神々の宴



      
   
   4

「‘神々の宴’、というんだ。その絵の題名は」
 アイオロスは、微笑みながらヴェルナーに言った。二ヶ月ほど前の、夏の終わりの夕暮れどき
だった。アイオロスがヴェルナー雑貨屋を訪れるのは、久しぶりのことだった。ヴェルナーはカ
ウンターの前に座って、習作の描かれたスケッチブックを捲っていた。ヴェルナーはずっと無言
のまま、一枚一枚丹念に眺めていたが、やがて、ぼそりと言った。
「……似てるな」
 アイオロスは苦笑した。
「うん。僕もね、正直言ってこんなに似るとは思っていなかったんだけど……。別に、彼女の姿
を、そっくりそのままに描こうと思って描いたわけじゃないんだよ。僕は、ものの形をただ正確
に写すことには、それほど興味はないからね。ただ、彼女の、リリーの持っている雰囲気という
か、力強さというか……生命力みたいなものを表現できればいいかなって思ってね、何枚か習作
を描いてみたんだ。ところが……、そうやって描いたら、むしろ本人を目の前にしてスケッチす
る以上に、似てしまってね」
 ヴェルナーは、絵から顔を上げると小さくため息をついた。
「ま、これだけ似てりゃ……、イルマのやつも、騒ぐわけだな」
 アイオロスは、やれやれ、と言ったような顔で困ったような笑顔を浮かべた。
「うん。あのときは大変だったよ。たまたま中央広場で写生をしていたら、イルマに勝手にこ
のスケッチブックを見られてしまってね……。いや、彼女はちゃんと僕に断ってから見たって言
うんだけど、僕はこの通り、一旦絵を描くのに夢中になってしまうと、周りにそれほど注意が回
らなくなってしまうものだからね、その辺りの記憶が……、実は曖昧なんだよ。まあ、はっきり
覚えているのは、スケッチブックを見ていたイルマが、真っ赤な顔をして、何か大声で叫びなが
ら職人通りの方に駆けていったところぐらいなんだけど……」
 ヴェルナーは、軽く頭を掻いた。
「……多分、そんときだぜ。俺の店に来たのは」
 アイオロスは、小さくうなずいた。
「ああ、この店にも……来たんだね、やっぱり。で、彼女は何て言ってたんだい?」
 ヴェルナーは、スケッチブックをカウンターの上に置くと、頬杖をついた。
「まあ、噂の源流になっているようなことを……べらべらと、な。で、一通りまくし立てた後、
‘ねえ、あなた平気なの、ヴェルナーさん?’なんて聞いてきやがるから、俺が‘それがどうか
したのか?’って聞き返したら……、イルマのやつ、‘何だ、つまらない。ヴェルナーさんだと
思ったのに……。ようし、次は武器屋よ!’って言ってな、ばたばた店を出ていきやがったぜ。
あの調子で……、ザールブルグ中に広めて回ったんだろうな、例の噂?」
 アイオロスは、うつむいて軽く頭を抱えた。
「……やっぱり、変な噂を広めて回ったのは、イルマだったんだね? あの後、何を勘違いした
のか、僕のところにその絵を譲って欲しいっていう人が何人も現れて……、説明するのが大変だ
ったんだよ。そんな絵、描いていないのに……。でも、しばらくゼーデルブローム家の夏屋敷に
絵を描くために招かれて留守にしていたら、もう、あの噂は誰も覚えていないみたいでね。……
助かったよ」
 ヴェルナーは言った。
「ま、当のリリーも、グランビル村に交易に出かけていて、しばらくいなかったしな。しかも…
…、帰ってきたときには、村の近くの森に巣くっていた馬鹿でかいウォルフの王を退治したって
いうんで、大騒ぎになっちまって。おかげで今じゃ誰もそんな絵のこと、覚えちゃいねぇよ」
 アイオロスは、感心したように腕組みをしてうなずいた。
「そのウォルフの王の話は、僕も聞いたよ。いやあ、……驚いたね。もしかしたら、その辺の冒
