箱職人



      
   

   3


 その日の晩。
 ヴェルナーは、職人通りを歩きながら、小さくため息をついた。

 ……絶対に、おかしい……。

 昼間、錬金術工房に行ったとき、彼を「店じまいだ」と言って追い出した彼女は、いつもと様
子が違っていたのもさることながら、おもむろに左手でカーテンを閉めたのだ。

 ……あいつは、たしか左利きじゃなかったはずだ。……別に珍しいことじゃないのかもしれな
いが、右利きの人間が、普通、動作を左手からは始めねぇよな……?

 月明かりが、ヴェルナーの影を通りに伸ばしていった。ヴェルナーは、両手をズボンのポケッ
トに突っ込むと首をひねった。

 ……ま、行ってみるしか……ないか。

 ヴェルナーの背後を、白い月明かりが舐めていった。

*


「おい、リリー……俺だ」
 工房をノックして名乗ったが、反応はなかった。ヴェルナーは、再度強くノックの音を響かせ
た。
「おい、おまえが呼んだから来たんだろ、リリー!」
 しかし、またもや返事はなかった。ヴェルナーは、ふん、と言って軽く口をヘの字に曲げると、
工房のドアを開けた。
「……リリー?」
 ヴェルナーは工房の中を見回した。
 テーブルの上にはランプが置かれ、調合の器材がその光にゆらゆらと影を動かしている。ヴェ
ルナーは、そっと部屋に入った。
「いねぇ、のか……?」
 そのとき。
「うわっ!」
 かちゃり、と音を立て、工房の扉がヴェルナーの背後で独りでに閉じた。ヴェルナーは、ビク
ッとして振り返った。
「……風か……?」
 そう言って、しげしげと扉を見つめたヴェルナーの背中に向かって、聞き慣れた声が、聞き慣
れない調子で投げかけられた。
「いらっしゃい、ヴェルナー」
 ヴェルナーが、再度驚いて振り返ると、リリーが妖しげな笑みを浮かべて立っていた。

