神々の宴



      
   

    1

 十月。
 ザールブルグが一年で一番美しく、賑やかな時期。日差しが柔らかく、気温もちょうど良くて
過ごしやすいから、というせいでもあるのだが、最も大きな理由は……。
「やっぱり、シグザールの王都に行商に来るには、王室騎士隊が討伐に出る、この時期にかぎり
ますなあ、ヴェルナーの旦那!」
 窓のない雑貨屋のカウンターの前で、この店とは馴染みの南国からの行商人は、そう言って人
なつこそうな丸い頬をさらに緩めた。年の頃は四十代半ばといったところだろうか。行商人は強
い日差しにさらされた袖の長い青いローブを着て、美しい緑色のたっぷりとした布を肩にかけて
いた。
 片手には空になった、丈夫な分厚い布製の大きな袋を持っている。袋には、この地方では普段
見ることの出来ないような、色鮮やかな珍しい模様の縫い取りが施されていた。彼はその袋を肩
に担ぎ直すと、ヴェルナーから受け取った銀貨を数え直してそれを丁寧に懐にしまった。それか
ら大きな背中を快活に揺すって、至極満足そうな笑みを浮かべた。
 交渉が無事に終わった安堵感からだろうか。行商人は、いつもにも増して饒舌だった。
「ちょうど収穫の後でこちらの特産品も安く仕入れられる! 周囲にはおっかねぇ怪物も出ない
から、各地から行商人が集まって来る! おかげで市も頻繁に立つから在庫が余る心配もない! 
そのうえ気候もいいし、食い物もうまい! ……いやあ〜、もう、あっしみたいな商売人には、
言うことなし、ですなあ!」
 ヴェルナーは、しかし、そんな行商人の言葉には、終始上の空で返事をしていた。街の人々か
らは、いつも無愛想だと評判のヴェルナーではあったが、こういった馴染みの遠方からの行商人
には、普段からきちんと接している。それは、珍しいものを安く仕入れるための手段だ、と彼は
言うが……、本当のところ、彼は遠く離れた地の風物についての話を聞くのが、とても好きだっ
たのだ。しかし、今日は……。
「ん? 旦那、ヴェルナーの旦那? どうなさったんです? 具合でも……悪いんですかい? 
こいつはいけねぇや! この店、暗いんでよく分からなかったが……、ずいぶんと顔色がよくな
いですぜ!」
 行商人がヴェルナーの様子がおかしいのに気がついて尋ねると、ヴェルナーは、無表情で言っ
た。
「いや……何でもねぇよ」
 しかし、その額には、うっすらと脂汗がにじんでいる。行商人は、慌てて言った。
「いやあ〜、あっしもね、一人でべらべらとしゃべりすぎちまって、気がつかなくって申し訳ね
ぇ! こいつは、お暇しなくっちゃいけなかったですかね? 旦那、もしかして、あっしが来る
約束だったんで、無理して店に出なさったんじゃあ……?」
 ヴェルナーは、肩で大きく息をすると、薄い笑みを浮かべた。
「……別に、無理なんかしちゃいねぇよ。心配いらねぇ」
 しかし、人の良さそうなその行商人は、心配そうな表情を浮かべてヴェルナーに言った。
「そうですかい? ……具合が悪いんなら、くれぐれもお大事になさってくださいましよ! 
旦那にぶっ倒れられたら、ここで商売がやりづらくなっていけねぇや……。ああそうだ、ねぇ、
旦那、もういい歳なんですから、いい加減、そろそろ身を固めなさったらいかがです? 独り者
で身体の具合が悪くなったりしたら、何かと不自由でしょう? いえね、以前から言おうかと思
っていたんですが……、何でしたら、商売仲間の知り合いやら娘やらに当てもあるんで、あっし
が口をきいてみてもようござんすが……?」
 ヴェルナーは言った。
「いや……いい。俺は当分、そういうのは……」
 行商人は、眉毛の両端を下げて気落ちしたように言った。
「そうですかい……? もったいねぇなあ、旦那、いい男だから、ご紹介のしがいもあると思っ
たんですがねぇ? まあ、いいや。ご本人にその気がないってんなら、仕方がねえ。それじゃ、
どうも、長々とお邪魔しちまって……。また、半年後には、寄らせてもらいますんで! お達者
で!」
「ああ。ありがとよ。……また、来てくれよな」
 ヴェルナーがそう言うと、行商人は笑顔で会釈をして、階段を下りていった。足音の行き着い
た先で、ぎいっと音がして、古くて重い扉が開き、やがて閉じられた。ヴェルナーは、大きくた
め息をついた。
「身を固めろって言われてもな。別に……、その気がねぇわけじゃ……」
 そう言って、ヴェルナーは、やれやれと言った風に首を横に二、三度振った。
「……当分は無理か。あいつは……、そういうのに興味なさそうだからな。ま、今のところはし
ょうがねぇか」
 彼がそう言ってふと視線を落とすと、そこには、動かなくなったホウキが転がっていた。ヴェ
ルナーはそろそろとカウンターから立ち上がり、その、以前は元気よく一人で動き回り、店の中
を掃いていたホウキの柄を手にした。それから、そっとホウキをカウンターの横に立てかけて、
また椅子に座ろうとした瞬間、急に頭の中がぐらりと揺れた。慌ててカウンターにつかまって身
を起こしたが腕に力が入らず、そのまま、ヴェルナーは床に倒れ込んだ。