険者よりも強いんじゃないかな、彼女」
 ヴェルナーは、ふいにアイオロスの顔を見上げた。
「で、この絵……、そいつらに……、その、勘違いして買いに来た連中に、見せたのか?」
 アイオロスは、くすりと笑った。
「いや……。見せてないよ。これは人に見せたり、まして売ったりするために描いたものじゃな
いからね。第一彼女に……リリーに悪いし。それにしても、リリーはずいぶん人気があるんだね。
正直、ちょっとびっくりしたよ」
 ヴェルナーは軽く横を向いて、所在なさげに顎を支えた左手の指を動かしながら、何か口の中
でぶつぶつ言った。アイオロスは尋ねた。
「……何か言った、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは、アイオロスの方に向き直った。
「……別に、大したことじゃねぇよ。ただ……」
 アイオロスは、穏やかに微笑みながら言った。
「ただ……、どうしたんだい?」
 ヴェルナーは、観念したように長くため息をつくと、アイオロスの顔を見た。
「いや、そんな誰にも見せちゃいないような物、何で俺に見せるんだ?」
 アイオロスは、目を細めながら言った。
「だって、悪いだろ、君の誤解を解いておかなくちゃ?」
「あ? 誤解だぁ? ……おっと!」
 ヴェルナーは、慌てたように頬杖をついていた手をカウンターの上に、だん、と置いた。その
拍子に、横に置いてあったペンが勢いよく跳ねてころころと転がり、床に落ちて、かつん、と軽
い音をたてた。ヴェルナーは、決まりが悪そうに身をかがめてペンを拾い上げた。その様子を見
て、アイオロスはくすくす笑った。
「僕が間違っていたら、すまなかったね。……いや、さっきこの店に僕が入ってきたときから、
何だかすごく君が落ち着かない様子だったんで……、てっきりこのことだろうと思ったんだけど
……」
 ヴェルナーは、ペンを定位置に置くと、ぼそりと言った。
「おまえ、結構食わせ者だな……」
 アイオロスは言った。
「何か言ったかい、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは、眉間に皺を寄せて言った。
「……何でもねぇよ。で、どんな感じの仕上がりなんだ、そのゼーデルブローム家の夏屋敷に
描いた絵ってのは?」
 アイオロスは、微笑みながら鞄から別のスケッチブックを取り出した。
「うん。そっちの全体構図を描いた習作は……これなんだ」
 ヴェルナーは、アイオロスの絵を見て感嘆の声をもらした。
「……こいつはすげぇ……。これを、描いたのか……?」
 アイオロスはうなずいた。
「うん……。とてもね、楽しかったよ。僕は、たとえいくらお金を積まれても……、自分の考え
と違う絵や、自分が美しいと思わないものは、描きたくはない。でも、ゼーデルブローム伯は依
頼のときにね、とにかく神様を描いた大広間に似合いそうな絵なら、何でも自由に描かせてくれ
るっておっしゃっていたから、面白そうだと思って。それに新しく作った夏屋敷っていうのが…
…、素晴らしくてね」
 ヴェルナーは言った。
「ああ、ずいぶんと好事家たちの間で噂になっているようだな。とても珍しい建築様式らしいっ
て」
 アイオロスは、微笑みながらうなずいた。
「うん。しばらく滞在していたけれど……、素晴らしい造りだったよ。あれだけ高さのある建物
を、あれほど採光の場所を取って、しかも印象としてはまったく重くならないように仕上げるな
んて……たいした物だ。外観もすごいんだけど、中から見ると……、中央に大きな吹き抜けを作
ってあってね。そこを中心に建物全体が組み上げられているんだけど、その部屋がまさに、僕が
描いた絵を飾った大広間なんだよ」
