影飲み星



      
   

  
   1

 冬。
 傍らを歩いている人の、耳朶が凍るのを感じるほどの、冷気。空気の冷たさは、静けさを増
幅させている。街の家々の窓明かりは、凍った石畳を舐めるように照らし出し、星々はその光
を柔らかく蓄えている。
 そうした光がもたらす色の分だけ、実際の温度とは別に、ザールブルグの冬は、昼よりも夜
の方が暖かな風情を醸し出している。
 自分の吐く息が、ひどく白い。ヴェルナーがそう思うと、隣を歩いていたリリーもまた、白
い息を、冷たい空気にぶつけるようにして吐き出しながら、話しかけてきた。
「……きのうは、お疲れさま、ヴェルナー」
 ヴェルナーは言った。
「ああ。錬金術ギルドも……、頑張っているみたいだな。ま、こっちは、昨日も言ったが、毎
回珍しいものを持っていくだけの、当たるも八卦、当たらぬも八卦、だからな……」
 だから、大したことはないんだぜ、と言いたげな顔でヴェルナーが傍らを見ると、リリーの
頬が、赤く上気しているのが目に入った。彼女の小さな、しかしながら、しっかりと鼻筋の通
った鼻の頭も赤い。ヴェルナーは、ほんの少しだけ、普段は鋭角な印象を与える目を細めた。
リリーはそれを見て、少し照れたように慌てて視線を進行方向に戻した。
「結果が出るまでは……、あたしたち、ライバルかしら?」
 ヴェルナーは、にやり、と笑って、白い息を吐き出し、笑った。
「……おまえじゃ、相手にならねぇよ」
 そう言って、彼は笑いながらズボンのポケットに突っ込んでいた右手をおもむろに取り出す
と、リリーの頭をかき混ぜるようにして乱雑になでた。リリーは、普段はきっちりとまとめて
いるフードやピンの位置を慌てて直しながら、その赤く染まった頬を膨らませた。
「……ひどいわ……! ぐちゃぐちゃになっちゃったじゃない」
 しかしヴェルナーは、笑ったまま。
 つん、と一筋、凍った気配がリリーの顔の前を横切った。リリーは小さくクシャミをした。
「何だ、風邪、引いたのか?」
 ヴェルナーが聞くと、リリーは軽く小鼻を押さえて、うなずいた。
「うん……。展覧会、納得が行く品質のものが出来なくて、ずっと徹夜してたからかなあ?」
 目も鼻も、水分で浸された声で、リリーは言った。ヴェルナーは、あきれたように言った。
「……ったく、どうしてそう、切羽詰まった仕事の仕方しかできねえんだ、おまえ? サルで
も風邪引くんだから、少しは考えろよ」
 リリーはそれを聞いて、鼻をすすり上げると、ヴェルナーをにらんだ。
「もう、またサルって言ったわね、ヴェルナー! ひどいわ! あたしはサルじゃないってい
つも言ってるでしょう?」
 リリーはそう言ってヴェルナーを叩こうとした、瞬間にはヴェルナーはそれを、ひょい、と
避けて、鼻先で笑った。リリーは目標に避けられてバランスを崩し、前につんのめった。
「きゃあっ!」
「……やっぱり、サルだな」
 そう言って、両手で横からリリーの肩をつかんで支えたヴェルナーは、相変わらず口端に薄
い笑みを浮かべている。
「……やめようかしら?」
 リリーが、ぽそり、と言うと、ヴェルナーは聞いた。
「何がだよ?」
 リリーは、ヴェルナーの手を振りほどくと、くるり、と振り返った。
「もう、ヴェルナーったら! 今日、何で呼び出されたのか、分かってないの?」
 ヴェルナーは、両手を首の後ろで組んだ。
「今日? 店じまい直前に、物好きな、たいして買い物もしないくせに、よくうちに来る客が
来たのが、どうかしたのか?」
 リリーはため息をついた。
「ねえ、……今日って何の日だと思う?」
 ヴェルナーは少し上を見上げた。
「さあな……。‘サルが風邪引いた日’か?」
 リリーは、口を尖らせた。
「違うわよ! もう! ……はい、これ!」
 リリーの差し出した小さな包みを見て、ヴェルナーは、狐につままれたような顔をした。
「何だ、こりゃ?」
 リリーは、ヴェルナーの手に包みを握らせると、横を向いた。
「プレゼントよ……! 自分の誕生日くらい、覚えてないの?」
 ヴェルナーは、片手に包みを持ったまま、もう片方の手で、頭を掻いた。
「そうか……。よく知ってたな、おまえ」
 ふん、と鼻先で息を吐いて、リリーは言った。
「カリンに、聞いたのよ」
 ヴェルナーは、独り言のように言った。
「……そんなもの、覚えていたのか、あいつ……。暇なやつだな」
 リリーはヴェルナーのほうに向き直った。
「昔は……、一緒に遊んだり、したんでしょ?」
 リリーの吐き出す白い息を見ながら、ヴェルナーは、少し考え事をするように、視線を落と
した。
「まあな……。って言っても、あいつは、俺の家に来ても……」
 かちん、と何かが頭の中ではじけた、ような気がして、ヴェルナーは急に言葉を止めた。リ
リーは訝しげに、ヴェルナーの顔を見た。
「……来ても、何?」
 その、水分の多い琥珀色の瞳に見つめられて、ヴェルナーは一瞬たじろいだが、次の瞬間に
は、そんな様子は微塵も見せずに、にやりと笑って見せた。
「何でもねえよ」

