影飲み星



      
  
   4

 ……どこだ、ここは?
 …………森の中、か……?

 ヴェルナーは、白い朝靄のたちこめる、冬の森にたたずんでいた。視界が、ひどく悪い。湿
った空気は、不快な重みを帯びて身体に絡みついてきた。
 突然、ばさばさと羽音をたてて、カラスが一羽、ヴェルナーの頬をかすめて飛び去っていっ
た。ヴェルナーは、慌ててそれを避けると、カラスの飛んでいった方向を見上げた。するとそ
こには……。
「……リリー!」
 叫んだのと同時に、ナイフが投げられていた。ヴェルナーの放ったナイフは、朝靄を切り裂
き、今まさにリースベットが首にかけようとしていたロープを木から断ち切り、後ろの幹にう
なりをあげて突き刺さった。
「旦那様……? きゃあっ……!」
 突然のことに驚いたリースベットは、梯子に足を乗せたまま、ヴェルナーの方を見て叫んだ。
その瞬間、彼女は両手でつかんでいたロープの手がかりをなくしてバランスを崩し、ぐらり、
と宙に身を落としていった。駈け寄りながら、ヴェルナーは考えた。

 ……何だ、この場面は……? 前にもあったような……、っと!

 自分のほうに倒れてくる梯子を避けて横に蹴り倒しながら、ヴェルナーがリースベットを地
面すれすれのところで受け止めて座り込むと、彼女は、大きく肩で息をつき、しばらくヴェル
ナーの顔を見つめたまま、何も言おうとはしなかった。ヴェルナーは、リースベットの顔をに
らんで言った。
「何でこんな……早まったことをしやがったんだ、おまえ?」
 しかしリースベットは、悲しげに目を伏せ、ヴェルナーの問いかけに答えようとはしなかっ
た。ヴェルナーは、大きくため息をついた。また、木の枝の間をばさばさと音を立て、カラス
が数羽飛び去っていった。朝靄は次第に薄くなり、代わって太陽の光が、清浄な空気を森の中
に運び込んできた。リースベットは、大粒の涙をこぼした。
「……申し訳ございません、旦那様。ラインハルト城から抜け出して来たこと……、既にお耳
に入っていたのですね……。せめて旦那様に一目お会いしてからどこかに行こうと思い、ここ
まで参りましたが……、行く場所など、どこにもありません。……私には身寄りもなく、まし
てやマルゴット大奥様とラインハルト侯爵夫人様、御両名様の顔に泥を塗り、もはやベルゼン
ブルグ城には、城門をくぐることさえ許されぬ身となりました。いえ、それどころか……、こ
の領内では、誰も私を迎え入れてくれるところはないのです。……ラインハルト城に入ってす
ぐに、このお腹の子供のことが知られてしまい、まだ生まれる前だというのに、すぐに修道院
へと送る手はずが整えられました。……旦那様と離れて暮らすだけでも耐え難いというのに、
……もう、何もかも、分からなくなってしまって……」


「え? こ、子供って、俺はまだ……、」
 ヴェルナーは言いかけて、ふと、口をつぐんだ。
 
 ……何もしちゃいねえんだが……、ああ、そうか……!

 ヴェルナーは、大きく深呼吸をすると、リースベットの顔をのぞき込んだ。
「もういいから……。余計なことは心配するな」
 リースベットは、大きく目を見開いた。
「旦那様……?」
 ヴェルナーは言った。
「身分や家督のことなら、おまえが心配する必要はない。今まで一人で抱え込ませて、済まな
かった。……ゼーデルブローム伯にもラインハルト侯にも、こちらから謝罪をしよう。もっと
早くそうするべきだったんだ。おまえを失ってしまうくらいなら、そのほうが良かった、本当
に。だから……、手遅れになる前に、ここを立ち去って、三人で暮らそう……、おまえがそれ
を望むならな……」
 リースベットは微笑むと、ゆっくり、口を動かした。それは、すでに音を伴っては居なかっ
たが、静かに、ヴェルナーの頭の中に響いてきた。