 ヴェルナーは両方の肘をカウンターの上に置くと、感心したようにうなずいた。
「へえ〜、そいつは、いっぺん見てみたいな……」
 アイオロスは、全体図の習作をゆっくりと指で示しながら説明した。
「この右手奥で台座に座っているのが、医薬と健康の女神アルテナ。ザールブルグでは、一番馴
染みの深い神様だね」
 ヴェルナーは、絵を見ながら言った。
「ずいぶんと……、面白い顔をしてるな、このアルテナ。普通、アルテナってのは、もっと取り
澄ました顔をしているもんだが……。何て言うか、口元は笑っているんだが、泣き出しそうな感
じにも見えるぜ、これ」
 アイオロスはうなずいた。
「うん、そうだね。ザールブルグ周辺では、アルテナというのは、ある意味非常に完成された理
想的な女性像、神様像として捉えられていることが多いのだけれども……、僕の故郷の地域では
ね、もっとこう、人間の様々な苦しみや悲しみを、半ば受肉しつつ受け止めるような女神として
信仰されている部分もあったんだ。この街は気候もいいし、緑も豊かだけど、……僕の故郷はね、
特に夏場の干ばつがひどくて、よく疫病も流行っていた。だから、医薬の女神様も、取り澄まし
たような雰囲気のものではなかった記憶があるんだ」 
 ヴェルナーは、小さくうなずいた。アイオロスは、アルテナの周りにいる神の像をさらに指で
示しながら言った。
「この、アルテナの周りに座ってうやうやしく仕えているのが、時間を司るプロイティダイの三
姉妹。ザールブルグではアルテナ信仰だけが独自の進化を遂げて、この三姉妹は信仰の対象とな
ってはいないみたいなんだけど……。僕が昔いた街では、アルテナ神殿の前には、かならずこの
三姉妹を祀るためのプロイティダイの門があってね。神殿と一対になっていたんだ」
 ヴェルナーは顔を上げた。
「ああ、何かの本で読んだことあるぜ……。人間の寿命を、もっと言えば、世界の始まりと終わ
りを管理する時間の門番の女神たちだろ?」
 アイオロスは驚いたように言った。
「良く知ってるね、ヴェルナー。そう。アルテナはもともと生命神であり、月の満ち欠けと同時
に、生命の満ち欠けを司るとされている。それぞれの生き物には、動物にも植物にも……いや、
もっと言えば、一軒の家、一個の街、一個の国、一個の思想、芸術、宗教、……そういったもの
にも、すべて始まりと終わりがある。それらはそれぞれに時間を割り振られている。そうした時
間を管理するのが……、お付きのプロイティダイの三姉妹だ」
 アイオロスは、微笑みながら絵の中央に描かれた女神を指し、さらに説明した。
「これに対して、アルテナと争って神界を追われたのが、アルテナの母神レト。中央の奥で、艶
めかしく横たわりながら杯を傾けているのがそう。レトは、生命に対して破壊と消滅の神。そし
て、美と恋と芸術の女神。この女神は、始まりと終わりのある時間の流れそれ自体をあざ笑い、
人間の一瞬の熱情を司る。人間の情熱は神の定めた時間を超えるもの、一瞬の熱情は時間を超越
する、という立場をとるのが、この女神だ。しかしこれに魅入られた人間は……破滅と至上の幸
福とを同時に手に入れる、と言われている。このレトの周りにいて歌を歌っている羽根の生えた
女神たちが、ムサの姉妹。詩と芸術の霊感を守護する女神たちだね。右から順に、叙事詩を守護
するカリオペ、叙情詩を守護するテルプシコラ、悲劇を守護するメルポメネ、喜劇を守護するタ
レイア、物真似と歌の技芸を守護するポリュムニア、愛らしさと恋の歌を守護するエラト、名声
と勝利の歌を守護するクレイオ。この女神たちは輝く白銀の翼で天空を舞っているが、言葉を司
るロゴスの矢によって射抜かれ、地上に落ちてくる。それが、詩になると考えられている」