*


 青白い、月夜だった。
 ヴェルナーの寝室の窓の外には、細かい枝葉を無造作に伸ばした細い木が見える。窓の手前に
は木の机。その上には……、青い静かな色合いの天球儀。
 ヴェルナーは、ゆっくり寝返りを打つと外を見た。その瞬間、窓の外の木の枝の上に小さな人
影が見えた。細い枝の間にちょこん、と座って、くりくりとした大きな瞳を輝かせてこちらをの
ぞきこんでいたのは……。
「……クルス?」
 ヴェルナーは、ぎょっとして起きあがった。
「クルスじゃねぇか、何やってるんだ、そんなところで? ……おい、危ねぇぞ、その枝は細く
て折れやすいんだ。……こっちに来い!」
 ヴェルナーは、窓辺に駆け寄ってその留め金を外そうとしたが、いくら指に力を入れても、鍵
が外れない。
「……ちくしょう、錆び付いてるのか? いや、そんなはずは……」
 ヴェルナーが、軽く窓の木枠を叩くと、窓の外でヴェルナーをじっとのぞき込んでいたクルス
が、小さく口を動かした。
「……ル、ナー……」
 ヴェルナーは、窓に耳を押し当てた。
「ん? 何だ、クルス? ……何か言ったか?」
 クルスの口が、もう一度、開いた。
「……ヴェルナー……」
 ヴェルナーは、クルスの顔を見た。
「分かったから! 俺に、何が言いたいんだ? 待ってろ! 今、開けてやるからな!」
 クルスの目が少しだけ細められた。ふっくらとした頬が嬉しそうに動き、口元に微笑みが浮か
んだ。ヴェルナーがそれを見ながら勢い良く窓を開けると、冷たい夜風が細かい粒子を巻き上げ
ながら、部屋の中に吹き込んできた。ヴェルナーは、一瞬風の流れに押されて目を背けたが、す
ぐに顔を起こして外を見た。

 そこに、クルスはいなかった。

 ヴェルナーが呆然として木の枝を眺めていると、突然上からふわふわと、一枚の大きな茶色の
羽根が落ちてきた。彼は、それをつかんで凝視した。
「ん? 何だ……? これは……、アードラの羽根! 何でこんなところに……?」
 ヴェルナーは訝しげに上空を見たが、そこには、やはり細い月が冷え冷えとかかっているだけ
だった。彼はぼんやりと、細い枝葉の間から身を震わせるようにして空に張り付いている、針の
ような月を見た。
「……新月、か」
 ヴェルナーがそうつぶやいた瞬間、突然、月の先から雹のような氷のつぶてが降ってきた。
「……な、何だ!?」
 氷のつぶてはごとん、ごとん、と音を立てながら、ヴェルナーの家の屋根や窓枠に後から後か
ら降ってきた。
「うわっ! 痛! 冷てぇ!」
 つぶては、次々とヴェルナーの家を目がけて降り注ぎ、それは彼の頭や肩にも当たって砕け散
っていった。つぶては飛び散る瞬間に、高く耳障りな音を立てた。それは嫌な感触を伴ってだん
だんと大きくなり、ヴェルナーは、思わず耳を押さえてうずくまった。

「……うるせぇな……」
 つぶやきながらヴェルナーが目を覚ますと、ベッドの上だった。窓から入り込む秋の午後の日
差しは、柔らかく、澄んでいた。

 ……変な、夢。……ん?