 ……ありがとう、ございます……。

 その音が呪文のように鳴り響くと、リースベットの身体は細やかな白銀色の砂に変わり、さ
らさらと音を立てて、消えた。同時に、濃い緑色の鬱蒼とした木々も無彩色に変わり、風のざ
わめきも、木漏れ日の揺らめきも停止した。
 色のなくなった世界で、ヴェルナーがその場に呆然として座っていると、背後から甲高い声
が響いてきた。
「……元の持ち主の後悔の念を断ち切るとは……、なかなかやるなあ!」
 ヴェルナーはぎょっとして立ち上がり、振り返った。すると、自分の目よりも少し高い位置
の木の枝の上に、真っ黒い毛をふさふさと生やした、子猫ほどの大きさのサルがいるのが目に
入った。サルは、きいきいと鳴きながら、からかうように手を叩いた。
「……何だ、サルか?」
 ヴェルナーが言うと、黒いサルは、金色の丸い大きな目をぎらぎらと光らせて、枝の上をぴ
ょんぴょんと跳ねた。跳ねると、先だけが白い、長い尻尾が左右に振られた。
「サルではない! 我は全能の父神のさらなる祖、世界の三層全てを永久に司る者にして時の
番人であるぞ! ……なぜ、私がサルに見えるのだ!? 貴様……、よほど信仰心が薄いのだ
な? 人の子によっては、我がおぞましき三頭の怪物にも、恐ろしげな双頭の竜にも見えると
いうのに……、では、これでどうだ!」
 サルは枝の上で宙返りをすると、こんどはコウモリに身を変えた。コウモリは、ばさばさと
偉そうに翼をはためかせながら、つぶらな金色の瞳でヴェルナーをにらんだ。
「わはははは……、どうだ! 恐れ入ったか、人の子よ! この輝く黒の翼と金の牙を見
よ!」
 ヴェルナーは、あきれたように言った。
「こんどは、コウモリかよ? ……ちっちゃいな……。うちの店の軒下に、春先になると巣を
作ってるやつのが、まだ立派だぜ……?」
 コウモリは、悔しそうに小さな口を歪ませて歯がみをし、可愛らしい高い声で叫んだ。
「うっ……、おのれ?! ふざけたやつめ! ……かくなる上は、我について来るがよい!」
 ばさばさとせわしない羽音をたてて、コウモリは、森の奥へと消えていった。
「おい、待て……!」
 ヴェルナーがそう叫んでコウモリの後を追い、数歩走り出すと、突然、足下から世界が崩れ
落ちていった。
 

 
   5


 無の深淵、暗闇の中、ふっとため息をつくように、星が一つ輝き始めた。それはゆっくり呼
吸をするようにまたたき、ふいに、流れ落ちていった。星は、落ちながら無数の泡を周囲に吹
き上げていった。泡は虹色にきらきらと輝き、闇の中にばらまかれていった。そのうちの一つ
が、ヴェルナーの身体にぶつかり、弾けた。

 ……誰だ? ……リリー……? 何でそんな、心配そうな目で見て……。

「……どうしたの? 元気ないみたいよ?」
 リリーは、少し首をかしげると、ヴェルナーの顔をのぞき込んで、そう言った。
「ああ。……まあ、昔から良く考えていた悩みだ……。気にするな。お前には一生分からない
悩みだろうからな」
 その日の店主は、その表情を少し沈鬱なものに変えていた。リリーは、少し心配になった。

 ……どうしたのかしら、ヴェルナー? いつもは人を食ったみたいな顔で、飄々と店番して
るのに……。元気、ないみたい……。こんなうさんくさそうな人でも、やっぱり悩みがあるの
かしら……?

「あー……、何かそう言われると余計に聞きたくなるわね。話してよ。」

 ……思い出したぞ……。あのときだ。ま、たまにあることだが……、気が滅入ってたんだ。
……に、しても、てめえ、リリー! 俺のことをそんな風に思ってたのかよ……!