 ヴェルナーは、食い入るように絵を見つめていた。アイオロスは、ヴェルナーの顔を見るとに
っこりと笑い、さらに言葉を続けた。
「真なるものと、善なるものと、美なるもの。この三つは世界の成り立ちについて考える際にと
ても重要だ、と僕に絵を教えてくれた先生は言っていた。この絵の中で、アルテナやその周りの
プロイティダイの三姉妹、それに、その手前に描いた農業の神ヴァイツェンや、鍛冶と生活の技
術神ヴィラントといった神は、いわば‘善’だ。これらはすべて、人間の現世での生活の論理に
依拠している。善とは、秩序と言ってもいい。自然の秩序、社会の秩序、生活の上での秩序、人
間同士が共存するために必要な秩序……。一方、このレトが象徴しているのが‘美’。美は生活
をときに破壊するものだ。言い換えれば非日常だね。このせめぎ合いを、絵の中で表現したかっ
たんだ」
 ヴェルナーは言った。
「……それで、こっちの左手前にいる四人の神は何だ? 楽器を演奏しているみたいだな……?」
 アイオロスは微笑んだ。
「その四人の神はそれぞれ四季を象徴している。向かって左の奥でレナフォルテを演奏している
のが、カルポ。秋と大地の実りの女神だ。その隣、右に重々しく座ってリュートを掻き鳴らして
いる壮年の男性が冬の神プロトン。プロトンは、さまざまな呼び名で呼ばれている。冬は死のイ
メージで捉えられることが多く不吉なため、様々な隠語で呼ばれているんだ。別名は死者の神ハ
デス。他に、ステュゲロス、「憎むべきもの」とも呼ばれている。それから手前に来て、左で軽
やかに笛を吹いている青年が、夏と西風の神ゼピュロス。絶世の美青年で、太陽神アポロンの好
敵手ともされている。それから……、その右で踊りながら竪琴を奏でているのが、リリーをモデ
ルにした、春と芽吹きを司る乙女神、ペルセポネ。地方によっては、花と開花の力を司るフロー
ラと同一視されるところもあるし、単に‘乙女’とだけ呼ばれている地方もあるようだけど」
 ヴェルナーは、うなずきながら絵を見つめた。アイオロスは、さらに言った。
「四季の神は、‘真’を表している。それは人間の熱情を煽る美でもなく、生活を司る善でもな
い。一切はただ、四季の流れと同様に循環し、流転していく……。そういう考え方もある。たと
えば僕たち人間は、それぞれに異なる長さの寿命を与えられ、個別の幸福や不幸を抱えて生きて
いるけれども、生それ自体はそういった事柄の彼岸にある。それが、真だと」
 アイオロスは、それぞれの神を指さした。
「アルテナが象徴するのが善、レトが象徴するのが美、そして、四季の神々が象徴するのが真…
…。この絵は、まず第一に、この三角形を表現している。しかし第二に……、僕が表現したかっ
たのは、二つの世界観だ」
「世界観……?」
 ヴェルナーは顔を上げると、アイオロスに尋ねた。アイオロスは静かにうなずいた。
「うん。僕の先生は言っていた。……世界観というものには、大きく分けると二つのものがある
って。第一には、あらゆる物事には、前提となる理想的な像、秩序があると考える世界観。この
地方のアルテナ信仰は、まさにこれに属しているね。あらゆる物には理想的な秩序があるとし、
それを自然の秩序と同一視している。そして第二に……、一切の事象には、前提となるような理
想的な秩序は存在せず、あらゆる物は、永遠に生成と流転を繰り返すとする考え方。これは……、
この地方ではあまり見られないけれども、僕の生まれた地方では、当たり前のように信奉されて
いた。僕が四季の神の像で表現したかったのは、まさにこれでもあるんだよ。一切は四季の循環
のように、生成と流転を繰り返す……。特にリリーをモデルにした春と芽吹きの女神は、この象