 耳障りな高い音は、速度を増して鳴り続けていた。それは住人の安否を気遣って、必死に呼び
かけているかのように聞こえた。
「……呼び鈴か。誰だ……?」
 ヴェルナーはそう言って、ふらふらと起きあがった。


                      
   2


「……何か用か?」
 熱のため、ぼんやりする頭を辛うじて起こしながら、ヴェルナーは訪問者に尋ねた。
「何か用か、じゃないわよ! エルザに聞いたわ! ……井戸に飛び込んだ後、風邪引いて、
その上お店で倒れたんですって? まったくもう! いくら面倒でも、濡れた服くらい、すぐに
着替えなさいよね!」
 訪問者は、何やら薬らしきものが大量に入ったバスケットを左手に持ったまま、右手を腰に当
て、呆れた口調でヴェルナーに言った。ヴェルナーは……風邪のため、視界がぼやけて磨りガラ
スの向こう側にいるように見える彼女の、琥珀色の瞳を見てため息をついた。
「何だよ。病人に、わざわざ喧嘩売りに来たのか、リリー?」
 リリーは咄嗟に口を尖らせたが、急に思いとどまるようにふうっと息を吐き出すと、ばつが悪
そうな笑みを浮かべた。
「……ごめんなさい。心配だったのよ。それから、……ありがとう。わざわざそんなことまでし
てくれて……。クルスに代わって、お礼を言うわ」
 その表情を見て、ヴェルナーは所在なさげに軽く頭を掻いたが、すぐに彼女の方に向き直ると、
言った。
「まあ、入れよ。今、茶ぐらいは出してやるから」
 リリーは、ヴェルナーの顔を見上げたまま、嬉しそうにうなずいた。
「うん! ……あ、でも、ヴェルナー、無理しないでね。別にお茶なんていいから……。あたし、
薬を渡して、ちょっと様子を見ようと思って来ただけなのよ? すぐに帰るからお構いなくね!」
 ヴェルナーは、玄関の扉を大きく開けながらつぶやいた。
「……来ておいて、そういうことを力強く言うなよな……。ったく、人に期待させて……」
 リリーは、ヴェルナーに聞き返した。
「え? 何か言った、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは、リリーの持っていたバスケットの取っ手をつかんだ。
「何でもねぇよ。……いいから、それ、よこせ」
 リリーはうなずくと、薬が詰まったバスケットをヴェルナーに手渡した。

*


 台所の方からは、がしゃがしゃと乱雑な音が聞こえてきた。それから、不機嫌そうな独り言も、
それに混じってリリーの耳に届いてきた。リリーは困ったような笑みを浮かべると、声の主に向
かって声をかけた。
「いいのよ、お茶なんて〜! すぐに帰るから、休んでいて!」
 しかし、不機嫌な独り言相変わらず続いている。リリーは小さくため息をつくと、居間の中を
見回した。

 ……思ったより、片づいている、っていうか、お店と違ってあんまり物がないのね。

 しかし、よく見ると、部屋のカーテンは日に焼かれ、乾燥した雰囲気を漂わせて風に吹かれて
いる。床の隅も埃っぽく、壁も戸棚も、全体的にあまり手入れがなされていないように見えた。

 ……散らかさないけど、お掃除もしないのね……。あんまり、お家にいないのかしら?

 家主の格闘は、まだ続いているようだった。リリーはふと、考えた。

 ……そうだわ! 前からちょっと、気になっていたのよね……。う〜ん、どうしようかな? 
……考えれば考えるほど気になってきた! ん〜、もう、我慢できない! ……ちょっとだけ、
ちょっと見てみるだけなら、……いいわよね? ……どこ、かなあ?

 リリーは居間の中を見回したが、それらしいドアはなかった。

 ……二階……?

 リリーは階段を見上げてうなずいた。それから、足音を忍ばせて、上の階に上がっていった。

*


 リリーは、階段を上がると手前の部屋の木の扉を、そっと、音を立てないように押し開けた。
開けた瞬間にそれは、きいっと軽い音を立て、彼女は一瞬冷や汗をかいて階下の様子を伺ったが、
家主の上ってくる様子はなかった。

 ……ここかしら? ……本当に、置いてあるのかなあ、あれ?

