1
大樹の下に来ると、空気が違う。
トリスはそう思いながら、深呼吸した。それから木の幹にそっと右手のひらを当て、つぶやい
た。
「ネス、おはよう」
ふいに、大樹の枝がざわざわと不自然に揺れた。
「ネス?」
トリスは上を見上げた。
「……風?」
しかし、辺りは無風だった。
「……ネス」
清浄に張り巡らされた空気の中、木の葉が何かをつぶやくように、ひそひそと細かな気配を吐
き出していた。
「……聞こえてるんでしょう、ネス?」
そう言って、トリスは大樹の幹に頬をつけ、しばらくそのままの姿勢で寄り添った。
あの日から、一年が過ぎていた。
*
数時間前の、朝食時。
「トリス、どうしたの?」
アメルの声に、トリスはハッと我に返った。
「え? な、何、アメル……?」
アメルは、食卓越しに、心配そうな顔でトリスの顔をのぞき込んだ。
「……さっきから、お皿の中身をつっつくだけで……全然食べていないから……。もしかして、
身体の具合でも、悪いの?」
トリスは、慌ててスプーンを握り直した。
「う、ううん! そんなことないよ! あはは、あはははは……」
窓の外を、緩やかな風が吹き抜けていった。アメルは小さくため息をついた。
「無理ないわ……。今日でちょうど、一年になるんですもの……」
トリスは、ギクリとしたような顔でアメルを見た。
「アメルも、覚えてたの?」
アメルは、悲しげに微笑むとうなずいた。
「忘れるわけ、ないでしょう?」
トリスは……大きくため息をついた。
「そうだよね……」
アメルは、少しだけその大きな目を伏せると、すぐに優しく微笑んだ。
「ねえトリス、今日は大樹の下でお茶を飲みましょう。天気もいいし……お菓子も焼くから」
トリスは言った。
「そうだね! あたし、先に行って敷物を敷いて準備しておくわ。……お料理の手伝いをしたら、
かえってアメルの邪魔になっちゃうし」
アメルは微笑んだ。
「ネスティさんの分のティーカップも、準備するわね。お菓子も」
トリスは、苦笑した。
「いいよ、そんなの……。どうせネスは、味なんかよく分からないんだから」
「トリス」
ふいに、アメルは真顔になった。
「な、何よ、アメル……?」
そのアメルの顔に、トリスが少々ぎょっとして言うと、アメルはゆるいため息をついた。
「……そんなこと、言うものじゃないわ……」
*
「ってね、朝ご飯のとき、アメルが言ってたの。……アメルったら、冗談が通じないよね、ネス?」
そう言って、トリスは木の幹から頬を離した。木の葉がざわざわと揺れ、それはきらきらと木
漏れ日を攪乱した。
「……今日は、あったかいね、ネス……」
トリスは、大樹の下にゆっくりと腰を下ろした。
「何だか、眠くなる天気よね……。不思議ね。ネスがいるときには、いつもネスの目を盗んで昼
寝をしに出かけてたのに……。今は、ネスの前でばっかり、昼寝してるわ、あたし」
トリスは、大樹を見上げた。
「こうしてると、世界が木の葉で覆われ尽くしたみたい。ネスが守った世界よ。ねぇ、ネス……
でもね、あたし……」
トリスは、手元の草の葉をひとつかみ、引きちぎった。それは柔らかな感触と青臭い匂いをと
もなって、呆気なく地面からもぎ取られた。
「ときどきね、すごく恐いことを考えるの。あのまま世界が滅びるのか、それともネスが生き残
るのか、どっちがいいのか選べたら、あたし……」
ふいに、一筋、冷たい気配を孕んだ風が吹き抜けた。トリスはビクッとして手の中の草の葉を
こぼした。
「……ごめん、ネス。分かってる。あのときは、あれ以外選べなかったもんね」
木漏れ日が、トリスの顔の上を乱反射していった。
「‘君はバカか’……」
トリスは、空っぽになった手の平を見た。
「……って言ってよ、ネス。……ネスの声で……」
大樹の下は、一瞬無風になり、その後……穏やかな風が、強く吹き抜けていった。
「あったかいな……。何だか本当に眠……く……」
トリスがごろりと大樹に身を預けると、周囲の気温が、乾燥した紙が水分を吸い上げるように、
ゆっくりと上昇していった。
*
「起きろ、まったく、いつまで寝ているんだ、君は!」
目を閉じて穏やかな日射しの暖かさを楽しんでいたトリスの頭の上から、ふいに聞き覚えのあ
る声が響いてきた。
「……う〜ん……もう、お菓子が焼けたの、アメルは……?」
頭の上で、大仰なため息の音がした。
「相変わらず、君は寝起きが悪いな? ……少しは成長の跡が見られるかと思ったんだが…
…?」
トリスは、首を嫌そうにゆっくりと横に振った。
「うるさいなあ、ネスは……、もう少し……ネス? ネスぅ!?」
驚きのあまり、目を開けるのと同時にバネ仕掛けの人形のように上体を起こしたトリスを見て、
声の主は満足そうに微笑んだ。