 ……あいつは、カリンは、そういえば小さいとき、俺のお袋になついてたんだっけ。

 そう考えながら、ヴェルナーは、リリーの渡した包みをがさがさと開いた。
「……へえ〜、こいつは……、面白いな。年代物、みたいだな。細工も珍しい」
 中から出てきたのは、静かな輝きを放つ黒曜石を中央に埋め込んだ、小振りなオルゴール。
滑らかな手触りの黒い箱を、品のいい金の細工が、意志をもってからみつくように縁取ってい
る。四角い箱を、なぜか三本の優美な形の脚が、鼎立し、支えていた。嵌め込まれた黒曜石も
また、奇妙な形をしていた。それはたしかに一つの石でありながら、二つの石が、細い紐で結
びつけられているような形をしていた。紐の部分はうねりながら、今にも、二つの塊の分裂に
ちぎられそうに喘いでいるようにも、また、静かにその結束を楽しんでいるようにも見えた。
ヴェルナーは、感心したようにため息をつくと、蓋を開けた。そこには、こう書かれていた。

 “存在のようなもの、存在していないもの、真実から第三番目のもの”

「……何だ、この詩文みたいなのは? それに……、鳴らねえぞ、これ」
 ヴェルナーが言うと、リリーは、オルゴールの中をのぞき込んで、首をひねった。
「おかしいわね。ベルゼンブルグ城では、鳴ったんだけど」
 その名前を聞いて、ヴェルナーは少し驚いたように聞き返した。
「おまえ、こいつを、あの城で手に入れたのか?」
 リリーは微笑みながら、うなずいた。
「そうよ。この前、交易に行ったときに、ベルゼンさんにいただいたの。……何でも、お父様
の持ち物だったらしいわ。お会いしたとき、たまたま、手に持っていらしたから、‘何ですか、
それ?’って聞いたら、‘開けてみるかい?’って聞かれたのよ。でね、開けたら、すごくき
れいな音がしたのよ!」
 ヴェルナーは、あきれた口調で言った。
「おまえ……、本当に、遠慮のねえやつだな」
 リリーは少しむっとしたように唇を尖らせた。
「いいじゃない! ……でね、それを聞いたベルゼンさんが、急に、あたしに、‘君、これを
もらってくれないか?’っておっしゃって……。ちょっと驚いたんだけど、でも、すごく綺麗
だったし、それに……、こういうの、ヴェルナー、好きかなあって思ったから、もらっちゃっ
たのよ」
 そう言って、少しはにかむように微笑むリリーの顔を見て苦笑したヴェルナーは、オルゴー
ルの蓋を閉じた。
「ありがとよ。いい細工だな。音は鳴らなくても、こいつなら、交渉次第では、いい値がつき
そうだな……」
 リリーは、その琥珀色の瞳を大きく見開くと、唇を尖らせた。
「ひどいわ! せっかく人がプレゼントした物、売らないでよ……!」
 ヴェルナーは、リリーの顔を見て、口端を持ち上げた。
「何だよ。俺がもらった物だろ? どうしようと、俺の勝手じゃねえのか?」
「……何でそういうこと言うのよ、もう、知らない!」
 リリーは、そう言ってヴェルナーに背を向けると、職人通りをずんずんと歩き始めた。
「待てよ……」
 そう言って、ヴェルナーがリリーの腕をつかむと、ふいに、星が流れた。
「ヴェルナー、あれ、見て……! すごいわ。大きな流れ星……」
 リリーが立ち止まって空を指さすと、ヴェルナーも、その方角を見上げた。
「ああ、見えたぜ……」
 
 星は、空を二つに分けるように、静かに線を描いて地上に落ちていった。

  

   2


 暗闇の中、リリーからもらったオルゴールは、静かに月明かりを反射させていた。オルゴー
ルの横には、以前、ヴェルナーがリリーから買い上げた天球儀。ベッドに寝転がったまま、ヴ
ェルナーは、その二つをぼんやりと眺めていた。