徴だ。春の神は、あらゆるものの生成の力を司る神。生命の循環の象徴だね。……リリーには、
とても力強いというか、意志の強そうなところがあると僕は思う。だから……描かせてもらった
んだ。そして、絵の中で、この二つの世界観を競演させてみたらどうだろうって考えたんだよ」
 ヴェルナーは、ぼそりと言った。
「そいつは……、面白ぇな」
 アイオロスは微笑んだ。
「そうかい? 面白い、と思うのは、君の感覚が生活の範を超えているからかもしれないね、ヴ
ェルナー?」
 ヴェルナーは、少し面食らったように言った。
「……何だよ、それ?」
 アイオロスは、困ったように笑った。
「いや、気を悪くしないで欲しいんだけど……。つまり、信仰とは生活とは強く結びついている
ものだからね。面白いとか面白くないとか、そういう問題ではないのが普通だと、僕は思う。感
覚が生活の規範に埋没していたら……、多分、神様について、個人的な感想を抱くことすらない
だろうね。神様は、個人的な判断の外にいるはずだから。でもね、君みたいに言う人が、他にも
いたんだよ」
 ヴェルナーは聞き返した。
「誰だ……? まさか」
 アイオロスはうなずいた。
「うん。リリーなんだよ。以前、僕がこんな話をしたら、面白いわねって、言われたよ」
 ヴェルナーは、小さく吹き出した。
「あいつの故郷のケントニスには……、神様はいないらしいからな」
 アイオロスは言った。
「神様はいなくても、彼女に信じる物はあるんだろう。それが、錬金術なんじゃないかな?」
 ヴェルナーは苦笑した。
「たしかにな。ま、信じる物があれじゃあ……、しょうがねぇな」
 アイオロスは、小さく吹き出した。
でも、そこがいいところなんだろう?」
 ヴェルナーは、一瞬ぎょっとした顔をして、アイオロスをにらんだ。
「……おまえ、俺たちを、何か勘違いしてねぇか?」
 アイオロスは、困ったように微笑んだ。
「……ごめんごめん。いや、僕の勘違いだったら申し訳ないんだけど、……実はね、僕はこの、
リリーをモデルにした女神像の習作を、これから燃やしてしまおうと思っていたところだったん
だ」
 ヴェルナーは、驚いた顔をした。
「え! ……何でだ?」
 アイオロスは、小さくため息をついた。
「いや、またこの間みたいに誰かに見られて誤解されると困るし……。それに、もう正式な絵は
完成させたからね。僕には必要ないんだ。でも、もし君がこれを気に入ったら、燃やすのをやめ
て贈呈しようかと思っていたんだけどね……。」
 ヴェルナーは、口ごもりながら言った。
「な、何で、だからって俺に……?」
 アイオロスは苦笑した。
「……うん。君なら、他の人に見せたり、売ったりしないかなって思ってね。君には、いつもお
世話になっているし。まあ、ささやかな恩返しのつもりだったんだけど。ああそうだ、この間は
本当にありがとう。あの顔料は、この地方では滅多に手に入らないものなのに、わざわざ仕入れ
てくれて……、おかげで、本当に助かったよ。」
 ヴェルナーは、慌てていった。
「別に、おまえのためにわざわざ仕入れたわけじゃねぇよ。それにな、こっちだって商売でやっ
てるんだ。儲けにならねぇことは俺だってやらねぇよ。……いちいちいらねぇ気を使うな」
 アイオロスは、微笑みながらヴェルナーの前のカウンターの上に置いてあったスケッチブック
を手に取った。
「うん。じゃあ、そういうことにしておこうか……。いや、リリーと君のことは、僕の勘違いだ
ったみたいだね。どうも、邪魔をしてすまなかった。それじゃあ……」
 アイオロスは、そう言って、カウンターに背を向けた。
「……おい、ちょっと待て!」
 二、三歩歩きかけた画家の背中を、店主の不機嫌そうな声が追いかけてきた。