 雑貨屋での場面を見ているヴェルナーのそんな考えはよそに、記憶の中の二人は、会話を続
けた。しばらく憂鬱そうに押し黙っていたヴェルナーは、やがて自嘲するように小さく息をつ
くと、口を開いた。
「ああ……、俺って、何をやったらいいんだろうなってさ。このまま雑貨屋をやるのがいいの
か、冒険者か……。他にもやりたいことは山ほどあるが、全部踏ん切りがつかねえ。色々手は
出したがな……」
 ヴェルナーは、少しだけ上目遣いに、自分の顔を心配そうに見つめている少女の顔を眺め
た。
「お前を見ていれば分かるが……、一つのことを極めるには、他に大きな犠牲がついて回る。
時間って奴は誰だろうと等しく同じ量しかねえ。一つのことに没頭して……、もしそれが無駄
になったらって思うとな……」
 ヴェルナーは、そう言って、大きくため息をついた。自分の話を聞いているリリーの顔は…
…真剣そのものだった。ヴェルナーは、ほんの少しだけ可笑しくなった。

 ……こいつは、……これだから、かなわねえよな……。

「だから慎重に考えたいんだが……。ところが俺の周りの連中は堅気な普通の雑貨屋をやれっ
て言うだけだ。全く……、人ごとだと思って適当なことばかりぬかしやがって……」

 ……俺は、あのとき、何を期待して、あいつに愚痴なんかこぼしたんだ?

 反芻する記憶の中で、ヴェルナーが一人考えていると、突然、リリーが力強く言った。 
「いいじゃない。ヴェルナーはヴェルナーのやりたいことをやればいいと思うわ。周りのこと
なんか気にしてたらダメよ!」
 少し驚いて、唖然としてカウンターの向こう側のリリーの顔を見上げているヴェルナーに、
一点の曇りもない声が追い打ちをかけてきた。
「何か自分がこれだ! って思うものに、全力で走っていこうよ」
 ヴェルナーは、思わず苦笑していた。

 ……たぶん、この言葉が……聞きたかったんだ。今まで誰も言っちゃくれなかった、あの言
葉……。いや、他の奴に言われたら、きっと腹が立つんだろうが……、嬉しかったんだ、すご
く。……おまえに、そう言われたかったんだ。

「……お前はちっとも変わらねえな。……そんなんだからいつまでも独り身なんだよ。誰もつ
いてこれねえだろう?」

 ……だから、……結構、あからさまに言ったつもり、だったんだがな?

 リリーは、ヴェルナーにそう言われて、少しだけ驚いた顔をした。

 ……悪かったわねえ、心配して言ってるのに! もう、悩みを聞いてあげて損したわ! …
…ヴェルナーが愚痴言うのなんか、珍しいから、真剣に答えてあげたのに……。ええ、どうせ
一人よ一人よ一人よ一人よ……。あ?あ、シスカさんには、この間、もっと身だしなみに気を
使ったほうがいいって、金の麦亭でたっぷりお説教されちゃったし、イルマにも、工房だって
お客さんを相手にするんだから、普段からお化粧ぐらいしたほうがいいわよ、なんて言われち
ゃったし、テオには怪力女とまで言われちゃうし……、
 
「そんな勝手気ままなことを言うヤツなんか……、俺以外に好きこのんでつき合おうなんて思
う奴はいねえや。」
 しかしヴェルナーの言葉も耳に入らず、リリーは一人考え続けていた。

 ……最近ではイングリドとヘルミーナまで、私のこと、がさつですね、だの、色気がないで
すよね、だの言うし……、どこでそんな言葉を覚えてきたのかしら? まったく二人しておま
せさんなんだから……、でもこのままいったら、嫁き遅れ確実の売れ残り当たり前よね?、こ
の上ヴェルナーにまでからかわれ続けて、まったくいいことないわ……って、え? ヴェルナ
ー……、何か言った?

「え? 何? 今、何て……?」
 リリーが慌てて聞き返すと、ヴェルナーは、愛おしい者を見るように、少しだけその鋭利な
視線を柔らかなものに変え、言った。
「……何でもねえよ」

 ……リリー、おまえ……、あのとき、本当に聞いてなかったのか……! ……ったく、何で
そう鈍いんだ……!?

