1
初夏。
爽やかな晴天の日だった。しかし、その陽射しの恩恵を受けることのない薄暗い雑貨屋の奥
で、ヴェルナーは店番をしながら例のごとくうたた寝をきめこんでいた。ふいに、腕組みをし
たまますうすうと寝息をたてる彼の眉毛が、片方ぴくりと跳ね上がった。
「は、は、箱を、買って、欲しいんだ」
客の気配を感じて目を開けたヴェルナーの頭の上から、聞き覚えのない声が響いてきた。ヴ
ェルナーは慌てて顔を上げた。雑貨屋のカウンターの前には、いきなり降って湧いたように、
男が一人立っていた。
「箱?」
ヴェルナーは、あくびを噛み殺した際に目の端に浮かんだ涙を、その長くて器用そうな人差
し指の先でぞんざいにぬぐうと、男に聞きかえした。声の主は痩せて背の高い、そのくせひど
い猫背の男だった。麦わらのような色の髪の毛を、ぼさぼさと肩まで伸ばし、頭には臙脂色の
布の帽子を被っていた。そのため、彼の顔は鼻から下しかヴェルナーには見えなかった。鼻は
細く長く、そして口の近くで奇妙な具合に横にひん曲がり、口は、鼻に比べてひどく小さく、
そして、その口から発せられる言葉は、今までヴェルナーが接したどんな人物よりも、ひどい
どもりだった。
「そ、そ、そう。は、箱……」
そう言うと、男は手にしていた大降りの布の袋から、次から次へと大小様々な箱を取り出し
て、たん、たん、とヴェルナーの前に置いた。
「は、は、箱を……買ってくれ。ぼ、僕が、つ、つ、つ、作ったんだ」
ヴェルナーが、ふむ、と言って、カウンターの上に男が並べた箱の一つをつまみあげて眺め
ると、男は言った。
「つ、つ、作られたときの音がする箱、と、いうんだ、それは」
「あ? 何だって?」
うたた寝から急に起こされたときのヴェルナーの目つきは、普段のそれ以上に、悪い。しか
し帽子の男は、そんなヴェルナーの様子に気後れするような素振りも見せず言った。
「そ、そ、そ、それは、つ、作られたときの、お、お、お、音がする箱、と、い、いうんだ」
ヴェルナーは、自分がつまみ上げた箱を見た。手の平の上に乗るほどの大きさのその箱は、
澄んだ青い色をしており、ヴェルナーの仏頂面が表面に映るほど丹念に磨かれていた。側面に
は彼が見たこともないような文字が刻まれ、それは一筆書きで一気に書かれた様な、不思議な
生命力をたたえていた。それは植物の蔦のように箱全体に絡まり、箱を掴むようにして飾り立
てていた。
「これは、何でできてるんだ?」
好奇心を刺激されたヴェルナーは、箱を見ながら男に尋ねた。男は、紺色と臙脂色の縦縞の
布地で作られた、奇妙に大きな上着の袖を軽くめくり上げた。
「だ、だ、だから、つ、作られたときの音がす、す、する、箱、だ」
ヴェルナーは、やれやれ、と言った風にため息をついた。
「……名前は分かった。旦那、俺はな、材質を聞いてるんだぜ? これはいったい、何ででき
てるんだ? 木製でもないし、金属製でもないようだし……石にしちゃ、随分珍しい色だ。少
なくとも、この辺りで採れるような石じゃねぇだろ? 俺はこれでも、この手のものに詳しく
ない訳じゃないんだが……あいにく、まったく馴染みのない代物だ。……値段の参考にしたい
から、材質を教えてくれ、と、そう言ってるんだよ」
男は、言った。
「ざ、ざ、材質は……気にしたことが、ない」
ヴェルナーは呆れて男の顔を見上げたが……男はごとごととカウンターの前に箱を並べ続け
るばかり。ヴェルナーが呆気にとられて見ていると、男はさらに蕩々と説明を続けた。
「そ、そ、そっちは、立ったまま眠っている箱、こ、こ、こ、これは、睫毛を濡らすための箱、
で、ここ、こっちが、……乾燥した晴天の日に最適な箱、それから……」
ヴェルナーは、男の手元と自分の手の中の箱を見比べ、次に箱をひっくり返し、さらにその
蓋の銀色の留め金を外そうとして、顔をしかめた。