 ……誕生日、か。忘れてたな。人に祝ってもらうのなんて、久しぶりだよな。お袋が……、
昔は張り切って、朝からレープクーヘンなんか、焼いてたっけ。粉砂糖をたくさんかけたやつ
……。カリンのやつは、それが好きで……。そうだ、その匂いを嗅ぎつけて、俺の誕生日には
必ず遊びに来てたんだっけ。あいつの目当ては、いつも、お袋の焼いた菓子だったよな、そう
いえば。あそこの製鉄工房は忙しいからな。カリンのお袋さんも、住み込みの職人たちの面倒
を見るのに忙しくって、菓子なんか焼いてられなかったんだよな。……そんな風な誕生日は、
どれくらい昔の話だったんだ……? 思い出せねえな……。ま、どうでもいいか、そんなこと
……。

 ふいに、暗闇の中、見慣れた顔が、オルゴールの上に、浮かび上がった。ヴェルナーは、半
ば眠りかけた意識の中でそれと目が合った。ぎょっとして跳ね起きようとしたが、身体は凍り
ついたように動かない。

 誰だ……? ……リリー?
 いや、違う……。でも……、似、て……る……?

 リリーによく似た少女は、ひどく悲しそうに微笑み、ゆっくりと口を動かした。しかし、そ
の声はヴェルナーの耳には届かなかった。

 ……何が、言いたいんだ?
 
 ヴェルナーが、必死で耳をそばだてていると、急に、ぎいぎいと小さく金属片がきしむよう
な音がした。その音はやがて周囲の空気とカーテンを揺らし、部屋の中の冷気を波打つように
焦がしていった。音は次第に高くうなりを上げ、窓枠や天球儀を小刻みに振動させ、一瞬、耳
をつんざくような轟音と化したが、その刹那、今度は耳障りな高音部を一気にはぎ取られ、美
しい星空をそのまま氷の中に閉じこめたような、甘い音楽に変わった。

 ……オルゴールが、鳴ってる……?

 ヴェルナーがそう思った瞬間、世界が、反転した。

*


「旦那様」
 りん、とした声に、ぎょっとしてヴェルナーが振り返ると、そこには……。
「リ、リリー……!?」
 そう呼ばれて、少し悲しげに睫毛のびっしり生えた瞼を伏せたリリーは、静かに言った。
「……もう、その名で呼ぶのは、おやめくださいませ」
「ああ。悪かったな、リースベット。つい……」
 
 ……な、何だ、俺は何言ってるんだ?

 ヴェルナーが、自分の発する言葉に驚いていると、リリーは、いや、白いレースの襟の付い
た、濃紺の仕立てのいいビロードの小間使い用の服を着込み、きちんと糊のきいた白い木綿の
エプロンをつけたリースベットは、悲しげに微笑んだ。
「本日の外套は……、黒にいたしますか、それとも、グレイの方ですか、……ブルウでは、あ
りませんわね……?」
 そう言われて、ヴェルナーは改めて自分の服装に気がついて、愕然とした。

 ……何だ、この格好は……?

 ヴェルナーが来ていたのは、極上の布地で作られた、青みがかった黒のリンク・フロントの
上着に、同色のズボン。中には、立ち襟の着脱式のハードカラーの白いシャツに、タイをきっ
ちりと結んでいる。足には、つま先部分に皮を配し、アッパーに布を施した、甲高の靴を履い
ていた。

「黒でいい」
 ヴェルナーが言うと、リースベットは、うなずいた。
「それでは手袋は、仔牛ですか、それとも、かもしかですか……?」
 ヴェルナーは、冷や汗をかきながら、言った。