 きょろきょろと見回しながら部屋にはいると、そこには、入って横手に木製の丈夫そうなベッ
ド、反対側の壁には機能的な開閉式の書架が据え付けられていた。リリーは思わず本棚の本に見
入った。

 ……へえ〜、ヴェルナー、結構、本読むのね? ん? でも、背表紙の高さは列ごとに揃って
るのに、よく見ると内容はバラバラ……。何よ、これ……美術書に、測量術と幾何学の本、占星
術の本に……小説に、……童話!? あ、この挿絵、かわいい。でも、……何で? こっちは、
薬草の本……どれどれ……う〜ん、あたしたちが研究に使ってる本と違って、どっちかっていう
と、
園芸の本みたいね……、はっ! いけない。人の趣味を詮索しに来たわけじゃなかったのよ! 
あれ、あるかしら……? ん? ……あ! あったあ〜!

 リリーは本を元の位置に戻して見回した。すると、窓際に置かれた机の上に、それは静かに置
かれていた。リリーは、近づいて少しかがみ込むとそれをしげしげと眺めた。思わず口元に笑み
が浮かんできた。

 ……本当に、寝室に置いてくれてたのね、あたしが作った天球儀!

 リリーは、そっと、青い天球儀を回してみた。

 ……きれいね。ちゃんと磨かれてるみたい。大事にしてくれているのね。……良かった。

 リリーは身を起こして窓に背を向けると、満足げにうなずいた。

 さて、天球儀も確認したし、すぐに戻らなくっちゃね。ん? ……何よ、このベッド! シー
ツがびしょびしょなままじゃない! 呆れた〜! 濡れたまま寝ちゃったって、本当だったのね
? まったくもう! こんなところに寝てたんじゃ、治る風邪もこじらせちゃうわ!

 そう思った瞬間には、リリーは、シーツを勢いよくはぎとっていた。

 ……え〜っと、換えのシーツはないのかしら? ここのクローゼットの中かなあ? あ、あっ
たあった、これね! よ〜し、取り替えよう! ん? 何かしら、ここにたくさん置いてあるの
は……スケッチ画……? え? やだ! ちょっと!

「きゃああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」

リリーの叫び声は、家中を揺るがした。



   3


 家主は、その叫び声を聞きつけて階段を駆け上がってきた。
「どうした! おい、リリー、おまえ、人の寝室で何やってるんだ? って、うわっ! 何見て
るんだよ!」
 リリーは、逆上してヴェルナーに詰め寄った。
「こ、こ、こ、これ何よ! 何でこんなもの、ヴェルナーが持ってるのよ!」
 ヴェルナーは慌てて言った。
「な、何だよ! 勝手に人の部屋のクローゼット開けるんじゃねえ!」
 リリーは、頬を紅潮させて言った。
「シーツが! びしょびしょだったの! だから! ちょっと! 換えようと思って! あたし、 
天球儀があって嬉しかったから、だから! なのに……!」
 ヴェルナーは、リリーの肩に両手を置くと言った。
「……おい、落ち着けよ……」
 リリーはヴェルナーの手を払いのけると、怒りの涙を浮かべて言った。
「これ! アイオロスさんの絵ね? ひどいわ! あたし、モデルやったとき、ちゃんと服着て
たわよ〜!」
 ヴェルナーは、リリーを諭すように言った。
「ああ、分かってるよ。これはその絵じゃない。いいか、落ち着いて聞けよ。そいつは……、習
作だ」
 リリーはヴェルナーの顔をにらみつけたまま言った。
「何よ、習作って?」
 ヴェルナーは、大きく息を吐き出すと、ゆっくり説明した。
「つまり……、正式に絵を描く前に、構想中の絵を部分的に試作してみた物、だ。あいつはこの
前、ゼーデルブローム伯爵家の依頼で、今度新しく建設した夏屋敷の大広間に飾る絵を描いたら
しい。この絵は、全部そのための習作だ。それに、よく見ろ。途中まで衣装を描きかけた線があ
るだろ? その絵じゃ分かりづらいかもしれねぇが、何枚か見て見ろよ。ちゃんと衣装を描いて
あるから」
 そう言われてリリーは、自分が手にしていた絵を改めて見直した。
「……本当だわ。でも、何でこんな風に描いているのよ?」
 ヴェルナーは言った。
「最初に裸を描いてから上に衣装をつけていくのは、別に珍しい描き方じゃないからな。それに、
その絵は女神像で、しかも異国の神様で衣装が大変だったらしいぜ。何でも動きのある構図にし
たかったとかで……、まあいいさ。とにかく、分かったな?」
 リリーはうなずいた。
「分かったわ」
 ヴェルナーは、やれやれ、といったふうに腕を組むと、ぼそりと言った。
「……ったく、こんな物で、イルマのやつ、大騒ぎして人を脅かしやがって……」
 リリーは、首を少し傾げると聞き返した。
「……え? イルマがどうかしたの、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは、大げさに咳払いをした。
「何でもねえよ。いいから……それ返せよ」
 リリーはうなずいて、ヴェルナーに絵を渡しながら言った。
「でも、……やっぱりアイオロスさん、さすがね?。……本当に、見て描いたみたい。びっく
りしたわ……」
 絵を受け取りながら、ヴェルナーは一瞬ぎょっとしたような顔をした。
「え。……そうなのか?」
 リリーは、突然何かを思いついたように目を大きく見開くと、ヴェルナーに尋ねた。
「あ、でも、ちょっと待って! ねえ、習作って、要するに正式に完成させた絵じゃなくって、
試作品ってことでしょ? そんな物、どうしてヴェルナーが持ってるのよ?」
 ヴェルナーは、口端に薄い笑みを浮かべた。
「俺を誰だと思ってるんだ、リリー? ……いいか、アイオロスのやつは、あの通り頭に羽根の
生えたようなやつだが、絵の腕だけは確かだ。俺の目に狂いがなければ、将来シグザール王国領
内で一、二を争うような有名画家になるだろう。その絵の正式な完成版は見たことはないが、全
体の構図をスケッチした物は……、すごい絵だったぜ。しかも、その絵はゼーデルブローム家の
屋敷の大広間に飾られている。西のゼーデルブローム伯爵家といえば、東のベルゼン公爵家より
少し格は落ちるが、少なくとも、ザールブルグ市街に住んでいるような新興貴族なんて、話にな
らないような名門中の名門貴族だ。その新しい夏屋敷だって、わざわざ南方から気鋭の建築家を
呼んで建てたという、すごいものらしい。まあ、間違いなく好事家たちの間で話題になるだろう
な。だから、その絵の習作ということになれば……、欲しがるやつは、金に糸目をつけずに買お
うとするだろうな。ま、そういう訳で、アイオロスから買い取った」
 リリーは、驚いた顔で言った。
「えっ! ……ってことは、ヴェルナー、その絵を売るつもりなの?」
 ヴェルナーは事も無げに言った。
「まあ、値段は交渉次第、だがな」
 リリーは耳の先まで真っ赤になった。
「ちょ、ちょ、ちょっと?! その絵、どこからどう見てもあたしじゃない! そんなもの、人
目につくところに飾られたりしたら、あたし、恥ずかしくって、表を歩けないわよ〜! ねえ、
お願い、ヴェルナー! その絵、あたしに譲ってくれないかしら……?」
 ヴェルナーは涼しい顔で言った。
「やなこった。大変だったんだぜ、この絵を手に入れるのは……。アイオロスのやつは、これは
完成品じゃないし非売品だから、誰にも譲らないって言って、なかなか人に売ろうとはしなかっ
たしな。ま、そういう場合でも、いかにうまく交渉して売らせるのかが、この商売の面白いとこ
ろなんだが……」
 ヴェルナーは、絵を再び元の位置にしまいかけた。その腕に、リリーは思わずしがみついた。