「おい、……この箱、開かねぇぞ?」
そう言って、ヴェルナーが青い小箱を男に示すと、男は淡々と言った。
「あ、あ、開かない、その箱は……。開く箱が、いいのか?」
ヴェルナーは、処置無し、といった風に箱をカウンターの上に置くと、口をへの字に結ん
だ。
「……開かない箱なんて、箱と言えるのか?」
男は、ヴェルナーの顔をしばらく凝視し……もっとも、その目はヴェルナーには見えなかっ
たが……、やおら口を開いた。
「お、お、おかしいな。こ、ここの店主は、め、珍しくて実用性に乏しい品物が好きだ、と聞
いたから、来たんだが……」
ヴェルナーは、その男の声の調子に思わず苦笑した。
「たしかに、俺は珍しい品物を扱ってはいるが……。しかし、ここまで訳の分からねぇものを
見せられたのは、初めてだぜ。旦那、あんた、どこから来たんだ?」
男は、身じろぎ一つせずに、さらりと言った。
「に、西、だ」
ヴェルナーは、ほぅ、と言ってカウンターの上に肘をついた。
「西って言うと、海沿いの、カスターニェの町辺りから来たのか?」
男は、ゆっくりと首を横に振った。
「ち、違う。……もっと、西、だ」
ヴェルナーは、幾分身を乗り出すと、男の顔を下からしげしげとのぞき込んだ。
「……ってことは、旦那はもしかしたら、海の向こうの、エル・バドール大陸から来たのか?」
男は、静かに言った。
「ち、ち、違う。……西、だ」
ヴェルナーは、やれやれ、と言った風に口端で笑うと、青い箱を持ち上げ、男に言った。
「……分かったよ、旦那。とりあえず、こいつをもらおう。開かなくても、装飾品としては珍
しい品だ。好事家が面白がって買うかもしれねぇ。おまえさんの言い値は、いくらだ?」
男は、ゆっくりと言葉を噛みしめるように言った。
「だ、代金なら……も、も、もう、もらって、いる」
ヴェルナーは、は? と言って聞きかえした。
「おい、いい加減なことを言うな。俺はまだ代金を払ってもいねぇし、値段の交渉すらしちゃ
いねぇ。……旦那、あんた、大丈夫か?」
男は、淡々と言った。
「だ、だ、大丈夫、だ。は、は、箱は、もう、売った。た、正しい、き、客に、う、売ってく
れ」
「あ? 何だ、その……正しい客、ってのは……?」
ヴェルナーがそう言った瞬間には、既に男は店のカウンターに踵を返して階段を下りていた。
ヴェルナーは、口を大きくへの字に曲げると、ふむ、と言って青い箱を持ち上げた。そのとき。
店の扉が開く音がして、同時に元気良く、聞きなれた足音が階段を駆け上がってきた。音と
振動の感触を確かめながら、ヴェルナーは箱をカウンターの上に置き、指先で表面をなぞった。
「……ヴェルナー!」
明るい声が、彼の頭の上から響いてきた。ヴェルナーは、箱を見たまま言った。
「リリーか。……何か用か?」
リリーは目を大きく見開いて、ヴェルナーの顔を見た。
「見ないで、よくあたしだって分かったわね、ヴェルナー?」
ヴェルナーは慌てて……しかしながら、そんな様子はおくびにも出さずに顔を上げた。
「……どうせ、おまえしか来ねえからな、最近」
リリーは、カウンターの上の地球儀を指先で軽く回しながら言った。
「でも、もし他のお客さんだったら……どうするのよ。失礼じゃない?」
ヴェルナーは、そのリリーの手を軽く払いのけるようにして、地球儀の回転を止めた。彼女
の細い指が、所在なげに宙を泳いでいる。ヴェルナーは、眉間に皺を寄せながら言った。
「おい、やめろよ! ……ったく、またその地球儀をぶっ壊す気か! それに、俺が他の客と
おまえを間違える訳ねぇだろ?」
リリーは、そっと地球儀の上に手を乗せて、ヴェルナーの顔をのぞきこんだ。
「何でよ?」
ヴェルナーは、慌てて小さく咳払いした。
「……別に、その、何だ、おまえの足音はどたどたしていて重いからな……」