「……かもしかに、しよう」
 リースベットは、うなずいた。
「承知いたしました」
 こつこつと、澄んだ音をたてて、磨かれた床の上を、リースベットの足音が去っていった。ヴ
ェルナーは大きく息を吐き出した。
「……な、何だ、この状況は……? それに、ここはどこだ?」
 改めて見回すと、その部屋の薄い青色の壁には、荘厳な雰囲気の聖人や東方の衣服を身にまと
った貴婦人の絵が掛けられ、白と黒の市松模様の床は顔が映りそうなほどに丹念に磨き込まれ、
照り輝いていた。重厚な金糸で縁取られた優雅なカーテンのかかった窓の外には石造りのバルコ
ニーが見え、その下、眼下には切り立った崖が厳粛にそそり立ち、さらにその下には、鬱蒼とし
た黒い森が延々と広がっていた。ヴェルナーは息を飲んだ。
「旦那様」
 ふいに、向きを変えてこちらに戻ってきたリースベットが、ヴェルナーに言った。
「な、何だ?」
 慌てて背筋を伸ばしてヴェルナーが言うと、リースベットはてきぱきとした口調で言った。
「申し訳ございません。伺うのを忘れておりました。ステッキは、この、いつもの、象牙のもの
でよろしかったのでしょうか?」
 ヴェルナーは、こくこくとうなずいて、それを受け取りながら言った。
「ああ、何でもいいぜ、そんなもん」
「……旦那様……?」
 リースベットは、不思議そうな顔で、ヴェルナーを見た。
「……お加減でも悪くていらっしゃるのですか……? お言葉使いが、そんな、ぞんざいになら
れて……」
 その琥珀色の大きな瞳の光に、ヴェルナーは気圧されながら言った。
「べ、別に、悪かねえよ……」
 リースベットは、目に涙を浮かべた。
「……やはり、私のせいで……、心労が重なってしまわれたのですね、旦那様……。申し訳、ご
ざいません……!」
 ヴェルナーは、慌てて言った。
「え? な、何だよ、リリー、おい、泣くなよ!」
 リースベットは、きっ、とヴェルナーの顔を見ると言った。
「……もう、その呼び名は、やめてくださいますよう、何度も申し上げたではありませんか! 
旦那様はゼーデルブローム伯爵様のご息女、ヴィオーラ様とのご婚儀を控えられた身……。私も、
……黙っていて申し訳ありません……。来月には、ベッティナ・フォン・ラインハルト侯爵夫人
様のお引き立てにより、こちらを移って、ラインハルト城にお仕えすることになりました……」
 ヴェルナーは、ぎょっとして、言った。
「何だって!? 聞いてねえぞ、そんなの!」
 リースベットは、はらはらと涙を流しながら言った。
「すでに大奥様が、マルゴット様が、すべて手配なさっていらっしゃいますわ……。私たちのこ
とをお気づきになり、大層お怒りのご様子で……。私も、あちらの侍従長との婚姻が、すでに取
り決められておりますわ! ……申し訳ございません、こんなお話! すぐに外套と、手袋をお
持ちしますわね……!」
 リースベットは涙をぬぐいながら、部屋を走り去っていった。一人部屋に残されたヴェルナー
は、しばらくぽかんとしていたが、やがて自分の頬を思い切りつねった。
「……痛くねえぞ。やっぱり、夢か」
 そう一人つぶやいて、ため息をつくと、ヴェルナーは、首を横に振った。
「に、しても……、リリーのやつ、性格が違いすぎやしねえか?」
 ヴェルナーは、そう言って、手にしたステッキを眺めてみた。その取っ手にはライオンの頭部
を象った細工が施され、裏側には持ち主の名前のような文字が刻まれていた。
「……ヴィルヘルム・フーブリヒト・フォン・ベルゼン……?」

