4 怪物
最初、海の向こうに広がるそれは、巨大な暗雲のように見えたという。
しかし、命からがらストウ大陸に逃げてきたエル・バドール大陸の民たちにより、それは、ガ
レノス率いる、いにしえに封印された魔物の軍勢であることが明らかにされた。
この時期、隣のエル・バドール大陸が長きに渡る戦争で混乱していることを、賢王ヴィントは
すでに知っていた。情報を収集するためにも、ヴィント国王は、海を渡ってやって来る避難民た
ちを積極的に受け入れた。彼らは、カスターニェ以外の内陸部の都市にも流入し、シグザール王
国領には、両目の色の違う民たちが、安住の地を求めてそこかしこにやって来ていた。
それは、おのずとさまざまな交流や軋轢を生み、シグザール王国は明らかに数年前とは違った
ものになろうとしていた。最大の軋轢は、シグザール王国内で信奉されている、女神アルテナそ
の他の神への信仰の問題であった。エル・バドール大陸の民たちは、口をそろえて言った。
「私たちには神はいない。神を信奉し、生活の範を支配されること。それは、非合理であり、
愚かなことである」と。
この意見は、当然教会組織からの反発を招き、エル・バドールの民たちは、教会の勢力の強い
大都市からは閉め出されて行った。しかしながら、彼らが持ち込んだ技術。たとえば、活版印刷
技術や、重火器といったものは、シグザール王国領内の社会のあり方を変革するには十分なもの
であったし、それにより、情報の伝播や、戦術のあり方が、ここ数年大きく変化してしまったの
は、疑いようもない事実であった。
さて、ヴィント国王は隣の大陸の戦火がストウ大陸へと飛び火することを恐れていた。こうし
てすでに、大陸の玄関口、カスターニェには砦が築かれ、多数の警備兵が配置され、そこには足
の速い伝令兵も常に待機させられていたのである。
しかし。
例の暗雲が海の彼方に現れだしたときから、優秀な警備兵たちは次々と、謎の病に倒れて行っ
てしまった。同時にカスターニェ周辺には、大量の怪物が現れるようになって行った。
*
ドルニエは、自分がカスターニェの港に立っていることに気がついた。
「無事、ここに着いたか……」
ドルニエが言うと、傍らでテオが周囲を見回しながら言った。
「あれ、エルザとシスカがいないぞ?」
「うむ。おそらくは街の中か周辺、おそらくはその近辺にいるはずだ。はやく探して合流しよう」
ドルニエが言ったそう瞬間、ゲルハルトが大声を上げた。
「おい、向こうの空! ……ありゃあ、何だ?」
ドルニエが驚いて海の彼方を見ると、そこには……、不気味な振動音をたてながら、こちらに
迫ってくる敵の怪物の大群がいた。
「何ということだ……。あれはいにしえの怪物ゲリュオネス……!」
赤黒く焼かれた海の向こうの空を見ながら、ドルニエはつぶやいた。
「ドルニエ先生! そ、それって……、やっぱり、ヤバい奴、なのか?」
テオが遠くの空の色を見ながら目を大きく見開いて言うと、ドルニエはうなずいた。
「恐ろしい化け物だ……。恐怖、というものがこの世に成立する根拠を築いたと言われる怪物な
のだからね。……しかし、彼があれを呼び出すほどの憎悪を抱いたのは、私にも原因がある。彼
を、何とか説得できないものだろうか……」
「……ドルニエさん、いったい、そのガレノスっていうヤツはどういう知り合いなんだ?」
ゲルハルトがたずねると、ドルニエはしばしの沈黙の後、静かに語った。
「ガレノスは……、幼いころに両親を亡くした。彼の父親は私塾を開いており、読み書きや楽器
の演奏を教えていた。両親とも大変に教養のある人たちだったのだが、疫病で亡くなってしまっ
てね。近隣に身寄りもなく、漁師をしていた私の両親に引き取られたのだよ。私は彼を、兄と慕
っていた。子どものころは、もっと大きな船をもって、二人で一緒に遠くの大海に出て漁をしよ