 ヴェルナーがそう思った瞬間に、泡を吹き上げていた流れ星は、暗闇を分割するように、静
かに線を描いて落ちて行った。それにつれて、闇が、舞台の幕を開けるように、するすると二
つに分かれていった。

 後には白日の陽が、燦々と、乾いた高い音を立てて降り注いでいた。



   6


 気がつくと、ヴェルナーの足下には、乾いた砂漠が広がっていた。頭上にはいつも見慣れた
ものの十倍はあるかと思うほどの、巨大な太陽。よく見ると、ザールブルグの中央広場にある
噴水ほどの大きさの泉が足下すれすれのところにあって、金色に輝く水を静かに湧き上げてい
た。
 ふいに、背後からきいきいと、耳の後ろをくすぐられるような声が響いてきた。
「さあ、お立ち会い! 最終幕だ! ようこそスケネ・ヒエラへ、時空の開始の場にして終着
の場、神聖なる墓場へ!」
 ヴェルナーがその声に驚いて振り向くと、黒いサルが、小さな手を嬉しそうに叩きながら、
大きな岩の上で飛び跳ねていた。サルの乗っている岩は黒曜石のように黒く、平屋の小振りな
家屋ほどの大きさがあった。

 ……あの岩……、どこかで見たような形だが……、ああ、分かった!

 ヴェルナーは、小さくうなずいた。
 岩は、リリーからもらったオルゴールの蓋に嵌め込まれていた石と、そっくりの形をしてい
た。二つの大きな部分が、真ん中の細い紐状の部分でつなぎ合わされている、不思議な形状。
よく見ると、岩には大小様々な大きさの穴が空いていた。黒いサルは、その岩の紐のような部
分の上に偉そうに仁王立ちになって、ペティナイフほどの大きさの、可愛らしい鎌を振り回し
ていた。ヴェルナーはそれを見て、言った。
「またおまえか、サル。それに、なんだ、その貧相な草刈り鎌みたいなのは……?」
 サルは黒い毛に覆われた顔を怒りで赤く染めた。
「うぬぬ……、また、サルと言ったな! 何と無礼なやつだ! それに、この、人の子の寿命
を刈り取る首切り鎌に対して何という失礼なことを……! 謝れ、この罪人!」
 ヴェルナーは、興奮してきいきい叫ぶサルをにらみつけて、言った。
「……やなこった。それに、何だ、その罪人ってのは?」
 サルは甲高い声で、キキッ、と笑った。
「ここに来ることができるのは、みな罪人と相場が決まっているのだ! そうでなければ、悪
人か病人であろう! この悪人が……おっと!」
 ぴょんぴょんと調子に乗って跳ねていた黒いサルは、足を踏み外して地面に落ちそうに……、
なった瞬間に、先だけが白い尻尾で岩の細い部分に巻き付き、ぶらぶらと決まり悪そうに揺れ
た。小さな鎌だけが下に落ち、ぽすん、と小さな音を立てて砂に突き刺さった。
「……きいきいきいきい、うるせえな」
 腕組みをして、ヴェルナーが言うと、サルは、ふんっ、と言って跳ね上がり、再び岩の上に
立った。
「うるさい! サルに見られたのは初めてだ! 貴様……本当にふざけた奴だな? 我が声が
荘厳なる神の声ではなく、サルの鳴き声に聞こえるとは……!? 神をも恐れぬとは不謹慎な
罪人め!」
 ヴェルナーは、眉間に皺を寄せながら言った。
「……しょうがねえだろ? あいにく俺は、神様も悪魔も信じたことはないからな。ま、信じ
たいやつが信じるのは勝手だが……。で、何が言いたいんだ、サル?」
 サルは、怒り心頭に達した、といった口調で言った。
「またしてもサルと言ったな! 貴様?! ……まあ、よい。せっかくこの場に来ることがで
きたのだ。おまえに良いことを教えてやろう。こちらに来て、この岩に空いた穴を見てみるが
よい」
「何だよ……?」
 ぶつぶつ言いながらヴェルナーが岩に近づき、穴の一つに片目を当ててのぞき込んで見ると、
そこには……。