リリーはきょとん、とした顔でその言葉を聞いていたが、急に口を尖らせた。
「何よ、その重いっていうのは! それに……、あたしが今聞いたのは、何であたしが地球儀
に触っただけで、もう壊すって決めつけるのっていうことだったのに!」
ヴェルナーはそれを聞いて、一瞬、今度は明らかにそれと見て分かるほど動揺した顔をした
が、すぐに下を向いてペンを握ると、何やら書き付け始めた。
「……ヴェルナー?」
リリーの心配そうな声が頭の上から響いてきた。ヴェルナーは、書き物をしながら言った。
「何だよ? いるものがあるのか? 俺はちょっと、帳簿につけなくちゃならないことがあっ
て忙しいんだ。……用があるなら、はやく言え」
リリーは言った。
「いるものは……、ランドーと星のかけらを十個ずつよ。でも……いいの、ヴェルナー?」
ヴェルナーはぶっきらぼうに言った。
「何がだよ、さっきから、おまえ?」
リリーは言った。
「さっきからヴェルナーが書き込んでいるの、それ……、帳簿じゃなくて、本なんじゃない
の?」
「え? うわっ!」
ヴェルナーは、自分が書きつけをしていた当のものを確かめると、愕然とした表情を浮かべ
た。リリーはそれを見て吹き出した。ヴェルナーは決まりが悪そうに、ますます仏頂面になっ
てペンを乱暴に置くと立ち上がり、棚から商品を出し始めた。
「……笑うな。……品物だ。これで、いいんだな?」
リリーはうなずいて代金を支払った。ヴェルナーは銀貨の数を確かめた。リリーは、彼の銀
貨を数える手元を見て、それからさっきまでヴェルナーが眺めていた箱を見た。
「綺麗な箱ね〜!」
リリーは思わず、声を上げた。ヴェルナーが顔を上げると……目を丸くしているリリーの顔
が彼の視界に入ってきた。
「その箱か? さっき買ったものだ。よく分からん男が、自分が作ったから買ってくれと言っ
てきたんだ」
リリーは、ふうん、と言って、箱を持ち上げると、その蓋の留め金に手をかけた。
「え? あれ!? ……ねぇ、ヴェルナー、この箱……鍵が掛かってるの? 開かないんだけ
ど……?」
ヴェルナーは事も無げに言った。
「その箱は、開かない箱だそうだ」
リリーは、訝しげにその箱をカウンターの上に置いた。
「開かない箱? ……それって、箱って言えるの!?」
ヴェルナーはうなずいた。
「ああ。……ま、細工や材質が面白いから買い上げたんだが……それがどうかしたのか?」
リリーは苦笑した。
「ううん。あ、でもこの箱……。あたし、どこかで見たことがあるような気がするんだけど…
…どこだったかしら?」
ヴェルナーは言った。
「それを作った男は、西の方角から来たそうだから……、もしかしたら、おまえの出身地に近
いところから来たのかもしれねぇな? ケントニスでは、そんな飾り文字が流行ってるのか?」
リリーは首を横に振った。
「ううん。ケントニスでも、こんな模様は珍しいわよ。……でも、このお店らしいわよね、こ
ういう意味の分からない物を扱ってるのって」
ヴェルナーは少々口を尖らせた。
「何だおまえ……喧嘩を売ってるのか? 俺に言わせれば、おまえが錬金術で作ってる物のほ
うが、よっぽど得体が知れねぇけどな?」
そう言って、ククッと喉の奥で笑ったヴェルナーに、リリーは言った。
「そんなことないわよ! このお店で売ってるもののほうが、実用性はないし、得体が知れな
いわ! ……でも、そんな箱を作ってるなんて……変わった人ね?」
ヴェルナーは、口端で笑いながら言った。
「ま、芸術家なんて、多かれ少なかれ、そんな奴が多いさ。……さっき、おまえが店に入って
きたのと入れ替わりで出て行ったんだが、見たろ? 背の高い、帽子を被った男だ」
リリーは首を横に振った。
「ううん、見なかったわ! あたしがお店に入ってきたときには、誰もいなかったもの!」
ヴェルナーは、少々怪訝そうな顔をした。