   5


 ヴェルナーがリリーと喧嘩をしてから数日後の、晴れた午後。ようやく風邪が治ったヴェルナ
ーは、例の絵の束を持って町はずれの丘の上を歩いていた。秋の風が、澄んだ気配を漂わせなが
ら枯れ葉を吹き上げていった。ヴェルナーがため息をつくと、後は無風になった。

 ……ったく、俺は、何をやってるんだ?
 
 ヴェルナーがそう考えながら歩いていると、七、八歳ほどの小さな男の子がいきなり後ろから
ぶつかってきた。その拍子に、ヴェルナーが小脇に抱えていた絵が、ばらばらと地面に落ちた。
「わっ! ご、ごめんなさい!」
 男の子は、そう言ってヴェルナーの顔を見上げた。ヴェルナーは苦笑しながら、男の子の栗色
の短い髪の毛を軽くなでた。
「……気をつけろよ?」
 男の子は目を大きく見開いてうなずくと、近くに落ちていた絵を拾い上げた。
 向こうの方から、彼の友達が呼ぶ声が青空の下に響き渡ってきた。男の子は立ち上がって返事
をすると、ヴェルナーの顔を見上げた。ヴェルナーは、腰に両手を当てると男の子にうなずいて
見せた。男の子はぱっと明るい顔になって、丘の下に走り去って行った。ヴェルナーはため息を
つくと、地面に散らばった絵を拾い集め始めた。
 また強い風が吹き、一枚が遠くに吹き飛ばされた。慌ててヴェルナーがそれを追っていくと、
その先に……絵のモデルが現れた。
「……あ……」
 ヴェルナーが、咄嗟に言葉をなくしていると、彼女は絵を拾い上げて微笑んだ。

*


「この間は……、ごめんなさい」
 枯れ葉が積もった丘を歩いていた彼女は、ふいにぽつんと言った。傍らを歩いていたヴェルナ
ーは、ぎょっとして彼女の顔を見た。
「別におまえが謝ることなんか……ねぇだろ、リリー?」
 リリーは、首を横に振った。
「ううん。勝手に人の部屋に入って、クローゼットの中まで見ちゃって……。本当に、ごめんな
さい……」
 ヴェルナーは、ふっと息を吐き出すと、絵の束を身体の正面で持ち直して言った。
「これ、な。ここで燃やそうと思って来たんだぜ」
 リリーは、驚いたようにヴェルナーの顔を見た。
「え! ……どうして? 高かったんでしょ、それ?」
 ヴェルナーは、リリーの目を見た。
「ま、本人に嫌われたんじゃ……、絵なんか持ってたって、しょうがねえからな……」
 リリーは一瞬驚いたように、その大きな目をいっそう大きくした。
「……嫌いになんて……なってないわ」
 ヴェルナーは、口端を軽く引き結んだ。
「……だったら……、言うなよ?」
 リリーは、うつむいたまま微笑んだ、
「……ごめんなさい……」
 ヴェルナーは、そっとリリーの肩に手を置いた。
「そういうことは……、ちゃんと覚悟してから言うもんだろ?」
 リリーは、ヴェルナーの顔を見た。
「覚悟って?」
 ヴェルナーは、リリーの目を見た。
「つまり……お互いがお互いを必要としなくなるとか、そういう……」
 リリーはうつむいた。
「必要ないなんてこと、ないわ」
 ヴェルナーは、リリーの横顔を見てつぶやいた。
「……おまえに、俺は必要なさそうだしな……」
 リリーは、ヴェルナーの顔をにらんだ。
「何でそんなこと、勝手に決めつけるのよ!」
 ヴェルナーは、その剣幕に気圧されたように、ゆるくため息をついた。
「……悪い。でも、おまえは……、本当に俺が必要なのか?」
 リリーは、驚いたように言った。
「あたしの考えてること、何でも分かってるんでしょ?」
 ヴェルナーは横を向いた。
「……まあな」
 そう言ってヴェルナーは、両手をズボンのポケットに突っ込むと、幾分早足で歩き出した。リ
リーも、慌ててそれに続いた。
 秋の太陽の光は、葉の落ちかけた木々の上に柔らかく降り注いでいた。リリーの前を無言で歩
いていたヴェルナーは、ふいに立ち止まった。
「……どうしたの?」
 リリーが訝しげにヴェルナーの顔を見ると、彼はぼそりと言った。
「で、何でこんなところに来て……一人で泣いてたんだ、おまえ?」
 リリーは驚いて言った。
「え? ……見てたの?」
 横を向いたまま、ヴェルナーは言った。
「目が真っ赤だぜ」
 リリーは悲しげに微笑むと、ゆっくり口を開いた。
「……クルスがね、……いなくなっちゃったの」