う、そんな約束もしていた。しかし、ケントニスで錬金術が流行してから、彼は変わった。いや、
本質はそれほど変わらないのかもしれない。……ともかく彼は優秀な、とても優秀な錬金術師に
なった。私が彼から学んだことは計り知れない。しかし、彼は……、ある時、この世界の因果法
則をねじ曲げる研究に手を出してしまったのだ。元老院が、禁止している術に。彼は、冥界から
両親を呼び出すことに一時成功した。ほんの数日間ではあったが……、それは奇跡のような術で
あった。元老院は、禁忌を犯した彼を破門し、同時に、彼の両親の魂を、還魂の術を用いても呼
び出せないような彼方に、封印してしまった。私は必死で彼のために弁明した。愛に貫かれた罪
ならば、裁かれるべきではない、と」
ふいに、クルトがドルニエに言った。
「しかし、そうした自然法則をねじ曲げることは、神の規範を越えること。それはやはり、許さ
れざるべき罪である、と私は考えますが……」
ゲルハルトが、横から言った。
「クルト神父……、俺はずっと考えていたことがある。……いったい、どこまでが神の許す自然
の摂理で、どこまでが許されない人為なんだ? ……俺の母さんは、身体が弱くて早くに死んじ
まったんだが……、まだ生きていたころにな、カルナックの卵にはどんな病気も治す力があるっ
て聞いて、俺は何度も卵を取ろうとヴィラント山に挑戦したんだ。ま、ガキの駆け出し冒険者に、
そんな祝福の鳥の住処まで、たどり着けるはずもねぇ。結局成功しなかった。しかしな、もし、
努力して、卵を手に入れて……、母さんの寿命が延びたとしたら、それは、やっぱり、自然法則
をねじ曲げる罪なのか?」
クルトはその深い緑色の目を曇らせた。
「それは……、努力により人がなし得たことならば、アルテナ様も咎めないでしょう。しかし、
人の努力は、因果法則や自然法則をねじ曲げる、ということとは根本的に違うはずです」
「いや、同じだと、俺は思う」
ゲルハルトは、きっぱりと言った。
「同じなんだよ。卵を取るのも、錬金術を使って、薬を作るのも。同じく人間の努力の結果だ。
だからって、あんたの立場が分からないわけじゃねぇ。でもな、きっと、大事な人を救いたいと
願う気持ちは同じだ。俺は、そう思う」
二人のやりとりを聞いていたドルニエは、ゆっくりと口を開いた。
「お二人の意見は、ともによく分かる。私の故郷には神がいない。ただ立法と契約のみが、人々
の生活を拘束する。私はザールブルグにやって来るまで、それに何の疑いもいだかなかった。…
…いまだに私は、実在する神を信じることはない。しかし、今、ガレノスの行ったことを鑑みる
に、思うのだ。彼は、こちらの世界では……、すべてに絶望したのだろう。いや、もし神が本当
にいるのだとすれば、愛ではなく絶望からもてる技術をふるうことこそが、罪、いや、……絶望
すること、おそらくはそれ自体が罪なのだろうね」
海の彼方から、重い地響きが聞こえてきた。同時に、妖しい赤黒い光を放つ火柱が立ち上った。
ドルニエは息を飲んだ。
「……いけない! あと数日以内に、この街は、おそらくはゲリュオネスの火によって焼き尽く
されてしまうだろう。一刻も早く魔法陣を街の周囲に完成させ、これを防がなければ……」
ゲルハルトは、どん、とこぶしで胸をたたいた。
「よし! じゃあ、俺たちはドルニエさんが無事に結界をはれるように、援護するぜ。大船に乗
ったつもりでいてくれよ!」
ドルニエは、わずかに微笑んで、うなずいた。
「クルトさ〜ん! テオ〜! よかったあ! みんな、ここにいたのね!」
エルザが、大声をあげながら、町中からドルニエたちの方に向かって走ってきた。
「エルザ! おまえ、どこに飛ばされていたんだ? シスカは……、一緒じゃねぇみたいだな?」
