眠ってるんじゃない。顔色が……、紙みたいに白い。眠っているというより
は……、完全に、意識をなくしている、みたい、だな。
ヴェルナーは、リリーの上半身を抱き起こすと、頬を数回、軽くぴたぴたと叩いてみた。
「……しっかりしろ、おい!」
「……ヴェ、ルナー……」
リリーは弱々しく唇を動かすと、彼の名を呼んだ。
「どうした? 俺はここにいるぞ!」
「……これ、おも……い、わ。も、う……、い、じわる……」
そううわごとを言うと、リリーは、再び細い息を吐いたまま、うんともすんとも言わな
くなった。
「どんな夢を……、見てやがるんだ?」
ヴェルナーは、半ばあきれた顔で言った。
*
げしっ、といい音がして、黄色いチョークがリリーの頭頂部を直撃した。はっとして、
リリーは机から顔を上げた。
「おい、リリー。俺の授業で寝るとは、いい度胸だな」
そう言って担任のヴェルナー先生は、白衣のポケットから新しい白いチョークを取り出
すと、二、三回、軽く手の中で放り投げて、リリーをにらみつけた。
「……え、……ヴェルナー?」
リリーは慌てて姿勢を直すと、鬼のような形相のヴェルナー先生の顔を見た。ヴェルナ
ー先生は小さく舌打ちした。
「てめぇ、……居眠りした上、教師を呼び捨てにするとは、たいしたやつだな」
ヴェルナー先生は……、ここ、ザールブルグ高校の「撃墜王」と呼ばれている。居眠り、
早弁、それからカンニング等々を発見すると、チョーク、消しゴム、油性マジックその他
の筆記用具が、すさまじいスピードでうなりをあげながら飛んでくるためである。狙った
標的は、百発百中。とくに、テスト中にカンニングを発見する眼力の鋭さは、別名、「サ
ーチ・アンド・デストロイ」と呼ばれ、生徒たちに恐れられている。リリーは、背筋が寒
くなるのを感じた。
「教科書、84ページ、頭からだ。読め」
そう言われて、リリーは慌てて教科書をめくると、混乱した頭で読み始めた。
「It is widely believed and hoped that the ease of communicating and interacting
online will lead to a flourishing of democratic institutions, heralding a new
and vital arena of public discourse. But to date,……」
ヴェルナー先生は、眉間に皺を寄せながら怒鳴った。
「もういい!」
リリーは、慌てて教科書から顔を上げた。ヴェルナー先生は、大きくため息をついた。
「おまえ……、今の授業は英語じゃねぇ、化学だ。それは二時間目の教科書だろ? ……
ったく、ボケるのも、いい加減にしやがれ」
教室中が、どっと笑いに包まれた。その瞬間、授業終了のチャイムが眠たげに鳴った。
ヴェルナー先生は、教科書を教壇の上に置いて教室中を見回し、言った。
「今日はここまで! なお、中間テストで平均点の半分以下の点数だった者は、来週の月
曜日の放課後に追試だ。赤い座布団が敷かれていた者は……、きっちり準備しとけよ」
それからヴェルナー先生は、授業で使っていたOHPをがたごとと片付けながら、リリー
に言った。
「おい、リリー、こっちに来て、そのOHP用のスクリーンをたため。居眠りした罰だ」
「……は、はい」
リリーは慌てて立ち上がった。
スクリーンは、リリーの背丈とほぼ同じくらい長い。黒板に引っかけられているそれを
リリーは背伸びして外すと、ぐるぐると巻き始めた。ヴェルナー先生は、蓋を閉じたOHP
を、どん、とリリーの前に置いた。
「罰のついでに、これ持って理科準備室まで運べ」
そう言って、唇の片端を持ち上げてにやりと笑うと、リリーが巻いたスクリーンを肩の
上に担いですたすたと教室を出ていった。
*
「……重いわ、これ……」
うんうん言いながらOHPをやっとのことで理科準備室の前まで運んできたリリーに、ヴェ