*


「なぁに、そんなに驚いた顔をして……? あたしの顔がそんなに珍しいの、ヴェルナー?」
 くすり、とリリーは笑ってその長い髪を優雅にかき上げた。ヴェルナーは首筋に冷たい汗の感
触を覚えながらリリーに言った。
「いきなり背後に立たれたら、誰だって驚くさ」
 リリーは、静かな口調で言った。
「あたしなら、さっきからずっとここにいたわよ?」
 ヴェルナーは、口端を軽く引き締めた。
「……嘘つくな」
 リリーは、そのヴェルナーの顔を見て、急にくすくすと口元を押さえて笑い始めた。ヴェルナ
ーは不愉快そうに言った。
「何がそんなにおかしいんだ?」
 リリーは、軽く首を傾げるとヴェルナーの顔を見た。
「おかしくないわ。嬉しいの」
 そう言って、リリーはすっと左手を上げ、ヴェルナーの右の頬に触れた。ヴェルナーは、一瞬
眉間に皺を寄せてリリーの顔を凝視した。リリーは言った。
「……何よ、ヴェルナー、そんなおっかない顔をして? あたしが会いたいって言ったから、こ
うして来てくれたんでしょう。……あたしに、会いたくなかったの?」
 そう言って、口元に薄い笑みを浮かべているリリーに、ヴェルナーは言った。
「……手、冷たいな、おまえ……?」
 リリーはゆっくりとヴェルナーの頬に当てた手を引き下ろし、彼の唇を指先でなぞった。
「……そうかしら?」
 ヴェルナーは、ゆっくりと息を吐き出した。
「夏だってのに……。変だな?」
 リリーは、目を細めた。
「変じゃないわよ、別に……。ねぇ、ヴェルナー?」
「何だ?」
 そう言って、瞬き一つせずに自分の顔を見ているヴェルナーを見て、リリーは言った。
「あたしにこうやって誘われて……嬉しかった?」
 そう言って、リリーは徐にヴェルナーの背中に両手を絡ませた。
「そうだな」
 ヴェルナーは事も無げに言って、目を伏せた。
「おまえがリリーだったら、の話だがな」
 その瞬間、キーン、と冷たい気配がヴェルナーの耳の両端をかすめていった。リリーはヴェル
ナーから身を離すと、彼の顔をにらんだ。
「あたしは……あたしよ。変なこと言うのね、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは言った。
「おまえ……何者だ? さっきテオの奴が俺の店に来たが……顔色がずいぶんと悪くなってい
た。おまえの店に行った後、急に身体の具合が悪くなったらしいな? おまえが昼間、何かした
んじゃねぇのか?」
 リリーは、にやりと笑うと左手をゆっくりと上げ、顔の前で静止させた。
「……まったく、恋人の目はごまかせなかったって訳ね……? 大人しく網にかかってくれたら、
痛くしないであげようと思ったのに、残念ねェ……?」
 リリーは、ぱちん、と顔の前で指をはじいた。その途端、ヴェルナーの全身にしびれが走り、
その場に立ったまま、金縛りにあった。
「……くっ……! ……な……に、し……やが……る……?」
 ヴェルナーが額に脂汗を浮かべながら抵抗をしていると、リリーは、その琥珀色の瞳を金色に
輝かせ、口元に涼しげな笑みを浮かべた。
「別に、噛み付くわけじゃないから、安心しなさいな、ヴェルナー……。ただちょっと……寿命
を、あんたたちの時間に換算して、ほんの百年分ばかりもらうだけだから……、もっとも、あん
たに、それだけ寿命があれば、の話だけど……」
 近づいて来るリリーに、ヴェルナーは必死で喉の奥から声を絞り出した。
「うっ……や、やめ……ろ……っ!」
 抵抗を試みるヴェルナーに、リリーの顔をした何者かは、くすくすと笑いながら言った。
「……せっかく手ごろな、若いキレイな娘に乗り移るのに成功したんだもの。せいぜい街のバカ
な男どもから命を吸い取らせてもらおうと思ったんだけどねェ……。恋人がいたんじゃ、バレて
しまう……。あたしは良心的な妖魔だから、一人当たり十年分寿命を吸うくらいで勘弁してやっ
ていたんだけど……あんたには、そうはいかないみたいだねエ?」
 そう言って、妖魔はヴェルナーの首筋に唇をつけた。そしてそのままの姿勢で、妖魔は目を閉
じると、口の中で何やら呪文を詠唱しはじめた。
 赤い妖しげな光が二人の全身を取り巻き、ヴェルナーは、意識が朦朧として行くのを感じた。

 ……リ、リリー……。

 消え入りそうな意識の中、ヴェルナーが彼女の名前を脳裏に浮かび上がらせながた瞬間、急に、
今度は青白い光が彼の身体から放たれた。

「な、何……!?」
 妖魔は慌ててヴェルナーの身体から身を離した。
「……しまった! 貴様、守護されていたのか……ぐぅっ! ま、まずい……おまえの命を吸お
うとしたら、あたしの名前、が……書き換えられ……て……」

 赤い光は消え、青白い炎のような光が、妖魔の全身を覆っていった。全身をその光に焼き尽く
されるようにして、妖魔はのた打ち回り、床に倒れた。身体の戒めを解かれたヴェルナーは、呆
然としてその様子を見た。
 やがて、青白い炎の中、一人の少年の姿が浮かび上がって来た。

 ……おまえは、あの、夢の……!?