 いつものヴェルナー雑貨屋のカウンターの前。お得意様の錬金術師の少女は、器材になりそ
うなものを漁っていた目を、ふいに大きく見開いて、驚いた声をあげた。
「ああっ! アタノール、あるじゃないですか!」
 店主は、内心ではにやにや笑いながら、広げた本を読み進める振りをして、涼しげに言っ
た。
「ああ。この前仕入れた」
 少女は、膨れっ面をして、店主に噛みつきそうな勢いで言った。
「どうして仕入れたときに一言教えてくれないのよ! 他の人に買われちゃってたかもしれな
いわ」
 店主は、わざとらしく本のページをめくると顔を上げた。
「掘り出し物ってのは自分の足で見つけるものだ」
 そう言われた少女は……、口を真一文字に結び、何か言いたげな顔をしている。店主は、必
死で笑いを噛み殺しながら、畳みかけるようにして言った。
「それから、前に言っていた追加料金はいらないぜ。これは自分が気に入って買ってきただけ
だからな」
 少女は、荒く息をつくと、諦めたように目線を下に落とし、それから再び、きっ、と店主の
顔をにらみつけた。
「……そうですか! それはそれはどうもありがとうございました!」
 それだけ言って、代金の銀貨を乱雑に支払うと、少女はアタノールをひったくるようにして
手にとった。そして口を真一文字に引き結んだまま店主に背を向けると、階段に八つ当たりを
するように、どたどたと走り去っていった。同時に、少女の怒りの感情が響いてきた。

 ……信じられない! 仮にも一応お客に対して! ……手に入って良かったけど、アタノー
ル……。ヴェルナー、一体どこから仕入れてきたのかしら? ……まあ、いいわ! しばらく
あんな嫌な人のこと、考えたくないもの! さあ、すぐに帰って研究よ! 

 ばたん、と乱暴に雑貨屋の入り口の扉が閉められた途端、店内には若き店主の吹き出した声
が響き渡った。店主はしばらくの間笑い続けていたが、お使いから戻ってきたメイドが不思議
そうな目で自分を眺めているのに気がつくと、慌てて咳払いをし、何事もなかったかのように
本を読み始めた。それを穴からのぞき込んでいたヴェルナーは、一人、考えた。

 ……やっぱり、あのとき、本気で怒っていやがったな、リリーのやつ……。大変だったんだ
ぜ、あれを仕入れるのは。……いいじゃねえか、少しくらいからかってみたって。どうせおま
えは、錬金術が一番大事なんだからな……。に、しても……、‘嫌な人’か……。はっきり言
われると、結構つらいな……。今は、……どう思ってるんだ?

「どうだ、恐れ入ったか、この罪人!」
 背後で黒いサルは、勝ち誇ったようにきいきい鳴いた。
「何が恐れ入ったんだ、サル?」
 ヴェルナーは、顔を上げると、岩の上を目を輝かせながら飛び跳ねているサルをにらんだ。
「分からぬのか、この咎人よ! ……貴様には、資格が与えられたのだ! この神聖なる墓場
は、真実在と、貴様らが平素暮らしている影の世界との接合点に在る! ここからは思いのま
まに時空間への出入りが可能だ! さあ……、貴様は、自分の人生の中の、どの地点に戻りた
いのだ? ……さあ! 選べ選べ! どこへなりとも行くがよい!」
 ヴェルナーはそう言われて、岩に空いた穴を次々とのぞいてみた。そこには、いくつもの年
齢の、いくつもの場面の自分が生きていた。サルはヴェルナーをながめながら、すとん、と砂
の上に飛び降りると、どこからか黄色い焼き菓子を取り出し、かりかりと音を立てて食べ始め
た。
「……心は決まったかな、罪人? さあ、とっとと選べ、お後は好きなように! ははははは
……、え?」
「……なるほどな。そういうことか……」
 ヴェルナーは、黒いサルの首根っこをつかむと自分の目の高さまで持ち上げた。サルは食べ
かけの焼き菓子を砂の中に落とし、驚いて手足をばたつかせた。
「な、何をする!? この無礼者め! 神を何と心得るのだ〜!!!」
 サルは、甲高い可愛らしい声で悪態をつきながら暴れた。ヴェルナーは、サルをにらみつけ
て怒鳴った。
「うるせぇ! おい、サル! そこの泉の底は、……深いのか?」
 サルは、首根っこをつかまれたままふんぞり返った。
「ふん! 深い、などという言葉では形容できぬわ! よく聞くがよい! このスケネ・ヒエ
ラの叡智の泉は、全知全能の神の知識の懐よりも深く、世界のあらゆる真善美よりも深淵なる
ものなのだ! それは貴様ら下賤の者どもの歴史より遙かに長く存し、永遠よりも果てしなく、
また、その底知れぬことは天地創造の第一神でさえも……」
「そうかよ!」
 ヴェルナーはそう言って、得意げに説明していたサルを、金色の水をたたえた泉に思い切り
よく投げ込んだ。水はまるで意志を持ってサルに絡みつくようにうねり、その身体を底の方に
引きずり込んでいった。
「キッ! キキキキキー! ごふっ、げほっ、がはっ! ……き、貴様〜っ! ぶっ、げぼげ
ぼっ! 何ということを〜! ごぼっ! げふっ! ……助けろ……! た、助けてくれ〜…
…、ぐぶ! ケホケホ……助けてください〜……! ぶっ! ごほっ……」
 サルは身体をばたつかせ、咳き込みながらきいきい声で何やら言い続けていたが、やがて金
色の水面の下に、ぶくぶくと沈んでいった。
 サルの姿が見えなくなると、急に、巨大な太陽が空から消滅し、辺りは暗やみに包まれた。
同時に、黒い岩は音もなく破裂し、細かなかけらになって夜空に飛び散っていった。