*


 冬の凍った気配をほんの少しだけ溶かしながら、午後の淡い日射しが、窓から射し込んで来て
いた。リリーは、お湯の入った盥をもって部屋に入ってくると、サイドテーブルの上にそれを置
いた。それからベッドで眠っている赤茶色の髪の男の顔をのぞき込み、傍らに座ると、腕に掛け
ていた白いタオルを、そっと、盥の中のお湯に浸した。そして、それをゆっくりと絞ると、湯気
の立ったタオルを、男の顔の上に置き、丁寧に額の汗をぬぐった。ふいに、背後から声がした。
「勝手口の鍵が開いてると思ったら、やっぱり来てたんだね、リリー」
「カリン……」
 リリーは、振り返ると、カリンの顔を見た。カリンは、開け放たれたドアに片手をかけ、丈夫
そうな白い歯を見せて笑いながら言った。
「毎日毎日、よく見舞いに来るよねえ……。やっぱり、リリーに鍵を預けておいて良かったな」
 リリーは、言った。
「ありがとう。……無理言って、ごめんなさい、カリン」
 カリンは、片手を上げて、ひらひらと振った。
「いいっていいって! リリーが持ってるほうがいいよ。……実はさ、ここの家の勝手口のその
鍵、まだ使えるとは思ってなかったんだけどね。それ、昔、ヴェルナーのお母さんから預かった
んだよ。すごく優しくていい人でさ。……よく、おやつをもらってたんだ。うちはさ、ほら、昔
から住み込みの職人が大勢居て……、子供が一人でいられる場所なんかなかったから、うんと小
さい頃には、あたし、しょっちゅう、この家の台所に遊びに来てたんだよ。で、お母さんが留守
にしているときでもお菓子を食べにおいでって、こっそり、その鍵を預けてくれたんだ。……結
局、返す前に、亡くなっちゃったんだけどね」
「そう……」
 リリーが目を伏せて言うと、カリンは吹き出した。
「そんな、悲しそうな顔しなくってもいいよ。……それにしても、リリーは何でこんなひねくれ
た奴のこと、好きなんだろうねぇ? あ〜あ、もったいない! あたしが男だったらって……、
冗談だよ、冗談!」
 カリンはそう言って、笑いながらベッドの傍まで近づいてくると、ヴェルナーの顔をのぞき込
んだ。
「……こうして見ると、昔と変わらないんだけどねえ、ヴェルナー。……普段は、何でああ、仏
頂面なんだろうね? まあ、リリーと一緒の時には、違うのか?」
 リリーは慌てて首を横に振った。
「ち、違わないわよ! いっつも不機嫌そうだし、無愛想だし、口を開けば、人の揚げ足を取っ
て、からかってばっかりだし……」
 カリンは、リリーの顔を見ると、面白そうに大きく口を開けて笑った。
「あははは……、こいつが人をかまうなんて、それこそ、常春の湖に雹が降るようなもんだね。
他人に関心なんて、滅多に持たないやつだと思ってたんだけど……、へえ〜……」 
 にやにや笑っているカリンの顔から目をそらすと、リリーは顔を赤らめながら言った。
「べ、別に、面白がっているだけでしょ! あたしのこと、サルみたいだ、とか言ってたし……」
 カリンは笑い顔のまま言った。
「ま、そういうことにしておこうか。……それにしても、全然目が覚める気配はないのかい、ヴ
ェルナー?」
 リリーは、悲しげにうなずいた。
「うん……。もう、これで一週間も経つのに……。色々、試してみたのよ。効力の高い薬を調合
して……」
 カリンは、軽く頭を掻いた。
「あたしは、別に気がつかなかったよ。ヴェルナー、いきなり店を休むのなんか、普通だったし
ね。最近はそうでもなかったけど……。でも、リリーがうちの工房にヴェルナーのことを聞きに
来たときは、びっくりしたよ。てっきり、一緒に採集にでも行ったのかと思ってたからさ。……
ヴェルナー、護衛はリリーのしか、引き受けてないみたいだからね」
 リリーは、少し驚いたように目を見開いた。
「え? そ、そうだったの……」
 カリンは、いたずらっぽく、その強い光を放つ青い瞳を輝かせながらうなずいた。
「そうだよ! しかもリリーの護衛を引き受けたときには、いつも早めに店を閉めて、うちにナ
イフの手入れをしに来るし……。ま、あたしも、細かいことはあんまり聞かないけどね」
 そう言って、カリンは、クククッ、と喉の奥で可笑しそうに笑った。



   3


 ヴェルナーが目覚めると、すでに太陽は燦々と照っていた。
「……何だ? 表がやけに明るい……?」
 ベッドの中で二、三回面倒くさそうに寝返りを打つと、ヴェルナーは、ゆっくりと起きあがっ
た。
「……この光加減は……、もう、昼なのか?」
 大きく伸びをすると、ヴェルナーは、もそもそと布団から抜け出して身支度を始めた。服を着
替えてブーツの留め具を締め、シャツの袖をまくって台所に汲みおいてあった水で顔を洗ってい
ると、背後で、カツン、と靴の踵が鳴る音がした。顔から水を滴らせたまま、ヴェルナーがぎょ
っとして振り返ると、そこには、濃紺のビロードの服をきちんと着込んだリースベットが、タオ
ルを腕に掛けて立っていた。ヴェルナーは思わず叫んだ。
「お、おまえは……!」
「旦那様……。何を驚かれていらっしゃるんですの? タオルを……、お持ちしましたわ」
 そう言って、リースベットは、ヴェルナーにタオルを差し出すと、満面の笑みを浮かべた。ヴ
ェルナーは、生唾をごくりと飲み込むと、後退りして、勝手口のドアを開けた。

 そこには、何も、なかった。

「どうなってるんだ……?」
 冷や汗を掻きながらヴェルナーが振り返ると、さっきまであったはずの台所も、ヴェルナーの
家も、すべてが消えていた。ヴェルナーの前にも後ろにも、漆黒の闇がただ茫漠として広がって
いるのみであった。それは、どんどんその容量を増していった。