 ヴェルナーは、そう言おうとしたが、言葉にはならなかった。しかし少年はにっこりと笑うと
優雅な身振りでリリーの身体を指差し、次いでその指を、ゆっくりと空中に動かした。

 ……タ、ダシキ、ジカン、タダシ、キ、セイセイノ、オ、ト、ニ、モ、ド、ス……。

 少年の指先は、空中にその言葉を煙のように書きつけた。

「な、何だ、それは……!?」
 ヴェルナーが慌ててそう言うと、少年はにっこりと微笑み、やがて、消えた。
 後に残された煙状の文字も、数秒間浮遊した後、消失した。



   4


「それじゃ、おまえは昨日のことは何一つ覚えてねぇんだな?」
 雑貨屋のカウンターに座り、いつものように仏頂面のままリリーを見上げてそう言ったヴェル
ナーに、リリーは気まずそうに言った。
「そうなのよ……。あたし、そんなに様子が変だった?」
 ヴェルナーは軽くため息をついた。
「……変っていうか、な……」
 リリーは、たん、と両手をカウンターの上についた。
「め、迷惑をかけたとか、そういうことがあったらごめんなさいね、ヴェルナー!」
 ヴェルナーは、両腕を頭の上で組むと、ふん、と息を吐き出し、それからリリーの顔を斜めか
らのぞきこんだ。
「別に……そうたいしたことじゃない。おまえ、調合に失敗した薬剤をかぶったかなんかで、ち
ょっとおかしくなってたんだろ?」
 ヴェルナーに言われ、リリーは少し赤くなってうつむいた。
「……う〜ん、っていうかね、一昨日の夜、ヴェルナーのお店から工房に帰ったらね。今、ケン
トニスに用事で行っている、ドルニエ先生から荷物が届いたのよ。……珍しい古代の壺が見つか
ったから、帰ったら調べてみたいんで、工房で預かっていてくれって、手紙が添えられてて……」
「壺?」
 そう言って、頭の後ろで組んでいた腕を振り下ろしたヴェルナーに、リリーはうなずいた。
「そう、壺! ……赤くて、キレイな細工の壺だったんだけど、ね。……それを箱から出したと
ころまでは確かに覚えているんだけど……、そこから先、記憶がなくって……」
 ヴェルナーは言った。
「……で、その壺はまだ工房にあるのか?」
 リリーは首を左右に振った。
「ううん! なくなっちゃった。朝から探しているのに……。でね、びっくりしたことに……昨
日、あたし、いろんな男の人に、'二人っきりで会いましょう'って誘ってたんですって!? も
う、本当に驚いちゃって! ねぇ、どうなっちゃってたの? ヴェルナー、何か知ってたら教え
てよ!」
 ヴェルナーは、リリーの顔を見ると、ふん、と息をついた。
「……大勢いるのか、その相手は……?」
 リリーは、こくこくとうなずいた。
「そうなのよ! ……っていうか、朝工房を開けたら、花束をもって待ってる人までいて、本当
に驚いたわ! ねぇ、あたし、本当に何も覚えてないんだけど……何か知ってたら、教えてくれ
る?」
 ヴェルナーは軽くため息をつくと、リリーの顔をのぞき込んだ。そこには、昨夜のまがまがし
い金色の瞳ではなく、いつもの琥珀色の瞳が彼の顔を映し出している。ヴェルナーは、にやりと
笑った。
「さあな。……自分で何かやったんだろ? だったら、自分で何とかしろよ? 俺は知らねぇか
らな」
「ヴェルナー!」
 どん、とカウンターを両手で叩いたリリーの顔を見て、ヴェルナーは少々ぎょっとした。
「あたし、これから一ダース以上の数の男の人と、会わなくちゃいけないみたいなのよ? とに
かく、大変なの! ねぇ、何か知恵を貸してくれたっていいんじゃない!?」
 ヴェルナーは事も無げに言った。
「知らねぇよ。自分でまいた種だろ……? だったら、自分で何とかしろよ?」
 リリーは、くるりと踵を返した。
「もう知らない! ヴェルナーに相談したあたしが間違ってたわ!」
「おい!」
 帰りかけたリリーの背中に、ヴェルナーの声が短く響いた。
「……何よ?」
 振り返ると、既にヴェルナーは彼女の横に立って笑いながら彼女の顔を見下ろしていた。