「そいつはおかしいな……おまえとすれ違いで出て行ったかと思ったんだが……」
そのとき。
ぎいっと店の扉が開く音がして、こつこつと穏やかな足音が、ヴェルナーとリリーのところ
まで近づいて来た。
「……やあ、ヴェルナー。頼んでおいた顔料は入ったかな?」
声の主は、にっこりと微笑むとヴェルナーに言った。リリーはその人の顔を見ると、笑いな
がら言った。
「アイオロスさん! ……あの、耳に挟んでいるの……絵筆じゃないですか?」
アイオロスは、え? と言って、自分の右の耳に挟んだままになっていた、華奢な造りの絵
筆を手にした。
「ああ! ……どうもありがとう、リリー。いやあ、うっかりしていたよ。細かな仕上げに使
う絵筆をこうして挟んでいて、別のもっと太い筆で他の部分を塗っていたんだけど……ここに
挟んでいたのを、すっかり、忘れてしまっていたな」
リリーは言った。
「……どれくらい、そこに挟んでいたんですか、アイオロスさん?」
アイオロスは、微笑みながら言った。
「そうだねぇ……これをここに挟んだのは……昨日の昼前だったような気がするよ」
目を丸くしたリリーに、ヴェルナーはぼそりと言った。
「……ま、芸術家ってのは……多かれ少なかれ、こんな奴が多いんだ、いい例だろ、リリー?」
同時に笑い出したヴェルナーとリリーに、アイオロスは、きょとんとした顔で言った。
「いったい、何がおかしいんだい、君たち……?」
2
その日の夜。
ヴェルナーは奇妙な夢を見た。深い森の中を、どこまでもあてもなくさまよい歩いている、
夢。見上げると、どこまでもざわざわと密集した黒い木の葉が暗雲のように広がっており、空
は見えない。
……ここは……どこだ?
ヴェルナーは、不愉快な汗を額に滴らせながら、歩き続けていた。
ふいに。
……ん? 何だ……、歌声、か……?
黒い森の中、小川のせせらぎにも似たかすかなざわめきを伴って、子どもの細い歌声が聞こ
えてきた。
……こっちの方角、か……?
ヴェルナーは、声を頼りに森の中を歩いた。黒い森の薄い灯りが、彼の五感のすべてを水浸
すように、ひたひたとうち寄せてきた。ヴェルナーは、身震いをした。すると……彼の目の前
には、淡い青い色の衣をまとった少年が、ふわりと裾を翻して現れた。少年はヴェルナーの顔
を見上げ、音律を一音一音、確かめるように高い声で歌った。
「……spem pro re ferre……」
ヴェルナーは、少年の顔を見た。少年の頬は陶器の置物のように白く硬質で、人間離れした
風情を醸し出していた。ヴェルナーは、それを見て冷や汗をかいた。
……何だこの子どもは……、夢魔の類、か?
少年は眉一つ動かさずに、すっと右手の平をヴェルナーに向けると、急に高らかに歌い上げ
た。
「……quod restat……moneo!」
「うわっ!」
その声はヴェルナーの頭蓋を直撃するような勢いで、彼の意識の中を真っ直ぐに射抜いてい
った。ヴェルナーは、思わず大声で叫ぶと、起きあがった。
「……何だ、夢、か……?」
ヴェルナーは、やれやれ、といった風に首を横に振ると、そろそろと起きあがり、ベッドか
ら抜け出した。そのとき。
「ん? 何でこの箱が……こんなところに置いてあるんだ?」
ヴェルナーは、訝しげにサイドテーブルの上の青い箱をつまみ上げた。
「たしか、昨日店の棚に置いたはずだったのにな?」
ヴェルナーは、首をひねった。
*
翌日の昼。
ザールブルグの職人通りは、いつものように春の暖かな日射しを受けていた。ヴェルナーは、
注文した品物を引き取ろうと、リリーの工房に出かけた。
日射しは、穏やかな熱をそよ風の中に拡散させていた。ヴェルナーは歩きながら大きく伸び
をした。通りを満たす、職人達の声、金槌や蹄鉄の音、行商人の売り声。いつもと変わらない、
ザールブルグの街の昼の風景。しかし。