 膨張していく深淵の無のただ中で、ヴェルナーは、また、夢から夢の中に落ちていった。

*


 声がした。
 いや、それは声というよりは、懐かしい感触であった。ヴェルナーは耳を疑ったが、それは、
再び彼の名前を呼んだ。

 ……おかえりなさい、ヴェルナー。

「ただいま」
 ヴェルナーが答えると、周囲に柔らかな湯気が上がった。白い霞のようなそれの向こうには、
懐かしい顔が笑っていた。
「遅かったじゃない。アプフェル・シュトゥルーデルは、焼きたてが一番おいしいのに……。
誕生日くらい、早く帰って来たっていいでしょう? ……最近、カリンちゃん、遊びに来ない
わねえ。母さん、お菓子を焼き過ぎちゃったわ。ねえ、後で、ファブリックさんのところに、
お裾分けを持っていってくれないかしら?」
 そう言って、ヴェルナーの母親は、白い前掛けで、手を二、三度、軽く拭いた。
「……やなこった。何で俺が……。それに、カリンのやつだって、もうガキじゃねえんだから、
そんな菓子なんか、喜ばねえよ。俺は、今、ちょっと取りに来るものがあったから、家に寄っ
ただけだぜ。親父が帰ってきたら、二人で食えよ。俺は忙しいんだ。もう行くぜ」
 ヴェルナーが踵を返して台所から出ようとすると、母は、彼を呼び止めた。
「待って、ヴェルナー! シャツのボタンが取れかけてるわ。すぐに付け直してあげるから、
そこに座ってちょうだい! 着たままでいいから……」
 ヴェルナーは、食卓の椅子に腰を下ろした。母はいそいそと戸棚から裁縫箱を取り出した。
 柔らかな光が、食堂に射し込んできていた。小麦粉と林檎を使った焼き菓子の匂いが、テー
ブルの上や食器棚の上で軽やかに踊っていた。母は、ヴェルナーの着ていたシャツの、取れか
かっていた上から三番目のボタンの糸をいったんハサミで切り取り、細やかな手つきで元の位
置に付け直していたが、ふいに手を止めた。
「ねえ、顔のここ、擦りむいてるわ。……どうしたの?」
 彼女は、ヴェルナーの頬にできていた小さな傷に気がつき、心配そうに言って、手を伸ばし
てきた。
「……いいだろ、別に……!」
 ヴェルナーは、母の伸ばした手を、面倒くさそうに払いのけた。母は、ため息をついた。
「冒険者の見習いもいいけど……、あんまり無理して怪我をしないようにしてちょうだいね。
それに……、たまにはお店を手伝いなさいよ? いずれはおまえが継ぐんだから……」
 ヴェルナーは、うんざりしたような顔をして立ち上がった。
「もう、付け終わったんだろ? じゃあ、俺はもう行くからな!」
 母の声が、背後から追いかけてきた。
「あ、ちょっと待ちなさい、ヴェルナー……!」
 声は湯気と冷気の波の中に紛れ、柔らかな感触を残し、やがて、消えた。

 ……思いも、しなかったんだ。

 ぼんやりと旋回していく記憶の渦の中で、ヴェルナーは考えた。

 ……あれが、お袋がいた、最後の俺の誕生日になるなんて……。

 やがて、目の前に、薄い光が射してきた。

*


 太陽?
 いや、これは……、ランプの火だ。

 ぎいっ、と聞き慣れた音を立てて、ドアが開いた。その気配を感じながらも、カウンターの
前でうたた寝をしていたヴェルナーは、カウンターの呼び鈴の音に、面倒くさそうに目を開け
た。
「……ん? 見たことない奴だな。何か用か?」
 目の前には、好奇心の強い小動物のように琥珀色の瞳をくるくると動かしながら、雑貨屋の
品物を眺めている、少女。彼女は、ヴェルナーの不機嫌そうな顔を見ても臆することなく、朗
らかに話しかけてきた。
「こんにちは! 変わったお店ね。品物、見せてもらえるかしら?」
 ヴェルナーは、小さくあくびを噛み殺しながら、無愛想に答えた。
「ウチは毎日置いてあるものはほとんど無くてな。日用雑貨が欲しいなら、1階のヨーゼフの
旦那に頼むんだな」 
 少女は、しかし、ヴェルナーの素っ気ない言葉に対して一向にめげる様子も無く、口元に微
笑みさえ浮かべながら、ヴェルナーの顔を興味深げに眺めている。

 ……何だ、こいつ? 一見さんは、大抵、こう言うと、おとなしく下の店に行っちまうもん
なんだが……? 物好きなのか、頭が足りねえのか、それとも……、その、両方か?