「……条件次第では、いろいろと、ごまかしてやらねぇこともないけどな……?」
 そう言って彼女の顔を見たヴェルナーに、リリーはため息をついた。
「本当……?」
 ヴェルナーはうなすいた。
「ああ。その代わりと言っちゃなんだが……、まずは、優先的に俺の依頼品を片づけてもらおう
か……?」
 リリーは微笑みながらうなすいた。
「ああ、それくらいでいいなら、お安い御用よ! ありがとう、ヴェルナー!」
 ヴェルナーは言った。
「それから、だ。今日は俺の店の在庫品の整理を手伝ってもらうからな。……多分、夜までかか
るだけの量があるぜ?」
 リリーは一瞬顔を曇らせたが、すぐさま笑顔でうなずいた。
「う、……うん! いいわ! 手伝う!」
 ヴェルナーは、くすりと笑うと再びカウンターの向こう側の椅子に腰掛け、帳簿をめくった。
リリーは、ふう、とため息をついたが、すぐさま、よぉし! と言って上着の袖をまくってヴェ
ルナーに言った。
「どこから整理すればいいの、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは顔を上げると彼女の顔を見上げ、
「まずはそこの階段の下に積んである木箱を全部開けて、こっちの帳簿に書いてある品物と合っ
ているか、確認してくれ」
 と言って、彼女に帳簿を渡した。リリーはそれを受け取ると、分かったわ、と笑顔で言った。
「あ、ねぇ、ヴェルナー。……その箱……?」
 リリーは、ふと、カウンターの上に置いてあった青い箱を指差して言った。
「何だ、箱がどうかしたのか?」
 リリーは小さくうなずいた。
「この間見たときに、どこかで見たような気がするって言ったでしょ? 今思い出したんだけど
……、その箱、昔あたしが持ってた箱にそっくりだわ」
 ヴェルナーは、ほぅ、と言ってリリーの顔を見た。
「どこで、手に入れたんだ?」
 リリーは言った。
「ケントニスの実家に、行商人の人が売りに来たのよ……。背の高い、帽子を被った風変わりな
男の人で……。お父さんも、お母さんも、いらないって言って追い返したんだけど、あたし、こ
っそり後を追いかけて、一個だけ買ったの。その……子どもだったし、銀貨一枚しか持ってなか
ったんだけど、これで売って下さいって言ったら、売ってくれて……」
「で、その箱はまだ持ってるのか?」
 ヴェルナーが聞くと、リリーは首を横に振った。
「ううん。なくなっちゃった。……いつの間にか、どこかに行っちゃって……。でも、それにし
ても……」
 リリーは、そう言ってしげしげと青い箱をながめた。
「……よく、似てるわ……」
 ヴェルナーは、目を細めた。
「そうか、じゃあ、おまえにやろう、その箱」
 リリーは、驚いて顔を上げた。
「いいの、ヴェルナー! 高かったんでしょ、この箱?」
 ヴェルナーは……、指先でペンを二、三回くるくると回すと、にやりと笑い、口の中だけでつ
ぶやくように、さあな、と言って再び帳簿に向かった。


                                    〜fin〜

 
 後書き 

 5000番Hit記念に、幸子様にリクエストしていただいた作品です。お題は、「攻めリリー」だっ
たんですが、ちょっと「攻め」の意味が違うような……(別に命まで狙わなくたって良かったか
もしれませんね)。
 暑くなってまいりましたので、ちょっとホラー仕立てにしてみましたが、いかがだったでしょ
うか(笑)? 個人的には、「絵筆を耳に挟んだまま寝て起きてそのまま気づかずご飯を食べた
り顔を洗ったりしているアイオロスさん」の図が書きたかったですね……。
 それから。
 話の中には出てきませんでしたが、妖魔を倒したときに、テオも吸われた寿命を返されて、ちゃ
んと元気になっている模様です。ご心配なく(^^;(2003年6月)。



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