ヴェルナーは、錬金術工房の前で、異様なものを見た。
開け放された窓の外から、数名の男達が、好奇心に輝く目で工房をのぞき込んでいたのだ。
「おい、おまえら……何やってるんだ?」
ヴェルナーがいつもの……例の仏頂面で男達に声をかけると、そのうちの一人が、とろん、
とした目でヴェルナーの顔を見た。
「……な、なんか、今日のリリーさあ、……すごく色っぽくねぇか?」
そう言って、すぐさま窓に張り付いた男を少々驚きの目で見ながら、ヴェルナーは言った。
「あ? 何だよ、リリーが……どうしたって言うんだ?」
そのとき。
ヴェルナーの目に入ってきたのは、いつもひっ詰めている榛色の長い髪を下ろし、口元に微
笑を浮かべながら、客の少年の肩に手をかけ、顔を近づけたリリーの姿だった。
「……な、何だ、リリーの奴……!?」
ヴェルナーは、そう言って荒っぽく工房のドアをノックすると、ドアをがちゃりと開けた。
「リリー!」
そう言って自分をにらみつけたヴェルナーに、リリーは顔を上げ、くすりと笑った。
「なぁにぃ、ヴェルナー。そんなに恐い顔して?」
そう言って、ゆらりと上体を起こすと、リリーは髪をかき上げた。ヴェルナーは……そこに
赤い顔をして座り込んでいるテオと、リリーの顔を見比べて、大きく息をついた。
「おまえ……何やってるんだ、リリー?」
ヴェルナーがそう尋ねると、リリーは少し目を細めながら言った。
「何って……テオの肩口にゴミがついていたから、取ってあげたのよ?」
ヴェルナーはテオの顔をにらむと、テオはこくこくとうなずいた。
「あ、ああ、そうだよ、ヴェルナーさん!」
「おまえは、何しに来たんだ、テオ?」
ヴェルナーに言われて、テオは言った。
「何って、品物を注文しに来たんだよ!」
リリーは、口端に薄い笑みを浮かべた。
「そうよ。お客さんの応対をして、何か問題でもあるの?」
ヴェルナーは、リリーの顔をまじまじと見た。良く見ると彼女は、いつもと違って薄く化粧
を施していた。その形の良い唇には艶やかな口紅が塗られ、近づくと普段はつけていないよう
な花の香水の香りを漂わせていた。ヴェルナーは呆気に取られて言った。
「おい……、何かあったのか、リリー?」
リリーは、鼻先で笑った。
「何って、何よ?」
ヴェルナーは言った。
「化粧なんか、普段しねぇだろ、おまえ?」
リリーはくすくすと笑った。
「別にいいじゃない。あたしだって、そういう気分のときくらいあるのよ?」
そう言って髪をさらりとかき上げたリリーを、テオはうっとりとした目つきで見ながら言っ
た。
「そうだよ、いいじゃないか、ヴェルナーさん! 今日の姉さん、何だかすごく綺麗だし……」
ヴェルナーは、眉間に皺を寄せた。
「……おまえ、何か悪いもんでも食ったのか?」
リリーは、怪訝そうに眉を片方持ち上げた。
「ふ〜ん、あなたって……」
ヴェルナーはそのリリーの顔を見て、なぜか一瞬、背筋にぞくりと寒いものが走った。
「……何だ、俺がどうだっていうんだ、リリー?」
リリーは、すぐに口端で笑うと小声でヴェルナーに言った。
「何でもないわ。ねぇ、ヴェルナー。後でもう一回、ここに来て。日が落ちてから、ね」
ヴェルナーも、思わずつられて小声で聞き返した。
「な、何で俺がもう一度足を運ばなくちゃならねぇんだ?」
リリーは、しかしそんなヴェルナーの質問には答えず、すぐさまテオの方に向き直った。
「さ、テオ! 悪いけど、もう帰ってくれる? 今日はこれで店じまいなのよ」
テオは、いつものように朗らかに……しかし、いつもよりも少々ニヤケながら言った。
「あ、ああ、分かったよ。姉さんも忙しいみたいだしな! 姉さんに注文したスイートパイが
出来上がったころに、また来るよ!」
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