ゲルハルトが聞くと、エルザは言った。
「シスカさんは、見なかったわ。私、一人で街の中に転送されたの。街の中……、すごいことに
なっているのよ……」
エルザはぼろぼろと泣き出した。
「……どういう状況、なのですか?」
クルトが険しい表情でエルザに尋ねた。エルザは、口を左右に強く引き結び、言った。
「驚かないでね……」
*
夕方の陽が、色濃く白い塔の中に射し込んできていた。シスカは、ゆっくりと起きあがった。
「ここは……?」
潮風が重い空気とともに、全身に絡みついて来た。塔の窓には、砲撃台が置かれ、壁には銃撃
用の穴がいくつも開けられていた。
「どうやら、ここは王室騎士隊の築いた砦の見張り台の塔のようね」
シスカは、その空気の重みによって額に浮き出してきた汗を、長く美しい指先で軽くぬぐい去
ると、周囲を見回した。
「ここに飛ばされて来たのは……、私一人、か」
シスカは、窓辺に歩いていくと、そこから外の様子を眺めた。そこから見えたものは……、
「……大変だわ。敵がもうあんなところまで! はやくゲルハルトたちと合流しなくては!」
彼方の赤黒い邪悪な雲を見て、シスカは、急いで窓から離れると、塔の重い扉を開けた。その
瞬間、扉の向こうで何かがぼろぼろと崩れる音がした。
「な、何……?」
シスカはその気配に反射的に臨戦態勢をとりつつ、慎重に、そろそろと扉を開けた。彼女が扉
を開けるのと同時に、ざらざらと乾いた音をたてて、白い塊が目の前で崩れ落ちて行った。それ
らの一部は、見張りの塔の長い螺旋階段を、がらがらと転がり落ちて行った。
「こ、これは、一体!?」
扉のすぐ前にあったのは、粉々になった、白い岩塩の山。その上には、見間違えるはずはない、
青い、美しい光を放つ……、
「聖騎士の……、鎧?」
シスカは、首をかしげた。
「なぜ、こんな風に、岩塩の上に転がっているのかしら?」
シスカはその形の良い唇を引き結ぶと、螺旋階段の下方の闇を見据えた。
「とにかく、ここで何が起こっているのか、確認しなければ!」
そう言って、シスカは槍を短く持ち直すと、しなやかな足取りで螺旋階段を駆け下り始めた。
*
しんとした、気配。ねっとりと絡みついてくる、不吉な気配。
塔の内部は、潮風にからからに乾燥していたが、それとは別に、何かおぞましい気配を充満さ
せていた。階段には、そこかしこに、青い聖騎士の鎧や剣が転がってはいたが、不思議なことに、
騎士たちの死体は、一つも見あたらなかった。
「何かが、おかしい……」
自分が階段を下りていく音だけが、カツカツと響き渡る音を聞きながら、シスカはいよいよ全
身に緊張感をみなぎらせていた。
「聖騎士たちは、一体どこに行ってしまったの?」
シスカはようやく地上一階にたどり着き、右手に槍を短く構えたまま、ゆっくり部屋の扉を開
けた。部屋の中の風景を見まわした瞬間、シスカの背筋に、寒いものが走った。
「……まさか……、これは!?」
そこにあったのは……、青い鎧を身につけ、剣を手にしたまま、岩塩の柱になっている、数名
の騎士たち。ある者は、半分以上破壊され、また、ある者は、生前の姿形もそのままに……。
「何てこと……!」
シスカは唇を噛みしめると、肩で大きく息をついた。
「とにかく、一刻も早く街の様子を見回って、生存者がいるかどうか、確認しなくては!」
シスカがそう言った瞬間、塔の地下の方から、おぞましい魔物の鳴き声とともに、子供の叫び
声が上がってきた。
「……誰かいる!」
シスカは部屋を後にすると、塔の地下に駆け下りて行った。
*
シュミッツ平原では、肩で荒い息をしながら、イルマとカリンの二人がアポステルの大群と戦
っていた。
「カ、カリン〜……、いい加減、離脱しましょうよ〜……」
「……そ、そうしたいのは、山々なんだけど……、ここまで多いと、ちっ……、せいやッ!」