 少女の態度に内心たじろいで、ヴェルナーは、思わず、少々声の調子を和らげた。
「……その代わりと言っちゃなんだか、掘り出し物はたまにある。まあ適当に見てってくれよ」
 
 少女は、微笑みながら、うなずいた。

 ……いつから、だったんだ?
 あの足音が……、店の階段を昇ってくるのが、楽しみになっていたのは……。
 駄目だ。眠くなっ……、て……、

「なるほど。これが、君たちの歴史の始まり、という訳か」
 背後で、抑揚を押さえた男の声が、周囲の闇に染みいるように響いた。ヴェルナーは、ぎょ
っとして振り返った。そこには、黒いシルクの帽子に黒いイブニング・コートを着込み、右手
に象牙のステッキを持った男が静かに立っていた。男の顔は帽子の陰に隠れ、年齢も表情も定
かではない。しかしながらよく見ると、男の着ているコートの胸には、正装であることを示す
厳めしい紋章がつけられ、手にした象牙のステッキの取っ手には、雄々しいライオンの顔が刻
まれていた。男の背後には、茫漠とした冷たい闇が広がっていた。いつの間にか、雑貨屋のカ
ウンターも、リリーの姿も消え失せ、ヴェルナーは、果てしない闇の中、その男と向かい合っ
ていた。
「……おまえは、誰だ? それに、ここは……、どこだ?」
 眠りに落ちる寸前の頭を必死に起こしながらヴェルナーが尋ねると、男はおごそかに言っ
た。
「どちらの問いにも、残念ながら答えることはできない。なぜならば、私に名前はないし、こ
の場所にも、名前はないからだ。私が名前を奪われてから……、どれほど時間が経ったのか、
見当もつかない。君は、ここに来たと言うことは……、どんな罪をおかしたのかね?」
 ヴェルナーは、男をにらんだ。じっと見ていると、男の被った黒い帽子の影から、悲しげな
双眸がわずかな光を放っているのが感じられた。ヴェルナーは、背筋に寒いものを覚えた。
「罪……? 俺が、何をしたっていうんだ?」
 男は、悲しげに首を小さく横に振った。
「……この、われわれのいる、世界の第三層の奈落において、罪とは愛のこと、そして耐え難
い惜別や後悔の念のこと……。君は、どのような悔恨の心を抱いて、この‘影を飲む星’の扉
を開けたのだ?」
 ヴェルナーは、くらくらする意識を立て直すようにして、言った。
「後悔? ……俺が何を悔いたっていうんだ?」
 男は、右手に持っていたステッキを両手で抱えるように握りしめると、静かに言った。
「それは……、私にも分からない。ただ言い得ることは、悪は、常に、純粋な愛に対してその
権力を振るう、ということ。愛とは、意志する力でもある。これが、通常は、今われわれがい
る世界の第三層と、第一層をつないでいるのだよ……」
 ヴェルナーは、強い口調で聞き返した。
「何だ、さっきから、訳の分からねえことばかりぬかしやがって……! 世界の層、だ!?」
 その瞬間、闇の中に、かすかな青い光が射し込んできた。それが、男の薄い唇を、はっきり
と浮かび上がらせた。男は、口元に薄い笑みを浮かべていた。
「……世界は、三つの層が重なり合って、できあがっている。第一層の真実在と、第三層の真
実の影、そしてこの二つをつなぐ第二層の意志、この三つだ。君たちが通常、目にしている世
界は、すべからく真実の影にすぎない。しかし、真実との間をつなぐ意志の力動によって、歴
史は動き、世界は生きたものとなり、生成と流転を繰り返す。……万物は意志を有している。
人だけではない。動物も、植物も、風も、土も……、すべては真実在へと向かう意志によって、
万物は世界に在ることが出来る。しかし……、残念ながら、この意志の力があまりにも純粋に
発露されると、影は真実から切り離され、時空から遊離し、恒久の闇へと堕とされる。君は…
…、今、何を望むのかね?」
 男がそう言うと、二人の上空に、無数の星がまたたく巨大な天蓋が現れた。ヴェルナーは、
驚いて上を見上げた。それは、からからと乾いた音を立てて何度もぐるぐと回り、そのたびに、
目まぐるしく星座は位置を変えた。星座は何十年分もの時間を地上に刻むかのような勢いで旋
回し、やがて、止まった。ふいに、天蓋の外から、声が響いてきた。

 「なるほどな……。ここが、‘das Sternbild des Tierkreises’、獣帯、十二宮だな。する
と……、ここが黄道か。ふん、黄道の上下に、獣帯は総幅十六度、か……。あいつ、意外と、
きっちり測定して作ってやがる。見たとこ大雑把そうなんだが……、錬金術にだけは、手を抜
かねえってとこか……。しかし、これも、錬金術なのか? 単なる工芸品みたいだよな……」
 ヴェルナーは、天蓋を見上げたまま、その声に驚いて、その場に立ち竦んだ。

 ……俺の、声……?