 砂漠も消え失せ、そこには、何もなくなった。
 ただ、さきほどまで影を飲み、時空を司っていた岩が星のかけらになって、暗闇の中に青白
い炎をあげながら、いくつもいくつも落ちていった。星のかけらは凍った空気を吐き出し、闇
を涼やかに照らし出した。
 闇の中には、粒の大きなどしゃぶりの雨のように、星のかけらが降り注いでいった。
 
 世界は、音もなく反転した。



   7


 つん、と一筋、凍った気配がリリーの顔の前を横切った。リリーは小さくクシャミをした。
「何だ、風邪、引いたのか?」
 ヴェルナーが聞くと、リリーは軽く小鼻を押さえて、うなずいた。
「うん……。展覧会、納得が行く品質のものが出来なくて、ずっと徹夜してたから、かなあ?」
 目も鼻も、水分で浸された声で、リリーは言った。ヴェルナーは、あきれたように言った。
「……ったく、どうしてそう、切羽詰まった仕事の仕方しかできねえんだ、おまえ? サルで
も風邪引くんだから、少しは考えろよ」
 リリーはそれを聞いて、鼻をすすり上げると、ヴェルナーをにらんだ。
「もう、またサルって言ったわね、ヴェルナー! ひどいわ! あたしはサルじゃないってい
つも言ってるでしょう?」
 リリーはそう言ってヴェルナーを叩こうとした、瞬間にはヴェルナーはそれを、ひょい、と
避けて、鼻先で笑った。リリーは目標に避けられてバランスを崩し、前につんのめった。
「きゃあっ!」
「……やっぱり、サルだな」
 そう言って、両手で横からリリーの肩をつかんで支えたヴェルナーは、相変わらず口端に薄
い笑みを浮かべている。
「……やめようかしら?」
 リリーが、ぽそり、と言うと、ヴェルナーは聞いた。
「何がだよ?」
 リリーは、ヴェルナーの手を振りほどくと、くるり、と振り返った。
「もう、ヴェルナーったら! 今日、何で呼び出されたのか、分かってないの?」
 ヴェルナーは、両手を首の後ろで組んだ。
「今日? 店じまい直前に、物好きな、たいして買い物もしないくせに、よくうちに来る客が
来たのが、どうかしたのか?」
 リリーはため息をついた。
「ねえ、……今日って何の日だと思う?」
 ヴェルナーは少し上を見上げた。
「さあな……。‘サルが風邪引いた日’か?」
 リリーは、口を尖らせた。
「違うわよ! もう! ……はい、これ!」
 リリーの差し出した小さな包みを見て、ヴェルナーは、狐につままれたような顔をした。
「何だ、こりゃ?」
 リリーは、ヴェルナーの手に包みを握らせると、横を向いた。
「プレゼントよ……! 自分の誕生日くらい、覚えてないの?」
 ヴェルナーは、片手に包みを持ったまま、もう片方の手で、頭を掻いた。
「そうか……。よく知ってたな、おまえ」
 ふん、と鼻先で息を吐いて、リリーは言った。
「カリンに、聞いたのよ」
 ヴェルナーは、独り言のように言った。
「……そんなもの、覚えていたのか、あいつ……。暇なやつだな」
 ぶつぶつヴェルナーは、リリーの渡した包みのリボンを取って、がさがさと開いた。リリー
は照れたように横を向いた。
「……口に合うかどうか、分からないんだけど……?」
 ヴェルナーは、中身を見て言った。
「何だ、こりゃ?」