 ヴェルナーは、驚いた顔をしてリリーの顔を見た。
「いなくなったって……、迷子か!?」
 リリーは、首を横に振った。
「……違うの。……帰ったのよ。その、ね……修行が終わったからって……」
 ヴェルナーは、ふ〜ん、と小さく言って、それ以上尋ねるのをやめた。二人の横をゆるかな秋
風が通過し、木の葉が舞い落ちていった。ヴェルナーは、無言でそれを見上げた。見上げたまま、
しばらく無言で木の葉の動きを見ていたが、やがて口を開いた。
「循環、だそうだ」
「え……?」
 リリーが聞くと、ヴェルナーは言った。
「いや、この、アイオロスの絵だ。‘神々の宴’という題名で……。おまえをモデルにしたのは、
春の女神らしい。その女神で……四季の神々でもって表現したかったのは、世界の‘循環’と
‘生成’だそうだ」
 ヴェルナーは、半歩足を踏み出した。枯れ葉が、かさっと音を立てた。その音をたしかめるよ
うに、ヴェルナーは足下を見た。
「ま、たしかにそうだよな。この木の葉だって、春に芽吹き、夏に繁り、こうやって秋になって
枯れて落ち、冬に力を蓄え、そしてまた、春になると芽吹く……。考えたら、この循環が数十
回回転したら、俺たちは、いなくなる……」
 ふいに、甲高い犬の鳴き声が響いてきた。二人が驚いて声の方向を見ると、丘の下を、二匹の
子犬がじゃれ合いながら駆けていった。ヴェルナーは、ふっと笑ってさらに言った。
 「犬は、一年でだいたい人間の四年分年を取るそうだな。ま、せいぜい長生きしても寿命は十
二、三年、ってとこか……。だからといって、犬は自分の寿命を短いなんて思わねぇだろ? 多
分、それぞれの生き物は、与えられた時間に応じて世界を認識して、生きて、死ぬ。そういうも
んだよな」
 ヴェルナーは、リリーの赤く泣きはらした目の縁を見ながら微笑んだ。
「クルスは妖精なんだろ? 妖精ってやつは、俺たちの想像を絶するくらいに長生きするらしい
な。ま、だとしたら、やつらから見れば、あっという間に生まれては消えていくのは、俺たち人
間のほうなのかもしれねぇな……って、おい! な、何だよ、また!」
 リリーは、突然大粒の涙をこぼした。驚いて見ているヴェルナーに、リリーはしゃくり上げな
がら言った。
「……ごめんなさい。何でもないのよ。何でも……」
 ヴェルナーはしばらくの間、大きく上下するリリーの細い肩を黙って見ていたが、やがて大き
く息を吐き出すと低い声で言った。
「……分かった。何でも、ねぇんだな……」
 その言葉に、リリーは小さくうなずいた。ヴェルナーは、まだ細かく震えているリリーの両肩
を、そっと包み込むようにして抱きしめた。
 また、秋の風が吹き抜けていった。
 

                                     〜fin〜


 後書き 

 ヘルクル、ヴェルナー風邪引きイベント後、です。アイオロスさんの絵のモチーフは、ギリシ
ア神話からもらていますが、いろいろ嘘も入ってます。まず詩と芸術の女神のムサの姉妹(複数
形でムサイ、Musesと綴ります)ですが、諸説ありますが、九人のところを七人にしてしまって
います。これは、私の頭の中に浮かんだ構図が、九人だと多すぎてうざかったからです(笑)。
それから季節神ですが……大嘘です(笑)。季節神は、ホライの姉妹とするのが一般的です。カ
ルポはたしかにその中の秋と実りの神ですが、あとはそれっぽい神様を適当に使ってしまいまし
た〜。なぜそうしたかというと……「女だらけの大宴会」の図になるのが嫌だったからなんです
〜! とくにゼピュロスを入れたのは……どうしても絵的に美青年神を追加したかったからです。
 ……だってだって、女とじじいだけの宴会ですよ!? 嫌じゃないですか?
 …………私は嫌ですっ(きっぱり)!
 いえ、もっと美青年の神様を入れたかったんですが、ネタ切れで、駄目でした……(涙)(2
002年8月)。                                                    




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