ルナー先生は、やかましい、と小さく言って、部屋の鍵を開けた。
「こっちの棚に置いておけ」
リリーは、はい、と言って、準備室の棚の二段目にOHPを置いた。
「それじゃ、先生、あたし、これで」
準備室を出ようとするリリーをヴェルナー先生は、ふいに後ろから抱きしめた。
「それから、厳重注意。呼び捨てにするのは、二人きりのときだけにしろって、あれほど
言っただろ?」
リリーは硬直しながら言った。
「な、何、この夢……」
ヴェルナー先生は、リリーの髪をそっと撫でた。
「……ん? どうしたんだ?」
リリーはごくりと唾を飲み込んで、言った。
「な、何でもないです! あの、ヴェルナー先生……」
ヴェルナー先生は言った。
「今は……、別に呼び捨てでもいいんだぜ?」
リリーは、言った。
「あの、次の授業は、アイオロス先生の美術で、校庭で写生なんです! 早めに準備しな
くちゃいけないから、……もう行ってもいいですか?」
ヴェルナー先生は、さらに抱きしめた腕に力を込めながら、言った。
「ああ、アイオロスか。あいつは……、生徒の頭数が足りなくても気がつかないような、
頭に花の咲いたやつだからな。気にするな」
リリーは声を上擦らせながら言った。
「あ、で、でも、ヴェルナー、次の授業はいいの?」
ヴェルナー先生は、薄い笑いを浮かべながら言った。
「ああ、……次は、自習だ」
リリーは、準備室の入り口を指さしながら、大きな声で言った。
「あっ! ヴィント校長先生!」
ヴェルナー先生は、ぎょっとしてリリーの指さした方向を見た。
「何っ!?」
一瞬ゆるんだヴェルナー先生の腕の間をするりと抜けて、リリーは、
「失礼しました!」
と言うと、理科準備室から走り去って行った。
*
えっと、今日は、一時間目は、クルト先生の倫理、二時間目はシスカ先生の英語、三時
間目がヴェルナー先生の化学で、四時間目がアイオロス先生の美術。この後、五時間目は、
ドルニエ先生の古文。
……どういうこと?
昼休み。クラスメイトのイルマとエルザと三人でお弁当を食べながら、リリーは、ぼん
やりと考えていた。
「リリー、どうしたの? なんだか、元気がないけど」
イルマが心配そうに言うと、それを聞いたエルザが、ため息をつきながら言った。
「……あったり前よねえ。この間提出した進路希望票について、今日の放課後、私とリリ
ーは進路指導だもん」
イルマはうなずいて言った。
「あ、そうか! 嫌よねえ。うちの担任、おっかないし」
エルザは深くうなずいた。
「もう、勘弁してほしいわ、担任のヴェルナー先生。この間も、私が給水塔に昇ってたと
ころを見つかって、‘今すぐ降りろ!’って怒鳴られたし、逃げようとしたら、なぜかそ
の辺にあった軟式テニスのボールが立て続けに飛んで来るし……」
イルマは苦笑しつつ言った。
「それは……! エルザが悪いわよ〜。うふふふふ」
「もう、イルマまで!」
口を尖らせるエルザを見ながら、リリーはつぶやいた。
「何で、この状況が、理解できるのかしら、あたし……」
*
教室を出て来たエルザは、半泣きになっていた。
「ど、どうしたの?」
午後の白い日射しが射し込むリノリウムの廊下の上で、進路指導の順番を待っていたリ
リーが聞くと、エルザは言った。
「……こ、恐かった〜!」
リリーは緊張の面もちで言った。
「何、言われたの? ……今の成績じゃあ、第一志望は絶対無理、とか?」
エルザは、制服のスカートのポケットからティッシュを取り出し、鼻を、ちん、とかむ
と、リリーに言った。
「いきなりね、進路希望調査票を出されて、ね、‘いっぺんだけ聞く。本当にこの進路希
望で、いいんだな?’って聞かれて……」
リリーは言った。
「それで、何て答えたの?」
エルザは大きな目から小粒の涙を光らせ、言った。
「はい。いいです! って……」
リリーは聞いた。
「そしたら、何て言われたの?」
エルザは、身震いしながら言った。