 リリーは、ヴェルナーに向き直ると言った。
「ラムレーズンよ! ……一応。……好きだって、聞いたから……」
 ヴェルナーは、へえ?、と言ってそれを二、三粒つかむと、口に放り込んだ。リリーは真剣
な眼差しでヴェルナーの顔を見て、尋ねた。
「……どう? おいしい?」
「……まずい」
 ヴェルナーは、事も無げに言った。リリーは、目を大きく見開いた。
「ええっ! うそ!? ちゃんと味見したし、イングリドにも、ヘルミーナにも評判良かった
のよ〜!」
 そう言って、リリーは慌ててヴェルナーの手にした包みに手を突っ込むと、一粒つかんで自
分の口に放り込んだ。
「……おいしいわよ、甘くて!」
 勝ち誇ったようにリリーが言うと、ヴェルナーは言った。
「……甘すぎるんだよ」
 そう言って、ヴェルナーがリリーの顔を正面から見つめ、その柔らかな頬に片手でそっと触
れた瞬間、ふいに、星が流れた。リリーは慌てて言った。
「ヴェルナー、あれ、見て……! 大きな流れ星……、あ! また! たくさん落ちてきた!
……すごいわ……! ねえ、見てる、ヴェルナー?」
 リリーは、ヴェルナーの肩越しに空を指さした。ヴェルナーは彼女の頬に顔を寄せ、言っ
た。
「ああ、見えたぜ……」
「嘘。ちゃんと見てよ……!」
 リリーの琥珀色の瞳には、無数の流星が映り、それらの一つ一つが静かに自らを主張するか
のように、輝いていた。その顔を、ヴェルナーが両手で包み込むようにして自分の方を向かせ
ると、星々の吐き出す冷たい空気の流れが、一瞬、止まった。彼女の唇が動き、自分の名前を
呼んだような気がしたが、それは、口づけの中に飲み込まれていった。
 星は、静かに燃えながら、いくつもいくつも地上に落ちていった。それは光の線を夜空に描
きだし、闇を貫き、やがて、……消えた。しばらくの間音の途絶えていた世界の真ん中で、ヴ
ェルナーの耳に、唯一、響いてきたのは、自分の背中に回された手の、指先から響いてくるよ
うな言葉。
  
 ……ねえ、あたしのこと、好き……? 

 ヴェルナーは、ゆっくり、目を細めた。

                                    〜fin〜

 
 後書き 
 
 ヴェルナー誕生日創作です。……地味ですね。個人的には気に入っているんですが、大変に
地味ですね。「冬に恋人といる暖かさ」みたいなものを表現しようとしたのですが、非常に地
味でしたね……。ちょっと、ホラーでしたし……。あと、思うのですが、私の書くものは「謎
の小動物」の出現率が高いですね(笑)。うぅむ。
 それから。
 私が書くと、ヴェルナーは無神論者になってしまう傾向が強いのですが、今回は本当にバチ
アタリ者で、失礼しました(笑)。淡々と合理主義者な気がするんですよね、ヴェルナー。
 なお、「悪は常に、純粋な愛に対してその権力を振るう」というのは、マノエル・デ・オリ
ベイラ監督の「メフィストの誘い」という映画からもらいました。
 ……これは、私がバチアタリですね。この映画が好きな方、どうもすいません〜(汗)(2
002年8月)。



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