「……やっと起きたか。どうしたんだ、トリス、そんなに驚いた顔をして……?」
トリスは、ぎくしゃくとぎこちない動作で、立ち上がった。
2
「……ネス、よね?」
トリスの一連の動作を見ていたネスティは、呆れたような調子で言った。
「君はバカか? ……僕がいったい、他の誰に見えると言うんだ?」
トリスは、両手を伸ばした。
「ねぇ、これ、夢?」
「そうとも言い得るし、そうとも言い切れない」
ネスは、トリスの手を取ると、淡々と言った。
「どういう意味?」
トリスが尋ねると、ネスティは微笑んだ。
「これは、君の思念の世界だ。調律者である君が、僕がいる世界を強く望んだ、その結果だ。よ
く見て見ろ、トリス」
トリスは、え? と言って周囲を見回すと、驚嘆の声を上げた。
「ちょ、ちょっとネス! ここって……導きの庭園じゃないの!?」
ネスティは苦笑しながら言った。
「君は発想が貧困だな……。強く望んだ場が、昼寝ばかりしていた、通い慣れた庭園だなんて。
……まあいい。僕は、君にこれから教えなければならないことがある。時間がない。早速とりか
かろう」
そう言ってネスティは、マントの裾を翻すと、庭園の中を歩いていった。
「あ、ネス! 待ってよ、ネスってば!」
トリスは、そう言って、慌ててネスティの後を追った。
*
庭園の池までやって来ると、ネスティは再びトリスに向き合った。
「いいか、トリス。君は、大変な力を持っているし、その力によって、現在のリィンバウムの時
空間の秩序を支えている。……たとえ、無意識であるにしても、だ」
トリスは、目を瞬かせた。
「え? どういうこと!? ……あたしは別に、何もしてないんだけど……?」
ネスティは、くすりと笑った。
「現在君は、過去に積み上げてきた経験によって、世界を認識し、その認識が世界を今までのよ
うに構成している。しかし、本当に君が望めば、時空や運命の秩序は、すべて君の望む通りに組
み替えが可能だ。……僕は、あのとき、個体としてのビオス、すなわち、僕個人としての生のあ
り方を放棄し、自我やその他諸々の属性を放棄した。メタモルフォーゼの結果としての大樹は、
僕であって、僕ではない。僕は、すでにネスティとしての生を放棄した者だ。そう思っていたの
に……君が、僕を再構成した。君が、ネスティ・バスクとしての僕をあまりに強く望んだため、
こうして君の思念の世界の人工楽園に、僕が再生した。この再生は時空や運命に抗する物であっ
たため……少々、厄介な問題を生じた。この池の中を見てみるんだ、トリス」
トリスは池の中を恐る恐るのぞき込み……息を飲んだ。
「な、何なの、これは……!?」
ネスティは悲しげに微笑した。
「……この水鏡に映し出されたのは、もう一つの世界。あり得べき平行世界であり……このまま
行ったら、現実になる世界だ」
トリスは大声で言った。
「だって、あのとき確かにメルギドスは倒したはずなのに! ネスが命をかけてみんなを守って
くれたのに! ……どうして、こんな……ひどいことになってるの!? あ、悪魔が……すごい
数の悪魔が……リィンバウムを侵略して……?」
ネスティは、淡々と言った。
「君が強く望んだため、世界は二つに分裂をしかけている。一つは、君が望んだ、‘僕と君しか
いない’この世界。そして、もう一つは、‘君も僕もいない’、再びメルギドスに侵略の限りを
尽くされる世界だ」
トリスは……言葉を詰まらせた。
「……あたしが、こんなものを望んだから……?」
ネスティはうなずいた。
「そうだ。予兆は、やがて現実になる。……君は調律者だ。分かるな?」
トリスはネスティの顔を見た。
「だったら、あたしは望んじゃいけなかったの? ……ネスに会いたいって、望んじゃいけなか
ったの!?」
ネスティは静かに言った。
「そうじゃない。……ただ、その望む方法が間違っていたんだ。君が望むべきは、‘世界か僕か’
の選択ではなく、‘僕とともにある世界’だった。……君は、自分の力についてあまりにも無自
覚だ。だから、感情に流されて間違った予兆を生み出してしまった。僕は、それを正しに来た」
トリスはうなだれた。
「……ごめんなさい、ネス」
ネスティは、微笑んだ。
「いや、君が謝る必要はない。それどころか、僕は君に感謝している、トリス……」
トリスは、ネスティの顔を見上げた。
「え……?」
ネスティは、トリスを抱きしめると、頭をそっと撫でた。
「ありがとう。僕の再生を強く望んでくれて……。もう一度こうやって君に会えるとは、思わな
かった……」
楽園の中を、また、風が吹き抜けていった。
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