「あの、ね。どんっ! て机を拳で叩いて、‘二度は聞かねえからな。で、本当にこの進
路希望で、いいんだな?’って言って、ギロっと、にらまれて……、うう〜っ、こ、凍っ
たわ〜!」
リリーは尋ねた。
「ちょ、ちょっと待って、エルザ! 進路希望調査票に、あなた、何て書いたの?」
エルザはハンカチで涙をぬぐうと言った。
「……進路希望は、サーカス団の団員」
リリーは大きな目をさらに大きく見開いて、聞き返した。
「え?」
エルザは、あふれる涙をぐしぐしとハンカチで拭きつつ、さらに言った。
「ちっちゃいころからの、夢、だったのに〜!」
リリーはつとめて平静を装いつつ、聞いた。
「で、……何て答えたの?」
エルザはリリーの顔を、きっ、と見据えて、言った。
「……本当は……、四年制大学の教育学部を受験したいです……って……」
絶句しているリリーの前で、教室の扉ががらっと開いた。
「おい、次はおまえだぞ、リリー」
そう言って、ヴェルナー先生は奧につかつかと入って行った。
*
沈黙が、重くのしかかって来ていた。静かな午後の教室に、校庭で活動しているサッカ
ー部や野球部の部員たちの声が、切れ切れに侵入してきた。机を挟んで、ヴェルナー先生
は、腕組みをしながらリリーに言った。
「……で、この進路で、本当に、いいんだな?」
リリーはうつむきながら答えた。
「……はい」
ヴェルナー先生は、腕を頭の後ろで組み直すと、深いため息をついた。
「こういうことは……、早めに相談しとけよな、馬鹿」
リリーは顔を上げ、ヴェルナー先生の顔を見て、言った。
「ゴメンナサイ、伝えるのが遅くなっちゃって……。でも、言えなくて。ヴェルナーには
なんて言ったらいいのか分からなくて……」
ヴェルナー先生は、大きく息を吐き出すと、リリーに向き直った。
「もう、とっくに知ってたぜ、この間、ケントニス奨学金の資格試験に受かってたのもな。
担任をなめるなよ。ま、留学したいなら、すればいい。おまえの人生だ。ただ……、何も
言わずに行っちまうってのは……、ルール違反だ。おまえ、ひでぇな。分かってるのか?
‘卒業したら、堂々とつきあえるわね’なんて言ってたくせに……」
リリーはヴェルナー先生の顔を見て、言った。
「ご、ごめんなさい……!」
ヴェルナー先生は、ため息をついて両手を頭の後ろから離すと、机の上に頬杖をつき、
リリーの顔をまじまじと見つめながら言った。
「おまえ、なあ。コミュニケーション的合意形成過程における、自らの主体的説明責任を、
何だと思ってるんだ?」
リリーは一人つぶやいた。
「……うっ、こっちのヴェルナー、大卒だけあって、言ってることが難しいわ……」
ヴェルナー先生は、リリーの言葉を聞いてか聞かずか、ごほん、と咳払いをすると言っ
た。
「とにかく、……アホのおまえにも分かるように言ってやろう。いいか、俺に隠し事を
するな!」
リリーは目を大きく見開くと、言った。
「隠し事なんか……、するつもりは、なかったのよ。言い出せなかっただけで……」
ヴェルナー先生は、どん、と机を叩くと、言った。
「そういうのを、隠し事って、いうんだ……! おまえ、自分だけで勝手に納得して、美
しくまとめるんじゃねえぞ……。いいか、おまえの人生は、俺にも関係があるんだ。自分
一人だけで、生きてると思うなよ……!」
*
リリーの目から、突然、コップの水をひっくり返したように、大粒の涙がこぼれて来た。
日食の森は、黒々とした威圧感をたたえていた。意識をなくしたリリーを抱きかかえてい
たヴェルナーは、その涙を見てぎょっとした。ヴェルナーが慌てて涙をぬぐうと、リリー
はか細い声で、一言ずつ、噛みしめるように言った。
「……ごめ、ん、なさ……い、ヴェ、ルナー……。世……界、で、一、番、大……好、き
よ……」
ヴェルナーは口を一文字に引き結ぶと、そっとリリーを抱き上げた。
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