カリンは、勢いよくアポステルに斬りつけた。手負いになったアポステルは、怒りの雄叫びを
あげながら、牙を剥き出してカリンに襲いかかって来た。隙をつかれて、カリンは絶叫した。
「う、うわあ〜! た、助けてー!」
イルマも泣き出しそうな声で叫んだ。
「カリン〜!」
そのとき、大量のうにが、アポステルの群れめがけて飛んできた。それは圧倒的な破壊力をも
って、アポステルの群れを瞬時にして一網打尽にした。
「な、何?」
うにの飛んできた方向を振り返ったカリンの目に入ったものは……、見慣れた顔。
「へっ、女が……、剣なんて振り回すんじゃねぇ……」
そう言った少年は、腕組みをしながら口端に影のある笑みを浮かべると、
「姉さんたち……、気をつけな。最近、この辺りには強力な魔物がうようよしていやがるんだ。
怪我したくなかったら……、城壁の外には、出ねぇほうがいいぜ」
と言って、くるりと向きを変え、立ち去ろうとした。
「テ、テオ……、何でここに? カスターニェに行ったんじゃ、なかったの?」
カリンが聞くと、妙に影のあるテオは、顔に驚きの表情を浮かべた。
「な、なんで俺の名前を知ってるんだ?」
イルマはカリンの服の袖を引っ張って、言った。
「ね、ねえ、カリン、何か、あのテオ……、様子が変よ。そこはかとなくニヒルだし、影がある
し、それに、私たちの知ってるテオより、ずーっと、強そう……」
カリンはうなずいた。
「そ、そうね……。目つきが鋭いし、構えに隙がないし、それに……、すごい殺気だわ。これっ
て、もしかして……?」
イルマはカリンの顔を見て言った。
「うん。間違いないわ。この人、こっちの世界のテオよ!」
そのとき、また、アポステルの大群が、きいきいとおぞましい鳴き声をあげながら、黄色いよ
だれをたらして、すさまじいスピードで近づいて来た。
「うわあっ、あいつら、また! ……おりゃあッ!」
カリンは思わず、そこにいたテオをアポステルの群れに投げ込んだ。
「お、おわあ〜! 何しやがるんだ……!」
投げられた影のあるテオは、目を白黒させながら叫び声をあげて、飛んでいった。
「カ、カリン……、初対面の人を投げるのは、あんまり、よくないと思うわ」
イルマが短剣を構えながら言った。
「ご、ごめん! つい、癖で……」
カリンは、青くなりながら言った。
*
砦の地下室の扉は開いていた。部屋に入ってシスカが最初に目にしたものは、後ろ手に縛られ
た十二、三歳くらいの少年と、彼に牙を向いた紫色のアポステル。少年は、座ったまま脚だけで
必死に応戦しながら何事か悪態をついていた。シスカは、槍を構えた。
「消えろ!」
シスカの澄んだ声は空気を切り裂き、槍の切っ先は怪物の胸を貫いた。怪物は断末魔の声をあ
げ、地面に落ちた。少年は勢いよく立ち上がると、怪物を何度も蹴飛ばした。シスカは少年の目
の高さに背を屈めると、微笑んだ。
「坊や、怪我はなかった?」
シスカがそう言って、少年の腕に巻き付いていた縄をほどくと、少年は、いかにも腕白そうな
目つきでシスカをにらんで、言った。
「姉さん、坊やじゃねぇ! ……俺の名前はボルト。ボルト・ルクス、だ。名前で呼んでくれ。
ちくしょう、縛らていさえなけりゃ、あんな化け物の一匹や二匹、俺一人で倒せたんだ! 邪魔
しやがって!」
シスカは、くすっ、と笑って髪を軽く掻き上げると、少年の目を見て言った。
「分かったわ。私も、姉さんじゃなくて、シスカ。シスカ・ヴィラよ。……よろしくね、ボルト。」
そう言って、シスカは、少年に右手を差し出した。少年は、憮然とした顔で頭を掻いていたが、
やがて、少しはにかむように笑うと、右手を差し出して、シスカと握手をした。
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