 再び、天蓋の星座が回った。今度はゆるい速度で少しだけ動き、やがて、かつん、と指を当
てられたような音を立てて止まった。
「すると……、ここが秋分点、か。そうだな。……ちゃんと、処女宮と、天秤宮の間にある。
この真上にあるのが、秋の星座でザールブルグの空には一番大きく見える、‘Weizen’、農業
と豊穣の神、ヴァイツェン座か……」
天蓋は、また、少しづつ動かされていった。
「……その下には、‘Jungfrau’、 ‘Waage’……、乙女座と天秤座か。星座の位置も、正確
にとってあるな。へえ?、…… 次が‘Skorpion’ 、‘Schuetze’、‘Steinbock’、……蠍座
に、射手座に、山羊座、と。人馬宮と、磨羯宮の間に、冬至点が来て、それから、宝瓶宮と双
魚宮の位置にかかるのが、……‘Wasserman’、水瓶座で、次が……、ん? 何だこれは……? 
見たことない形の星座だな……。双魚宮の位置には、水瓶座の次に魚座が来るはずなんだが…
…、こんなところに星座なんかあったっけ? 下に名前が書いてあるな……え〜っと、L-i-l
-i-e………………クッ、クククククッ、何だ、こりゃ、‘Lilie’座? あいつ……、ク
ックッ……何、書き込んでるんだ?」
 天蓋の外からは、噛み殺した笑い声がいつまでも響いてきた。

 ……思い出した。あのとき……、俺はあの天球儀を売るのが急に惜しくなって、ほとんど無
意識のうちに値札をはがして、手の中で丸めていたんだ。そしたら、急に、あれを作った本人
が店に入ってきて……。

「あっ! あたしが作った天球儀だ! 売り物になってるのかな……。でも値札が……ないぞ
?」
 今度はリリーの声が、天蓋の外から響いてきた。それに対して、ヴェルナーの声は、先ほど
までの笑い声とは打って変わって、極めて無味乾燥に答えた。
「ああ、値札は付けてねえ。掘り出し物は全部時価だ。その時の買い手との交渉次第で高くも
安くもなる」
天蓋の外からは、ヴェルナーの手元で、くしゃくしゃと値札が丸められていく音がした。しか
し、そんなことにいっこうに気がつかないリリーは、心配そうな声で言った。
「でも……、それじゃ銀貨500枚以上で売れなかったら、損しちゃうんじゃないの……?」
 丸められた紙が、ぽん、と軽い音を立ててカウンターの下の床に落ちた音がした。続けて、
ぐしゃっ、とヴェルナーのブーツがそれを踏みつぶした音が天蓋の外から響いてきた。ヴェル
ナーの声はそれをリリーに気取られないように、少し抑揚を効かせて大仰に言った。
「それが面白いんじゃないか。そうならないようにいかに儲けるかがポイントだ。その為には
色々な手段を使うさ」
 
 また、からん、と音を立てて天蓋の星座が少し巡り、ヴェルナーと黒いコートの男の真上で、
リリー座が慎ましやかな青白い光を放ち、静かに輝きはじめた。
 光は、次第にこの世界の第三層を明るく照らし出していった。それは、ヴェルナーの真向か
いで、象牙のステッキを両手で握りしめて立っている男の顔を、少しずつ、闇の中に浮かび上
がらせていった。
 
 星明かりの下、男の頬を、一筋、涙の雫が、はっきりとした跡をつけながらこぼれ落ちてい
った。

 ヴェルナーは、それを見て息を飲んだ。男は、ゆっくりと口を開いた。
「……記憶は、常に悲劇の源泉だ。それでも……、君は、帰りたいかね?」
 ヴェルナーは、両手の拳をきつく握りしめて、うなずいた。
「ああ。……でも、どうやって?」
 男は、静かに微笑むと言った。
「……それでは、君には、三つの問題が課されるだろう。第一の問いは、私からのものだ。こ
れに解答を出すことが出来たら、君の前には悪魔が現れるだろう。悪魔の問いには、必ず答え
ろ。しかし、同時に、絶対に答えてはならない。そうすれば、この影に飲み尽くされた世界か
ら脱出するための導きの糸が、君を迎えに来るだろう。……これが、私が君に与えられる唯一
の助言だ」
 男とヴェルナーの間の距離は、次第に遠くなっていった。ヴェルナーは、自分から離れてい
く男に向かって、大声で聞き返した。
「おい! どういう意味だ? ……それに、次の第三の問いには、どう答えりゃいいんだ?」
 男の声は、密やかな風のざわめきのように、遠くからヴェルナーの耳に入ってきた。
 
 ……残念ながら、それについて、私は何も助言することはできない。なぜなら、それは……、

 男の声が途切れた、と思った瞬間に、夜明けの星が大きく輝き、白々とした朝がやって来
た。



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