「ねえ、ヴェルナー、いくらなら売るつもりなの、その絵……?」
 ヴェルナーは、ふっと笑うと低い声でリリーに言った。
「そうだな……。全部でまあ、これぐらい……、だろうな」
 リリーは、ヴェルナーの言った金額を聞いて、目を白黒させて素っ頓狂な声を出した。
「え!? ええ〜っ! 嘘! そんなにするの〜! アカデミーを建ててもおつりが来ちゃうわ、
その値段!」
 ヴェルナーは、リリーの顔をのぞき込むようにして言った。
「何だよ。好事家なら、これでも安いって言って買っていくぜ、きっとな」
 リリーは、ヴェルナーのシャツの袖を引っ張った。
「ねえ、もう少し……まからない?」
 ヴェルナーは、リリーの必死の表情を見て、思わず苦笑した。
「……しつこいな、おまえも」
 リリーはさらに言った。
「だって! 貴族とか、お金持ちの好事家なんかに売るんでしょう! 絶対に嫌よ〜! あたし
のお得意様にも何人かそういう人はいるけど、……か、顔が合わせづらくなっちゃうわ!」
 ヴェルナーは、薄い笑みを浮かべて言った。
「そうだよな……。商売がやりづらくなるんじゃあ、やっぱりいくら金を積んでも買って置いた
方が得、だよな?」
 リリーは、返事に窮して押し黙った。追い打ちをかけるように、ヴェルナーはリリーの困惑し
た顔をゆっくりと見下ろしながら言った。
「……お買い上げになるか、お得意さん?」
 リリーは、唇を噛んでヴェルナーの顔を見上げた。
「……意地悪」
 ヴェルナーは、軽く鼻先で笑うと言った。
「それが商売ってもんだろ? しかし……、交渉が下手だな、おまえ。そんなに考えてることが
全部顔に出るんじゃ、最初から勝負にならねぇぜ?」
 リリーは、ククッと笑う声と一緒に動くヴェルナーの喉元を見て、大きくため息をついた。
「ヴェルナーみたいに、何考えてるのか全然分からない人よりは、人間としてずっとマシよ!」
 ヴェルナーは、ふいに笑みを撤収するとリリーの目をのぞき込んだ。
「分からねぇのか、おまえ?」
 リリーはそのヴェルナーの表情に少し驚いて、心なしか後退りした。
「……分からないわ。ねえ、本当に売る気あるの、その絵?」
 ヴェルナーは、真顔のまま小さく息をついた。
「……さあな」
 リリーは、その柔らかな頬を膨らませた。
「あー! もう! だんだんイライラしてきたわ! これって交渉なの、それともいつもみたい
に……、からかってるだけなの?」
「そうだな……」
 ヴェルナーは、ゆっくりとリリーに近づき、にやり、と笑った。
「ま、本物でも見せてくれるって言うなら……、考えてやってもいいけどな」
 リリーは、一瞬きょとんとしてヴェルナーの顔を見た。
「何よ、本物って?」
 しかしヴェルナーは口端に薄い笑みを浮かべたまま、片手に習作の束を持ち、黙ってリリーの
顔を見ている。リリーは、急にはっと何かに気づいた表情を浮かべると、今度は髪の毛の先まで
真っ赤になりそうな勢いで怒り出した。
「……って、え? ええ〜!? ……な、何言いだすのよ! もう、ヴェルナー! ちょっと、
いい加減にしてよね!」
 ヴェルナーは、そのリリーの様子を見て、吹き出した。
「……クククッ、冗談だ、冗談……! そんなに、クックッ、まともに受けられたら、クククク
ッ、……っとに面白ぇな、おまえ、赤くなったり青くなったり……痛っ!」
 その瞬間、ヴェルナーの左頬がぴしゃりと高い音を立てた。いつもなら簡単にリリーの平手を
かわすヴェルナーであったが、そのときはやはり熱と、それから……。
「何すんだよ! 仮にも一応病人ぶっ叩くなよな……。ったく、冗談の通じねぇ……」
 本当は、彼はひどく動揺していたのだ。それを気取られまいとして、普段よりもしつこく彼女
をからかいすぎてしまった。ヴェルナーがぶつぶつ文句を言いながらリリーの顔を見ると、彼女
は、その大きな目にうっすらと涙を滲ませながら、きっぱりとした口調で言った。
「……大嫌い」
 その瞬間、ヴェルナーの全身の血の気が音を立てて引いていった。
「え……? お、おい、リリー……」
 リリーは、両手を下におろしたまま、固く拳を握りしめた。怒りでその小さな握り拳が震えて
いるのを見て、ヴェルナーは慌てて何か言おうとしたが、口の中がからからに干上がってしまっ
たかのように、言葉が出てこなかった。
「……冗談にしたって、タチが悪すぎるわ! もう、知らない! ……あたし、ヴェルナーがク
ルスのために、井戸に飛び込んでまでアードラの羽根を拾ってくれたって聞いて、すごく……す
ごく見直したのよ……! なのに! ……ヴェルナーなんて、大嫌いよ!」
 ヴェルナーは、目の前でリリーが踵を返し、ドアを通り抜けて駆けていくのを呆然として見た。
自分が何か引き止めの言葉を叫んだようだったが……、それは意味のある言葉ではなく、何か乱
雑な音のようにしか聞こえなかった。慌てて追いかけようとしたが、身体が鉛のように重く、ま
るで悪夢の中の光景のように足が動かない。熱のためであるのか、動揺のためであるのかは、よ
く分からなかった。

 がくん、と床に崩れ落ちるようにして座り込むと、胸が痛かった。

 やがて、しばらくぼんやりと床に座り込んでいたヴェルナーの耳に、フローベル教会の夕刻を
告げる鐘の音が、重く、けだるく響いてきた。ヴェルナーは、ゆっくりと手にした絵を両手で抱
え込むように持ち替えると、ため息をついてそれを眺め、つぶやいた。
「‘神々の宴’、か……」




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